杭瀬川の味方討ち

2015年02月07日 18:45

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/07(土) 09:22:48.31 ID:DKtI3TKy
慶長5年(1600)9月14日、関ヶ原の決戦の前日、西軍と東軍の間では局地戦が起こった。
いわゆる杭瀬川の戦いである。この戦いは、非常な乱戦に成ったとされる。

この時、東軍方の有馬玄蕃(豊氏)家臣、稲次右近は杭瀬川を乗り越えて戦場に向かうと、
大垣城より出撃した石田治部少輔(三成)の家臣、横山監物と馬上にて槍合わせをし、
その後両人馬から降り組み合いをしていた所、稲次右近が下にされ危うくなったが、
ここで右近の若党が横山監物の飛びつき引き倒したため、今度は右近が上に成った。
しかしここで、今度は横山監物の若党が右近に取り付いた。

右近はこの若党を斬りつけると彼は離れ、そこを右近の若党が斬りつけ、両者の若党が
斬り合いと成った。

そこに東軍方・堀尾帯刀(吉晴)の母衣衆の一人が出くわし、敵と勘違いして、右近の若党の首を取り、
その後徳川家康の御前に参って、堀尾帯刀家臣と申し上げ、首帳にこれを記録するよう申し上げた。

さて、稲次右近は横山監物の首を取り、また監物の若党の首もとって、これを馬につけ先に出陣していた
中村式部少輔(一氏)の部隊の前を通ると、この姿を褒めぬものはいなかった。
その首を持って家康の御前に参り御目にかけると、家康はその働きの程を見て直々に褒め、
首帳にこれを記録させた。この時、右近は思い切って首長を記録する者に尋ねた

「私の前に、首がひとつこちらに参らなかったでしょうか?」

「只今、堀尾帯刀殿の母衣の者が首一つ持参いたしました。」

「それは私の若党の首でございます。味方討ちをしたのですから、その首帳の記録は消して頂きたい。」

家康にこの会話が聞こえ
「彼は一体何事を言っているのか?」と首帳の者に尋ねると

「はい。最前の首は、この方の若党の首であると申されたのです。そのため、首帳のその記録を消して
頂きたいと申されました。」

これを聞いた家康は
「味方討ちであっても問題はない。敵味方の見分けすらつかない乱戦の時は、味方討ちであっても
高名になりうるのだ。であるから、首帳はそのままにしておくように。」

これ故、その味方討ちは手柄と成った。

しかしその後、堀尾帯刀の母衣衆たちが堀尾に対して訴訟した
「敵味方を見分けられぬような者は、母衣衆に入れておくべきではありません。
もしそのままにされるのであれば、われら母衣衆残りの9人は(母衣衆は10人)、母衣を殿に
返上申し上げます。」

堀尾帯刀はこれに
「母衣の者達の申すこと尤もである。今後彼には母衣を指させない。」と返答した。
その一方でその者には、それまで五百石の知行だったのを加増され、足軽20人が新たに付けられた。

稲次右近は今度の手柄で、五百石から六千石に加増され、家老職を仰せ付けられた。
後に、島原で討ち死にした。

(中村一氏記)



374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/07(土) 09:35:56.93 ID:vA1SS0WK
いい話のような悪いような

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/07(土) 09:36:03.76 ID:/e3X+Jwd
政宗「乱戦なら味方討ちでも手柄、当然だな」

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/07(土) 10:01:11.99 ID:dnf87Wx1
>>375
いや、あんたの場合は手柄どころかシャレにならないから

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/07(土) 11:06:42.09 ID:qkBj3S1a
じんぼうの差ですわ

スポンサーサイト