であるが、あの景虎という者

2015年10月01日 13:56

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 21:36:17.05 ID:QV802Zwr
永禄4年、最初の越山で北条氏の本拠、小田原に迫り来る上杉景虎の軍勢に対し、小田原城では
重臣たちが集まりその対応を協議していたが、様々な主張が出て議論となり、いかなる方針を取るか
結論が出なかった。
ここで、北条氏康が重臣たちを諌めて言った

「今度の景虎発向の事について各々の主張はどれも尤もである。
であるが、あの景虎という者、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、腹が立って怒る時は
炎の中にも飛び入ろうとし、鬼であっても掴み拉ぐというほど短気な勇者である。

であるが、そんな彼も少し時が過ぎると、その勇も醒めて万事思慮するようになる傾向がある。
『仁者は必ず勇あり、勇者必ず不仁』と言うではないか。

現在彼は上杉憲政から関東管領の名を譲られ、諸侍を配下に付けているのだから、彼の考えを
想像すれば、一層その強みを出そうとしているだろう。
その上彼の軍勢は多勢である。だからその進軍する先々に、我らは軍勢を出さずに籠城して、
彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。

来鋭を避け惰気を撃つとはこれなり。
勇気も疲れ、数日対陣し兵糧が減って飢えたところを討つのだ。」

(相州兵亂記)

上杉謙信北条氏康から超熱しやすく冷めやすいと思われていた模様。




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河越夜戦の事

2015年05月07日 18:49

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 21:17:42.95 ID:6Q3hoisF
永禄6年(1563)、北条と武田の松山城攻めの時のこと。
武田信玄北条氏康に、かつての河越夜戦の様子を聞きたいと所望した。
しかし氏康は「信玄殿のような戦巧者に話すのはお恥ずかしい」などと遠慮したが、信玄は

「私は氏康殿より6つも歳劣っております。学問として、お話を承りたい。また嫡男である義信にも
聞かせてやりたいのです。」と、しきりに所望したので、ついに氏康も語り始めた

「川越の夜戦は天分7年7月の一五夜(原文ママ。天文15年(1546)4月20日の間違い)であったと記憶している。

敵は山内・扇谷の両上杉。その人数は8万6千ほど。一方の我々は、、伊豆・相模の両国を領有していたものの、
1万の人数を駿河・甲州との国境に置き、安房の里見への警戒のため三浦にも人数を置いたため、
残った8千の人数を引き連れ、入間川まで進軍すると、敵3万ばかりがこちらに向かって来るのを見て、
早々に小田原に引き退いた。

この時、諜報の者共を出して調べさせると、敵は『氏康は逃げた』と笑い事に沙汰していると聞こえた。
良き沙汰であると思った。
5,6日してまた出陣した。そして前と同じように、敵が向かってくると早々に小田原に撤退した。
敵の沙汰を調べさせると、「氏政はもう出てこないだろう。仮にまた出てきたとしても、いつもの様に
逃げ出すだろう。」と取り沙汰している事が解った。

ここで私は、彼らの沙汰が両上杉による謀略であるという疑いを解き、入間川の端まで出撃し、
人を出して様子を調べさせると、「氏康はどうせまた逃げるだろう。構わずそのまま置いておけ。」と、
敵方は申していることが解った。

そこで私は、8千の人数に白い紙で作った胴肩衣を着せ、
「敵の首を取ってなならない。斬捨てにせよ!そして敵であったとしても、白いものを着た者は
斬ってはならない。また、敵を斬りかけていたとしても、後ろから貝の音が聞こえたら、そこに
集合するように。」と、三カ条を申し含めた。

夜の子の刻(0時頃)、両上杉の旗本が駐屯していたかしわ原という所に斬り込んだ。そして
八つ過ぎ(午前3時頃)まで敵を討ったが、味方の死傷者は100人も居なかった。
後で調べさせると、上杉家の者達は、雑兵合わせて1万6千ほど討ち死にし、1万あまりが負傷して敗軍した。
逃走する両上杉は我らが軍を警戒するあまり我先にと逃げ落ちたため、合戦はこの氏康の利運と成った。

しかし、これは氏康の手柄ではない。この勝利は北条上総介(綱成)と、”ため”という者が剛強であった
故なのだ。

私が中武蔵にて少しばかり切り取ったところを、上総介に与えた所、彼はその所領を自分の欲のために使わず、
それを使って上杉家を背いた侍達500人ばかりを抱え、良き人質を取り小田原に指し寄越し、
川越の城を強靭に持ちこたえた。

また”ため”は河越夜戦の時、50人の足軽を引き回し、私の脇に寄り身構え、夜が明けてもこの氏康を
守護した。そしてこの松山の城に退き籠もった。

上杉家の侍大将たちは弓矢巧者の衆であるから、一旦退いたといえども、氏康の軍勢の人数を見積もり、
疲労したところに掛かって氏康を討とうと戦場に再び押し寄せたが、氏康は既に松山城に堅固に籠もったと
聞いて、流石の侍大将達といえども、上杉敗軍して総大将が居ない状況であったので、どのようにするかと
いう議論がが紛糾した所に、上総介は川越城から出撃し、上杉勢を追い崩し、直ぐに松山城に入って
私を守護し、このあたりの仕置を行った。
その後、川越の城には大同時を置き、上総介は玉縄城で安房を警戒し、氏康のため良くしてくれている。」

