485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 01:41:06.59 ID:y03jN6Nc
ここまで長々と著述してきたが、思いもよらず外病の霧に冒され、もはや我が身は
秋の露と消えようとしている。思いの程を残すことが出来ないのは、口惜しい限りである。
もし心ざしを同じくする人がいるなら、この後を継いでほしい。
この書は清書にすら及んでいないので、もとより拙い私の著述であるが、なお拙く、
人の官名、氏なども、前後が正しくないこともあるだろう。これも病のせいだと見て
許して頂きたい。
秀吉公は慶長4年8月18日に、例ならぬ心地にて薨ぜられたのだが、東山に葬られ、
豊国大明神と崇められた。
その嫡男である右大臣秀頼公がその後を継がれたが、未だ幼少であったので、
世の掟は松平源家康公により計らわれるようになった。
元和元年5月8日、家康公によって秀頼公は摂津国大阪の城にて自害し、煙と上られ、
豊臣氏は跡無く成った。
残しをく 筆の跡さへ末とけで あだに消えにし秋のゆふづゆ
(残し置くべき文書でさえ最後まで書けなかった。意味もなく消えてしまう秋の夕の露のような生涯であった)
竹中丹後守刺史源重門取筆
(豊鑑)
竹中重門の書いた豊鑑の、後書きの部分である。
ここまで長々と著述してきたが、思いもよらず外病の霧に冒され、もはや我が身は
秋の露と消えようとしている。思いの程を残すことが出来ないのは、口惜しい限りである。
もし心ざしを同じくする人がいるなら、この後を継いでほしい。
この書は清書にすら及んでいないので、もとより拙い私の著述であるが、なお拙く、
人の官名、氏なども、前後が正しくないこともあるだろう。これも病のせいだと見て
許して頂きたい。
秀吉公は慶長4年8月18日に、例ならぬ心地にて薨ぜられたのだが、東山に葬られ、
豊国大明神と崇められた。
その嫡男である右大臣秀頼公がその後を継がれたが、未だ幼少であったので、
世の掟は松平源家康公により計らわれるようになった。
元和元年5月8日、家康公によって秀頼公は摂津国大阪の城にて自害し、煙と上られ、
豊臣氏は跡無く成った。
残しをく 筆の跡さへ末とけで あだに消えにし秋のゆふづゆ
(残し置くべき文書でさえ最後まで書けなかった。意味もなく消えてしまう秋の夕の露のような生涯であった)
竹中丹後守刺史源重門取筆
(豊鑑)
竹中重門の書いた豊鑑の、後書きの部分である。
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