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家康の薬

2013年10月04日 19:45

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/03(木) 23:30:32.00 ID:ufxjFG31
関ヶ原直前の八月八日、かねてより体調を崩していた井伊直政は病に倒れた。
外様諸侯の相手をせねばならないのに、普段の不摂生がたたったのか体はいうことを聞かず
甚だしく熱を発し、生死の境をさまよう危篤状態が数日続いた。

これを不寝で看病していた医師の某はあらゆる薬を試したがどれもまったく効果が無い。
未だ服用していない薬が一つあったが、それは直政が以前家康より拝領した飲めば生死は二つに一つと言われる劇薬であった。

「これを用いるべきだろうか」
そう尋ねる直政に、匙を投げかけている医師の答えることには
「病ここに至った以上、用いるよりほかありますまい」

その言葉を聞いて劇薬を服用した直政、汐が引くように熱も下がり、みるみるうちに全快し八月十二日には監軍に復帰した。

しかし薬の服用を定めた医師某にはなんの褒美もなく、まもなく改易されてしまったという。

『井家美談』より、直政さんのお医者さんへの扱いが悪い話




424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 00:00:28.86 ID:dldwxEct
家康さん、なんつーもんを・・・

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 01:09:00.53 ID:RWMrXuP6
>>423
なんて半丁博打な薬w
てか、なんでその医者が改易されなきゃいけないんだ・・・

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 02:40:51.91 ID:4Wc8Gile
「家康様よか劣るとかお前専門の医者やってる意味あんの?」
てな感じに、投げやりで医者としての責任放棄した受け答えだと思われたんじゃねーの?

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 03:21:41.09 ID:HaeZBYT1
その辺の医者よりよっぽど知識がある家康様が比較対象だなんて酷な話です、直政殿w

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 05:05:45.55 ID:d/gC2trl
でもこのような関ヶ原前で大病を患った話を踏まえると長年の激務に
直政の体は悲鳴を上げ始めていたとも思えるわけで

戦傷が無くても過労で鬼籍に入るのは時間の問題だったのかな…

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 17:43:55.13 ID:+iO3ZY7M
逆にこの劇薬のせいで生命力を使い切ったから早死にしたのかもしれん
ゆっくり養生して快復してたら大阪や島原でハッスルしてたかも

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 19:40:25.20 ID:lr38n4dg
>>423
生死の淵をさまよっていたとか関ヶ原本戦時とかでも本調子じゃなかったろうに
あの激しい追撃とかやっちゃうのか

「汝は将才のみにあらず」

2013年07月17日 19:50

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/16(火) 22:28:06.25 ID:TtpWh5Rh
小田原が平定され、井伊直政は箕輪に封ぜられた。
移封される前に秀吉が直政を召して言った。

「汝が10万石(実際は12万石)の封を得たのは、
我が汝の多大な戦功や働きに感じ入り、徳川殿に勧めたからである。
我の厚意を知ったからには必ずその事を忘れぬように」

直政は拝謝して答えた。

「殿下の御厚意はこの身が終わるまで忘れません」

続いてまた秀吉が言った。

「ならばもし、豊臣と徳川の両家が信を失い、東西兵を構えることになったら、汝は誰の為に忠謀をなすのか?」

直政はこれに答えた。

「私の身命を賭して、死を以てして必ずや両家の御和睦を成してみせます」

秀吉は甚だ感賞して言った。

「汝は将才のみにあらず、治国の事にも長じておるな」


──直政は天下に両兵部と言われる一人である。
小早川隆景は賞して言った。

「直政は小身なれども、天下の政道相成るべき器量あり」と。

(名将言行録)




709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 00:21:31.77 ID:4csEEpJg
ちなみに、もう一方の兵部さんは、隆景さんとこの乃美宗勝さんらしい

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 00:23:45.81 ID:Zt8IRpVx
小田原前も6万石くらいあったのに、それでも小身扱いなのか

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 02:04:27.58 ID:U0thrqxv
>>710
天下を治めるには6万石では小身という意味だと

名将は名将を知る

712 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/17(水) 07:11:57.08 ID:aMEsZfWB
小田原の時、殺そうって進言したんだよな

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 07:24:02.75 ID:U0thrqxv
小田原の時といえば戦後は書状とかがのこっているけど
氏政たち兄弟の為に結構動き回っていたね
氏規の自害を身を呈して止めたりとか

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/18(木) 05:36:56.52 ID:Ba86fMnZ
>>713
伊達のまーくんも一揆で大変だった時に直政の尽力で助けられているんだよな

武田遺臣六士の諫書

2013年05月19日 19:04

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 16:19:50.47 ID:zS3t+lYj
壮年の井伊直政の鋭気を心配した徳川家康は、直政の配下に附けた武田遺臣の六士
曲淵宗立斎菅沼雲仙斎孕石備前守馬場藤左衛門広瀬治郎右衛門、辻弥左衛門に命じ諫書を作らせた。

「殿様(直政)は傷馬だろうが曲馬だろうが見事に乗りこなしカッコいいです……
ですが、御大将であらせられるのだからちゃんと良い馬にお乗りになってください」

「殿様は金の大天衝の脇立と背中まである白熊の毛を付けた小洒落た御具足で輝いています……
ですが、敵にもすぐに大将だとバレる目立つ格好で我々軍勢の先へ駆け出されるなどもってのほかです」

ーー直政の傾奇者振りが垣間見れる話
(常山紀談、井伊記)




645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 19:12:13.18 ID:rQW+tJh6
柏木源藤「あんなに狙いやすい的は初めて見た」

