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週刊ブログ拍手ランキング【02/18~/24】

2021年02月24日 16:43

02/18~/24のブログ拍手ランキングです!


渡辺水庵翁は火燵が嫌いであったが 11

とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれ 9
人の善悪はこういう時に分明に 9

道恵の茶湯には 6
先ず、茶湯の置合違たり! 6
「豆相記」の小田原城攻めの場面 6
北条五代の軍記物「豆相記」冒頭 6
あの鉄砲は狭間くばりといって 5



今週の1位はこちら!渡辺水庵翁は火燵が嫌いであったがです!
老年期の渡辺勘兵衛のお話ですねー。この頃から、掘り炬燵、置炬燵の違いが有ったことが見て取れます。
そしてここで、勘兵衛は炬燵が嫌いだった、とあり、コメントにも伊達政宗が炬燵をわざわざ台無しにするような当たり方の
事例がありますが、どうも室町から戦国期にかけての武士というものは、「寒がる」という事を非常に蔑んでいたフシがあります。
当時は足袋も「防寒具」と考えられていて室町将軍に仕える武士の心得には、足袋は年寄りの履くものであり、
どんなに寒くても一般的には履くべきではない、とされていたりします。頭部を温める頭巾などは以ての外で、
寒さというものに対しては、耐えて当然、という意識が有ったらしいのですね。
実にスパルタ的といいますか、ある意味野蛮といいますかw
ともかく、炬燵などであたたまるというのは、その人物の「老い」を自他共に表すような行為であったのでしょう。
こう言った意識を、比較的温暖な西日本だけでなく、冬場の寒冷な東北の伊達政宗まで共有していた、という事は
また面白いですね。そんな事を思った内容でした。

2位はこちら!とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれです!
こちらは京から見た東国の訛りについての批判と、それに対する反論のお話ですね。この手のお話は、平安期ころから
存在する、ある意味パターン化された内容ではあるのですが、江戸初期にもなると、むしろ江戸の住人から「あの京の
人間はなんにも知らないな」というような、ある種の同情(?)が表明されているのが面白いですね。それだけ江戸の
人々の方に、江戸、東国に対する自信が定着していたとも言えるのでしょう。
そういえば、江戸の武士言葉というのは、実は関西弁がベースである、という説があります。江戸城の言葉はそもそも、
豊臣秀吉の時代に聚楽、あるいは大阪、伏見で「共通語」として話されたものがベースで、それは勿論、主に京言葉を
基本としており、その言葉を話していた人々が関ヶ原後、こぞって江戸に移住したことで、話し言葉もそのまま
使用された、という説です。書き文字にした場合、江戸言葉も京大阪の言葉もほとんど違いがない、という所から
考察されたものですね。江戸の武士言葉は現代の共通語に繋がるものですので、それが、関東の発音の影響を受けた
関西の話し言葉であったと考えると、なるほど共通語にふさわしい、という気持ちにもなります。
方言、訛りは自身のアイデンティティにも直接つながるものでもあり、昔からそういうことを、人々は気にしていたのだ、
というものも含めて、面白いお話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!人の善悪はこういう時に分明にです!
京の火災の時における八条宮智仁親王の逸話ですね。この火事がいつ頃のものかははっきりしませんが、
八条宮の理知的かつ果敢な人格がよく伝わってきます。この八条宮智仁親王は、関ヶ原の時、田辺城の戦いを
止めさせ細川幽斎より古今伝授を受けた人物の一人、としても有名ですね。また豊臣秀吉の猶子であり、豊臣家と
皇室との関係の中心人物でも有りました。文化的にも政治的にも、当時の重要人物の一人ですね。
そしてこの話を語っているのが、織田信雄と言うところも非常に興味深いですね。信雄は内大臣という高い官位を
有していた人物でも有り、当時の朝廷内の事にも詳しかったのだろうと、察せられます。
まあ焼く焼かないという話で、自身も逸話を持っている事がここではツッコミどころに成っていますがw
それも含めて非常に印象的なお話にも成っていると思います。
いろいろな意味で面白い逸話だと思いました。



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週刊ブログ拍手ランキング【02/11~/17】

2021年02月17日 14:55

02/11~/17のブログ拍手ランキングです!


権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので 14

これが江戸瓦葺きの始めである 12

名字は魚の名であったはずなのですが 11
世の中は けふばかりこそかなしけれ 10

鰹とシビ 8
『地獄網』 8
龍造寺の鍋島がしたようなこと 8
総じて城を囲む場合 7
Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋 6


今週の1位はこちら!権現様が上総殿になされたことを御覧になっているのでです!
駿河大納言・徳川忠長の乱行についての、細川忠興による報告ですね。忠長が小浜民部の子、小浜七之助を手打ちにしたのは
寛永8年(1631)12月であり、これにより忠長は、甲府に蟄居となります。翌寛永9年に秀忠は危篤となりますが、この際対面を
許さず、これは忠興も書いている通り、家康の松平忠輝に対する対面禁止の先例を遵守したものでもあるのでしょう。
秀忠の死去により、完全に庇護者を失った忠長は改易され、寛永10年、切腹となりました。
客観的に見れば、将軍である兄・家光が主張する強い処分を、秀忠が何とか抑えていた、という所だったのでしょう。
おそらく家光が強い処分を行いたかったのは、忠長を憎んでいた云々という事よりも、諸大名からの、この件に対する「視線」
を感じてのものだったのでしょう。身内だからといってゆるく対処すれば、それだけ諸大名からの不審、侮りを受けるわけですから。
この忠興の報告は、そういった諸大名の「視線」を、端的に表しているものだと思います。
江戸幕府というものは、勿論あくまで同時代的な認識の内ですが、極力「公正」であることを心がけた政権であったと思います。
だからこそあれほど長く、安定した政権であったと考えます。
この件は、秀忠亡き後の家光政権にとって、そういった信頼を得るための最初のテストケースであった、
そのように見て良いかと思います。

2位はこちら!これが江戸瓦葺きの始めであるです!
近世における瓦葺きの普及は、火災対策であったとはよく言われるところですね。
しかし近世に入るまで瓦葺きの普及というのは遅く、それどころか板葺きですら珍しいとされ、秀吉の時代の大阪を訪れた
北条家の武士が、家々がみな板葺きであることに驚いた、なんてお話もあります。そういえば洛中洛外図に見える
室町将軍や管領の屋敷も、板葺きですね。京ですらその有様であり、瓦葺きというのは本当に一部の城や寺社に限られた
ものだったのでしょう。
それが江戸初期になると、関東の江戸で、半分とは言え民間人が瓦葺きを成し得たわけですから、そこから江戸の繁栄と
いうものも、充分に感じ取れたことでしょう。江戸城天守の鉛葺を讃えているのも、やはり瓦というものに、繁栄を見て取る、
当時の感性を感じさせます。
そんなことをちょっと思った内容でした。

今週管理人が気になったお話はこちら!龍造寺の鍋島がしたようなことです!
ここからは、当時の毛利家の内幕だけでなく、様々なことが読み取れますね。
吉川広家が毛利秀元の陰謀であると感じたのは、ある意味無理もないことで、この頃、秀元は藩主・秀就の名代として
毛利家を主導していました。である以上、この人質の件に秀元が関わっていると考えたのは、むしろ自然でもあったのでしょう。
また福島正則、黒田長政の名前が出てくる所から、これについて外交も影響を与えるものだ、という認識があったことが
わかります。そして岩国を領する吉川家にとって、広島の福島正則はまさに国境を接する隣国であり、これによる「讒言」
への警戒というのは、この時期の隣接大名同士の、相互監視を感じさせます。
そして「龍造寺の鍋島がしたようなこと」というのは、鍋島直茂が龍造寺家の実権を握って、結果的に乗っ取るような形に
成ったことを、秀元が同様の野望を抱いているのではないか、という懸念でしょうか。
当時のいろいろなことが読み取れる、非常に興味深い内容だと思いました。



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週刊ブログ拍手ランキング【02/04~/10】

2021年02月10日 17:01

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今はこれまでぞ。さらば、さらば。 15

いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命 13

汝は古田彌惣だな! 12
このような大船を作り海に浮かべる事 9
主水は大筒の鉄砲を 8

池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話 7
汝は正直なる者かな 6
すなわち鬮取りにされたという 5
至極の道理 4


