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週刊ブログ拍手ランキング【02/13~/19】

2020年02月19日 17:48

02/13~/19のブログ拍手ランキングです


これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。 14

この下には水道があるのに 9

その身利根才覚に優れ 8
国民は一般に貧窮にして、貧窮を恥辱と思わず 7

【雑談】森長可も名君になった可能性 6
席次の公事 6
龍泉寺の事 6

我が心を証人とする 5
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について 5
鎧淵由来 5



今週の1位はこちら!これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。です!
武田信玄と上杉謙信を宿命のライバル、とする考え方は割と早い段階から存在したらしく、その萌芽は甲陽軍鑑などでも既に
見られますね。彼らの戦いを龍虎のそれとする見方は江戸期の甲越軍記ものに表れるわけですが、あるいは同時代にも、
そのような観察は有ったかも知れません。
このお話もそういった認識の上に生まれたものだと思われますが、ここで面白いのは謙信が、武田信玄という個人の
の死そのものを悼むのではなく、彼の軍事的才能がこの世から消えたことを弓矢軍神に惜しむ、といった理論で信玄の死を
追悼する所ですね。言ってしまえばツンデレ理論になるのですがw信玄と謙信の戦いとは巨大な才能と才能のせめぎ合いで
あったという認識も示されているように思います。その上で、宿敵であった武田信玄であってもその死を悼む謙信に、後世の
「義の武将」「軍神」の原型を感じることも出来るかと思います。

2位はこちら!この下には水道があるのにです!
これは、このブログでも見慣れた”ろくでなし”(六左衛門)ではなく、後世の”名君”水野勝成の逸話ですね。ここを見に来られる
方は皆さんご存知とは思いますが、勝成は長い流浪期を経て水野家当主に復帰すると、それまでの荒くれた存在から一変して、
当時としても模範的な君主と成ったと言われます。その事について、水野勝成自身は「流浪した頃の下々との交流が役に立った。」
と言っていたというお話もあったりしますが、ともかく、江戸初期には一種の規範的人物としても見られていたわけですね。
このお話で、上水道は当然、江戸に生活用水を引くものですから、その上を通れば、ゴミやホコリが落ちる可能性がある上、
「足蹴にする」という意味合いも含まれる可能性があります。そういった事に、譜代の中でもトップクラスと言っていい勝成が
配慮するというのはまさに「規範的」であり、江戸に住む多くの武士に、守るべきマナーを伝え知らしめる、そういった意味合いの有る
逸話だと思いました。そしてそういう役割を受け持つこともまた「名君」の機能なのでしょうねw

今週管理人が気になったお話はこちら!国民は一般に貧窮にして、貧窮を恥辱と思わずです!
フランシスコ・ザビエルによる薩摩の人々についての観察ですね。
「武士は貧しいが尊敬されている」という部分、これは宣教師の記録からは、九州以外でも等しく観察されていますね。
何故に武士が尊敬を受けているかと言えば、彼らが「自力救済」を体現した存在であったためでしょう。もっと平たく言えば
「命より大切な自身のメンツを守る意志と手段を持った存在」といった所でしょうか。
武士は自分の誇り、メンツが傷つけられたと考えた時は躊躇なく武器を以て、一族郎党をも引き連れて戦い、事によれば
自害してまでもそれを守り抜くわけです。武士に限らず中世の日本人全体にそういう志向がありましたが、その中でも武士は
そのチャンピオンである、と見られていたのでしょう。だからこそ裕福な商人であっても、武士を尊敬するのです。
一方で武士がそのようであったこそ紛争も多発し、喧嘩両成敗法などが生まれ近世への筋道を作っていくわけですが、
そういった「武士」の歴史についても思いを馳せさせる、そんな内容だとも思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
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週刊ブログ拍手ランキング【02/06~/12】

2020年02月12日 15:49

02/06~/12のブログ拍手ランキングです


【ニュース】山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」 12

本多忠信・正盛の不幸 9

【雑談】織田信長についてのことなど 8
今日は汝と相討ちした 8

伊奈(イナ)忠次の話 7
謙信等の、諸将と自己についての評 7
青沼新九郎の事 7

一等を被免許、切腹なり 6
御両君の御心合し候 6
十の内八は大賢人、残る二つは大悪人 5
松永久秀が楠正虎に送った書状 4


今週の1位はこちら!【ニュース】山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」です!
最上義光の「鉄製指揮棒」が復元されたといニュース。これを最上家改易の後山形に入った鳥居家が発見して
最上家に返却した、というのも良いお話ですね。鳥居家の側でこちらの鉄棒の価値を認識していた、というお話でもありますし、
また山形改易後も、最上家が後世までしっかりと存続していたことも表しています。
ところでこちらは指揮棒ですが、義光が使ったと云われる「鉄棒」という武器、これは南北朝期に全盛を向かえたと云われる
打物騎兵(打撃武器を用いる騎兵)が好んだ武器の一つと言われます。最上家は勿論、南北朝期に活躍した斯波氏の一族で、
南北朝争乱の結果として山形に定着した勢力ですから、そのような「南北朝由来」の武器を使うことは、単純な武勇だけでなく
その由来を可視化させる効果もあったのではないか、なんてことも思ったりします。
最上家、出羽の歴史について様々に思いを馳せる事のできる、そんなニュースだとも思いました。実物を是非見てみたいです!

2位はこちら!本多忠信・正盛の不幸です!
本多忠信・正盛父子の物語。しかし同じ死といえども、義父は戦乱の中での謀殺、息子は日光社造営に関する責任をとって、
という違いは、既に時代性、武士のあり方が大きく変化した事を見せてくれている気がします。
コメントでも有りましたが、山城宮内の切腹は無念腹、指腹の類なのでしょうね。遺恨を表明した上で切腹した場合、その主君は
切腹した者の遺恨を代行する必要がある、という考え方が中世には一種の常識だったようで、これは近世に入っても暫く存続
していました。例えば福島正則が関ヶ原の後、家臣・佐久間嘉右衛門が日岡の関の通過を許可されずこれを恥辱として切腹した
時、関の管理者であった伊奈昭綱の切腹を要求したのは、この慣習の一環であったと個人的に考えています。また実際、
江戸期にも、これを藩法の中に記載している大名家も、東北などを中心に有ったようですね、その意味では後者の事件も、
近世的世の中の出来事ではあるが、意識の上で中世が濃厚に残っていた、と理解できるかも知れません。
また九鬼家とこの松平氏との関係など、色々と考えさせてくれる、そんな内容だとも思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!謙信等の、諸将と自己についての評です!
この記事は、謙信39歳の時の事とありますので、コメントにも有りましたが永禄12年頃という事になります。
ただ、この松隣夜話自体は、少なくとも近世初期の成立と見ていいと思います。所々甲陽軍鑑からの影響も見られますし、
それ以降のものだと考えるべきなのでしょう。ここにある諸将に対する評価も、その後の歴史を知った上での描写として
把握したほうがいいと思います。逆にそれを頭に入れた上で読んだほうが、興味深く感じられるような気がします。
その上で、上杉謙信という人が天下への望みを持たない、いわゆる「義将」としての原型が既に顕れている事、非常に
興味深いと思います。少なくとも松隣夜話が編纂されて時点で謙信についてそういう発想があったのだという部分で、
謙信という人が世の中にどのように印象されていたのかが見えてくるように思います。
謙信も含め、世の中における諸将の印象という意味でも、面白い記事だと思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
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追記
SnapCrab_No-2004.jpg
このように記事数が、「12345」という続きの数字に至りました!
ここまで積み重ねることが出来たのも本当に、逸話を投稿してくださる本スレの皆さん、そしてこのブログを見て下さる皆さんの
お陰です。心より御礼申し上げます。
これからもどうぞ、宜しくお願いいたします!

週刊ブログ拍手ランキング【01/30~02/05】

2020年02月05日 14:15

01/30~02/05のブログ拍手ランキングです!


