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津軽為信は忠誠心を試すため、付近にあった家臣の集落を…

2010年03月26日 00:04

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 23:15:53 ID:sGuRgWYh
流石為信、これは悪い話

弘前・松本遺跡で炭化穀物出土
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2010/20100319181432.asp

> 地元では「初代津軽藩主・為信が近くで軍事演習を行った」
> 「忠誠心を試すため、付近にあった家臣の集落を焼き打ちした」という言い伝えが残り

お前は冒頓単于かw




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 00:26:38 ID:/wixmgiG
石川城襲撃前の軍事演習とは違う話?
家臣には内緒で「協力してくれたら新しい家屋建てるよ!」と住民に約束し
当日は隣りの集落に移動させたとか

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 00:31:59 ID:IozcQELl

>>626
夫を攻め殺して、俺の嫁になれってしつこく女性に迫った話もあるじゃない
結局振られて逆上しその館を攻め囲んで殺したそうだけど

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 00:52:37 ID:W51v54v8
でも地元では南部の圧制から解放してくれた名君です

津軽為信と油川城攻略戦

2010年02月11日 00:17

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 22:13:44 ID:F92M7arG
地元のお話が少ない気がするので小ネタを

天正の頃、津軽平野を瞬く間に席巻した津軽為信でしたが、彼が次に目をつけたのが外ヶ浜(今の青森市~外ヶ浜町)の要衝、油川城でした。
連戦連勝で勢いに乗る津軽勢は、一気に青森平野へとなだれ込み、油川城へと迫ります。

……が、この城を守る南部家家臣奥瀬善九郎はなかなかの名将であったらしく、津軽勢は城を落とすどころか野戦で叩きのめされ、撤退……というか潰走。
青森平野から追い出されました。
※ちなみに、この時為信が『白旗をあげて逃げた』ことから、この周辺を『白旗野』と言うようになったという説を聞いたのですが……白旗?

さて、これに懲りた為信は、正面攻撃では勝ち目がないと踏んだのか、はたまた無駄な兵力の損失を惜しんだのか
それともただ単に奇策が好きだったのか、策略によって城を落とすことにしました。
というのもこの善九郎、戦場ではなかなかの名指揮官だったのですが、かなりの怖がりで、
夜厠に行くときは、鈴を鳴らして外にいる家臣に返事をさせる……それでようやく安心して用を足す、といった具合だったそうなのです。

そして、ある夜、彼が厠に行った時……どうかは知りませんが、ふと外を見ると多数の篝火が山をおりてきます。
その数は圧倒的で、とても油川城の手勢で守りきれそうもありません。
これを見た善九郎は抗戦を断念、持ち出せるだけの軍資金等を運び出させ、自身は船に乗って対岸の田名部(現むつ市)まで落ちていきました。

説明するまでもなく、この篝火は為信が実数以上に多く焚かせ、大軍に見せかけたものでした。
為信は一兵も損じることなく、城を落とすことに成功したわけです。


いい話と悪い話、どちらに投稿するのか迷ったのですが、為信に一度は土をつけた善九郎と、それを策略によって敗走させた為信の知恵ということでw
ちなみに、奥瀬善九郎の話、臆病者で篝火で逃げた……というのばかりで、野戦で為信を撃破したという部分があまり出されていないので、優れた面もあったのですよ、と弁護。




741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 22:19:18 ID:VzTu9/4Q
>>740
> この篝火は為信が実数以上に多く焚かせ、大軍に見せかけたもの
この辺は武田流の軍略って感じですな。血のなせる技なのかw

武田といえば

> この時為信が『白旗をあげて逃げた』ことから、この周辺を『白旗野』と言うようになったという説を聞いたのですが……白旗?

この時期からそうなのか知らないが、津軽氏は源氏を名乗っているから、源氏の白旗なんじゃないかな?


742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 22:39:57 ID:4GpG7GxE
741の言うように、源氏の白旗だろうね。

戦国時代じゃないんで詳細は省くが近所に白旗塚って地名がある。
新田義貞が鎌倉幕府(北条氏)追討の南下の際に何回か合戦をやってるわけだけど、
そのうちの一戦で本陣を構えた場所(源氏の白旗が翻った場所)だから、って由来で。

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 22:54:50 ID:C7cGclZX
為信は久慈家からの養子だから後に近衛家の傍流を自称して、本姓を藤原としたみたいだね。



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 23:34:12 ID:F92M7arG
>>741
>>742
ありがとうございます。今まで津軽は藤原(近衛)氏だと思っていたんですが、今調べたら源氏も名乗ってたんですね……
不勉強で申し訳ないです。そして、長年気になっていた疑問が氷解しました。
教えてくれた方が『降伏の意味で~』みたいな話っぷりだったので、疑問だったのですが、これは近代になってから
降伏の白旗とごっちゃになったのかなぁ……とw

