fc2ブログ

富樫氏と金津

2018年12月15日 19:41

525 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/14(金) 22:49:32.29 ID:xH+MYM36
富樫氏と金津


金津高校がセンバツ21世紀枠候補の9枠にノミネートされたので金津関連で投下

富樫政親が加賀一向一揆により斃されて富樫氏の勢力は大いに減退した。
稙泰の時期になると一向一揆との力の差が大きく開き、1531年に大小一揆により敗北し、朝倉家臣・溝江景逸が領する越前金津へと逃れた。

1532年になると、一向一揆が暴れまわってて困っていた細川晴元が畿内で法華宗らと手を結び山科本願寺を灰にした。
そして、石山へと逃れた証如を助けるために加賀にいた幹部たちが証如の下へと走った。
その隙に旧領の奪還を果たし、野々市に稙泰の嫡男・泰俊を派遣するも、畿内の情勢が落ち着き、戻ってきた幹部たちによって再び追いやられてしまう。
その勢いあまって金津にいた稙泰を攻め込み、稙泰は自害に追い込まれしまった。
しかも1532年の時点で朝倉氏と加賀一向一揆は和睦を締結しており、朝倉軍が稙泰を助けた記述は見当たらない。

その後、稙泰の次男・晴貞が1570年に加賀一向一揆によって討たれると、泰俊が家督を継いだ。
しかし加賀一向一揆のために再び攻められて越前金津へと逃れた。
1574年、朝倉氏の滅亡後、杉浦玄任率いる一向一揆の大軍が金津へと攻めかかり、今度は溝江景逸・長逸父子を巻き添えにしながら、泰俊父子らは自害に追い込まれ、富樫氏は滅亡した。


この話は野々市町小史(現在の野々市市)や富樫記などを参考にして記述しました。


スポンサーサイト



一向一揆によって当主として担ぎ出された男

2014年09月14日 18:50

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:51:05.79 ID:8tyGaRkz
一向一揆によって当主として担ぎ出された男


1488年、富樫政親は一向一揆によって斃された。
そこで一揆側は政親の大叔父・泰高を担ぎ出した。

泰高は齢71、嫡子の泰成は夭逝し、その子で嫡孫の恒泰(のちの稙泰)は元服したばかりの15歳の若武者。
しかも泰高は加賀、恒泰は当時は京で両者は別々。
傀儡当主にするには一揆側にとってはうってつけの人選であった。

しかし、傀儡当主として担ぎ上げた富樫泰高はとても一筋縄でいくような男ではなかった。
泰高が当主になるのは実にこれが3回目である。
1回目は1441年、2回目は次兄・教家一派を追い出した1445年である。

いずれも加賀国内の内乱を経験しての当主君臨である。

24年ぶりに当主として復帰した泰高ではあるが、今回の領国経営は泰高にとっても一筋縄ではいかないものだと考えていた。
加賀支配権は事実上蓮如の3人の息子である、蓮綱・蓮誓・蓮悟によって握られていた。
また、泰高としても強力な後ろ盾を欲していた。

泰高はこれまでは細川持之・勝元親子の後ろ盾のもと、強力な領国経営を行っていた。
しかし強力な後ろ盾を得られないまま本願寺勢力の傀儡として生きていくのには癪に障る。
ということで泰高が行った行動は本願寺勢力に敵対せずに国内の荘園をとにかく横領しまくることであった。
荘園を横領して勢力を広げることで独自の権力の強化を努めようとした。

1493年、泰高にまたとない好機が訪れた。
明応の政変を避けて足利義材が越中へと下向した。

泰高は老体を押して義材のいる越中の放生津へと馳せ参じた。
そしてちゃっかりと越中公方の『加賀守護・富樫泰高』として越中公方の政権の中枢の一角を担った。

1500年になったころから、領国経営の調子が芳しくなくなってきた。
とうとう業を煮やした本願寺勢力が泰高の守護支配に介入したためであった。
しかもこれに裏で糸をひいていたのは後ろ盾をしていた細川勝元の子・政元であった。
これによって泰高の領国支配はなくなるようになり、孫・恒泰へと家督を譲った。

1531年の享禄の錯乱で富樫家の権威がほぼ完全に失墜するのはまたのちのお話。

勢力を広げて権力を確立するためにやりたい放題をした挙句、かつて後ろ盾だった細川家が敵方となり、
本願寺との疎遠となり支援を得られずに富樫家衰退へと繋がった泰高の悪い話。




上杉禅秀の乱、始末記・悪い話

2009年01月21日 00:04

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 03:32:13 ID:/HHeI23s
上杉禅秀の乱、始末記

応永二十三年(1416)、
先の関東管領、上杉禅秀による、鎌倉公方足利持氏襲撃により始まった、上杉禅秀の乱。

この関東での騒乱は、京にも大きな動揺を与えた。この乱に対し、禅秀討伐の方針が決まると、
将軍義持の弟、義嗣が逐電。高尾の神護寺にて出家するという事件が起こった。
一旦は帰宅を許されるも、その後義嗣は仁和寺に拘束。
将軍義持は近習、富樫満成らにこの事件の捜査を命じた。

捜査はいきなり大きな壁にぶつかる。管領の細川満元や畠山満家ら、有力大名による妨害が
行われたのだ。「今は禅秀の討伐が大切なのだ。こんな事件の究明は無益だ。」

しかし満成はひるまない。捜査を続けるうち、ついに、義嗣の近習から、
義嗣に対し細川満元、斯波義教、赤松義則らが「与力」している、という証言を引き出した。

前将軍足利義満に愛され、一時は義持に変わり将軍を継ぐとまで噂された、義嗣。
彼は前々からその「野心」を噂されていた。
その義嗣と、義持に敵対心を露にしていた足利持氏との繋がり。
逆に義持と上杉禅秀との繋がり。
義持派と反義持派の間で揺れる有力諸侯たち。
関東の乱に連動した、義嗣を中心とした京での陰謀…

事件は、その裏にある複雑な様相を除かせはじめていた。


応永二十五年(1418)正月、義持はついに、義嗣を殺害させる。
この事件はこれで幕引きされた、誰もがそう思った。

だが、富樫満成の追求はとまらない。
6月、義嗣の陰謀に加わったものとして、畠山満家の弟、満則、山名時熙、土岐康政らの
名前が上がった。大規模な疑獄の全容が、暴かれようとしていた。
幕府は、強烈な緊張化に置かれた…、


ここで、この事件は急展開を迎える。


11月、将軍義持の下に、富樫満成こそがこの事件の黒幕である。そう言う直訴があった。
これに、義持は満成の逮捕を命じる。富樫満成は失脚したのだ。
満成は高野山に逃れるが、義持の命を受けた畠山満家の手のものに殺される。
こうして、この巨大な疑獄事件は幕を閉じた。
おそらく義持と畠山満家との間に、「手打ち」があったのだろう。幕府の動揺も、これにて治まった。
富樫満成は幕政の安定のための、生贄にされたのだ。

「知りすぎた男」の、悲劇の物語。




591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 05:41:00 ID:KdnzziEi
こんな機会もう二度と巡ってこねぇ、幕閣を軒並み失脚させて・・
とか考えちゃったんだろうなあ
真面目な野心家は長生きできねえ