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蛤石の伝説

2019年12月25日 17:34

438 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/24(火) 23:16:18.78 ID:USn1QO3X
蛤石の伝説

天正十四年(1586年)、豊臣秀吉の命で飛騨を制圧した金森長近が辺り一帯の領主として飛騨に入った際のこと。
当初は鍋山城を拠点とした金森長近であったが、新たに高山に自らの新たな城を築くこととなった。
飛騨の旧主である姉小路家の支族の一つ、古河家が領した古河城には蛤石と呼ばれる蛤の様な無数の紋様を持った一対の石があり、その石は夜になると白気を吐き、また石同士が唸り声を上げると地元の民に恐れられていた。
金森長近は自らの新城にこの不思議な石を是非とも運び込みたいと願ったが、配下の侍や築城に関わる民は石の祟りを恐れて金森長近に止める様願い出たが、
長近はそれを拒んで何とか新城にこの石を運び込ませようとしたが、人夫が石を運ぼうとすると石は大変に重たく、何とか運び出すも新城に近づくにつれ石はだんだんと重たくなり、また蛤石はより大き唸り声を上げる様になった。
この報告を受けた金森長近は、遂に蛤石を運ぶのを諦めて元の古河城へ石を戻す事にしたが、すると石は高山の新城に運ぼうとした時よりも軽く、唸り声も無くなったと言う。

これから数十年ののち、飛騨を大旱魃が襲った際に住民達は雨乞いの儀式を行なったが全く効果は無かった。
そこである百姓の提案でこの不思議な蛤石の片割れを城の側にある淵の下へ落として、沈めてみようと言う事になった。そして、蛤石の片割れを淵に沈めてみた所たちまちに空に黒雲が沸き、大粒の雨が降ると田畑を潤し危機は去ったと言う。
また、城に残った蛤石の片割れは雄雌どちらかは分からないものの、以前の様な不思議な出来事を起こす事も無くなったと言う。

古川に伝わる伝説。

439 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/24(火) 23:26:30.29 ID:USn1QO3X
ちなみに淵の下へ沈められた蛤石の片割れはのちに引き上げられ、今では飛騨民族考古館に展示され、もう片方は古河城跡に鎮座している。

飛騨民族考古館
http://kankou.city.takayama.lg.jp/s/2000002/2000026/2000215.html

飛騨民族考古館の蛤石
https://muuseo.com/prin/diaries/24

飛騨古河城の蛤石
https://muuseo.com/prin/diaries/23




440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 02:08:49.81 ID:SoIbsE6s
念のため三木姉小路ではなく公家の姉小路だって注釈あったほうがいいかな

古川って征服後はしばらく可重が入っていたんだっけか

441 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/25(水) 05:35:56.30 ID:VgqG7fAJ
>>440
古川って征服後はしばらく河童が入っていたんだっけか

に見えた

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:11:39.37 ID:MwGbuxjR
三木の姉小路乗っ取りは将軍や朝廷から認められた上でのことだから正式な継承といっていいし古川の名跡の継承も認められているので全く差し支えないよ
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金森長近の質素

2017年04月14日 16:33

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/14(金) 14:44:24.06 ID:cf+vthNL
金森長近の質素


金森法印(長近)は在所から東照宮(家康)に鮭を献じるときは
藁の苞に包んでいた。

ある時息子の出雲守(可重)があまりにも質素だとして
竹簀で包み替えて捧げられた。

東照宮がご覧になって
「これは父が元々このように包んできたのか
 それとも包み替えたのか」
とお尋ねになると、出雲守はかしこまって
「父が元々藁苞で差し上げようとしたのを
 あまりに見苦しかったので包み替えたのです」
と申したが、公(家康)の仰せに
「汝が父の遅れを取らされるものではないのだから
 一切親のすることは咎めないものだぞ」
とあったのに、上世の淳風を見ることが出来る。


――『野翁物語』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 13:41:59.22 ID:UBkMLfjt
(´・ω・`)「重要なのは包みが質素かどうかでなく鮭の良し悪しでしょ」

萩原町諏訪神社由緒

2015年05月18日 18:22

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/17(日) 20:56:43.21 ID:ZYinC6vy
萩原町諏訪神社由緒


飛州志によると、永正年間に萩原郷上村の住人である内規新七郎頼定が勧進したという。
頼定は信州諏訪の人であり、本国の氏神を祀ったものであろうか。
内規氏は尾州織田氏に滅ぼされ、今も上村に内規屋敷の跡地がある。

天正年間に金森法印(長近)が入国した際、神祠を上村に移して跡地に砦を築き諏訪城といった。
金森氏没落の後、神祠を元の場所に戻したのがすなわちこれである。

はじめ、金森家臣佐藤六右衛門が作事奉行となって、ここに城塁を築く為に神祠を移そうとしたところ、
一匹の蛇が居座っていて、色々手を尽くしたが去ろうとしなかった。
そこで佐藤が傍らの梅の枝を折って蛇の頭を打ち、片目を傷つけられた蛇はついにそこを去った。