汝も今より武蔵と名を 12

『高遠の屋根ふき衆』 8

伝左衛門に小荷駄を預けたのは、某一代の不覚 7
将至って剛きは則ち士必ず応じず 7

永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦 6
【雑談】森蘭丸の蘭の字が 6

【雑談】森家の通称・幼名 5
穴山梅雪の使い 5
虎口に死を免れた心地にて 4


今週の1位はこちら!汝も今より武蔵と名をです!
いい悪いスレでは有名(?)な、森長可による瀬田の大橋乗打のお話ですね。「急いでいるから」の一点のみで信長の定めた決まりを
強引に破り信長のもとに駆けつける長可ですが、ともかくも筋は通しているのと、自身の命はいつでも捧げるという姿勢を見せる
事で信長からあっさり許されるだけでなく却って褒められています。この時点で既に何人か死んでいる所を見て、この時代の
兵卒の人命の安さというものを感じることも出来るでしょうw
実は信長はこういう、自分の兵卒が殺されても別に何とも思わない(むしろ殺された兵卒のほうが悪い)、という逸話がわりと
ありますね。甲州征伐ではこんなお話も伝わっています淡路守の倅
良くも悪くも、信長という人は味方の兵卒が多少死んだ程度では動じない人物という印象があったと言えるかも知れません。
それにしても、鬼武蔵だけでなく信長についても異様な空気感の在る逸話だなと、読むたびに思いますw

2位はこちら!『高遠の屋根ふき衆』です!
こちらも有名な、甲州征伐における鬼武蔵の活躍のお話ですが、面白いのは、現代的には相当、勇猛と言うか凶暴と言うか、
そういった印象がある、高遠城での屋根に登っての射撃ですが、こちらの記事が編纂された当時において「武田の兵に正面から
当たることから逃げて屋根に登ったのだ」という認識があった事ですね。つまり恥ずかしい行為であると。
もちろんこれも後世の倫理観に寄った印象に過ぎないわけで、同時代の評価を必ずしも反映しているわけでは無いのですが、
織田軍による高遠城攻めに関して、後世の武田旧臣、あるいは高遠地方の人々にはこのような感情が有ったのではないかと
想像すると、この戦いについてもまた別の感慨を持てるかも知れません。枠外にわざわざ記載する辺り、どうしても言って
おきたかったのでしょうねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦です!
これも一部では有名な上杉謙信による山根(騎西)城攻めのお話。自身の武威を示すというだけで、いい面の皮が何百何千いようと
構わないというあたり、確かに上杉謙信は稀有の英雄であると感じてしまいますねw
これの記された『松隣夜話』はおそらく江戸期に編纂された軍記で(成立年不明)、上杉謙信、太田資正を中心に関東の戦国を
描いています。で、ここでの謙信に対する描写は、決して彼の残酷さ、残忍さを強調したものではなく、むしろ謙信の称揚を目的と
したものと考えて良いと思われます。上にて森長可の高遠城攻めにおいて、屋根の上からの射撃が批判された例を紹介しましたが、
逆にこちらのように、たとえ現実的意味がほぼ全くなくても、真正面からの攻撃は讃えられたという事であり、評価の根は一つだと
感じます。
「正々堂々」を主とする「武士道」は、江戸期に広まった儒教により定義された道徳であると考えられがちだったのですが、昨今では
室町期には既に江戸期的武士道の原型が顕れており、戦国期はその武士道倫理がむしろ広まった時代であったと捉えられています。
そういった観点からこの逸話を読み直すと、武士道的な「正々堂々」の意味もなんとなく感じられるかも知れません。
そんな事を思った逸話でもありました。



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週刊ブログ拍手ランキング【01/23~/29】

2020年01月29日 14:31

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斎藤龍興の没落 9

土岐頼芸の美濃没落と後半生について。 9

斎藤道三下剋上のこと 9

かくして、斎藤左京大夫は日を追って権勢つのり 7
”岐阜”の変転 6
土岐頼芸追放後の斎藤道三 6
斎藤道三の滅亡 5



今週の1位はこちら!斎藤龍興の没落です!
斎藤龍興と言う人物については、軍記などの影響で、特に竹中半兵衛がらみのお話で、暗愚な君主という印象が一般的には
強いのかも知れません。
しかし美濃没落後、長島、越前などに渡り、信長に敵対し戦い続けた勇猛な戦士であり、またキリスト教にも入信したらしく、
キリシタン関係の史料にはその高い理解力、深い洞察力が驚きの声とともに紹介されています(もちろんキリスト教の側からの
主観でもありますが)。彼の後半生の印象から見ると、国というものはたとえ果敢で活動的で賢明であっても、時に保つのは
難しいものなのだ、と言うことを感じてしまいます。そんな事を考えさせてくれた内容でした。

今週は同票でもう一つ!土岐頼芸の美濃没落と後半生について。です!
こちらは上の龍興の祖父、斎藤道三に追放された土岐頼芸の後半生についてのお話。なんとこの人、道三どころか信長、龍興より
長く生きているのですね。そしてその生涯はある種の悲哀に満ちており、このお話の中では上総国万喜へと落ちていますが、
実際にはこの後甲斐武田氏を頼り、やがて織田信長の甲州征伐の際「発見」されて、稲葉一鉄の援助により美濃に帰還、そして
その半年後に死去するという人生だったといいます。
この土岐頼芸は今年の大河にも登場しますが、主人公の明智光秀とも関わるようで、はたして物語の後半、光秀も参加した
甲州征伐での再会も描かれるのだろうかと、今から楽しみにしています。
それにしても、斎藤龍興のお話もそうですが、歴史の表舞台から退場した人たちの、その後の人生にも、或いはだからこそ
ドラマがある。そんな事を思ったりしました。

さらにもう一つ、今度は斎藤道三!斎藤道三下剋上のことです!
いわゆる典型的な、江戸期の軍記物などで現れる斎藤道三が描写された下剋上の模様だと思います。
この斎藤道三という人、同時代的にも、美濃周辺では非常に評判の悪い人物だったようです。すこし時代は下がりますが、
近世初期の笑話集『醒睡笑』などにも、道三が悪人の典型、といった形で紹介された小話があり、畿内においても彼の「悪」が
一般に強く印象されていた事が見て取れます。これはつまり、それだけ敵が多かったという事の現れでもあるのでしょう。
また多くの敵が有ったからこそ、下剋上をせざるを得なかった、という理解も可能かと思います。実は下剋上って、やる方も
出来ればしたくないのですよね。
こちらの内容は明らかに、美濃守護土岐家の目線から描かれていますが、この内容から逆に、斎藤道三の目線を考えるのも
非常に面白い。そんな事を感じました。



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週刊ブログ拍手ランキング【01/16~/22】

2020年01月22日 14:48

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これは正利が天性勇猛で物に動じることが無かったため 12

子孫に於いて疎略の義は有るまじきと 8
御家久しき者 8

田手畷の戦い 7
百道松原 7

【雑談】「肥前の熊」の異名について 5
少弐氏内紛と龍造寺氏 5

馬場頼周の謀略 3
大谷刑部屋敷の怪 2


今週の1位はこちら!これは正利が天性勇猛で物に動じることが無かったためです!
黒田家家臣、菅正利についての逸話ですが、なかなかに凄まじい。武士というものが本質的に戦士である事を、よく顕している
逸話だと思います。それにしても菅正利といえば長政の頃には既に重臣ですが、そんな重臣にも仕者を命ずるあたり、
当時の黒田家の気風、あるいは戦国の気風というものを感じられるように思います。また正利が新免無二や疋田景兼といった、
黒田家に関わりがあったと言われる高名な剣術家から剣を学んだという部分も非常に興味深いですね。
実際に学んだのか、後世そういう話になったのか。(この「菅氏世譜」は明和七年(1770)の成立とされます)
色々と考えることも出来る、良い内容だと思いました。

2位はこちら!子孫に於いて疎略の義は有るまじきとです!
こちらは高橋紹運の嫁取りのお話ですね。たしかに立花宗茂兄弟を産んだのですから、紹運の選択は正しかったと言えますね。
またこういった、妻にする女性の容姿を気にかけないという内容は、それこそ三国志の諸葛孔明の話にも見られる、非常に
類型的な逸話でもあります。まあそれだけ、実際には女性の容姿が非常に気にされていたと言うことの裏返しでもあるので
しょうけどwおそらく、同時代に高橋紹運の妻の容姿についての記録は無いはずなので、逸頃、何故にそういう内容になったのか
その辺調べてみるのも面白そうですね。この内容のバックグラウンドが見えてくるように思います。

