髭殿、必死だった

2016年01月30日 17:44

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 01:58:42.81 ID:sUYAW1Cr
サライって雑誌に髭殿がラスボスと 誼みを結ぶ為に必死だった話が載ってた

①天正13年 鯵ヶ沢から船で上洛しようとするが嵐で松浦沖まで流され失敗
②天正14年 矢立峠を越えて上洛しようとするが、比内の浅利氏に阻まれ失敗
③天正15年 兵2000を率いて鹿角に向かい南部領を突破しようとするが失敗
④天正16年 秋田口から上洛しようとしたが、秋田氏の妨害にあい失敗
⑤天正17年 秋田氏と和睦して重臣の八木橋備中を上洛させる事に成功

弘前藩の正史である津軽一統志が出典みたい
いち早く中央と結びつこうとしてたのは知ってたけど、こんなに必死だった
とは知らんかった。

鑑真和上かよ...



233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 02:01:28.14 ID:qxVdg1gg
よかったな髭。

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仙桃夫人はとてもとても御仁心深く

2015年12月20日 17:21

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/19(土) 02:07:29.01 ID:vQ4u5pdt
天正7年、羽州比山勢(南部六郎、同七郎らが率いた時)が津軽へ押し入り茶臼館六羽川
で御合戦となった時、味方の弾薬が少ないので、すぐさま大浦城へ人を走らせたところ、
大浦でも蓄えは少なく、どうしたらよいかと慌てふためいた。

その際、夫人(戌姫。仙桃院。津軽為信正室)は多くの女中を集め給いて、錫類の器物を
ことごとく集めて丸を鋳造し、すりこ木を使って自ら合薬を作り、昼夜をかけて本陣に送った
ため、味方は大いに力を得たのであった。

――『津軽記』

仙桃夫人はとてもとても御仁心深く、御智謀も深遠であられて、為信公が御国家を治められた
時に、良く御内政を助けなさった。

桜田宇兵衛(為信公の功臣)の子・又七(後に斎藤平内兵衛とも、また桜田宇兵衛ともいう)や
折笠与七の子供などを慈しみなされ、皆を広敷に迎えて御長屋を建て、または御台所に置き
なされて、成長まで養育しなさった。

夫人が忠臣や孝子の類の子孫たちをこの如く扱われたことは、幾ばくあるのかを知れない。

――『斎藤平内兵衛由緒書』



津軽為信、平癒の賀

2015年08月29日 18:48

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 21:04:04.90 ID:7STu+me9
天正16年、津軽為信は久しく病に臥せっていたが漸く平癒した。
そして3月7日に、平癒の賀として城中で大いに饗宴をおこなった。
為信の伴食は達戸左京、洞内浄庵、下田南一、下館九郎兵衛であった。
為信は家臣たちを率い、妻とともに自ら料理した。そして配膳したのは娘の久子であった。

饗宴が終わり、翌日、娘の久子がにわかに病を発して死んだ。
13日、饗宴に伴食した者達、および為信の妻が死んだ。
16日、久子の夫であった南部政信が死んだ。

ここに及び、人々は騒々しく物議し、みな為信による毒殺を疑った。

(九戸戦史)




228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 21:55:55.34 ID:YbDUk9O1
身内を疑うなんて…直家とはいい酒が呑めそうやな

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:10:34.74 ID:8Ae/KR+R
食中毒じゃね

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:09:09.48 ID:URgtEBvf
>為信は家臣たちを率い、妻とともに自ら料理した。


夫婦揃ってメシマズなんでしょ(適当)

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:24:00.95 ID:dSvqn3aP
まぁなんてヒゲキ的

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 11:39:12.31 ID:LC4h1qek
>>226
北信の一部は切り取れなかったけどな

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 11:43:04.43 ID:58XVVymZ
ちょっと前の逸話のせいか
「北信」を見ると「愛」をつけたくなる

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 13:11:45.32 ID:1hPrw7IW
>>231
褒美をとらす。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 14:23:23.91 ID:V7Lmu64X
石川政信毒殺説は南部側資料だけで、津軽側には無いんだっけか
それと久子は大概、為信の娘じゃなくて妹になってるはず

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 16:57:58.17 ID:eOVgLp4a
>>234
ああ、髭とヒゲキをかけてたのかw
気づかなかったわw

為信公はすやすやと眠っていた

2015年01月12日 18:46

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:33:43.59 ID:0jNNNnqh
(大浦)為信公が養子入りしてから間もない夜、為信公はすやすやと眠っていた。

すると突然、荘厳な容姿をした二人の人が現れた。
為信公は、「夢の中に現れるとは、汝らはいかなる者か」と尋ねた。
するとその二人は、「我等は往古より西山(岩木山)に住み、専ら勧善懲悪を宗として民を教戒することをもって心とす。公(為信)、年頃、心意に秘すところの望み、時すでに至れり。そうそう思い至るべし、我等はまた、公の旗を守護す」と答え、立ち去ろうとした。

その時、為信公が「御身の姓名は何という」と尋ねたところ、「萬字」「錫杖」と二人は答えて西を目指して飛んでいくのを、為信公が見ると、その夢は醒めた。

為信公は「古今稀なる霊験である」と喜び、西の山を三度も拝んだ。
そして、夢に出てきた二人の名から、旗の紋に卍を、馬印には錫杖を用いた。

(津軽一統志)

津軽氏の旗の由来に関する逸話である。
ちなみに津軽為信は、兜の前立てにも錫杖をつけたようで、それを復元した甲冑は結構かっこいい。
http://www.yoroi.co.jp/gazou/topics/2006/tsugar



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:38:36.01 ID:oUc1Pp+z
404notfoundじゃねーか

