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北条家の弓矢は敵の油断を肝要に

2019年05月30日 15:28

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 01:06:35.63 ID:w6dJrsKv
  此比の大将衆弓矢取様之事

一、北条氏康公は名大将で度々の戦に勝利を得給う。その中で夜軍において管領上杉の大敵に
  一入つけ、ついに則政(上杉憲政)に切り勝って追い失い、関東を切り従えなされた。

  そのため、北条家の弓矢は敵の油断を肝要に目を付けるのである。

――『甲陽軍鑑』



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氏康は鉄砲の音に驚き給う。

2019年05月06日 21:12

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:20:45.36 ID:pa5vvLAa
北条氏康12歳の時、その頃は鉄砲は珍しいと諸侍は尽く撃ち習った。その時、氏康は鉄砲の音に
驚き給う。諸人は目を引いて笑い申した。氏康が口惜しく思し召して小刀で自害しようとし給う時、
各々がその小刀を取り奉ったので、氏康は涙を流し給う。これに御傅の清水(吉政)の申しようは、

「猛き武士が物に驚くことは昔より申し伝えています。その謂れは、馬も勘の良いものは鼠鳴きに
かかり、人に賞翫されるのです。物に驚くのを誉めたことに致す(物に驚くをばほめた事に致す)」

と言えば、氏康はその時に鎮まり給う。これ氏康公12の御歳なり。このように恥を知り給う猛き
大将でいらっしゃればこそ、その後に氏康公24歳の時の河越の夜軍において、敵は両管領人数8
万ばかり、氏康は人数8千で打ち勝ちなされた。これに付けて諸々の謀あり。

この合戦と信長と義元の合戦(桶狭間の戦い)は近代に希なる戦いなり。

――『甲陽軍鑑』



895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:42:47.02 ID:AX7XRnhO
当時って中世ないしは近世だけど、当時は当時なりの「近代」ってのがあったのかな

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:44:58.83 ID:6wWdZ48M
>>894
やらかして切腹するのは権現様の十八番ではなかったのか。

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 22:28:56.32 ID:T0r+wnKW
1520年代なら鉄砲も珍しいな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/06(月) 02:32:09.15 ID:e/hR13Pp
>>895
当時が現代になるだろうからね

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/06(月) 02:32:09.15 ID:e/hR13Pp
>>895
当時が現代になるだろうからね

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 13:29:13.13 ID:PseRbTtz
>>895
戦国時代に大鎧着てくるだけで良くも悪くも一目置かれる
よほど偉いか時代錯誤の田舎者か、その両方かだけど
戦国風だと当世具足って言うぐらいだし

今後関東にては永楽一銭を使うべし

2019年03月16日 21:13

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 22:13:16.43 ID:hR8PXiGa
年の寄った人の言うことによると、近年まで関東ではびた銭と永楽銭をとりまぜて、同じ程に使っていたが、
在々所々にてその善悪を争う事止まなかった。その頃関東八ヶ国の守護であった北条氏康公の仰せに、
『銭は品々ありといえども、永楽以上のものはない。今後関東にては永楽一銭を使うべし』と、
天文十九年(1549)に高札を立てた。これにより関東の市町にては永楽銭を用いた。この事によって、
近国他国でもびた銭の中から永楽銭を撰り出し用いた。故にびた銭はいつとなく上方へ流れ、関西にて
使われ、永楽銭は関東に留まり用いられた。

然るに天下一統の世になると、永楽銭とびた銭の二種類を使うように成ったが、永楽一銭がびた四、五銭と
され、これにより銭の善悪を争い選び、万民安からざる故を上は聞き召し、
『びた一銭を用いるべし。永楽禁制』
と慶長十一年(1606)江戸日本橋に高札が立てられた。それより天下において永楽銭の使用が廃れた。

(安斉随筆)

江戸期からみた撰銭に対する認識を顕した記事



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 22:54:38.93 ID:KvrDsm0D
ググってみたら慶長通宝とか元和通宝なんてものがあるんだな

天狗の仕業に疑いなし

2019年01月01日 19:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 19:05:56.83 ID:+OVb+YgT
この年(1560)8月、氏康公(北条氏康)は足柄城を修造されるために巡見に出られて、関本の最乗寺に
参詣された。

この寺の開山の了庵和尚は、曹洞の開基である道元五代の法孫なり。この場所に山居があったが、大森寄栖庵
が常に信じて、この寺を建立した。そして関東奥羽までこの和尚の法孫として末寺が尽く当寺の住職を勤めて、
1年替わりで輪番した。七堂伽藍の建立なり。

開山の了庵和尚の弟子に道流という者がおり、我慢邪知にして大力の悪僧であったが、「私は生きながら天狗
となって、末世永々までこの山を守護せん」という誓願を起こして毎日荒修行を致し、道流は果たして天狗と
なって山中に住んだ。

