770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:50:08.13 ID:Fh9Jk2yU
この男、杉重良
杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。
この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。
重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして
大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。
大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。
重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。
1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。
1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。
まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。
秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。
771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:51:24.75 ID:Fh9Jk2yU
これに驚いたのは重良である。
面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。
重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五~六千の兵で迎え撃った。
その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。
『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。
輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと
さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。
重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話
さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。
1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。
(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋
この男、杉重良
杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。
この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。
重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして
大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。
大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。
重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。
1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。
1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。
まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。
秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。
771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:51:24.75 ID:Fh9Jk2yU
これに驚いたのは重良である。
面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。
重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五~六千の兵で迎え撃った。
その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。
『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。
輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと
さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。
重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話
さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。
1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。
(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋
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