今週の1位はこちら!今はこれまでぞ。さらば、さらば。です!
ここに出てくる吉村又右衛門、おそらく福島正則に仕えた吉村又右衛門宣充でしょう。彼は江戸期、豪傑として非常に有名な
人物だったようです。また彼の子孫で、幕末期の桑名藩家老で、藩主との対立の中暗殺された吉村権左衛門宣範も有名でしょう。
そんな吉村又右衛門と備前老人物語著者との別れの場面。しみじみと友情を感じさせる、そんな内容ですね。
「こういう人間を近づけてはいけない」との助言に、俗語、方言の類でしょうか、そういった言葉を使うのも、二人が親しい関係に
あったことを想像させます。
この時代の友人同士のあり方を伝えてくれる、そんな内容だと思いました。

2位はこちらいずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命です!
この総見記(織田軍記)の成立は、貞享2年(1685)頃だとされます。本能寺の変から、ほぼ100年後ですね。
また内容としても、序文によると著者の遠山信春は、小瀬甫庵の『信長記』を元に増補したもの、とあり、甫庵信長記が
大田牛一の信長公記を底本としていることから考えると、ある種の三次創作に近いものが有ると言えるかも知れません。
基本的にはこれが著された時代の、本能寺認識と見るべきなのでしょう。しかし「もし同心なくば予の首を刎ねられよ」の
所など、『麒麟がくる』の最終回でも用いられていましたね。こういったものも、軍記の後世への影響、と言えるのでしょう。
また後世に編纂されたものらしく、非常に内容が整理され、わかりやすく成っていると思います。
江戸期にあって総見記はかなり信頼されたと言われますが、こういった綺麗に整理された内容も、それに寄与したのでしょう。
文章、構成のレベルの高さの大切さも感じさせてくれる、そんな内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!汝は古田彌惣だな!です
、こちらは戦国期の武士同士の友情のお話ですね。
友人同士ながらたまたま敵味方に別れ、あまつさえたまたま、大勢の軍兵が駆け巡る戦場で対峙してしまったという、
確かに不思議と言える事態の中、中西彌五作は古田彌惣の命を助けます。
『備前老人物語』ではこれを肯定的に描いており、戦場で友人だからと敵を討たないという事も、勿論状況にも寄るので
しょうが、必ずしも否定されるべき事ではなかった、という事なのでしょう、
司馬遼太郎の小説などで「近代以前の日本に『友情』という概念はなかった」というような事が書かれており、それを未だに
言う人も居たりするのですが、もちろんそんな訳はないのです。1位の今はこれまでぞ。さらば、さらば。も、
しっかりと友情の物語ですしね。
まあ司馬氏の言っているのはどうも、当時のちょっとインテリ風な、旧時代否定の俗論、言葉遊びのようなモノらしいのですが、
ちょっとそんな事を思い出したりもした内容でした。



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週刊ブログ拍手ランキング【01/28~02/03】

2021年02月03日 16:14

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もとより信長公の異形不思議の御振舞に 10

三浦浄心による、『男歌舞伎』体験レポ 9

この遊女が、「男歌舞伎」と名付けて 7
豊島の洲崎に町を建てん 7

君臣親子の情、真実の道理を表わされた 6
思うに、返らぬことでは有るが 6
これも鑓同前に 6
【雑談】関ヶ原の勝ち組一族でも庶流の帰農ってあるんだな 6


今週の1位はこちら!もとより信長公の異形不思議の御振舞にです!
わりと有名な、織田信長が荒木村重に、脇差に差した餅を与える、という逸話ですが、こちらでは相手は村重の家臣、
そして信長の持った脇差から直接食うわけではなく、一旦信長が放り投げたものを押しいただくという形で、
俗に伝わる逸話より、ややリアリティがあり、事実かどうかはともかくとして、これが荒木と餅の逸話の、原型なのでしょう。
まあそれにつけても、信長も配下とは言え、大きな勢力を持ち大名たる村重の使者に対して、非常に傍若無人な
振舞であり、また使者の弥助の態度もふてぶてしく、全体として後の荒木村重の乱を想起させる内容で、
だからこそこう言った逸話が伝わった、とも言えるのでしょう。
そんな事を考えた内容でした。

2位はこちら!三浦浄心による、『男歌舞伎』体験レポです!
この時期の「歌舞伎」を想像できる、非常に興味深い内容ですね。
既に三味線などの鳴り物を揃え、多くの美女のダンサーを並べ、歌劇としてかなり完成されていかことが見えてきます。
また視覚、聴覚だけでなく、香を炊き詰めた着物で嗅覚も刺激するなど、様々に工夫されていたこともわかりますね。
現代などと比べて娯楽、刺激の少ない時代ですから、そのような演出は正しく、天に在る心地がしたことでしょう。
著者である三浦浄心も、その気持ちを素直に描いていると思います。まあおそらく素直に書きすぎて、
これでは歌舞伎の良さを煽りすぎていると感じたのか、最後の方で申し訳程度に軌道修正していますが、これは
歌舞伎への熱狂は公序良俗に悪い影響を与える、という当時の幕府など当局の批判からから逃れるため、
という事もあったのでしょう。
そういう部分も含めて、たいへん面白い内容だと感じました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!思うに、返らぬことでは有るがです!
こちらは秀吉が生前、三成など奉行衆を大大名にしようとしたこと。それを奉行衆が断ったこと、が描かれていますね。
このようなお話は、関ヶ原モノ、三成モノの歴史小説などでよく用いられますが、勿論史実とは言い難い内容であります。
三成については、筑前の旧小早川秀秋領を云々という話もありますが、どうもあの領地は豊臣家の直轄領だった
フシが有り、三成もあくまで代官としての赴任で、それ故に断ったのだ、なんて説もあります。
しかし、備前老人物語の著者も「誰が聞いていたんだ」というほど、信憑性の厳しいお話ですが、関ヶ原後、こういった
お話が出るほど、奉行衆、あるいは西軍が兵を集めるのに困っていた、という印象があったのでしょう。
様々に受け取れる内容だと感じました。



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週間ブログ拍手ランキング【01/21~/27】

2021年01月27日 17:26

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祖母の家の家伝、 13

【雑談】同姓同名多すぎ 10

「どうする家康」について久能山東照宮の反応 9
汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか 9
あはれ、髭生えるものなら 8

名人左衛門督 7
武士の道、殊勝である 6
木津勘助の墓 6
さても命は捨てえざる者也 6
一里づかつき給ふ事 5


今週の1位はこちら!祖母の家の家伝、です!
これは一種の家伝ですが、非常に面白い内容ですね。関ヶ原の結果、毛利氏の減知転封のため、山口県の古い家には、
武士を辞めた、帰農した毛利家臣という伝承が非常に多いと言われます。その事が幕末の、奇兵隊を始めとした長州諸隊の
形成に影響を与えた、という話もありますね。
御先祖が「忍びの里」への協力要請を行っていた、と言う話など、関ヶ原の緒戦である伏見城の戦いで、甲賀衆の寝返りが
あったとされる事、或いは筒井定次による伊賀上野城の戦いなどを連想してしまいます。
しかし「お墓の大きさ」がその家の地位を象徴している、と認識されているのも非常に面白いですね。
日本では古くから葬儀を非常に大切にしました。あの『村八分』も、火事と葬儀の「二分」だけは付き合いを認める、という所からの
名称であり、盛大な弔いはその家の威勢そのものを表していました。
そこから言えば、村内で「最大の墓」を許可されていたというのは、村内秩序の上でも「家格」を表すのに非常に大きなもので、
投稿者の御祖母の家の、村内における存在感の大きさを、そのまま表していたと言えるでしょう。
伝承の内容が、そのまま事実であるとは限りませんが、そういった伝承が伝わっていた事自体が、地域の歴史を
考える上でも意味がある、と思います。