そして今週はもう一つ!御家久しき者です!
こちらは池田家に仕えた香西又市のお話。香西と言えば、室町~戦国中期くらいまでの畿内史に興味の有る方は
すぐにピンとくる、細川京兆家内衆の有力な一族ですね。おそらく摂津において、京兆家→三好家→池田家、という流れで
主が代わっていったのでしょう。そんな彼が二百石というのは、おそらく目立った武功がなかった故なのでしょうね。
摂津の転変も調べていくと非常に面白いものがあります。特に池田家も関わる摂津支配に関しては、
中西裕樹先生の『 戦国摂津の下克上─高山右近と中川清秀』が非常に内容も濃く、面白いので、興味の有る方には
是非オススメしたい本です!光秀大河も始まりましたが、ここから摂津も含めた畿内戦国史も盛り上がるといいな、なんて
思っています。



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週刊ブログ拍手ランキング【01/09~/15】

2020年01月15日 17:42

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藤堂家の大阪夏の陣 9

大寧寺の変と、宗像氏男の最期 7
鐘ノ御崎 7

ただ士の成しおくべき物は武功である 6
三女神のお告げ 6
神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ 6
【雑談】上杉謙信妻帯説 6

『斃秦』 5
滋賀京都辺りの妖怪 ガオーさん 4


今週の1位はこちら!藤堂家の大阪夏の陣です!
藤堂家といえば、大阪夏の陣における、八尾・若江合戦で大阪方と激しい戦闘を行い、大きな被害を受けた事も有名ですね。
この戦いで渡辺勘兵衛(了)の独断専行があり、戦後出奔した彼に藤堂高虎によって奉公構が出された事なども良く知られて
いると思います。
藤堂家譜は勿論、後世の藤堂家の立場から書かれた記録ですが、それにおいても、多くの討死を出した大変苦しい
戦いであったことが、かなり率直に描かれているという印象があります。先手といえば武門の誉れと言うべき役目ですが、
それを断念せざるを得ないほどという事に、その損害の大きさを後世の僕達も察するべきなのでしょう。
またそれを含めて、いわゆる幕藩体制家における藤堂家の誇りでもあったと言えるのかも知れません。
そんな事を考えた内容でもありました。

2位はこちら!大寧寺の変と、宗像氏男の最期です!
こちらは大寧寺の変に運悪くも遭遇した宗像氏男のお話ですね。これを見ると、本当に変が起こるまで大内氏の体制が
極めて安定しており、それが一夜にして崩壊するなど夢にも考えられなかった、という空気を感じることが出来ますね。
大寧寺の変は後の本能寺の変と比されることがありますが、なるほどこういった空気感は、よく似ていると言えそうです。
そう考えると、大寧寺の変後の陶隆房のあり方を見れば、本能寺の変後に明智光秀が目指したものも想像できるのではないか、
なんて思ったりもします。
宗像大宮司である氏男が「武門」として大内義隆の殉死をするなど、様々に興味深い内容だと感じました。

そして今週はもう一つ!鐘ノ御崎です!
宗像の鐘ノ御崎における怪異譚。この鐘を引き揚げようとしたため、とばっちりを受けた人が大量に居る気もするお話ですw
このお話では海人の人々が大きな役割を果たしていますが、実はこの鐘ノ御崎(宗像市鐘崎)、西日本の海人の発祥の地、
であるとされているそうで、なるほどこのお話に於いても海人の存在が強調されるわけだと妙な納得をしてしまいました。
また、この鐘崎は、響灘と玄界灘の境とされており、本州と九州(太宰府)との海上交通において、古来より重視された港でも
あったようです。この鐘崎の金の岬(鐘ノ岬)は、万葉集や源氏物語にも詠まれているそうですね。
そういった場所だからこそ、こういった怪異の伝承があったと言えるのかも知れません。



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週刊ブログ拍手ランキング【01/02~01/08】

2020年01月08日 12:11

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田村男猿の事 13

鷹に対する意見の相違 10

長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆について 8
どうして信長の命を受けられようか 8

その用意をしている内に、和睦となった 7
長曾我部元親の降伏 7

和泉様御鑓先の敵は  6
彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて 4


今週の1位はこちら!田村男猿の事です!
愛姫の従弟・田村男猿こと片倉良種のお話ですね。「男猿」という幼名ですが、名前の中に動物を入れるのは、その動物の
生命力をその子に宿し健強に育つことを祈念するため、などとも言われますね。また彼の生まれた慶長19年(1614)は寅年なので、
その対となる申(猿)を名に付けたということも有るかもしれません。日本においては、古事記には猿田毘古神があり、
また猿は日吉神の使者とされ(ここから豊臣秀吉の幼名”日吉丸”が創作されたとも)、比叡山の山王信仰にも繋がります。
当時に於いて子の名に猿を付ける事は、決して貶める意味合いはなく、むしろ寿ぐものであったと言えるでしょう。あるいは
猿神信仰において猿は神の使い、あるいは先導役であるように、伊達家を良き場所へ導いてほしいとの願いも込められたかも
しれませんね。
伊達政宗にとって、愛姫の実家であり、坂上田村麻呂末裔を称する田村家の存在は、自己の権威にとっても大変大きな物
だったらしく、これを非常に大切にしています。このお話も、その方針に連なるものと言えるかもしれません。

2位はこちら!鷹に対する意見の相違です!
これはいろいろな解釈の出来るお話でもありますね。コメントにも有ったように、森忠政の過度の鷹の愛好を、金森長近が
窘めたとも取れますし、また戦国期においては、鷹や馬のやりとりが戦国大名同士の友好を示す行為として捉えられており、
或いは忠政の言葉に、政治的、外交的な匂いを感じたのかもしれません。このお話の年代が投稿者様の推定どおりなら、
家康が征夷大将軍任官以降とはいえ、慶長10年(1605)に秀忠に将軍職を譲った際には、秀忠への対面を豊臣秀頼が
拒否するなど、徳川体制に関しては不安定要素も内包していた時期であって、有る種の生臭さを感じさせるものではあった
かもしれませんね。そんな事を考えさせてくれた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!どうして信長の命を受けられようかです!
ここで興味深いのは、斎藤利三の兄である石谷頼辰の名が出ているところでしょうね。石谷頼辰といえば、父光政と共に
室町幕府奉公衆として、将軍の側で活動しており、また妹は長曾我部元親正妻でありまして、近年新史料として報道された
「石谷家文書」を残した人物でもあります。
これは信長の四国政策についてのみならず、幕府奉公衆の実態を見る上でも非常に貴重な史料となっています。
ご興味のある人は、その47通全てを写真と翻刻とで掲載されたものが出版されていますので、是非読んでみて下さい。

石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世



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週刊ブログ拍手ランキング【12/26~01/01】

2020年01月01日 17:31

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両名共上手である 22

蛤石の伝説 16

上野隆徳の滅亡 8
甫一検校 8
扶け置けば争いの種子となる 7

美作ハ親以来之忠節存不忘 6
小糸坂の由来 6
三村家謀反 5


令和2年最初の週間ランキング!今週の1位はこちら!両名共上手であるです!
このお話について、色々な捉え方が有ると思うのですが、やはり非常に徳川秀忠らしいお話、という感がありますね。
柳生宗矩に学んだ剣術で小野忠明には打ち込めず、小野忠明に学んだ剣術では柳生宗矩に打ち込めない。
こういう時凡人は、どちらかの教えが、もしくは双方の教えに問題が有ると考えがちに思います。
ましてや秀忠は彼らの主君であり将軍であり、剣術の腕の有無など関係なく、彼らに対する生殺与奪の権を持っているわけです。
しかし秀忠はここで自己を非常に客観視し、彼らに学んだ自身を双方の剣術の技術的展開のケースとして捉え、それに対して
見事に対応している柳生、小野の両名を上手と称えるわけです。こういった心のあり方は、なかなか凡百の人間には出来ないのでは
無いだろうか、なんて事を思ったお話でした。

