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週間ブログ拍手ランキング【03/08~/14】

2023年03月15日 16:00

週間ブログ拍手ランキング【03/08~/14】のブログ拍手ランキングです!


「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり 14

「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則 13

「続武家閑談」から宮田光次 11
造作も御座無き御宗旨かな 11
「武家閑談」から庵原朝昌について 11
先週、二本松城を訪れたところ 11



今週の1位はこちら!「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶりです!
加藤清正の細心さ、慎重さを顕す逸話ですね。清正と言えば「豪傑」というイメージが強いのでしょうが、この逸話は
「それだけではないよ」と、名将その基礎の部分を見せてくれるお話と言えるのでしょう。
それにしても、ここで備えていたのが「米三升、干味噌、銭三百」というのはなかなか興味深いですね。食い物と金。
どれもかなりかさばりそうですが、このくらいあれば突然の合戦で、或いは一人で敗走することに成っても、ある程度
生き延びる事ができる、という計算上の産物なのでしょう。
加藤清正という武将が「知友兼ね備えていた」ということを表現され、また世間的にも、特に福島正則などと比して
そういうイメージがあった。そういう事が表されている逸話でも有ると思いました。

2位はこちら!「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則です!
こちらはダイレクトに、その福島正則と加藤清正を比した逸話ですね。花押について、ここでも清正の慎重さ、考え歩かさと
正則の無造作さが対比されています。
もちろんこれが史実、事実というわけではなく、多分に後世のイメージから形成された話という観が強いのではありますが、
後世においてこの二人が、このようにある種対極的なキャラクターとして認識されたことが、また興味深く感じます。
やはり三国志演義の関羽と張飛に似た対比をされたように思われるのですが、この二人が結果的に「秀吉恩顧」
の代表格と認識されたことも含めて、様々に考察してみたくなります。そんなことも感じたお話でした。

今週管理人が気になったお話はこちら!先週、二本松城を訪れたところです!
戊辰戦争、二本松城の戦いでの小城代とされた丹羽和右衛門の切腹のあり方ですが、これが「藩祖」丹羽長秀の、
病のはての切腹による自死の様子を模していたように見え、非常に興味深いですね。
一般に丹羽長秀は、腹に出来た腫瘍に苦しむ中、それを「退治」することで死んだとされますが、また一説では、
当時織田家中をほぼ乗っ取った羽柴秀吉の、その専横に対しての憤りのあまり自死したのだともされ、ある種の
義死であるとも言われたりします。この丹羽和右衛門の切腹は、新政府に対して、藩祖に習い自分たちの義を見せつける、
といった発想があったと考えるべきなのでしょう。
幕末期の二本松藩の人々の歴史観、歴史認識もどこか感じさせる、そんなお話だと思いました。



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週間ブログ拍手ランキング【03/01~/07】

2023年03月08日 16:00

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「武家閑談」から上田宗箇(上田重安) 13

「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗  11

「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆 10
松平信康処刑時の半蔵の落涙 10

武士が武士を褒める作法 9
「武家閑談」から大坂の陣の時の樫井の戦い 8
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄 7



今週の1位はこちら!「武家閑談」から上田宗箇(上田重安)です!
茶坊主と嘲られた(?)上田宗箇が、見事軍功で見返すお話ですね。まあ、ここは茶坊主云々というより、新参の宗箇を
浅野幸長が尊重し重用した事に対する嫉妬、と見るべきなのでしょう。ここで、仮に宗箇が若ければ「殿様の衆道の相手で
云々」なんて陰口に成るのですが、そういう年齢でもないので、彼は茶道によって用いられたのだ、つまり武功においては
我らのほうが上である、という意識の現れなのでしょう。形は違っても現在の組織、集団でも間々有る愛憎劇だとも思います。
上田宗箇の武人としての能力とともに、当時の武士社会の影の面も感じ取ることの出来る、そんなお話だとも思いました。

2位はこちら!「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗 です!
こちらは名刀として知られる、太郎作正宗の由来についてのお話ですね。しかしここでは水野正重の刀というだけでなく、
徳川軍の姉川の戦いでの活躍を象徴する、といった意味合いもあるのでしょう。
しかしここでの、信長の徳川軍に対する評である「家康の者どもが、こうも薄くのびて敵について離れないことを知らなかったぞ」
という言葉、ここからは長篠の戦いにおいて同じく信長が大久保忠世を評した「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
という言葉を思い出します。おそらくは忠世の逸話から逆算して、この姉川の戦いのお話が生まれたのでしょうが、
またこの台詞からは、徳川軍が少数ながら粘り強く戦ったという光景も、ありありと見えてくるように感じます。
文章表現的な面でも、面白い内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!武士が武士を褒める作法です!
こちらは馬場信春が宍戸信君に、武士を褒める表現についてたしなめたお話。
『甲陽軍鑑』に見られる特徴として、織田信長に対する過小評価と、徳川家康に対しての高い評価というものがあると思うのですが、
このお話もその種のものとは言いながら、この時代、他者を評価する場合において非常に細かくカテゴライズしていた、
という面も見え、非常に興味深い内容と成っています。特に他者の評価を主君に報告する際の表現をここでは
問題にしており、他者評価一つをとっても「より正確に客観的に伝えなければならない」という意識が感じ取れます。
中世末期、近世初期における言葉についての認識というものも感じさせてくれる、面白い内容だと思いました。



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週間ブログ拍手ランキング【02/22~/28】

2023年03月01日 16:00

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「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子 13

「武家閑談」から真田大助 11
南部殿は改易され 11

「続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」 10
「武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣 10
「武家閑談」から真田大助と三人の小姓 10

現代、織田信長は天下に意見するほどであるが 9
「武家閑談」から黒田彦左衛門 9
「武家閑談」から徳川頼宣の詩歌 8


今週の1位はこちら!「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子です!
大阪夏の陣での徳川秀忠の様子。黒田長政、加藤嘉明の言うところの「軽い様子」というのは、過度に権威的に
やっていないという事でしょう。軍事においては、いろいろな意味で機能性重視の、風通しの良い環境にしていた、
とでも言うべきでしょうか。
また、このことを「このように軽いのは御家の癖」と言っていますが、この場合の「御家」とは徳川家の事ですから、家康の
軍のありかたもそのようであった、ということですね。
このお話が事実かどうかはともかくとして、この時代の徳川軍には権威主義が小さいという評価が在った、あるいはこのお話が
成立した頃に、軍事において過度の権威主義は用いられるべきではない、という考え方があった。という事なのでしょう。
他の文献などと、色々と比較してみたく成るお話でもあると思いました。