この話を聞いた信玄は、自分の陣屋に戻ると、馬場民部(信春)を呼んで言った
北条氏康の弓矢、手立て、だいたい解った。」

(甲陽軍鑑)
北条氏康、信玄に河越夜戦について語る、というお話。




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 21:22:24.79 ID:UDS3Nmt/
>「北条氏康の弓矢、手立て、だいたい解った。」

最後でお茶吹いたわw

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 22:07:38.77 ID:dHplT8NS
えらく長いなと思ったけど、最後まで読んで
ちょっと悪い話として秀逸と思った。

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 02:51:42.66 ID:EwhgJU5F
これで分かるわけないんだよなあ

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 03:10:35.47 ID:W26AB9aq
で、ため って人は誰に当たるの?
風魔か

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 03:30:39.63 ID:sa/Ml6Bk
ためは多目だろ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 04:01:13.54 ID:GDeBRSsV
多目元忠だろうね。北条五色備の一人で黒備。
北条綱成と双璧を為した武将で、氏康の軍師だったとも。

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 05:48:28.41 ID:ObHfsY57
安心の軍鑑w
信玄を持ち上げてるつもりで書いたんだろうが、単なる小知恵者にしか思えないよw

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 09:57:41.61 ID:NzRwIDv/
>>942
馬鹿にしてるようでワロタw

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 15:43:37.44 ID:ow36jQfs
永禄6年だと馬場民部じゃなくて美濃なんじゃ?とか細かいとこが気になった

北条氏康、今川義元に依頼をする

2015年04月17日 18:04

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/17(金) 00:01:08.36 ID:DAofRnT6
天文19年9月9日に、駿河の今川義元より四ノ宮右近、庵原弥兵衛の両人が甲府に御使に参った。
四ノ宮右近は節句の御使、庵原弥兵衛は、小田原の北条氏康から、今川義元に頼まれた使いであった。

氏康から義元への依頼は、このようなものであった
「我が北条家が、(山内)上杉家と弓箭を取ること、私まで三代に渡ります。しかれば、今年中には
有無の一戦を仕る所存です。

もし上杉憲政の運が尽き、私に利運が有れば、関東諸国については北条家によって仕置きするつもりです。
ことさら上野国は上杉憲政居城の国であるが、この上野に武田晴信が手をかけるのを思いとどまるようにと、
そちらから甲府に言って頂きたいのです。

我々の方から晴信に申すべきなのですが、若き人の事でもあり、我らは彼の父信虎とは別して入魂仕り、
信虎も我らと一入懇ろに取り扱い頂きました。ですが、今の晴信にはしかじかと申し談ずることもなく、
殊に、晴信という人物は、少々喧狂のように承っています。
このため、こちらより申し入れて、事破れてしまってはいかがかと思い、義元公を頼りたいのです。
義元公は晴信の姉聟ですから、晴信が気に入らないことであっても義元公が申し入れれば合点するでしょう。」

このように北条氏康今川義元に頼み、武田晴信に仰せに成って、武田が上野に出陣することはなかった。
ただしそれから8年目に、仔細が在って上野に出陣した。

(甲陽軍鑑)

後日談
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9214.html

此の方から人数を出すべからず!

2013年05月12日 19:04

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 16:38:22.90 ID:I8hjgfPM
永禄4年3月、長尾景虎(上杉謙信)が総勢9万6千にて小田原へ攻め寄せるとの情報を察知した北条氏は、
重臣集まり、これは由々しき事態である。敵が近づく前に先ず大磯・小磯に人数を出し防衛戦を形成して
ここで交戦を行う。その上で江戸城、河越城の人数を出して敵を挟撃しよう、などと評議していた。

ここに大屋形である北条氏康が、老臣たちを呼び寄せて言った

「今度の長尾景虎発向の事をよくよく考えてみたが、確かにそなたたちの作戦案も尤もである。
であるが、今度の敵である景虎という人物は、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、
腹を立て怒る時には、火の中にも飛び込もう、鬼であっても掴みひしごうと考える、短気な勇者である。

であるが、怒りの時が少し過ぎれば、その勇猛さは醒め、万事に思い悩むような傾向があると聞いている。
今回彼は上杉憲政より職を譲られ関東管領を名乗り、諸侍を配下に付けたため、彼らが自分を見ていることを
意識し、一層強さを見せようとするだろうし、その上多勢である。

であればその勢とぶつかるよりも、人数を出さず籠城し、彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。
向かってくる鋭鋒を避けてその惰気を討つ、というのはこの事だ。
勇気疲れ数日対陣し、食に飢えたところを、討つべし。

私は一日片時も枕を泰山の安きに置かず、粉骨をなし私欲を去り、士卒の労に変わって身を苦しめ、
現在の乱世を治めて日本の衰えた政道を興し、永遠に仁政が行われる事を欲する者である。
そして、進退にあたってはその機に応じて変化させることも、勇者の心とする所である。

今度の合戦、手を下したとしても、進むべきを知って進むのは時を失わざるためである。
退くべきを見て退くのも、後を全うして国を治めるためである。

先ず籠城の用意をし、敵を外に引き寄せてその馬の足を疲弊させよ!矢弾を尽きさせよ!
此の方から人数を出すべからず!」

この氏康の仰せを、北条氏政を始め重臣の面々も、尤もであると感心し、籠城の用意を始めた。
(關侍傳記)

小田原籠城を決めた、北条氏康の演説である




263 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/12(日) 18:23:47.73 ID:Yol+DUeY
「籠城戦得意だし!」じゃ駄目?

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 20:24:57.90 ID:65XgNyOV
もともと小田原って攻めづらい城なの?
この頃はまだ拡張されてないよね?

