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後世に云う乃保利がこれである

2021年12月14日 18:29

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/14(火) 17:21:31.40 ID:LG6cXNPR
足利義政将軍の代の頃、畠山左衛門督政長と同右衛門佐義就が、故管領左衛門督持国入道徳本の家督を
争うことがあった、。

康正二年(1456)の夏、彼等は河内国萱振という所で終に合戦に及んだ。
しかしもともと一族であるので、両勢の旗は同じであり、敵味方の区別ができないとのことで、
畠山政長は咄嗟に、旗に乳(布製の筒)を付けて竿に通した。
その時代の人々は皆これに倣い、そのため世の旗の制が一変した。
後世に云う乃保利(幟)がこれである。

或る本に、近代では多く棹付に縫いつけ、そこに乳を付けた旗を用いるが、その所以は、旗を張り立てる時、
棹に通す手間を取らず、或いは森林中などを通る時に、物に引っかかること無く、その自由能きを以ての
事だという。またその縫い様は、針返しをせず、打ち通す事を嫌い、射向の方へまくり出して縫うと云う。

新東鑑

幟旗の由来について



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政長一人の惣勝ちを見せ申さん

2020年05月02日 17:56

136 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/05/02(土) 12:28:05.91 ID:XXppo7En
畠山政長は公方家三代の管領職であり(義政、義尚、義材)、近代無双の名大将であった。
その手柄の多き中に、去る応仁の乱で山名方の多勢が洛中の軍に打ち勝って、相国寺の焼け跡に
陣取り、既に公方家の花の御所へ攻め近づいたため、御所方は難儀に及んだ所、この政長の手勢、加勢、
合せて二、三千の人数を以て

「今度の合戦は、政長一人の惣勝ちを見せ申さん!諸人証拠たるべし!」

と、自身声高に呼びかけた。敵は諸家合せて二、三万の大勢であったが、これを一戦に切り崩し、悉く
追い詰め、引き残る敵兵を、かの寺の蓮池へ切り込み、大いに勝利を得た。

これより山名方の者共は立て直すことが出来ず、それより文明年中まで、ただ対陣に日を送り、洛中の合戦
無く、終に御味方の御利運となった。然れば応仁の乱の惣勝ちは誠に政長一人の惣勝ちでであったと、
天下の人は皆感称した。

應仁後記



140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 17:25:11.50 ID:28fUGzQr
政長って普通に有能だと思うけど義就が怪物すぎるせいで割を食った感がある

畠山政長の最後

2018年03月15日 21:29

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/14(水) 22:27:07.05 ID:MY/3Tvpu
文明一統(応仁の乱の終結)以来、畠山義就も逝去し、細川勝元も山名宗全も逝去し、
応仁の乱の中心人物の中では、畠山尾張守政長だけが残った。
政長は元より一方の棟梁であり、位も従三位に叙し、再び管領にも就任したため、
三管領四職から御供衆に至るまで、彼の風下に立ち、政長による書状の文面は、
四職に対してはまるで被官に下すような書礼であった。

このような状況に、赤松一色山名といった人々、様々にこの不当を訴え、政長への恨みを
つのらせた。

この頃、畠山総州義豊(義就流畠山総州家)は、河内国誉田に在城して、政長と対立していたが、
さらに上意にも背くこと有り、公方足利義材は政長に心を寄せ、正覚寺に御動座あって、義豊を
退治しに向かった。

しかし、細川右京太夫政元も畠山政長に恨みがあった。
そのため彼は義豊方に加勢した。
すると、桃井、京極、山名、一色といった人々も皆義豊方に加わり、逆に正覚寺へと攻め寄せた。

政長方では、遊佐、斉藤、杉原、貴志といった人々が、ここを先途と防いだが、敵は四万余騎、
見方は二千余人という絶望的な状況であった。
そのため、先ずは公方義材を夜に紛れ、馬を召して、大和国筒井の城へと落とした。
そして夜が明けると、敵は徐々に四方より取り巻き、落ちのびる道もない状況となった。
正覚寺に籠もる者達は皆、自害せんと心を沈めていたが、政長は平某を召して、御児丸殿といって
この時13歳になる若君、彼は三才の時、常徳院殿(足利義尚)より一字を賜り尚慶と申したが、
これを呼び出し平に