今週の2位はこちら!「武家閑談」から真田大助です!
言わずと知れた真田信繁(幸村)の嫡男、大助の最期の様子です。内容としては非常に感動的なのですが、一方で
この手の軍記物における、父子今生の別れ譚の典型、とも受け取れる内容です。信繁がこの戦いで討ち死にする、という
結果から遡ってお話が構成されている観が強いわけですね。
しかしながらさらに考えると、このお話が成立した時、真田父子はこういったテンプレ的な感動譚を担うに足る英雄である、
という認識があったということでもあり、当時の社会における真田左衛門佐受容について、考察させてくれるとも思います。
これもまた多面的に読むことが出来る、そんなお話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!南部殿は改易されです!
南部宗秀の改易についてのお話。ただまあ、この甲陽軍鑑の、南部宗秀の記事がどこまで事実を記しているか、という事には
相当の議論があり、これを史実であったと言い切るには、多少なりとも躊躇があります。
しかしながら、「南部宗秀」を象徴とした、甲斐武田家の一門衆から、山本勘介を象徴とした信玄取り立ての勢力へ、
様々な反発、あるいは嫌悪感があり、その対立は結果的に取り立て新勢力が信玄の信任を得て勝利し武田家内で
主導権を握った、ということを顕した話というふうに読むことも出来そうです。ある種の神話についての解釈みたいですがw
ともあれ、武田信玄という強烈なキャラクターの前に隠れがちな、武田家内部にもあった様々な軋轢、というものを
なんとなく察せられるお話でもある、なんて感じました。


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2023年02月22日 16:00

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「続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」 15

山本勘助と申す大剛の兵は 12

「朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆 9
武田信玄公の人を召し使い方は 9
「続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」 8
上ノ郷城攻めについて 6


今週の1位はこちら!「続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」です!
わりと有名でもある、榊原康政と平岩親吉の逸話ですね。このお話、大変良いお話であると同時に、やはりどうしても
あと付け感の強い内容でもあります。
実際にどうだったかを考えると、榊原康政はこの時期はおそらく、徳川家康の親衛隊である旗本先手役に抜擢されていた
考えられ、家康の側近くに仕える存在でした。であったとすれば、そういう存在と平岩親吉の弟が喧嘩するというのは、
兄の平岩親吉にとっても損である、という発想があってもまあ、おかしくはありません。
まあこの逸話のようにある種の清廉さを感じる内容とはある意味真逆ですが、そういう意味で、もしかすると同じようなことは
あったかもしれない。などと考えたりもしましたw

2位はこちら!山本勘助と申す大剛の兵はです!
伝説的軍師、である山本勘介が武芸においても秀でており活躍していた、というお話ですね。
そしてここから読み取れるのは、信玄の元でおそらく急激に頭角を現した山本勘介に対して、南部宗秀のような一門譜代衆の
一部からは、かなり強烈に拒絶感、不快感を表明されていたのだなあ、といった所でしょうか。
そう考えると、そう行った反発がありながら人材の抜擢を進めた信玄という人物についての印象も、また違った色を感じるかも
しれません。
それにしても刀を持って暴れている相手に対し、あえて棒で立ち向かって、殺さず捕縛する、というのは確かに達人の技ですね。
生半可で出来ることではありません。このお話が事実かどうかはともかく、こういった事はするだろうという印象を持たれていた
という事だけでも、山本勘介という人物にどれほど強烈な存在感が有ったか、という事が見えてくるような気がします。
武田家のみならず、戦国大名の家における出頭人の立場というものについても様々に考えさせてくれる、
そんなお話でも有ると思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!「朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆です!
関ヶ原の役、伏見城の戦いにおける甲賀衆の寝返りを描いたお話ですね。長束正家の家中に甲賀衆がおり、
その者が工作したという事ですが、甲賀衆といえば忍者のイメージが有り、忍者といえば家族親族であっても使命のためには
平然と見捨てる、というようなキャラクター性を思う方も多いでしょうが、こちらは「家族を人質に取った」という、この逸話を
見る限り、具体的証拠のない情報だけで寝返っておりますね。ここに、イメージとは違った、「甲賀衆」なるものの
実態を見るべきか、それとも逸話化された際に、様々な経緯が削ぎ落とされてこのような話になったのか、
色々と考えてみたくなります。
そういった部分でも面白い、そんな内容だと思いました。



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週間ブログ拍手ランキング【02/08~/14】

2023年02月15日 16:00

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「朝野雑載」から島左近の息子たち 15
久松家家宝・(雨冠に龍)蛇頭(りょうじゃとう) 15
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」 13

「続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」 12
「続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」 11

「続武家閑談」より「古田織部正の切腹のこと」 10
これはみな虚言である 10

「続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」 8
朝に志し、夕べに思うほどに 7


今週の1位はこちら!「朝野雑載」から島左近の息子たちです!
島左近の次男、三男の関ヶ原後の顛末。徳川家康の粋な(?)計らいにより、母子三人が幸せに暮らせたという
お話ですが、実は関ヶ原の合戦後の処分というのは、あれほどの大戦に関わらず大変限定的で、死罪については
「首謀者」とされた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人のみであり、逆に言えば彼らに「戦争責任」を
すべて押し付けることで、結果として「寛大な」戦後処理を可能とし、新しい体制へのスムーズな移行を
もたらした、とも考えられます。「首謀者」の三成ですら、重家らその子たちが助命されている事は良く知られて
いると思います。
このお話もそういった、関ヶ原後の家康の「寛大さ」を表すお話でもあるのでしょう。
戦国乱世の権力と言えば、やはりイメージ上の織田信長を筆頭に「無慈悲で容赦ない殺戮」という印象が強いわけ
ですが、関ヶ原後ともなると「赦すこと」が、その権力の求心力を形成するための大きなファクターになっていた、
という事も考えさせてくれたお話でした。

今週は同票でもう一つ!久松家家宝・(雨冠に龍)蛇頭(りょうじゃとう)です!
なるほど、ワニの頭部のミイラですねwおそらく舶来なのでしょうが、のちには京の御所に顕れた
怪物を射落としたもの、という伝承が生まれているのも面白い。これは武士というものがそもそも、
朝廷を守護する存在である、という武士についてのアイデンティティも絡んでいるように見え、
「武士」という存在の自己規定を考える上でも面白いお話だと思います。
それにしても天正十四年といえば、家康が秀吉への臣従をした年で、非常に緊張感に満ちていた
時期だとは思いますが、その中でこういったヘンな物を手に入れ家臣に与えるなど、どういう心持ち
だったのか、色々想像したくなりますね。そんな意味でも面白い内容だと思いました。