2位はこちら!【雑談】同姓同名多すぎです!
同じ一族の中で同姓同名、というのは割と見られるもので、まあ代々同じ諱を継承した小山田信有なんかは流石に
特殊ではありますが、基本的には「諱は殆どの場合使われない」「普段は仮名、官位名を使う」という事で、充分に
混乱は回避されていて、前近代の人達からすると、もしかすると現在のほうがややこしい、と考えるかもですね。
このあたりは個人よりも「家」が重んじられる社会だった事も大きいのですが、中世の歴史も、個人に焦点を当てる
だけではなく、例えば信長なら弾正忠家、家康なら安城松平家など、家の単位、流れでその歴史を見ていくと、又違った
風景が見えてくると思います。
そんな事もちょっと思った内容でした。

今週管理人が気になった記事はこちら!「どうする家康」について久能山東照宮の反応です!
皆さんももう御存知だと思いますが、2023年の大河ドラマが、徳川家康を主人公とした『どうする家康』に決まりました。
家康が主人公の大河というのは、2000年の『葵 徳川三代』以来でしょうか。今度はどうも、幼少期より描く模様で、
どのような家康像を描くのか、楽しみにしたいと思います。
今のところ、ストーリーラインを見る限りは、現在の研究成果を反映していると言うより、正直かなり旧説・俗説寄りという
印象を受けますが、そのあたりどう料理されるかも、時代考証の方の人選も含めて、見ていきたいと思います。
それにしても、久能山東照宮さん、流石に家康を祀っているだけに、ハッシュタグの付け方にも今から困っていますねw
江戸期の幕臣・旗本の家では、家康の諱を呼ぶことはもちろん、神君、東照宮といった呼び方ですら憚り、
法名から「安国院様」と呼んでいた、とも伝わります。主君の名を呼ぶというのは、非常にデリケートな行為だったのですね。
今後、この久能山東照宮さんの悩みもどこに落着するか、見守っていきたいと思います。



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週刊ブログ拍手ランキング【01/14~/20】

2021年01月20日 16:55

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薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害 14

第二章 奥州(Voxu)国王の来歴/その古さと高貴さ 9

これにて尋常に討死すべし。皆々見物せよ! 8 
その二人のうち一人は、 8
「今の鉄砲の音、心許なし。急いで見てくるべし。」 8

あれを見よ、退屈せぬ奴原かな。 7
もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である! 7


今週の1位はこちら!薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害です!
薄諸光の薄氏というのは、戦国期には橘氏の中でも唯一の堂上家として存続していた家で、相応の家格のあった家でした。
そしてその家格故に、牛公事をはじめ様々な伝統的権益を持っていた家で、その潜在的権益が、秀吉の方針と衝突した結果、
潜在的権益を否定するために、自害という事になったと考えるべきなのでしょう。
またこの処分は天正10年10月という、本能寺の変、清須会議からほどない時期のもので、秀吉による公家、朝廷統制の
はじまりの一つ、とも見られますね。
秀吉の主導する、近世的体制と、中世的権益の世界の衝突、と見ることも出来る内容だと思いました。

2位はこちら!第二章 奥州(Voxu)国王の来歴/その古さと高貴さです!
こちらを見ると政宗の時代既に、伊達氏が藤原山蔭の子孫を称していることがよく解りますね。近衛氏との関係が
強調されるのは、近衛氏が藤原山蔭の属する藤原北家の代表的家である事が関わっているのかも知れません。
また東北に於いて、奥州藤原氏とともに近衛との関係が深いと称することに、相応の効果があると感じていたとも
感じられていたのでしょうね。そういえば薩摩島津氏も近衛氏との関係が強く、この時代、奇しくも日本の南北で、
そこを代表する大名が、近衛氏とい近さをアピールしていたというのは、興味深く感じます。
そういえば藤原山蔭は、庖丁、料理飲食の神として祀られており、そのあたり、ちょっと政宗の多彩さとつながる面を
ちょっと感じちゃいますねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!「今の鉄砲の音、心許なし。急いで見てくるべし。」です!
これは関ヶ原での事とありますが、戦況がどういうシチュエーションの時期かは書いて無く、色々と想像の出来る
内容でもありますね。
これの伝えたいことは基本的には、使いは主君の命じたことだけを果たすのではなく、主君が今求めているものを察して、
それもまた観察してくるべきだ、という事を表しているのでしょう。
それにしても、湿気った火薬による射撃の音を、すぐに「心許ない」と察する小早川秀秋も、相当に戦場慣れした人物で
あると感じさせ、現在の彼に対する一般的なイメージとの相違も見て取れる気がします。
合戦中の陣中の様子も含めて、面白い内容だと思いました。



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週間ブログ拍手ランキング【01/07~/13】

2021年01月13日 17:37

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『天狗の雑説』という事があるもので  11
語るに飾り無く  11
 
貴殿の名には三つの不審がある  10
能ある鷹は爪を隠す  9

吉川元長、弟・経言の現状について苦言する  8
細川忠興が雪舟の画を分割した話  6
鏡島村梅之寺・乙津寺の事 5
平塚因幡守の討死の様子  5


今週の1位はこちら!『天狗の雑説』という事があるものでです!
これは合戦での雑説・流言に関するお話ですね。通信手段の確立していない時代の合戦では、戦場において様々な雑説が
乱れ飛ぶものでした。そういった流言雑説で戦況が変わった、という話は洋の東西を問わず残っていますね。
大坂の陣などでも、幕府方に寝返りが出た、などの流言が飛んだようです。
このお話を見ると、そういった雑説が出た時は、それに流されず正規の命令が有るまで待機すべきである、
という態度こそ正しいとする認識があったことが解りますし、一方で、このお話でも待機命令を出したにもかかわらず、
足軽の過半が逃亡するなど、実際にそれを成すことは大変難しいという事も表わされていますね。
当時の合戦の理想と現実、武士、足軽の有り様、様々なものを察することの出来るお話だと思いました。

今週は同表でもう一つ!語るに飾り無くです!
青木一重と言えばもともと徳川家の家臣でしたが、天正元年に家康の元を出奔し丹羽家、そして秀吉に仕え、秀吉の
元では親衛部隊である七手組の組頭に抜擢されるなど、当時からその武勇が高く評価された人物でもありました。
そのように、世間的に勇者として認識されていた人物であったからこそ、この逸話の内容が、一層引き立ったのでしょう。
青木一重ほどの勇者ですら、これほど武功に対して謙虚である。それに比べれ大した武功でもないのに話を盛りに盛りまくる
連中は…、みたいな感覚はあったでしょうね。
一種の教訓としての意味も強い逸話だな、と感じました。

今週管理人が気になったお葉な子はこちら!吉川元長、弟・経言の現状について苦言するです!
これは経言(広家)が秀吉のもとに人質に送られる際の起請文ということで、天正11年9月頃のものですね。この頃
吉川元長は既に、元春より家督を継承していると考えられるので、この内容は吉川家の「家長」として記されていると
考えるべきでしょう。
この小笠原家への養子問題は、経言が非常に積極的であったと言われ、父・元春、兄・元長などは、むしろ経言に
押し切られた形であったようなのですが、それだけに、ともかく話がまとまりかけた所で宗家の輝元によって潰されたと
いうのは、経言をはじめ。様々に吉川家のメンツを潰す結果となり、それについて元長は、家長として輝元に言っておかねば
ならない、一言釘を差して置かなければならない、という気持ちがあったのでしょう。
この内容からは、毛利両川と言いつつ、吉川、小早川家には基本的に相当の自己裁量権が有り、宗家もそれに、
軽々には介入できないと考えられていたこと、また吉川家側からは、小早川家との待遇の差について過敏であったこと
等も見えてきますね。当時の毛利家というものの実態を考える上でも、非常に面白い内容であると思いました。



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週刊ブログ拍手ランキング【12/31~01/06】

2021年01月06日 17:11

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かるかやに 見にしむ色は なけれとも 12

「申す所、聞こえる義も少しは有り」 12

其の方の只今の退き様、殊勝である。 10
「寿徳院玄由の閲歴について」 8

雪にはおれぬ青柳の枝 7
豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣う 7
いよいよ御勿体なき御分別かな 7
「愛宕参りに袖を引かれた」 5



