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週間ブログ拍手ランキング【09/12~/18】

2019年09月18日 14:42

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藤堂高虎『遺訓二百ヶ条』、人斬り実践編 14

香川氏と言えば… 8

馬の怨霊 6
文字を介した時のみ互いに了解する 6
大阿武船解体までの顛末 5

一人も洩らさず討捨てたるは一段と気味能き 4
権左衛門の従者を打捨てに仕るのは 4
鷹と狐とキリスト教 4

座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、一器量あり 3
清正公は石垣普請の御上手で 3


今週の1位はこちら!藤堂高虎『遺訓二百ヶ条』、人斬り実践編です!
本当に、実戦感覚に裏打ちされた、非常に生々しい内容ですね。こういう事は確かに、江戸期であっても道場などでは
伝承されにくい内容でも有ったのでしょう。
全体的に、見た目の格好良さよりも確実性を非常に重視しているように思いました。鑓で突いたらそれを捨てる、家臣を打ち取る時
に一刀だけで様子を見てはいけない、などなど、戦場でも日常でも命のやり取りの多かった時代の経験則の厚みを感じさせますね。
こういったこと、確かに高虎だけでなく、多くの家でも伝承されていたのでしょう。
非常に時代の空気を感じさせる、そんな内容だと思いました。

2位はこちら!香川氏と言えば…です!
いわゆる西遷御家人、西遷武士についてのお話ですね。
源平合戦での勝利、承久の乱などで主に西國に多くの没官領を得た鎌倉幕府は、そこを御家人である東国武士に褒美として
与え、このため多くの東国武士が西國に移住します。鎌倉幕府は基本的に頼朝の挙兵に参加した武士団の権利保護団体の
性格が強く、故にその御家人はほとんどが武蔵相模を中心とした東国武士であり(鎌倉幕府はその滅亡まで、非御家人の武士
(西国一円地住人など)を御家人として取り込むことはありませんでした)、多くの東国武士が西国にも勢力の根を張る事に
なりました。香川氏は承久の乱の功績で安芸・讃岐に領地を得ての西遷ですね。有名なところだと毛利氏、小早川氏、吉川氏は
全部西遷御家人の出自ですし、九州でも大友氏、伊東氏など。島津氏はもともと京の近衛家の家令であったとされますね。
西遷御家人というのは実は、長いスパンで日本の歴史に非常に大きな影響を与えた存在ですね。故に研究も割と活発な
印象があります。興味の有る方は、ぜひ調べてみて下さい!
お薦めはこの当たり

武蔵武士団
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b165193.html

相模武士団
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b307781.html


今週管理人が気になった逸話はこちら!鷹と狐とキリスト教です!
キリスト教の奇跡(?)で逃げた鷹が見つかり狐憑きが治るお話。イエズス会の報告書間などを見るとすぐに目につくのが、
この手のキリスト教の信仰による、あるいは聖水、十字架を用いての奇跡、奇瑞によって病気を治し困難を脱するという
事例の記録の多さです。信仰のおかげで様々な現世利益を受けたということで、この当たりは仏教説話などとまるで変わりません。
綿密に、組織的に記録していったという意味では当時の仏教よりもある意味露骨かも知れませんw
ただ、宗教の本質的な部分はやはりこういう部分にあるのでしょうし、キリスト教も、外来宗教、あるいは世界宗教であると言っても
そこは変わりなく、故に戦国期のキリスト教についても、勿論その存立には様々に特異な部分はあるといっても、宗教としては
相対化して見たほうが良いと思います。そんな事を考えた逸話でした。


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週間ブログ拍手ランキング【09/05~/11】

2019年09月11日 13:58

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政宗最後の日光参拝 19

働いた茶湯 7

彼等は甚だ無遠慮で、殊に外国人にはこれを軽蔑し常に嘲罵する。 6
【ニュース】400年ぶりに復元される亀甲船、龍頭・鉄甲のようなものはない=韓国 6
下および豊後教区の諸領主 6

或いは彼以前にはかつて見なかった事であった 4
宣教師たちは、その豪奢な生活のため他より憎悪されている 4
加藤左馬助殿は常に動かない人である 4

なにゆえその始めよりその教えを当地方に弘布せしめず 3
かの一類を成敗すべし 3


今週の1位はこちら!政宗最後の日光参拝です!
老いた政宗、おそらく足腰も弱っていたのでしょう。しかし転倒を、参拝をここまでにせよという「お告げ」と称したのは、
政宗の強がりにも感じますね。しかしこういった強がり、弱みを見せない事も、戦国を生き抜いてきた大名として必要だったのかも
知れません。最後にはらはらと涙を流す政宗からは、自分の生き抜いてきた激動の時代が、自身も含めてとうとう終わるのだという
感慨や、様々な想いのこもった涙であったのでしょう。
後世の僕たちにもいろいろなことを感じさせる、そんな記録だなと思いました。

2位はこちら!働いた茶湯です!
千道安のこの逸話、利休のものとして伝えられているものもありますね。
花入はご覧になりましたか
こちらは椿ですが、利休の茶湯にはこういう傾向があったのは確かなのでしょう。あるいは逆に、利休が道安のこのような趣向に
影響を受けたのかも知れません。なにはともあれ、千家の茶湯とがどういうものか、その一端を感じさせる象徴的なお話の
一つだと思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!或いは彼以前にはかつて見なかった事であったです!
関白に就任する前後の秀吉についてのフロイスの観察ですが、ここで目を引くのは秀吉の権力について
>今日まで甚だ稀な、或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。
と表現している所でしょう。勿論秀吉が自己の権威権力を高めるため大いに宣伝したことも有るのでしょうが(信長が
関白の位を望んでいたが与えられなかった、など)、フロイスは信長の時代も当然、かなり詳細に知見しているわけで、
そんな彼から見ても秀吉権力は信長のそれを遥かに凌駕する、という印象があったというのは、興味深いと思います。
逆に言えば信長権力は、現在においてイメージされがちな絶対的なものではなく、相当に制限されていた権力であった、
と見ることが出来るかも知れません。
フロイスなど宣教師の記録を見る時は相応の注意も必要ですが、当時の日本人とは異なる視点からの観察は様々な示唆を
現代の僕たちに与えてくれます。この内容もそういう物の一つだな、なんて感じました。


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週間ブログ拍手ランキング【08/29~09/04】

2019年09月04日 17:29

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【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明 13

はたして後日、言葉の通りに成った 11

ひとりには 塵をもをかじ ひとりをば 10
伊藤一刀斎と船頭 9
あまり顕栄でない血統の一貴族 9

伴道雲が御馬口に取り付き 8
足ノウラヲカク 8
御師範などとは事おかし 8
「万千代!万千代!」 8
只今石田を殺したならば 8

左吉の容貌起居は他に優れたことによって 6
冥加尽きて逆心があった 4
「日頃の数寄が出た」 2


今週の1位はこちら!【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明です!
豊臣秀吉より加藤清正嘉明に与えられたとされる、十字洋剣(レイピア)についての記事、しかも日本製、というニュースです。
東京文化財研究所の見解によると、このモデルとされたものは『1600年から1630年の間』に制作されたもの、との事ですので、
伝承の秀吉から嘉明に与えられた、という話とは時期的に齟齬が有りますが、少なくとも近世初期に、何らかの目的で西洋剣を
国産化する試みが一部にあった、という事は言えるのでしょう。このあたりは今後の研究を期待したいところですね。
なにはともあれ、様々に想像の膨らむニュースだと思いました。本当に今後加藤嘉明がゲームなどに出る時は、レイピア使いに
成るのでしょうねw