今週の2位はこちら!続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」です!
大坂の陣のなかでも割りと有名なエピソードの一つ、古田織部による京都襲撃未遂事件。
それについてのお話ですが、ここでは家康は織部の不審な動きに気づいていつつも、わざと
泳がせることに寄って、結果として織部の一味を一網打尽にした、という内容となっています。
結果として家康の手のひらの中で動かされていた織部や大阪方、という事ですが、逆に言えば
それほど慎重に警戒感を持って彼らの行動を監視していたとも言えます。
この事件への古田織部の関与が事実とすれば、大坂の陣の最中、大名クラスで大阪方にある意味公然と
通じていたのは、知られている限り織部だけであり、幕府としては相当の危機感を持った探索が
行われたでしょうし、彼への処分は、他の大名たちへの見せしめという面も大きかったのでしょう。
大坂の陣の裏面を想像したく成るお話の一つでも有る、そんなふうに感じました。


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2023年02月08日 16:00

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「続武家閑談」より伊賀組訴状のこと 10
「武家閑談」真田信繁の大坂城入城 10
遠州から立ち退くことは有るまじき 10

「続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」 9
「武家閑談」から越前少将忠直御事 9
「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出 9

「武家閑談」から第二次上田合戦 8
信玄公、人の御使いなされよう 7


今週の1位はこちら!「続武家閑談」より伊賀組訴状のことです!
大河にも出て来て話題となった、服部党の伊賀者たちの、その後の顛末、といった所でしょうか。
ここに出てくる石見守、服部正就は、大河に出てきた『鑓半蔵』服部正成の息子ですね。このお話にあるように、
配下である伊賀同心と対立し、自身は蟄居となりました。しかし大坂の陣の折に出陣を許されるものの、
天王寺口の戦いで家臣ともども行方不明になり、遺体不明のまま戦死とされたという、何とも不思議な結末を迎えており、
そこだけを見ると忍者集団の棟梁らしい、という感慨も受けますね。
ともあれ、戦国時代に暗躍した忍集団というものの解体、という事も感じさせるお話でも有ると思います。

今週は同票でもう一つ!「武家閑談」真田信繁の大坂城入城です!
真田信繁の大阪城入城については、様々に逸話化されていますね。大河「真田丸」では老人に扮装していた事も思い出しました。
こちらは山伏として、ですが、その山伏姿に似合わぬ佩刀に「なんだこいつは!?」となって、最後に正体が判明し
びっくりさせる、というのは創作などでよくあるパターンではありますが、このお話もおそらくは、過去の類似の逸話に
真田信繁を合わせた、というものなのでしょう。
逆に言えば、信繁という人はそういう演出をされて然るべき、というイメージがあったとも言えるわけで、
後世の人達が思う「ヒーロー」真田左衛門佐の人物像という意味で、これも貴重な史料であると思います。
そんな事も考えさせてくれたお話でした。

さらに同票でもう一つ!遠州から立ち退くことは有るまじきです!
こちらは甲陽軍鑑に有る、武田信玄の西進の際の信長と家康の対応ですね。信長の方はそれでも信玄との融和策を
続けようとし、一方の家康は、武士の意地で浜松から絶対に退かないと議決する。もちろん、これはあくまで
武田家から見たこの時の印象というべきで、実際には信長は信玄の裏切りに激怒し、絶対に許さないと
敵対姿勢を明確にしたわけではありますが、このあたりの認識の相違自体が、非常に面白いといえます。
もしかすると武田家においては、「反武田」は家康一人のことにすぎない、という理解が有ったのかも知れません。
そんな事も含めて、当時の情勢に照らしながら、様々に考察することの出来る内容だと思いました。



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2023年02月01日 16:00

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髑髏敵を取る事 13

生の松原合戦の事 10
遠州御発向の御備定は 10

信長の弓矢が締まっているとは 9


今週の1いはこちら!髑髏敵を取る事です!
このお話の中で人々が思ったのと同じように、なんとも不思議なお話ですね。不思議すぎて逆に、現実味を
感じてしまうほどです。この中間が言ったように、ほんとうにこの髑髏は彼が打ち捨てたものだったのか、
それとも武勇自慢のための作り話か、色々と考えさせてもくれます。
しかし髑髏を見ても弔うことなく逆にあざ笑うというあたりが、この時代の世相というものでもあるのでしょう。
深掘りすると色々と考えさせられる、そんなお話でも有ると思いました。

2位はこちら!生の松原合戦の事です!
立花道雪をはじめとした大友勢に対する原田親秀、林慶勢の敗北。なんというか、合戦の機微、というものを
感じさせるお話ですね。この合戦についての認識はほぼ同等であるのに、そこからさらに一枚思考が深かった
道雪が勝利を得る。このお話が事実かどうかはともかく、合戦というものは多分ににそういう、紙一重の部分で
決してしまうものだ、という考えが根底にあるのでしょう。
立花道雪がどうして「「名将」とされるのか、そのあたりの意味も解ってくる、そんな内容だと思いました。

今週はもう一つ!遠州御発向の御備定はです!
武田信玄の三河遠江侵攻、すなわち「西上」を決定した折の武田家の対外情勢認識、といった所でしょうか。
まあ全体として大雑把な感があるのですが、この時武田が、北条、上杉を軍事的に圧倒したのだと考えている部分は
面白いですね。だからこそ「西上」が可能であるという結論に達したという事なのでしょう。つまり東方の側からみて、
織田・徳川を「孤立化させた」という所ですね。
この考え方が当時の実態をそのまま表しているわけではないのでしょうが、こういった認識が武田家、また武田に
同調する勢力にあった、と考えると、またこの当時の政治。軍事情勢も違った角度から見れるのではないか、そんなことも
感じられる内容だと思いました。



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2023年01月25日 16:00

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玉虫次郎九郎の物見について 14

結城秀康と出雲阿国の有名な話 12

「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別) 11
徳川家康、贔屓について語る 11
千兵は得やすいが一将求め難い 10

御助けなされ忝なし 8
「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍) 7
松平の御家御相続繁盛となる事 6


今週の1位はこちら!玉虫次郎九郎の物見についてです!
玉虫次郎九郎の物見についての、徳川家康の評価ということですが、『戦場では眼が八つあるほどの働き』という表現は
面白いですね。観察力が旺盛で非常に多角的な情報を報告する、といった所でしょうか。ふだん”うつけ”である、というのは、
おそらくは態度、素行に芳しからぬものがあるという事なのでしょう。それが解った上でこの玉虫次郎九郎を物見として
使っているというのは、主君たる家康の器量、度量を表しているとも言えます。
また謙信や酒井忠次の物見(見分)に対して、小身である自分たちのやっていることが本当の物見である、という意識は、
物見の技術についての、一種の専門性があったことも伺わせますね。
いろいろと読み込める、そんな内容だと思いました。