井伊直政、豊臣秀次と碁を打つ

2013年05月02日 19:50

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 21:00:29.34 ID:nZuPJVUE
>>477にちょっとリンクする話

天正19年12月28日、秀吉は関白の座を養子に迎えた甥の豊臣秀次に譲った。
家康は秀次の関白就任祝いに名代として井伊直政を上洛させた。

一連の公式行事が済んだ後、聚楽第の一室で秀次と直政は碁を打つことになった。

対局中、直政は長久手合戦での秀次の敗走の話をし始めた。
直政は何食わぬ顔をして碁を打っている。
居合わせた諸士たちは、肝を冷やしながら見守っていた。
(井伊年譜)

関白をも畏れない悪い話だかいい話だか





484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 22:11:04.85 ID:hDelicPc
なんか碁を打つってのが門番だの関守だのどこぞの嫁に挨拶するのと同じ位のフラグ臭がしてきた

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 22:17:07.64 ID:I6ZCd8uD
>>482
この人の場合、空気が読めないじゃなくて
もはや空気を読んで言ってるよなw

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 22:19:48.77 ID:DE1+Hoq+
これだから三河武士・・・井伊は違った

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 23:08:32.25 ID:ZEPS/1lc
井伊直政は鍋島直茂にも桜の花より美しい武士だと評価されてたな。
逸話もカッコイイものが多い人だ

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 00:02:26.58 ID:DPGCPxkL
井伊直政って三河武士の範疇に入れていいの?

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 00:19:55.10 ID:i4UH1Fi+
入れちゃダメ。岡崎譜代ではあるけど。

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 00:33:08.88 ID:PZ8vPYeS
ある意味、三河武士より三河武士らしい所も多く
偏屈者ばかりの中で揉まれながらも、しかし戦を離れれば紳士的な振舞いを身に付けており
更にスマートな外交術も出来る洗練さに毛色の違いは出ている

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 07:53:44.96 ID:uD16CXSz
つうか素直で大人しい戦国武将の方がレアだと思うけど

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 08:21:57.71 ID:i1bLLOLa
何度でも城を差し上げる天庵さまのことかー!

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 08:29:19.57 ID:u6JC1lI9
>>491
醤油や鰹節の逸話を見る限りでは大久保党に
あと作左や減らず口の小平太にも鍛えられているようだしな
榊原康政も前に出てた逸話みると最終的に直政のこと一番に信頼していた風だ

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 08:32:36.73 ID:u6JC1lI9
>>492
直政は平素はつか権現様の前では素直で口数が少なかったんじゃなかったか

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 08:43:28.28 ID:u6JC1lI9
あ、少し語弊があったな
平素は口数が少なく権現様の前では素直、だった

497 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2013/05/02(木) 09:51:26.94 ID:hsu6lKIk
三河武士は権現さまの前では皆素直に言いたいことを言う

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 10:09:17.67 ID:u/7uvxzx
直政がふだん口数が少ないってのは、俺もどこかで見た気がする
でも、権現さまの前では感情を爆発させてたかも知れないよ

権現さま、そういうタイプ好きだし…

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 10:45:33.34 ID:+ey38T3L
NOと言いまくりな三河武士

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 10:46:38.06 ID:i4UH1Fi+
>>491
なにより、男色にあまり興味のない権現様ですらウホッとなるイケメンだし。

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 12:08:56.81 ID:u6JC1lI9
>>498
「殿が大事にしている栗毛の馬が欲しいの☆」とか
「殿が大事にしている正宗が欲しいの☆」とか
小悪魔全開で権現様の愛人を確かめるようにおねだりしているようだしな☆

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 12:43:07.18 ID:u6JC1lI9
愛人ってなんだよ…愛情だよ…

まあそれも育った環境などの生い立ちにも関係してるのだろうが

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 14:01:38.75 ID:/JsrXha+
>>500
ウホッ井伊男
と言いたいわけじゃないだろうな

井伊直政が大政所を送って上洛した時

2013年05月01日 19:50

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 17:48:42.99 ID:r7gPLnkR
井伊直政が大政所を送って上洛した時、直政は豊臣秀吉に召されて饗応が行われた。

この時、石川数正も直政の昔の傍輩だからということで接伴に召されたが、
直政は数正に背を向けて、面をも合わせなかった。

秀吉が自ら茶を点じて与えようという時にも、数正はまた接伴したが、直政は側の人に向かい、

「これにおります数正は、数代相伝の主君に背き参らせ、殿下に従った大臆病の男なので、
直政は彼と肩を並べて膝を組むことは御免蒙りたく思います」

と言ったので、御前に居合わせた人々はみな舌を振るわせた。

――『責而者草(藩翰譜)』




478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 19:25:14.40 ID:I6ZCd8uD
秀吉が気を利かせて昔のよしみで数正を同席させた中の御前での啖呵だからスゴいね
さすがにめんどくさい家臣団の中での筆頭だけある
てか、ラスボスは直政が懐かしがって喜ぶとでも思ったのだろうか…

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 19:33:02.09 ID:ctIUhIVi
三河者の譜代なんてしょっちゅう裏切るからなあ
そのくせ苦労してると聞けば帰参したり
松平の殿様と今の主君は別腹って感覚なのか?