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 09:05:51.72 ID:AfJuxrOu
>>262
氏康は敵を知って戦略を変えられる男
それに引き換え息子ときたら・・・

品川の観音

2012年12月11日 20:11

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:39:17.71 ID:cHrP/gax
永禄12年(1569)、武田信玄による小田原攻めの時のことである

武田信玄は駿河方面を警戒していた北條の隙をつき、小田原衆の思いもよらない方角から笛吹峠を超えて、
武蔵国江戸の葛西に懸り、人数を二手に分けて小田原へと寄せた。

一手は八王子口より町田に懸り、つく井・滝山を攻める体にて道筋で略奪をした。
一手は江戸城を攻める体にて、江戸・品川・縄島あたりを焼いて民家を略奪した。

ここに奇妙なことがあった。
信玄の侍に竹森、花村という者があったが、この二人は品川の観音堂を焼き、本尊を取り財貨を略奪した。
ところが甲州に帰った後、かの観音の仏罰が当たり、彼らは突然錯乱した。

このため彼らは観音を他所に移したが、それでもまた錯乱を起こした。
これを持て余した彼らは、往来の乞食聖に、観音を品川に返してくれるよう頼み込んだ。

この観音はこのご3年いろいろな不思議を現し、品川に自ら帰るという宣託を下され、実際に品川に帰られた。
誠に末世の不思議である。

しかし品川に帰られたものの、御堂も焼けどこにも据える場所がなく、乱世の事でもあったので、
新たに建立する者もなく、路の傍らに乞食法師らが仮の草堂を作ってそこに安置した。

今も品川の森の側に辻堂が見えるが、それこそこの観音である。

(關侍傳記)




719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 21:26:29.85 ID:O/P+/iCl
>>716
現在の品川寺か。

小田原に住み着いた唐人たち

2012年11月12日 19:56

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 22:06:41.38 ID:ljQD2uKs
永禄9年(1566)の春、北条氏支配下の三浦三崎の浦に唐船が入港した。
この船は錦の織物、様々な焼き物、沈香、麝香、珊瑚、琥珀の玉など、あらゆる商品を持ち来ていた。
その頃関東は富貴であったので、それら商品は尽く諸人買取り、唐船は売買の利を得て帰国した。

その中に唐人が多数この関東に留まり、目出度き所にこそ住むべきだと、帰国せずに、即ち小田原に居住した。
そこで町家を給わり商人となって、今もその子孫が多数、小田原に有るのだという。
(關侍傳記)

小田原に住み着いた唐人たち、というお話




374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 22:26:20.72 ID:7MWZQl4Y
ういろう家が小田原に行ったのはそういう下地があったのか?

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 12:54:38.83 ID:UPBETAUx
伊藤一刀斎にボコられた唐人も三浦に来てた人だったよね
けっこう定期的な入港があったのかも

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 15:21:35.21 ID:Jl8rqVN2
定住したとこからして定期的な漂流船だろうな

「越前守、左衛門尉、平次兵衛の順に武功がある。」

2012年09月11日 20:33

429 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/10(月) 23:18:10.03 ID:gRP2F1in
北条軍が里見義弘配下の多賀家が守る池和田城を陥落させた時の事である。中山左衛門尉と
伊達越前守が、多賀軍の将に矢を放ち、落馬した所を片岡平次兵衛が首を取ったが、どちらの矢が当たったのか
左衛門尉と越前守の間で論争となった。北条氏康がその時の様子を平次兵衛から聞き、敵将の鎧を確かめた結果、
当たったのは越前守の矢と判明した。恥をかいた左衛門尉は切腹か北条家を去るしかないだろうと
周囲の者は考えた。
所が、氏康は

「越前守、左衛門尉、平次兵衛の順に武功がある。」

として三人に褒美を与えた。

「左衛門尉が二番で、首を取った自分が三番なのは無念じゃ。」

と平次兵衛に言われると、氏康は

「敵を仕損じたのは運だ。左衛門尉は強い相手と戦った。勇士の誉れは軽くはあるまい。」

と説いたという。 家臣の武功をしっかり評価した氏康の逸話である。




北条氏康と掟の札

2011年09月06日 22:19

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 22:13:39.29 ID:xZCj+Eth
自分の給料日毎に出る社報に載ってた逸話を一つ。まとめにも載ってなかったので書いてみる。
北条氏康の掟の話から

自分の領内を家臣達ともに視察しながら歩いていた氏康はある時、掟を書いた立て札を見つけます。

この立て札、民たちの悪事などを戒めるための掟を書いたものなのですが、周りを見回すとこういう掟を書いた
立看板が行く所々で立っていて目立つので、ふと氏康は家臣たちに訪ねます。

氏康「なんで戒めの掟を書いた立て札がこんなに沢山立っているんだ?」

家臣「はい。それは最近、領民たちが悪事を働く事が多くなり、それを取り締まる回数が増えたためでございます。
その為、掟を増やしたのです」

と家臣は理由を説明します。すると氏康は答えます。

氏康「バカモン!領民たちが悪事に手を染めるというのはよほどの理由があってのことだ。
ましてや悪事を働ける程、領内は治安が悪いと言うことだ。それにそのような掟を出し続け、政を行うお上にも
責任の一端があるということだ。」
    
   「人はな、どうしてもやるなと言われた事はやりたくなる質な上に反発もするものなのだ。それに
掟というのは多ければよいと言うものではない。多ければ行動に制約が出るうえに色々と我慢をせざるえないし、
そしてそれら全て守るにはどうしても限度がある。」

   「ならば、いっそ守るものは少ない方が民も自由が効く上に、反発も少なくて済む。それに掟を
連続で出すということはそれだけ政がうまく行っていない事と同じなのだ。お上がだす掟というのは我らの
政の能力を問われている部分でもあるのだ」

(原文はもう少し長かった上にうろ覚え気味だったので要約しました。スマソ)

これを聞いた家臣は一理あると納得して掟の数を減らしたのだという。





484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 22:22:03.62 ID:XaMtUpvR
社報にこんなのが載るとか、どういう会社なんだ いいなあ
後北条は規律に厳しい反面、こういうゆとりも持たせるんだね
そういや、誰かが久しぶりに小田原来た時立て札見て
「こんなに掟が多くなってるなんて 昔はこんなんじゃなかったのに」と嘆いた話なかったっけ?