2位はこちら!結城秀康と出雲阿国の有名な話です!
結城秀康と出雲阿国の、タイトル通り有名なエピソードですね。
もちろんこのお話自体は後世に作られたものであり、事実というわけでは無いのでしょうが、ここで見るべきは、
出雲阿国が「天下一の女」であると、疑いなく評価されている点でしょう。常識的に、当時「天下」において、
最高の声望を得ていた女性はこの阿国であった、という認識が前提に無いと、このお話は成り立たないわけで、
そこから、出雲阿国という女性の同時代、そして後世への影響を見て取ることが出来ると思います。
表向きとは又違った角度から考察することも出来る。そういう逸話でも有りますねー。

今週管理人が気になった逸話はこちら!御助けなされ忝なしです!
「喧嘩両成敗」といえば戦国期の分国法の特徴的な法とされ、この武田家における「甲州法度之次第」にも、喧嘩はどのような
理由であっても処罰する、と規定されており、特にこの事例は武田氏の本拠である躑躅ヶ崎館での喧嘩であり、当然強い
処罰は免れないものであったでしょう。
しかしながらここでは「親の武功」に免じて、罰の軽減が図られるなど、この法についての「現実的な運用」のあり方が
垣間見られます。それにしても、知行や同心を召し上げられるという、非常に重い制裁を加えられており、戦国大名が
「喧嘩」を防止することへの並々ならぬ決意もまた感じられます。
「喧嘩両成敗」とは何だったのか、という事を考える上でも、興味深い内容だと思いました。



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2023年01月18日 16:00

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そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆は 14

徳川家康の大高城兵糧入れ 13
大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某 13

【ニュース】家康公に迫る 静岡市歴史博物館きょう全面開館 12
徳川家康の謙譲の美徳 12
小坂新助の武勇 9

上杉謙信による席次争いの裁定 8
加藤清正の片鎌槍について 8
高坂弾正の分別立ては、 8
徳川家康誕生 7


今週の1位はこちら!そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆はです!
大谷吉継の鼻汁が入った茶を飲み干す秀吉。この逸話。吉継石田三成のものが有名ですが、実はこちらのほうが
原型であり、吉継と三成の話になったのはどうも、幕末の頃だと考えられています。つまり元々は、主君としての
秀吉の器量を称えるお話だったわけですね。それが何故三成に入れ替わったかについては、様々に考察
されていたりもします。
ともかくも、「豊臣秀吉」という人物の歴史的印象がどのようなものであったかを、端的に教えてくれる逸話の
一つだと思います。

2位はこちら!徳川家康の大高城兵糧入れです!
神君伝説における、事実上のデビュー戦といえる大高城兵糧入れ。将来の大器としてこれでもかと描写されている感が
ありますね。実際にも大高城兵糧入れは、この時の今川義元の尾張侵攻の中でも重要な作戦の一つであり、
それを任された家康(元康)への、義元の期待、評価が見えるとも言えるでしょう。そして結果としてこれを
任されたために軍勢を率いていたことが、桶狭間によって義元が滅んだ時、家康を岡崎に戻し織田勢力と
対峙させるという、今川氏真の判断にもつながったと考えています。あくまで後世の結果からの視点ですが、
「運命的」であったと言えるでしょう。
そんな事を考えさせてくれた逸話でした。

今週は同票でもう一つ!大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某です!
さすが大河が始まったばかりという事もあり、家康関連の逸話が続きますねw
その大河の主人公である家康に対し謀反を企んだ事でも有名な、大賀弥四郎(大岡弥四郎)のお話。
ここからは、主君を差し置いて自己の私的勢力を作り上げようとしていることが見えてきますね。
実際にこういう事があったかどうかは別として、大名権力の下で重臣たちが私的勢力を拡大することで
その大名家に大きな混乱をもたらす、という事例は多くあった事でもあり、ある種のリアリティを感じさせます。
そういった、権力の二元化三元化を克服したのが近世社会というものでもあり、近世の視点から見て
大賀弥四郎のやったことはやはり、悪そのものと言えるでしょう。
この大賀弥四郎事件については、様々な研究、考察がありますね。大河効果でそういったものに触れる機会も
非常に多くなったと思います。そのようなものを参考にしつつ、これら逸話を読んでみるのもまた多白いと思いますよ!
そんな事も感じた内容でした。



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2023年01月11日 16:00

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徳川家康の腫れ物と本多重次 12

「続武家閑談」から中山勘解由 10

武田信玄は剣を回して甲府に 9
「遠州怱劇」と徳川家康の遠州侵攻 8
小田原に御牢人となった 8
徳川家康と成瀬滝之助 7


今週の1位はこちら!徳川家康の腫れ物と本多重次です!
割と有名(?)な逸話ですが、書籍によって微妙に変化があるお話でもあるようですね。剛強な忠義の臣であり、家康配下の
三河者の代表ともいうべき本多作左衛門のお話。家康の一命を救ったお話とも言え、彼の覇権を成さしめた忠義譚、という
意味合いも強いように思います。
それにしても、今年の大河には今のところ、本多重次のキャスティングは無いのですね。満を持しているのか、それとも
逸話等のアクが強すぎて登場させられないのか。そのあたりも気にしつつ、視聴したいと思います。

2位はこちら!「続武家閑談」から中山勘解由です!
後北条氏の配下であった中山家範の、家康の遠江侵攻におけるお話。記事の中にも有るように、どうもこのお話は
家康が武田信玄と同盟しての遠江侵攻と、その後の信玄による三河・遠江への侵入を混同している模様です。
その上で注目すべきは、中山家範の見せた八条流馬術、実は徳川家康は、この八条流馬術の印可皆伝なのですね。
このお話の受け取り方も、様々にあると思いますが、事さらに八条流の名が出ているのは、そういう、家康と「同流」である事を
強調する意味合いも有ったのではないでしょうか。そんな事も感じた内容でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!武田信玄は剣を回して甲府にです!
武田信玄の、第一次駿河侵攻からの撤退を描いたものですね。この撤退、ぶっちゃけて言えば武田信玄の戦略敵大敗北であり、
追い詰められた挙げ句の逃走に他ならなかったわけで、とても褒められたものではありません。それをこのように、
少なくとも武田の優勢のまま「戦略的撤退」をしたかのように描いているのは、さすが甲陽軍鑑と言え、『甲陽軍鑑』が
どのような姿勢で記述されているか、その基準を見せてくれる話でも有るでしょう。
そう言う意味でも面白いのですが、この中には敵である北条側の、この信玄の逃走についての評価が記述されているのも
興味深いですね。「武田信玄は剣を回して甲府に逃げ込まれた」という言葉、おそらくは「破れかぶれになって逃げた」
という意味だと思われます。甲陽軍鑑がこれを記録した意図は、おそらくは劣勢であった北条側の負け惜しみ、としての
ものだと思いますが、それでもこの武田軍の行為について武田以外の視点を与えてくれる部分でしょう。
甲陽軍鑑における数少ない信玄の敗北についての記事でもあり、そういう意味でも、興味深いお話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また、気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやって下さいね!
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週間ブログ拍手ランキング【12/28~01/03】