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:41:23.62 ID:cmxkj4XU
>専ら勧善懲悪を宗として民を教戒することをもって心とす。

なんとヒゲ殿に似つかわしくない御使いなんだ

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 19:52:03.84 ID:0jNNNnqh
ほんとだ
これで勘弁してくだされ
http://www.yoroi.co.jp/topics/2006/tsugaru/tsugaru.html
為信

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 20:04:52.36 ID:9BBVVpip
>>545
旗揚げ時には味方にした罪人たちに城下で乱暴狼藉の限りをつくさせるし、恋慕した女性の旦那は殺害(したらしい)、あげくに女性に袖にされたら怒って女性も殺害だもんなあ

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 21:36:07.29 ID:y6MrDnRF
どうやら南部の手の者が草として紛れ込んでるようだな

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 00:22:32.37 ID:lw/cq3kA
んまぁ、南部も津軽のド辺境の悪政大名なのは一緒だけどな。

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 12:12:12.55 ID:Nh3JqyHr
>>546
この鎧でヒゲボーボーだったのか。威圧感あるわな。

浪岡征伐

2014年04月18日 18:26

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/17(木) 22:06:47.34 ID:CpqQTzOJ
大浦為信にとって、浪岡御所は目の上のこぶであった。
浪岡御所は南部地方はもとより津軽地方や出羽北部からも一応尊敬されていた家柄であったためである。
そこで、大浦為信は北畠顕村が遊興にふけっているのに目をつけた。

浪岡一帯の博徒を大浦城に呼び、金を与えて賭博をさせ、酒宴まで開いて帰した。
この賭博は数度開かれ、為信と博徒らがすっかり親しくなったところで、為信は急に賭博の開帳をやめた。
不思議に思った博徒らは大浦城に出向き、「近頃さっぱり賭博をやめられましたが、どうなされましたか」、と尋ねた。
為信は「所用あり、遊ぶ暇がなかった。しかし、今日はゆっくり遊んでゆけ」ともてなしたあと、
「ところで汝らの領主は下を慈しみ、人心を得ていると聞くが、汝らはなぜ生業につかないのか」と聞いた。
すると博徒らは「仰せのごとく、領主が政を敷いておれば我らも自ら善をはげみます。しかし、領主が柔弱で奉行、頭人らが邪欲を欲しいままにしているため、皆困窮しこのような筋無きことで妻子を養っているのです」と答えた。
その言葉を待っていた為信は、「苦しんでいる民を救うのは心やすいことだ。我らはこれまで所々の虐政を討ち、民を救うことを本意にしている。ひとつ、浪岡を征伐してやろう。その時は汝らも善をはげめ。そうなれば、汝らを召抱えてやろう。
この事は絶対にもらすな。近いうちに浪岡を攻めるから、汝らは戦に乗じて金銀財宝を盗み、大いに乱暴せよ」

大浦為信は大義名分を「救民」と明らかにし、天正六年七月二十日未明(1578)、浪岡御所を攻めた。
大浦軍は総勢2300余りで、兵を第一陣の乳井・千徳勢700、第二陣の森岡・兼平勢600、大浦本軍1000余に分けた。
この日は北畠顕村の後見役北畠顕忠が油川城に行っていたが「御所が襲われることはない」と安心しきっており、たちまち大混乱に陥った。

この騒ぎに乗じて為信の息がかかった博徒らが「大浦勢が来た!」と浪岡城に入り四方に火をかけた。
そして、一応顔を知っている北畠顕村のところへ走り、「大浦勢は目の前です。早くこの駕籠に乗って避難してください」と駕籠を差しだした。
すると、顕村は"渡りに船"と、早速駕籠に乗った。
博徒らは北門を出ると、まっすぐ大浦勢の本陣へ突っ走り、駕籠を大浦勢に渡し、まんまと北畠顕村は生け捕りにされた。
合戦から二日目、北畠顕村は
故郷を夢にいでこし道芝の 露よりもろきわが命かな
と辞世の句を詠み幽閉先の寺で自ら命を絶った。

以上、つがるの夜明けより

既出では無かったので、一応。
津軽為信が救民の為に浪岡征伐を敢行した、悪い話。




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 10:19:56.61 ID:jIky1PaD
三瀬の変の二年後だな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 11:19:59.08 ID:rWlg2JRm
もちろんこんな話ばかりあるわけじゃないんだろうけど「つがるの夜明け」ってw

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 19:41:04.31 ID:zmKTEB+I
>>6
面松斎は旗揚げ戦でこんなやり方はもう嫌だと言っていたのに髭どのは味をしめたのか

津軽為信が開墾を奨励したこの地域は

2014年04月07日 19:03

702 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/06(日) 21:19:44.61 ID:wJYmAo3t
天正四年(1576)旧三月、津軽平定の途上にある津軽為信公はある時鯵ヶ沢地方巡視の帰りに、
妙堂崎の山手にさしかかったさい遥か東北の方に茫々と広がる芦原を望むと、
無住の地と思わる彼方に一大老樹が天を覆っていた。
その傍より一条の炊煙が立ち上るのを見つけ奇異の念をいだきその所を尋ねる事にした。
ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍に葦芽の家が三軒並んであった。
これは、工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の庵で付近僅かに粟稗が耕されてあった。
一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。
為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと産土神の御加護の下に開墾を進めたい、とお宮の建立を上願した。
そして為信公はしの四方遥か広漠たる葦原を眺めこの土地を広須野と名づけ帰城して行ったという。
翌天正5年(1577)旧三月公命によりて国家安泰万民豊楽五穀成就、
新田開発成就の祈願の社として広須八幡宮が建立され祐益老の孫千之太夫が宮司となった。

