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故に大将に手を負わせたのだ

2018年10月30日 12:53

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 23:55:09.65 ID:IayTbgkZ
関ヶ原で東軍が大勝し、三成の陣悉く潰れたが、山の側を伝って人が多く通っていた。
井伊直政これを見て、松倉豊後守(重政)、その頃は右近と申していたが、彼に向かって
「あれは敵か味方か」
と尋ねた。松倉は「敵とも味方とも見分けがたい」と申している所に、甲州衆が合流した。

直政は彼らに重ねて「あれは敵か味方か」と尋ねた。甲州衆より「紛れも無く敵です」と
申した所、直政は二の句もなく即座に馬に乗りこれを追った。この時右の腕を撃ち抜かれ、
落馬したのである。

松倉はその後、この甲州者を激しく叱りつけた
「私も最初から敵だと判断していたが、味方がこれほど大勝しているのに、こぼれ物の退兵を
攻撃しても益はない。しかし敵と聞いて付かないのは甚だ本意に非ず。だからこそ私は何となくの
返答をしたのだ。それなのにお主は、巧者のふりをして要らぬ見切りをした、故に大将に
手を負わせたのだ!」

この甲州者は、早川弥左衛門であったという。

(士談)



386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 07:41:04.48 ID:xfS9uC0v
>>382
原文ママだろうけど早川弥惣左衛門のことみたいね

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 10:15:20.94 ID:lgbgK01D
>>382
でも味方だって言って、後でやっぱ敵だったって分かったら
やっぱりキレて来そう

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 10:42:22.36 ID:/KzaYwJ5
ググってみたところ早川弥◯左衛門、幸豊の生没年が(?-1600)になってるけど彦根城の築城に携わっているのでこれが誤りなのが分かるね
サイト主は記載してて誤りに気付かないのだろうか

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 18:31:47.25 ID:1NFKO9HO
状況わからんけど敗走する兵から首取って手柄になるのかな

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 19:46:01.30 ID:MhubSL59
なる
むしろ当時の首取りはほとんどが撤退時の追撃戦

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 20:01:32.07 ID:1NFKO9HO
>>390
ありがとうございます
たしか乱戦混戦の時に悠長に首切り落としてたら自分が死んじゃうし形勢逆転されかねないですね

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 02:29:35.20 ID:o/sbJwow
というか何であろうが首は首なので価値は変わんない
もちろん大将直々に打ち据えにしろとかの特殊な時は別だけど
後、そもそも敵に一番死傷者を与えられるのは古今東西問わず
敗走する相手への追撃時なので
必然的に手柄首も多くは追撃時に得られた物という事になる
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取った頸に証拠

2017年09月03日 11:30

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/03(日) 10:19:34.20 ID:KQR2AFta
井伊直政の家臣に浅井奈(朝比奈?)左太夫という者があり、度々武功を顕した人物であった。
それ故に直政も、彼を高く評価していた。

奥州九戸の陣において、井伊家重臣である木俣土佐(守勝)の家来の何右衛門という者が、良き敵を討った。
ところが、そこに左太夫が来て頸を奪った。
何右衛門はあらかじめ、この頸の左の耳から右の耳の脇まで脇座して貫き、印をつけていた。
左太夫はこれを知らず頸を奪い去った。

その日の内に、頸は直政の実検に入り、直政は「いつもながらの武功である」と左太夫に声をかけていた所、
末座に控えていた何右衛門が、木綿の雨羽織を脱いで4つに折って出て、この頸にかぶせ、左太夫に向かって
言った

「私の高名の頸を、ここまで持参していただき、かたじけない。」

左太夫はこれを叱りつけ、退かせようとした
「せがれ(若僧)、推算なり!」

しかし何右衛門
「この頸は私が取ったものを、左太夫がここまで奪い来たのです。」

「せがれめが有りもしない事を言う!その場へも来ていないのに!」

「御辺が取ったというのなら、定めて証拠があることでしょう。」

「私の取った頸に証拠などあるものか!」

ここで何右衛門
「されば、それがしは取った頸に証拠がある故に頸に物を着せたのです。」
そして、頸の証拠として脇差で貫いたことを説明し、羽織を取ると、まさしくその通りであった。

これを聞いた何右衛門の主である木俣土佐はしかし、「汝のような者が、あの歴々の働きの場へ行くのも
慮外である!」と、何右衛門を叱責し退出させた。
そしてその夜、左太夫は井伊家の陣より駆け落ちをした。

しかしながら、この左太夫はこれで廃るような人物ではなく。その後結城秀康に召し出され千石の扶持を
与えられた。直政の元にいたときも、千石であったそうである。

(士談)


それ故弾が力なく

2017年08月12日 18:18

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/12(土) 18:15:34.81 ID:P5a+mbW7
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)