「今も悪知識の者がいる時には、必ずやって来て障害をなすこと必定なり」と寺僧が仰々しく語ると、氏康の
供の人々は大いに疑って、「末世にもそんな不思議があるだろうか。その天狗とやらは鳥か獣じゃないのか」
などと言ってささやいた。

するとにわかに大風が吹き落ちて樹木を吹き倒し、寺の門戸を破って震動雷電すれば、「只今天狗に攫われて
いくのか!」と皆人は舌を振って驚き恐れた。こうして「まことに晴れていた空がたちまちこのようになった
のは、天狗の仕業に疑いなし」と氏康も信仰されて、この寺を再興なさった。

――『小田原北条記』



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 23:08:02.71 ID:rE7ObUZk
天狗よ!天狗の仕業よ!

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 14:49:39.46 ID:N7a8tba2
>>558
リアル天狗の仕業でワロタw

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 17:18:54.23 ID:bPx3K1wo
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや

2018年12月07日 13:14

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 05:52:50.75 ID:nH7hfDGG
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

信玄は駿河久能に城を築いた。一夫が怒って関を塞げば三軍の帥も通ることを得難きほどの名地である。今福
浄閑父子(長閑斎友清・虎孝)に同心40騎・雑兵3百7十余人を属しここに籠め置いた。小田原では甲斐勢
を追い散らして氏真を救わんと軍勢を催す。

信玄が思われたのは「氏政は我が婿であるから差し障りはあるまいが、氏真は氏康の婿だから底心は心許ない」
と思われ、寺島甫庵という弁舌者を使者にして小田原へ申されたことには、

「氏真は近年政道悪しきゆえ、家康公に国を取られること疑いなし。そこで家老どもと談合致して氏真を追い
出し候」

と言葉を尽くして謝し申したが、氏康父子は聞き入れなさらずに激怒して寺島甫庵を牢舎させ、同12年正月
18日に小田原を出馬し、三島新経寺に本陣を据えられた。

松田尾張守(憲秀)・同肥後守・同右兵衛大夫(康長)・北条新三郎(氏信)・同常陸守(北条氏繁)・同
治部少輔(北条氏秀)・狩野入道・九島伊賀守・大道寺駿河守(政繁)・多目(多米)周防守・荒川豊後守・
橋本次郎右衛門尉・成田下総守(氏長)・千葉介国胤(千葉邦胤)・原式部大輔(胤栄)・同大蔵丞・大石
信濃守(照基)・内藤大和守(綱秀)を先手として、都合その勢4万5千余騎が三島より蒲原まで段々に陣を
取った。

また三崎の城より北条美濃守(氏規)・大道寺孫九郎(直繁)、伊豆の妻良こうらと沼津三枚橋より鈴木・
渡部・富永(政家)・太田・安藤・梶原三河守・間宮新左衛門(康信)などが3百余艘の兵船を揃え三保崎
へ漕ぎ寄せた。その勢5千余騎。

信玄は久能の城に陣を取り、山県三郎兵衛を1千5百余騎で府中に残して山西の押さえとして、武田左馬助
(典厩信豊)を大将として興津清見寺へ出勢する。同25日、氏康・氏政が清見寺表、薩た山へ出張された。
信玄も久能より清見寺へ出張して興津川原で辰刻より未刻まで3ヶ度の合戦があった。

――『小田原北条記』


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 05:53:33.40 ID:nH7hfDGG
その頃また武田信玄は寺島甫庵という者を使者として相模小田原へ遣わし、北条氏康・氏政父子のもとへ申し
送ったことには、

今川氏真は信玄の甥であるが、昏弱にして佞奸の三浦右衛門佐(義鎮)の言葉のみ信用し、一族家人は非道
の政務を疎んで古老譜代の者どもは恨みを含み、軍卒国民は虐政に苦しんだ。そのうえ乱舞酒宴に耽って武備
を怠廃するゆえ、幕下被官ども皆徳川へ内通し、遠江の城々は大半が徳川のために攻め取られた。やがて駿河
をもかの家の所有となるは必定なり。他人のために取られてしまうよりは、信玄の手に預かり置くべきと存じ、
氏真を追放致し候。

このうえは富士郡の川原を境として川より東は北条家で管領なさるべし。川より西は信玄の所属として治め候
べし。このように約束を定めたうえは、両家はますます親睦して互いに患難を相救い申すべし」

信玄がこのように懇ろに申し送ると、北条父子は聞いて激怒し、

「姦賊が例の邪智巧言で欺くとも、氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや! その使者坊主めを帰すな!」