486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 22:50:39.03 ID:9dpStkQl
劉邦「法は三章のみ」

490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/06(火) 03:27:00.71 ID:LWDbcZgS
文章長ったらしくして、胡散臭い事入れる役人は
古今東西を問わないんだろうなぁ。

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 07:25:23.02 ID:J7fJkpsZ
>>483
その逆バージョンなら知ってる

「矢切りの渡し」由来

2011年07月29日 23:00

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 11:37:06.66 ID:ksYWSRUg
地名にまつわる小話を一つ(ソースは葛飾区が出してる郷土資料の本)

矢切りの渡しで有名な「矢切」の地名の由来はいくつかあるらしいのだが、その中のいくつかを御紹介。
いづれも国府台合戦がらみ。

①里見軍、北条軍双方の「矢が切れるまで激しい戦闘だった」
②里見方の「矢が切れて負けた」から矢きり→矢ぎり
③もう「弓矢の必要ない平和な世の中を願って」地元住民が名付けた。
…などなど。

あと矢切りの渡しの付近(現在の江戸川)の浅い場所を「からめきの瀬」というんだが、
どうやら「からめての瀬」の訛りらしい。浅くて渡りやすい場所を城の「搦め手」に例えたらしい。

巻き込まれる農民にとっちゃ悪い話なので、こっちに投下。
乱文失礼いたしました。




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 12:01:43.83 ID:swGyjQ3y
>>220
からめきの瀬には一説には、
がらめきの瀬ともいってそこにある石ががらがらと音を立てるから、
みたいな話もあったね

だから第二次国府台合戦で北条の大群が夜飲に紛れて渡河しても、
渡河の音がその音にかき消されて気づけなかったとか。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 12:11:22.99 ID:ksYWSRUg
>>221

今はあり得ないほどのどかな場所なんだけどね。
完璧に余談ですが、うちの近所に里見氏の御子孫が住んでいらっしゃるそうな…

北条氏康「朝の酒」

2011年03月16日 00:02

320 名前:北条家家臣[age] 投稿日:2011/03/14(月) 21:19:29.43 ID:nCs2heHX
「朝の酒」

永禄12年に至って、上杉謙信は小田原に使者を送り、北条氏康と盟約を結んだ。
その際の贈り物は、昆布、鱈、干鮭、それに三荷の酒樽であった。
氏康はいずれも相州にない珍品であることを喜び、とくに越後の酒を有難がった。
酒を嗜む人である。酒との付き合いも彼なにの心得があって、

「酒は朝に飲むべき」
と家臣たちに語っている。これから一日の仕事の始まる朝方の酒は、慎しみが持てるし、程よい気映えも生じてよいし、
また酒とはそのような心掛けで飲めば益になると説いたのであろう。





322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 21:29:37.47 ID:pJrDrzFa
車通勤の身には無理な話にて候

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 21:55:40.74 ID:Ic/dtfmh
まあ当時に飲酒乗馬は罪じゃなかろーて

324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/14(月) 22:13:42.16 ID:TQIvZI1s
福島正則「そーか、朝に呑めば良かったのか」

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 23:10:48.44 ID:L87vjS0s
寧ろ、福島正則「そーか、朝から呑めば良かったのか」

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 23:50:10.18 ID:sQQ2seNU
福島正則いがいに突出して酒乱とか飲むと性格変わる人っている?
あ、不識庵さんあなたはいいです。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 06:53:59.50 ID:QafLPdxn
正宗『呼んだ?』


328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 07:56:36.53 ID:bKxSQ6SI
つか朝から酒飲むやつは一日中飲んで(ry

越相同盟と北条氏康の病

2010年07月28日 00:00

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:15:29 ID:qdsK4W9c
永禄12(1569)年、北条氏康と上杉輝虎の利害一致により、越相同盟が成立する。
しかし、北条・上杉双方の利害はしばしば食い違い、関係はぎくしゃくしがちだった。
同13年のこと。
上杉家臣・大石芳綱は、小田原で北条方と交渉を行ったが、一向はかばかしくなかった。
彼は同僚への書状でこれを苛立ちまぎれに愚痴り、さらにこんな情報も書き込んだ。

「御本城(氏康)様はご病状が悪く、自分の子供すらしっかり見分けられないという話だ。
 食事にしても、(何を食べたいか口にできないから)飯と粥を両方持って行き、
 食べたいほうだけ指さしてもらうそうだよ。
 一向に舌が自由にならないので、政治ごとは何もご存じでないらしい。
 少しでも快復されれば、この一件にもきっと意見してくれるのだろうが…
 まるでその様子もないからどうしようもない、とみんな話している」
「御本城の様子はまったく、まっったくあてにならないと思っておいてほしい。
 今度、信玄が伊豆へ攻めたのも知らないだろうってことだ」