そのときは拙者とて

2017年06月16日 17:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』


汝はこの夜中にどこに

2017年03月06日 21:04

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:45:20.12 ID:opIRsI01
豊臣秀吉の死後、徳川家康伏見在住のとき、或る夜密かに、徳川屋敷にこのような情報が流れた
「今夜大阪より、我が君に御生害を進めに来るようだ。」

家康もこの情報に接し、井伊直政を呼んだが居らず、一時(約2時間)ばかり過ぎて、外より
馬を駆けて帰ってきた。すぐさま御前へとでたが

「汝はこの夜中にどこに行っていた」

と尋ねられると、直政

「されば、今日の暮方より、屋敷内にて、なんとも怪しい風聞を聞きました。それ故不審に思い、
外の状況を確認しに出かけたのです。

流石に殿ほどの御弓取りに対し、大阪より御生害を進められるというのは只事ではありません。
万一にもこれが事実であれば、京・伏見に参勤の大名・小名が、この御館廻り、その他の辻々、所々に
押し寄せるでありましょうから、御館の近辺は申すに及ばず、近郷まで偵察し、少しでも心もとない
場所を見廻りましたが、どこの道も静かで、怪しいことはありませんでした。」

こう申し上げると、徳川屋敷での騒動は忽ち静まったという。

この風聞は江戸でも取り沙汰され、「内府公は御生害された」と言うものまであり、
これを聞いて江戸より、我先にと京へと馳せ登った。
さればその人々は、その日の未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時頃)までの間に追々出立したが、
伏見に到着するのは遅速あって、早い者では3日、遅い者は5日で到着した。
瀬田の橋では昼夜3日の間、内府の人数が途切れなかったそうである。

こうして到着した人々が家康に御目見得した所、「お前たちはどうしてこちらに上がってきたのか」と
尋ねられ、しかじかの理由を申し上げると、

「何者がそういう事を言いふらしたのか知らないが、心やすく思うように。ゆるゆると休息し、
上方が初めての者達は、京伏見も見物して帰るように。」

そう仰せ下した。

これだけではなく、秀吉薨去が発表に成ってから、巡礼に出かける関東の百姓や御領分の民たちまで
聞伝えに、我も我もと伏見の御館に馳せ参ったそうである。これは領民たちも、大神君の神恩に
起伏した故なのだろう。

(武野燭談)


井伊家の付人連署して直政を諫めし事

2017年01月29日 12:37

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 03:08:15.06 ID:aPNAmi8U
井伊家の付人連署して直政を諫めし事

井伊直正は壮年の時鋭気が甚だしかったので、東照宮から付け置かれていた。
そこで...(抜落)以下が連署して諫書を捧げた。
その中に
「人には必ず目標を設けるのがよろしいと思われます。
私達臣下らが前の主君の事を申すのもいかがなものかと思われますが、
申し上げさせていただきます。
信玄が若い時から一つとして心から善事を行わなかった人ではありましたが、
常に越後の謙信を目標として謙信に優るように努め励まされていました。
なので信玄の一生の間、手を下した大事の合戦が五回に及びますが、
大きな敗北はされませんでした。
殿にも本多中務大輔忠勝を目標として、努めて劣らないように励みなさってください。
古から『進まず退かざる良将』と申しますが、それは中書(中務大輔の唐名)のことだと思われます。」
と書いてあったそうだ。

(常山紀談)

信玄に対してひどい言い様www
何かあるでしょ、信玄堤とか



558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 11:14:12.92 ID:Tc8KsaEm
上田原の戦いや戸石崩れは謙信と対立する前だからノーカンなのだろうか

彦根侯邸に棲める雉

2016年09月12日 20:28

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 15:00:54.38 ID:NuRJfjTK
〔初清正の邸〕彦根侯邸に棲める雉
同臣脇師、高安某長舎
同侯上邸玄関

前にも彦根侯麹町の邸は、始めは加藤清正の邸であったことを記したよ。
このように清正の後は、かの邸は取り上げられ彦根の祖の井伊直政がここに住んだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10067.html

この邸の中に雄雉一羽がすんでいた。
この鳥は直政の時からいて、
直政が帰国のときは雉もまた随い、出府するとまた随ってかの邸に来た。
今もなおいて、時々見かける者がいるという。

侯の脇師高安彦右衛門は彦太郎の弟子であり、かつ彼の臣なので麹町の邸に住んでいる。
なのでこの雉の鳴き声を時々聞くことがあるが未だその顔を見ていないという。
彦右衛門の母は見たといい、その大きさは普通の雉を二羽合わせたようであったという。
邸中の人は皆、御雉子様(オキジサマ)というと。
〔以上彦太郎の話〕