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 20:04:41.99 ID:4/41+WON
そんなにしょっちゅう裏切ってるかなあ?
清康広忠のときはカオスだから仕方ないと思うけど

家康のときは、石川、大賀、一向一揆以外に誰か裏切ったっけ?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 20:34:40.60 ID:nZuPJVUE
三河者の場合、主君に嫌気が指しての裏切りというか出奔じゃないからね

関ヶ原は深い霧に覆われていた

2012年12月23日 19:11

868 名前:話の流れ上あえてこちらに[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 12:04:52.07 ID:f+nHlxNe
関ヶ原は深い霧に覆われていた。
敵陣である西軍の彼方より散発的に銃弾が飛来するようになった。
この時にはまだ開戦には至っていない。
前衛三番隊に陣取っていた黒田隊に居た大道寺孫九郎が進み出て敵間を伺っていたが
如何にせんとも視界が完全に閉ざされている。
黒具足の武者が横合いから進み出、手綱をゆらりと打ち掛け心静かに敵方を見据えていた。
すると徐に振り返り独り言を呟いた。

「只今に戦は始まるべし」

これを聞いた孫九郎はその武者にそれは如何に、と問いかけた。

「敵間が近くなる程足軽はうろたえ、弾丸を筒の中へよく入れ得ぬ故に弾に力が無く
味方の足下へころころ落ちるものである。機は熟した」

と言って馳せ帰った。
後に聞けば、この黒具足の武者は井伊直政であった。

『名将言行録』

味方の展開状況と敵の状況視察のため
あえて目立たない黒具足を着て自ら物見に出ていた直政は急ぎ自陣へ戻り
家老の木俣守勝に戦機の切迫を告げ指示を出した。
機敏にいつもの朱具足に身を包み、今度は開戦の備えに駆け出したという。




869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 06:15:52.29 ID:Tw8CTV1P
最初読んだとき黒具足と赤具足を書き間違えたのかと思ったw
視覚ではなく聴覚で足軽が時折放つ銃弾の落ちる音で戦機を計っていたということか

この後の抜駆けは…
口火を切る潮時の判断一つで勝敗が大きく左右する事実
徳川が天下を取る上での面目を大いに立てることになったし
市松と才蔵が更に奮発する足掛かりまで固めた
目付の対象であった市松の性格を考慮した上での全てが計算づくであったと考えると
家康も褒める事はあっても咎める事はないだろう

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 07:04:00.27 ID:dhTYqbHr
>>868
直政の召替具足が黒?
メインがダメになったら赤備えで一人だけ黒に・・・と思ってググって見たら召替具足も赤だったでござる

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 12:06:43.44 ID:P/+P0KzR
先祖は鉄砲の標的にならないよう、わざわざ黒具足に着替えてるのに、子孫ときたら…

井伊直政「治部少はさすがの男である」

2012年11月04日 19:02

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 10:30:19.99 ID:cgic6LnU
昨日は佐和山(彦根)藩初代藩主の井伊直政公顕彰式が彦根城まつりと共に催され
大河『平清盛』で藤原基房役の細川茂樹が直政に扮し市中をパレードした。
そして悪い話の方では、前の佐和山城主だった石田三成が槍玉に晒されているようなので
井伊軍志にて紹介された、因縁めいた2人に纏わるちょっとだけいい話を。


七将による三成襲撃事件が起き三成が佐和山に退隠した後に、家康が向島より伏見に入城した。
徳川家重臣の直政は三成の伏見空き屋敷を宛てがわれそこに入った。

三成の伏見屋敷は玄関や広間はとても豪華なものだったが奥へ入ると雨漏りが酷く障子なども見苦しかった。
そんな惨状を見るにつけ直政の側近たちが嘲笑し厭味を言った。

「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」

これを聞いた直政は側近たちを叱責した。

「治部少は常々表にあって奥に住む事無き故に屋敷の始末をかようにしておいたのじゃ。
さすがの男である。これを笑う者は彼に及ばぬこと千里の隔たりがある」

傍にいた岡本宣就が直接耳にし、後に知人に語った話である。




264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 10:43:07.53 ID:7lWApD6b
「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」

見えるところに金をかけるのは野暮、見えないところに金をかけるのが粋
という江戸っ子気質の由来である。

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 10:54:36.75 ID:NGamQBlm
それはもともと倹約令の潜脱がもくてきやで

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 11:04:47.83 ID:cgic6LnU
そういえば今日は長浜で、映画「のぼうの城」の宣伝も兼ねて上地雄輔を招いて三成の供養祭だとか
歪みのある地域だよなぁ

267 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/04(日) 11:11:06.21 ID:HTOordGe
>>266
ひこにゃんの敵だから

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 11:52:55.53 ID:NGamQBlm
のぼうは甲斐姫無双しときゃいいのに

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 12:10:17.88 ID:x9YkcM8m
三成は自分に厳しくて他人にも厳しいからなー、
自分に厳しくて他人に甘い人だったら、もっと変わった結果になっただろうになー

左様にても殿があのように仰せられたのだ

2012年11月01日 19:51

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 23:02:51.53 ID:j2nN844m
小牧長久手の戦い時、井伊直政高木清秀に取り縋って泣いた。
「今日の合戦は多分私は功名を立てられないでしょう」
清秀はそんな直政を慰めた。
「いやそのような事はない。やがて手にあいなさる」

開戦前には家康が直政の陣へ行き直政の手を取り別れを告げた。
「これにてさらばだ」
「そのようになりましょう」と直政が応えた。

これを聞いた直政の家来で老功の者が直政を諌めた。
「あのように弱き御挨拶をお返しなさるとはどういうおつもりか」
直政は応えた。
「左様にても殿があのように仰せられたのだ」

(『武功雑記』巻十三、巻四)