「この君を汝に預ける。いかなる謀をも廻らせて彼を落とし、再びの当家再興の時を待て。」

そう命じたが平は

「私は最期のお供をすると決心しています。私の一族の、平ノ三郎左衛門に仰せ付けください。」

そのため三郎左衛門に命じたが、彼も最期のお供をしたいと申し出た。これに政長は大いに怒り

「汝は不覚を申しようだ!死を一時定めるのは却って易い、若君を落としそれに付き従うのは
大事である!」

こう言われて、平三郎左衛門も泣く泣く座敷を立ち、この時正覚寺の中には、公方様への
御慰みとして歌舞などを行う桂の遊女たちが居たのだが、その装束を借り、若君に着させ、
若君を桂の遊女に扮装させ、女たちの中に紛れさせ、自分は桂遊女に従う男の風情となり、
馬の腹帯の類に装束などを包み入れ、畠山重代の長刀(粟田口藤右馬則國が作)を竹の筒に
入れて背負い、敵陣の前を通った。
敵方にも、この桂の遊女たちを見知っている者達が居たので、問題なく通行が許可された。
敵陣を通過すると、若君を馬に乗せ、鞭を進めて大和国奥郡へと落とした。

明応二年四月九日の夜に入り、政長は心安しと、葉室大納言以下籠城の人々と最期の盃をし、
真っ先に腹を切った。しかしこの時、政長は藤四郎の刀にて三度まで腹を切りつけたが
全く切れず、そのため投げ捨てた所、側にあった薬研に当たり、その薬研を真っ二つに切り裂いた。
このためこの脇差は、薬研藤四郎とも申す。

「さては重代の刀にて、主を惜しみけるか、いかがすべきか。」

そう困惑する政長に、家臣の丹下備後守、かむり落としの信国の刀を抜いて、己の腿を二つ、
突き通し
「いかにも、良く切れます」
と、政長に奉った。政長はこれを逆手に取って、腹を十文字に掻っ切り、そのままその刀を
葉室大納言光忠卿へと渡した。その後、みな順次腹を切り、二百余人、一人も残らず自害し、
城に火をかけた。

(足利季世記)



605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 01:53:33.13 ID:XPawPm2/
長文起こしてくれる人ありがとう

薬研藤四郎

2015年03月11日 18:52

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 00:02:34.27 ID:aFyOPpo+
薬研藤四郎

明応の頃のことである。
畠山政長は細川政元のために包囲され、ついに自害に及ぼうとした。(明応の政変)
彼は帯びていた吉光の担当を抜くと、もろ肌脱いで腹に突き立てようとした。
しかしどうしても切れない。三度刺したが腹が切れないのである。
政長は怒って吉光の短刀を投げつけた。ところが、それは傍らにあった薬研に当って貫いた。
政長はこれを眺めると

「累代の短刀、さすがにその主人を殺すに忍びないと見えるわ」

そう嘆じた。
その時重臣の丹下備前守、自身の帯びた信国の短刀を抜き放ち、自分の体や腿を刺して試みた上で

「殿、この刀、切れ味よろしゅうござる」

そう言って渡した。そこで政長は快く腹を斬って斃れた。

この藤四郎吉光作の短刀は、薬研を貫いたという所からその後「薬研藤四郎」と呼ばれ、
後に松永弾正(久秀)の手に入って秘蔵されたのであるが、更に織田信長に献じられた。
しかし本能寺の変とともに消えた。

(古今名家珍談奇談逸話集)



546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 00:35:08.25 ID:N/WhovJN
薬研藤四郎「お、大将……太っ腹だなぁ」

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 16:35:24.29 ID:YQr/l5mb
ビビって腹切れなかっただけじゃ・・・とか言っちゃいけないか