2位はこちら!蛤石の伝説です!
奇石、巨石に関する伝承、逸話というものは、全国各地に、様々な形で存在しますが、こちらは本当に、見るからに何かしらの
パワーを秘めている感がある石ですね。
そういえば信長関連ではこれに似た?お話で、岩では有りませんが妙国寺の蘇鉄というお話があります。
石にせよ蘇鉄にせよ、霊力を感じるものは「有るべき場所に置かれるべき」という発想が有ったことを伺えます。
この蛤石に関しては、日照りの時の伝承として、石自らが淵に入ったとするものも有るようです。
有る種の、地域の守護神として捉えられていた面も有ったのだと言えるでしょう。
これも様々に受け取ることの出来る、興味深いお話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!上野隆徳の滅亡です!
現代、世間的にあまり有名では有りませんが、毛利と宇喜多直家との同盟に反発した備中三村氏の離反より始まる
備中兵乱は、まさに備中一国が戦乱状態となる大変な事態だったようで、これについての様々な逸話も残されています。
こちらの上野隆徳の滅亡はそのクライマックスと言うべきもので、上野隆徳の妻である鶴姫の活躍と悲劇をはじめとして、
地域に長く語り伝えられている、非常に印象的な事件でありました。
ところで乃美宗勝の兵が女性を討とうとしなかったというのは、この逸話のレスにもありましたが、倫理的問題だけでなく、
女性を討ち取っても武功に成らないという当時の論功システムも大きいのでしょう。合戦の後の首実検で、首級に対し
「女首か男首か」で議論が起こるという逸話も割と存在します。女首を取るのは、むしろ武士として恥であるという意識も
存在していたようです。であるからこそ、女性に対しては雑兵を向かわせるという意識が有ったのでしょう。
そんな事も考えさせてくれたお話でした。



そんなわけで、皆様、明けましておめでとうございます!
当ブログもなんとか無事に、また新年を迎えることが出来ました。これも偏に、本スレの皆さん、そしてこのブログを楽しんで
頂いている皆さん、本当にこの皆様のお陰だと思っております。心より御礼申し上げます。
なんとも手際のよくない管理人ではありますが、今年もまた見て頂けると、嬉しく思います。

本年も皆様に御多幸がありますように。
また、このブログともども、宜しくお願いいたします。
(/・ω・)/

まとめ管理人・拝

週刊ブログ拍手ランキング【12/19~/25】

2019年12月25日 13:56

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信長は京の町衆の面前で 17

「三斎公の蛸壺」 17

親の長左衛門はその一命を毛利家の用に立てました 13
これにて異議なく奥郡も隆景公が手に入れられたのである 13

カヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候 12
清水景治と朝鮮の役 10
筋目の事ですので 8


今週の1位はこちら!信長は京の町衆の面前でです!
信長公記にも出てくる有名な逸話ですね。この時期、信長以外にも上杉謙信やここにも出てくる斎藤龍興などが上洛し
将軍義輝に謁したとされ、ここから義輝幕府の地方大名への影響力の拡大方針と、後の永禄の変への遠因を見る説もありますね。
この信長の上洛について、ここでは随従した者達が80人となっていますが、言継卿記では伝聞という形ながら「500人」という
大きな数字を記しています。信長公記が信長の勇敢さを強調するため過小に記したか、あるいは信長側がある意味「舐められない」
ように、自分たちの総勢を過大に触れ回っていた可能性があります。また『言継卿記』では信長一行について「異形」とあり、
これについて現代的に「かぶいた格好」と解釈されがちなのですが、同時代的には「田舎臭くて洗練されていない」姿であった、
と見るべきなのでしょう。これも伝聞ですけどね。また醍醐寺『厳助往年記』では信長上洛の「雑説」がありにわかに帰っていった
と記され、言継卿記ともども信長一行が何をしたかはっきりとは認識しておらず、にわかな帰国はこの逸話のように美濃斉藤家
とのトラブルを感じさせます。
この逸話自体は非常に劇的で、風雲児信長らしい爽快さも感じさせますね。この事が実際にあったのかどうかはともかく、
上洛中何らかのトラブルで急遽帰国した様子は同時代史料からも推測することが出来、様々に想像を膨らましてくれる
内容だと思いました。

今週は同票でもう一つ!「三斎公の蛸壺」です!
細川忠興、忠利父子の中津統治は非常に評価が高かったらしく、細川家の肥後への加増転封は、これにより肥後統治の
立て直しを期待されたため、であったのはある意味皮肉であるかも知れません。たしか辛子蓮根の誕生も、中津由来という
話があったんじゃないかな。
ここでは蛸壺ですが、三斎公作製の蛸壺なんて、現代まで残っていれば当然のように重文クラスの文化財に成っていそうですが、
流石に残っては居ないのでしょうか?
この三斎公の蛸壺のお話については異説があり、釣りに出た忠興が漁師の良い釣り場を譲ってもらう代わりに蛸壺を作った、
というものもあるようです。ともあれ中津の人々から非常に敬愛されていた感じが伝わってきますね。
この地域の蛸壺漁の歴史も含めて、色々なものを識ることの出来る逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!これにて異議なく奥郡も隆景公が手に入れられたのであるです!
清水宗治といえば備中高松城での奮戦とその潔い最期についての印象があまりに強く、具体的にどういう人か、という事については
あまり語られません。これを見るとただ忠烈な武人というだけでなく、当時の国衆らしい、生き残ることと野望に溢れた、ある意味
生々しい戦国期、混乱期の武将としての清水宗治像を感じることが出来ると思います。逆に、そういう履歴の人であったからこそ
高松城での振る舞いが大変貴いものであったと実感させてくれる気がします。毛利も強く感謝して当然ですね。
こういうお話を知ると、今後創作物などでの清水宗治を見る時(来年の大河にもきっと出てくるでしょう)、より厚みのある認識が
出来るようになりますね。こういうものもまた、歴史を識る楽しさなのだと思います。そんな事を感じた内容でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます。
そして今年の週刊ランキングもこれが最後ですね。本年も、本スレの皆さん、こちらを閲覧して頂いている皆さん、このまとめを
楽しんで頂いている皆さんに、本当にお世話に成りました。心より御礼申し上げ、感謝致します。
今年より令和の御代が始まり、「上皇陛下の居られる日常」というものが始まったのは、一歴オタとして感慨深いものがあります。
色々な意味で歴史や伝統というものを感じさせてくれた1年であったと思います。
来る年は久々の戦国大河もあり、戦国史界隈もまた大きく盛り上がりそうな、そんな予兆もあります。
少々早くはありますが、来年もどうぞ、宜しくお願いいたします。

まとめ管理人・拝
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週刊ブログ拍手ランキング【12/12~/18】

2019年12月18日 16:14

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最上義光と向去(ムカサリ)道 11

毛利の大阪退城も島津の臣従も 10

高松攻めの不審なること 8
扨々、聞及たるよりも気違にて候 8

神前にて鉄火を取らせるように 7
たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候 7

太夫殿からの意見 6
【雑談】加藤・福島などの改易について 6
斎宮わるものにて 4


今週の1位はこちら!最上義光と向去(ムカサリ)道です!
最上義光と白鳥長久の抗争は、戦国期の出羽を制することを象徴するものであったと思うのですが、その悲劇性も含め、
故に多くの逸話、伝承が残されていますね。これもその一つだと思うのですが、こういう所からも当時この地域の混乱の根深さを
感じさせてくれるような気がします。最上、白鳥の抗争の印象が非常に強かったからこそ、こういった伝承が残ったと
言えるでしょう。
このお話の裏にある、この地域の人々の記憶や思いを感じさせてくれるお話だと思いました。