そして開戦後の直政
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-571.html

戦後、上方の武将たちから「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになる。




184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 05:02:34.41 ID:tLEBvDln
>>174
鍋島直茂曰く桜よりも美しいのが井伊直政と加藤嘉明の侍ぶり

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 07:14:48.49 ID:yw6I4FDg
権現様やパパにゃんの相当な覚悟が覗える会話だな
それにしても高木のオヤジに取りすがって涙する万千代が愛くるしいw
結果、アレなのが見事なコントラストになってるわ

関ヶ原の傷

2012年10月25日 20:01

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 12:41:34.88 ID:jCf4mcU/

関ヶ原の戦いの折、松平忠吉は手を負傷し、布で肘を包んで襟にかけて
父の徳川家康の前に出てきた。その様子を見て家康が「下野は手に傷を負ったのか」
と言うと、忠吉は「たいした怪我ではありません」と答えながら座についた。

また井伊直政も鉄砲疵を蒙り、靱に手をかけながら忠吉に付き添って参上した。
直政は忠吉の勲功の様子を報告して「逸物の鷹の子は皆逸物です」と誉め称え、
これに家康は「それは巧みな鷹匠が良い肉色当てをしたからだよ」と答えた。

続けて家康は「お前の傷はどんな具合だ」と言って懸硯から膏薬を取り出して
自ら直政の傷につけてやった。直政は畏まって「今日はそれがしの手より好んで
軍を始めたわけではありません。時分が良くなりましたので守殿と共に手始め
致しました」と言うので、家康はいたく賞美した。

――『徳川実紀』

息子の前でイチャイチャしやがって…






63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 17:47:00.93 ID:klvTHidc
>>61
家康の薬使ってもだめなら手術しかなかったんだな

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 19:15:41.16 ID:v8fctGZt
で宴会のときに脱がして傷を見せて・・・三河武士だと全員脱ぎだして某の傷は!某の傷は!ってなりそうだ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 20:00:45.82 ID:h13LrtpK
傷だらけのムキムキ男がいっぱいか
中川しようこ大喜びだなw

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 20:23:13.50 ID:HCSnjYVE
平八郎「ムキムキでも傷がないのはだめですかそうですか」

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 21:17:38.87 ID:osVJJnaW
>>61
息子の前でというより諸侯勢揃いの中でイチャイチャしてますから
家康が息子そっちのけで直政に薬を塗っている間
東軍の愉快な仲間達は立ちっ放しで待たされていたという話がどっかに有ったよな

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 21:53:07.07 ID:7AH9iltL
匿名「病気になってしまったので鼻を隠したら…ううっ涙」

「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」

2012年08月25日 20:53

221 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:37:17.04 ID:wjcuKhHe
1599年正月、藤堂高虎が伏見の家康邸に急行して大坂の不穏な動きを告げに来た。
有馬の猿楽興行に招かれて不在の家康に代わり井伊直政が応対に出た。
話を聞くと直ちに有馬邸の家康に告げ、家康もすぐに邸に帰ったが別に驚いた様子も無かった。
それから3日後に大坂から使者がやって来て家康逆心の気配有るを譴責した。

京大坂の空気は一気に戦争状態となった。
その頃、伏見の闇に家康生害の噂が流れた。
これは大坂より問責された家康が自刃したと事情を知らない人々が早合点した単なる流言だが
これには流石の家康も驚き訳を聞こうと世情に通じる直政を呼び付けたが
いつも傍近くに居る筈の直政は外に出ていないという。
小半刻し早馬で直政が帰館した。
「この物騒な最中に、何処へ行っておったのじゃ」家康が咎める。
「殿が御生害したなどととんでもない噂をわめく者がおりますゆえ外聞に出ておりました。
殿ほどの御方に腹切らすなど思いもよらぬ事ですが左様であれば大坂より敵勢が辻々に押し寄せると存じ
御館は勿論、心もとなき所は実見して参りましたが、何処も堅固にて拙者がわけを話したら騒がしいのも収まりました」
これを聞くと家康もようやく安堵し労を称賛し寝についた。

もともと家康の伏見の館は防備が心許なかった。
心配した家臣らが京極高次の大津城に移るとか何とか安全な道を構ずるべきだと進言したが
敵を恐れて逃げ落ちたと言われたら名折れもいいとこで
平威を天下に奮う事ができなくなる。そんな外聞もあってか家康は取り合わなかった。
直政は江戸より加勢の呼び寄せを進言したがこれも斥けられた。
しかし上方の足並みがいかに不揃いであるとはいえ、押し寄せてきたら相手が数の上で絶対的に優勢である。
家康に心を寄せる諸大名は多いがそれも形勢次第でどうなるか分からない。
家康は窮地に有る、と外界を知る直政はよく理解していた。
直政は家康の言に反してひそかに江戸へ援軍の手配をした。

222 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:39:34.02 ID:wjcuKhHe
そうこうしている間にも戦気は募るばかりでもし今大坂方と戦となれば寡勢の徳川方は全員玉砕の憂き目を見るかもしれない。
死を決した直政は配下の木俣守勝に最後の事を諮った。
「この上は主君の切腹の介錯をし自分も殉死する。お前は決死の合戦をし討死せよ」
すると守勝は笑みさえ浮かべ「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」と応じ
更に一膝進めてこう言った。
「大殿より大坂方へこう仰せに遣わせませ。家康伏見にあれば、おのおの気遣いされるようだから近々関東へ下ることにした。
その用意の為、5,6日中に向島へ移転する。その際に太閤殿下の向島の御茶屋を拝借したいと申すのでございます。
加賀大納言や五奉行の面々は大殿が伏見におわすのを最も嫌いますゆえこの申し出を了承致しましょう。
向島に御移りありて柵を付給はば、大坂より取りかかるとも急にはなり申さず」
「成る程、そうすればその内に関東の味方が馳せ参じるというわけじゃな
しかし柵をふるには材木が要る。その備えや兵糧や薪その他の配慮は如何に」
「材木は手の者に調べさせ備えは十分です。兵糧なども20日は持ち堪えられます」
20日も日が稼げれば必ず加勢が来る。1万もあれば上方が10万の兵で押し寄せようとも負けるに及ばず。
さすが齢の功じゃと感心し、早速に家康に言上し、家康は諸手をあげて同意した。
予見通り大坂方は向島移転を一議もなく認め、3月下旬に向島へ移った。
このとき直政は豊後橋を警衛して移動を安全ならしめた。