2位はこちら!はたして後日、言葉の通りに成ったです!
こちらは山中鹿介による、初陣の武士二人に対する見解ですね。戦国期の記録、あるいは覚書等の多くにも、初陣の時は
強い恐怖に襲われ視野が極端に狭くなり、何がどうなっているか解らなくなる、というような事が書かれています。それは
戦場においての、偽りのない素直な感想だったのでしょう。そんな中でも武功を挙げられるような人物こそ、武功の士へと
成長できる可能性がある、と見られていたようです。おそらく戦場の危険性を肌できっちりと感じていて、その上で鑓働きが
出来る事が合戦における才能であると言うことだと思います。であれば、この逸話の二人目の武士のように、初陣でも冷静に
過ぎるほどの観察が出来ている場合、戦場の危険性を感じていないのだ、という事になるのかも知れません。「拾い首か、
そうでなければ討たれてしまうだろう」とう言葉は、戦場における危険性への鈍感さを言っているのだろうと感じました。
多くの合戦を生き延びてきた古豪とも言うべき山中鹿之介らしいお話だな、なんて思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!あまり顕栄でない血統の一貴族です!
フロイスによる毛利家についての記述ですが、実に詳細かつ正確に把握していたのだなと感心します。これはおそらく、毛利が
彼らキリシタンを庇護した大友家に於いて、長らく正面の敵だったこともあるのでしょう。敵だからこそ、その内情をしっかりと
把握していなければならない、という事ですね。逆に東国に関しては非常に適当です。徳川家康に関しても長く「織田信長の
義兄弟」と記していますし。こういった地域による理解の粗密も、キリシタン史料を見る時には気をつけるべきだと思います。
それにしても隆元を含めた毛利三兄弟を『皆武勇と才幹の有る者』と表記しているのは興味深いですね。当時、世間的に、
あるいは大友家周辺において隆元も、「武勇と才幹」の人物であるという認識があったことを顕しているのでは、なんて思いました。


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週間ブログ拍手ランキング【08/22~/28】

2019年08月28日 15:21

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愛姫、服を仕立てる 17

北野大茶会の事 11

井伊直孝の御貯え 9
その一言は大きな誉れである 9
その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かった 9

重ねを厚く、大平に御打たせなさり 7
森の美作殿、屋敷の池に化け物すみし事 5
重大にして過酷なこと 4



今週の1位はこちら!愛姫、服を仕立てるです!
後世には「伊達者」と、そのファッションの華麗さを伝えられた伊達政宗ですが、彼の装束は妻である愛姫のお手製であったの
ですね。非常に興味深い内容です。政宗や伊達家の装束の華麗さはその当時から評判であり、それが伊達家の特徴とも
成っていたわけですが、この内容からすれば、そういう伊達家の特質を造ったのが、愛姫であったと言えるのかも知れません。
それにしても、服飾において布の裁断というのは、サイズや模様の位置まで、完成品をきっちり頭にイメージできていないと出来ない
ものです。それを一人でやっていたというのは、相当の服飾センスの持ち主であったと見ていいのでしょう。まさに政宗の
ファッションデザイナーであり、ある意味では政宗のプロデューサーであったと言っていい気がします。
また大名の正妻についても、色々認識を新たにしてくれる、そんな内容だと思いました。

2位はこちら!北野大茶会の事です!
北野大茶会についての思い出が描かれた、貴重な体験記であると思います。
この北野大茶会、『多聞院日記』には「信長の京都馬備えを模倣したもの」揶揄されています。茶湯と騎馬パレードでは
イベントとしてまるで異なるようにも思うのですが、どうも馬備えのコンセプトを茶湯に置き換えただけ、という印象があったようです。
まあこの頃秀吉は、信長所持の名物の召し上げを多数行っており、その茶器のコレクションにおいても「信長の後継者」を
アピールしていたフシが有るので、信長の行ったイベントと印象的に重ねたのも、秀吉のがやった可能性もあります。
ただ内容的には、侘び茶の競演としてシンプルで、秀吉晩年の醍醐の花見のような、非常にイベント性の強い内容とは一線を
画している感もあります。
しかし久保長闇堂に限らず、この北野大茶会を見て、茶湯に憧れその道を目指した人々も多かったことでしょう。
色々と受け取りがいのある内容だな、なんて思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったです!
秀吉家康に対し、今まさに滅びようとしている北条氏の名誉を強く指摘した板部岡江雪斎のお話。
非常にいいお話ですね。実は昨今の研究だと、秀吉の小田原征伐は、最初の攻勢の後はわりと膠着していた、という話が
あります。小田原城も含めて、全体として豊臣軍が攻めあぐんでいたわけですね。フロイスは豊臣軍の兵糧が不足して
足軽などの脱走が相次いだ、という事を記録していたりしますし、一般にある「小田原の役は終始秀吉の軍が圧倒していた」
というイメージは修正すべきなのかも知れません。このお話は、そういう北条氏の意地の一端を、板部岡江雪斎の口を通して
伝えてくれる、そんな逸話だと思いました。


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週間ブログ拍手ランキング【08/15~/21】

2019年08月21日 16:12

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那古野山三郎の弟のこと 16

大久保彦左衛門は名誉の一徹者である 9

滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である 8
安国寺肩衝・異聞 8

推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!! 7
水中で首を取り申した 6
既に常の人とは違っていた 6

飛石を置くように成った始まり 5
赤絵の茶碗 5
カスウの大兵 4

若輩でそのうえ理に当たる故 3
堀越公方のこと 3
池田輝政の最期 2



今週の一位はこちら!那古野山三郎の弟のことです!
「天下三美少年」の一人、出雲阿国の夫、また「豊臣秀頼の実際の父」などという噂まで有ったという、いろいろな意味で
当時におけるスキャンダラスな存在であった名古屋山三郎の跡継ぎについてのお話です。
名古屋山三郎は森忠政の重臣・井戸宇右衛門と斬り合いの末相打ちしたとされ(にらみあいの松事件)、
その相続は非常に混乱の中行われたと見て良いでしょう。父・因幡守の遺言と言うのも、なんとか混乱を収め
相続をスムーズにするために作られた話かもしれませんね。
どういう状況でこの相続が行われたかを知っていると、受け取り方が様々に深くなる内容、だと思いました。

二位はこちら!大久保彦左衛門は名誉の一徹者であるです!
大久保忠教は当時から「武辺者」という評判が有ったらしいのですが、その彦左衛門らしい逸話でもありますね。
特に理屈をこねるのが実に彼らしいw単純に武辺を気取っている牢人にムカついただけなのかも知れませんが、
それをストレートに言わず言葉で圧倒するあたり、個人的にはこういう所が、あるいはこういう人だとイメージされた所が、
彼が様々な逸話や講談の中で愛されてきた所以かなとも思います。彼には確かに人文的才能があるw
そんな事をふと気づかせてくれた逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!です!
この中川清秀という人、城郭研究でも高名な中西裕樹先生の『戦国摂津の下克上─高山右近と中川清秀』によると、
荒木村重の乱の後、彼は織田信長によって「村重の後継」と認められていたとされます。山崎の合戦の折、秀吉も清秀を
「荒木瀬兵衛」と呼んでいます。また清秀は信長より「中国一両国」を与えることを約束され、息子長鶴丸(秀政)と
信長の娘・鶴姫との婚礼も成立したといいます。つまり織田一門に連なったわけですね。
さらに天正八年六月には、羽柴秀吉が、清秀との「兄弟之契約」を起請文に認めています。信長政権末期において、
中川清秀は織田家の摂津支配における最も重要な人物の一人であり、また中国攻めの指揮官である羽柴秀吉とも
深いつながりが有ったと考えるべきなのでしょう。
そこからこの逸話を見ると、もちろんこれはあくまで逸話ですが、よくも悪くも清秀の、「兄弟」である秀吉との距離の近さ、を
見て取れるのかも知れません。信長が本能寺で滅びなければ、あるいはこの後清秀が賤ヶ岳の戦いで討ち死にしなければ、
歴史上「中川清秀」の名はもっと重きを成していたと思われます。そんな事も考えさせてくれる逸話だと思いました。