(柏正八幡宮境内由緒書)

津軽為信が開墾を奨励したこの地域は、第二次世界大戦中に全国で最も米の供出量が多い地域となった。





津軽為信のお母さん頑張る

2012年10月29日 19:57

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 07:12:35.02 ID:FBgcykdN
天正18年(1590)、関東では豊臣秀吉による小田原の役が進行しているころ、奥州において津軽三郡を確保した
津軽為信は焦っていた

「いち早く秀吉公の前に参礼し、御朱印を申し請け津軽三郡の支配を確立せねばならない!
とにかく南部に先を越されては大変である!」

そう言って準備を急いでいた所、為信の老母が、為信が津軽を離れることへの不安を言ってきた

「お前がここを留守にして小田原に行けば、そのあとにどんな異変が起こるか計り知れない。」

この時期の津軽為信の支配は、それだけ不安定だったのである。

「そこで、お前は国に残って仕置をしなさい。私は女の身ではありますが、小田原へ馳せ参り、所領安堵の
御朱印を申し請けるのに問題はないはずです!」

そう、驚く為信を構わず早々に津軽を出立し、相模に赴き秀吉と対面。当主為信に変わり母である自分が
参上したことなど言上すると、秀吉も女性の身で遠くここまで旅してきたことに強く感銘を受け、
難なく御朱印を下した。

老母はこれを大いに喜び、急いで本国へと戻り御朱印を為信に渡した。
(天正南部軍記)

津軽為信のお母さん頑張る、というお話。




119 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/29(月) 10:47:12.17 ID:zgHQK22q
母ちゃん凄いな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 10:53:37.83 ID:MfZcRhng
東北女の行動力には驚かされる

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 10:57:13.47 ID:J+fb6Xd7
自分は城でのんきに過ごして自分の老母を関東まで往復させるとは…
津軽の人間は本当に酷いな

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:01:17.72 ID:mO4B+NMB
>>121
ものは書きようとはいえ、
これは酷いw

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:15:39.35 ID:mCiLTF6I
義姫も毒を盛らずにみずから出向けば丸く収まったのか

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:35:02.90 ID:YWgZj1p7
んまぁ、自ら小田原による見参したというのが定説だけどね。

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 11:41:44.16 ID:l56Iow4O
>>121
信直さん乙

為信が40歳くらいだから60歳とかそんくらいかな?
今ならともかく、当時の津軽から、しかも女性だからなーそりゃーラスボスも感嘆するわ。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 12:35:04.59 ID:urNB5sC+
>>121
恋慕した女の旦那は殺すし、拒否した女も殺す悪党だからな
そういや、石川を殺るときも城下の屋敷に押し入って南部方の女性を○姦させたりしてたっけな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 15:17:07.48 ID:vdmzKBjL
>>118
そういや秀吉もマザコンだっけ?
そら老母が必死こいて来たら邪険にはしないだろうな。

津軽為信に取られた諸城

2012年01月20日 21:58

504 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/20(金) 13:48:09.35 ID:w9Xt6lnx
 青森県弘前市にある弘前城は昨年が築城400年ということで多数の
記念イベントを開いたが、地元「東奥日報」は12月に「落城400年を
歩く」を連載し、津軽為信に取られた諸城を紹介した(当然ながら
落城は津軽統一戦の過程なので、400年よりもっと昔)。

 初回は石川城で、落とした手口は悪い話にある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5509.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2433.html

 討死したとも、落ち延びたとも伝えられる南部(石川)高信は地元に
「おらほ(=うち)の殿様」と慕う人が多い。送り盆では松明行列で
高信を慰霊するほか、2004年に弘前中心街に為信の銅像が建てられた
時も町内で集まりが悪く「石川はしょうがない」と催促されなかった。

 他にも南部方として為信と戦った滝本重行@大光寺城、北畠顕村@
浪岡城らもそれぞれ地元で根強い人気があり、謀略や奇襲を常とした
為信を嫌う住民もいる。

 滅亡、改易となった武将のいた城下はどこも同じかも知れないが、
津軽といっても為信を讃える地区ばかりではなく、敗将もそれなりに
偲ばれているという話。




505 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/20(金) 15:06:44.85 ID:KW58J62k
弘前は青森県だけど、心は岩手県民って人が多いって聞いたが(笑)

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/20(金) 15:13:10.21 ID:X2Bo3mIW
十三湖とか青森西部はやっぱお慕いするのは安東さんなのかな?

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/20(金) 15:22:35.00 ID:KW58J62k
県割りと県庁所在地は官軍の心積もりだったらしいからね~

佐賀辺りは、県としては小さいのにピンだしね~

津軽為信は「油断する瞬間」を待った

2012年01月01日 22:00

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 12:57:01.94 ID:ZlCSGiV7
正月だから正月の逸話をやろう


まだ津軽為信が大浦為信と名乗っていた頃の話。
津軽統一を目指す為信は南部家臣の猛将、滝本重行の守る大光寺城を攻略しようとしていた。

天正2年(1574年)8月、為信は4,000の兵で大光寺城を取り囲んだ。対する滝本重行の兵はわずか700。
楽勝に思われたこの戦いだが重行は兵力差に怯むこと無く、大浦軍がぬかるみに踏み込んだ所で突撃を仕掛け、
小回りが効かなくなった大浦軍は対応出来ず、為信は危うく討たれそうになりながら敗走するという惨敗を喫した。

正面切って戦うのは得策では無いと悟った為信は重行の「油断する瞬間」を待った。
そして翌年の天正3年(1575年)元旦、ついにその瞬間が訪れる。
大雪が降って視界が効かないという行軍に向かない悪天候、そして正月という晴れの日…
これら「気が緩む要素」が揃ったこの日に為信は再び大光寺城攻略の兵を挙げたのであった。