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 23:36:05 ID:F92M7arG
>>743
補足ありがとうございました。レス書くのにこんな時間かかってたなんて……orz

どうにかして秀吉にお近づきになりたい津軽為信、&訛りについて

2010年02月11日 00:16

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 23:34:12 ID:F92M7arG


お礼かたがたもうひとつ為信ネタ。
さっきのと同じく、昔郷土史の先生に聞いた話です(ネットで補足)

天下もそろそろ安定し、武勇よりも世渡りが大事になってきた頃のお話。
どうにかして秀吉にお近づきになりたい津軽為信でしたが、如何せん文字通りの『陸奥』の田舎大名……
まともに行ってもとても相手にしてもらえません。
そこで為信は考えました。
そういえば、奥州藤原の末裔と名乗っていることもあったり、ご先祖様の大浦政信は前関白近衛尚通の
隠し子だという伝承があったりなかったりする。

よし、近衛(藤原)氏になっちゃえ!
……実はお前南部一族の出身だろとか言われたくないしねw

ということで、時の関白近衛前久に接待攻勢、よっぽど貧乏だったのか、はたまた東北の珍物が効いたのか、
まさか本当に近衛家に心当たりがあったのかは知りませんが、意外とあっさり養子にしてもらった為信、
近衛の牡丹紋を描いた駕籠で秀吉の所へと向います。

さて、有名無名問わず、大名武将がずらりと並ぶ中でも、近衛の牡丹紋は大層目立ちます。
あれに乗っているのは何者だ? 偉いお公家様か、はたまたどっかの名門大名か……
みなが注目している中で、駕籠からのそりと顔を出したのは……髭もじゃで熊のごとき大男、
これには見ていた者も度肝を抜かれたとのことでした。

結局、これが奏功したのかどうか知りませんが、所領は安堵され、後の津軽氏の礎となるのでした。
そういえば、言葉はちゃんと通じたんでしょうかね?




746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 23:48:26 ID:7vAhELt+
>>744
一応当時も共通語として室町言葉があったから、大名としての教養のうちだったんじゃないかな>言葉

近衛家と通じることができるくらいだから
上方の文化や人材を仕入れるルートもあったんじゃないかと。
為信の軍師?と言われる沼田祐光は畿内出身ともいわれるし
近衛家と通じるために近衛家にいた者を召抱えたという話もある。

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 23:56:28 ID:F92M7arG
>>746
>一応当時も共通語として室町言葉
浅学を恥じるばかりですが、知りませんでした。ありがとうございました、勉強になります(平伏)
結構上方とは連絡をとれているみたいなので、つて(話せる人)はあったと思うのですが、
本人はどうだったのかなーとふと疑問に思ってしまいまして。
近衛~召抱えはそういえば聞いた記憶があります。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 23:57:05 ID:9hnEjf4g
というか、当時の日本海側は太平洋側に比べて
海運商船流通によってかなり情報聞達速度も速かったはず

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 00:04:34 ID:1z+pZgEC
東北から太平洋を渡る東廻り航路が確立したのは江戸時代だもんな。
日本史の教科書は河村瑞軒をもっと称えるべき。

ちなみに津軽藩だと青森が、港湾都市として発達したのは、すべてこの
東廻り航路の成立のお陰だったりする。

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 00:10:17 ID:iYDtUm5u
>>748
あ、はい、海運のところは知っていたのですが、江戸時代以前はお国訛が凄かったイメージがあったので、
実際会った時はどうだったのかな、と(汗
今でもわからない言葉とかあるので……(青森育ちなのに)
スレ違い申し訳ありませんでした。

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藤代御前と津軽為信

2009年11月17日 00:05

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 20:38:23 ID:ECSLbcPS
津軽家の弘前城からほど近い所に藤代という村があり、
そこの大きな館の女主人を人は藤代御前と呼んでいた。
藤代御前は名高きヴィジンとして、近隣の地に広く知られていたという。
津軽為信も、かほどの美人ならば是非とも側に置いておきたいと思い、

為信「側室として来て頂けませんか?」

彼女を側室に誘った。

御前「津軽様ならお断りします」
為信「え?」

そして、拒絶された。
実は藤代御前、夫を津軽為信に殺された美貌の未亡人である。断わって当然の立場だった。
だが為信にとっては所詮は過去の思い出である。為信はくじけず、二度目のプロポーズへと移る。
為信が用意したのは、具足を身に纏った足軽達だった。皆、手に得物を持ち、館を攻囲している。
どうやら為信、実力行使に出たらしい。
それに対し体を狙われている藤代御前はというと、妹と家来達と共に武器を手に館に篭もった。
藤代御前はその美貌もさることながら、武勇にも優れていたと伝えられている。
だがいくら武勇に優れていたといえど、限界がある。家来達も多くが戦場に倒れ、
いよいよ藤代の館が津軽の手により陥落しようとしたその時、