紹介




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週間ブログ拍手ランキング【08/08~/14】

2019年08月14日 13:38

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さもあるべき実情の物語 19

清正は大馬鹿者だ! 11

古田織部などでもあろうか 7

露すぼこくて折られないもさ 6
信玄の国柄の兜 6
七月の盆灯籠 6
逆心がある故か 6

常々変わり者であった故 5
阿茶の局 5
遠州好み 3
朽木家の重宝 3


今週の1位はこちら!さもあるべき実情の物語です!
戦国を経験した古兵の語る戦場での心の有り様。合戦が始まるまでは恐怖に囚われ、いざ始まると心が停止した状態になる。
そんな事がなんとなく察せられます。高名な武将の回顧にも、戦場では極端に視野が狭くなる、なんて事を語っているお話が
いくつかありますね。そして「もう武士を辞めよう」と思っていたも、戦が終わるとその気持ちがなくなるというのは、戦時の
心の麻痺が、結果的に生き残ったことにより開放されたことから来る気持ちなのかも知れません。
色々と受け止められる、興味深い内容だと思いました。

2位はこちら!清正は大馬鹿者だ!です!
大阪城で罵られて化けて出た(?)清正公の霊。ここで面白いと思ったのが、この人足が人を殺す武器である鉄砲に
南無妙法蓮華経のお題目を入れている事を「不都合」と言っているところですね。つまり南無妙法蓮華経の言葉は、人殺しの道具
には相応しくない、もっと平和的、人道的な言葉であるという発想が当時広く存在したと考えられるからです。
戦国期には法華一揆として、南無妙法蓮華経の旗の元強力な武力を擁した法華の人々でしたが、江戸期には武器を象徴として
争いを忌避する意識が定着していた、と受け取ることも出来るでしょう。江戸後期の世界に清正を登場させることで、そういった
意識のコントラストも表している、なんてことも思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!常々変わり者であった故です!
織田左門(頼長)と言う人は、織田有楽の息子ですが、変わり者と言うか、非常に厄介な人物ですね。
諱「頼長」に「頼」の字が入っていることからも解るように、彼は豊臣秀頼に非常に近い人間で、側近と呼んでも良いと思われます。
大阪の陣の勃発に於いては当所から強烈な主戦派で、豊臣家をこの戦争に引きずり込んだ張本人の一人と言ってもいいでしょう。
(そもそも秀頼の側近、近習層は主戦派だらけなのですが。)
ただ、この頼長は大坂の陣直前には「織田常真(信雄)を総大将として、大阪城から秀頼も追い出して天下の兵を迎えて戦う」
なんて事を言っていたりします。織田家意識の強さ故なのかもしれませんが、やたらやる気は有るけど何がしたいのかよく
わからん、と思ってしまいます。この逸話も織田左門のそういった、気持の空回りが見えるお話だな、なんて思いました。


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2019年08月07日 14:27

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四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである 9

相手によって褒めどころが有るのだ 7
とかく物事は、心がけ次第である 7

金森出雲殿が最も目利きの巧者と言われた 6
かかる神脈は誠に神仙ともいうべきや 5
信長の唐櫃 5

清正像の怪異 4
それでは侘びの心がない 4
小督の局、名は於万の御方 3
信玄公の御使 2


今週の1位はこちら!四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのであるです!
こちら、いわゆる濃甲同盟締結における武田勝頼と信長養女との婚姻についてのお話。
この養女が遠山氏で有ることも大きなポイントで、信州に進出した武田氏と美濃に進出した織田氏にとっての国境問題は、
東濃の遠山氏の帰属問題でありました。結果として遠山氏は、一種の両属状態になるのですが、勝頼との婚姻は
その状況を保証する意味合いもあったと言えるでしょう。
それにしても「信玄公から信長への書状は1年に1度出すか出さないかだった。」というあたりも、武田家に有った信長に対する
格上意識の現れなのでしょう。甲陽軍鑑はこういった部分が細々と出てきて、そこも面白いですねw

2位はこちら!相手によって褒めどころが有るのだです!
金森可重による茶湯の褒めようについてのお話。可重くらいになると、今の人達がイメージするような「茶人」になってきた
感じしますね。芸術感覚の勝負という部分は残しつつも、全体としてその場を和ませる精神。利休的なあり方からすると
ぬるくなったのかもしれませんが、茶湯が普及し一般化しはじめたのだ、とも取れると思います。感性のぶつけ合いばかりでは、
普通の人では神経がすり減ってしまうでしょうからwテイスティングは凄いけどそれだけじゃワインは楽しくないだろ、みたいな
事ではないかと思ったりします。また、何であっても褒められると嬉しいものですからね。
茶湯が円熟へと向かうのを感じさせるお話だとも思いました。

今週は同票でもう一つ!とかく物事は、心がけ次第であるです!
こちらは『長闇堂記』の著者、久保長闇堂が若い頃を振り返ったお話。ここに出てくる秀吉の馬廻衆というのは、増田長盛の下に
付けられた人々ではないか、なんて言われたりしているそうです。それにしてもこの描写からだと、なかなか業の深い今人物像を
想像しちゃいますねwまあ長闇堂に限らず当時の茶人全体にそういう傾向はありますね。
しかしそれでいて、小堀遠州に「あなたは物を知らず、智も暗く」などと言われたことから長闇堂と名乗るわけですから、
ただ業が深いと言うだけではなく、なんとも複雑な人物でもあったのでしょう。
参照
そうしたわけで、「長闇堂」と名付け
こうやって過去の人物を様々に想像して、またその時代を感じられるのも、いろいろな逸話を知ることの楽しさの
一つだな、なんてことも感じました。


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暑い日が続きますが、どうぞ皆さん、体調などには充分お気をつけください。
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2019年07月31日 18:48

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筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 9
世の中すべての床天井は高くなった 9

だからこそ胸の覚悟が第一なのだ 8

家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。 6
人々御固浅まに候得は気違物にて候 6

小姓衆まで裸で御給仕致した 5
千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。 5

茶湯が改まった 4
脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹 4

山上宗二は顔つきが悪く、口も悪く 3
さては宇治・淀川の運上は万石に及んで 2


今週の1位はこちら!筒井筒 五つに割れし井戸茶碗です!
細川幽斎が事あるごとに、気の利いた句を詠んで場を収める、という逸話はそれこそ山のようにありますが、これはそういった行為が
逸話や伝承と言うだけでなく、どうも本当にも有ったらしい、という内容ですね。彼が教養深く、また頭の回転の非常に早い、
更にとっさに空気を読む達人であったことが、この逸話の中からだけでも伺えます。
コメントにもありましたが、Wikipediaの記事の方では
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E7%AD%92#%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96
このように多少の異同があります。伝えられるうちに少しずつ変化したものもあったでしょうし、そういう変化が起こるくらい、
多くの人々によって口伝された、とみても良いかもしれません、そこに細川幽斎という人への、当時の人々にとっての注目の
大きさも見て取れそうです。

