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柴田勝豊の死

2019年02月22日 18:58

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/21(木) 19:29:31.77 ID:SlVLXdW7
柴田勝豊の降参と織田信孝との和睦後)

山崎城で越年した秀吉は元日より播磨姫路に赴き、2日3日の間には諸国の大名小名が袂を連ねて
踵を接し、車馬門前の市をなす。秀吉は朝には礼者に向かって親愛を尽くし、夕には近習に対して
政道を説き、天下の工夫は昼夜いとまあらず。

そうして若君御幼少の間は伯父の織田三介信雄を御名代となし、まず若君を安土に移し奉った。閏
正月初旬に秀吉もまた安土に至り、国々の諸侍は若君への礼儀を調え尊仰をもっぱらにする。あた
かも将軍(織田信長)御在世の時のようで、まことに君臣の礼は諸人の感心するところであった。

秀吉は安土に10余日逗留してその後また山崎に帰り、諸国に陣触して軍兵を集めた。軍兵は長浜
に寄せ来たり、秀吉は重ねて堅固にその人質を取った。

その頃、勝豊(柴田勝豊)は病気が穏やかならず、起き伏しも叶わずに病床にあった。これ故に自
身で出張することはできず、与力に大金藤八と山路将監(正国)を越前の境目に遣わし、片岡天神
山に出城を拵えて修理亮勝家に相対し、秀吉への無二の色立ての奥底を極めて、惟住五郎左衛門尉
(丹羽長秀)と組んで越前の押さえとなった。

(中略。滝川一益の挙兵)

秀吉は引き退いてまた長浜に至り、しばしば帷帳の中にいても心はあらゆる方面に向けられ、夙興
夜寝の謹み浅からず。

はたまた伊賀守勝豊は病気に堪えずにより上洛して、扁蒼の術を尽くしてもその効果はなく、すで
に易簀に及ぶを嘆いて曰く、遺言したのである。

「私は一世の内に再び越州の地を踏んで本懐を遂げるべく、恨みを晴らそうというところで、不幸
にもこのようになった。秀吉が越前を平らげて私の望みが叶えば、草葉の陰の弔慰となるだろう」
(我一世中再踏越州之地復寃可遂本懐之處不幸而如此。秀吉平越前於達我望者可爲草陰之吊慰)

秀吉は涙を押さえて離別を惜しむも、無常の習いでついに勝豊は逝去したのである。秀吉は金銀を
賜って洛中洛外の僧をもって供養し、葬礼法会を行ったことは数えきれないほどであった。

ここに至って秀吉は勝豊の人数を同木山に入れ置いたが、調略の風説があった。これにより木村隼
人佐(定重)が入れ替わり、大金藤八・木下半右衛門(一元)・山路将監は外構に出してもっぱら
これを用心した。すると山路将監の謀叛は次第次第に露見し、将監は妻子を捨てて白昼に敵陣へと
走り入ったのである。

――『天正記(柴田退治記)』


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『お静の涙雨』(またはお静の血の涙)

2018年10月07日 14:58

277 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/06(土) 20:11:11.24 ID:HbSLVMGi
1万以上も記事があるのに何故この逸話がないのかが不思議だから投下。
今回は城の看板から。そのまま書くのは憚れるので、表現を加えたりします。


戦国時代の建築は死と隣り合わせと言っても過言ではない。運んでいた石が落下したり、積んでいた石垣が崩れ落ちるなど、死者は相当なものであった。
そのため、当時は人柱をすることで災害などで破壊されないように城の完成を祈願する目的があった。
この当時、誰が人柱になるかはそれぞれ異なっており、たまたま通りかかったから人柱にされたり、定めた日の1番目にその城に来たから人柱にされたり、籤引きによって人柱にされるケースもあった。


1576年、柴田勝豊は丸岡城を築城していた。
しかし、何度天守閣の石垣を積んでも崩壊したため、人柱を入れることとなった。
そこで選ばれたのが2人の子供を抱えて貧乏な暮らしを強いられていた隻眼の女性であるお静であった。
生活に困窮していたお静はせめてでも子供だけはという親心があったのか、子供のうち1人(2人説もある)を侍に取り立てて勝豊に仕えさせてもらえないだろうかと頼んだ。
勝豊のほうもこの条件で了承し、お静は人柱となって埋められた。


こうして丸岡城の天守閣は立派に完成した。
さあこれでお静の子供も侍に、となるはずであった。
ところが、勝豊はどこぞに転封を言い渡された。(長浜には1582年に転封)
『息子を侍に取り立てるだと?あれは嘘だ。』とばかりに、お静の子供は侍にしてもらえなかった。恐らく転封先でさえ連れて行ってもらえなかったのだろう。


折角自らの命を犠牲にしてまで子供の幸福と城の繁栄と引き換えにしたお静はこの反故に失望と激怒したことだろう。
お静は事実上怨霊となり、藻刈りをする卯月に大雨が降り、洪水が起きたため、人々は『お静の涙雨』(またはお静の血の涙)と呼び小さな墓を建ててお静の霊を慰めた。
(現在でもこの時期に雨量が増えるのは丸岡の両隣に該当する坂井市春江や勝山市が該当している。気象庁参照。)


一方、勝豊はお静が死んだ7年後に死んだ。
どこぞの西国の大名ならば人柱となって埋められたはずの娘が実は生きていたという美談があったものを、結局のところ今回は全員不幸になってて胸糞悪い。


彼を味方に引き入れよ

2015年02月02日 18:44

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/02(月) 17:18:46.62 ID:v46v+ulg
賤ヶ岳の合戦の前、羽柴秀吉は湯浅甚助を呼び出しこう命じた
「汝は長浜に参り。柴田勝家の養子の、伊賀守勝豊の与力共に近づき、弁舌を以って彼を味方に
引き入れよ。伊賀守は、内々、佐久間(盛政)と不和であり、それ故に勝家にも恨みを持っていると聞く。
これ畢竟の幸いである。