御前「津軽の女になるくらいなら、戦って死んでやりましょう!」

藤代御前は門を八の字に開放し、僅かな手勢を連れて打って出て、
死力の限りを尽くして暴れまわった後、討ち死にを遂げた。

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 20:40:02 ID:ECSLbcPS
藤代御前が死んだ後、津軽為信は後悔するどころか不安な日々を過ごしていた。
実は藤代御前、死に際に

御前「津軽為信ゥ、この恨みは忘れんぞ! 貴様だけではなく、末代にいたるまで
   津軽を祟りまくってやるゥ!」

と言い放ったのだ。
南部から独立して大名にまでなったのに、祟りで御家を滅ぼされてはたまったものではない。
しかも、運よく為信の代の呪いを乗り切ったとしても、末代まで祟ると藤代御前は公言仰せであった。
どうにかして防ぐ術はないものか――――と悩みに悩んで、時は慶長十二年まで流れゆく。
京に居た為信も、もう死期が近い。これは流石に御前の呪いではないだろう。

為信「わしが死ねば、恐らく津軽家は藤代御前に祟られようぞ。
    だが、わしもただでは死なん。逆に、わしが奴を祟ってくれよう」

晩年の為信、実にいい事を閃いたものだ。
藤代御前の墓は、岩木川に面する土地にある。為信は、その御前の墓の上に
自分の墓を造れと左右に命じた。

為信「わしが、死してなお藤代御前を上から押さえつけてやろうと言うのよ」

こうして為信は、念願の藤代御前と永久に眠る事――――ではなく、無事に
津軽家を祟りから救う事ができたという。




224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 20:48:38 ID:ZVhtJVcX
為信の奥さんは家臣を幼い頃から息子の様に育てたりした立派な人だったというのに…

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 21:50:09 ID:D3jPilHF
為信さん気持ち悪いです><

226 名前:sage[] 投稿日:2009/11/16(月) 22:00:40 ID:pheHiaw4
なんて最低な…

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 22:02:31 ID:pheHiaw4
なんて間抜けな…

きたない為信さすが汚い

2009年07月14日 00:04

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/13(月) 10:47:05 ID:399I726Y
きたない為信さすが汚い
津軽の梟雄、奸智に長けた髭殿のお話。

津軽為信が1603年(慶長八年)から築城を開始した弘前城。
日本七名城の一角として誇る見事な縄張りと、岩木川を外堀に据え
津軽富士と讃えられた岩木山を景観に取り入れた悠然たる様は、
かの司馬遼太郎をして『こんな田舎にかの優雅な近世城郭が出現したこと事態、
奇 跡 に 近 い 。』とまで言わしめたほどなのだが…この城の外廓、
津軽家の菩提寺・長勝寺の周辺…『長勝寺構え』と呼ばれる一角には、津軽の
梟雄と呼ばれた為信らしい逸話が残っている。

1571年(元亀二年)、津軽一帯を統治していた南部家に叛逆の狼煙を上げた
津軽為信は、津軽の領主であった石川高信の居城である石川城へ攻め込む。
この際、二十二歳という妙齢であった為信の妻・阿保良(おうら)は
夫の旗揚げに参加する兵卒達に自ら強飯を炊き出して手拭に包み、その
一人一人に手渡していったが…この若妻から腰兵糧を受け取った者達の中に
八十三人のならず者達が居た。

このならず者達、為信が近隣の賭場やら盛り場やらで雇って来た正真正銘の
悪漢達である。彼らは槍や具足は愚か寸鉄も帯びず軍陣に会った。
もとより、為信も彼らに槍働きを期待していない。為信が彼らに命じたのは…

津軽為信>> いいか野郎共。わしらの軍勢が石川城攻撃を始めたら、お前らは
      城下にある侍達の長屋や百姓達の集落へ走って…。

      目についた女子供はたぶらかせ、連れ去れ、犯せ、輪姦せ。
      なるべく派手に。 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜

織田信長は田畑仕事に関わらない流浪人を専業兵士に取り立て、
上杉謙信は鉄炮を扱える者は鎧を帯びずともよい、と専業鉄炮兵に取り立てたが
津軽為信は、賭場の博徒や悪漢達を乱取りの専業として採用したのである。