今週は同票でもう一つ!世の中すべての床天井は高くなったです!
こちらは千利休の影響で全ての床天井が高くなった、というお話ですが、彼の村田珠光至上主義も感じられるお話ですね。
創作などでは利休は孤高の芸術家のように描かれることが多く、こういった面はあまりフォーカスされることが少ないように
思いますが、大げさに言えば、イエス・キリストが生涯ユダヤ教徒であったように、利休自身は生涯、村田珠光の茶湯の徒、
という意識が有ったのかもしれません。この逸話もそうであるように、その美意識につきあわされた人々は色々大変だったと
思いますがw
「茶聖」というような利休像とは違う、彼の生々しい息遣いを感じるような逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。です!
わりと忘れられがちでは有るのですが、武田信玄と織田信長は同盟を結んでいたのですよね。なので信長を介して
家康とも、一種の三角同盟を形成していたと言えます。しかし武田から見て家康はあくまで格下であるという認識があったらしく、
信玄は家康を、信長組下の国衆。大名として接していたという指摘もあります。なので信玄は家康との摩擦が起こるように成ると
しばしば信長に「あいつなんとかしろ」と訴え出ています。信長からも家康に信玄への刺激を抑えるようにと言う働きはおそらく
あったと思うのですが、家康の方はせっせと反信玄的行動を繰り返し、それへの怒りが三方ヶ原へと繋がると言っていいでしょう。
この内容のような信長の書状が実際に有ったのかどうかは何とも言えませんが、武田家における徳川家康認識の一端を
表しているとは言えると思います。



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週間ブログ拍手ランキング【07/18~/24】

2019年07月24日 16:11

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長曽我部元親の3女阿古姫は 11
政宗「さてさて珍しきなり!紅の肩衣というものは」 11

立花宗茂と舞 8
大久保忠隣改易 7
直江も腰をかヽめ候迄の由 6

千利休の切腹と石灯籠 5
大坂との御誓詞の御取り替え 5
三ヶ所手が違った 4
千利休の身上が相果てた理由について 4



今週の1位はこちら!長曽我部元親の3女阿古姫はです!
阿古姫の夫である佐竹親直は大阪で主人たる長宗我部盛親と命を共にし、子の柴田外記(朝意)は身を以て伊達家を守るという、
忠義の血筋と言うべき人々であり、長宗我部家、或いは土佐佐竹家の実直な家風を感じさせます。いかに母が長宗我部家の
姫という身分の高い女性であるとしても、その息子朝親に伊達家の「一家」として重きを成す譜代の名家四保柴田氏を継がせると
いうのは、家風や人物への高い評価が有ったと見るべきなのでしょう。
しかし「仙台真田家」もそうですが、仙台藩は大坂の陣で滅びた人々の諸縁を積極的に取り込んでいた印象がありますね。
それは家の強化のためでもあり、また「武士の情け」でもあったのでしょう。そしてそれが「伊達騒動」という危機から伊達家を救う
一助になった事に、善因楽果という言葉を思い出しました。

そして今週は同票でもう一つ、政宗「さてさて珍しきなり!紅の肩衣というものは」です!
で、上の阿古姫を救った政宗のお話ですが、こちらはいつも通りですねw
ここでは紅の肩衣に対して多少遠回しに「なにその独創的で珍妙なファッション!?」と揶揄したと見るべきなのでしょう。
それにしても、政宗が出仕するからみんな変わり装束にしよう、というのは面白いですね。当時の江戸城の、色んな意味で
風通しの良さを感じます。政宗が後に「伊達者」という言葉に結び付けられたのもむべなるかな、なんて思います。
何歳になっても危なっかしさがあって、それ故に注目され愛される。政宗の天性のタレント性を感じさせてくれる逸話だと
思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!直江も腰をかヽめ候迄の由です!
こちらは政宗と慶長出羽合戦で戦った直江兼続のお話。
家康って、過去に自分に敵対した者に対して、事が過ぎればかなりフランクなんですよね。三河一向一揆の昔から。
まあ家康に限らず戦国大名とは、そういう度量がなければ生きていけなかったという事も有るのでしょう。
「直江状」が現在伝わっているものと同様な内容であったかどうかは議論がありますが、家康を激怒させたというのは
確かであり、そんな、かつて自分を怒らせた相手に、その事を必要以上に気にさせない、追い込まないというのは
個人的人格以上に、統治の問題として大切だったと感じます。そういえばフロイスも、日本では主人が家臣に対して怒っている
事が知られた時は、家臣は先立って主人を害する。なんて記録していました。秀吉も小牧長久手で彼を怒らせた榊原康政を
和睦が成ると早々に許すだけでなく官位まで与えていますね。疑心、異心を持たせないのが大切という意識を感じさせます。
そんな事を考えさせてくれた逸話でした。



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週間ブログ拍手ランキング【07/11~/17】

2019年07月17日 15:19

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消えた秀吉取り立ての家臣たち 13

三斎公はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も 12

花入はご覧になりましたか 9
細川忠興と茶入 6
但馬守殿は御あしらいなされ 6


朝鮮から見た秀吉の「唐入」について 5
御宿勘兵衛の最期 5
若はいとこにておはせしを妹と披露して 5
敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ! 5

ただし一ヶ所、下手な部分が 4
加藤一分殿 3
玉ノ跡七ツト哉ラン有之由 2


今週の1位はこちら!消えた秀吉取り立ての家臣たちです!
豊臣政権の崩壊の理由については、様々な議論がありますが、その中でも挙げられやすいものに、譜代家臣層の薄さが
あります。これを見るとやはり、秀次事件はそれに大きな影響を与えているなと感じちゃいますね。
ただ、これは信長やある意味家康もそうなのですが、急激に拡大した家中や領地の運営は、必ずしも既存の家臣で行いうる
物ではなく、外部に人材を求めざるを得ないわけですね。それによりノウハウが確立すれば担当を内部人材に切り替えるの
ですが、豊臣政権はその切り替えが、色々理由があって上手く出来なかった、とも考えられそうです。そこには譜代層の
薄さと言うより、秀吉一代で打ち立てられた家ゆえの、譜代層の存在感や影響力の小ささを感じたりもします。
秀次事件の有無に関わらず、やはり豊臣家、あるいは羽柴宗家の構造問題は豊臣政権の崩壊において考えるべきじゃないか、
なんてことも思った内容でした。

2位はこちら!三斎公はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷もです!
細川忠興も蒲生氏郷も、利休に対し互いの悪口を言い合っていたというお話。これを見るに、互いに「それぞれの数寄」が
間違っていると言い合っていたようですね。しかしこういう事を言うのは、お互いの実力を認めあっていた故とも言えるでしょう。
「あいつには負けたくない」「あいつより自分のほうが優れているはずだ」という思いが、師である利休へ相手の悪口を言わせた、
つまりライバル、という事なのでしょう。告げ口を受けた氏郷が、利休が氏郷をかばった(?)事に大喜びでわざわざ忠興に
嫌味を言うあたり、妙に微笑ましくもありますwまあ普通この時代の武士が悪口や告げ口が有れば即流血沙汰な事を考えれば、
非常に平和な内容でもありますね。そして三者三様の気持ちを想像したくなるような逸話だな、とも思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!花入はご覧になりましたかです!
こちらは利休の「数寄」のあり方が端的に著された内容ですね。なるほど茶会というのは亭主と客の勝負なのだと感じ入りました。
利休の弟子である山上宗二の「茶湯者覚悟十躰」には、利休の言葉として
「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏ベシ」
と記しています。「一期一会」の元になったともされる言葉ですね。利休は茶湯に於いて客の心の有り様も重視しており、
このお話も、その考え方がよく現れた内容であると感じました。



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週間ブログ拍手ランキング【07/04~/10】

2019年07月10日 13:27

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その心持が面白かった 7
森武蔵守平井頼母を討つ 7

尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい 6

安国寺肩衝 5
森武蔵守土岐三河守を討つ 5
「能ある鷹は爪を隠す」は「北条氏直時分諺留」が元 5

太郎信勝の良き生まれ付きも 3
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては 3
悪くなるのは仕方のないこと 3
田島の屋敷 2