と甫庵を搦め捕って獄屋に繋ぎ置き、甫庵の従者どもにこれを見せて、

「汝らが甲斐に帰って言うべきは『来春は氏康が早々に出馬して駿河に留め置かれた甲斐の将卒は一々に首を
刎ねる! その用意をして待つべし!』と、信玄に申し聞かせ!」

と申し含めて追い返せば、従者どもは怖気おののき早々に逃げ去った。

北条氏康・氏政父子は永禄12年(1569)己巳正月に4万5千余(原注:一説に5万)の軍勢を引き連れ
て駿河へ発向するとして、まず武田信玄より使者に遣わされた寺島甫庵を三島の三枚橋で磔に掛けて、信玄の
無道と甥・今川氏真の家国を奪った罪を鳴らし、その18日には軍勢を進めて三島の心経寺に在陣し、先手の
諸軍を薩た山八幡平より由井・蒲原まで進ませた。

信玄方でもこれが聞こえて、山県三郎兵衛昌景に2千5百人を属し鞠子に砦を構え、花沢・藤枝・伊久美山の
敵を押さえさせて江尻・井上の両砦にも人数を加え、信玄の旗本は久能山に駐屯し駿河の人質どもをかの山中
に入れ置き、今福浄閑に馬兵40騎・歩卒3百5十人を添えて守護させた。先手は典厩信豊を大将に1万8千
の軍勢を興津河原に押し出し、北条勢と日々足軽迫り合いをさせた。けれどもその間には険阻の切所があった
ため、未だ互いに大合戦には至らずに日数を送った。

――『改正三河後風土記』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 19:40:50.33 ID:WB/8Ev/K
>>507-508
北条視点と徳川視点か、みくらべると面白いね
信玄の酷さは共通してるw

貧乏の時によく仏神の心に叶う

2018年08月16日 20:13

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 15:23:07.36 ID:FW+EssqZ
弘治2年(1556)、相模小田原の北条氏康は切り誇り、武徳をもって足利左馬頭晴氏の
子・義氏を取り立てて葛西谷に移し、奏聞を経て左馬頭に任じさせ“鎌倉公方”と号した。

伝え聞くところによると氏康の先祖は常に絵島明神を祈ったということであった。

浅井久政は曰く「人は必ず貧乏の時によく仏神の心に叶う。神もまたこれを憐れむのである。
富貴の時でも貧を忘れてはならない」と言ったということである。

――『浅井日記』


氏康傷

2018年01月25日 11:34

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 10:42:23.28 ID:/wkT3dlw
永禄7年正月8日、下総国国府台において、北条氏康里見義弘の合戦の砌、敵味方入り乱れ
氏康の下知も聞こえぬほどとなった。

ここで氏康は「加美」と名付けた黒き馬に乗り、白柄の長刀を持ち駆け出した。
そして剛敵を三十騎斬り落として猛威を振るい、合戦に勝利を得た。

この時、彼は身に鑓刀の傷七ヶ所、頬先に太刀傷をうけた。
この事があってより、侍の顔の傷を、人は称して「氏康傷」と言うようになった。

(北條五代記)



595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 12:58:29.71 ID:vTmFWARm
てことは身体に残る傷を受けたのはこの時だけなのか

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 13:14:36.37 ID:aJgje1Yo
まとめの3410の「上杉龍若丸の処刑」
だと、風林火山では上杉憲政の息子と一騎討ちして氏康傷つけられた、てことにされたんだっけ
しかし自分の息子殺されてるのに氏康の息子を助けようとして
養子の養子に殺される元関東管領さんは憐れすぎる

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 10:47:43.77 ID:d6wQLa55
>>596
因縁ある上杉憲政がそれでも推せる人物だったんじゃねえの上杉景虎
越後衆でもないししがらみなく客観的に人物見られたと思う

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 11:01:12.86 ID:LvwdCRRO
越後での「お館様」は憲政で、結構生前の謙信にも抑えられないところはあったみたい

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:04:15.69 ID:WuemNIBu
山内上杉の憲政が屋形様って変な感じするけど

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:14:43.83 ID:LvwdCRRO
謙信も屋形号下された割には尊称が「御実城様」やし

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:23:34.13 ID:3Opyz5ir
>>599
謙信への宛名が山内殿だからなぁ
憲政は前当主として遇されてますわな

であるが、あの景虎という者

2015年10月01日 13:56

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 21:36:17.05 ID:QV802Zwr
永禄4年、最初の越山で北条氏の本拠、小田原に迫り来る上杉景虎の軍勢に対し、小田原城では
重臣たちが集まりその対応を協議していたが、様々な主張が出て議論となり、いかなる方針を取るか
結論が出なかった。
ここで、北条氏康が重臣たちを諌めて言った

「今度の景虎発向の事について各々の主張はどれも尤もである。
であるが、あの景虎という者、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、腹が立って怒る時は
炎の中にも飛び入ろうとし、鬼であっても掴み拉ぐというほど短気な勇者である。