2023年01月04日 16:00

12/28~01/03のブログ拍手ランキングです!


そなたは固陋の頑夫であるな 13

信玄公の賢き御智略の故である 8

その日に目出度く御祝言を上げた 6


今週の1位はこちら!なたは固陋の頑夫であるなです!
こちらは臣従を求めた上杉謙信に対する長野業正の反応、という内容ですね。あくまで正当性を重視する、山内家の「忠臣」
長野業正らしいお話だとも言えるでしょう。
長野業正についても近年色々と研究が進み、まあ良くも悪くもその「実態」が見えてきたわけですが、それはともかくとして
ここでは、後世において長野業正とはこのような人であると認識されていたことが重要だと思います。
上野国箕輪周辺において、結果として武田の滅ぼされた長野家の長野業正は何故にこのような、ある種の神格化が
成されたのか。それにはこの地域の歴史と強く関わっていると考えられるでしょう。
そういった面でも、色々と興味深い内容だと思いました。

2位はこちら!信玄公の賢き御智略の故であるです!
武田軍の、いわゆる第一次駿河侵攻に対して派兵した北条に対する対応のお話ですね。
結論から言えばこの時武田軍は駿府を占領したものの、北条の出方を読み誤り、また同盟者であったはずの徳川家康の
外交に翻弄され、更に兵糧不足に陥るなど窮地に陥り、結果的に撤退する羽目になるわけですが、ここからはそのような
窮状など微塵も見られないあたり、さすが甲陽軍鑑であるな、とも感じますw
それにしても武田が北条のことを、同じく上杉謙信を敵としながら「北条は謙信の領地と遠く離れているので本気の戦いは
していない!フェイクである!」みたいな表現をしているのがちょっと面白いですねwおそらく同時代にも、このような形で
他者を見下す認識はあったと考えられ、戦国大名の、ある種の「ナショナリズム」を感じさせるようにも思います。
基本的には武田の「敗北」のお話でも有るわけで、それをどう糊塗しているか、色々と読みどころが有る、そんな
お話だとも思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また、気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンをおしてやってくださいね!

そして新年初めてのブログ拍手ランキングでもありますね。
本年もボチボチとやって参る所存であります。よかったらまたまったりと、見守ってやってください。

まとめ管理人・拝

週間ブログ拍手ランキング【12/21~/27】

2022年12月28日 16:00

12/21~/27のブログ拍手ランキングです!


面倒だから黒川を攻め破れ 15

日比半右衛門と米村市之丞 14

目出度く来年の御祝言、相調いました 9
であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう 9
近衛応山と本阿弥某 8
これ皆、寺を壊した仏罰であろう 7


今週の1位はこちら!面倒だから黒川を攻め破れです!
上州黒川谷をめぐる由良国繁家中の混乱、といった所でしょうか。それにしても本当に、ぐだぐだと何の決着もつかないまま
疑心暗鬼だけが膨らみ被害者だけが無駄に増えていく、という内容は、一周回って実にリアルであり、「乱世」というものの
本質はこんなものだよなあ、なんて感じさせます。結局は、「他者への信用」というものが地に落ちた世界なので、
暴力で屈服させる解決法が多用され、それがさらに人や勢力の間の信頼を低下させる悪循環。
このような社会を変えたのは、「天下人」という誰よりも強い武力の成立、であったことに、なかなか複雑な思いを
感じる向きもあるでしょう。
ともあれ、戦国乱世の有り様の一つを、非常によく切り取った内容でも有ると感じました。

2位はこちら!日比半右衛門と米村市之丞です!
大阪冬の陣における、片桐且元家臣・日比半右衛門父子と、大野治長び兵・米村市之丞の戦いの様子。
武士らしい、といえば非常に武士らしいお話であり、「戦闘者」としてのあり方がよく出ているお話です。
一方でこの事を、これを編纂した貝原益軒が批判しているのも興味深く、中世と近世の、武士や戦いというものに対する
感覚の違いを如実に感じられる内容のようにも思います。
またこのお話について、コメントの方で非常に興味深い内容が書かれており、こういった知識を得ることが出来るのも、
双方向の発信ができるネットならでわだなと、こういうブログをやっていて良かったと感じております。
そう言う意味でも感慨深い内容でした。



今週も、たくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます。

そして、この週間ランキングも今年最期となりました。本当に早いものです。
本年は私的にも環境が大きく変わってしまう出来事などあり、正直非常に落ち着かない年でした。
そのような中でもこのブログを続けられたのは、ひとえに本スレの投稿者のみなさん、そしてここを見て頂いている
みなさんのおかげであると、心から感謝しております。この場を借りて、御礼申し上げます。

少々早めではありますが、来年もまた、宜しくお付き合いして頂けると幸いです。
新たな年が、皆様にとって良き一年となりますように。

まとめ管理人・拝
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週間ブログ拍手ランキング【12/14~/20】