城下の凄惨な有様に、正気で居られないのは南部軍である。篭城中に郭外から
自分の愛する女子供達の悲愴な阿鼻叫喚が聞こえてくるのだから
合戦に集中できるはずがない。結局、石川城は陥落し城主・石川高信は討死。
『三日月が丸くなるまで』と謡われた奥羽北部に、津軽為信は見事
風穴を開ける下克上を達成したのだった。

だが、これと同じ意趣返しをされれば平然として居られないのは津軽軍も
一緒である。そこで為信が考えたのは、自らの拠点に女子供達を匿うための
領域を設けることだった。それが、前述した『長勝寺構え』である。

ただし、津軽為信はその長勝寺構えと弘前城の完成を見ることは無かった。
1607年(慶長十二年)、豊臣秀吉・徳川家康と実力者の推移を読み取り
見事津軽一円を所領として勝ち得た梟雄・津軽為信は京都で世を去った。

そんな津軽為信の、(梟雄の梟雄たる所以を見せ付けた)悪い話。





359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/13(月) 10:57:44 ID:fn6KaxJA
これは普通に悪い話だな
もっとも当時の武将は武略とでも言い換えるだろうが

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/13(月) 12:27:45 ID:1fcSv4ku
石川を攻めたときだっけか?
沼田祐光はあまりにも酷かったから二度とこの手は使わせなかったんだよなあ


362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/13(月) 12:51:13 ID:HfYeYQPG
>>361
一条兼良の足軽禁止の話を思い出した

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/13(月) 14:06:36 ID:tS+dWr3s
>>358
信直「きたないなさすが為信、親父の仇汚い」

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/13(月) 14:50:42 ID:vipCmP6A
そんなお前だって尽くしてくれた八戸南部を解体しようとあの手この手で……


津軽、南部両氏の臣従話

2009年07月12日 00:10

318 名前:316[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 16:56:53 ID:ZNGWDhtw

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-521.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-511.html
この二つとは少し違う津軽、南部両氏の臣従話を。

南部氏との戦いにおいて優位に立ち、独立という目的が達成される目処が立った時
大浦為信が次に考えたのは独立が中央の権威によって公認されることだった。

その為に関白近衛前久と繋がりのあった深浦勘助という人物を登用し、近衛家に取り入った。
同時に中央の状況に目を配り、どうやらそれが羽柴秀吉の掌中に収められると見てとると
自ら上洛し秀吉に謁しようとした。

第一回は天正13年8月
海路鰺ヶ沢より出帆したが暴風に巻き込まれ、松前沖まで流された後なんとか三厩に帰り着く。
第二回は天正14年
前年の反省から陸路最上領を抜けようとするも失敗
第三回は天正15年
兵二千を率いて南部領突破を試みるも失敗
第四回は天正16年
秋田領から西上しようとしたが失敗
天正17年には自身の上洛はともかくとにかく秀吉と通じることが肝心と
家臣八木橋備中里員を派出し鷹や名馬を献上、結果見事津軽3郡合浦一円の支配を認められ
為信は大浦姓を改めて津軽姓を名乗った。

さらに翌天正18年
秀吉の小田原征伐に伴う小田原参陣命令に応じてわずか家臣18名を連れて津軽を出発
小田原への途上にあった秀吉に沼津で謁し、無事津軽領の所領安堵状を手に入れた。

そしてその後帰国途上のこと
なんと道中で同じく秀吉に謁するべく小田原へ向かう南部信直とその兵1000と
出会ってしまったのである。

信直も中央の情勢に無関心だったわけではない。
京の鷹買商田中西六を通じて中央の情報を得ており
天正14年には前田利家を通じて秀吉に馬その他を送り、翌15年には利家の許に
北信愛を派遣している。
今回の小田原参陣命令を受けると
「これこそ為信の叛逆を訴え、津軽を取り戻す好機」と兵1000を率いて小田原に向かったのだ。

信直の部下は「今こそあの叛逆人を」と襲いかからんとしたが
この時為信がぱっと広げて見せたのは近衛家の金紋と秀吉の所領安堵状
為信は関白近衛前久の猶子となっていたのである。

信直は手を出すことができず、口惜しげに路を開いて為信一行を通したという。

わずか18名の家臣と兵1000では身軽さが違う。
信直が小田原についた時には為信が所領安堵状を得てから三日が過ぎていた。
信直は「為信は叛逆人であり、津軽3郡の正当な領主は自分である」と秀吉に訴えたが
一度天下人が出した判決を覆すことはできない。
涙をのんで7郡安堵で満足するほかなかった。





317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 16:09:42 ID:/XeTczRW
悪い話じゃねーかw

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 18:45:07 ID:hCwj+3sN
きたないなさすが為信汚い

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 18:57:25 ID:zvgq52rT
>>320
信直乙

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 19:02:15 ID:hCwj+3sN
>>322
為信乙

