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少弐兄弟の再興のやり方

2014年11月20日 17:51

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:31:03.02 ID:kV3ZtmYj
少弐兄弟の再興のやり方

1559年、少弐冬尚が勢福寺城で斃れた。
同じく冬尚の長弟・千葉胤頼も自害して果てた。

この時冬尚には3人の弟がいた。
相神浦松浦家の養子となっていた松浦鎮(生年不詳だが資元の三男とも)
次弟も三弟ともされる少弐政興(資元の三男とも四男とも)
末弟の少弐元盛(資元の四男とも五男とも)

鎮は養父・親に廃嫡され幽閉されてしまった。
そのあとの鎮は知らない。
残るは政興と元盛の2人である。

政興は『武』で、元盛は『政』で少弐家再興を企んだ。
政興は肥前中野城主・馬場鑑周(頼周の孫)に匿われた。
元盛は今泉朝覚を使者とし、元盛を当主として再興を訴えた。

まず元盛のほうは再興は叶わなかったが、朝廷の綸旨により龍造寺隆信は元盛の命を保障することとなり、元盛はのちに高野山にのぼった。
子供たち4人は隆信に味方することとなる。

一方政興は大友宗麟の同盟を結び、1563年に有馬晴純などの有馬家一門を中心とした西肥前諸勢力と共に隆信に対して挙兵した。
しかし頼みの一角であった有馬家らは早々に敗れてしまい、擁立した馬場鑑周も1565年に肥前中野城にて隆信に降伏してしまった。

進退窮した政興に見えたが、大友宗麟からの後援はいまだあり(毛利家の動向に影響はしているが)、綾部城(少弐山城のことか)にて健在であった。
またこの時は隆信も思うように勢力を拡大できていなかった。

1568年、隆信の娘婿になっていた旧臣・小田鎮光(政光の子)が政興を許してほしいと願い出るが、隆信はこれを許可せずまもなく鎮光は龍造寺家から離反した。
1570年、今山の戦いで大友軍を奇襲で破り勢いづいた隆信は少弐政興討伐をするが、政興は
1572年、筑紫氏や横岳氏の擁立で再びの抗戦するも、綾部城は落城した。(別の城ともいう)
(1571年にも綾部城落城とあるが、こちらは宮山城のことであるという。<少弐氏滅亡という。>)

約10年にもわたり隆信に抗戦した政興であったが、隆信は政興を助命し出家したという。
のちに政興は九州を去ったという。

これにより少弐氏の再興は失敗と終わり、肥前は龍造寺隆信の時代となった。

隆信が冬尚の弟たちを助命した話


(北肥戦誌や福岡県みやま市の史料などを参考)




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