今週の一位はこちら!かるかやに 見にしむ色は なけれともです!
今川義元からの、物見の命令を半ばスルーして合戦に参加してしまった人のお話。どうもこの時代、物見であっても、合戦に遭遇すればそれに参加するのが半ば常態であったようで、似たようなお話は大坂の陣までありますね。これは義務というより、
合戦が行われているのに視察だけして帰ることは恥であるという、武士の面目に関わる問題だったようです。まあ合戦の場が
「稼ぎ場」であるという、実利的な問題も有ったかもですが。それだけに主君、大将は、スムーズな合戦の展開のために
そういう人達をコントロールすることに、非常に苦労しています。おそらくこの時代だけでなく、幕末維新の、武士の時代の
終焉までそうであったかもしれません。
このお話もそういうお話の一つですが、怒り処罰を言明していた義元が、男が気の利いた歌を詠んだことで機嫌を直し
その罪を許すのは、ベースに上で言ったような武士の慣習があり、それを軍法で禁じてはいるものの、義元もそういった
「武士の気持ち」は解るという事、つまり義元は、下々の武士たちの心も理解している大将である、という事を表しているのだと
思います。そしてそれもおそらく、名将の度量だと考えられていたのではないかと。
これも、時代によって解釈の変わる逸話だとも思いますが、同時代的にはそういう感覚で受け取られたのではないか、なんて
感じました。

今週は同表でもう一つ!「申す所、聞こえる義も少しは有り」です!
こちらは織田(神戸)信孝が博打で武器甲冑を失った武士を許すというお話ですね。また軍法の話になりますが、
そもそも一般的に軍法では、陣中における博打は禁止されているはずなんですね。それを考えると、この二宮千太郎
だけでなく、彼に博打で勝った者も、やはり罪に問われるべき、という事になります。
一方現実的問題として、そもそも陣中で博打が蔓延しているからこそ禁止が言われるわけでして、軍法でそう規定
されていても、厳格に適応すればおそらく兵士がいなくなるくらいの勢いになると考えられ、よほど目に余る事例以外は、
見て見ぬ振りをされていたと考えるべきでしょう。この逸話の事例も、、博打で負けたからと言って、合戦の前日に
死なれても信孝にとって損でしかないわけですね。であるので、「同じ損ならまだ戦ってもらったほうがマシだ」くらいの発想で
武具などを与えたのでしょう。ある種の損切りですね。それが明日、よく戦ってくれたのですから、やっぱり喜びますよねw
こういう話を見ても、武士たちの大将になると言うことは、非常に大変な事であったのだろうな、とつくづく感じてしまいます。

今週管理人が気になったお話はこちら!豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣うです!
毛利と秀吉との和睦の際、吉川元春は弟・小早川隆景と、秀吉に対する姿勢が異なっていたとされ、それもあってか
早々に、嫡男元長に家督を譲り、元長は良く秀吉の軍事行動に従いました。。つまり秀吉側から見ると、元長は自分たちと
吉川家の協調の象徴でもあったのですね。その急死は今後の関係についても不安事項であり、彼の跡を継いだ経家(広家)
が、一時的に秀吉のもとに人質に出されてはいたものの、必ずしも親しみの強い関係では無かった事も、その不安の
一つであったと思います。だからこそ当時の豊臣政権中枢の一人であった秀長も、おそらく意識して、吉川家の後継者である
広家との関係を築こうとしていたのでしょう。
九州征伐の時期の、豊臣政権の有りようも感じさせる、そんな内容だと思いました。



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週間ブログ拍手ランキング【12/24~/30】

2020年12月30日 15:52

12/24~/30のブログ拍手ランキングです!


日本の隠居政治について 12

関東の馬のようではなく、弱くて異なるもの 11

島津勢の、伏見入城について 8
宇喜多秀家の身柄受け渡し 7

秀頼よりの使者 6
禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす 6

琉球出兵について 5
去る七日、大阪落城致したので 4


今週の1位はこちら!日本の隠居政治についてです!
当主が隠居して子を後見する、という形は、日本以外では確かにあまり見られず、日本においてこういう形が定着したのは、
はやり中世期の「家職」の成立が大きいのでしょう。公的にも私的にも、何らかの職務を代々担当するという事であれば、
次世代に早い内に当主につかせ、その「見習い期間」を前当主が後見しスムーズな家職の継承を行う、という事が
家的にも社会的にも合理的であるからです。これは当主だけでなく、当主の妻も家の「正妻」の地位を継承するもので、
例えば嫡男が父より当主の地位を譲られても、その新当主の妻が、未だ正妻の任を務められないと判断されると、
前当主の妻がそのまま「家の正妻」の地位を続け、嫁に対する教育を担当したりもしました。
ここにある「結婚を契機に」というのは、このように家の当主権というものが、夫婦でセットのものであった事も
表しているのでしょう。
西洋の王侯、貴族の場合、基本的には死ぬまでその地位を保持するようですね。これは家や地位に関する、社会的、
あるいは宗教的観念の違いも関わるのでしょう。ただ父親が年老い、息子が実質的に当主の代行をする、という例は
間々有ると思われ、実態としては実はあまり替わらないのではないか、とも感じたりもします。

2位はこちら!関東の馬のようではなく、弱くて異なるものです!
九州における牛疫についての記録ですね。その凄まじい被害の様子を感じられるとともに、当時の「牛」が
社会にとってどのようなものであったかも把握できます。端的に、牛は当時の農耕にとっての重要な存在でした。
現在だとトラクターなどの農耕機械が軒並み使えなくなったというようなもので、だからこそ、牛疫の流行は農耕の基盤、
すなわり当時の、農業生産を基礎とした社会の基盤そのものを破壊される危機でもあったわけです。
またこういったものを見ると、キリスト教の宣教師の「牛を食う」慣習が奇異の目で見られたこと、また秀吉の禁教令に、
キリシタンが「牛を食うこと」が禁教の理由に含まれていたことの訳もよく納得できるかもしれません。
色々なことを感じさせてくれる内容ですね。

今週管理人が気になった記事はこちら!禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わすです!
これはおそらく、信長から正親町天皇へ贈られたものの一部なのでしょうね。信長は切り取った蘭奢待を、天皇だけでなく
色々と分け与えていたようで、利休なんかも頂いてたりして、それを用いた茶会の話も伝わっていますね。
ただし一ヶ所、下手な部分が
蘭奢待は非常に権威・価値の有る香木であることは確かですが、それは分与という行為によってさらに高められたのでしょう。
この記事の場合は、島津氏と近衛家との深いつながりがベースにあったのでしょうが、朝廷、近衛家、島津家の三者全ての
権威に利をもたらす事例だと感じます。蘭奢待の効能、というものを察せられる記事だと思いました。



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そして、今年最後の週間ランキングの記事となりました。
本年もどうにかこうにか、こちらの更新を続けられたこと、これも本当に、記事を投稿された本スレの皆様、
そしてこちらのブログを見て頂いている皆様のお陰です。改めて心より、御礼いたします。

未だ1日早いのですが、来年もまた、宜しくお願いいたします。
どうぞ皆様、良いお年を!