せっかくの外交革命も、主導した氏康の病で完全に麻痺していたことが伺える。
彼が波乱の生涯を閉じ、越相同盟が破綻を迎えるのは、翌年のこと。




201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:20:33 ID:f1KRdig0
五十余歳だったよな、死んだの
そんな年齢でそこまで酷いのって、現代じゃあ考えられん。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:33:03 ID:+xTWGpBl
>>201
痴呆症ではなく、中風 = 脳梗塞の後遺症らしいから、現代でも年齢に
関係ない話だよ。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:54:49 ID:Mj6/SiLD
これ脳卒中で倒れた人の症状だろ

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:14:27 ID:DxEjBgaS
失語症があったのかな?
にしても細かく病状が書いてあると面白いね

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:19:55 ID:5wNHLyDt
脳をやられたんだな

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 20:27:28 ID:uKg5gCfr
OH 
NO

北条氏康、小田原に立ち寄ったとある高僧に

2010年06月11日 00:00

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 21:10:29 ID:eDy/G+WH
旅の途中、小田原に立ち寄ったある高僧が氏康に言った。
「河越での戦いといい独自の善政といい、あなたは文武に優れた名将だと
他国でも知れ渡っていますよ。本当に素晴らしいことです!!」

対する氏康は、
「それらは私の功績ではありません。私の手となり足となり働いてくれた
家臣たちの功績です。褒めるならその者たちを褒めてあげてください」

僧はそれを聞いて、氏康の謙虚さに感心するばかりであったとか。




697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 23:37:04 ID:vNJHUVxE
そして相変わらずつまらない優等生な受け答えをする北条さん

北条氏康、歌の力で

2009年12月22日 01:27

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 00:21:20 ID:3QHMS5cS
北条氏康はその武辺は勿論、文事の嗜みも深く、特に和歌を好み、多くの秀逸な歌を
詠んだそうだ。

ある夏の夕暮れの事

氏康が高楼に上って涼んでいたところ、ふと狐が鳴いた。
側に侍った近習の人々これに、「夏の夜に狐が鳴くのを聞けば、その身に不吉が起こると
申します」と言った。

それを聞くと氏康、歌を詠んだ

『夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ』

翌朝、その高楼の側で狐の死骸が見つかったと言う事である。

氏康、歌である種の呪い返しをしたというお話。




266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 00:35:14 ID:yo5VxcXl
>>265
なんか漫画みたいだなw

北条氏康、人を使う者としての心得

2009年12月01日 00:06

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/30(月) 21:18:16 ID:6pwbTB9p
北条氏康が隠居をした後の事、
彼がある時、北条を継いだ息子、氏政に尋ねた事があった。

「氏政、お前は今、何を以って楽しみとしているのか?」

「は。私は今家臣の中から、能力のあるものを選び出す事を楽しみとしております。」

氏康、うなずいて
「それでいい。…が、一言忠告しておこう。
大将たる者が家臣を選ぶのは普通にあることだが、家臣が大将を選ぶ、と言う時もある。

普段から氏卒を愛し、諸近に憐れみの心を施していなければ、いざ合戦と言う時必ず、
士民は領国から逃げ出し、他国のより良い将の元へと行ってしまうだろう。
だからこそ、士卒を愛し、庶民を憐れむ事を、大将の職分と言うのだ。

氏政、お前は良くこれを守り、この職分を家老に任せるようなことは絶対にしてはいけない。
いいな?人心が自分から離れてから、俄に甘言を振りまいても、
誰も付いては来ないものだぞ?

士卒に少しでも功があれば、それを忘れる事無く、即座に褒美をし、ますます
励ませるようにするのだ。
下々の功績を正当に褒賞する事無く、功績だけを我が物として盗むような真似だけは、
絶対にしてはいけない。」

北条氏康の、人を使う者としての心得である。




778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 00:06:46 ID:WCciK+hr
>>773
氏康はほんとに小言が多いなw
それくらい氏政をかわいがってたんだと思うが

北条氏康、永禄三年の九箇条の徳政令

2009年11月17日 00:06

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 19:33:51 ID:gmDXNtiu
永禄三年、名目上引退したはずの北条氏康(45)は、
自らの評定衆を率いて独自の印判状を発給したりして、
引退前と変わらずバリバリ働いていた

その頃の氏康の悩みは、天文十八年に起きた巨大地震の対策と
この頃相次いだ猛烈な飢饉・凶作にあえぐ百姓からの山のような嘆願、
更に上杉謙信という、もはや恒例となった災害の被害に対する対処など
色々広範に渡るものであった

そんなこんなに頭を悩ます氏康がこの年に発した永禄三年の九箇条の徳政令は

1.この年の年貢は半分だけを銭ではなく米で収めること
  (この頃年貢はほぼ銭だった)
2.御年貢銭の半分は精銭で、半分は他の質の劣る銭で収めてもよい
3.借りた銭や米などはリセットしちゃって良し
4.妻子、下人の年季売りは取り戻して良し
5.田畑の年季売りは契約年季の三分の二は無かったことにして良し
6.ただしこれまで未納の年貢のうち、代官・奉行が立て替えた分は百姓が払うこと  (利息分は返済を免除する)
7.ただし、うち(北条)の蔵銭から貸し付けた分は無かったことにしません
8.民間の無尽銭(寺社などが営む高利貸し)も徳政の対象にできません
9.田畑の永年売りは本来違法ですが、今回だけ見なかったことにします。
  なんかトラブルあったら氏康に手紙で相談してね