2位はこちら!毛利の大阪退城も島津の臣従もです!
この『福島太夫殿御事』は、福島氏の改易から程なく成立したと言われており、当時の福島氏の立場や考えを強く反映した
書物だと考えられています。そういった角度からこれを見ると、関ヶ原後の徳川体制の安定に、福島正則が大きく寄与したのだ
という自負が感じ取れますね。また幕府に対して「今の体制は福島正則にこれだけの恩義を負っているのだ」と強調する
意図もあったのでしょう。
実態としては、毛利の大阪退去や島津の臣従に関しては、正則よりも黒田長政、池田輝政、井伊直政と言った人たちの
活躍が大きい気がするものの、正則もこれに関わったことは間違いないでしょう。しかしそこを、このように強く強調する所に
この『福島太夫殿御事』の性格を見ることも出来ると思います。しかしそういう性格の書物に神前にて鉄火を取らせるように 
みたいな話も収録されているあたりに、当時と現在の社会意識、常識の大きな隔離を感じさせてくれる気もします。

今週管理人が気になった逸話はこちら!扨々、聞及たるよりも気違にて候です!
このお話で思い出すのが、清水克行先生の『喧嘩両成敗の誕生』でも指摘されていた、伊達稙宗の分国法「塵芥集」の一条
 一、自害の事、題目を申し置き死に候はば、遺言の敵、成敗を加ふべきなり
(自害をしたものが、その自害の理由を書き残していた場合は、その遺言で指定された敵に対し、伊達氏が当人に変わって
成敗を加える)
についてです。つまり敵対者、恨みを持った相手を自力で討ち果たせない場合は、その旨を遺言して自害すると、その主君である
伊達氏が代行して成敗してくれる、ということです
ここでの佐久間嘉右衛門、そして福島正則の行為は、この塵芥集の規定そのものですね。ここから、この時期に至っても
塵芥集にあったような、中世的な復讐慣行やその意識が残っており、主君にとってもまた、復讐の代行を義務として執行する
ことが求められた、と言えそうです。ただこの中は家康などはこれを「気違い」と評しており、さすがに常識的というには
薄まっていたのかも知れません。ただし近世に入っても、米沢藩などには「指腹(差腹)」といって、自ら切腹に使った刀を
遺恨のある者に送りつけ、ひとたびその刀を受け取ったものは異議なくその刀で自らも切腹しなくてはならない」という
習俗が記録されており、類例は陸奥二本松藩や阿波徳島藩にも見られるとされ、地方では長く根強く残ったと考えられます。
この事件は「未だ徳川権力が確立しない中云々」と評されがちですが、当時の人々の意識、習慣の中から見ることも大切だと
思います。


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週刊ブログ拍手ランキング【12/05~/11】

2019年12月11日 15:41

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北条氏政、氏照の切腹 13

小田原開城 12

小田原開城後の北条氏直の事 8
惣じて殿下の大胆闊達な事は 7

人の命を助ける事は無類の儀である 6
こうお尋ねに成った所、隆景公は 5


今週の1位はこちら!北条氏政、氏照の切腹です!
小田原の役の講和条件として、北条家は伊豆相模、あるいは相模と武蔵を安堵されるという話はどうも広く知られていたらしく、
関八州古戦録以外の多くの北条氏を描いた軍記にも記されていますね。その講和条件を覆され、氏政、氏照の切腹と所領没収が
行われたと、少なくともそういう意識は広く存在したのでしょう。この逸話の中では、中村一氏を始めとした秀吉からの使者にも
そういう後ろめたさが有るのか、氏政たちの前でしどろもどろになり、氏照が助け船を出す有様と成っています。
このあたりの描写からも、関東の人々の秀吉政権に対する感情を見て取ることも出来るでしょう。
そしてここでは、徳川家康がいろいろな意味で「救い」を成す存在と成っています。これは勿論、関八州古戦録が江戸期に成立した
軍記であり、「神君」を貶める表現は決して出来なかった事にもよるのでしょうが、史実としてこの後関東が家康の手によって
安定を取り戻し、のみならず天下の首府を擁する地となった事を考えると、この時の多くの敗亡者の中に、「この後家康によって
救われた」という思いを持つ人も少なくはなかったのではないでしょうか。
そんな事も感じた逸話でした。

2位はこちら!小田原開城です!
こちらは小田原開城についてですね。
ここで目を引くのは、家康の非常に慎重な行動でしょう。自分が前面に出た時の反応を考え、あくまで秀吉側と小田原城側の
直接の交渉によって和平が成されるようにしています。家康が北条氏直の舅でありもともと同盟相手だったという、非常に
親しい関係である故に、対話のチャンネルを多く持っているのと同時に、その行動は秀吉側、あるいは北条氏の側からも
何らかの色眼鏡で見られやすい。そういう意識が有ったのでしょうね。このあたりの描写からは、そんな家康の賢明さを
感じさせると言えるでしょう。
また北条氏直が、城兵たちの命のために開城を決断する所は、将としての責任を良く表現されていると思います。
このあたり、もしかすると大坂の陣での秀頼と対比させた描写なのではないだろうか、何てことも少し思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!人の命を助ける事は無類の儀であるです!
こちらは御座船が岩礁に挫傷した秀吉を、毛利秀元がいち早く助けたという内容ですね。これが描かれた老翁物語は、
毛利輝元の右筆であった小田木工丞が1624年に著した覚書とされていますので、実際に毛利家に於いてこのような形で
伝わっていたのでしょう。
ここでは羽柴秀俊 (小早川秀秋)が毛利家に養子に入るという話が出ているということについて言及されているのが
面白いですね。史実として秀吉は、毛利輝元の後継が毛利秀元であることを認めており、少なくとも羽柴秀俊が輝元の
跡継ぎとして毛利家に入るという動きは無かった、と現在では考えられています。
ではあっても、どうも噂としてそういう話があり、当時輝元の後継者であった秀元としては看過できないものであったのでしょう。
だからこそここでそういう話を強く否定する話が記録されたと見るべきなのでしょうね。
それにしても、この秀吉の「人の命を助けることは無類の儀」という言葉、ここ出てくる木下吉隆のその後の運命を考えた
だけでも、複雑な気持ちに成ってしまいますね。
いろいろと考察の出来る、良い内容だと思いました。


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週刊ブログ拍手ランキング【11/28~12/04】

2019年12月04日 14:05

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忍城の戦い 13

福島堤 11

彼らを謀ったのである 8
官兵衛さんもやっていた旗指し物案件 6
小早川隆景の事 6

大義、親を滅ぼす 5
館林城と決定命婦荒御前 5
忍城開城顛末 4


今週の1位はこちら!忍城の戦いです!
関八州古戦録に見られる忍城の戦いと、石田三成による堤防づくりの様子。おそらくはこのお話の中に、地元の伝承などからの
取材も入っているのでしょう。関八州古戦録もあくまで後世の軍記物ですから、これをそのまま事実として受け取ることは
出来ません。しかし忍城の戦いの模様がこのように伝わっていた、という意味では非常に貴重な史料とも言えるでしょう。
ここで三成は非常に合理的な戦略を用いていて、一概に否定されるような描写とも思えません。
理知的でかつ行動の早い武将と捉えられていたことが見えてきます。その上で、城内に籠城していた百姓などが出てきて
堤防工事に加わったことは、明記されていませんが様々に読めますね。これは忍城側の策略だったのか、ただ偶然だったのか。
そしてそういうものを、本筋の目的さえ敢行できれば後は枝葉だと言わんばかりに大胆に許容する三成の姿は、どこか
秀吉的なものを感じさせます。決して一面的ではない、様々に受け取れることのできる内容だな、と思いました。