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 19:03:57 ID:6s0aATUR
為信「信直、えらい大軍を率いてきたもんだな。この朱印状一つに相変わらずごたいそうな男だ」
信直「!!」
為信「備中、西六!ここは逃げよう!信直くんはやはり数で勝負に出るようだ」

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 19:20:01 ID:TnXIhpzf
乱世の奸雄乙

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 20:09:22 ID:56dvFQuY
鯵ヶ沢は魚が安くて旨かったな
東京では考えられない量が乗ったうに丼とか

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 20:32:55 ID:RnKoLyps
         ∧_∧  うに丼ドゾー
         (`・ω・´)   シュッ
         (つ  と彡 /
          | |/  /
          (/   /
         /    /
        /      /
      / ///   / ツツー
       **
       ***
      ****
      | ̄ ̄ ̄|
      \__/
  ...    └-┘


328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/11(土) 20:43:31 ID:alU50aCd
その代わり東京では考えられないくらい
生活効率が悪いと思うぞw


津軽為信に仕えた忍者、服部長門

2009年06月21日 00:04

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 03:55:49 ID:ptJ9DTth
いい話でも悪い話でもないから書き込むのちょっとためらうけど書いちゃう。


津軽為信に仕えた忍者、服部長門のお話。

服部は甲賀の出身で忍者の出であり、なおかつ甲賀忍術の達人であったといわれる。
為信には初期から仕えた古参の家臣とも関ヶ原合戦の直前に加わった新参とも言われるが長くなるので割愛。

彼を語る上で外せないのが大垣城攻略での活躍だろう。
服部長門は合言葉や合印を使って大垣城に潜入し城内の備え、将士の士気など様々を調べ周り
攻め方を研究した。さらに嘘の情報を流してのかくらんも行った。

長門「この戦はもう徳川様の勝利で確定だから。このままだと君らマジやばいよ。
   なんとかしてあげるからYOU裏切っちゃいなYO」
これにより大垣城は俺は裏切る、いや裏切らないの大騒ぎとなりやがて内乱にまで発展した。
この隙を突いて大垣城攻撃隊が攻め込み、落城とあいなった。

これを聞いた家康は
家康「お前マジパネェな。褒美に俺の名前を一字やるよ。これからは康成と名乗れ」
これにより以後は服部長門康成と名乗る。

三百石で召抱えられていた長門は千石に増禄され後に家老となる。
現代で言えば諜報部員が国防大臣に出世したようなものか? とにかく異例の出世である。

為信没後は幕府に二代藩主信枚の後見役に任じられ二千石に増禄され、
後には津軽藩の国替えを防ぐべく尽力したと伝えられている。

ちなみに服部半蔵の三代目が余りにダメな子だったため、その部下達が彼を頼って
津軽に落ち延びた…という話もあるがあくまで伝説である。





599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 04:06:47 ID:ZQYUkCa3
伊賀じゃなくて甲賀なの?
服部だし「成」て通字が入ってるのに

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 04:43:11 ID:9wsT16qk
伊賀と甲賀は近所だろ

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 08:27:32 ID:5GtAq7pl
お隣さんだし交流も盛んで
小説や漫画みたいに敵でもライバルでもないからな

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 09:33:53 ID:bzOgdL30
ハットリ君のせいで犬猿の仲だと思ってたぜ

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 10:32:54 ID:N0KZ+rWU
伊賀と甲賀って境の山を巡って争論やってなかったっけ?

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 11:32:12 ID:TplGdxQS
あれはプロレスだから


弘前城天守閣物語

2009年05月29日 00:07

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/28(木) 21:14:39 ID:TRKp6qg3
弘前市が弘前城400年祭に向けて準備してるそうですね
ttp://www.city.hirosaki.aomori.jp/kakuka2/HSC01-0000000219/index.html

そんな事で弘前城にまつわる話を
実はこの弘前城、全国でも珍しい天守閣が現代まで残っている城であり
天守閣のある最北の城でもある

しかしこの天守閣、実は江戸時代に再建されたものである
では築城当初の天守はどうしたのか?