今週の1位はこちら!その心持が面白かったです!
珍しく(?)、千利休が翻弄されている感のあるお話ですね。墨跡の所有者、善意と嫌味のギリギリのラインをきっちり
攻めてくるあたり、なんとも京都人っぽいなと思ってしまうのは一首の偏見でしょうかw
それにしても、多くの場合「茶聖」「茶哲」として、茶の世界では他者を圧する天才と描かれがちな利休ですが、
こういうお話を見ると、彼も他者から一本取られる、血の通った人間だったのだな、という気持ちにさせてくれます。
そんな、利休の多様性も感じ取れる、よいお話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!森武蔵守平井頼母を討つです!
森長可による平井頼母謀殺とその後の波紋の物語。鬼武蔵の側の苛烈さが目に付きますが、そもそもは平井頼母の無礼(?)が
発端です。これが事実かどうかはともかく、この頃鬼武蔵は未だ25,6歳という比較的若年であり、特に本能寺後美濃に帰国した
後は、寵愛を受けていた信長の庇護を失ったこともあり、周辺国衆から甘く見られていた部分は有ったと思うのです。
信長より与えられた川中島の所領を放棄して帰国したことも、決して勇猛なこととは見られなかったでしょうしね。
森長可の美濃帰国後に、暴勇と言っていい逸話や戦い方が多く見られるのも、そういった周辺の見る目を改めさせるという意図が
少なからず有ったのではないか、なんて思ったりします。

今週管理人が気になった逸話は、もう一つ鬼武蔵!森武蔵守土岐三河守を討つです!
FGOにも取り上げられ、鬼武蔵界隈があらためて盛り上がりそうですしねw
こちらも本能寺後の、鬼武蔵による久々利頼興謀殺のお話。「仕済みたり」という最後のセリフも恐々たる響きがありますね。
そして久々利頼興をはじめ、兼山周辺の国衆が、息を潜めて本能寺後の情勢を見極めようとしていた様子も感じ取れます。
この逸話の鬼武蔵も、謀を用い騙し討にするなど非常に梟雄的ですね。逆にそういう手段を取らざるを得ないというところに、
当時の森家の置かれた状況を感じることが出来るかもしれません。
森武蔵守平井頼母を討つの方にある「今の治平の世」というのは、信長の時代をそう受け取っていたということであり、
信長の横死で自力救済の世界が復活したことを表しているとも言えるでしょう。
信長権力の元で押さえつけられ変化しつつ有ったものが、いざタガが外れた時どんな事が起こったか、を感じさせてくれる
お話でも有るなと思いました。



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週間ブログ拍手ランキング【06/27~07/03】

2019年07月03日 12:53

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この吟味を三四郎に仰せつけられたのは 10

就中信虎御隠居分事 7
信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん 7

まったく家康は只者ではない 6
この釜は、このようにしか据えようが無い 6
そうしたわけで、「長闇堂」と名付け 6
数寄がいつ始まったのかは知らず 6

台子は道の秘伝であり 5
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス 5
南部下野殿改易は 5

奥州会津へ行って南部下野は 3
浅井某雲母坂奇怪事 3


今週の1位はこちら!この吟味を三四郎に仰せつけられたのはです!
北条三四郎さんの処置、ここではヒューマンエラーは起こるものだから糾明しても仕方ない、という事に読めますね。
明良洪範の方では責任者の切腹を命じられ、このようなことで軽々に生命を奪うべきではない、という流れになっており、
深刻度の差異を感じます。ともかくも、おそらくこれが逸話として成立した江戸中後期においては、主君、主人というものは
徒に配下の、個々のミスを糾明すべきではない、という意識が有ったということなのでしょうね。

2位はこちら!就中信虎御隠居分事です!
武田信玄によって駿河に追放された父信虎ですが、どうも武田家よりの生活費の仕送りが滞っていたようで、今川義元から直々の
催促の書状。なかなかの世知辛さも感じちゃいますw義元は「信虎さん困ってんぞ」と書いていますが、この書状を書かせるまでに
義元と信虎の間にどんなやり取りがあったのか、想像するとちょっと面白いですねw信虎には仕送りだけでなく、義元から所領も
与えられていたようです。信虎は駿府で大人しくしているどころか、男女合わせて子供も3人作り、一家を成していましたから、
ある意味お金がいくらあっても足りなかったかもしれません。
良くも悪くも、信虎の大名らしさを感じる内容だな、なんて感じたりしました。

今週2位は同票でもう一つ!信玄公御座なくば家康を信長ころし候はんです!
こちらの甲陽軍鑑の記事、確かに「武田家なら殺すだろうな」という意識は有ったと思いますw
この記事に限らず、甲陽軍鑑は全体的に家康を高く評価していますが、実は家康に限らず、上杉謙信など、正面の大敵というものを
高評価する傾向がありますね。強靭な敵をリスペクトする、という事では在るのでしょうか、一方で「その強靭な敵を退ける我々は
もと凄い」「そのもっと凄い我々をもっと評価すべき」という面も大きいのでしょう。
それにしても、結果として武田にとって家康を敵としてしまったことは痛恨と言っていい事態で、武田家の視点で見ると、信玄の
後半生は家康に苦汁をなめさせられ続けたと言えるかもしれません。その鬱憤の爆発が三方ヶ原なわけですからねw
しかしながら強敵をきちんと強敵と認識できる組織は強い組織だな、なんてことも考えた逸話でした。


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週間ブログ拍手ランキング【06/20~/26】

2019年06月26日 16:26

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細川幽斎 酒の歌 10

形の好みから武士道に入れ 10

伊達の子息は太郎信勝と同年である。これは不思議なり 9
義冬を義賢が介抱したのは、 7
石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ 7

数寄に親も子もない 6
彼は当地において信長のよう 5

唐国諸葛孔明八陣図 3
キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない 3
これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。 3

世上で金銀がたくさんとなったのは 2
良き老王フランシスコは 2


今週の1位はこちら!細川幽斎 酒の歌です!
細川幽斎の、一部で有名なお酒数え歌wこの歌おそらく全部に、元歌元ネタがあるのですよね。管理人にはどれがどれと
指摘できるほどの能力はありませんが、このような一種の戯れ歌にもそのように教養と機智を閃かせる幽斎の学識には
ちょっと戦慄を感じちゃいますね。或いは戯れ歌だからこそ機智を閃かせる必要が有ったのかも知れません。
そいえば来年の大河では、彼が(兄の三淵藤英も!)重要な登場人物として描かれるようですね。どんな描写に
なるのか、今から楽しみです。

今週は同票でもう一つ!形の好みから武士道に入れです!
「まず形から入れ」という本多忠勝の教え。服装などにも一定の規定を設けて、忠勝家中であることの自覚を持たせよう、と
ありますが、こういうもの、今の会社でもよくある考え方かもしれません。もしく忠勝などがこの手の考え方の先駆というべき
でしょうか。
北条家の軍役に服装に関する規定、まあぶっちゃけ「みっともない格好で来るな」なんて記録がありますが、ここを見ると、
合戦であっても自由にさせるとかなりラフな格好で来られちゃう事があった。またそれは他者から嘲笑を受けるものであった、
という事が見れとれ、近世に入って多少世の中が落ち着くと、そういう部分もきっちりしていこうよ、という動きが出て、この
お話もそういった世情を反映したものではないかな、なんて感じます。