まとめ管理人・拝
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週刊ブログ拍手ランキング【12/17~/23】

2020年12月23日 16:04

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駿河の国府、馬場町に、山田仁左衛門長政という者があり 15

かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き 14

山科言継の愛人・左衛門督の死 11
丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る 9

鳥頭坂の退却戦 8
その時は秀吉に内通して 8
指合あればざうさなく直したり 6
何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり 5


今週の1位はこちら!駿河の国府、馬場町に、山田仁左衛門長政という者がありです!
シャム(タイ)で活躍した、山田長政についての記録ですね。この『山田仁左衛門事蹟』は、文化四年(1807)に書かれたもの
とのことで、江戸後期という所ですが、長政の情報自体は、寛永年間には既に伝わっていたようで、ほぼリアルタイムに
日本とのやり取りがあったようです。彼は寛永十年頃から始まる海禁(鎖国)政策以前の人物でも有り、割と自由に
渡海や交流が行われていたことが感じられますね。
この中にも出てきた、長政の奉納した『戦艦図絵馬』は天明8年(1788)、火災により焼失したものの、
模写が今も静岡浅間神社に伝わっています。僕も実物はまだ未見でして、いつか見てみたいと思っております。

2位はこちら!かの藤吉猿面郎が方へ連れ行きです!
こちらは佐久間盛政についての有名なお話ですね。これの掲載された『佐久間軍記』は、江戸初期の成立と考えられており、
その時期には既に、秀吉に対して「猿」のイメージがあったことが解ります。そして盛政について、武辺に優れた
豪傑という印象も早くから存在していたのですね。捕縛され敵陣に連行されて猶、それに屈せぬ姿は、当時としても武士の
あり方として、あこがれを受けたのでしょうね。ここでの「舌を打つ」という表現は、「感嘆」という感情を表しているのでしょう。
そんな事も感じた内容でした。

今週管理人が気になったお話はこちら!山科言継の愛人・左衛門督の死です!
様々なことを考えさせられる内容ですね。京の公家、官女のコネクションが、地方の武士クラスにまで繋がって居たことも
感じさせますし、またそういうコネクションがあっても、否応なく戦乱に巻き込まれていたのだという現実も知らせてくれます。
戦国時代はやはり、誰にとっても過酷な世界だったと言うべきなのでしょう。
また、左衛門督という名から、宮中の女性が官名を名乗っていたことも思い出させてくれますね。
現代では意外と忘れがちで、ついつい男性だと思ってしまうこともありますw
そんな事も感じさせてくれた内容でした。


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週刊ブログ拍手ランキング【12/10~/16】

2020年12月16日 17:27

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【柳川・立花家史料館への支援について】 22

髪結職分は「一銭職」と唱えるべし 10
慶世村恒任『宮古史伝』より、 桃太郎の鬼退治のお話 10

本阿弥家と家康のつながり 9
真田一人の出丸のように 9

勘文を書き換えて、『吉也』とせよ 6
大阪方の石火矢 6
ミイラについて 5
但馬入道が、有馬に入湯した時 3


今週の1位はこちら!【柳川・立花家史料館への支援について】でした
記事の中にも書きましたが、様々な史料が一括して保存されていることは、それだけでも意味のあることです。
史料の保存、継承というものが、多くの人々の様々な努力に依って成されてきたものであるという事が、今の
情勢の中で、改めてはっきりと、認識できたように思います。

今回のクラウドファウンディングは、喜ばしいことに当初、そしてネクストゴールも目標を達成されたとの事で
「歴史」というものに興味を持ち、それを守ろうとする多くの人たちの熱心な気持ちを感じ、心強く思いました。
僕も本当に微力ながら、参加できてよかったと思っています。

昨今の情勢の中、人を呼ぶ、集めると言った形態の業種は、何であっても非常に厳しい環境に有ります。
立花家史料館さんの方でも、引き続きの支援を呼びかけられております。
無論、立花家史料館さんだけの問題ではありませんが、事態が落ち着くまでは、一人の歴史好きとして、
今後も何らかの手助けが出来ればと思っております。
これを読んで、ご興味、ご関心を持たれた方は、本当に良かったら、↓のリンクより、ご協力をお願いいたします

散逸の危機から立花家の重宝を守る|柳川・立花家史料館にご支援を
https://readyfor.jp/projects/tachibanamuseum


2位はこちら!髪結職分は「一銭職」と唱えるべしです!
このお話は、享保年間(1716‐36)に髪結の組合である髪結仲間が幕府に提出した文書のようで、その頃実際に、
髪結は「一銭職」と呼ばれていたようです。道端などで、一銭で月代やひげ剃りをしたことから、そう呼ばれた
ようですね。「一銭剃り」とも云われたようです。当時としても安く、庶民にとっても非常に身近な業種であったのでしょう。

内容はまあ、ある意味典型的な「神君御由緒譚」であり、江戸期は多くの職業で、その由緒を徳川家康との繋がりに
求めていました。江戸期の、家康の存在感の大きさ、また家康の名前を出しておけば、幕府もうかつに介入できない、
という実利面など、色々と想像ができます。髪結業にしても、そうだったのですね。
面白いのは、家康が髪結に対し、移動の自由を認めたとしている部分でしょう。当時の髪結は、基本的に固定した
店舗を構えたものではなく、顧客の家を訪問したり、また道端などに仮屋をかまえて営業したとされます。
である以上、移動の自由は職業上の生命線でも有り、だからこそその由緒を、江戸期の最高の権威である家康に求めた、
ということでも有るのでしょう。
そういった事を考える面でも、面白い内容だと思いました。

今週は同票でもう一つ!慶世村恒任『宮古史伝』より、 桃太郎の鬼退治のお話です!
「桃太郎」の成立は、室町末期から江戸初期頃とされ、様々な地域に伝播したことでも有名です。
このお話も、おそらくは沖縄に伝播したものが、地元の話(与那国征服譚)と交わり定着したと考えてよいのでしょう。
「鬼虎の娘」が騙されて連れられ水くみとされ、悲観して世を去るなど、何らかの史実が混入したのかと考えられるような、
少々生々しい伝承も入り込んでいて、沖縄における自分たちの「歴史」の受容についても、色々と考えることの出来る
内容だと思います。
こういった伝承、伝説から、改めて地域の歴史を調べ直してみたくなるような、そんな内容だと思いました。



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週刊ブログ拍手ランキング【12/03~/09】

2020年12月09日 17:44

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今川仮名目録より、喧嘩について 16

今川義忠討死の後の内乱と和睦 12

里見氏の海防体制 11
丁寧に借りパク宣言するむりうじ公 10

其方之者と不可存候、天下之者と可存 8
永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した 5
里見忠義の改易 5
酒井康治の弟、一位殿 4


今週の1位はこちら!今川仮名目録より、喧嘩についてです!
かの有名な『喧嘩両成敗』の嚆矢、「今川仮名目録」の喧嘩についての条目ですね。
これを見ると、喧嘩、紛争に関して、かなり細かく規定されていることがわかります。特に「喧嘩両成敗」も、
その当事者のみに限定され、当人が逃亡しない限り家族、家中にも遡及しないことが明言されているなど、
有無を言わさぬ両人成敗という、喧嘩の抑止に加えて、「罪」の範囲をむしろ限定することにも主眼が置かれて
いるように感じます。
このあたりは清水克行先生の名著『喧嘩両成敗の誕生』に詳しく、ご興味の有る方は、是非お読みに成ることをおすすめします。
電子版もありますよ!

喧嘩両成敗の誕生

2位はこちら!今川義忠討死の後の内乱と和睦です!
こちらは『今川記』の、今川義忠討死後の情勢について。
これを見て先ず気がつくのは、小鹿範満の存在が全く記されておらず、ただ今川家の家中の内乱であるとしている
所ですね。実際には、今川義忠の従兄弟であった小鹿範満が、彼の討死後に堀越公方、扇谷上杉の支持を取り付け、
今川の家督を継承したとされ、龍王(氏親)はその後の、太田道灌の謀殺など、情勢の変化によって今川家督を
「取り戻した」という事のようです。今川家中の争いではなく「今川宗家」を巡る争いであったということは、この
今川記が成立した頃には忘れられていたのか、或いは、記すには「よろしからず」、という意識が働いたのか、
それらについて考察するのも、また面白いと思います。
「伊勢新九郎」についても割としっかり描かれている事なども含めて、今川記成立の過程を想像するのも良いですし、
また、現在絶賛連載中の、ゆうきまさみ先生の『新九郎奔る』の今後の展開への予習として読むのも、楽しいと思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!里見氏の海防体制です!
この内容で面白いと思うのは、武士以外の領民を表現する際、百姓、町人に加えて「浦人」と有る部分ですね。
これは漁民を表していると思われますが、安房里見氏の領国の中では、漁労民が百姓町人に劣らない存在感を
持っていたことが解りますし、それほど「海に近い地域であったと感じられます。
そして武士階層だけでなく、地域住民と一体となって海防体制を為していた所など、戦国大名・安房里見氏のあり方も
感じさせてくれると思います。
「海上勢力」としての安房里見氏を想像する上でも、面白い逸話だと思いました。