であるが、そんな彼も少し時が過ぎると、その勇も醒めて万事思慮するようになる傾向がある。
『仁者は必ず勇あり、勇者必ず不仁』と言うではないか。

現在彼は上杉憲政から関東管領の名を譲られ、諸侍を配下に付けているのだから、彼の考えを
想像すれば、一層その強みを出そうとしているだろう。
その上彼の軍勢は多勢である。だからその進軍する先々に、我らは軍勢を出さずに籠城して、
彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。

来鋭を避け惰気を撃つとはこれなり。
勇気も疲れ、数日対陣し兵糧が減って飢えたところを討つのだ。」

(相州兵亂記)

上杉謙信北条氏康から超熱しやすく冷めやすいと思われていた模様。




河越夜戦の事

2015年05月07日 18:49

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 21:17:42.95 ID:6Q3hoisF
永禄6年(1563)、北条と武田の松山城攻めの時のこと。
武田信玄北条氏康に、かつての河越夜戦の様子を聞きたいと所望した。
しかし氏康は「信玄殿のような戦巧者に話すのはお恥ずかしい」などと遠慮したが、信玄は

「私は氏康殿より6つも歳劣っております。学問として、お話を承りたい。また嫡男である義信にも
聞かせてやりたいのです。」と、しきりに所望したので、ついに氏康も語り始めた

「川越の夜戦は天分7年7月の一五夜(原文ママ。天文15年(1546)4月20日の間違い)であったと記憶している。

敵は山内・扇谷の両上杉。その人数は8万6千ほど。一方の我々は、、伊豆・相模の両国を領有していたものの、
1万の人数を駿河・甲州との国境に置き、安房の里見への警戒のため三浦にも人数を置いたため、
残った8千の人数を引き連れ、入間川まで進軍すると、敵3万ばかりがこちらに向かって来るのを見て、
早々に小田原に引き退いた。

この時、諜報の者共を出して調べさせると、敵は『氏康は逃げた』と笑い事に沙汰していると聞こえた。
良き沙汰であると思った。
5,6日してまた出陣した。そして前と同じように、敵が向かってくると早々に小田原に撤退した。
敵の沙汰を調べさせると、「氏政はもう出てこないだろう。仮にまた出てきたとしても、いつもの様に
逃げ出すだろう。」と取り沙汰している事が解った。

ここで私は、彼らの沙汰が両上杉による謀略であるという疑いを解き、入間川の端まで出撃し、
人を出して様子を調べさせると、「氏康はどうせまた逃げるだろう。構わずそのまま置いておけ。」と、
敵方は申していることが解った。

そこで私は、8千の人数に白い紙で作った胴肩衣を着せ、
「敵の首を取ってなならない。斬捨てにせよ!そして敵であったとしても、白いものを着た者は
斬ってはならない。また、敵を斬りかけていたとしても、後ろから貝の音が聞こえたら、そこに
集合するように。」と、三カ条を申し含めた。

夜の子の刻(0時頃)、両上杉の旗本が駐屯していたかしわ原という所に斬り込んだ。そして
八つ過ぎ(午前3時頃)まで敵を討ったが、味方の死傷者は100人も居なかった。
後で調べさせると、上杉家の者達は、雑兵合わせて1万6千ほど討ち死にし、1万あまりが負傷して敗軍した。
逃走する両上杉は我らが軍を警戒するあまり我先にと逃げ落ちたため、合戦はこの氏康の利運と成った。

しかし、これは氏康の手柄ではない。この勝利は北条上総介(綱成)と、”ため”という者が剛強であった
故なのだ。

私が中武蔵にて少しばかり切り取ったところを、上総介に与えた所、彼はその所領を自分の欲のために使わず、
それを使って上杉家を背いた侍達500人ばかりを抱え、良き人質を取り小田原に指し寄越し、
川越の城を強靭に持ちこたえた。

また”ため”は河越夜戦の時、50人の足軽を引き回し、私の脇に寄り身構え、夜が明けてもこの氏康を
守護した。そしてこの松山の城に退き籠もった。

上杉家の侍大将たちは弓矢巧者の衆であるから、一旦退いたといえども、氏康の軍勢の人数を見積もり、
疲労したところに掛かって氏康を討とうと戦場に再び押し寄せたが、氏康は既に松山城に堅固に籠もったと
聞いて、流石の侍大将達といえども、上杉敗軍して総大将が居ない状況であったので、どのようにするかと
いう議論がが紛糾した所に、上総介は川越城から出撃し、上杉勢を追い崩し、直ぐに松山城に入って
私を守護し、このあたりの仕置を行った。
その後、川越の城には大同時を置き、上総介は玉縄城で安房を警戒し、氏康のため良くしてくれている。」