今週管理人が気になった逸話はこちら!石田三成の「三献茶」の元ネタがこれです!
非常に有名な石田三成の三献茶の逸話。少し前に葉隠にも同じような逸話が在る、というものを紹介しましたが。それもふくめて
原典はこの利休の逸話であるようです。
葉隠のものを見ると、わりと早い段階から、主君が茶を出した僧(小僧)に感心しこれを召し出す、という形に改変されていた
ようで、この形式がいつしか秀吉と三成にも当てはめられたのでしょう。逆に言えば現在でも多少なりとも存在する、三献茶の
逸話に端を発する三成に対する茶坊主的印象は、おおよそ江戸中期頃のものだと考えられ、それ以前は決してそういう印象を
持たれていたわけではない、とも言えるんじゃないかなと思います。
これも歴史上の人物に対する後世の創作が、その人物の生存中の印象そのものに遡及してしまった事案かなあ、なんて
感じました。歴史では非常によくある話ですがw


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週間ブログ拍手ランキング【06/13~/19】

2019年06月19日 13:43

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松たけの おゆるを隠す吉田殿 12

上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか? 7

信玄の最期 6
宗雲公などはきっと一仏一社の化身であったのだろう 6

のするかごしまになふほうのつ 5
伊豆の宗雲が出て小田原を乗っ取った事は 5
内裏様のみしり 4
正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには 4

今度織田事、依難遁天命、令自滅候 3
給仕の小姓が久太夫の膝に酒をこぼして 3
都への往復に危険 3
よくよく見ればみかどなりけり 3

鍋島直茂が寺で湯を所望したところ 2
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ 2


今週の1位はこちら!松たけの おゆるを隠す吉田殿です!
はい、下ネタですねw昔の人もこんなくだらないネタで笑っていたわけです。ここで気がつくのは、このお話が作られた近世初期には
すでに、松茸を男性器と見立てる事が、笑い話の中に使われるほど一般的であったこと、細川幽斎には機智を以て上手いことを
即座に返す人、というイメージが有り、それは下ネタに対しても例外ではないこと、あと吉田兼見(?)に少々ケチくさいイメージが
あったのかもしれない事(これは公家一般にケチくさい印象が有ったのかも知れませんが)、などでしょうか。
アルシュの下品さに眉をひそめる人もいるでしょうが、あけすけ過ぎてエロさはないですねw
良くも悪くも、この時代の性に対するおおらかさを現しているお話だなと思いました。

2位はこちら!上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?です!
こちらも下ネタですwしかも多少セクハラっぽくもありますね。職場や学校などでこの話をしたら、事によっては怒られそうです。
このお話で面白いのは、やはりあの安土宗論にも参加した貞安が出ているところでしょう。現在でこそ知名度の低い人物ですが、
当時はその名を言えば「ああ、あの偉いお坊さま」と即座に反応されるくらいの認識があったようです。
だからこそ、そういう「高僧」が説教をするという緊張感のある場所で、貞安の言ったことを下ネタと取り違えてしまうことに、
一層のおかしみが現れるということなのでしょう。
笑いというものは非常に時代性が関連しますから、こういった笑い咄からその時代を考察していく、というのも面白いと思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!今度織田事、依難遁天命、令自滅候です!
本能寺の変に対する足利義昭の反応です。義昭が信長の滅亡を「天命」として語っているのが興味深いところですね。
この時義昭の帰洛運動は相当手広いもので、柴田勝家や徳川家康などからも同意を得ていたようです。この事は秀吉の
拒絶により実現しなかったわけですが、もし認めていれば何度目かの室町幕府復活となり、僕たちが学ぶ「室町幕府滅亡」の
年代もかなり違ったものに成ったかも知れません。
我々は結果を知った上でこの書状を見るので、この挫折した企画に対する虚しさを重ねて見てしまいがちですが、この時は
誰も今後どうなるか解らず、故にその時に出来る精一杯のことをやっていた、という視点で見ていくと、又違った感慨を持つかも
知れません。そんな事もふと思った書状でした。



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週間ブログ拍手ランキング【06/06~/12】

2019年06月12日 14:35

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大阪城開かずの間 9

阿波国三好之系図 9

”沙也可”について 8
【雑談】足利義輝謀殺について 8
逆に刀を抜きにくくするためではないか 8

【ニュース】初公開 山形城主・最上義光 直筆の手紙一般公開へ 山形市 6
一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條 5
「信玄公は御在世なり」 5

内藤修理は元来工藤なり 4
龍造寺隆信「佐賀に来い」 4
不死美濃鬼美濃 4
上杉家ノ喫煙ニ関スル令 4
山本勘介と申す大剛の武士と聞く 4

京極高吉の改宗 3
“奥の源四郎” 3
薩摩の王の紋章は、我が十字架と同形の十字 3


今週の1位はこちら!大阪城開かずの間です!
江戸期の大阪城でまことしやかに囁かれていたという豊臣家の亡霊(?)が棲まう開かずの間伝説。松浦静山が書き残して
居たということは、実際にこのような噂があったのでしょう。そういえば大阪城内では、大阪の陣を描いた軍記『難波戦記』も
読んではいけないという話があったとかどうとか。建て替えられたものだと頭では解っていても、場所が場所なのでそこに
在る人々にとって、何かしらの思うところがあったのでしょう。
それにしても林述斎が「歴史を知らないから作り話を信じた」という言葉、現代人にも様々に通じる言葉ですね。

今週は同票でもう一つ!阿波国三好之系図です!
三好家が畿内で活躍するきっかけをつくった三好之長は、調べれば調べるほど相当したたかな武闘派で、なんのかんので
こういうバイタリティを持つ人や家がのし上がるのが戦国時代だよな、なんて思ったりします。かれは京近辺で土一揆の扇動
なんかもして治安を揺るがしていますが、当時の土一揆と足軽はほぼほぼ同じ存在だとされており、三好家はこの時期から
結果的に畿内での潜在的軍事力を扶植していたと考えると、後の歴史の展開もこの基盤の上に有ることが想像できます。
それにしても三好家の歴史は、やはり魅力的ですね。今後三好氏研究がさらに盛り上がることを期待しています。

今週管理人が気になった逸話はこちら!一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條です!
この禁制の内、「一季居」は一季奉公人、つまり臨時雇いの雑用係で、農村などからの流れ者が多かったらしく、このあたりは
「負傷者」についてもそうですが、主に治安関係の法令ですね。「耶蘇教」は言うまでもなくキリシタン禁制に関わるもので、
「煙草」は、この当時は健康のためではなく、主に火災予防の面が強かったと言われます。考えてみれば10数年くらい
前までは、煙草の最大の害といえば、煙ではなく吸い殻の投げ捨てによる火災でした。そして「牛を殺すことの禁止」ですが、
これは「一季居」の禁止にも繋がると思うのですが、当時牛が農村における重要な労働力であり、未だ動けるにもかかわらず
食肉等の理由でこれを殺すのは、労働力を奪うことに等しく、現在で言えば工場の機械なり業務用の車両なりを無駄に
破壊するような感覚があったようです。「一季居」も、農村から労働力を奪うもの、と捕らえられていた向きもあったようです。
レスの中にもありましたが、キリスト教宣教師が牛肉を食することにも強い批判が存在したようですね。ただわざわざ禁制に
入れているということは、そういう事例が少なからず有ったのだということを表して居るとも思います。
法令から当時の社会の有り様を想像してみるのも、非常に面白いですよ!