という民に優しいのかどうなのか現在の人には簡単にはわかりかねるけど、
戦国にしては優しいのかしれないかなーという内容のものであった。

氏康は割とこの徳政に自信を持っていたようで、後に
「万民を哀憐し、百姓に礼を尽くした
 天道において明白なことだ」
と自ら述懐している

坊さんに「もっと善政しろよ」と言われて
「オレが今までどれだけ善政をしてきたかお前なんかにわかるんか!」
と、宿題やろうとしたところで親に怒られた小学生みたいにキレたこともある
北条氏康の内政に対する満々な自信を伺わせるお話




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 20:30:40 ID:z1dHcWRZ
こりゃまた微に入り細を穿つ布令ですな
氏康は大名と言うよりは、諸葛孔明みたいな政治家だなあ

北条氏康、「まず何を習わせるべきか」

2009年06月26日 00:02

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 19:45:54 ID:JScLGyhJ
みんなの勉強に関する逸話が面白かったので一つ

北条氏綱の嫡男、後の氏康がまだ元服前の出来事
氏康が習い初めの年齢を迎え、氏綱は家臣一同にまず何を習わせるべきか問うた
これに、家老・松田左馬助が進み出、「算術がよろしいでしょう」と答えた

若い家臣達、一様に嘲るような笑みを浮かべた
少年期の氏康、鉄砲の逸話もあるように臆病者と侮られていた節がある
武勇第一の若侍にすれば、確かに算術あたりがお似合い、と思ったのだろう

が、氏綱は怒り、彼らを大喝した
「心得違いをするな!
大将というものは、兵を動かすにも兵糧を見積もるにも、算用算術がなくてはならん
老臣の左馬助はそれをよく知っているから、ああ申したのだ
若輩がそれを笑うとは何事か」
そう言って、氏綱はまず氏康に算術を学ばせた

大将・氏康の基礎を作ったのは、偏見のない氏綱の教育方針だったのかもしれない




767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 20:38:39 ID:45gTEMVr
>>766
氏康のやった税制改革とかすごいからなあ。有る意味数字の芸術。
ああいう政策が出来るのは、こういう教育方針があったからなのだね。
なんか納得できる話だ。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 20:50:26 ID:tkYs3VGa
>大将というものは、兵を動かすにも兵糧を見積もるにも、算用算術がなくてはならん
当時これが判ってる大名ってどれぐらい居たんだろう?

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 20:56:04 ID:TgSG0/p2
氏康は祖父、叔父も勉強に厳しそうだ。
特に祖父は暇があったら本読めなんて言うくらいだし。
実際北条家の武士は文字の読み書きは皆出来たんだろうか。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 21:49:48 ID:eCFFjQkI
>>770
祖父はもう別格だろさ。
小笠原とならぶ礼法の宗家当主の娘を母に、宗家当主の腹心格を父に持ってるからな。
しかも三男坊で家の当主に慣れる可能性もないからその分学問に力入れていたろうし。
そのかいあって義視の近習をへて今川に拾われた経験を思えば相当息子や孫の教育にも力入れたと思う。

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 21:55:13 ID:i6QMNemK
>>756
ググッたら、その逸話はそれこそ村越三十郎の話のようだが、同じようなものなんですかね。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 22:05:08 ID:qEUShzWM
北条は残ってる文書量がハンパない上に
わりとしっかりした文体の書状が多いから
そこそこ古文漢文できれば意味読むのが楽だし楽しいぞ
字も丁寧な人多いしな

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 22:59:38 ID:BLG71BID
北条は割と近代的な文書行政を確立してたんだっけ?

784 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/25(木) 23:18:52 ID:Uc2r8pYA
>>768
算術を理解出来たと推定される大名

前田利家(効率的蓄財術のため)
徳川家康(効率的へそくり術のため)
黒田如水(効率的へそくり術&兵力動員力の推定のため)

毛利隆元(国家予算編成)

算術は大体奉行級が知っている必要があるなぁ。

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:22:25 ID:tkYs3VGa
>>784
さすがに戦国後期にもなるとそうだけど
氏綱の時代じゃそこまで重視してる大名や重臣は多くはなさそう


鎌倉のある小寺の鐘の顛末・悪い話

2009年06月03日 00:05

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 12:41:59 ID:QKjZcQc9
ある時、上杉謙信の許に、彼が小田原に入れた間者から、このような報告があった。

「北條氏康の重臣の中でも松田尾張守は、民生、軍事共に優秀で、忠義の心も厚く、
氏康からの信頼を特に得ている人物です。

その松田が最近、諸方の寺より鐘を集めて、それを鉄砲の弾に改鋳いたしました。
ところが鎌倉のある小寺の住職は、鐘を取られるのを甚だ悲しみ、これを出さずに済むよう
色々と弁解したがかなわず、いよいよ鐘を持ち出されるという時、これに抱きついて

『わたしは年来、四六時中、この鐘に手を触れないという事はなかった。
今後これに触る事ができないかと思えば、残念な事これに尽きない!』

と言い、泣く泣く鐘と別れました。

さて、この鐘小田原に至り、融かそうとしたところ、鐘から水が噴出し炭火を消してしまいました。
その後何度か試したものの、その度に水が噴出し、融かす事が出来ない。
人々は皆、あの僧の執心怨懐の為であろうと、奇異の念に打たれました。

ここで、ある老いた鋳物師が言うには、『このような事、古来から多く例のあることだ。
牛馬の糞を炭火の中に入れてみてくだされ、水が吹かなくなり融かす事ができるでしょう。』

そこで言われたようにしてみると、なるほど水が出る事も無く、炭火によって鐘はたちまち
湯となった、と言うことです。

世の中にはこのような事もあるのだと、小田原でのもっぱらの話題です。」

そんな、モノマニアックな僧と鐘の、不思議なお話。





965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 13:01:40 ID:5bEMOW1+
>>964
後で鋳物師に怪異が起きたりしなかったろうか。ちと心配な

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 16:21:58 ID:YLQWcGaT
おいてけー、おいてけー

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 16:57:21 ID:ICpaxzWR
>>964
>このような事、古来から多く例のあることだ。
昔ってすごいなぁ、こんな怪異がしばしば起こってたのか

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 16:58:23 ID:eSRASkSq
967の家の屋根が強風で吹っ飛んだようです

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 17:18:29 ID:xtVNuhza
なんか化学とかで解明できないかな?

