豊鑑、後書き

2015年02月28日 18:12

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 01:41:06.59 ID:y03jN6Nc
ここまで長々と著述してきたが、思いもよらず外病の霧に冒され、もはや我が身は
秋の露と消えようとしている。思いの程を残すことが出来ないのは、口惜しい限りである。
もし心ざしを同じくする人がいるなら、この後を継いでほしい。

この書は清書にすら及んでいないので、もとより拙い私の著述であるが、なお拙く、
人の官名、氏なども、前後が正しくないこともあるだろう。これも病のせいだと見て
許して頂きたい。

秀吉公は慶長4年8月18日に、例ならぬ心地にて薨ぜられたのだが、東山に葬られ、
豊国大明神と崇められた。
その嫡男である右大臣秀頼公がその後を継がれたが、未だ幼少であったので、
世の掟は松平源家康公により計らわれるようになった。

元和元年5月8日、家康公によって秀頼公は摂津国大阪の城にて自害し、煙と上られ、
豊臣氏は跡無く成った。

 残しをく 筆の跡さへ末とけで あだに消えにし秋のゆふづゆ
(残し置くべき文書でさえ最後まで書けなかった。意味もなく消えてしまう秋の夕の露のような生涯であった)

竹中丹後守刺史源重門取筆
(豊鑑)

竹中重門の書いた豊鑑の、後書きの部分である。




スポンサーサイト