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週刊ブログ拍手ランキング【11/26~12/02】

2020年12月02日 14:52

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秀吉との起請文 11

筒井順慶について 9
みなみな無になってしまったのに 9

明智令押領之由被聞食訖 8
なからへて 三好を忍世なりせは 7
謡を忘れないように 7

『是非死に候へ』と思し召されているのに 6
徳川秀忠の追善供養に対する違和感 5
高綱が つらまでよごす四郎かな 5


今週の1位はこちら!秀吉との起請文です!
これは色々と、面白い逸話ですねー。
おそらく江戸期に作られたもので、それも伊達政宗と井伊直孝の、百万石のお墨付きの話を下敷きにして(そもそもそれも
後世の逸話ですが)、如水と半兵衛に変えたものだと思われます。それが『勢州記事』という、基本的に竹中半兵衛にも
黒田如水にも、あまり関係のない地域の軍記に記載されているという事も含めて、なかなか想像力を膨らましてくれます。
その上で、半兵衛と如水、或いは秀吉と如水の関係性についての、人々の認識を伝えてくれるものだと思います。
如水は秀吉とそもそもは同格だったという考え方、また竹中半兵衛とも友人だったという認識など、いかにも軍記的な
表現ではありますが、ある意味、今に繋がる認識でも有ると思います。
いわゆる秀吉の「両兵衛」を考える上でも、興味深いお話だと思いました。

2位はこちら!筒井順慶についてです!
大河にも出てきた筒井順慶についてのお話です。ここに書かれている内容自体は、必ずしも正確ではない、というか
間違っている事も多いのですが、おそらくは彼が「器量の人」であり、「武威を振るった」事を強調する描き方でもあったの
でしょう。彼が優れた戦国大名であったことに、強い印象を持っていたのですね。
本記事のレスにも有りましたが、たしかに筒井順昭・順慶父子は、揃ってそれぞれ「元の木阿弥」、「洞ヶ峠をきめ込む」
という故事を残しているのですね。このあたりから、当時の畿内における筒井氏、或いは大和国の存在感を感じる
事もできそうです。こちらも色々と読み取れる内容だと思いました。

今週は同票でもう一つ!みなみな無になってしまったのにです!
関ヶ原で西軍に付いたとされ、処分された前田利政の赦免についての芳春院の、認識の認識が表わされていますが、
この件はどうも色々と複雑なようで、利政赦免を拒否していたのは、その実兄の利長であったともされ、そもそも関ヶ原で
彼を「西軍」としたのも利長の訴えであったとも言われ、どうも前田家内部の紛争がベースに有り、ただ家康が言を左右にして
前田家を振り回した、という話でも無い模様です。
、前田利長には男児が無かったことから、慶長5年に利家と側室の子であった利常を養子とし、その系統が前田家当主となります。
利家と芳春院の系統は、大名家としては存続出来ませんでした。あるいはその事による焦燥が、この書状に表れているのかも
知れません。(利政の息子である直之は前田家の重臣として召し抱えられ、その系統は、明治まで存続しますが、
彼の待遇をめぐり芳春院と利常の生母・寿福院の間で対立が起こっています)。
当時の前田家を廻る状況を調べていくと、また様々に受け取れる内容だと感じました。



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週刊ブログ拍手ランキング【11/19~/25】

2020年11月25日 16:02

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腰抜の吹は鳴らぬ物ぞ 8
この人が亡くなったと告げられた時 8

『三好』と人に云い伝わっているのは 7

こうしなければ、信長は私を生かさない 6
佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う 5
里村紹巴とうるまの島 5

比叡山焼き討ちについて 4
里村紹巴法橋は、奈良の住人であった 4



今週の1位はこちら!腰抜の吹は鳴らぬ物ぞです!
本多正重の、蒲生氏郷に対する暴言(?)についてのお話ですね。
この正重は、徳川→滝川一益→前田利家→蒲生氏郷→徳川、という仕官歴を経る人であり、同時代の「勇者」らしい
経歴でもあります。この人の経歴で少し面白いのは、彼が仕えたのは全員、織豊系大名であるという所ですね。
甥で、諱が同音ので、また経歴も似ている事から混同されがちな本多政重も、仕官歴は上杉景勝以外、織豊直系大名であり
また流転で有名な水野勝成も、基本的に織豊系に士官していますね。
これは勿論、織豊系が当時の中心的勢力であり、多くの武士を雇い入れる事において「景気が良かった」、という事が
あるのでしょうが、また徳川家から出た武士にとって、織豊系が、様々な意味で馴染みやすい、という面もあったのかな、
と想像します。まあこの逸話の内容は、馴染みやすかったにしても曲乱に過ぎますがw
最後に徳川の家臣が出てきて、結果的に氏郷が、正重も逃がすと判断したあたりも、創作にせよ史実にせよ、
色々と想像させる内容だな、とも思いました。

今週は同票でもう一つ!この人が亡くなったと告げられた時です!
里村紹巴の死についての細川幽斎の嘆き、という内容ですが、これを書いた松永貞徳は、明らかに里村紹巴に対して
良い印象を持っておらず、(良い面を書いてはいても)、その感情を隠そうとはしていませんね。
おそらく、松永貞徳の世代の歌人は紹巴について、里村紹巴法橋は、奈良の住人であったと併せて、
彼の連歌は出世の道具であった、という印象が存在したのでしょう。
ではあっても、紹巴の事を「乞食の容」と評した三条西公条を、「師」として終生尊崇した彼の人間性については
高く評価しており、幽斎の嘆きも、その人間性に対するものであったと考えると、そこにはまた、歌の世界における
また別種のドラマを感じられる気がする、そんな内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!こうしなければ、信長は私を生かさないです!
この松永久秀を亡ぼした信貴山城の戦いは、例の、秀吉が北陸戦線から無断で撤収し、信長から叱責を受け
謹慎した後の、いわば名誉挽回の合戦でも有ったわけですね。
実際には、織田信忠が総大将であり、また、おそらく最も激しく戦ったのも、久秀の大和における直接の敵であった
筒井順慶で、秀吉がこのように主体的に活躍した、とは考えにくいと言えます。
おそらくは、後の豊太閤伝説の中で、北陸撤退からの一連のストーリーとして形成されたのだと思われますが、
この中の秀吉、或いは信長のキャラクターとしての表現に、色々と感じさせるものがありますね。
そういう意味でも、興味深い内容だと思いました。



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週刊ブログ拍手ランキング【11/12~/18】

2020年11月18日 15:13

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金ヶ崎の戦いについての京での様子 13

細川藤孝の干支 11
「上総介か、入洛めでたし。」 11

パワータイプだった細川幽斎 7
秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想 7

堺より都に至る道路に於いて、税を徴収することを 6
一つとして謗る所のない仁君であった 4
熟したイチジクの如く 3


今週の1位はこちら!金ヶ崎の戦いについての京での様子です!
丁度直近の大河でも有った、織田信長の越前金ヶ崎からの撤退に関する、京の様子ですね。
出立が元亀改元の本当に直前ですが、改元を戦勝で寿ぐ、という意図もおそらく有ったのでしょう。
27日の情報は、おそらく25,6日の天筒山城、金ヶ崎城攻め、29日は、28日の退却を受けての情報でしょうか。
この日に、27日に開城した金ヶ崎城を攻めるための人員の要請が信長から届いているあたり、信長の使者よりも、
不確定なものにせよ、京への情報の伝達のほうが早かったこともわかりますね。おおよそ1日の間隔というところでしょうか。
朝廷も信長のために祈祷しており、信長が「官軍」であったことも解ります。
そして興味深いのが、浅井長政の寝返りが、朝倉ではなく六角氏と連動したものだと認識されている所ですね。
浅井長政の寝返りの理由というのは、実は現在でも何故あのか、よく解っていなかったりします。
当時の人が、朝倉よりも、六角に促されて寝返ったと考えたというのは、様々に示唆を与えてくれる情報だとも
思います。
当時の空気感も感じさせてくれる、非常に面白い内容だと思いました。