また彦右衛門の住所は十五間ばかりの長屋であるが、それは清正の時に建てたままである。
よって古色があり、柱はどれも柘植の大角材であったが、手斧目のままである。
この長屋は邸内でも谷を隔てて溜池に臨む畔上にあり、
離れ家なので、先年千畳鋪が焼亡した火災でもその厄を逃れたという。
この長屋は邸の門を入って三丁ばかりを行き、谷を下りそれから溜池の端にあると。

彦根侯の上屋敷の玄関は大坂城で淀殿の能舞台であったが、落城の後この方に引き移したという。
そのためか、今も屋根裏の棟木に、道成寺の釣鐘の釣りかぎが存在するという。
面白いことではないだろうか。

(甲子夜話三篇)




「井伊家はキツイ」

2016年08月19日 08:59

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので」と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp
q=井伊ね!

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7
武士って本当楽じゃねえな…

向後かたく御無用に御座候

2016年08月08日 16:24

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 11:44:29.18 ID:NfEhADzu
今まで数度申し上げましたが、お忘れに成ったのか、強がっているのか、お聞き入れありません。
軍勢を押し上げる時も、そのお姿や馬印、御馬も常と同じようにされていますが、それは宜しく有りません。

我らの古主である武田信玄は、自分と同じ出で立ちの者を3人用意し、自分も含めて同じ格好の者が4人、
軍勢を押し出す時も同じような馬に乗り、いかにも目立たないようにされていました。これにより、数度
危うい所を逃れました。

上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。
その時分は越後勢から甲州勢へ忍びを入れ、もしくは甲州勢が越後勢を探って、大将の出で立ちを伺っても、
両将共に見定めることが出来ませんでした。
この両人に限りません。関東の北条、尾張の織田信長、何れも見定められた事はありません。

殿(井伊直政)は無類に強気ですから、こういった事は悪しきと思うかもしれません。ですがそれは若気と
言うものです。心得の無い者たちは、敵味方ともに殿を『雄々しき大将だ』と言うかもしれませんが、
武功の者達は笑っているのですよ。

尤も、大将というものは前線の様子を、自身の目で知りたいものです。その時は、ご自身の具足と違わぬよう
拵えたものを予め用意しておき、近習の者に着せて、旗本に置き、馬印もそのまま置いて、大将は目立たぬ
姿に着替えて前線にてご下知なさるべきです。

殿は、朝霧の深い時でも前線に馬で乗り入れます。あまつさえ馬印まで持って。
今後、絶対にそういうことはなさらないで下さい。(向後かたく御無用に御座候)
霧深い中、敵が伏兵を置いて居た場合、鉄砲などで狙われる例は多いのです。そうして過ちが起これば、
それは末代までの落ち度です。

それから、先年家臣一同をご覧になった時も、組頭、使番、物頭、そのほか頭の者たちばかりにお声を
かけられ、残る士にはお言葉をかけられませんでした。これは殿がご若年だからでしょうが、
諸人に恨みを残す行為です。皆に声をかける嗜みがあるべきです。
御用に命を捨てる武士というものは、たった一言の言葉にも感じ入り、一心を定めるものなのですから。

(松のさかへ)

井伊直政へ家老一同からの諫言書より。この内容だと銀の鯰尾兜であえて目立っていた蒲生氏郷なんかも
落第ですね。



958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 13:51:16.10 ID:XNi8I1Od
>>957
総大将じゃないのに影武者作る習慣はあったんだろうか

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 14:30:14.03 ID:/fNKafdB
諫言の甲斐なく狙撃されちゃったねー
バカだねー

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 15:45:04.93 ID:9iHxHcZM
>上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。


謙信所用と伝えられる甲冑がわりと残ってるのは
そういうわけなのかな?

物見の衆をよくよくご吟味あって

2016年08月06日 09:20

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 21:58:51.76 ID:pGK24o8N
上方衆の武辺と関東者のそれとは、同程度の人数で、両方の大将の能力も対等であった場合、
運次第とは言いながら、上方衆は5度に4度は敗軍するということ、信玄公の時代より今まで、
数度にわたって見聞きしております。

しかし、関東武士と言っても強勇の者ばかりというわけではなく、また上方侍とて、弱い者ばかりでは
ありません。ですが、上方の軍勢の特徴として、備え立てに吟味が薄く、物見を大切にしない、
という所があります。
専門の物見武者を選定せず、その経験を積ませること無く、誰であっても物見は出来るのだ、
などと心無い者は考えているそうです。

上方衆は物見に出て、遠きを計らず敵を賤しみ、荒事ばかり言って、人を預けても合戦の時は、
彼らは寄騎同心を捨て、一人先に行って抜け駆けをするのを手柄と考えますから、心がけのある者は
預かりの人を捨てて先に行き、一番槍を好みます。