2位はこちら!福島堤 です!
こちらは福島正則による堤防づくりのお話。福島正則が加藤清正に比べて今ひとつ地元人気の低いのは、堤防などの
事業が余り目立たないため、という所が有るかも知れません。この内容を見ると、一般的なイメージと違い、政治的、対外的な
面を非常に気にする人物像が見えてきてきますね。実際正則という人は豪傑というよりむしろ、細やかなまでの政治的行動が
信条の人物だった感があり、実際にこの逸話の人物のようではなかっただろうかという気がします。だとすると、中途で
改易を受けただけでなく、そういう決して痛快ではない政治的な人物像の記憶が、地元に現在にも、もしかすると伝わって
いるのかも知れません。そんな事をふと思った内容でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!官兵衛にさんもやっていた旗指し物案件です! 
『旗指し物案件』というとこれらの逸話ですね
これを見た城攻め諸将は、驚愕した
関ヶ原、大津城攻防戦、忍者が旗を盗んだら
島津豊久と立花宗茂、これらは奪われた旗指物をさらされて逆に攻め手の指揮が上がったというお話ですが、
官兵衛さんは自分で投げてますねwこれも戦略的なものなのでしょうか。
そして豊久も宗茂も九州の武将であり、このお話もまた偶然にも九州役のお話です。九州にはなにか、このようなお話の
テンプレがあったのでしょうか?逸話にもいろいろな種類がありますが、この内容は「土地柄」をどこか感じてしまいますねw
なんだか戦国期九州での旗指物に関する意識を調べてみたく成る、そんなお話だと思いました。



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週刊ブログ拍手ランキング【11/21~/27】

2019年11月27日 13:56

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豊臣秀吉と白戸摂津守の不思議な因縁 17

当家が弱目に成ってしまえば人心も変わる 11

ただ日夜共に武略調略の工夫が肝要 9
三条大納言公治卿亭焼亡 9

老翁物語の山崎から小牧長久手合戦まで 8
彼の地域では珍しい物を音物として 8
そして信長公と御当家の間は手切れと成った 6


今週の一位はこちら!豊臣秀吉と白戸摂津守の不思議な因縁です!
安土城の頃に秀吉と出会っているとすると、この小田原役の時までに、十年前後という所でしょうか。当時は秀吉も、
既に織田家の重臣であったとは言え、当人も白戸さんたちも、ある程度気軽に会話していた事でしょう。それから十年ほどで
大きく転変しての出会いは、お互いにどう思ったことか、様々に想像が膨らみます。
本スレのレスにありましたが、武徳編年集成にはこの時、白戸さんに岩城家の家督を継がせるという話が内々にあったという
話が収録されているとか。それが事実かどうかはともかく、巨大な権力者との知り合い、殊に出世の前からというものは、それだけで
一種の権力性を付与するのだなと感じられるお話ですね。
ある意味、とても秀吉らしい話でも有ると思いました。

二位はこちら!当家が弱目に成ってしまえば人心も変わるです!
いわゆる三子教訓状についての内容で、かの教訓状の一部が毛利家の家臣の間にも知らされていた、という事の解る内容だとも
思います。また元就の非常にリアリティ溢れる毛利家、また吉川小早川家の統治についての状況認識が見えてきますね。
大雑把に言えば、吉川小早川を含めた毛利家は、たとえ対立が有ってもお互い我慢し妥協して「綺麗事でまとめろ」という所かも
知れません。形を整えることの大切さとも言いましょうか。外からの見た目の重要さとも言えそうですね。全体的に、内実以上に
外からどう見られるかを非常に重視しているような印象があります。そこが元就なりの戦国大名としての処世なのかも、なんてこと
も考えた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!三条大納言公治卿亭焼亡です!
戦争は始めるのは簡単だが終わらせるのは困難極まりない、とは古今言われる所ですが、このお話もそんな事を感じさせますね。
畠山義就。政長という両畠山の抗争は応仁の乱以前からであり、また応仁の乱もこの両畠山の抗争によって起こった面が
少なからずあります。である以上、また彼らが京に近い畿内の有力者であるからには、京の安定のためにも和平を志向するのは、
政権の中で多少なりとも責任感を持つ人なら誰もが考えたことでしょうが、それを進めると片方が受け入れても片方が反発し、
糾弾され家を焼かれ首都を追い出されてしまうわけです。こういう状況であるからこそ将軍家・室町殿も主導権を発揮できず、
発揮できないのでますます権威が低下するという悪循環が起こっていたことも想像できますね。
応仁の乱後の京の閉塞した状況をよくあらわした内容だな、と感じました。



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週刊ブログ拍手ランキング【11/14~/20】

2019年11月20日 17:57

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御奉公ほど難儀なものはない 10

六角高頼、目出度き次第の最期 10

八王子城の戦い 10

小田原城包囲の様子 9
八王子城攻めに至る経緯 9

加藤清正の少年時代 6
「旌をあおむけたら、たちまちに突き殺す!」 6

白河小峰城のおとめ桜 5
長浜城と「おかね」さん 5


今週の1位はこちら!御奉公ほど難儀なものはないです!
奉公、特に調略にあたる仕事に対しての辛さを語る逸話です。調略に対する警戒が広く存在し、そのため大変危険な業務で
あった事がよく伝わってくる内容ですね。そんな辛い仕事はもう辞めようと決心するのに、殿の前に出て仕事の内容に
忝ない言葉を頂くと、もう「明日からも頑張ろう!」という気持ちに変わる。現代にもこれに類することは多いのでしょう。
ちょっとした切なさも感じさせますw
これに似た逸話もいくつかあり
うまくこの戦争が終わったら
そんなキヨマサに騙されて・悪い話
戦国末期における「奉公あるある」みたいなネタだった可能性もありますねw
お仕事というものに、この時代の人も色んな思いが有ったのだ、という事の伝わってくる内容であったとも思いました。

今週は同票でもう一つ!六角高頼、目出度き次第の最期です!
こちらは六角高頼が何のかんので幸せの中で最期を迎えたというお話になりますね。六角氏はこの後定頼の時代に
全盛期を迎えます。そういった、家の良い状態の基礎が築かれた状況を晩年に見る事ができたというのは、戦国大名として
大変幸運でも有ったと言えるでしょう。
この高頼・定頼時代の六角氏は畿内政治の中心の一つであり、もっと注目されて然るべきだと考えますし、現在三好氏研究が
盛り上がっている流れからも、今後さらなる研究の深化が期待できると思われます。彼らの居城であった観音寺城だけでも
近世城郭のルーツとして非常に重要なポジションと考えられますしね。
そんな期待もある、六角氏全盛の初めをかざる逸話でした。

そして今週は同票でさらにもう一つ!八王子城の戦いです!
こちらは小田原北条氏の滅びを象徴するお話と言っていいでしょう。八王子城の戦いの模様を描いた逸話です。
この戦い、城将たる北条氏照は小田原に籠もり、八王子城自体はその規模に比して非常に少数の留守兵にて
守られている状況でした。八王子城に行ったことの有る人ならお解りに成るかも知れませんが、かの城は、それ以前の
氏照の居城である滝山城に比べてコンパクトになったと言っても、やはり巨城と言って良い規模であり、これに適切に
兵が配備されていれば、たとえ数万の大軍で攻めても、そうそう落とせるものでは無かったでしょう。しかしながらこの
八王子城の戦いの当時は兵力不足から、防衛範囲が麓の御殿の有る一角にほぼ縮小されていた模様で、この時点で
すでに全滅を覚悟の戦いと判断していたと思われます。
それにしてもこの最後、八王子城で奮戦した者達の子孫を拾い上げていく徳川家康は、やはり関東戦国史の「救い」
の役割をしていますね。戦国史全体についても、最期になんのかんので「江戸時代」という太平の世の中が来ると解って
いるからこそ、安心して楽しめる部分があると思います。
八王子城で奮戦する戦士たちの描写に心痛めつつ、そんな事も思った内容でも有りました。


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週刊ブログ拍手ランキング【11/07~/13】

2019年11月13日 17:24

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小田原城、早川口攻めと豊臣秀吉 8

唐の頭に本多平八 8

公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた 7
石垣山一夜城 7

気遣いは分別のいろは 6
信玄公御一代敵合の作法三ヶ条 5
相手にすると恐ろしい者 4


今週の1位はこちら!小田原城、早川口攻めと豊臣秀吉です!
小田原城早川口攻めにおける秀吉の処置ですが、よくも悪くも戦に逸りやすい細川忠興を選んで煽るなど、秀吉の人を見る目の
面目躍如といった観があります。また家康信雄謀反の噂に、単身彼らの陣営に乗り込むこと、これも秀吉の得意技ですね。
有名なのは上洛した家康に、対面の前日その宿舎に乗り込んだ逸話ですが、前田利家や上杉景勝相手にも似たようなことを
やっており、朝鮮人儒者の書いた看羊録にも、秀吉がこういった事をやるという記事があるところを見ると、秀吉の側からこの手の
行為は積極的に宣伝されていたフシがあります。
秀吉による、様々な配下の操縦方法の一端を見ることの出来る逸話であるとも感じました。