向島を要害とみたて思い切った伏見脱出を試みた家康の戦略眼は諸侯を瞠目させるに十分だった。
次の天下は徳川とみた諸侯が家康の意を得ようと懸命になりその結果、家康の威光はますます高まった。
徳川陣営実力者の筆頭で家康への窓口として最も近く信頼出来る直政の邸門はこの時期たいへんな混雑をきわめた。

『井伊軍志』より
この箇所の出典は「東照宮御実紀付録」、「慶長記」、「藤堂記」、「東日記」など




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:10:56.72 ID:riIWYfpE
徳川家は誰かが激情に駆られると必ず冷めた態度の人が現れるな
全員で玉砕とか、全員逃げ腰、という事態が起らないのが強みかもしれない
幕末もそれで乗り切って?今でも徳川家続いてるとこがあるかも

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:15:51.06 ID:gUyDuL4R
一瞬
徳川家続いてる

徳川家継の誤字かと思った

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:43:01.85 ID:kpws6XBr
>>223
激情に駆られるのは家康のいつもの病気だから家臣は慣れっこだったのもある

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 02:24:11.21 ID:Zv/dTIwS
>>220
付いて来たるは石が三つ也

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 20:09:03.68 ID:8RDBaAqD
>>221-222
なんかいろいろと深いな
徳川の天下取りには欠かせない通過点だったんだな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 20:42:51.64 ID:BP1oUpaS
木俣守勝ですら直政に仕えるのをやめようと思った
なんてwikipediaには書いてあるけど、それについての話ってありませんかね。
wikipediaの記述が本当かどうかわかりませんけども。

これから百年、千年の後までも手本とするべきである

2012年02月05日 21:54

743 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 20:03:23.32 ID:AC264RHe
葉隠からです。
山本常朝
『勝茂公が話されたことだ。
「朝鮮での戦で加藤嘉明が敵船を乗っ取ったときには、
鎧に簑の毛の如く矢が刺さりながらも、
敵船に乗り降り、ものにして武功を立てられた。
以前、太閤様のお供で吉野で花見に行ったのだが、
花よりもなにも、あのときの加藤嘉明の武者ぶりは美しかった。」
と仰せられたとのことだ。
続けて、
加藤嘉明は、上方におられたとき、、
西方の立花勢を攻撃せよとの命をうけ、
戦いが終わり御挨拶に登城したとき、
ちょうど井伊直政が将軍様のお目見えを司どっていたが、
関ヶ原で肩先に手傷をうけられたのを、
白い布で結び付けて首にかけ、
片手をつきながらの礼儀作法、
その姿、気迫、すべて見事なもので、
とても言葉では言い表わせないほどであった。
天下無双の英雄、勇士とも申すべきで、
これから百年、千年の後までも手本とするべきである。」
と仰せられたとのことである』




745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 20:09:59.92 ID:GDxTLFHm
伽藤さんは相変わらずかっこいいな、武士としての完成度が高いというか

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 20:11:41.55 ID:WNZu97OL
まるで自分が東軍にいたかのような物言いだな

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 21:35:19.61 ID:1Xe2UHRd
地味加藤さんが朝鮮で敵船を乗っ取った時ってえとアレか?
塙団右衛門の暴走にかこつけて抜け駆けした時か

井伊直政、往日の禮を違えず

2011年06月19日 00:07

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 21:58:43.25 ID:d1NdsFiW
直政、往日の禮を違えず。

関ヶ原合戦の後、西軍の将だった石田三成は捕らえられ、大津城へと連行された。
東軍の将、井伊直政は命を受けて三成をもてなしたという。

直政は主君、徳川家康が仕える豊臣家の重臣であった三成に対し、往日の禮を違えず、それを人々は評したという。

(名将言行録 巻之五十六より)

先日放送してたBSTBSの番組でこのエピソードが取り上げられていたが、
石田三成は北近江の土豪の次男、井伊直政は滅亡した遠州の名家の生き残りから
それぞれ天下人の腹心まで成り上がったという似通った境遇である。
この席で二人がどのような心境だったのか、興味深い逸話。





井伊直政、助けを求めてきた三成を

2011年04月29日 00:00

249 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/28(木) 00:09:30.61 ID:T6iKeYHp
徳川家康と並び、豊臣政権内で強い影響力を持っていた前田利家が病死すると
石田三成は、対立していた武断派の大名に襲撃を受けた。「名将言行録」によればこの時、
三成は家康の屋敷に助けを求めてきたとある。側近達の間から

