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小奴可家の「久代之地」返還運動

2014年10月27日 18:42

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 16:55:53.22 ID:9bjUCH30
広島県庄原市は約3万人の都市である。
元々は比婆郡一帯であり、更にこの郡は恵蘇郡・三上郡・奴可郡が1898年に合併したものであった。

さて、この奴可郡の一部を宮家という小豪族が治めていた。
久代宮家とも言われ、その一族の小奴可(おぬか)宮家は小奴可村などを統治していた。
区別させるために土地の名前を苗字にした。(のちに宮家に復姓している。)
備後南部にも宮家がいるが、ここでは割愛させてもらう。

>>639にもある旗返城の戦いで時の当主であった小奴可隆盛が戦死してしまった。
大内家の実質の支配者である陶晴賢は隆盛の嫡男・盛常がまだ若年であるという理由で「久代之地」を大内家預かりにしてしまった。
しかし、盛常は当時18歳。既に元服を終えた立派な武将であった。

ここから小奴可宮家の「久代之地」返還の嘆願が始まった。

1555年、陶晴賢が厳島の合戦で戦死し、その2年後に大内家は滅亡する。
支配者が大内家から毛利家に変わったことにより盛常としても「久代之地」返還は叶うものと思われた。
しかし、毛利方からの返事はNOだった。

盛常はそれ以降も返還の嘆願を繰り返すも毛利方から色よい返事はもらえずに1573年に亡くなった。

遺志は盛常の子・盛慶に託された。
父が亡くなった時は盛慶はまだ16歳の若武者であり、盛慶も返還の嘆願を繰り返していたがなかなか色よい返事はなかった。

しかしここで最後のチャンスが巡ってきた。
太閤検地である。
検地完了により全ての家臣の本拠地にいたるまで実態把握が可能になり、家臣の知行かえを行う条件は整った。
そこで盛慶は「久代之地」返還の嘆願をおこなった。

しかし、毛利方からの返事はNOだった。
結局久代之地は毛利家の蔵入地になってしまった。

ここに小奴可宮家の38年に及ぶ本領返還運動は幕を下ろしたのであった。



644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 21:47:18.66 ID:yAIuWiM8
>>642
よくわからないので教えていただきたいですが、久代の分家が小奴可でしょうか。
それならば、小奴可が討ち死にして久代没収に違和感があります。

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 23:49:34.59 ID:9bjUCH30
>>644
久代の分家は小奴可です。久代は備南の分家。
当時は久代が奴可郡に勢力を広げ、小奴可が勢力を衰退していたそうです。
久代が小奴可の所領を横領したためとも。

ここからは私の予測ですが、小奴可も負けじと久代にある久代の所領を横領したものだと思います。
或いは最初小奴可が先に久代の所領を横領したら、久代から逆襲を受けて他の所領を奪われながらも本領と久代にある一部の所領を1553年まで死守していたのではないかと思われます。

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 02:31:26.13 ID:+AXdfRiH
武功もないのに返してくれだなんて厚かましいよな
武士なら槍働きで取り戻せ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 03:14:10.06 ID:LNkhyFX0
失策して奪われたわけでもないのに厚かましいとかお前が厚かましいわ

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 07:42:02.73 ID:hLpTHbfQ
失策だろ。大内内乱があったとは言え、毛利家はまったく無傷なのに、尼子に走るとか。

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 11:31:49.54 ID:cBGp6FXX
太閤検地がどうチャンスなのかわからねえ…

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