2022年12月21日 16:00

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足軽大将の横田十郎兵衛が 15

親の加賀守の分別を以て 11
この徳山五兵衛の分別のために 11

拙者の人数はいよいよ繰り越しで 7


今週の1位はこちら!足軽大将の横田十郎兵衛がです!
こちらは武田家の将・横田康景が上野国和田城の籠城戦で活躍したお話。山本勘介もそうですが、『甲陽軍鑑』を見る限り、
武田信玄という人は足軽大将という存在を非常に重視していたフシがあり、「武田軍の強さ」というのは、この足軽大将層の
充実による所が非常に大きかったように感じられます。
この「足軽大将」足軽部隊を統率するという以上に、その備において侍大将の下で、実質的にその軍の作戦行動計画の
立案、運用を主導した存在だったようで、少なくとも武田軍においては、侍大将は象徴的な存在であり、実際の部隊首脳は
あくまでこの、主に実力で取り立てられた足軽大将であった模様です。また、であるからこそ横田を始めそういった層が
多く討ち死にした長篠以降の武田軍の再建は、非常に困難なんでもあったのでしょう。
武田の軍隊の体質を考える上でも、興味深い内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!
親の加賀守の分別を以てです!
こちらは割と有名な、鍋島直茂の関ヶ原に於いての逸話ですねー。直茂が東軍へ兵糧を献上したことで、鍋島家が
無事に存続できた、という内容ですが、このお話の中には出て来ないものの、前提として直茂の嫡子である勝茂が
この時西軍に付いて活動していたことを知識として持っておくべきでしょう。
勝茂は直茂からの忠告によって中途に西軍から寝返り、このため結果として、ギリギリのところで鍋島は取り潰しを
免れるわけなのですが、この逸話はおそらく、事実かどうかは別として、鍋島が取り潰しを免れた筋の通った理由、として
世間に流布したものなのでしょう。本能寺の理由として光秀が信長から虐待された、という話もそうですが、世間というものは
大きな事件において、この手の「一見納得できる」理由を求めたがるものですし。
まあこういう話が世間に流布するほど、関ヶ原直後の鍋島家の立場は危うかった、という事でもあるのでしょう。
そんな事も思わせてくれた逸話でした。

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週間ブログ拍手ランキング【12/07~/13】

2022年12月14日 16:00

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最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとは 18

松平信康に見出された踊り手 15

宍戸氏の毛利氏への帰順 12
この徳山五兵衛の分別のために 9
佐橋甚五郎の事 9
福永丹波守の降伏 9


今週の1位はこちら!最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとはです!
>今朝俄ニ最上殿
>申入候て、只今御帰候、
>右御酒 佳肴至而
>恨入候、大咲、如何
>様以筆可
このあたりが該当の部分でしょうか。
豊臣政権が成立すると、地方大名は京都、上方の人々と否応なく社交する必要ができ、上方流の社交に慣れていないため
恥をかく、という話は間々あったようで、有名なのは東北の大名、南部信直の書状でしょうか
時代の変化
このお話もおそらく、そういったお話のひとつなのかもしれません。或いは最上義光が開き直って、あえてこういった行為に
出た可能性もありそうです。
歴史の表舞台には中々出てきませんが、その時代のリアルな空気、雰囲気を感じさせる、そんな内容だと思いました。

2位はこちら!松平信康に見出された踊り手です!
なにげに、永井直勝が世に出るきっかけのお話ですね。実際直勝は松平信康に仕えていたらしく、このお話も
そういった事実の一面を伝えていますね。まあ直勝の父である長田重元は家康に重用されていた武将の一人であるので、
踊りで見出されなくても普通に世に出たとは思いますがw
こういった逸話が著されたのは、彼がイケメンであった、という事が大きかったかもしれません。
そんな事も感じたお話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!宍戸氏の毛利氏への帰順です!
宍戸氏といえば、これも源頼朝の有力御家人であった八田知家の子孫とされるのですが、その家伝では
源義朝の十男の子孫、と称していたのですね。有名な源義経が九男で九郎ですから、その下の弟という事ですね。
ここで元就は、その家伝の方を採用し、自分たちは頼朝の家来筋なのだからそちらに降伏するとへりくだっているわけで、
つまり宍戸家をそのくらい尊重していると表明しているわけです。
これに宍戸元源も、家の面目を満たしてくれたと、元就に対して好意的な対応をするわけで、まあこの時代の
大人の会話でもあるのでしょう。
結果としてこの宍戸氏の「臣従」は毛利を大ならしめることに大きく貢献しました。
故にそれを主導した元就の「神眼」を強調する意味でも、或いは江戸期毛利家の重臣としての宍戸家の家格のためにも、
こういった逸話は重要だったのでしょうね。
そんな事を考えさせてくれた内容でした。



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週間ブログ拍手ランキング【11/30~12/06】

2022年12月07日 16:00

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減刑を命ず 11

武田の家があらん限りは 9
蒲生飛弾殿の家は、代々癖があると 9

御行儀悪敷御座候 8


今週の1位はこちら!減刑を命ずです!
上杉謙信が「刑罰と言っても人の命をむやみに奪ってはならない」とした逸話ですね。
このお話、酒を盗んだだけで死罪になっていますが、これは中世的には、食物を盗んだ者は死罪という事が。
わりと常識であったようで、例えば九条政基の「政基公旅引付」には、病気の母のために娘が村の食料を盗んだことで、
母娘もろとも村人に寄って殺された事が著されています。中世は慢性的な飢餓状態であった、とも言われており、
そのように苛烈な刑罰を科すことが、一種の社会防衛でも有ったのでしょう。
その上で、謙信がそう言った規定を考え直せとしたことは、近世的感性への、緩やかながら移行を感じさせる内容でも
あります。
このお話自体、近世の価値観から描かれたものだとは思いますが、価値観の移り変わりもどこか著されている。
そんな感想を持ちました。

2位はこちら!武田の家があらん限りはです!
こちら、武田信虎が将軍・足利義輝に対面した時の感動が描かれた内容ですね。
ここで信虎は、将軍が広縁まで彼を見送ってくれたことを、これこそが武田の家格故であると、多少興奮気味に
報告しているわけですが、「家」が人々の価値観の中心にあった時代、確かに興奮するに足る出来事であったのでしょう。
その上で、「侍という存在がある限り公方が絶えることはない」と言っているあたり、足利将軍こそが当時の武家の
家格秩序の中心にあり、である以上、足利将軍には有って貰わなければ困る、という、当時の多くの武士が共有していた
感覚が、ここにも表されていると思います。だからこそ永禄の変は主に地方の武士たちから強く批判されましたし、
義昭などによる足利将軍の復興が支持されたのも、そういった感覚ゆえの面があったと考えられます。
この時代の足利将軍の権威とはなんで有ったか、という部分を感じられることも出来る、そんなお話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!蒲生飛弾殿の家は、代々癖があるとです!
こちらは割とシンプルなお話ですね。蒲生家は代々優れた君主と凡庸な君主が代わる代わる現れる、というお話。
この「川角太閤記」は江戸初期の成立とされますから、つまり氏郷の後を継いだ蒲生秀行の事を、間接的に
揶揄しているお話でもあるのでしょう。実態はともかく、おそらく世間的にはそう思われていたのでしょうね。
実際には代々有能無能というよりも、氏郷の時にたまたま、才能と運と環境ががっちり噛み合った、という事に
過ぎないとは思いますが、そういった「運」の面は、今も昔もなかなか評価してくれませんね。
そんな事も感じさせてくれたお話でした。

