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米子城の伝説

2016年12月23日 21:07

456 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 07:54:36.77 ID:a79PnZ+I
米子城の伝説

吉川広家中村一忠の築城で米子城の本丸が飯山から湊山へと移り変わった頃の事。
米子城に夜な夜な化け物が出ると噂が立った。
ある時村河与一衛門と言う勇気有る侍が化け物の正体を暴いてやろうと、夜の城を見回っていると、
本丸付近の鉄(くろがね)御門をくぐって石段を上に上がろうとしたその時、暗闇の中に突如灯りが立った。
よく見ると、白衣に緋袴を履いた女が灯りを持ち立っているのが見えた。与一衛門が
「怪しい奴、何者か!?」
と強く誰何すると女は
「私はこの城の主人である。我が城の見回り中じゃ」
と言って与一衛門を見向きもせず去ろうとした。
与一衛門は「この城の主人は殿様じゃ」
と刀を抜いて斬りかかり、女と暫し攻防が続いた。暫くして女は
「私の負けだ。私は飯山の主の大蛇でこの湊山に城が移って飯山は廃れてしまい、それを恨みに思って化けて出たのだ。
そなたは強い、今夜限りにもう姿を現わすのはやめにする。これはその証じゃ」
と言うと、与一衛門に二枚の皿を渡して大きな音と共に姿を消した。
明るくなって与一衛門が二枚の皿を確認すると、それは大きな蛇の鱗であったという。
村河家では代々その鱗を大事にした。



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中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~

2016年12月23日 21:06

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 19:45:13.14 ID:uDiWfu+v
中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9105.html

にも少し書いてある話になるが、

中村一忠は11歳で家督を継ぎ、伯父で執政家老の横田内膳が政務を取り仕切っていた。独裁的であったようだが、米子城を完成し、新たに城下町をつくり、現在の米子の基礎固めを行っている。
重臣の安井清一郎や、茶道の師である天野宗把など、内膳のやりかたに不満のある者たちが、一忠にそろそろ政務をご自分の手に、とそそのかした。
これにのった一忠は、慶長八年(一六〇三)十一月十四日に、一忠と於さめ姫との許婚の儀が米子城で盛大に行われたあとで内膳にいきなり斬りつけた。
しかし、一忠は仕損じてしまい、次の間に控えていた家臣がようやく斬り伏せ殺害した。
直後、横田内膳の息子や柳生但馬守宗矩の兄、五郎右衛門らによる米子騒動が起き、隣国出雲月山富田城城主、
堀尾吉晴の助けもあって事態は一忠側の勝利で収集したものの幕府は、安井、天野の両人に切腹を命じた。
また江戸へ呼び出された一忠はさまざまに弁明したものの、品川宿で謹慎を命じられた後許されている。
一忠の叔父中村一栄(かずよし)は、家臣の梅里伯清の娘を一忠の側室にと推挙し慶長九年(一六〇四)、梅里の娘は十四歳で米子城へお国御前として上がる。
正室於さめ姫は江戸屋敷に常住した為お国御前は正室に次ぐ格があった。

一忠には京にも京屋敷があり、これは豊臣時代からの屋敷で一忠の生まれ育った所であった。

京屋敷の家老矢野正倫(まさとも)も京の側室を推挙した。庄屋の娘であったが、美人で物腰やわらかな、明るい娘であったようだ。

余談だが家康は大名たちの側室の人数について、大名は八人という目安をもうけている。一忠も江戸、京、米子と、上屋敷、下屋敷に八人くらいの側室はいたのかもしれない。

元服の際一忠は、松平の称号を許され、将軍秀忠の諱名を賜り、忠一と名乗りを改めた。

於さめ姫には、姫つきの女中があまた随ってきたが、それとは別に忠一付きの側女中が二人、どこからか配置されてきた。この二人はこまめに忠一の身の回りの世話をした。周囲の者に明かすことのできない、重要な任務を帯びて中村家に乗り込んできていた。

側女中の二人がきてより、忠一の体調はしだいに悪くなり、疲労感が色濃くなっていった。

江戸屋敷にいる於さめ姫は、忠一が江戸にあっても、別棟の御主殿にいて、昼間は忠一と会うことはなかったが、輝姫という女の子を産んでいる。ついで、京の側室も出産し、こちらは男子で小武と名づけられた。

慶長十四年(一六〇九)五月、江戸、京、とまわって米子へ帰国した忠一は、だれの目にもわかるほど衰弱していた。

旅の道中に例の側女中もつき従い、十二分に忠一の面倒をみたが、お国御前の側室が側女中をあやしんで、見張り役を派遣したが、確証は得られなかった。

川狩りに行くと気分もよく元気が出るような気がして、忠一は最後の川狩りに出かけた。だがほどなく帰ってきた忠一は、すぐ寝所に入った。近習がかけつけた時、忠一はすでに死んでいた。いまだ二十歳の若い藩主の死去であった。