この話を聞いた信玄は、自分の陣屋に戻ると、馬場民部(信春)を呼んで言った
北条氏康の弓矢、手立て、だいたい解った。」

(甲陽軍鑑)
北条氏康、信玄に河越夜戦について語る、というお話。




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 21:22:24.79 ID:UDS3Nmt/
>「北条氏康の弓矢、手立て、だいたい解った。」

最後でお茶吹いたわw

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 22:07:38.77 ID:dHplT8NS
えらく長いなと思ったけど、最後まで読んで
ちょっと悪い話として秀逸と思った。

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 02:51:42.66 ID:EwhgJU5F
これで分かるわけないんだよなあ

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 03:10:35.47 ID:W26AB9aq
で、ため って人は誰に当たるの?
風魔か

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 03:30:39.63 ID:sa/Ml6Bk
ためは多目だろ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 04:01:13.54 ID:GDeBRSsV
多目元忠だろうね。北条五色備の一人で黒備。
北条綱成と双璧を為した武将で、氏康の軍師だったとも。

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 05:48:28.41 ID:ObHfsY57
安心の軍鑑w
信玄を持ち上げてるつもりで書いたんだろうが、単なる小知恵者にしか思えないよw

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 09:57:41.61 ID:NzRwIDv/
>>942
馬鹿にしてるようでワロタw

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 15:43:37.44 ID:ow36jQfs
永禄6年だと馬場民部じゃなくて美濃なんじゃ?とか細かいとこが気になった

北条氏康、今川義元に依頼をする

2015年04月17日 18:04

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/17(金) 00:01:08.36 ID:DAofRnT6
天文19年9月9日に、駿河の今川義元より四ノ宮右近、庵原弥兵衛の両人が甲府に御使に参った。
四ノ宮右近は節句の御使、庵原弥兵衛は、小田原の北条氏康から、今川義元に頼まれた使いであった。

氏康から義元への依頼は、このようなものであった
「我が北条家が、(山内)上杉家と弓箭を取ること、私まで三代に渡ります。しかれば、今年中には
有無の一戦を仕る所存です。

もし上杉憲政の運が尽き、私に利運が有れば、関東諸国については北条家によって仕置きするつもりです。
ことさら上野国は上杉憲政居城の国であるが、この上野に武田晴信が手をかけるのを思いとどまるようにと、
そちらから甲府に言って頂きたいのです。

我々の方から晴信に申すべきなのですが、若き人の事でもあり、我らは彼の父信虎とは別して入魂仕り、
信虎も我らと一入懇ろに取り扱い頂きました。ですが、今の晴信にはしかじかと申し談ずることもなく、
殊に、晴信という人物は、少々喧狂のように承っています。
このため、こちらより申し入れて、事破れてしまってはいかがかと思い、義元公を頼りたいのです。
義元公は晴信の姉聟ですから、晴信が気に入らないことであっても義元公が申し入れれば合点するでしょう。」

このように北条氏康今川義元に頼み、武田晴信に仰せに成って、武田が上野に出陣することはなかった。
ただしそれから8年目に、仔細が在って上野に出陣した。

(甲陽軍鑑)

後日談
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9214.html

此の方から人数を出すべからず!

2013年05月12日 19:04

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 16:38:22.90 ID:I8hjgfPM
永禄4年3月、長尾景虎(上杉謙信)が総勢9万6千にて小田原へ攻め寄せるとの情報を察知した北条氏は、
重臣集まり、これは由々しき事態である。敵が近づく前に先ず大磯・小磯に人数を出し防衛戦を形成して
ここで交戦を行う。その上で江戸城、河越城の人数を出して敵を挟撃しよう、などと評議していた。

ここに大屋形である北条氏康が、老臣たちを呼び寄せて言った

「今度の長尾景虎発向の事をよくよく考えてみたが、確かにそなたたちの作戦案も尤もである。
であるが、今度の敵である景虎という人物は、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、
腹を立て怒る時には、火の中にも飛び込もう、鬼であっても掴みひしごうと考える、短気な勇者である。

であるが、怒りの時が少し過ぎれば、その勇猛さは醒め、万事に思い悩むような傾向があると聞いている。
今回彼は上杉憲政より職を譲られ関東管領を名乗り、諸侍を配下に付けたため、彼らが自分を見ていることを
意識し、一層強さを見せようとするだろうし、その上多勢である。

であればその勢とぶつかるよりも、人数を出さず籠城し、彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。
向かってくる鋭鋒を避けてその惰気を討つ、というのはこの事だ。
勇気疲れ数日対陣し、食に飢えたところを、討つべし。

私は一日片時も枕を泰山の安きに置かず、粉骨をなし私欲を去り、士卒の労に変わって身を苦しめ、
現在の乱世を治めて日本の衰えた政道を興し、永遠に仁政が行われる事を欲する者である。
そして、進退にあたってはその機に応じて変化させることも、勇者の心とする所である。

今度の合戦、手を下したとしても、進むべきを知って進むのは時を失わざるためである。
退くべきを見て退くのも、後を全うして国を治めるためである。

先ず籠城の用意をし、敵を外に引き寄せてその馬の足を疲弊させよ!矢弾を尽きさせよ!
此の方から人数を出すべからず!」

この氏康の仰せを、北条氏政を始め重臣の面々も、尤もであると感心し、籠城の用意を始めた。
(關侍傳記)

小田原籠城を決めた、北条氏康の演説である




263 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/12(日) 18:23:47.73 ID:Yol+DUeY
「籠城戦得意だし!」じゃ駄目?