驚いたのは重行である。今日が正月であるという事以上に、この大雪の中で攻めてくるというセオリー破りに意表を突かれた。
今までの苦戦が嘘のように大光寺城はあっさり陥落し、重行は大雪の中敗走する他なかった。

こうして大浦為信の津軽統一の野望は一歩前進したのでしたというお話。




550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 13:19:30.93 ID:W2Ahza+u
為信さんらしい逸話ですな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:15:46.19 ID:GBZQKBQr
為信汚いな、流石為信汚い


でも比較的正攻法かこれ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:32:59.91 ID:Rpgscx2H
>>551
正月に攻め込むのは定番だよね。
六条合戦とか天庵様とか。

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:37:39.23 ID:W2Ahza+u
定番の珍手って印象

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:42:24.32 ID:uOTzmrdG
信玄の初陣思い出す(正月じゃないけど)

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:47:28.82 ID:FvcAE74X
多分元旦じゃねえだろな

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:51:38.50 ID:/TYw3zKU
戦国で元旦の悪い話といえばこれ以上のものをちょっと知らない

佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/01(日) 14:54:56.27 ID:ZlCSGiV7
>>555
いやまぁ旧暦で言うと正月は1月の事だけどこの逸話は元旦だよ。

田中太郎五郎の討死

2011年10月09日 22:14

14 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/08(土) 22:54:44.62 ID:onLeTo27
田中太郎五郎の討死

津軽統一戦に乗り出した大浦為信(津軽為信)は支配者の南部氏だけでなく、
浪岡の北畠氏ら有力領主や彼らが頼った出羽安東氏を敵に回すことになった。
1579年に六羽川で連合軍と激突し、大浦勢は本陣まで追い込まれた。

だが為信の乗馬は泥にはまり、逃げられない。これを見た家臣の田中太郎五郎
吉祥は為信の兜などを貰い受けると、馬の尻を槍で刺して泥から抜け出させ、
主君を逃がした。自らは為信の身代わりとなり、銃弾を浴びて討死した。

連合軍は為信を討ったと思い込んで油断したところを逆襲され、出羽に退いた。
太郎五郎の亡骸と槍は、翌朝に戦場を訪れた妻が見つけ、江戸時代に弘前藩が
創建した岩木山の高照神社の宝物館で今も見ることができる。

田中家は弘前藩で功臣の家系として遇され、昭和になってから戦跡には子孫の
佐藤尚武氏(ソ連が対日宣戦した時のモスクワ大使)らが「津軽之忠臣」碑を
建てた。

15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/08(土) 23:13:14.85 ID:onLeTo27
>>14は高照神社の展示を見た記憶をネットで補いながら書いたが、合戦では
よくある状況であるとはいえ、三方ケ原で家康を逃がした夏目吉信の逸話と
似ているので、忠臣の最期としてテンプレ補正がかかっているかも知れない。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-337.html

ちなみに今年は弘前城が築城400年ということで色々行事をやっていていて、
この3連休は津軽家菩提寺の長勝寺でヒゲ殿の木像を公開しています(今日
見てきました)。

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/hirosaki400th/topics/pdf/201109bikkuri.pdf




16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 23:27:14.54 ID:iBjxXhYf
太郎なのか五郎なのかはっきりしろ

狩場沢の藩境

2011年10月09日 22:13

17 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/08(土) 23:54:28.22 ID:onLeTo27
>>7津軽と南部と前田利家というと、こんな話もある。

津軽藩と南部藩の「藩境塚」は陸奥湾沿岸の南東端に近い狩場沢にあり、
戊辰の野辺地戦争もここが戦場になった。

1592年、利家が東奥巡検使として豊臣政権に服属した奥羽を回った折、
為信は自ら利家一行を狩場沢まで見送った。津軽家は南部家と合意が
あるかのように装ってここに境界の塚を設けており、狩場沢の藩境を
既成事実化することに成功した。

津軽為信とすればしてやったりのいい話、南部信直にはタッチの差で
津軽独立阻止を失敗したのに続いて煮え湯を飲まされた悪い話。

http://www.mutsu-ogawara.or.jp/areaguide2.html

江戸時代になっても津軽と南部は国境の檜伐採問題、官位競争などで
揉め続け、ブチ切れた南部藩士が相馬大作事件を起こすに至る。

Wikipediaで南部信直を見たら、死去直前に娘(八戸直栄室)に送った
手紙で「ワカメや昆布が食べたい」と書いていたそうで。上方や九州も
海藻類は流通していたと思うが、故郷を遠く離れて心身とも疲れていた
様子が伝わってきて泣ける。北西だけじゃなく、南の隣人(DQN眼竜)も
油断ならないし。




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 00:04:24.84 ID:qcrFCojR
唐入りの為とはいえ、老体で西国まで行くのは辛かったろうに
死去前の言葉がまた泣けてきた
そういう武将の末期の言葉一覧作られたら、最後まで読めずに泣いちゃいそう

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 14:00:35.33 ID:JQd/Mrtb
南部さんはなあ…
同じお隣でも津軽と佐竹は何やかや言いながらも上手く付き合っていたのに
南部さんだけは相手を怒らせてぎくしゃくしてたからなあ…

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 22:37:41.70 ID:ldHd3tCL
佐竹『ここは前にいた土地より寒くてかなわないねぇ』
津軽『ウチも寒いけど雪はそっちの方が多いもんねぇ』

南部『おい、そこはウチの土地だ』

津軽に残った石田三成の血筋

2011年10月05日 22:03

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 21:32:40.78 ID:VJX4jmh7
津軽に残った石田三成の血筋