今週は同票でもう一つ!唐の頭に本多平八です!
どうも一部では「唐の頭”の”本多平八」と受け取っている向きがあるらしく、つまり本多忠勝が唐の頭の兜をつけていた、としている
ようで、そういう発想がなかったので驚いたりしていますwこの甲陽軍鑑の記事でわかるように、忠勝はあくまであの有名な
鹿角の兜ですね。
この記事で「小身の家康に似合わない」としているように、唐の頭は非常に贅沢な装飾であると、当時考えられており、
三河勢がみんなこの唐の頭を付けていたというのは、それだけ戦場での装飾に金をかけていた、という事が見て取れます。
三河衆はやれケチだ吝嗇だと言われがちですが、その結果蓄えた金を何に使ったか、ここによく顯れていると思います。
当の家康自体、軍装もファッションも非常に派手な人ですね。再現された家康の服飾がいかに綺羅びやかなものであったかは、
福島雅子 著『徳川家康の服飾』で見ることが出来ますので、興味の有る方は是非読んでみてください。
若い頃の家康が、武田などから「なんか身代不相応の派手なやつ」と見られていた事が何となく察せられる。そんな逸話であると
思いました。

徳川家康の服飾
http://www.chukobi.co.jp/products/detail.php?product_id=756


今週管理人が気になった逸話はこちら!公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた です!
ここから定頼の時代が、近江六角氏の全盛期ともいえそうです。実質的に畿内の政治動向を主導し「武門の棟梁」とまで
評され、現在では事実上の「天下人」であったという評価もあります。これ以降、六角氏は基本的に親将軍路線を採るのですが、
永禄の変以降にそれが崩れた事が信長の上洛を促す事にもなり、よくも悪くも畿内東方のキーパーソンであったと言えるでしょう。
この時期の六角氏につては、村井祐樹 著『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』が非常に詳しく、また内容的にも
興味深いものと成っております。こちらも興味の有る方は、是非読んでみてください!

『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』
https://www.minervashobo.co.jp/book/b449986.html




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2019年11月06日 12:47

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豆州韮山城攻め 10

蒲生氏郷、小田原役に際して 10

韮山城、十八町口の戦い 9
この祖父と孫の別れ 9

秀吉の着陣 7
漢家三傑に比すべき家臣 5
小田原評定 4


今週の1位はこちら!豆州韮山城攻めです!
小田原の役における韮山城攻めのお話。北条氏規率いる城方の果敢な防戦、そして攻め手の蒲生氏郷隊のはげしい
城攻めが伝わってくるような描写ですね。左目への跳弾をものともしない蒲生左門の凄まじさ。この時代、八幡太郎義家の
時代の武士など、ほとんど神話上の人物と言って良いのでしょうが、それに例えられるというのは本当にこれ以上無い
称賛でもあったのでしょう。
激しい戦いの中にも敵味方を越えて勇者を称える、そんな武士らしさがこの戦いの中でも生きていることを感じさせる
お話だと思いました。

今週は同表でもう一つ!蒲生氏郷、小田原役に際してです!
こちらは上のお話で蒲生隊が奮戦した、その理由の一つでも有るでしょう。佐々成政は小田原役の2年前、天正16年に
肥後国人一揆の責任を取らされ切腹しているわけですが、それでいてなお蒲生氏郷が憧れるほど、彼の武勇が優れていたと
言えるのでしょう。また氏郷は信長の時代は、柴田勝家の与力であった時期もあり、長島一向一揆にも参戦していますから、
その間に佐々成政の戦いの様子を間近で見てもいたのでしょう。
蒲生氏郷と佐々成政の交流に焦点を当てた物語なども、一度読んでみたい気がします。

今週管理人が気になった逸話はこちら!韮山城、十八町口の戦いです!
こちらも韮山城の戦い。北条氏規が非常に際立った城将として描かれていますね。これもうがってみれば、結果的に韮山城が
最後まで落ちなかったこと、北条一族の中で彼の家系が大名家として残ったこと、また氏規が家康の「幼馴染」とされていた
ことなども関わるのかもしれません。しかしその上でも、北条勢の全体的な劣勢の中にあって韮山城を保った氏規の
指導力というのはやはり目を瞠るものが有ったと言えるのでしょう。
実は氏規は、当時の北条一族の中ではあまり実力を認められていなかったフシがあります。氏規は北条氏康正室の子で
ありながら、弟であり、かつ庶出である氏邦に序列で抜かされていると指摘されています。実際に有る種の不遇の中に
あった可能性が高いと言えます。そういった背景の上での韮山城での活躍を考えると、また別の感慨が有るかもしれません。
そんな事も感じさせてくれた逸話でした。


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週刊ブログ拍手ランキング【10/24~/30】

2019年10月30日 16:03

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永正の錯乱 12

防戦一方の覚悟を以て望めば 6
翌年の四月十二日になって思い当たった 6

信長一味の家康が遠き輝虎を 5
沼尻の戦いのこと 5

この頃宇都宮の力が弱くなっていたため 4
由良国繁・長尾顕長兄弟幽閉 3



今週の1位はこちら!永正の錯乱です!
それまで、地方に比べると比較的安定していた畿内を一気に戦国騒乱になさしめた永正の錯乱についてのお話です。
魔法に惑溺し家中や政務を顧みない細川政元に、これを心配し、あるいは乗じて様々に動き出す家臣や周辺。
お家騒動の見本のような構図です。
細川政元といえば、戦国時代の到来を決定づけた明応の政変の首謀者とされ、にも関わらず政務に対しこのように無責任で
あることへの批判は昔からあり、逆に後になってその理由として魔法への惑溺が取り上げられたのかもしれません。
しかしながら昨今では、明応の政変を主導したのは日野富子と伊勢貞宗であり、細川政元は巻き込まれただけである、という
説も出され、そうであるとすれば、政元の体制に対するこの一見無責任な態度も理解できるかもしれません(京兆家という家に
本来存在する責任は別として。)
わりと一面的に捉えられがちな話なのですが、読み込むと様々な物が見えてくる、そんなお話だと思いました。

2位はこちら!防戦一方の覚悟を以て望めばです!
小田原の陣を控えての、北条氏政の言葉ですね。この言葉に関して、氏政の状況認識への批判というのは有ると思うのですが、
これはあくまで家臣たちの前での言葉であり、氏政でなくても大名であれば、誰であってもこういう言葉を発せざるを得ないと
思うのです。ここで弱気な発言をすれば、それこそ求心力が無くなり家中の統率もおぼつかなくなるでしょう。
実際、例えば徳川家康も、小牧長久手後、和睦交渉の不調で秀吉による再討伐の話が出た時、家臣団に似たようなことを言った
逸話が残っていますね。家康は運良く生き残った故にその発言も評価され、氏政は滅びた故にその発言は批判される。
正直それだけのことだとも思うのです。
そんな事を考えさせてくれた内容でした。

今週は同表でもう一つ!翌年の四月十二日になって思い当たったです!
こちらは武田信玄が、身延山を叡山にしようとしたというお話。信玄はどうも実際、こういう提案をしていたようで、これには
焼き討ちにあった比叡山関係者も、感謝しつつも戸惑った様子が伺えたりします。叡山のアイデンティティは京城鎮護なので、
ある意味近江のあの地にないと存在としておかしいわけでもありますからねw
また身延山久遠寺の方々もいい迷惑で、身延山が日蓮入滅の地であるからこそ、そこに有ることに意味があるわけで、
移動すること自体宗祖日蓮の法恩を損なう行為と批判されても仕方ありません。
まあ信玄としてはこれを期に宗教勢力のコントロールを強化し云々、なんて考えたく成ったりもしますが、結果として
信玄の死がこのことに対する仏罰、と捉えられているのが面白いですねw
仏法の守護者というイメージを持たれ、自身もそのように振る舞ったフシの有る信玄ですが、そういう人物であっても仏罰を
受けるという皮肉というか何というか、そういうものを感じさせる逸話だと思いました。