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 17:52:45 ID:vTClJaIl
スパイの報告がこんな話でいいの鐘

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 17:58:59 ID:5bEMOW1+
>970ここのスレ住人みたいな“草”だなー
小田原の弾丸備蓄をちゃんと調べる過程で拾った話……と思いたいがw

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 19:39:09 ID:xWAqF9LP
ヒント
当時も弾丸は鉛製。

973 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/02(火) 22:51:29 ID:eO0lTGft
北条方は鉄玉を黒金玉、鉛玉を同玉として使ってたみたいだが


974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 22:57:07 ID:QKjZcQc9
当時の弾丸って材質もそうだけど、種類も用途に応じて何十種類もあったらしいね。

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 23:09:08 ID:vTClJaIl
鉄製の弾丸は壊れにくかったので主に練習用だったそうな。
北条は戦跡から鉄製、銅製、鉛製が見つかってる。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/03(水) 01:39:49 ID:+MhXyQlN
>>968
何とか布団だけは守り通したよ


大雄山最乗寺の天狗・悪い話?

2009年05月25日 00:01

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/24(日) 20:30:37 ID:cv8S2gap
北条氏康が足柄の城普請の巡検からの帰り、その近くにある 大雄山最乗寺へと参詣した。

さてこの時、最乗寺の寺僧達が言うには、最乗寺開山了庵和尚の弟子に、道流と言う
大力の僧がいた。
この道流、最乗寺を守護せんと大誓願を発起し、たちまち天狗となってり、今もこの山中にある。
今もその天狗が見守っているため、この山に悪智職が住をなせば、たちまち災いが起こる、と言う。

氏康のお供の者たち、流石に信じられず
「昔語りに言う末世にはそう言うことがあったかもしれないが、今の世の中にそのような…」
と、囁いた。その時である

大風、たちまち起こり、寺の屋根がことごとく吹き飛んだ。
その日、それまでそよ風一つ無い晴天であったのに、である。
これには氏康のお供たちも

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////

と、驚愕。氏康は、直ちに元の如くするよう、普請を命じた。
この事態に、天狗と言うものは今の時代も生きているのだと、皆不思議に思ったとのことである。

            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
         |  彡   ~~~~ミ      はいはい、わしのせい わしのせい
     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
   /     |ll        |   ヽ
  /       z W`丶ノW     ヽ
 /        \\   / /      |
/    天      \`i / /  狗   |




666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/24(日) 20:37:52 ID:Nmr+vcWV
この逸話が後の小田原征伐時、石垣山城が一夜にして現れたのを見て
兵卒達が「秀吉は天狗か!?」と思い込み士気が下がりまくった要因になるんですね判ります

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/24(日) 20:41:43 ID:rYWqSToq
万能だな天狗。


「提灯本間」・いい話

2009年02月01日 00:15

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 01:41:09 ID:DFBBJwJK
天文15年(1546)4月夜、武蔵国河越。
河越城を包囲した両上杉軍は、ここまで弱腰の北条を侮り、酒宴を開く者までいた。
北条氏康はそのスキを見逃さず、これに夜襲をかけた。 世に言う『河越夜戦』である。

不意を突かれ浮き足立ち、我れ先に逃げる両上杉軍に比べ、白い紙羽織で軍装をそろえ、
合言葉を使い万全を期して戦う北条軍に乱れはなく、勝負は一方的な展開になった。

いや、上杉の侍にも全く動ぜず、踏みとどまって戦わんとする者がいた。
体躯人に優れたその男は、九つの提灯を竹竿に掛け、あかあかと灯すと名乗った。

「我は本間近江守!真の闇を照らす者なり!闇に隠れて動く卑怯者め、恐れぬのなら
この灯りの下に出て闘えい!!」

北条軍から、一人の若武者がこれに答えた。

二人は全ての灯火が消え果てるまで打ち合ったが、ついに勝負の着く時が来た。

「クッ、このわしが若造相手に不覚を取るとは!見事だ、北条の若侍よ、名を名乗れ!」
「・・・大道寺孫九郎・・・・・・」
「『御由緒家』の大道寺か!道理で・・・大道寺殿よ、頼みがある。」
「・・・言ってみよ。」

「この九つの提灯な。わしはもうこの通りじゃ、使うことが出来ん。せめてお主が持って行き、
『本間ほどの者を討ち取った』と標にして、よく氏康殿に仕えて伝えてくれい。」

「・・・承知いたした。」
「よし、もう思い残すことは無い。・・・・・・やれい!!」
「・・・・・・御免!!」

本間の首を挙げた孫九郎は、のちに名を大道寺政繁と改め、さらに武名を轟かせた。

本間との約束により造られたその馬印、『九つ提灯』は関八州に知られ、北条家では
彼の武勇にあやからんと、勇士は旗指物に提灯を指すようになったという。




77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 11:32:57 ID:l1Bj6vp6
>>64
おおー提灯本間だー かっけぇなあ・・・