「この機を逃さず三成を討つべし!」

との声もあったが、井伊直政

「武断派の言い分を聞いて三成を殺せば、彼らは思い上がっていずれ徳川にとって不利な
 状況をもたらすでしょう。」と進言。

重臣の本多正信も三成保護を主張し、彼らの意見を聞き入れた家康は、三成に息子の結城秀康を護衛につけ、
居城の佐和山城まで送り届けたのだった。




家康一筋・井伊直政

2011年03月16日 00:01

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/14(月) 21:29:32.56 ID:bGRGhOGR
小牧・長久手の戦の後、家康は大阪に訪れ秀吉に臣従することになり、井伊直政はその間の人質として
岡崎城に送られてきた大政所・なかの警護を任された。毎日のようになかの元に通ってはお菓子を振舞うなどして
機嫌を伺った直政は大いに慕われ、事あるごとに

「井伊殿、井伊殿。」と声を掛けられたという。

「あまりにへりくだった態度である。」同僚から指摘されると、

「秀吉の元にいる家康様に万一の事あらば、速やかに大政所を殺さねばならないから、
 顔を覚えておく必要がある。」

と答えたと言うが、無事岡崎城に帰った家康と入れ替わりに大政所が京に戻る際も警護を任される程
信頼は絶大だった。
その後、直政は警護の慰労として大阪城で秀吉に接待を受けたのだが、元徳川家家臣で
秀吉の家臣となった石川数正を見ると、

「主君に背き殿下(秀吉)に従う臆病者とは同席できない!」

と大声を張り上げ退出してしまった。また、秀吉が

「貴殿に豊臣の姓を与えよう」と申し出ると、

「井伊家は由緒ある名家である。」と言う理由で辞退した。

理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。

以上、井伊直政のどこまでも家康一筋なお話。個人的には、直政は三成と友達になれたような気がする。




329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 08:27:55.47 ID:h+4B8Nf1
>>321
理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。

そんな直政は家康の竿による快感で手なづけられてるのであった。

でも味噌で手なずけられるよりはいいか。
一応家康は主君だし。


330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 09:25:27.89 ID:+yDHCx+e
井伊家ってちょっと調べてみたらもともとは今川家の被官で、重代の譜代ってわけじゃないのな
道理で少し毛色が違うと思ったわ

335 名前:_[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 12:28:33.63 ID:LBBGsEdQ
>>330
たしかにそうなんだけど、かといって井伊家は今川の家臣、というわけでもなかったようで。
井伊家も元は独立した国人領主で、本拠の引佐、井伊谷って、長篠あたりから遠州側に
峠越えたすぐ向こう側だし。家を保つために今川の傘下に入ったという意味では、三河
の国人領主達と立場は一緒。
直政の祖父直満、父直親は、内応を疑われてそれぞれ義元、氏真に誅殺されてるし。
桶狭間後の混乱を経て、岡崎が膨張していく過程で、多少の早い遅いはあっても、家康軍団
に取り込まれて面倒くさくなっていったwという意味では、やっぱり直政も同類だと思われ。



関連
大政所女房衆、鬼に会う
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5205.html

井伊直政、篠曲輪の戦い

2011年03月15日 00:01

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 00:19:40.39 ID:HnsHAUrr
天正18年(1590)、小田原の陣でのこと。


徳川家康は小田原城惣構えのうち、東にある篠曲輪(別名捨曲輪)という曲輪について、
井伊直政に報告をさせた。
これに直政

「篠曲輪は城中より橋一筋を渡して、昼間は曲輪の兵に加え城からも兵を出して守備しております。」

家康これを聞くと

「橋か。…うん、橋か。」

とだけつぶやき、その他に何も言わなかった。
直政はその事の意味がわからず、大いに悩み考え

「はっ!?もしや殿は橋の下の浅深を知りたかったのではないか!?」

と、すぐに橋の周囲に杭を立てて水の深さを測り、杭ではよく解らないところは自ら水の中に入って詳しく調べた。
そしてその調査結果を持って家康の御前に出、この事詳しく報告した。が、家康、これを聞いても

「橋か。…うん、橋か。」

と前と同じことを言うだけである。

直政はいよいよ思い悩み、この事を考えた。考え抜いた。考えぬいたあげく最初に報告した日から48日目となった。
いくらなんでも考えすぎだ。が、このときひらめいた!

「もしかして!」

直政はその夜自ら忍んでその橋に行き、橋の上に上がってその強度を見た。桁が弱く渡るのに危なっかしい
橋であった。これを見ると急いで家康のもとに行き、かくかくと報告する。
これに家康ニヤリと笑い

「わしが聞きたかったのはその事だ。だがな、これしきのことは自分で気づいてもらわないと困る。
なのではっきりとは言わなかったのだ。
この程度のことを自分で下知するのは、この家康の役目ではないからな。」

と語った。気づいてもらうために家康も48日間待ったのだ。なんとも気の長い話である。
と、直政これを聞いて悟った

『さては!殿はあの篠曲輪をこの直政の軍勢で攻めろ、と仰っているのだ!
しかもあれだけ橋のことを問われたのだ。篠曲輪を破ってもその橋を渡って次の曲輪まで攻め入れなければ
お味方の人々にも甲斐なく、嘲りさえ受けるだろう!』

そう覚悟を決めて、6月26日夜、井伊直政の軍勢は篠曲輪を攻めた。そこをたちまち攻め破ると
次の曲輪へと攻め寄せる!この時直政はまっさきに駆け、あの橋のほとりに立って自ら鉄砲を取り
これを曲輪に向かって撃ち放った。
この時玉薬が強すぎたか、鉄砲の筒が裂け直政は左手を負傷した。
が、直政これを物ともせず、その手で鉄の盾を掲げ持ち、えい声を出して攻め入る。
大将のこの勢いに井伊軍の士卒も我もと続き、ついに次の曲輪まで入り散々に戦ったという。