忠一の顔には薄く斑点が浮き、それを消すためにか、側女中は顔や身体中をなでさすっていた。これをとがめられた側女中は逃げ出して再びその姿を見た者はいなかった。

この後藩主の亡くなった米子城に幕府の裁定が下り、中村家は子なき故断絶と決まった。

京の側室には、男子の小武がありながら、また米子の御国御前も当時忠一の子を妊娠していたのにである。
これは正室である於さめ姫が「おおかた、どこからか連れてきた子であろう。けしからぬことだ」
と、柳眉をさかだてた鶴の一声の為であり、この為十八万石の米子中村家は、お取り潰しになってしまった。
中村忠一の死後、妊娠していた米子の御国御前も隠棲して男子を産んだがこれらの子らのその後に関しては九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、
また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられたと言う。
正室、於さめの方に関してはこの四年後の慶長十八年(1613年)に毛利秀元の継室(浄明院)として嫁いだとされる。

(因伯戦国時代の女性たち、鳥取県史より)

451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 19:58:11.05 ID:uDiWfu+v
>>450
追記として、米子騒動の横田内膳は既出の話にある通り藩主を蔑ろにした奸臣と言う風に中村記などの中村家側の資料に書かれているが、
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、
更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとされている。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 20:56:32.91 ID:iLzbCdiU
自分が任命した補佐役の村詮を殺されたから家康は怒ったんでしょ?

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 21:06:02.20 ID:TmvAbk2q
よくあることとはいえまるっきり話が違うw

454 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 21:14:22.59 ID:uDiWfu+v
>>452
それも有るし、養女とは言え娘の婚礼の宴を利用して功臣の排斥行ったらそりゃあもう味噌様だって怒りが有頂天でしょうよ

465 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 16:53:28.04 ID:+Oh64i4Z
>>454
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8378.html

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 19:43:17.14 ID:RwZ7R4NO
>>454
まてまて「怒りが有頂天」は無いだろう。
「怒り心頭」とか「怒髪天を衝く」がごっちゃになってるよ

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 20:17:22.79 ID:B+sxctzO
>>466
ネットスラングだよ。こういうスレで使うのもどうかと思うがw

468 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/25(日) 06:35:18.93 ID:DQ39pmTE
怒りが頂点に達した時に使用するネットスラング。

元ネタはブロントさんと呼ばれる2chネトゲ実況版に書き込みを行っていたユーザーの書き込みから。


75 名前:既にその名前は使われています投稿日:03/10/30 16:38 ID:QcBxXqoc
お前らは一級廃人のおれの足元にも及ばない貧弱一般人
その一般人どもが一級廃人のおれに対してナメタ言葉を使うことでおれの怒りが有頂天になった
この怒りはしばらくおさまる事を知らない


76 名前:既にその名前は使われています 投稿日:03/10/30 16:39 xu+t+yG6
有頂天になるんか。

http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/%B2%B6%A4%CE%C5%DC%A4%EA%A4%AC%CD%AD%C4%BA%C5%B7





ブロントさんが初めて使ってから13年か…
知らない人も出て来る時期なんだなぁ…

中村一忠、横田内膳成敗の事

2015年02月24日 18:28

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 06:48:04.59 ID:lsITlDED
中村一忠、横田内膳成敗の事

慶長8年(1603)11月14日、伯耆国米子において、中村一学(一忠)の内儀の額直しの儀(元服)の時の事。
この時一学は14歳、重臣である横田内膳(村詮)一人が奥へと通り、西の丸にて番の小姓を伴って戻り、
奥での祝の終わる頃には夜に入っていた。

横田内膳が退出しようとすると、一学は広間まで見送った。そこで内膳は「刀を預かって頂いていたので、
それをお返しいただきたい。」と言った所を、一学が突然斬りつけた。

一学は内膳に3度切りつけたが、3度とも内膳に当たらなかった。一学は若年であり、力弱かったために
刀もうまく使えなかったのである。内膳は身に当たらなかったためにその場から逃げ出した。
ここで一学の太鼓の師匠である安井誠一郎、当時700石を取っていたが、彼が内膳に立ち向かった。
安井も一学と談合し、横田内膳の襲撃に加わっていたのである。しかし内膳によって左の拳を斬られ
後ずさり行燈を踏み倒した。そこには奥の殿原が二人居たが、この太刀合わせに驚き逃げ出した。

しかし内膳が潜り戸を上げて外に出ようとした所を、近藤善右衛門が長刀にて突き殺した。

この近藤善右衛門に対し、横田内膳はかつて恩義を与えたことがあったのだが、近藤はそのことを
全く知らなかった。かつて中村一氏が、当時6千石を与えていた垣見豊後を扶持放しした時、
その6千石の内、3千石を家老たちに分配し、残りの3千石を物頭6人に使わすようにと命じた。
ここで横田内膳は、「近藤善右衛門にも500石を遣わされますように。」と申し上げたが、
一氏は同意せず座敷を起ってしまった。しかし内膳はこれに追いかけ、無理に願い上げ善右衛門に
500石加増するとの一筆を書かせた。しかしこの事は加増に関わる大事の事だったので、内膳も
善右衛門に一言も語らなかった。
近藤善右衛門は後に、もしこの事を知っていれば、長刀で内膳を突き殺すようなことはなかったのにと、
語ったそうである。

