424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 11:49:30.43 ID:YnF5EsZC
湯目の碑
慶長5(1600)年10月1日、伊達政宗から山形に援軍として遣されていた将兵の中に湯目加賀(湯目守重)といった将がいた
当初伊達の援軍は留守政景を大将に屋代勘解由や白石若狭ら兵3000が派遣される手筈であったが、
福島攻め等に半数以上が引き抜かれ、都合1200が最上軍とともに山形で戦い、直江軍を追撃した
この追撃戦において湯目加賀は遅沢川で戦場の露となる
現在湯目の碑といったものが山形市の田の中にある
石碑から西に100メートル程離れた所に、湯目の遺骸は葬られたといった話がある
その場所には直径10メートル、高さ数メートルの土まんじゅうの塚があり
上には五輪塔が建てられていた
昭和48年、区画整理の際に塚の発掘作業中に中央から粘土郭が発見され
灰と人骨が確認された
湯目の碑は後年湯目守重の慰霊のために作られた比較的に新しいものだと伝わる
湯目の碑
慶長5(1600)年10月1日、伊達政宗から山形に援軍として遣されていた将兵の中に湯目加賀(湯目守重)といった将がいた
当初伊達の援軍は留守政景を大将に屋代勘解由や白石若狭ら兵3000が派遣される手筈であったが、
福島攻め等に半数以上が引き抜かれ、都合1200が最上軍とともに山形で戦い、直江軍を追撃した
この追撃戦において湯目加賀は遅沢川で戦場の露となる
現在湯目の碑といったものが山形市の田の中にある
石碑から西に100メートル程離れた所に、湯目の遺骸は葬られたといった話がある
その場所には直径10メートル、高さ数メートルの土まんじゅうの塚があり
上には五輪塔が建てられていた
昭和48年、区画整理の際に塚の発掘作業中に中央から粘土郭が発見され
灰と人骨が確認された
湯目の碑は後年湯目守重の慰霊のために作られた比較的に新しいものだと伝わる
スポンサーサイト