小田原の陣において、諸軍の中で唯一小田原城の惣構の中に攻め行ったという、
井伊直政、篠曲輪での戦いぶりである。






311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 02:54:44.43 ID:prmlTyrC
>>308
徳川家臣マジで半端ねえwww

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 06:04:54.61 ID:q2e+Syee
家康「橋が脆いのを他のアイデアで補強して攻めるのかなと思ったら…普通に攻めやがった」

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 10:26:14.48 ID:rk5dOMGi
直政ならしかたがない.....。

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 11:04:47.23 ID:4m+m4+ls
存外、家康は「早く開城しねえかな~」くらいにしか思ってなかったんじゃないの?
直政は考えたけど

面倒くさい三河回路だと思うよ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 11:07:27.69 ID:IXpqvqvN
さすがは鳴くまで待とうホトトギス。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 11:12:51.23 ID:L87vjS0s
「鶏肋」の逸話をなんか思い出したw

直政殿が黙って見ているはずが無い

2011年03月14日 00:00

304 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/13(日) 20:28:54.95 ID:LVEKcZG2
思いっきり話は変わりますが、逸話を投下。

豊臣政権の五大老の一人であった家康は、秀吉の死後、後継者である幼い秀頼が成人するまで後見人を
勤める事になったが、次第に政権奪取への動きを活発化させ、五奉行の一人である石田三成との確執を深めていた。
この頃、伏見屋敷の留守を任されていた井伊直政は、三成が家康暗殺を企ているとの情報を得ると、急いで
大阪の家康に報告。
船で伏見屋敷へ帰る途中、家康一行は船着場に武装した兵が待ち受けてるのを見て、三成の手の者ではないかと
警戒したが、
ある者が、「この緊急事態に直政殿が黙って見ているはずが無い。」と言い出し、
近づいて見ると兵を率いた直政だった。この一件で、直政は改めて家康から深い信頼を得たと言う。





関ヶ原で負傷した井伊直政は

2011年03月13日 00:08

231 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/12(土) 04:11:50.01 ID:TvpclFCQ
関が原の合戦にて、島津軍の銃弾を受けて落馬した井伊直政は戦場近くの小屋に運び込まれ気付け薬を飲まされた。
しかし目を覚ます気配が無かった為、家臣が

「もっと気付け薬の量を増やそう」と相談。朦朧とする意識の中で、その言葉を聞いた直政は

「余計な事はするな!」と激怒した。当時、気絶は武士にとって最も恥ずべき事の一つだった為、直政は

「俺は気絶などしていない!」と強がって、薬を吐き出してしまった。

それを見ていた家臣の一人が、
「殿、これは気付け薬ではなく、ただの血止めです。」と取り繕うと、

「そうか、それならば問題ない。」
と安心した直政は以後、堂々と薬を飲みながら戦い抜いたと言う。
以上、直政もやっぱり三河武士なんだな、と思わせる話。




232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 05:11:20.95 ID:nTYE+4iN
井伊家は遠江出身のということは>>231には内緒な

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 06:11:15.30 ID:rmVY81dT
徳川家臣団の場合、武田旧臣とかもメンタリティが三河武士化してくるよな

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 06:57:13.82 ID:iM0t562y
朱に交われば赤くなるというからな
徳川家中はどこの出身でも三河武士化してるだろう

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 10:01:33.36 ID:noetaHuE
>>234
赤備えが更に赤くなるとな?

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 13:37:32.51 ID:sO32RpoW
>>234
司馬の言うには、その三河武士が政権を取ったため、日本中が三河武士化したということだ
確かに、三河武士のめんどくささをどことなくほほえましいと思ってしまうあたり、
オレも三河武士化してしまったのかも知れん

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 13:38:26.45 ID:KeiG20qe
武田武士の気質は、もともと結構三河者に近いところがある。

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 13:54:51.04 ID:9XzKdg57
>>237
てことは現代のオレらはアメリカ人気質かなw

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 13:59:57.57 ID:8+BYMAb6
三河武士になるために苦労してるな直政w

『村雨の壷』

2010年09月05日 00:00

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 18:43:49 ID:+6CNS/t6
関が原の戦後、佐和山18万石を与えられた井伊直政は、家臣の木俣守勝の戦功をねぎらい茶席に招いた。

「まずは、一服してくれ。かの大戦での働き、まことに苦労だった。ついては加増とは別に、ここにある茶器のうち
どれでも一つ好きなものをくれてやろう。さあ、選ぶが良い。」

「どれを選んでもよろしいのですな?」「うむ、武士に二言は無い!」
「左様ですか。では、あの壷をくだされ。」「あっ・・・」

守勝が選んだ壷こそ、名物茶壷・銘『村雨』。もとは足利将軍家の所蔵品で、そこから秀吉、家康の手に渡り、
家康から直政に下賜された、呂宋壷の逸物であり、直政愛用の品だった。
直政は三河の一武辺者だった守勝の審美眼を甘く見て、雑器と一緒に茶席に供したのだが、どっこい守勝は
徳川家を出奔して明智光秀に仕え、近畿を往来して『眼』を鍛えた時期があったのだ。

「い、今のやっぱ無し、ナシ!他のヤツなら、どれでもあげるから!」
「おや、殿?武士に二言はござるまい?」「ぐぐぐ・・・」

こうして『村雨の壷』は彦根藩家老・木俣家の所蔵となったが、秘蔵の逸物を奪われた直政の未練が涙雨と
なるのか、「茶席でこの壷のフタを開けると、その銘の通り村雨が降る。」という逸話がささやかれた。