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週間ブログ拍手ランキング【05/30~06/05】

2019年06月05日 17:59

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細川持隆謀殺 11

三好義継三家老の別心 9

国を守護して三好家は繁栄したが 7
敵陣に大量のキングコブラをまくという戦法 6

了的ただいま降り参り候 5
ついにその名は高きものだという 5

薙ぐのではなく突くのが良い 4
北条家の弓矢は敵の油断を肝要に 4
見てすみがたき露の下帯 4
見附石 4

永井白元の健脚 3
足利義輝の陰謀 3
定直を“乾内蔵允義直”となされ給う 3
【雑談】『弥助』について 3
信玄公御旗及び御はた本備押の作法十五条の事 3

深く慎め慎め。件の如し。 2
生死の気 2


今週の1位はこちら! 細川持隆謀殺です!
阿波細川家、阿波三好家においてもターニングポイントと成った事件ですね。構図としては、実休の兄三好長慶が、旧主
細川晴元へ取った対応と似ているかも知れません。長慶は晴元に変えて高国系の細川氏綱を細川京兆家当主としましたが、
さらにその後継者として晴元嫡男の昭元を置きました。そういえば織田信長も、彼が追放した尾張守護斯波義銀や将軍
足利義昭の嫡男を保護していますね。このあたりは一言で下剋上と言われがちなのですが、旧主の後継者をきっちり保護する
ことが、世間の信頼を得るためにも大切であったと言えるのでしょう。そういう、「下剋上の作法」についても考えさせる
内容だと思いました。

2位はこちら!こっちは畿内三好家三好義継三家老の別心です!いわゆる若江三人衆による三好家からの離反。これが決定打と成って、三好義継は切腹し、
畿内の三好宗家は事実上滅亡するわけです。ここで吉継の切腹の様子は非常に勇壮に描かれていますが、実際にも
彼の切腹の有り様は大変な評判に成ったようで、安国寺恵瓊による例の『信長之代五年・三年者可被持候、明年邊者公家
なとに可被成候かと見及申候、左候て後、高ころひにあをのけにころはれ候すると見え申候、藤吉郎さりとていの者にて候、』
で有名な天正元年十二月十二日付書状の中でも、『今度三好左京大夫(義継)内衆なりかわり候て腹を切候、代々如此候と
申候か、さりとてハの腹を仕候と申候、』と、高く評価しています。
現在、三好義継はあまり評価されることのない武将ではありますが、名門武家の棟梁として、それに似合った勇敢さを持った
人物であったと言えるのでしょう。

今週管理人が気になった逸話はこちら!敵陣に大量のキングコブラをまくという戦法です!
海外でこんな事になっていたとはw外国人による日本理解という面は、おそらく魏志倭人伝の昔から、記録した人々の側の常識
と思い込みと偏見と決めつけ、が確実に入り込んでいます(これは日本人の外国理解にも言えるでしょう)。
戦国期の宣教師などは、キリスト教敵偏見が有るにせよ、現地で直接に交流しただけ有って、わりと見たままを描いているの
ですが、それらの記録をベースにしたモンタヌス日本史あたりになると、さほど時が経ったわけではないのに、もう西洋の
東洋イメージを元にした思い込みと偏見にあふれているわけですw
逆にそういう所から日本人は、その海外文化の、ベースやパターンのようなものを察することが出来たりします。
日本人から見れば無茶苦茶に見えても、そこから色々学び取れる部分がある。そんなことも考えたお話でした。



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週間ブログ拍手タンキング【05/23~/29】

2019年05月29日 13:01

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話す人より聞く人が上手なり 11

どうして『天下を進ぜられましょう』と 11

藤きちろうおんなども  のぶ(印) 10
信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず 10

アンコールワットに渡ったという森本一房について 8
「宇喜多の狐憑き」について、甲子夜話 7
先祖の武功他人より聞く 6
平島公方系図 6

信玄公軍法、4人のままになり給う事 5
武田の家のあらん限りは 5
津候の念珠 4
義親は不運にして病気が差し出て 3


今週の1位はこちら!話す人より聞く人が上手なりです!
曽呂利新左衛門と言う人は、ほぼ実在していなかったと考えて良いのですが(モデルは居るかも知れない)、長い間、
秀吉時代を語る上での人気者として、人々から愛されていました。ああいった人物像系がいつの頃から形成されたのか詳しく
調べていないので何とも言えませんが、歴史上の秀吉という人物の個性を際立たせる上でも、重要なキャラクターであったと
思います。だからこそこの逸話にように、細かいキャラ設定まで形成されていったのでしょうね。後世の「太閤さん人気」の
いくぶんかは、曽呂利新左衛門との掛け合いが貢献していると思います。
こちらの逸話ではその曽呂利新左衛門の死に様が描かれていますが、忠臣の死に様といっていい描かれ方で、後世の
人達が、秀吉と曽呂利新左衛門との関係性にどのようなものも望んだか、がよく表されていると感じます。

今週は同票でもう一つ!どうして『天下を進ぜられましょう』とです!
こちらは教興寺の戦いについての逸話ですが、安宅冬康の対応から、三好親族であっても、宗家に対し相対的に
独立性が高いことを感じさせますね。三好に限らず、こういったあり方がこの時代の戦国大名の実態でもあったのでしょう。
ただここで「天下を」と言っているあたりが、事実上天下(京を含む畿内近国)を支配していた三好家の、他とは違う意識を
表していると言えるかも知れません。後の信長の『天下朝倉殿持ちたまへ』、秀吉の『天下は丹羽殿と持ち回り』なんてお話を
思い出しますが、そういった話の源流にあたると言えるのかも知れませんね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ずです!
このお話はいろいろ面白いところがあって、一つに武田には、織田弾正忠家が今川配下に成っていたという認識があり、
これは織田信秀の晩年には、美濃での敗北や自身の病気などでその権威が大きく縮小し、当時西三河での影響力を
ほぼ喪失し、東尾張まで侵食されつつ有った状況を表しているのでしょう。
そんな逼塞常態の織田弾正忠家をどうにか盛り返したのが信長ですが、彼が父信秀の体制を模倣しなかったのはある意味
当然で、信秀の段階では、弾正忠家は雑多な連合体の盟主くらいの存在で、戦国大名化しておらず、先行して戦国大名化を
果たしていた美濃斉藤家(一色家)の体制に範を求めたのは、美濃の統治も含めて、むしろ合理的と言えるでしょう。
そういった部分を「自然なこと」と評している信玄も、その辺りの機微を理解していたという事なのでしょうね。
いろいろと読み込みがいのあるお話だな、なんて思いました。


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週間ブログ拍手ランキング【05/16~/22】

2019年05月22日 13:03

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信虎公はこの刀で50人余りを 11

勝ちを千里の外に決す 7

つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて 6
岩屋の太刀 5
良き大将でござった由を 5

また三好長春は淫乱不道にして 4
何人たるを問わずこれに対して善をなせ 4
と、信玄公は仰せ渡されたのである 4

道三はその時すでに耳が遠く 3
本当の合戦両度ながら、信玄公御勝利なり。 3
老王は堅固な柱のように 2



今週の1位はこちら!信虎公はこの刀で50人余りをです!
81歳の信虎を、かの勇猛を謳われる武田家臣団が明らかに恐れているのが面白いというか何と言うかw
また親類衆による逆心を恐れている辺り、勝頼の権力基盤の弱さを表しているとも言えるのでしょう。
そして 長坂長閑斎の、勝頼近習としての有能さも何気に表現してあり、群像劇の一幕を見ているような思いもします。
総じて勝頼は大変だったなあと、どうしても感じちゃいますねw

2位はこちら!勝ちを千里の外に決すです!
織田信長による見事な計略のお話。実は織田信長という人、甲陽軍鑑に限らず、どうも生前はこの手の計略の達人だった、
と思われていたフシがあります。そしてこれ故に周囲から、うかつに信用できない人物であるという印象もあったようです。
甲陽軍鑑の他の記事では、この手の信長の謀略癖(?)を批判的に記述しているものもありますね。
織田信長についての、同時代的な印象を端的に表した逸話でも有ると思います。
あと、忍たまの戸部先生こと戸部新左ヱ門、何故この名前かと思ったら、戸部新左衛門(政直)が、作者である尼子騒兵衛先生
の御子孫なのですね。このようなお話からも、歴史というものは、生きているのだなと感じます。ゆらり。

今週管理人が気になった逸話はこちら!つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていてです!
この事も知りませんでした!実に興味深い。この手の、引用元の勘違いというのは他にも有ることでしょうが、花の慶次は
影響力が大きいだけに、エンタメとは言えこういった部分の指摘は大切だと思います。絶対孫引きしている人いるしw
新しい版ではこの辺りの注釈とか入っているのかなあ(未確認)。若し未だな場合は、出版社に善処を求めたいですね。
個人的にもとても勉強になりました。また自分にとっても自戒としたいです。



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週間ブログ拍手ランキング【05/09~/15】

2019年05月15日 14:22

05/09~/15のブログ拍手ランキングです!