しかし修築は成らなかった。
佐藤は大阪の役に赴いて真田の為に討たれたのである。
それを聞いた里民は大いに喜んですぐに工事をやめ、神祠を元の場所に戻した。

以来、この地には欝蒼と樹木が茂るが、奇妙なことに梅の木だけは育たないという。
また、今でも時として片目の蛇が目撃されることがあり、里人はこれを神の使いと伝えている。


出典:岐阜県益田郡誌


※佐藤六右衛門は佐藤六左衛門秀方の誤記のようです。
 もっとも本人は文禄3年に死去、大阪の陣で討ち死にしたのは次男の才次郎方政との事ですが。
 諏訪神社が元の場所に戻ったのも宝永年間、大阪の陣から90年以上後だそうです。




金森長近は三度負けた

2012年04月03日 21:29

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/03(火) 16:47:33.39 ID:WQZz4Vfw
天正13年(1585)正月7日、越前大野城主であった金森長近は、羽柴秀吉に
『飛騨の国、攻め取り次第に与える』
との墨付きを得、越前より飛騨に攻めいった。

ところが飛騨の国人たちはこの侵攻に対し同盟を結び強固に抵抗したため、長近は入国することが出来ず、
二度にわたって合戦に打ち負ける有様であった。
この時、とある長瀧寺社僧が

『金森と 銘は打てども 爪切りの 断つに断たれぬ飛騨の細布』

『金森は 袴のまち(両足を分ける部分)にさも似たり 腰が立たねばヒダも取られず』

と詠んで、長近を嘲笑した。

このような状況の中、美濃郡上郡の遠藤慶隆は、長近の嫡男可重の舅であった関係から、長近に対して、
舎弟慶直、同胤元、胤安、その他家来多数を加勢の軍として出し、白川において合戦となった。
しかしこの加勢の軍も、慶直家来鷲見弥五右衛門、遠藤彦次郎などが討ち死にし、一門の胤安も負傷し、
飛騨勢の破竹の勢いに、金森はまたもや敗北したのである。
(濃北一覧)




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 00:53:40.80 ID:W4CIUrd+
金森勢が一気呵成に飛騨を制圧したわけでは無かったんだなあ

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 08:43:44.40 ID:TPQzzYzN
なんとなく飛騨は人跡未踏の山岳地帯だったイメージがあるし、地勢に明るい地元国人
は手強そうだもんな。

奥さんの形見の着物とか残ってるけど、共々落武者狩りにあったんだっけか
親父が色気だして佐々に乗ってなければ、国司夫婦として生涯を終えられたかもなあ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 13:53:19.85 ID:Q1lGLKdq
飛騨は美濃より富山に近い印象
体の丈夫そうな人も多かったな

棚橋庄介さんの武功と生き様・いい話

2009年03月19日 00:17

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 21:40:32 ID:T1G3FI1c
関ヶ原の時、美濃国郡上八幡城攻めのおりのこと、

金森可重の家臣、棚橋庄介は、腹に槍傷を受けた。しかもそこから出た。腸が。
デロリと。

しかし庄介、まだ塞がっていない(当然腸もまだ出る)傷口に、飯を盛る桶をふせ、
それを縄で縛り付けた。次の日も合戦に出るために、である。

そして翌日。庄介、本当に合戦に出た。しかも前日よりも激しく戦い、高名を成した。
あまつさえ戦っている間に腸も体の中に引っ込み、傷口も塞がっていたと言う。

こんな棚橋庄介、七十余歳まで生きたと言う。
その日は突然、子孫、親類縁者を呼び寄せ、「今日死ぬから」と、武功の心得などを
話して聞かせ、

「わしは死んだ後、体を人に見せるのは嫌なのだ。」

と、妙に乙女チックな心配をし、「大袋をもってこい」と言う。
そこで人が入るほどの大きな袋を持ってきたところ、その中に入り、「口を縛れ」
と言うので縛った。
そうしたとたん、庄介は死んだそうだ。

いろんな意味ですさまじい、戦国の武士のお話。




931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 23:13:30 ID:28OZJUv/
戦場で数多の骸を見てきたぶん、自分はそんな姿をさらしたくないって思いがあったのかな

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 23:20:46 ID:1G0i/pOr
畳の上で死にたくないからって・・・

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 23:24:38 ID:aAp2N9k2
格好つけさせて頂くッ!ってトコか

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 23:28:58 ID:1+NQUzqf
>>930
腸自体には傷がつかなかったんだろうなぁ。
思ったんだが”桶をふせ”の桶って今の桶と同じものを想像していいんだろうか。
何となく、平らな物で押さえつけた方が良さそうなんだが・・
あと、亡くなった後一応開けてチェックして見なくていいのかw

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 23:55:31 ID:zs9dDJCg
すごいな、いろいろとw

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 23:56:02 ID:W2h0RVAi
親類縁者が袋を開けて確かめようとしたところ
「わしはちゃんと死んだから、余計な事はせんでいい!」
という声が中から聞こえたので
一同安心して葬儀に取り掛かったそうだ(大ウソ)。

金森長近の孫、重頼の、銘物よりも領民救済・いい話

2008年11月30日 00:08

782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/29(土) 13:06:30 ID:0Ju2RQxV

名物うって領民助ける話
金森か稲葉でも似たような話なかったっけ?