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 20:24:57.90 ID:65XgNyOV
もともと小田原って攻めづらい城なの?
この頃はまだ拡張されてないよね?

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 09:05:51.72 ID:AfJuxrOu
>>262
氏康は敵を知って戦略を変えられる男
それに引き換え息子ときたら・・・

品川の観音

2012年12月11日 20:11

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:39:17.71 ID:cHrP/gax
永禄12年(1569)、武田信玄による小田原攻めの時のことである

武田信玄は駿河方面を警戒していた北條の隙をつき、小田原衆の思いもよらない方角から笛吹峠を超えて、
武蔵国江戸の葛西に懸り、人数を二手に分けて小田原へと寄せた。

一手は八王子口より町田に懸り、つく井・滝山を攻める体にて道筋で略奪をした。
一手は江戸城を攻める体にて、江戸・品川・縄島あたりを焼いて民家を略奪した。

ここに奇妙なことがあった。
信玄の侍に竹森、花村という者があったが、この二人は品川の観音堂を焼き、本尊を取り財貨を略奪した。
ところが甲州に帰った後、かの観音の仏罰が当たり、彼らは突然錯乱した。

このため彼らは観音を他所に移したが、それでもまた錯乱を起こした。
これを持て余した彼らは、往来の乞食聖に、観音を品川に返してくれるよう頼み込んだ。

この観音はこのご3年いろいろな不思議を現し、品川に自ら帰るという宣託を下され、実際に品川に帰られた。
誠に末世の不思議である。

しかし品川に帰られたものの、御堂も焼けどこにも据える場所がなく、乱世の事でもあったので、
新たに建立する者もなく、路の傍らに乞食法師らが仮の草堂を作ってそこに安置した。

今も品川の森の側に辻堂が見えるが、それこそこの観音である。

(關侍傳記)




719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 21:26:29.85 ID:O/P+/iCl
>>716
現在の品川寺か。

小田原に住み着いた唐人たち

2012年11月12日 19:56

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 22:06:41.38 ID:ljQD2uKs
永禄9年(1566)の春、北条氏支配下の三浦三崎の浦に唐船が入港した。
この船は錦の織物、様々な焼き物、沈香、麝香、珊瑚、琥珀の玉など、あらゆる商品を持ち来ていた。
その頃関東は富貴であったので、それら商品は尽く諸人買取り、唐船は売買の利を得て帰国した。

その中に唐人が多数この関東に留まり、目出度き所にこそ住むべきだと、帰国せずに、即ち小田原に居住した。
そこで町家を給わり商人となって、今もその子孫が多数、小田原に有るのだという。
(關侍傳記)

小田原に住み着いた唐人たち、というお話




374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 22:26:20.72 ID:7MWZQl4Y
ういろう家が小田原に行ったのはそういう下地があったのか?

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 12:54:38.83 ID:UPBETAUx
伊藤一刀斎にボコられた唐人も三浦に来てた人だったよね
けっこう定期的な入港があったのかも

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 15:21:35.21 ID:Jl8rqVN2
定住したとこからして定期的な漂流船だろうな

「越前守、左衛門尉、平次兵衛の順に武功がある。」

2012年09月11日 20:33

429 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/10(月) 23:18:10.03 ID:gRP2F1in
北条軍が里見義弘配下の多賀家が守る池和田城を陥落させた時の事である。中山左衛門尉と
伊達越前守が、多賀軍の将に矢を放ち、落馬した所を片岡平次兵衛が首を取ったが、どちらの矢が当たったのか
左衛門尉と越前守の間で論争となった。北条氏康がその時の様子を平次兵衛から聞き、敵将の鎧を確かめた結果、
当たったのは越前守の矢と判明した。恥をかいた左衛門尉は切腹か北条家を去るしかないだろうと
周囲の者は考えた。
所が、氏康は