関ヶ原の戦いで津軽為信は東軍に加わったが、嫡子の信建は大阪城にいて、
豊臣秀頼の小姓を務めていた。西軍敗れるの報が伝わると、小姓仲間だった
三成次男・重成を連れ帰り、津軽で匿った。

重成は後に杉山源吾と名を変えた。子孫は家老も出す藩重臣となり、通字は
「成」を使った。墓などでは豊臣姓を名乗った。

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 21:47:27.55 ID:VJX4jmh7
>>961の続き

信建は1607年、為信死去の直前に夭逝し、2代藩主は弟の信枚が継いだ。
彼が1610年頃に正室に迎えた辰姫=辰子は高台院(ねね)の養女になって
いたとはいえ、三成の三女だった。

直後に家康養女の満天姫を正室として迎えたため、辰姫は側室に退き、
関ヶ原の戦功で加増された上野国大舘に暮らして大舘御前と呼ばれた。
その後も2人は睦まじく、信建は参勤途中に大舘に立ち寄った。

妻2人は各々男児を産んだが、3代藩主は辰姫が生んだ信義が継いだ。
後に御家騒動の火種にもなるが、信枚の遺志が強かったと言われる。

満天姫が産んだ信英は旗本→黒石藩祖として遇されたが、福島家からの
連れ子だった大道寺直秀は悲劇的な最期を遂げる。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-534.html

963 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 22:07:02.93 ID:VJX4jmh7
>>962

辰姫と初期弘前藩については、弘前市本社の「陸奥新報」で今春から、
郷土史家の田澤正氏が「津軽信建と『津軽の江』」という大河ドラマに
ちなんだ連載をしている。信義は「じょっぱり殿様」と言われるくらい
良くも悪くも我が強い藩主だった。田澤氏は「祖父は家康に挑んだあの
三成であるという自負から自由に行動したといわれる」と記している。

他にも弘前は城の稲荷社で密かに祀った像が明治になって豊太閤坐像と
判明したり、「大坂屋」という御用菓子商が「冬夏」なんていう菓子を
藩主に献上していたりする。

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyo/bunkazai/shi/shi20.html

南部氏から必死こいて切り取った津軽を安堵してくれた豊臣政権に心底
感謝していたのだろうと思われる。

弘前藩は御家騒動が起きまくりだったのに、公儀が北辺の安定を重視した
ためか、改易はもちろん、一時検討された転封もなかった。




964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 22:40:25.42 ID:iCqeDVeC
津軽藩って弘前城に確か秀吉奉ってたりしたよな

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:13:19.92 ID:dtRA/sGh
後は津軽は近衛の関係者扱いになってるから、
公家+朝廷に手を出しづらかったのかもしれない。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:19:31.48 ID:ZDhfc0BI
ヒゲ殿は関羽を尊敬してたから義にあつい
その精神を汲んで

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:58:13.99 ID:k1UPp5jt
津軽は隣の佐竹に金を借りたり人馬をやりくりしてもらったりしているが、貧乏だったのか?

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 05:06:01.58 ID:Uh4EZWYz
>>966
気に入った女の旦那を殺したり、その女に抵抗されて殺したりする人だけどな

971 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/05(水) 13:12:42.57 ID:jifG1Ana
>>965地元の小説や稗史では、為信の軍師である沼田祐光(面松斎)が天海と
親しかったとされることが多い。さらに関ヶ原で為信とともに東軍に随行し、後に
家老を務めた服部康成という人物がいて、家康が鬼半蔵の一族を監視役を兼ねて
送り込んでいたという説もある。

旧恩への義理と外交を使い分けて、うまく世渡りした印象。西軍人脈だけだと
叛意を疑われかねないが、徳川から重臣と正室を迎えていれば警戒されにくい。

幕末に生きた藩祖の縁

2011年10月02日 22:01

910 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/02(日) 08:08:51.22 ID:7MyDJQes
幕末に生きた藩祖の縁

津軽為信は南部系久慈氏に生まれて大浦家に婿入りしたとも、大浦家の血筋とも
言われるが、津軽統一後は大浦家に近衛尚通の落胤がいたという伝えに着目して、
その孫である近衛前久の猶子となり、本姓を藤原に変え京都政界に足場を築いた。

それから300年近く過ぎた幕末。弘前藩本国は当初、奥羽越列藩同盟寄りだったが、
藩京都屋敷御用人を任された西館孤清は、鳥羽伏見の戦い等で倒幕側優勢と知る。
付き合いが続いていた近衛家から、勤王に励むべしという朝廷の令書と、近衛家の
教書をいただいた西館は帰国して藩論を新政府側に統一した。

最後の功名稼ぎに南部領に侵攻して撃退される(野辺地戦争)なんてことがあった
ものの、戊辰戦争では官軍側だったということが考慮されて弘前城は破却を免れ、
江戸時代の天守が残る数少ない名城として現在も残っている。

西館の墓は江戸の旧下屋敷横の寺にあり、有志が今月25日に120回忌法要を開いた。
(青森県の地方紙「東奥日報」より)。


主家が滅んで再仕官を繰り返しただけなのに、鳥羽伏見で幕府側→討幕側に寝返っ
たら「藩祖に似たり」と罵られた藤堂家とか、宮中で煙草を1本失敬したら「血は
争えんな」と天皇陛下にからかわれて学者に先祖の経歴調べを頼んだ蜂須賀家とか、
藩祖がやったことというのは虚実、善悪含めて影響が大きいようです。