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週間ブログ拍手ランキング【11/23~/29】

2022年11月30日 16:00

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是式の事は中々不苦候 13

貴所よりは位が上であるのだから 12

玉にもぬける一柳か 10
「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて 9
近国の野郎の種を断つことが 6


今週の1位はこちら!是式の事は中々不苦候です!
戸次川の戦いの豊臣側の敗北とそれについての黒田官兵衛の反応ですね。この川角太閤記の、戸次川の戦いの内容として
興味深いのは、最初豊臣勢は島津相手に勝っていたのが、途中で豊後の国人たちが蜂起したために敗れたのだ、という
部分でしょう。一般的には、仙石秀久、長宗我部父子をはじめとした豊臣勢は、鶴ヶ城救援のため無理に渡河を決行し、
そのため島津軍の策略にハマり敗北したとされます。ここではむしろ、予測できなかった不可抗力で敗北したのだ、とも
読める内容で、或いは畿内には、このように伝えられたのかもしれません。
そして黒田官兵衛が、仙石や長宗我部父子、或いは十河勢の敗北を「なんの問題もない」と言い切っているのも
面白いですね。これは結果として官兵衛の言う通りに、畿内より大軍が送られると島津はほぼ一方的に敗北した事から
著された理由でも有るのでしょうが、官兵衛の戦略眼の優秀さを表現してもいますね。
これも色々と読み込める、そんなお話だと思いました。

2位はこちら!貴所よりは位が上であるのだからです!
有名な秀吉の「天下友達」の逸話ですね。この頃の秀吉はまさに絶頂期と言え、それを象徴するお話でも有ると思います。
このお話についての受け取り方は、おそらく2種類あって、一つは秀吉の大気、あるいは洒脱さを顕し、「英雄秀吉」を
彩る逸話の一つだとするもの。そしてもう一つは、晩年の秀吉についてよく言われる、一種のパラノイヤ、誇大妄想の兆候が
この時期既に出ていたのだ、というものだと思います。
個人的に面白いのは、「自分は関白だから頼朝より位が上だ。」と言っている部分ですね。これは頼朝が象徴する
「征夷大将軍」位についての、秀吉の認識も表しているのではないでしょうか。藤原摂関家は、特に室町後期になると、
格的に室町将軍とほぼ同格、と、世間的に認識されていたフシがあります。しかし秀吉によって始まった「武家関白」は、
将軍より偉い、という明確な認識が有り、頼朝との関係性に仮託してそれを世間に表明したのだ、なんてこともふと
考えてしまいました。妄想も含めて、色々と考察できるお話だな、などとも思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!「豊筑乱記」から戸次川の戦いについてです!
こちらも戸次川の戦いについてのお話ですね。しかし何故に、仙石秀久と長曾我部元親を一体化してしまったのか。
歴史モノの創作で、キャラが増え過ぎると管理しきれないから、一人の人物に、史実では他の人物がやったことも仮託する、
という手法がよくありますが、この場合はそういった話でもなく、何というか、ただただ雑という感もあります。
しかしこの「豊筑乱記」、単純にそういった「雑」な軍記というわけではなく、むしろ、大友家についての代表的な
軍記である「大友記」「大友興廃記」をある意味補完するような内容であり、著者、成立年代も不明ながら、
なかなか一筋縄ではいかない書籍でも有るようです。
ちょっと真面目に考察、研究してみたく成る、そんな軍記であり、このお話もただ雑と見るのではなく、何かしらの意図が
有るのではないか、なんて考え過ぎもしてみたくなってみましたw



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週間ブログ拍手ランキング【11/16~/22】

2022年11月23日 16:00

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【ニュース】立花家史料館の収蔵物について 14

小河内蔵允の出世 12
秀吉の推量は少しも違わなかった 10

「中尾落草紙」から、後藤一族の最期 8
内蔵助を攻める軍勢を出すべし 6


今週の1位はこちら!【ニュース】立花家史料館の収蔵物についてです!
このお知らせ、やはり感心を持った方が多かったようです。こういった展示系の施設は、どこもこの長いコロナ禍で、
苦しい運営を科されています。僕たちは、立花家史料館がそのような中、時にはクラウドファンディングなど外部の手を
借りながら、様々に努力したことを知っています。その上でのこういった決断ですから、私たちとすれば、前向きに
受け入れるしか無い、とも考えます。
ともかくも、関係者の皆さんへの感謝と、できる限り良い方向での結論となることを、祈念するばかりです。

2位はこちら!小河内蔵允の出世です!
これも非常に面白い内容ですね。小河之直には武功らしい武功は無いものの、愚直と言っていいほどの誠実さで
出世していき、最終的に黒田家の宝とも呼べるような存在に成ったということ。
このお話、実態として本当にこのようだったのか、という事よりも、ここに描かれた小河之直のあり方が、
理想的なものであると考えられた、という事の方が重要だと思います。つまり、「古郷物語」の描かれた頃の
近世黒田藩にとっては、武功の数を誇るような武士よりも、誠実に忠実に、主君に、家に仕える存在こそが重要であり、
評価される存在なのだという認識が描かれたというべきでしょう。
このあたりから、近世初期の意識変化を垣間見ることも出来るかもしれません。そんな事も考えさせてくれた内容でした。

管理人が今周期になったお話はこちら!秀吉の推量は少しも違わなかったです!
このお話の収録された『川角太閤記』、成立は江戸初期と考えられています。そういった時代背景を考えれば、
この時点で既に秀吉が、家康を非常に恐れ、また高く評価しているように描写されているのも、腑に落ちやすい
かもしれません。
その上で秀吉の天才的な洞察力が描かれ、やはり不世出の英雄と見て取れる構成になっていますね。
川角太閤記のこのような秀吉像も、後世の秀吉というキャラクターの造形において、大きな影響を与えたのでしょう。
『川角太閤記』では、ある意味実力伯仲といった感のある秀吉と家康の両雄ですが、来年の大河ではどのように
描かれるのか、それも楽しみにしたいと思います。