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 16:51:41 ID:VwaV0Vua
>>64
なるほど、
これが後に三好孫九郎から山下民部へと連なっていくのか・・・。
坂東武者はめんどくさいけどカッコいい。

北条氏康、鉄砲の音に驚く・いい話

2009年01月26日 00:08

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 04:37:44 ID:z8hGLN95
大永四年(1524)、北条氏康が12歳の頃のこと、小田原城で、鉄砲を撃つことがあった。
この頃はまだ鉄砲が珍しく、城内の侍たちは皆、これを見物しに集まった。
氏康も、この時鉄砲を始めて目の当たりにした。
彼も無論近くに行ってこれを見ていたが、銃が発射されると、その轟音に大きく驚いてしまった。

その氏康の姿に、集まっていた侍たちはついつい笑った。
笑われて、12歳の氏康はこう思った。

「死のう」

彼はおもむろに小刀を取り出すと、いきなり腹につきたてようとした。

周りは大騒ぎになり、よってたかって刀を取り上げた。すると氏康は、笑われて
死ぬ事も出来ないのかと、鉄砲の音に驚いた自分が情けなく、泣いた。
泣いている氏康に、守役の清水吉政はこう言った。

「勇者は物に驚きやすいと、昔から申します。
馬の中でも勘のいいものは、夜になっても周りを警戒して寝付かず、
飼い主を困らせると言います。
物に驚くと言うのは、それだけ新しい状況の変化に、敏感に反応しているということです。
これは武将として、ほめられるべき資質なのです。
知らぬものを驚く事は、臆病ではありません。」

そう言われて氏康は、ようやく泣き止んだ。


驚く事の価値を諭された、少年の日の氏康のお話。




767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 09:12:30 ID:Hk8C39IT
>>759
これいいなあ

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 09:25:03 ID:jOeoeCIL
>>759
この鉄砲というのは種子島とは別物

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 10:20:17 ID:GOERX5+X
>768それなら氏康の年齢に納得ですだ

ほうろくみたいな、いわゆる焼き玉の類かな?


※川越夜戦に絡めたエピが前スレだったか、でてたけど...イイハナシダナー

771 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/25(日) 11:01:40 ID:bD6XKChj
>>759
こんな小さい頃からすでに篭城癖がついていたんだな…納得

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 12:13:12 ID:6tvbUW5R
>>771
その篭城癖のせいで城内では殆ど裸だったらしいですね
最近読んだ「殿といっしょ」のと言う本の3巻に出てました

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 12:33:26 ID:7t4U1Syl
>>759
風林火山の横内正の声で脳内再生させると説得力倍増だなあ。

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 12:55:26 ID:PugsJ1LL
>>768
火矢?

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 13:28:00 ID:gpJOi1jo
>>774
中国伝来(1510年?)の鉄砲じゃね?
種子島に比べて精度はかなり悪かったらしい。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 13:43:59 ID:hoZUaiJD
>>776
普通に考えれば焙烙玉
様はマンガに出てくる丸い爆弾
原理的には現在の花火と同じで
炎と破片負傷効果を狙った手榴弾的な意味合いもある
元襲来時に鎌倉御家人達をパニックに陥れた‘てつはう’の進化型
戦国時代の陸上戦ではあまり見られないが水上戦闘では主力兵器
木造船にとって火力と衝撃力を兼ね備えた焙烙玉は有効な兵器だからね
倭寇が東シナ海を暴れ回れたのもこの焙烙玉のおかげ
北条は房総を巡って水軍運用が盛んだったから当然多数を保持していたはず

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 14:28:11 ID:GOERX5+X
>>777
相模の前に伊豆をガッチリ抑えてるもんね。
海賊(水軍衆)のやることはお手の物だわな

……城で焼き玉実演て気をつけないとアブないが

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 16:19:59 ID:iE2Bb9Xa
鉄砲のそもそもの由来って、意外とよくわからないらしい。

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 16:27:01 ID:bYtaLNlk
>>769,774
火銃・神槍かと。
鳥銃以前の原始的な中国製火器で、倭寇を通じて日本にも入ってきていた。
文献上、これらも「銃」と書かれるので火縄銃との区別が付かないのが困り者。
どんなものかといえば映画もののけ姫でたたら衆が使ってたアレ。

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 16:32:43 ID:/6DRuzv3
>>776
日本にも少量輸入されてた銅手銃じゃないかな。音は火縄銃よりでかい。
ようつべで中国の三眼銃の試射動画あったけどすごい轟音だ。
中国では三つの銃身を持つ三眼銃が爆発的に普及し、遼東などで銃砲師団も創設されていた。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/25(日) 16:42:56 ID:z8hGLN95
鉄砲伝来についてだが、「北条五代記」には、永正七年(1510)に中国より伝わった、とあり、
この北条五代記は江戸期の軍記物だが、明応大地震の描写など、最近一定の信憑性が
あるのではないかと言われている書物。

まあ、種子島以前から、種子島ルート以外からも鉄砲が伝来していただろう、
って言うのは現代ではほぼ定説になっているね。
ちなみに種子島に伝来した鉄砲は、軍事用ではなく狩猟用。
しかもヨーロッパではなく東南アジア製だったらしい。

どうも日本の鉄砲史というのは、それまでにあった何種類かの鉄砲のうち、
種子島に伝来したものを軍事用にカスタムしていったものが、他種を圧倒し
普及していった、と言うものらしい。