津軽藩藩祖津軽為信は関ヶ原で東軍に参加し奮戦していたが国元で謀反が勃発
居城であった堀越城を占領されてしまう

反乱は鎮圧されたが為信は元々この城城の防御に不安を持ち、新城を建てる計画をしていたため
これを契機にしたのか鷹岡(後の弘前)に新城の建設を始める
これが後の弘前城になる

ところが為信は京都で早世してしまう
お家騒動もあり築城は一時中断されてしまった

その後お家騒動で改易を免れ権力闘争に勝利した
二代目藩主津軽信枚は幕府に許可を貰って新城建設を再開
親父の代から安定してない足下を固める為にも新城を建てる事は絶対に必要だった
工事は急ピッチで進められ僅か1年1か月で新城は完成
出来た城は4万7000石の藩としてはデカ過ぎる5層5階の天守を持った城だった
この城の完成によって津軽藩は国内外に威容を示す事が出来ただろう
為信の遺志も継げて信枚も満足だったに違いない

…それは城が完成してから16年後の事
その日は激しい雨が降り続き雷鳴が轟いていた
その内雷の一つが天守に付けてあった鯱に落ちた!
雷から火が付き五層目から延焼が起こり4層目にも火の手が回った
鯱が水を吐いてくれることもなくそのまま燃え続けていたが
4層目に釣ってあった鐘が真っ赤に燃えて落下
鐘はよりにもよって3層目の千五百丁の鉄砲と硝煙を保管している弾薬庫の上に落ちた

その瞬間、ごうぜんたる大爆発が起こり雨の夜空に火柱が立ち上った
小大名意地の5層天守はたった16年で爆散してしまった
為信の落胆を思うと…

その後、何度か天守再建を幕府に打診したものの却下され続け200年近く天守の無い時代が続いた
今の天守は九代目藩主津軽寧親が櫓の新築を幕府に申し入れて作られたものである
3層櫓として申請したためこの新しく出来た天守は5層5階ではなく3層3階天守になってしまった

それでも現存する貴重な天守である事に変わりはない
弘前城は現在では弘前公園として整備されている
今でも城の原型を留めているのが見所の一つであるが
現在は大量の桜が植えられ桜の名所としても知られる

2011年の弘前城築城400年祭、是非訪ねてみてはどうだろうか





792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/28(木) 21:26:27 ID:lrYBDX8b
>>791
弘前城は天守もいいけど、石垣が実に美しいよね。
すばらしい曲線と角度だと思う。
ttp://ys2001hp.web.fc2.com/gazo-hirosakijyou.jpg
ttp://ys2001hp.web.fc2.com/gazo-hirosakijyou3.jpg

> その後、何度か天守再建を幕府に打診したものの却下され続け
これは幕府からすれば、身の丈に合わない天守作って、その負担で領民に
一揆でも起こされちゃたまらん、って考えだったのでしょうな。

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/28(木) 21:59:07 ID:bIcWc+Of
>>791
天守が爆発したという面白エピソードかw
以前コメに書かれてて読んでみたいと思ってたから嬉しいw

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/28(木) 22:22:00 ID:vDVTdopH
>791
鯱は火災の時に水を吐いて守ってくれるハズなんだけどな
その鯱が火災を招いたことで悪名高い話

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/28(木) 22:23:56 ID:jD4h5lec
>>791
よりによって火事除けの鯱に雷が落ちるとはw

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/28(木) 23:00:35 ID:kO5a0jyq
>>792
凄く綺麗な天守だね。
あまりに綺麗でプラモみたいだ・・・

  そだ  |------、`⌒ー--、
  れが  |ハ{{ }} )))ヽ、l l ハ
  が   |、{ ハリノノノノノノ)、 l l
  い   |ヽヽー、彡彡ノノノ}  に
  い   |ヾヾヾヾヾヽ彡彡}  や
  !!    /:.:.:.ヾヾヾヾヽ彡彡} l っ
\__/{ l ii | l|} ハ、ヾ} ミ彡ト
彡シ ,ェ、、、ヾ{{ヽ} l|l ィェ=リ、シ} |l
lミ{ ゙イシモ'テ、ミヽ}シィ=ラ'ァ、 }ミ}} l
ヾミ    ̄~'ィ''': |゙:ー. ̄   lノ/l | |
ヾヾ   "  : : !、  `  lイノ l| |
 >l゙、    ー、,'ソ     /.|}、 l| |
:.lヽ ヽ   ー_ ‐-‐ァ'  /::ノl ト、
:.:.:.:\ヽ     二"  /::// /:.:.l:.:.
:.:.:.:.:.::ヽ:\     /::://:.:,':.:..:l:.:.
;.;.;.;.;;.:.:.:.\`ー-- '" //:.:.:;l:.:.:.:l:.:

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/28(木) 22:36:08 ID:TRKp6qg3
>>792
俺も石垣のほうが好き
天守が悪いって訳じゃないけどね
城好きとしては木が多くて全景が見づらいのが欠点だと思う