日本をすべて取ろうと思ってようやく中国を 9

虎生まれて三日にして牛を食うの機あり 9

關八州に鉄炮はしまる事 7
主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった 7

信玄公御時代諸大将之事 6
片手綱を達者に覚えてこそ 5

そこで法体となり“実 休”と呼ばれ 4
大森伝七郎、切死の事 4
若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに 4

耳川の敗戦後の、豊後国内 3
フランシスコ・カリヤン書簡より、耳川の戦い 3
智者は闇主の為に謀らず 3


今週の1位はこちら!日本をすべて取ろうと思ってようやく中国をです!
毛利元就年少時の逸話として、非常に有名なものの一つですね。これが『甲陽軍鑑』に収録されているということは、軍鑑が
成立したと考えられる、少なくとも江戸初期には、早い段階だと高坂弾正が口述させた時点で、既にこのような話が世間で
言われていた、という事になります。事実かどうかはともかく、当時毛利元就が既に歴史的英雄として認識されており、幼少期からの
「英雄譚」が形成されており、それは安芸から遠い甲斐にまで伝わっていた、と考えることが出来ると思います。
史料的に、このような「元就伝説」伝播の過程が調べられると面白いのに、なんて思います。

今週は同票でもう一つ!虎生まれて三日にして牛を食うの機ありです!
こちらも「甲陽軍鑑」より、今度は徳川家康の幼少譚ですね。家康という人は武田家にとって、実は上杉謙信以上の宿敵と呼べる
人物でした。三方原に至る信玄の西進も、「家康への多年の鬱憤」を理由として挙げていたほどです。
ただ甲陽軍鑑の面白いところは、上杉謙信にしてもそうですが、真正面で自分たちと戦い続けた武将を割と讃えている所です。
「このくらい立派な武将なのだから我等が苦戦したのも仕方がない」という所でしょうか。一方長篠で大敗した織田信長や、
同盟の復活まで行った北条氏政などへの評価は厳しいですね。甲陽軍鑑における人物評価について調べてみるのも
面白そうです。

今週管理人が気になったいつわはこちら!關八州に鉄炮はしまる事です!
日本ではいわゆる「種子島」鉄砲が後年あまりに一般化したため、鉄砲と言えば種子島式、と認識されるに至ったのですが、
実は種子島銃以前にも、「鉄砲」と呼ばれる火薬を用いた兵器は日本に入っており、かつ使用されていたのではないか、なんて
言われています。応仁の乱でも、投石機で火薬を詰めたものを使用していた記録があります。伊勢盛時の三河侵攻の折の
「鉄砲」も、そういった「プレ種子島期」の火器だった可能性は充分あるのでしょう。その場合は後年の鉄砲とは、相当
運用の仕方が異なったとは思われますが、それもふくめて、日本の「鉄砲」の歴史と見たいですね。
そしてこの逸話では小田原の役における長大な火線に言及されており、武器としての鉄砲が広まった「成果」が、実に可視的に
描かれていると思います。鉄砲の始まりから、当時的な結実まで描いた、非常に興味深い内容だと思います。


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週間ブログ拍手ランキング【05/02~/08】

2019年05月08日 13:33

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河尻秀隆の最期5撰 13

藤堂高虎『転職について』 12
佐久間信盛、信長を諫める 12

【雑談】明智光秀の描写について 9

【雑談】家康の甲斐侵攻について 8
甲斐は結局信玄の子の代で滅び 8
小笠原の行く末は 8

元和改元と武家諸法度について 7
当分は太閤は怒り給えども 6
越来賢雄(ごえく けんゆう) 6

氏康は鉄砲の音に驚き給う。 5
細川持隆の滅亡 5

小次郎は信長の時分の脇の上手であるという 4
福島左衛門大夫の家来に名高き者多し 4
又ものの分として何とて能せん 4

桑垣元二という鼓者は名高し 3
豊国大明神石灯籠 3
この世子は知識と思慮に富み 2


今週の1位はこちら!河尻秀隆の最期5撰です!
河尻秀隆の横死について、個人的には家康が煽ったかどうか、という議論はあまり意味がないと思っています。本能寺の
信長の死により、甲州征伐後に行われた知行割は、政権の地域秩序維持機能も崩壊したため維持不能となり、室町幕府の頃と
同じように、政権の追認はあるにせよ、本質的には戦国的な実力による地域安全保証に戻ってしまったためです。
河尻が他国よりの攻撃ではなく甲斐国内の一揆で滅んだことが象徴するように、河尻には自力では一国の安全どころか、知行内の
秩序を維持する実力も備えていませんでした。そこから考えると、一義的には彼が殺されたのは、自身の判断ミスだったと思います。
同じように甲州征伐後川中島を与えられた森長可は、その領地の保持が即座に不可能だと判断し脱出していますし。
河尻的なあり方も含めて、体制の崩壊時の混乱なのだろうな、なんて考えたりします。

2位はこちら藤堂高虎『転職について』です!
さすが戦国の転職王wいいことを言っていますね。面白いのは、中世の武士の奉公心得では概ね、新参はともかく譜代については、
主君がどうであっても我慢して仕えるべきだしそういう義務がある、なんて書かれているものなのですが、ここでは「譜代であっても
ダメ主人なら退職すべきだ、そんな所にいては自分が腐る」とはっきり言っている所でしょう。この部分こそ高虎の面目躍如たる
部分かな、なんて思っちゃいます。儒教においては「君君たらずとも臣臣たらざる可からず」なんて言いますが、高虎にとっては明確に
「君君たらずば臣臣たらず」だったわけですね。こういう考え方であると意識しつつ高虎の生涯を見てみると、また違った感想を
得られるかもしれません。

今週は同票でもう一つ!佐久間信盛、信長を諫めるです!
宣教師関連の記録でも、日本の記録でも、佐久間信盛という人は、世間から「信長にもの申せる」人物である、と考えられていた
ことが見えてきます。織田家内部における権威も権限も巨大で、正しく重臣の代表でした。それだけに信長にとっても、彼の判断を
尊重する必要のある、ある意味重苦しい存在でもあったのでしょう。例の『佐久間信盛父子折檻状』にも、信長の判断について
猛然と反論し、しかもそのまま席を立った事が書かれています。これにより面目を失った信長ですが、だからといってその場で信盛を
処罰もできなかったのです。折檻状の他の条々もよく読むと、信長が信盛に直接的な指示が出来なかったのではないかと
想像させます。
織田信長という人は、よく独裁性を指摘されることが多いのですが、昨今では彼も他の戦国大名と同じように、家中組織の上で、
合議によって家を運営する人物だったのではないか、という説も出てきました。僕も個人的には、信長に独裁性があったにせよ、
それは晩年のかなり限られた期間ではないかな、なんて思っています。
佐久間信盛という人物も、もっと研究が深められて良い人だな。なんて感じています。



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