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 13:42:43 ID:yHGVPHHR
>>782
金森長近の孫、重頼の話。

長近は利休も認めた名品『雲山肩衝の茶入』を持ってたんだけど、家康に献上した。
それを秀忠が「天下の名器、ふさわしい者が秘蔵すべし」と言って、重頼の家督相続祝いに返してやった。
寛永になって領内飢饉の折、かねてより所望していた京極高広に三千両で売り、領民を救済した。

名品より民を取った重頼は男を上げ、人の弱みにつけ込んだ京極はまたまた男を下げた、というお話。

帰雲城物語・悪い話

2008年11月09日 00:10

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 17:32:01 ID:w+XFgYBi
帰雲城物語

飛騨の白川郷に、内ヶ島という一族の治める、帰雲城という城があった。
小さいながらも、豊かな小大名であったらしい。

天正十三年(1585)八月

豊臣秀吉は、その配下、金森長近に飛騨平定を命じた。
飛騨各地の城が次々と落とされる中、帰雲城城主、内ヶ島氏理は、秀吉の敵、佐々成政と同盟をしており、
その時も出陣中であった。帰雲城に危機が迫る。

が、その事を知った氏理は急ぎ飛騨に帰り、たくさんの財宝と共に金森長近の元に現れ、謝罪した。
このおかげで、内ヶ島氏の白川郷の領地は安堵された。彼らはこの危機を、どうにか乗り切ったのである。




十一月二十九日

北陸地方に地震が起こった。マグニチュード8.1と推測される、後に「天正大地震」と呼ばれる
巨大地震であった。

この地震により、帰雲城のある帰雲山は半分近くが崩落。
城と城下は一瞬にして埋没した。

この地を百年以上にわたって治めた内ヶ島氏とその一党は、この時全て消え去った。



782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 17:37:08 ID:4HyTSunv
地震で埋没したと見せかけて
空に浮かんで天空城になったんだろ
名前的に考えて

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 19:00:01 ID:SfpV/6uB
バルス

784 名前:この流れはこのAAが必要だろうw[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 19:19:40 ID:TT2nl8/i
    ,..-‐-- 、、
  .,ィ":::::::::::::::::::;;;;;:ii>;,、
  /:::::::::::::::;;;;;;;;iii彡" :ヤi、
  i::::::::::::;:"~ ̄     ::i||li
  |:::::::::j'_,.ィ^' ‐、 _,,. ::iii》
  |:::i´`  `‐-‐"^{" `リ" 読んだか?
  ヾ;Y     ,.,li`~~i
   `i、   ・=-_、, .:/
     ヽ    ''  :/
      ` ‐- 、、ノ

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 20:00:27 ID:Ou+8X72K
>>781
某スレでは帰雲採掘所の名前で有名な城ですね

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 20:52:24 ID:sA4+v3z1
>>781
金森との和平記念祝賀会をたまたまその日にやってて
重臣はじめ家来ほとんどが城に集合
一族も嫁さんから嫡子まで全員集合
おまけに娘婿の東常堯までたまたまその日に城にいて
完全滅亡

これはもう呪われているとかうより神の意志を感じるね
真冬(旧暦なので1月のちょうど大寒ぐらいなはず)に
こんな大地震で生き残っても大変だったろうが
あの辺とんでもなく雪つもるし
帰雲山に木がはえてなのはオンネンか?

どうでもいいけどあの辺って鬱鬱としているというか呪われてる気がする
鹿骨や雛見沢のもでるも白川らしいし


787 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2008/11/08(土) 21:06:01 ID:8AopE6ph
だからといって埋蔵金とか言われるとアホかと思うけどな。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 21:12:13 ID:gIgAyjM9
やたらと行くスレ行くスレにぷらっとさんの足跡があるんだよなぁ…


789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 21:44:25 ID:3WOPuytM
>>781
ちょっとじゃなく最悪に運の悪い話だよな

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 21:49:37 ID:LntwGFmz
攻めてたら巻き込まれてた金森には良い話だ

791 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2008/11/08(土) 21:52:15 ID:8AopE6ph
五郎八さあ最強伝説

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 22:12:27 ID:1QHfre9S
>>786
「うっわああぁ…」
を五回ぐらい繰り返した。

日本史上でもトップクラスの不運の重なりだね。

793 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2008/11/08(土) 22:21:45 ID:8AopE6ph
明治維新にまで繋がる大地震。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/09(日) 13:18:37 ID:jGwjvuaJ
帰雲山の崩落後だけど、かなり豪快に崩れてるな。
http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/c-1-3-5-6-siro-KAERIGUMO.html

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/09(日) 21:26:19 ID:D5oBOXPD
>>816
糸井重里が頑張って掘ったら何か出てきそう