津軽為信、独立の狼煙

2011年06月17日 00:00

677 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/16(木) 02:23:10.87 ID:xWUDlpQm
南部からの独立を決意した津軽為信は、南部家当主の信直の実父で、津軽地方を治めていた南部高信の討伐を計画。

「私が大浦(青森県弘前市)を治められるのも高信殿の仁愛のお陰です。」

と高信をおだてつつ、その居城である石川城近くにあった自身の城である堀越城の改修を願い出た。
高信の許可を得た為信は、土石に見せかけて兵糧や武器を運び入れると共に、人夫を装わせて兵を集め、改修が終わると
高信の重臣3人を大浦城に招いて歓待し、家臣の板垣兵部を見送りに付けて帰した。

そしてその夜、そのまま堀越城に入っていた板垣を先手として石川城を急襲。油断していた高信を自刃に追い込んだという。
こうして為信は独立の狼煙を上げると共に南部との血で血を洗う抗争を開始したのである。

以上、「津軽一統志」より為信22歳頃の話である。




678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 04:21:32.73 ID:arXvdHTf
石川を落とす時は、罪人を使って城下でえげつないことをさせたものな

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 22:08:03.89 ID:qBl/gPFI
>>678
あれは本当に後味の悪い話だった

津軽為信、村を焼き払って

2011年06月16日 00:10

155 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/15(水) 01:08:05.59 ID:mc1NcsSh
津軽為信が大浦家の家督を相続した翌年、軍事演習を行って自分の元に集まる兵の数とその
働き振りを調べる事にした。演習に集まった約1000人の兵は演習場になった陸奥国野崎(青森県弘前市)
という小さな村になだれ込み、合図に従って民家に一斉に放火した。村人達は事前に命令を受けて避難していたが、
辺り一面焼け野原になってしまった。しかし翌日、為信は大工を派遣して以前よりも立派な家を建てさせ、さらに
家具や食料も与えたので村人はかえって為信に恩を感じるようになったという。

以上、津軽為信村を焼き払って人望を得たお話。為信19歳頃の話である。





158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/15(水) 06:53:18.89 ID:CKmxyuW+
軍事演習と村の再開発を組み合わせた
全く新しい公共事業である

津軽為信、年貢米の輸送命令に

2011年05月30日 00:00

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/29(日) 20:51:18.75 ID:0HosEl2F
ある年の事である。春から長雨が続いて凶作になった上に、病が流行して多数の
死者がでた為、津軽為信は米や援助金に加え、薬や守り札まで与えて領民の救済に努めていた。
しかし、そこに南部信直から、年貢米を信直の居城である三戸城に送るようにとの命令が伝えられたのである。
他の南部配下の者はこれに従ったが、為信は

「むしろ援助があるのが当然ではないか。」と逆に陳情。

一方、自身は節約を心がけて妻子にも粗末な服を着せるようにしており、
これを知った領民からますます尊敬されたという。

「南部史要」より、民の為に命令違反を犯した津軽為信の良いお話。





831 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/29(日) 22:17:37.78 ID:tR/usN5G
>>830
なんというか・・・色々黒いものを感じてしまう

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 22:25:14.89 ID:3WKECmfO
結局、南部と津軽って明治維新までに和解出来たの?

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 22:38:30.65 ID:bVRiF51C
出来てないんじゃないの

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 22:41:05.76 ID:QvrovA4l
>>830
宇喜多とか津軽とかこういう話があるからこそ
騙し討ち生活でも生き残れるんだろうなあ

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 22:55:05.28 ID:3wXxC4Mg
個人的には津軽さんの場合にはむしろ、南部さんの被害者面がちょっと気に食わない感もある。

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 23:39:52.86 ID:7aDeNCS8
>>830
独立前のエピソードかな
髭殿が大名として独立してからは南部に食糧援助したって話聞いた事ある

南部裏切って独立したとかよく書かれるけど
戦国時代的には別に珍しいことじゃないような・・・

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 23:44:22.98 ID:pRL+UOkx
池田・・・じゃなくて相馬大作事件というのがあってだな

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 23:53:50.55 ID:p804O9dF
公明党のものですが……?

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/30(月) 00:06:20.92 ID:7hJyY6vR
津軽は独立時にエグい話があるからなあ

未亡人をものにしようとして断られると攻め殺してもいるし、打算を感じられる

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/30(月) 00:17:51.37 ID:sL8Nvbum
相馬大作事件って逆恨みで発生したようなもんなのにやたら美化されてるよな

松前・津軽和解

2011年05月23日 00:00

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 19:49:25.37 ID:8Oy76fio
文禄元年(1592年)、津軽為信は海路で上京しようとしたところ暴風雨にあい、
蝦夷の松前に漂着した。松前の領主・慶広は為信が漂着したというこで自ら出向いてきた。

「殿、慶広殿がいらっしゃったようですが」
「放っておけ」
「は?しかし・・・」
「わしは安東の領土の土を踏むつもりはないわ」

為信は安東氏の領地であることを理由に上陸を拒んだ。
もともと両家は敵対していたこともあって、為信の態度は慶広に疑念を抱かせた。
その後、名護屋、大坂においても両者に不快なことがあり、両家の関係は冷え切った。

が、慶長十五年(1610年)に転機が訪れた。慶広は駿府でたまたま老中の安藤直次と会った。
「松前と津軽の不和というのはよろしくないことです」
直次は慶広と為信の子・信牧を戒め、両者を仲裁した。為信はすでに没している。

このために元和三年(1617年)、慶広は参勤の途上、弘前の信牧を訪ねた。
信牧は慶広を厚くもてなし、慶広は則重の刀を贈り、信牧は宝剣と駿馬を贈った。
これより二藩の関係は良好となり、松前は参勤で津軽を通らければならないので、
津軽はその際には諸々の便宜をはかり、慶広の娘は信牧に嫁いだ。
また蝦夷地に何か有事のあるときは、幕府はまず津軽藩に命じて松前藩を
助けさせるのが慣わしとなった。