新・桜田宇兵衛、旧・桜田宇兵衛・悪い話

2009年03月14日 00:13

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 05:25:51 ID:gJY+aFT+
津軽為信の子飼いの臣下に桜田宇兵衛という男が居た
ある時、桜田に為信から仇敵南部領での諜報活動が命じられた
期間は不明だがかなり長期に渡り潜入調査をしていたらしい
で、役目を果たして無事帰還した桜田なのだが為信の様子がおかしい
引き留めるばかりで家に帰してくれないのだ
しかし役目を果たして真っ直ぐ登城した桜田は身内の顔が見たくてたまらないので
為信の制止を振り切り帰宅
すると家には養子として迎えられ家督を継いだ‘新・桜田宇兵衛’がいたのである
為信は長期間連絡がない桜田が既に死んだと思い込み子飼いの家臣が
一代で絶えるのは忍びなく家名存続の善行をしたつもりだったのだが…
完全に裏目に
当然ブチ切れる‘元祖・桜田宇兵衛’
「‘新・桜田宇兵衛’が居る限り為信の為に働いたら負けかなと思っている」とスト開始
当時の津軽家は大名家というより地方豪族の趣が強く子飼いの桜田は身内同様
よって、桜田には出奔という考え方はなかった
一方で津軽家も郎党はいまだ少なく諜報を任せられるほどの能力と信任を得ていた桜田は貴重な存在
よって、為信にも抗命死罪や厳罰は選択肢として無かった
同じ理由で‘新・桜田宇兵衛’に対して家督返上を迫る事もできなかった
完全な冷戦状態である
仲裁に入ったのは賢妻との評価もある津軽為信の妻、戌(いぬ)
桜田の育ての親でもある戌は「私の手伝いをしてくださいな」と桜田を保護した
名無しではまずいので斉藤平内兵衛を名乗った桜田だが…
その後は本当に何もしていない
当初の宣言通り、完全にニート化したのである
能力を惜しむ為信は‘斉藤姓’で出仕しろと命じた
しかし桜田は頑として聞かなかった
為信が頭に血が上って桜田を処罰しようとした時は戌にたしなめられている
為信の死後、信枚の時代に‘新・桜田宇兵衛’が嗣子無く死去
戌(当時は落飾して仙桃院)が手を尽くした結果‘元祖・桜田宇兵衛’は桜田家の家督を取り戻した
以後は戌の右筆(秘書)となり津軽家の為に尽力したそうである




813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 08:49:04 ID:RlfHhahx
その二代目藩主信政、熊千代との跡目争いや高坂蔵人の乱で評判悪いんだよなぁ。

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 11:47:42 ID:s4Q75F9M
元祖の顔を見て、震えながらお経を唱えている為信を思い浮かべた。w

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 13:44:20 ID:W7Pl6AI8
宇喜多直家「簡単な解決法があるではないか。誰か新・桜田を呼んで参れ。茶を立てて進ぜよう」

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 15:37:28 ID:gBUaAr/b
待て、それは毒さt(ry

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 15:56:55 ID:i/PNIDN4
宇喜多直家ってよくもまあ毎回毎回引っかかるもんだよなあ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 16:29:00 ID:dN6dhLS9
>>812
加瀬大しゅうかと思ったw

髭殿、痛恨のフライングだったね…

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 17:30:21 ID:XKtcpar3
>>814
桜田「為信様にすぐ報告しようと思い、天井から顔を出して待っておったのだが…」

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 17:37:33 ID:3cGBgcV+
>>819
桜田「塩を投げられ二度と来るなと言われたのだ……」

津軽弘前藩、高坂蔵人の乱・悪い話

2009年01月14日 00:01

342 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 17:27:20 ID:6z3yOBpL
高坂蔵人の乱

津軽のヒゲ殿の跡取り、すなわち津軽弘前藩2代目藩主の津軽信枚。
この人は藩主になった経緯がキナ臭いのだが、まずまずの名君として後世に伝わる。
側室は石田三成の娘だったり、その経緯でか関ヶ原前後に石田重成を預かってたりとか、
かと思えば大坂の陣にではネジ込みで徳川本陣に馳せ参じたり、
正室が内府様の養女だったりもする、なかなかクレバーな御仁。

そんな信枚だが、有能な戦国武将のご多分に漏れず、衆道も嗜んでおった。
信枚は小姓の八木橋専太郎を特に寵愛していたらしいのだが、1612年のある日、
さあ愉しもうかと専太郎を呼んだが、なぜか姿を現さぬ。
なんと専太郎は重臣の高坂蔵人に横恋慕され、なかば拉致されてしまっていたのだった。

高坂蔵人は信枚が2代目藩主になる際に発生したお家騒動などでも大活躍した、
いわば信枚にとっては恩人とも呼べる重臣中の重臣。
もちろん信枚は腹を立てたが、まず使いを出して早急に専太郎を帰すよう勧告した。
しかし専太郎のナニが余程ジャストフィットしたのか、高坂は頑なに拒否。
藩主の小姓を奪った上に言うことも聞かないという暴挙に、さすがの信枚もブチ切れ、
高坂と専太郎の両名を手打ちにすることに相成りまして候。