何故汝を差し寄越すかといえば、前に長浜城を引き渡す時、伊賀守の家老与力らと、互いに親しく
語り合っていたためであり、それ以上に深い仔細があるわけではない。」

これに湯浅畏まり、長浜表に至って、勝豊の家老・徳永石見守、並びに与力の大境藤八、疋田左近、
山路将監、木下半右衛門、神谷越中守らに対面して、

『今度味方に参られれば、皆様は大名に取り立てられます。ことさら伊賀守様に対しては、
秀吉からは、以前より内々ご入魂に語り合う仲で、今以って些かも疎遠にしようと思っていないので、
各々が進めて秀吉に力を合わせるということになれば、先ずは当分の賞として越前国を参らせ、
その上で時期を見て、北國の総大将に取り立てたいと考えていると言われました。
それ故に、このようにあなた方に申し入れたのです。』

甚助はそのように弁舌を振るい、朝夕に親しく語りかけたので、やがで各々も同心し、主人勝豊に
秀吉の考えを詳しく申し述べて、それに同調するよう勧めた。
しかし勝豊はこれを聞くと
「秀吉がいかに懇切に申されると言っても、父に向かって弓を引く道理があるべきものか。」と
それを喜ぶ気色は全く見えなかった。

それでも右の者達は、勝豊の前に代わる代わる進み出て
「殿の仰る通り、父子に仲違いが在ったからと、敵方に与力遊ばされるのは、我々が無道であるかのように
思われることでしょう。

ですが、殿にはご病身であられる故に、かねがね勝家公の御前も遠ざかられ、父子の御仲も疎遠に
なられたように見えます。
一方で佐久間(盛政)殿は、加州表で優れた働きがあったため、大身と成られ、家中の者達も
甚だ以って尊崇しております。

それに引き換え、殿は勝家公には疎まれ、家中の面々にも、有り甲斐もなく思われており、何の
御面目がありましょうか。

その上勝家公には、御実子である権六殿もいらっしゃいますから、行く末も良き事はないでしょう。
また、勝家公は武略知謀も類ない方ですが、現在は御簾中と成られた小谷の御方(お市)の容色に
耽られ、軍の駆け引きも、以前と違いはかばかしいご方便も無いように見えます。

一方の秀吉公の業績を見るに、知謀勇決は古今に優れ、民を憐れむこと堯舜の如くであり、
殿が日頃から彼と昵懇であるのは幸いの事です。今度の招きに応ぜられ、御合力なされば、秀吉も、
よもやその恩賞を忘れることはないでしょう。行く末北国の総大将と成り給われば、誠に以って
目出度き事ではありませんか。
例え殿がご立身なさらなかったとしても、今度の合戦に秀吉公がお勝ちになる事、鏡に映すように
見えております。
また、無道の父を討ってその子を取り立てる事も、和漢にその例多くあります。

とにかく、行く末頼もしからぬ勝家公に従うよりも、秀吉に与する事こそ、然るべきと存じます。」

このように、様々な言葉で勧めたため、勝豊も終に欲心に引かれ本性を取り失い、
「私もよく考えて見れば、汝らが言うところ、尤もに思う。この事、良きに取り計らうように。」
と認めたため、家老与力の面々大いに喜び、急ぎ湯浅を招いて同心する旨を語り、宜しきように
頼み入ると述べたため、甚助は「仕済したり」と早々に帰り秀吉に報告すると、大いに喜ばれ、
勝豊に来國實の太刀に金子三百両を添えて贈り、その他家老・物主(指揮官クラス)達にも、名作の太刀に
黄金を相添えて先々の事も含めて、当座の褒美として贈った。
(余吾庄合戦覚書)

秀吉による、柴田勝豊寝返り工作についての記事である。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/02(月) 18:37:02.40 ID:QJ6jOJwH
秀吉「幼君担いじゃったけど、異心とかないから。」
柴田「異心ないなら、お前さんの近江の本拠地である長浜城もわしによこせよ」
秀吉「おうあげる。ただしお前さんの息子の勝豊さんを城主にしろ」
柴田「いいとも。よっしゃ、秀吉の居城を奪ったったわw」

秀吉「ねえ、ぶっちゃけ俺と組まない?」
勝豊「えっ」
秀吉「あんたにあげた長浜城って長年俺の城だったからさー、あんたが知らない城の弱点とか抜け道とか全部知ってるんだよね」
勝豊「えっ」
秀吉「戦になったら一瞬で城を奪えるってことよ。親父さんは雪で支援にも来れないしさ、降伏して俺の仲間になんない?」
勝豊「えっ」
秀吉「知ってるよー、親父さんと折り合いがよくないってこと。後継者レースで旗色悪いんだってね。俺のとこに来たら柴田の家督はあんたに継がせるけど。」
勝豊「降伏します」
秀吉「よっしゃよっしゃ」

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 19:55:20.58 ID:wH2fpVQL
>>352
映画 清州会議見た後だとやっぱ勝家ってアホだなと思ったw

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 20:15:23.98 ID:9SXo73QX
そりゃ映画はそういうキャラ造形してるだけの話だから

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 20:52:28.59 ID:VHdjDGxt
信雄ェ…

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 21:44:47.01 ID:UPmazaXR
信雄なんてうつけを演じて生き永らえたからな
お陰で阿呆の役柄になっとる

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 12:49:50.16 ID:8X7Rn/qa
>>357
うつけを演じてなければ大織田家の跡取りになれたかもねww

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 13:00:16.44 ID:LIUZm0by
やっぱ鼻の毛が足らんかったんや