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週刊ブログ拍手ランキング【10/17~/23】

2019年10月23日 14:09

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「助五郎よ」「竹千代よ」 12

筆の初めという意味で 10

一益退去 7
膳城素肌攻め 6

つい立姿見せぬ小次郎 5
上見ぬ鷲 5
皆もこのざまを見ろ 5

神梅一党の事 4


今週の1位はこちら!「助五郎よ」「竹千代よ」です!
北条氏規と徳川家康の、人質時代以来の親しい関係を如実に描いた内容ですね。黒田基樹先生でしたか、氏規は
今川人質時代に関口氏の娘、すなわち家康最初の正妻であった築山殿の姉妹と結婚していた可能性がある、という説を
述べられていました(この時の氏規妻は夭折したとされる)。事実だとすると家康と氏規は妻を通じての義兄弟でもあった
わけで、更に太い縁があったと言え、のちの小田原の役などでの家康の氏規への信頼も、より納得できるかもしれません。
この関八州古戦録の書かれた当時も、家康と氏規の間に幼友達である、という印象が有ったこともよくわかります。
そこもふくめて、面白い逸話だと思いました。

2位はこちら!筆の初めという意味でです!
こちらは伊達政宗由来の地名のお話。「検地のはじめ」というあたり、当時の伊達家にとって検地がいかに重要なこととして
認識されていたがかよく分かる気がします。そういえばそもそも「仙台」も、政宗命名の地名ですね。
旧仙台藩領の中には、政宗由来、あるいは政宗に由緒があるとする地名がもっとたくさんあるでしょうね。
そのあたりの研究がないか、ちょっと調べてみたく思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!膳城素肌攻めです!
このお話の勝頼、本当に主体性が無くただただ場の勢いに流されているだけなんですよね。全くもって「勝利したから
良いようなものの。」という内容で、少なくとも数ヵ国の戦国大名としてそれはどうか、と言いたくなる体たらくです。
このあたり、もちろん後世の軍記の特徴として、かなり誇張した形で描かれているのは間違いありません。
ただ武田勝頼という武将に対して、このような印象が持たれていた、というのも確かなのでしょう。
史実的に言えば、勝頼は長篠の後であっても所々の合戦で勝利を積み重ねています。ですが個々の勝利をうまく
全体として繋げられない、という印象があります。これはもちろん当時の勝頼の置かれた環境が大きな要因でもありますが、
印象として「勝っているだけ」というものも有ったのでしょう。そんな事を考えさせてくれた逸話でした。



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週刊ブログ拍手ランキング【10/10~/16】

2019年10月16日 15:13

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太田三楽斎追放 12

大関高増の逆心 8

三楽斎の小田城乗っ取り 7
小西行長捕縛 6
臼井城攻防戦 6

小田城再乗っ取り 5
里見勝広の滅亡 4
里見騒動 3 


今週の1位はこちら!太田三楽斎追放です!
この太田三楽斎追放、実際には実子で親北条派の氏資によるクーデターの側面が強かったようですね。彼はこの時
異母弟の梶原政景やその母を幽閉しています。追放された父親のほうが長生きしたのも含めて、武田家を連想してしまいますね。
三楽斎も武田信虎に劣らぬアクの強い人物ですしw
岩槻の太田家は、氏資が三船山の戦いで討ち死にしたあと、北条氏政の三男北条国増丸がその娘を娶ってあとを継ぎ、
北条家に内包されます。このお話の中で北条側の謀略が強調されているのも、そういった結果があっての事でも有るのでしょう。
当時の関東国衆の不安定さもよくあらわした、そんな内容だと思いました。

2位はこちら!大関高増の逆心です!
いい悪いスレでは有名な大関高増が逆心に至る過程。ただまあ、この内容であれば当時的にはむしろ当然逆心おこすだろ、
という話ではありますねwそもそも当時の配下国衆は厳密な意味では家臣ではなく、内部的には独立していて、従う形であれ
同盟に近い存在であり、だからこそ那須家の頭越しに佐竹と連絡も取るわけですね。これが近世に入ると国衆も主家を頂点に
大名の家中組織に組み込まれ家臣化するわけで、その部分で戦国期と近世の意識の断絶は確かにあるな、と感じます。
大関氏の話は、戦国期、あるいは中世国衆の典型を表しても居るのだろう、そんな事も思わせてくれるお話ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!里見勝広の滅亡です!
この里見勝広という人、もともと無位無官の浪人で、桐生助綱によって引き立てられるまで何をしていたかよくわからない
謎の人物でも有るのですね。安房里見の一族ということなのですがどこまで本当なのかw
このお話の中で奸臣とされる津布久、山越といった人々は、養子として桐生助綱の後を継いだ桐生親綱の実家である
佐野家より付き従った人々であり、その面から見ると新旧の当主側近の権力闘争であった、と見ることができるかも
しれません。結果として桐生親綱の時代に桐生家は滅亡し、そのため津布久、山越なども、桐生家の道を誤らせた奸臣と
記憶されたのでしょう。このあたり、里見勝広の最後も含めて、どこか甲斐武田家を連想させる気がします。
また当時の関東諸侯の関係の複雑さも考えさせてくれるお話だと思いました。


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週刊ブログ拍手ランキング【10/03~/09】

2019年10月09日 14:20

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籠沢采女の出奔と帰還 13

かくして輝虎は行きがけの駄賃であると 9

その発する心を奪いたくありません 8
身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと 7
原美濃甲府へ帰る 7

北条氏、その親類一党の栄え 5
行長も心ならず引き立てられて共に敗北し 4


今週の1位はこちら!籠沢采女の出奔と帰還です!
長尾景虎(上杉謙信)に近侍しながら逐電した、籠沢采女という武士のお話ですね。このお話、基本的には「こんな事も
あるかと思ってあえて敵に降ったのだ、という内容になっていますが、これについては色々と解釈出来る感じですね。
単純に再度の寝返りの返り忠、という事にも見えますが、それでは景虎の「人を見る目」に傷がつく、という事になるかも
しれません。
関八州古戦録は関東戦国史についての代表的な軍記ですが、享保11年(1726)の成立とされます。まあ江戸中期ですね。
その成立の頃の上杉謙信認識が、当然この内容の中にも入っているわけで、そういう所を考えつつ読むのが、良い姿勢と
いうべきかもしれません。
まあその成立時に、上杉謙信にこのような暴風雨の如きキャラクター認識が有ったことは、それはそれで非常に興味深いの
ですがw

2位はこちら!かくして輝虎は行きがけの駄賃であるとです!
そんな謙信公の暴風雨というか天災というか、そういった面が十全に現れている内容ですw
誤解であることが解ったのに、「もう途中まで来てるしそんな話が出ること自体怪しいし、まあ攻めながら考えよう。」と
攻撃をかける謙信公。なんという理不尽。しかしこの理不尽さこそが「軍神」なのでしょうね。人の都合など神の前には
些細ですらありません。
上杉謙信は、上杉家中で割と早くから神格化されたと言われますが、それは一種の祟り神を祀るような、そんな神格化では
なかったか、そんな事を思わせてくれる逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!その発する心を奪いたくありませんです!
一方の北条家は、全体的に常識的と言うか理性的と言うか、武士としてあまり破綻のない印象があります。
このお話も遠山富永は、事前にちゃんと氏康へ伺いを立てているのですよね。普通の武家だと、連絡なしに勝手に進出
しちゃう事、多々ありますし、それが武勇を表すという考え方も、当時確かに有りました。しかし北条家中はそういう事をせず、
きちんと手続きを取っているあたり、これも後世における北条氏のイメージを良く表していると思います。
その上で不満の有る層へは、重鎮たる黄八幡北条綱成が爽やかに、重厚に諭します。これなど近世的組織のあり方を
感じさせますね。小田原北条氏は「プレ近世大名」と評されることもありますが、このお話も、その面目躍如といった観が
ありますね。良い逸話だと思いました。


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