「越前守、左衛門尉、平次兵衛の順に武功がある。」

として三人に褒美を与えた。

「左衛門尉が二番で、首を取った自分が三番なのは無念じゃ。」

と平次兵衛に言われると、氏康は

「敵を仕損じたのは運だ。左衛門尉は強い相手と戦った。勇士の誉れは軽くはあるまい。」

と説いたという。 家臣の武功をしっかり評価した氏康の逸話である。




北条氏康と掟の札

2011年09月06日 22:19

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 22:13:39.29 ID:xZCj+Eth
自分の給料日毎に出る社報に載ってた逸話を一つ。まとめにも載ってなかったので書いてみる。
北条氏康の掟の話から

自分の領内を家臣達ともに視察しながら歩いていた氏康はある時、掟を書いた立て札を見つけます。

この立て札、民たちの悪事などを戒めるための掟を書いたものなのですが、周りを見回すとこういう掟を書いた
立看板が行く所々で立っていて目立つので、ふと氏康は家臣たちに訪ねます。

氏康「なんで戒めの掟を書いた立て札がこんなに沢山立っているんだ?」

家臣「はい。それは最近、領民たちが悪事を働く事が多くなり、それを取り締まる回数が増えたためでございます。
その為、掟を増やしたのです」

と家臣は理由を説明します。すると氏康は答えます。

氏康「バカモン!領民たちが悪事に手を染めるというのはよほどの理由があってのことだ。
ましてや悪事を働ける程、領内は治安が悪いと言うことだ。それにそのような掟を出し続け、政を行うお上にも
責任の一端があるということだ。」
    
   「人はな、どうしてもやるなと言われた事はやりたくなる質な上に反発もするものなのだ。それに
掟というのは多ければよいと言うものではない。多ければ行動に制約が出るうえに色々と我慢をせざるえないし、
そしてそれら全て守るにはどうしても限度がある。」

   「ならば、いっそ守るものは少ない方が民も自由が効く上に、反発も少なくて済む。それに掟を
連続で出すということはそれだけ政がうまく行っていない事と同じなのだ。お上がだす掟というのは我らの
政の能力を問われている部分でもあるのだ」

(原文はもう少し長かった上にうろ覚え気味だったので要約しました。スマソ)

これを聞いた家臣は一理あると納得して掟の数を減らしたのだという。





484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 22:22:03.62 ID:XaMtUpvR
社報にこんなのが載るとか、どういう会社なんだ いいなあ
後北条は規律に厳しい反面、こういうゆとりも持たせるんだね
そういや、誰かが久しぶりに小田原来た時立て札見て
「こんなに掟が多くなってるなんて 昔はこんなんじゃなかったのに」と嘆いた話なかったっけ?


486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 22:50:39.03 ID:9dpStkQl
劉邦「法は三章のみ」

490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/06(火) 03:27:00.71 ID:LWDbcZgS
文章長ったらしくして、胡散臭い事入れる役人は
古今東西を問わないんだろうなぁ。

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 07:25:23.02 ID:J7fJkpsZ
>>483
その逆バージョンなら知ってる

「矢切りの渡し」由来

2011年07月29日 23:00

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 11:37:06.66 ID:ksYWSRUg
地名にまつわる小話を一つ(ソースは葛飾区が出してる郷土資料の本)

矢切りの渡しで有名な「矢切」の地名の由来はいくつかあるらしいのだが、その中のいくつかを御紹介。
いづれも国府台合戦がらみ。

①里見軍、北条軍双方の「矢が切れるまで激しい戦闘だった」
②里見方の「矢が切れて負けた」から矢きり→矢ぎり
③もう「弓矢の必要ない平和な世の中を願って」地元住民が名付けた。
…などなど。

あと矢切りの渡しの付近(現在の江戸川)の浅い場所を「からめきの瀬」というんだが、
どうやら「からめての瀬」の訛りらしい。浅くて渡りやすい場所を城の「搦め手」に例えたらしい。

巻き込まれる農民にとっちゃ悪い話なので、こっちに投下。
乱文失礼いたしました。




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 12:01:43.83 ID:swGyjQ3y
>>220
からめきの瀬には一説には、
がらめきの瀬ともいってそこにある石ががらがらと音を立てるから、
みたいな話もあったね

だから第二次国府台合戦で北条の大群が夜飲に紛れて渡河しても、
渡河の音がその音にかき消されて気づけなかったとか。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 12:11:22.99 ID:ksYWSRUg
>>221

今はあり得ないほどのどかな場所なんだけどね。
完璧に余談ですが、うちの近所に里見氏の御子孫が住んでいらっしゃるそうな…

北条氏康「朝の酒」

2011年03月16日 00:02

320 名前:北条家家臣[age] 投稿日:2011/03/14(月) 21:19:29.43 ID:nCs2heHX
「朝の酒」

永禄12年に至って、上杉謙信は小田原に使者を送り、北条氏康と盟約を結んだ。
その際の贈り物は、昆布、鱈、干鮭、それに三荷の酒樽であった。
氏康はいずれも相州にない珍品であることを喜び、とくに越後の酒を有難がった。
酒を嗜む人である。酒との付き合いも彼なにの心得があって、