768 名前:762[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 21:01:21.87 ID:8Oy76fio
>>762
投下しておいてなんですが、1617年だったら慶広死んでますね・・・
元和元年か二年と間違ったかも
新北海道史にあった話なのでつくり話ではないと思うんですが手元にないので確認できません
申し訳ないです・・・




763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:15:46.48 ID:1Es3p1pE
なんでわざわざ仲裁したんだろう?
不和で有り続けた大名同士なんて大藩でもいっぱいあるのに

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:24:55.25 ID:8chlkP+c
幕府がわざと仲悪い大名家を隣に配置して相互監視させたって
どれくらい信憑性あるんだろうか

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:35:16.86 ID:wp6nrZ9o
何もしなくても隣国とは勝手に仲悪くなることも多いしな。
ただ松前だとアイヌの問題も含め国境線ってこともあるからいざという時に
真っ先に援護する必要のある津軽と露骨に嫌い合ってるのはまずいと
いう判断はあったのかも?

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:54:23.87 ID:1J67Q7wl
>>764
そういう意図は殆ど無かったと思われる。
というか、そりゃあ仲良くなられすぎても困るが、仲が悪くっちゃお互い警戒して交流がなくなり
むしろ情報が入ってこなくなるもの。
あと、ライバル大名同士を隣合わせに配置する、というやり方は室町幕府がやって大失敗した。

監視という意味では、室町幕府と違ってそれぞれに地域に譜代大名も入っているわけで、
大名同士が勝手に仲が悪くなったのを後から江戸幕府に責任転嫁した、といった例がほとんどだろうね。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 21:14:24.15 ID:WyJXsj8a
>>768
県史でも軍記物から引用してたりするからね

作り話とまではいかなくても、年代や人物のズレはあるよ

千徳政武夫人の最後

2010年12月09日 00:00

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 16:38:00 ID:ZpFtcZ4M
今度の大河の主人公お江の母親はご存じお市だが、北は津軽にもお市の方と呼ばれた女性がいた。
そのお市の方は津軽和徳城主 小山内讃岐の娘だったが、
元亀2(1571)年、大浦為信によって和徳城は陥落、父・祖父・兄弟が戦死してしまう。
その後15歳の時に田舎館城主千徳政武と結婚する。だがその結婚生活もわずか3年で終わりを迎える。
天正13(1585)年、田舎館城も攻め落とされ、千徳政武は郎党300人と共に玉砕。
夫を殺したのは、またしても津軽為信だった。
お市の方は山中深くに逃れた。

時は流れて慶長6年(1601年)3月。津軽為信は居城の堀越城からほど近い清水森で
津軽征服戦争の開始以来戦死した者を、敵味方問わず供養する大法要を10日に渡り営んだ。
三町四方に柵を廻し、横7間・縦15間の仮仏殿を建て、中央に9間の須弥檀をしつらえ、
130人の僧侶を並べて、線香のけぶる中、読経を読む。
亡者の名は貴賤無く紺紙金泥でずらりと書かれ、内陣には108の灯明に花飾りが飾られた。

法要の4日目、参拝者に混じって、三十路を過ぎた気品のある女性が仏前に歩み寄った。お市の方だった。
彼女は一巻の文を掲げ、朗々と読み上げた。


  それ義によって軽きものは武士の命 情けによって捨てやすきは婦人の身なり。
  わが夫はなはだに武名を重んじ すみやかに戦場一葉の露と身をなし給う 惜しいかな。
  この人世にありし程は、武士の道いささか迷い給うことなし さるによりてその深浅またいくばくぞや。
  伝え聞きし高麗、唐の勇士にも恥じず、勇めるときは千万刃のなかへも、われ先に行かんこと難しとせず。
  またその情けの勇なることは、もののあはれを敷島や大和島根の道芝の露に宿れる月影の
  はかなき世のありさまを、よく知り給えしぞかし。

  われまた、その妻となりて、その人の座の片端にその身をおき 年月を経ること すでに三年になり、
  起き臥しをともにして、人の情深き淵に沈みし身なれども、
  別れしその日よりは、ただ浮かべるものは涙のみなり。
  せめて亡き霊の菩提ともならんかしと思い、その年より十年余り七とせに満ちぬるまで
  人目枯れにし山かげに、この身を隠し、朝な夕な、その亡き跡をとぶらうといえども、さらに答うる事なし。

  亡き魂よ あわれと思え 添寝せし 三とせの夢の さめもやらぬを

  その年の その目にやがて 伴いて 行きしむを しるやしらずや

  御身の仇ならんとせし者までも、かく御法(のり)の網にもらし給わで、救いとらんと誓い給う御心をば、
  亡き霊もいかばかり御悦び尊み奉らんかし。
  わが慕うその面影は、たまの軒端にたなびくなる紫の雲にほの見ゆる心地こそすれ、
  誠に君が情をよすがとして、われもつれ行き給えや。

  伴いて われも行きなん まてしばし 死出の山路の 道しるべせよ

  かかるつたなき筆の跡は、恥を書き残すに似たれども、誰に向かいて何事をいいおかんよりもあらされば、
  ありがたき御芳情によりて、夫の幽霊もさぞ成仏にいたりなんと、
  いく尊くありがたく、御心を鄙びたる一巻に残すのみ。

   慶長六歳三月十日 田舎館掃部妻
   積る年三十四 敬白」


読み終えた彼女は文を祭壇に捧げると、懐から短剣を取り出した。
参拝者の視線が集まる祭壇の前で、彼女は己の胸に短剣を突き刺した。
彼女は突き刺した短剣を抜き、最後の力を振り絞って再び胸を突き、その場に崩れ落ちた。

亡き夫への切々たる想い、仇である津軽為信への怨念の清算を語り終えた彼女の胸中は、
いったいどのようなものだったのだろうか。
千徳政武夫人、お市の方の鮮烈なる最後。




715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 16:43:15 ID:S1eZ7nNo
津軽為信は女性に嫌われる何かを持っていたんだろうか。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 17:32:34 ID:x6z9Mdk2
訛りが酷かったんじゃないか?