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週間ブログ拍手ランキング【11/09~/15】

2022年11月16日 16:00

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信虎みなちがひなりと思ふ 12

飯富兵部少輔が御成敗なされたその仔細は 10

信玄公秘蔵の足軽大将衆は 7


今週の1位はこちら!信虎みなちがひなりと思ふです!
『甲陽軍鑑』に見える、武田信虎が、信玄の派遣した日向源藤斎に対し、自身のかつての信玄への接し方への反省を
述べた、というお話ですね。
このお話、基本的には信虎から信玄への和解を呼びかけたお話と見るべきなのでしょう。なので信虎の言葉も、
信玄にその気にさせるような内容として語ったものでしょうから、これが即本音とは言えないとも思えます。
信玄は、というかおそらく信虎追放を主導した家臣団はずっと信虎を警戒していて、信玄の生前は勿論、
勝頼の時代に入っても、甲斐国に入ることすら許しませんでした。それほど恐れられていたと言うべきか、
或いはここから信虎という人物の人徳の無さを見るべきか、このお話一つからも、様々な武田信虎像を
想像できそうです。そんなお話でも有ると思いました。

2位はこちら!飯富兵部少輔が御成敗なされたその仔細はです!
こちらも『甲陽軍鑑』に描かれた、「義信事件」の中で誅殺された飯富虎昌についての、その誅殺理由ですね。
これを読んでいてふと、織田信長が佐久間信盛を追放した時に書いた「佐久間信盛折檻状」の内容に、非常に似ていると
感じました。特に諸将の面前で主君に、ある意味恥をかかせたという部分はたいへん似通っていて、家臣粛清について
こういった事は共通する理由になったのですね。「重臣」を排除するときの理屈というものは、武田も織田も、どこの家中も
基本的に同じようなものではなかったか。そんな事を考えさせてくれた内容でした。



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週間ブログ拍手ランキング【11/02~/08】

2022年11月09日 16:00

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何事につけても、最も身が危うく見えるのは 14

「笹子落草紙」から鶴見の最期 11
【ニュース】キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人 11

「いさみ賢き大将かな」と 10
義元公と弾正忠子息の和睦が 10

城介殿が若衆の時に 8
この二ヶ条を以て、信玄公と義信御父子の仲は 7


今週の1位はこちら!何事につけても、最も身が危うく見えるのはです!
柴田勝家を滅ぼした秀吉に対し、その勢いのまま佐々成政の越中を攻略すべきだとする前田利家に対し、
信長の長篠の戦いの例を出してやんわりと嗜めるというお話ですが、「勢い」というものは基本的には信じる
べきではない、という「大将の心得」のようなものを感じるお話ですね。
興味深いのは、長篠での大勝の後、秀吉すらもそのまま甲州へ乱入するだろうと考えていた、という部分でしょうか。
実際には織田信長という人は非常に慎重なひとであり、長篠だけでなく、例えば桶狭間のときも大勝に乗じて大攻勢をかける、
といった事をしませんでしたし、あの甲州征伐の時ですら、必要以上の攻勢には否定的で、突出した織田信忠に対し
何度も自制することを求めているほどです。信長は、調子に乗りすぎるて足者をすくわれる事を非常に恐れていたとも
言えそうです。
しかし利家としては、この期に自分にとって最大の脅威である佐々成政の勢力を潰しておきたい、という望みも正直な
所でしょうし、しかし信長の先例を出されては利家的には何も言えなく成る、という面もあったでしょう。
色んな意味で秀吉の「上手さ」も感じさせる、そんな逸話でも有ると思いました。

2位はこちら!「笹子落草紙」から鶴見の最期です!
真里谷武田氏の内紛における「鶴見」の最期。しかしこの内容を見ると、この人も正しくウォーモンスターですねw
鶴見の三人張りの弓から放たれた矢が「十八枚の重ね盾をばらばらに破り、後藤の鎧の草摺を射貫いた」など、文飾としても
やり過ぎを感じさせるほどです。生半可な銃弾よりも凄そうです。
しかしこのような勇猛無比の侍も力尽き倒れる時は、見苦しく足掻くこと無く潔く命を差し出す。
こういった面こそ武士、特に坂東武士の理想であったのでしょう。
北条や千葉氏などを巻き込んだ乱の内容も興味深いのですが、ここに描かれている武士のあり方というものも又
様々に考えさせてくれる、そんなお話だと感じました。

今週は同票でもう一つ【ニュース】キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人です!
いやあ、キムタクすごいwもちろん「織田信長」のネームバリューとキムタクのネームバリュー、そしてコロナ禍で
中止を余儀なくされていた「信長公騎馬武者行列」の3年ぶりの開催、という様々な要因が重なった上だとも思いますが、
そういった諸要因をさらに加速させたのはやはり木村拓哉という存在なのでしょう。
キムタクってとんでもない大スターなのだな、なんてことを改めて感じさせてくれたニュースでもありました。


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2022年11月02日 16:00

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海野平の対陣 12
織田七兵衛殿は日向守と 12

義元公と弾正忠子息の和睦が 9
いやしくもこの晴信、人の使いようは 8


今週の1位はこちら!海野平の対陣です!
『甲陽軍鑑』に天文18年(1549)の出来事として記されている、長尾景虎との海野平の対陣。コメントでも指摘
されていますが、これが実際にあったかどうかは何とも言えず、他の合戦のことを混同していたとも取られ、
『甲陽軍鑑』特有の「記憶違い」かなあ、などと考えられます。その上で、武田家中における長尾景虎(上杉謙信)への
印象、また、当時の武田家が、敵対する勢力からどのように言われていたかを見て取れるのも面白いと思います。
その上で安易に決戦を受けない信玄のあり方を、『良き大将の奥意』なんて反発していたのですね。
全体的に史実かどうかは別にして、当時の武田家の「自意識」や「他者認識」を知る上で非常に良い逸話だとも思いました。

今週は同票でもう一つ!織田七兵衛殿は日向守とです!
こちらは『川角太閤記』の、津田(織田)信澄謀殺についてのお話。一般的に信澄の殺害は、織田信孝や丹羽長秀らが
独自に彼を警戒し処置したものと考えられていますが、ここでは秀吉からの示唆があったとしており、これが事実かどうかは
時系列的に見れば疑わしいものでは在るのですが、川角太閤記の書かれた時点で、そのような認識があったことは
確かなのでしょう。その上でこの事について「このようであったからこそ、明智の叛乱は収まった」と高く評価しており、
明らかに秀吉の判断を称賛している事を見ると、秀吉の時代の、秀吉称揚譚の一つになっていたのかな、とも感じます。
どうも天下取りの過程で秀吉は、本能寺後の「明智退治」の功績を自身に集中させる宣伝を行っていたフシがあります。
このお話もその一環ではないなと感じました。
秀吉の自己宣伝というのは相当後世まで影響を与えており、現代の僕たちもそこからどれほど自由かどうか。
そんな事も考えさせるお話でもありました。


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