中村一学が内膳に斬りつけた時、内膳の茶道が一楽を後ろから斬りつけた。そこをとっさに、
一学の茶道である宗把という者が気づきこれを斬り殺した。後でその褒美として千石が与えられた。

横田内膳という人は、元は三好殿に仕えた牢人であったのを、中村一氏が咄物(御伽衆)として抱えた。
ある時重大事があり、中村一氏も焦燥し悩んでおり、この時「内膳の考えも聞かせてみよ」と言った所、
内膳の申し上げた意見は非常に優れており、その後数度試した後、一氏は彼に三千石を遣わし、さらに
妹婿に迎え、国の仕置を申し付けた。
内膳の仕置は、家中の者への対応も国郡の政治も非常に良きものであったので、門前市を成す状況となり、
人からの賞賛は大方成らぬものであった。

しかし、中村一氏の跡を継いだ一学が幼少であったこともあり、内膳も驕り、甥の横田勘解由・主馬などの
高い知行を遣わし、聟に六千石を取らせるなど驕りを極めたため、薮内匠、服部小膳などの他の重臣は
用心のため身を引き引退した。
そして内膳は歌舞伎踊り、物見遊山などの享楽も好んだ。これら故にこのように成敗されたのである。

(中村一氏記)

中村一忠による、重臣横田村詮成敗についての記事である。



438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 08:35:35.02 ID:Wnf+Ge+k
長刀の優秀さが証明されてしまったか

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 09:45:54.04 ID:2arNW6pY
格闘茶道の心得も必要なんだな

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 10:16:15.82 ID:mjEsQPk+
目潰しに茶を吹きかけるのだな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 16:19:39.76 ID:kZLRFJwv
横田内膳って家康にも目をかけられた人物で、ていうか家康の指図で中村家の家老に命じられているんで、その辺も影響してるんだろうな
「横田って将軍に気に入られてるからって態度でかくね?」
「ていうかスパイじゃね?」
みたいな

当然、家康が自分が命じた横田が殺されたことを看過するわけもなく、中村家はあっさり取り潰しになりましたとさ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 23:46:59.10 ID:NBwyUHkk
スパイというなら客将の柳生宗章だろ
こいつ家康の誘いに応じず小早川秀秋のとこで警護役してんじゃん
柳生一族をも殺したのは不味いよなあ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:00:54.08 ID:ts3EH1ea
柳生宗章はくさい。
小早川に中村と、豊臣恩顧の大名のもとをぶらぶらしてるとこを見ると、ほんとうにスパイ臭い。
家康の誘いを断ったんじゃなく「スパイして来い。その功で取り立ててやる」とでも言われたんじゃないか。

同じような例に本田政重がいる。
こいつも豊臣恩顧の大名を渡り歩き、関ヶ原でも西軍として参加しているが、なぜか罪に問われず、どんどん出世していった。
最後は加賀藩の家老として7万石を領している。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:06:18.12 ID:ts3EH1ea
>>442
まあそのスパイ臭い柳生を、家康に目をかけられていた横田が客将として受け入れていたんだから、ますますスパイ疑惑も深まるというもの。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:34:50.73 ID:FByVptBU
>>441
この件で中村家は取り潰されてないんだが…。
中村家はこの事件から5年後、一忠の急逝に伴う無嗣改易だぞ。

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 01:48:32.37 ID:ts3EH1ea
>>446
15歳の幼君だし、まだまだ諸大名の動向も不穏だったから、一時的に猶予されただけだと思うよ
一忠がくたばると、妾腹の男子があったが、正室が断固反対したため、無嗣扱いになって終了
ちなみに正室は徳川家康の養女w
家康―養女―横田―柳生のラインに逆らっちゃ生きていけないよ

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 01:54:09.98 ID:FByVptBU
>>447
そもそも5年前に20で急逝するなんて誰が解るんだよ。君みたいな考え方を「陰謀論」と呼ぶ。
根拠も一切無い、印象論だけで何でもかんでも決め付ける、学問として最もやってはいけない態度だ。

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:09:13.37 ID:ts3EH1ea
>>448
一忠が生きてても懲罰的減封ぐらいはされていただろうということ
猶予与えたけどダメで、そのまま死んじゃったから、正室と家康が組んで中村家潰した
家康目線だと、横田と柳生を殺した反徳川の家臣を排除にしたにもかかわらず駄目だったんで、
中村家自体が存続させる意味のないクズ家だと認識したんだろうさ

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:51:47.33 ID:FByVptBU
>>449
だから根拠が一切ないじゃないか。君の主張を裏付ける史料は何?
最低限それの傍証となる同時代史料を提示しないと。
それが出来ないのなら君の主張は全部、ただの思い込みに過ぎない。

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:55:44.98 ID:LTObXFfO
横田は家康に駿府を明け渡した人だからな~
家康のお気に入りであることは間違いなかろう
また先代の妹御を室にして外戚でもあり家老として申し分ない
戦国の世なら下剋上もあったろうが江戸じゃね
まあ子供がいなきゃ養子縁組が可能だろうが…
横田をスパイとするのは見当外れもいいとこ

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