2位はこちら!細川藤孝の干支です!
細川藤孝の、信長の御前での、おそらくは当意即妙な受け答えだったのでしょう。
藤孝はこの後、秀吉の御前で、この手のお話が多く記録されるわけですが、信長の時代からすでに、そういう事を
やっていたと言うことなのでしょうね。
基本的には「同じ午年でも信長公と私とではこんなに違います」という事を表現していて、そこにある種の、自己への下卑、
あるいは信長への阿りも感じますが、一座爆笑したというのは、同時代的に一種のユーモアとして通用したという事でも
あるのでしょう。そしてこういう事をとっさに言える藤孝の機知、空気を読む敏感さが表されているのでしょうね。
『戴恩記』を書いた松永貞徳は、細川藤孝に心酔と言っていいほど傾倒していた人物として知られます。
この内容が、おそらく100%、尊敬すべき対応であるとして描かれた、という事を認識しつつ読むのも必要なのでしょう。

今週は同票でもう一つ!「上総介か、入洛めでたし。」です!
九条稙通といえば、コメントの方でも様々に触れられていますが、戦国期の公家の中でもおそらく屈指の傑物、異人、変人と
いうべき人物でしょう。関白、古典研究者、源氏物語研究者、和歌の名人、魔法使い、そして軍勢の指揮まで出来るという、
記録からだけでも、なまなかな武将程度では歯牙にもかからないような迫力があり、だからこそ、このような話も
残ったのでしょうね。事実かどうかはともかく、玖山公ならそのくらいのことはやる、と。
九条稙通はその生涯も含めて、非常に個性的で、面白い人物です。今後何かしらで取り上げられる機会が増えると良いな、
と僕も思っております。



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週刊ブログ拍手ランキング【11/05~/11】

2020年11月11日 16:26

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それ以降、斎藤内蔵助の異見の如く 14

志賀の陣の様相 12

「相馬利胤と競馬」 11
朝山日乗について 5

彼は昨日、法華宗の坊主の一人を訪問した、 4
即時都よりパードレを追放するを可とする 4
足利義昭への謁見 4


今週の1位はこちら! それ以降、斎藤内蔵助の異見の如くです!
斎藤利三が、若き日の蒲生氏郷に、軍事についての助言をしていたというお話ですね。
利三の「弓矢修行」というのは、、コメントなどの指摘にもあるように、弓だけではく、武士が為すべき軍事技術、知識全般の
事ですね。斎藤利三という人は、どうもかなり早くから、その武勇や才能を評価されていたようで、美濃斎藤氏配下の時代から、
対三好氏の使者を勤めるなど、わりと重く用いられています。そういった人物から、武道について教えてもらえる環境にあった
蒲生氏郷は、やはり運も良かったとも言えるのでしょう。本人は当初、あまり本気で学んではいなかったようですがw
彼の教えた内容も、二枚腰三枚腰の実戦的なもので、ある意味、「武功のコツ」とも言えるものですね。
全軍を統率する大将でもなく、一騎駆の武者でもなく、ある程度の人数を率いる部隊長レベルでの合戦での在り方を
彷彿とさせる、そんなお話だと思いました。

2位はこちら!志賀の陣の様相です!
志賀の陣というのは信長、或いは義昭・信長政権が最も追い詰められた戦いと言ってよく、和睦の際の、三河物語に
書かれた「天下は朝倉殿(義景)持ち給え。我は二度と望みなし」との言葉は有名ですね。
これが実際にあったかはともかく、周囲からは、この時の信長はそのように見られた、との事なのでしょう。
実際この和睦では信長は主体的には動けず、足利義昭が奔走し、朝倉に対して人質まで出しています。
当時の義昭・信長政権にとって、本当にギリギリまで追い詰められていたと言えそうですが、この記事を見ると、
比叡山では非常に過酷な対陣が行われ、また義昭・信長政権がかろうじて治安を維持しているのが京市中のみ、という
空気も伝わってきます。この時期の有り様が、よく出ている内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!「相馬利胤と競馬」です!
相馬利胤が改易の危機を脱したお話ですが、内容的にはは色々と興味深いですね。家康が相馬家に対して冷淡な一方、
重臣である本多忠勝や本多正信が同情的になっていますが、実際相馬利胤は、旧椽のあった島田重次を通して、本多正信を
紹介され、免責を求めたと言われます。ここに忠勝が入ってきたのは、馬が登場する以上、武勇で知られる忠勝が出てきた
方がふさわしいと考えられたのか、或いはこの逸話が成立した頃の、相馬家の何らかの政治環境が反映しているのか、
そのあたり調べてみても、面白いかも知れません。
それにしても競い馬で決着を付けるというのは、やはり相馬氏の伝統や誇りを感じさせる内容ですね。



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2020年11月04日 16:13

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言継卿記より、本圀寺の変について 10

日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは 8

私は法度に背き 7
池田光政の少年時代のこと 6
フロイス達の信長への訪問について 6

つまり土岐の御筋目なのです 5
信長狙撃事件について 5


今週の1位はこちら!言継卿記より、本圀寺の変についてです!
本圀寺の変についての、おおよそリアルタイムな記録ですね。これを見ると襲撃の前日から兆候は察せられており、また
三人衆勢撃退は、京都近隣の将軍配下の大名、国衆、奉公衆、特に三好義継の武威が大きかったように読み取れます。
この勢は撃退後に独自に追撃に移っており、そういう状況になってから、信長が到着したこともわかります。
この事件は昨今では、将軍の不安定さという以上に、義昭の軍事動員が機能していることを現しており、彼はむしろ、
自らの武威に自信を深めたのではないか、などとも評価されたりします。
上洛早々のこの事件は、二条城建築をはじめとして、義昭・信長政権に様々な影響を与えました。そういった後の展開に
ついて、ここからもいりいろ読み取れることがあるな、なんて感じました。

2位はこちら!日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのはです!
フロイスによる、法華宗への批判的な記録ですが、彼が法華宗を目の敵にするのはある意味当然で、京、そして宣教師たちの
畿内の拠点とも言える堺などでの主流宗派は、間違いなく法華宗であり、キリスト教にとっての最大の競争相手だった事が、
法華を批判的に見る大きな要因だったでしょう。宗教の構造として似たところがある、という面での競争心もあったかもしれません。
逆にここから、京における法華宗の存在感の強さ、大きな経済力も見て取れますね。
法華側の記録なども併せてみながら、この時代の、京における宗教勢力について考えてみるのも、面白いと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!私は法度に背きです!
渡辺勘兵衛が、法度、軍法のことでしょうね、それを違反して武功を挙げたことを表した内容です。
この『渡邊勘兵衛武功覚書』は、基本的に渡辺勘兵衛自身が、自分の武功履歴をアピールするために著したものであり、
「良いこと」として記載されていると考えていいと思います。つまりこの時の認識としても、彼は軍規に違反しても
武功を挙げることは良いこと、讃えられるべき事であると考えていた、と見て良いと思われ、彼の個性、或いは当時の
武士全体の認識の一端を表している、とも言えるのでしょう。
様々に読める内容だとも思いますが、当時の武士、武功のあり方を考える上でも、面白いと思いました。


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2020年10月28日 17:29

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太刀受けの阿弥陀如来 8

中でも美濃国は光秀の生国なれば 7
革島ジョアン不敬事件の顛末 7

義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について 6
この人はシノワラドノと称し 6
高野山についての報告 6
美濃国に於いては、諸人、先祖の奉じた所を重んぜず 2


今週の1位はこちら!太刀受けの阿弥陀如来です!
讃岐に侵攻した長宗我部軍と地元の寺院の伝説ですね。阿弥陀佛の霊験とともに、長宗我部軍の侵入というものに、非常に
強い印象を持ち続けていたことがわかります。長曾我部元親の四国統一事業というものに、土佐以外の3国が抱いた
強い恐怖と、そこからもたらされた神仏にすがる心が、このような伝説を生んだと言えるのかも知れません。
それにしても長宗我部兵も、阿弥陀が身代わりになったと発覚した時点で、何か仏罰の起こる前に逃げ出すあたりは、
お話の中とはいえ、「敵」である長宗我部に対しても無駄な被害、損害を出させないという、何かしら仏の慈悲を感じさせます。
そんな事も感じたお話でした。