343 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 17:27:52 ID:6z3yOBpL
その後、今更ながら戻ってきた専太郎を斬殺すると、他の家臣の取り成しもあってか
信枚の怒りは一旦は収まり、高坂はしばらくの蟄居を言いつかった。
ところが、ほとぼりも冷めたかという頃、なんと高坂が脱藩しようとしていることが発覚!
まあーそりゃ津軽に居づらくもなるわなあー。
しかも行き先は不倶戴天の南部だという。
もはや勘弁ならぬ信枚は、城まで律儀に暇乞いにやってきた高坂を謀殺したのだった。

だが、騒動はここからが本番だった。
捕り手を向けられ、進退窮した高坂の妻や家人たちは、座して死ぬよりはと屋敷に火を掛け、
挙げ句には天守めがけて鉄砲を撃ちかけるというヤケクソ気味な行為に出たのだ。
結果、高坂勢は高坂の妻や母、家人らを含めて80名ばかり、さらに親類縁者ことごとく
根切りにされたという。
さらに、この動乱で高坂に味方した者、信枚や津軽藩の行く末に不安を感じた者らが
次々と脱藩し、津軽藩の家臣の数が半分になってしまったとか。

あな恐ろしや。

あ な 恐ろしや。




344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 17:37:01 ID:h1YHRuep
殿様の衆道相手二人の権勢争いで内乱が起こって、伊達政宗にそこを突かれた
大崎家なんてのもあったな…。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 18:52:25 ID:Scuk3Pnw
晴信「ケツのことくらいで家臣とトラブんなよ、みっともねえ」

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 19:01:12 ID:yP+leG2t
>>344
鮭様の妻の実家ですね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 19:03:30 ID:lRJcNUwZ
脱藩が脱糞に見えたorz

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 19:11:09 ID:sn8auvjH
実は戦国時代に増やした余剰戦闘員に対する高度なリストラだったりして。

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 19:23:58 ID:6z3yOBpL
津軽信枚には落雷して火薬に引火、五層天守閣が根こそぎ吹き飛ぶという
まるでヘタリア軍のようなエピソードもあるのだが、
東北大名ゆえ、本屋で買える良質資料に乏しくてねえ。

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 19:59:34 ID:pL1mM6ud
俺もリストラを連想した

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 20:07:46 ID:ezoOkT6T
>>343
大騒動で、よくつぶされなかったもんだ

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 20:16:26 ID:V/cHJOti
政宗「衆道に夢中になるなんて恥ずかしいね」

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 20:40:27 ID:i379AMHJ
虎哉「殿はファザコンでマザコンでツンデレで衆道好きで奥方はノーマルと
性のマルチロールじゃからのう。立派に育ったものじゃ。ははは。」

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 21:50:12 ID:ti0nzgqJ
性教育の成功例ですか

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/14(水) 00:31:38 ID:l6gSW4Ax
義光「マザコンとかもうねw家族にそんなに執着しないだろjk」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/14(水) 00:59:32 ID:30izF+hX
>>356
義姫「……あら、そうですか。兄様の考えはよくわかりました。」

津軽為信の小田原参陣前夜・いい話

2008年11月13日 00:37

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 21:55:03 ID:F0RZ76eb
奥羽小田原参陣前夜といえば…

津軽為信「やべーよ、うち南部とモメてるしツブされる。そうだ。最上さんちにきいてみよ」
為信はむかし、義光に情報提供を頼んでいた。
義光は快諾したうえにお土産までくれたという。
(※ただし年代的に義守時代だし、本当は小野寺あたりではないかという説あり)

最上義光「なになに、困ってるの? いーよ、なんでも聞いて。
中央と交渉するなら石田三成さんとかオススメ! うちは上杉に先越されたけどね」
為信「お、トンクス! マジ助かるわw」

こうして情報と石田三成の心をバッチリを掴んだ為信は本領安堵。
小田原参陣でとりつぶされた奥州(日本海側)大名が多いのに対して、
日本海側羽州は無事だったのは、海運による情報網の差があったからではないかと
言われている。


余談だが、小田原前夜、義光から秋田家への手紙。
「うちは伊達の監視があるから遅れることを関白から許可もらってます。
政宗のキチガイ沙汰は知ってますよね(※たぶん小次郎殺害事件)。
いやーもう、DQNが親戚だと迷惑ですよ」



270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 01:31:13 ID:Iz0ZnmJ+
>>268
当時北日本の太平洋岸は、地形の複雑さもあって、ろくな港が整備されてないからなあ。