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 17:38:53 ID:QPib7uRD
あのヒゲが悪い

718 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/08(水) 17:54:08 ID:RReOphV0
あのヒゲ
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/81/3e50a90de685c81dda478a0afdb774d9.jpg
ヒゲ1

木像にも
http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/img/juho_tyoukoku_image1_66.jpg
ヒゲ2

銅像にも
http://stat001.ameba.jp/user_images/20100901/22/sengoku-busyou-asiato/72/c6/j/o0440058810725803231.jpg
ヒゲ3



719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 17:59:24 ID:No5BJJ9J
そう卑下してやるなよ

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 18:53:56 ID:nv/6Ho/l
ひげ生やした武将は珍しくないがあそこまで立派なひげは明治を待たねばならんからなぁ
むしろ誇るべきだろ

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 18:55:04 ID:ItDbwCvo
信長が天下とってたらヒゲ禁止令とかだしてそう

722 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/08(水) 19:00:36 ID:RReOphV0
>>721
>信長が天下とってたらヒゲ禁止令とかだしてそう

ピョートル1世「呼んだ?」

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 19:54:32 ID:2BiAwexX
【政治】菅首相「すごいヒゲを生やしているなあ」 大久保利通の写真に関心 議会政治展を鑑賞
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1291802634/

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 19:55:59 ID:NqD9OvKm
徳川氏も実際に出してるけどな→ヒゲ禁止令

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 21:49:20 ID:e7N5TUBv
>>722
土居利勝「大賛成!」

が、ご存知のように為信は

2010年05月28日 00:00

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/27(木) 20:18:30 ID:vcACwl9J
元亀二年、津軽為信が南部家に反旗を翻し、石川高信を自害せしめた。

これを喜んだのが、安東愛季である。
南部家とは、北奥羽の覇権をめぐって父祖代々争ってきた間柄。
為信の蜂起はもっけの幸いだった。
愛季は近隣の豪族に為信救援を依頼したり、鉄砲を送ったりと支援を続けた。

が、ご存知のように為信はそんな甘い男ではなかった。
天正六年、愛季の娘が嫁ぐ浪岡氏を奇襲、これを滅ぼして勢力を拡大させる。
愛季はこの裏切り行為に激怒し、即座に為信討伐を決意。
翌年には、比内諸将を連合させ、津軽へ攻め込ませた。

が、ご存知のように為信はそんな甘い男ではない。
愛季自らも北へ向かおうとしたその時、羽前は庄内の大宝寺義氏が攻め込んできたのだ。
そう、あらかじめ為信が手を結んでいたのである。
愛季は防戦に赴かざるを得ず、比内諸将は為信に打ち破られてしまった。
そして二度と、津軽侵攻軍を起こすことはなかった。

ブチ切れた愛季は、山形などと連絡して大宝寺包囲網を築き上げるが、それはまた別の話である。




48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 09:33:01 ID:AqOHyaic
為信のいい話に見える

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 11:19:36 ID:b5aVda7J
いい話に見える人と悪い話に見える人で津軽よりか南部よりか分かるリトマス試験話

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/28(金) 20:11:45 ID:BdKI19Y8
>>49
郷土の英雄・愛季たん派

義理堅かった為信

2010年05月05日 00:04

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 10:49:17 ID:u/qHcrh6
 九戸政實(政実)といえば、南部本家との争いに豊臣本軍を呼び込まれ、開城して和睦の筈が一族、従兵皆殺しにされたと
伝えられる。
しかし、4月30日の青森県の地元新聞「東奥日報」夕刊で、県観光連盟専務理事の九戸さんが書いていたコラムによると・・・

 津軽為信は九戸とは親戚筋で気脈を通じており、心ならずも開門に手を貸して寝覚めが悪かった。
そこで3歳の(九戸家の)子供を家来の懐に隠して秋田県境を落ち延びさせ、匿った。
過去帳を3代は女名前にして世をはばかり、弘前藩3代の津軽信義公の代に九戸吉左衛門政知を召し抱えて再興した。
 この経緯は、九戸さんの母が祖母から聞いてノートに書き留め、また津軽家11代順承(ゆきつぐ)公に
時計師として仕えた九戸籐吉が明治5年に表している。

 為信は、津軽統一戦争の過程では随分汚い手も使い、時々の天下人には上手く立ち回っているが、
必要がない非道はしていない感じだし、
関ヶ原後にはかなりのリスクをとって、世話になった石田三成の子女を津軽に置いている。

 そういう性格と対南部宗家での付き合いも考えると、あってもおかしくはないかなと。

 秀吉存命中に南部家にバレて密告されたらやばかったことは確かで、義理堅かった為信、
血筋を残せた九戸家両方にいい話。




730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 13:35:33 ID:YUNq3Im1
>>728
高橋克彦の「天を衝く」を、もう一度読みたくなった。

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 12:45:19 ID:bKJYMW+k
>>730
(`・ω・´)人(`・ω・´)
好き嫌いの分かれる御仁だが、色んな意味で
非凡ではあったんだろうと思う