「酒は朝に飲むべき」
と家臣たちに語っている。これから一日の仕事の始まる朝方の酒は、慎しみが持てるし、程よい気映えも生じてよいし、
また酒とはそのような心掛けで飲めば益になると説いたのであろう。





322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 21:29:37.47 ID:pJrDrzFa
車通勤の身には無理な話にて候

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 21:55:40.74 ID:Ic/dtfmh
まあ当時に飲酒乗馬は罪じゃなかろーて

324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/14(月) 22:13:42.16 ID:TQIvZI1s
福島正則「そーか、朝に呑めば良かったのか」

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 23:10:48.44 ID:L87vjS0s
寧ろ、福島正則「そーか、朝から呑めば良かったのか」

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 23:50:10.18 ID:sQQ2seNU
福島正則いがいに突出して酒乱とか飲むと性格変わる人っている?
あ、不識庵さんあなたはいいです。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 06:53:59.50 ID:QafLPdxn
正宗『呼んだ?』


328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 07:56:36.53 ID:bKxSQ6SI
つか朝から酒飲むやつは一日中飲んで(ry

越相同盟と北条氏康の病

2010年07月28日 00:00

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:15:29 ID:qdsK4W9c
永禄12(1569)年、北条氏康と上杉輝虎の利害一致により、越相同盟が成立する。
しかし、北条・上杉双方の利害はしばしば食い違い、関係はぎくしゃくしがちだった。
同13年のこと。
上杉家臣・大石芳綱は、小田原で北条方と交渉を行ったが、一向はかばかしくなかった。
彼は同僚への書状でこれを苛立ちまぎれに愚痴り、さらにこんな情報も書き込んだ。

「御本城(氏康)様はご病状が悪く、自分の子供すらしっかり見分けられないという話だ。
 食事にしても、(何を食べたいか口にできないから)飯と粥を両方持って行き、
 食べたいほうだけ指さしてもらうそうだよ。
 一向に舌が自由にならないので、政治ごとは何もご存じでないらしい。
 少しでも快復されれば、この一件にもきっと意見してくれるのだろうが…
 まるでその様子もないからどうしようもない、とみんな話している」
「御本城の様子はまったく、まっったくあてにならないと思っておいてほしい。
 今度、信玄が伊豆へ攻めたのも知らないだろうってことだ」

せっかくの外交革命も、主導した氏康の病で完全に麻痺していたことが伺える。
彼が波乱の生涯を閉じ、越相同盟が破綻を迎えるのは、翌年のこと。




201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:20:33 ID:f1KRdig0
五十余歳だったよな、死んだの
そんな年齢でそこまで酷いのって、現代じゃあ考えられん。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:33:03 ID:+xTWGpBl
>>201
痴呆症ではなく、中風 = 脳梗塞の後遺症らしいから、現代でも年齢に
関係ない話だよ。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:54:49 ID:Mj6/SiLD
これ脳卒中で倒れた人の症状だろ

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:14:27 ID:DxEjBgaS
失語症があったのかな?
にしても細かく病状が書いてあると面白いね

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:19:55 ID:5wNHLyDt
脳をやられたんだな

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:27:28 ID:uKg5gCfr
OH 
NO

北条氏康、小田原に立ち寄ったとある高僧に

2010年06月11日 00:00

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 21:10:29 ID:eDy/G+WH
旅の途中、小田原に立ち寄ったある高僧が氏康に言った。
「河越での戦いといい独自の善政といい、あなたは文武に優れた名将だと
他国でも知れ渡っていますよ。本当に素晴らしいことです!!」

対する氏康は、
「それらは私の功績ではありません。私の手となり足となり働いてくれた
家臣たちの功績です。褒めるならその者たちを褒めてあげてください」

僧はそれを聞いて、氏康の謙虚さに感心するばかりであったとか。




697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 23:37:04 ID:vNJHUVxE
そして相変わらずつまらない優等生な受け答えをする北条さん

北条氏康、歌の力で

2009年12月22日 01:27

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 00:21:20 ID:3QHMS5cS
北条氏康はその武辺は勿論、文事の嗜みも深く、特に和歌を好み、多くの秀逸な歌を
詠んだそうだ。

ある夏の夕暮れの事

氏康が高楼に上って涼んでいたところ、ふと狐が鳴いた。
側に侍った近習の人々これに、「夏の夜に狐が鳴くのを聞けば、その身に不吉が起こると
申します」と言った。

それを聞くと氏康、歌を詠んだ

『夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ』

翌朝、その高楼の側で狐の死骸が見つかったと言う事である。

氏康、歌である種の呪い返しをしたというお話。




266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 00:35:14 ID:yo5VxcXl
>>265
なんか漫画みたいだなw