2位はこちら!中でも美濃国は光秀の生国なればです!
実は、明智光秀の生国は現在も確定していません。今年の大河などでは、美濃明智氏としていますが、それも何かしら
明確な根拠があるわけではなく、「明智氏だから」という連想が大きい説です。光秀自身は、美濃明智氏と繋がりがある
家系だとは言っていますが、他国に移った美濃明智氏の一派、という可能性も勿論あり、極論、仮冒すらありますからねw
この『美濃国諸旧記』は江戸時代、寛永末期または正保頃の成立とされ、本能寺から60年ほど隔たっていますね。
光秀の生国と言うだけでなく、その時点で既に、彼も「美濃の良将」と認識されている点も面白く感じます。すなわち
美濃の誇りの一端であると考えられているということで、本能寺後に広まった、光秀への一種の同情論も含めて、
様々に感じさせる内容だなと感じたりもしました。

今週の2位はもう一つ! 革島ジョアン不敬事件の顛末です!
割と有名な、キリシタンによる寺社への不敬事件のお話で、この時革島ジョアンがこの事件を起こした場所は、「西宮」
であるとされます。
それにしても、彼が三好三人衆と縁故の有る、高位の武士で無かったら、その場で殺されても不思議ではない話でしょう。
そこを考えると、宣教師たちが積極的に、高位、勢力の有る人物をキリスト教に勧誘した理由の一端も、そういう部分が
有ったのだろうな、と感じさせます。いざというとき、無理が通る。
実は異なる宗派の仏像、神像などを汚したり破壊するといった不敬行為は、当時キリシタンだけでなく、「一向宗」などでも
見られ、当時の日本において、過激ながら自身の信仰的確信を現す行為であった可能性があります。
社会にそういった認識があったために、革島ジョアンもこのような行為を行ったのでは無いか、とも考えられますね。
ともあれ、宗教について、或いは何かに囚われてしまう事について、様々に考えさせるお話でも有ると思います。



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2020年10月21日 16:30

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永禄の変についてのフロイスの報告 10

鶴が育てたこの子こそ 9
弾正殿と称する暴君(残酷なるはネロ第二世) 9

奈良について 8
松永久秀のキリスト教への弾圧と、三好長逸による保護 7
光源院殿の葬礼 7

「御小袖」鳴動 6
小網神社御由緒 2


今週の1位はこちら!永禄の変についてのフロイスの報告です!
この永禄の変についての報告、後にフロイス編纂した『日本史』にもありますが、、この前日に義輝は京より逃亡しようとし、
実際に御所を出たものの、途中で家臣たちに説得され引き返した、とあります。これが事実とすれば義輝は事前に何らかの
危機感を抱いていたと言えます。ただフロイスの情報も殆どが伝聞ソースと思われるので、直ちにそうだったとは言い難いとも
思います。
ただ、この永禄の変について、フロイスは割と義輝に同情的なのですが、日本人側は、今週の「御小袖」鳴動の話を見ても、
また、後の信長が足利義昭に出した『「十七ヶ条の異見書』の義輝の死に対する指摘を見ても、どうも「自業自得だった」という
見解が非常に強かったように感じます。信長公記ですら「義輝の三好への『謀反』が原因」と書いていますからね。
そういった一般的な思いが、光源院殿の葬礼のような寂しい葬儀にもつながったのでしょう。
ただこれら、いわゆる上流階級、支配階級の考え方とは別に、京の一般民衆は義輝の死を強く悼んだと云われ、
フロイスの描写も、そういった一般民衆の考え方に準じたもの、と言えるかも知れません。
そんな事を考えた内容でした。

2位はこちら!鶴が育てたこの子こそです!
非常に面白いお話ですね。坂上田村麻呂に、鶴に育てられたという伝承があったとは。
動物に育てられる、あるいは授乳されるというのは、英雄譚の典型の一つですね。代表的なものに、狼に育てられた
ローマの建国者、ロームルス、レムス兄弟が上げられるかも知れません。ただ鶴によって育てられたというのは、
その人物を寿ぐ意味合いが強そうで、当時の東北の人々の、坂上田村麻呂に対するイメージを感じることが出来そうです。
伊達政宗とプロパガンダの影響からも見てとれますが、
坂上田村麻呂信仰の強さ、深さも察せられますね。
地域信仰と戦国期につての関係性も考えさせる内容だと思いました。

今週は同票でもう一つ!弾正殿と称する暴君(残酷なるはネロ第二世)です!
松永久秀によるキリスト教徒への弾圧についての報告ですね。これが起こる以前、宣教師たちは松永久秀を「教会の友人」と
好意的に評価しているので、まあ当然でもありますが、彼等の人物評価の基準が解りやすい例だとも言えます。
これは松永久秀自信も信仰する、法華宗の要請によって起こったとされますが、この当時のキリスト教は、教義内容、
また組織の性格からして他宗教と摩擦を起こしやすく、京の市民の主流の宗派でもあった法華宗についても、信者たちが
かなり挑発的な態度を取っていたフシがあります。それに対し当時の法華宗も、それを丸く治めるような性格ではなく、
そもそも京でのキリスト教布教を許した足利義輝が滅んで、「責任者不在」の状況になった中、ただでさえ不穏な状況で
朝廷も宗教紛争を恐れ、当時京の責任者でもあった久秀に対策を求め、ある意味仕方なく、久秀が前面に出てこの処置を
行ったが故に宣教師たちの批判を一身に受けた、とも言えそうです。
世の中様々な立場がある以上、たとえ責任を果たしても批判の対象になる、という事の一例かもしれませんね。
そんな事も考えた内容でした。



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2020年10月14日 16:04

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正月の足利義輝謁見の様子 13

『本多越前守利長家之覚書』にみる合戦討ち死に、負傷記録 11

又(日本には)、生きながら葬る方法がある 9
『武功雑記』より、雑記 9
戦国期の葬式について 9

足利義輝に対する正月の進物儀礼 8
フロイス達の京都観光 7
弾正殿は我等が有する最良の友にして 6


今週の1位はこちら!正月の足利義輝謁見の様子です!
宣教師たちによる、足利義輝への正月の進物礼についての記録です。進物礼においては義輝だけでなく、その妻、母にも
謁見する事になっていたのがわかりますね。また宣教師と言えども、美麗な装束が求められていたことも興味深く、それについて
彼らが悩み苦労しているのが、少々微笑ましいですねwそしてこの進物礼に至るだけでも、様々な格式やコネクションが
必要だった事がよく解ります。このあたりは現在の権力者との交流の場合でも一緒かもしれませんが。
しかしこの事で、「将軍御目見得」という格式を得たことにも成り、その努力に相応する利益を得ることが出来たのでしょう。
そしてやはり、フロイスが将軍母の部屋に置かれた阿弥陀像の美しさに心奪われている様子が面白いですね。
美術というものの力も感じる描写だな、なんて感じました。

2位はこちら!『本多越前守利長家之覚書』にみる合戦討ち死に、負傷記録です!
本多越前守利長家に伝わる死傷記録ですが、その詳細な内容に、戦国期の生々しさを感じるとともに、こういった記録が、
武士の家にとって大きな名誉であり、またその家の価値を表すものと捉えられていたのだろう、と思わせます。
また時代が下るにつれて、状況の描写が詳しく描かれるのも面白いですね。記憶の時代から記録の時代に徐々に
入っていった、という事も感じさせます。
またそれぞれの合戦、あるいは同時期の政治的状況と合わせて読むことで、また別な受け取り方も出来るかも知れません。
そういう意味でも、面白い記録だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!戦国期の葬式についてです!
当時の日本人が葬式を非常に大切にするということを、具体例を以て説明している内容ですね。
ここに例に挙げられたものは、大変盛大な葬式ですが、京の市中で行われたという事も含めて、おそらく有力な
武士や公家の葬儀ではなく、町人、商人のものだと考えられます。またこのような葬儀は、現在のようにその家のみで
催されるのではなく、その人物の所属した共同体、町、村の共同によって行われるものだったと考えるべきでしょう。
それは共同体の繋がりを強化する役割も果たしたと考えられますし、そういう事もあって、何らかの共同体の
一員であることが大切であった、ということも感じます。そしてこの中に、共同体と宗教の繋がりの意味もあったように
思います。
様々に考えることの出来る記録だと感じました。



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