264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:51:05.79 ID:8tyGaRkz
一向一揆によって当主として担ぎ出された男
1488年、富樫政親は一向一揆によって斃された。
そこで一揆側は政親の大叔父・泰高を担ぎ出した。
泰高は齢71、嫡子の泰成は夭逝し、その子で嫡孫の恒泰(のちの稙泰)は元服したばかりの15歳の若武者。
しかも泰高は加賀、恒泰は当時は京で両者は別々。
傀儡当主にするには一揆側にとってはうってつけの人選であった。
しかし、傀儡当主として担ぎ上げた富樫泰高はとても一筋縄でいくような男ではなかった。
泰高が当主になるのは実にこれが3回目である。
1回目は1441年、2回目は次兄・教家一派を追い出した1445年である。
いずれも加賀国内の内乱を経験しての当主君臨である。
24年ぶりに当主として復帰した泰高ではあるが、今回の領国経営は泰高にとっても一筋縄ではいかないものだと考えていた。
加賀支配権は事実上蓮如の3人の息子である、蓮綱・蓮誓・蓮悟によって握られていた。
また、泰高としても強力な後ろ盾を欲していた。
泰高はこれまでは細川持之・勝元親子の後ろ盾のもと、強力な領国経営を行っていた。
しかし強力な後ろ盾を得られないまま本願寺勢力の傀儡として生きていくのには癪に障る。
ということで泰高が行った行動は本願寺勢力に敵対せずに国内の荘園をとにかく横領しまくることであった。
荘園を横領して勢力を広げることで独自の権力の強化を努めようとした。
1493年、泰高にまたとない好機が訪れた。
明応の政変を避けて足利義材が越中へと下向した。
泰高は老体を押して義材のいる越中の放生津へと馳せ参じた。
そしてちゃっかりと越中公方の『加賀守護・富樫泰高』として越中公方の政権の中枢の一角を担った。
1500年になったころから、領国経営の調子が芳しくなくなってきた。
とうとう業を煮やした本願寺勢力が泰高の守護支配に介入したためであった。
しかもこれに裏で糸をひいていたのは後ろ盾をしていた細川勝元の子・政元であった。
これによって泰高の領国支配はなくなるようになり、孫・恒泰へと家督を譲った。
1531年の享禄の錯乱で富樫家の権威がほぼ完全に失墜するのはまたのちのお話。
勢力を広げて権力を確立するためにやりたい放題をした挙句、かつて後ろ盾だった細川家が敵方となり、
本願寺との疎遠となり支援を得られずに富樫家衰退へと繋がった泰高の悪い話。
一向一揆によって当主として担ぎ出された男
1488年、富樫政親は一向一揆によって斃された。
そこで一揆側は政親の大叔父・泰高を担ぎ出した。
泰高は齢71、嫡子の泰成は夭逝し、その子で嫡孫の恒泰(のちの稙泰)は元服したばかりの15歳の若武者。
しかも泰高は加賀、恒泰は当時は京で両者は別々。
傀儡当主にするには一揆側にとってはうってつけの人選であった。
しかし、傀儡当主として担ぎ上げた富樫泰高はとても一筋縄でいくような男ではなかった。
泰高が当主になるのは実にこれが3回目である。
1回目は1441年、2回目は次兄・教家一派を追い出した1445年である。
いずれも加賀国内の内乱を経験しての当主君臨である。
24年ぶりに当主として復帰した泰高ではあるが、今回の領国経営は泰高にとっても一筋縄ではいかないものだと考えていた。
加賀支配権は事実上蓮如の3人の息子である、蓮綱・蓮誓・蓮悟によって握られていた。
また、泰高としても強力な後ろ盾を欲していた。
泰高はこれまでは細川持之・勝元親子の後ろ盾のもと、強力な領国経営を行っていた。
しかし強力な後ろ盾を得られないまま本願寺勢力の傀儡として生きていくのには癪に障る。
ということで泰高が行った行動は本願寺勢力に敵対せずに国内の荘園をとにかく横領しまくることであった。
荘園を横領して勢力を広げることで独自の権力の強化を努めようとした。
1493年、泰高にまたとない好機が訪れた。
明応の政変を避けて足利義材が越中へと下向した。
泰高は老体を押して義材のいる越中の放生津へと馳せ参じた。
そしてちゃっかりと越中公方の『加賀守護・富樫泰高』として越中公方の政権の中枢の一角を担った。
1500年になったころから、領国経営の調子が芳しくなくなってきた。
とうとう業を煮やした本願寺勢力が泰高の守護支配に介入したためであった。
しかもこれに裏で糸をひいていたのは後ろ盾をしていた細川勝元の子・政元であった。
これによって泰高の領国支配はなくなるようになり、孫・恒泰へと家督を譲った。
1531年の享禄の錯乱で富樫家の権威がほぼ完全に失墜するのはまたのちのお話。
勢力を広げて権力を確立するためにやりたい放題をした挙句、かつて後ろ盾だった細川家が敵方となり、
本願寺との疎遠となり支援を得られずに富樫家衰退へと繋がった泰高の悪い話。
スポンサーサイト