「このデモクラシーの時代に、そんなバカな話があるか!よし、確かめてやる。」

時代は下って大正のころ、『村雨の壷』の逸話を聞いた旧彦根藩士の子孫・花木斧九郎と松宮重三郎は、
八月のある日、現木俣家当主・守一男爵に請うて彦根城下での茶会に招かれ、かの壷を拝見した。

『村雨の壷』は高さ十三寸、直径八寸余り、釉薬が雨の降りかかる如く流れており、これが銘の由来だろうか。
二人は恐る恐るフタを開けた後、外に出て見たが、そこには雲一つ無い青空が広がっていた。
「しょせん伝説・逸話とは、こんなものか!」
茶席をあとにして、二人が笑いながら彦根城の堀端を歩いていると、たちまち黒雲が立ち上り、豪雨となった。
堀端のこと、雨避けとなりそうな建物も木陰も無く、二人はそのまま雨にさらされた。

「なるほど、恐ろしい壷もあったもんだ。逸話もバカに出来ん。」
ズブ濡れの大正ハイカラ紳士二人、そう言って顔を見合わせ、震え上がったそうな。




764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 19:36:50 ID:PbyXJQHQ
これ守勝からしたらカモネギキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!だろな。

最初から銘器にゃ気付いてただろうし。

井伊直政のちょっと井伊話

2010年06月05日 00:00

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 11:03:52 ID:p0+Q4EuK
「主君に仕えるのは恩に報いるためであり、自分の出世のためではない。
出世のためと思って奉公すると、自分の思い通りにいかないときに
主を恨み、友人をそしり、非義を企てて主に背き、友人に見捨てられ、
ついにはわが身と家を失うのだ。恩に報いるために働く者は出世しなくても
不足の心なく、誰かを恨まず、心も安らかだ。」

以上、井伊直政のちょっと井伊話でした。




492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 11:05:31 ID:MiXxcciM
井伊話って言いたかっただけちゃうんかw

493 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/04(金) 11:48:22 ID:JA0RvVqa
TV東京の経済番組で、経営系にも通じるこういう良い話をもっと出して
経営者のマインドを変えさせるべきだよな。

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 14:46:16 ID:IfFsbaRa
>>491
人斬り兵部って渾名が着いた人物にそんなこと言われてもなw

そこらへんを反省したという最晩年の述懐なのかしら

497 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/04(金) 15:30:48 ID:9XVAAym3
敵を斬るのが忠勤だろ!

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 15:38:55 ID:xVh41MS4
小田天庵「>>491が良い事言った」

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 16:56:39 ID:1AODacfe
>>491
これ良い話か?
えこ贔屓で他の徳川家臣団よりも高禄貰ってるくせに・・・。
他の徳川家臣が聞いたらブチ切れそうだぞwww

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 17:56:41 ID:ln+fijkb
自分が優遇されてるからこその言葉。
自分を律するあまりに部下にも同じこと求めた結果が人斬り。
しゃーない。

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 19:37:52 ID:NYo2pK/r
徳川家臣団では一番ひこにゃんが有能だったんだから、えこひいきじゃなかろう。
本多平八みたいな戦争しか能がない人に高禄与えてもあんまり意味ない。

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 19:40:47 ID:x405coB7
その発言は痛いぞー

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 19:41:46 ID:0zxMRnk4
本多平八は内政寄りの清正や勝家とかと比べると
調略もできるし、ただの戦馬鹿の代表ではないと思う。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 19:46:50 ID:8M9Y94Ww
家康って三河武士を切り捨てたがってたんじゃね?実は

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 19:58:10 ID:gYH2PN56
さぁ、ご一緒に!

面倒くさい!!!!!!

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 20:26:53 ID:iAo4/BV7
信長・秀吉「面倒くさい部下は天下統一したら用済みだよね、基本」

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 20:46:17 ID:e2eF1s3T
劉邦「まったく、面倒くさいからって功臣を殺すなんて」
朱元璋「そもそも殺すのに理由っているのか?」

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 21:48:26 ID:HFSGy9U0
本多平八はあれがあれで何でもそこそここなすタイプじゃね…人に教えること以外は

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 22:03:53 ID:H160jZQa
本多忠勝は、平常時は昼行灯だが、戦場では百里を見通し、
十万の軍勢を手に取るように操ることができる…って、徳川家康が述べていた気がする

ソースはピンク板

井伊直政の指揮下に

2010年01月18日 00:10

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 20:27:03 ID:n+YlODGb
このころ、菅沼定政や松平康元といった面々は井伊直政の指揮下に入っていたが、
誰も直政の指示に随おうとはしなかった。
家康は諸将を集めて宴を開き、その席上でいきなり直政に服を脱がせ、
家康を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、
最後に「私が将軍になれたのは、君のおかげだ」と言い涙を流して感謝した。

さらに直政に対し陣羽織を与えるなど、目に見える厚遇を施した。
このことがあって、定政達は直政の指揮下に入ることを納得するようになった。

        名将言行録




98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 20:33:37 ID:PsyJKmLn
家康が将軍に任官された時にはすでに直政は故人……というのは無粋か。

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 20:35:15 ID:infsKnzn
>>95
秀家「うえ~ん広島の酒が呑みたいよう」

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 20:50:42 ID:TjfmWbEy
周泰じゃねーかw

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 20:56:25 ID:8jTvGoyI
菅沼定政って誰だっけ?
って思ったら、明智家出身で田峯菅沼家の人なのか