ですから、敵将が名将ですと、1,2の備えを捨てて3,4にて勝つような戦略を立てます。
上方衆は先陣ばかりを切り崩せば敵は敗軍し勝利すると心得攻めてきますが、2,3の備えにて切り崩され、
結局彼らのほうが敗軍します。

信玄の歌にこのようなものがあります

・軍には 者見なければ大将の 石を抱いて淵に入るなり
・戦に 日取時取さしおきて 物見を掛けて兼ねてはからへ

この二首は信玄公より勝頼へ自筆で書かれ、伊那へ入城の折に遣わされました。
物見の衆をよくよくご吟味あって然る可きです。

(松のさかへ)

井伊直政に、三科形幸などの重臣が連署で出した諫言書の一節である。




45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 23:32:30.89 ID:BuAwnvp8
関東武士に物見はいらへんで?
見つけた敵を片端から棍棒で殴り潰すから

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 10:45:26.62 ID:3QaXja28
そもそも甲斐は関東じゃない件

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 11:03:10.05 ID:BUXeDJN+
甲斐は鎌倉公方の支配地域だったし、三関より東をひとまとめに関東と呼ぶ場合もあるし、必ずしも関東が関八州、現代の行政区分での関東を指す訳では無い

何右衛門は少しも屈さずに

2016年04月08日 14:01

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 02:53:27.66 ID:DcYidf8p
井伊兵部(直政)家中の木俣土佐の家来・何右衛門は九戸陣で首をひとつ取ったのだが、
その首を朝比奈左大夫が頻りに奪い取ろうとした。何右衛門は為す術なく奪い取られる
時に、その首の右耳の外れから左へ一刀を突き通した。

後に首実検の時、朝比奈はその首を持って出た。そこへ何右衛門はつるつると走り寄り、
「重いものをここまで御持参してもらいかたじけない」と、言うと、羽織を首へ被せて、

「この首をそれがしが取ったことは疑いない、 あの男が奪ったのだ! 証拠がある!」
と、言った。朝比奈は、「下がれ! 推参をぬかしおる!」と言うも、何右衛門は少しも
屈さずに、首の耳下の証拠を告げた。

朝比奈は終いに男(武士)をやめて法体となり、道無と名を改めて駿河様のもとへ出て、
その後に三河守殿に仕えた。

大須賀五郎左衛門(康高か)の家来・福岡太郎八は前述の朝比奈の甥である。太郎八の
取った首を朝比奈が奪ったことがあったが、太郎八は敵陣へ駆け込んで、別の首をまた
ひとつ取った。末頼もしき武辺であるというのに、太郎八は前述のことを最後まで一言も
人に語らなかったという。太郎八は加藤喜八の別腹の兄である。

――『武功雑記』



小川関書の狼藉

2015年09月23日 14:07

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 22:31:50.96 ID:ReESZ9ER
豊臣秀吉の時代のこと。

徳川家康の旗本である筧助兵衛という禄五百石の者、2年の間京に御使として駐在していたが、
その勤めも終わり帰路でのこと、筧の旅宿に、秀吉の直参である小川関書という者が押しかけてきた

筧が「何事であるか、狼藉なり!」と抗議すると

「筧の槍持ちは先年、我が家において罪を犯し欠け落ちした者であるが、今この宿において見つけた故
捕えるのだ!速やかに彼を差し出すように!」
そう罵って今にも乱入する気配であった。しかし筧

「おおよそ天下には御定法があり、あえて違うべきではない。また武士は礼を以って立つものである。
一応の届もなく、みだりに追い込んでくるのは礼ではない!
私は今、京都に使いして帰る途中である。そこで鑓がなければ奪い取られたと言われるだろう。
願わくば静まれよ。命を伝えて後に、相違なく槍持ちを送り届ける。」

そう言って、さらにその旨を文書に書いて証拠として残すとまで言ったが、それでも小川は
全く承知せず、「遅く出すくらいなら討ち果たせ!」とまで言ってきた

「さてさて何と理不尽なことか。そういう事であるなら、私も絶対に出さない!」
筧も怒り、双方既に戦いに及ぼうという時、ここを井伊直政が通りかかり、この騒ぎを聞いて、
ともかく筧を説得しかの槍持ちを出させようとした。

しかし、筧から仔細を聞くと、直政も共に激怒
「無法千万の者共なり!この上は、もし手を出す者があれば一人も残らず斬り殺すべし!」
そういうと即座に、従者5,600人を武装させ集合させた。
その勢いに驚き、小川は引き退いたという。

(明良洪範)




人は必ず、向かい合う対象を

2015年08月28日 18:42

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 20:56:54.29 ID:zKBezFLt
井伊直政が壮年で鋭気甚だしい頃、家康より付けられた旧武田家の者達は連署して
諫書をささげた。その中にこうあった

『人は必ず、向かい合う対象を思い設けるべきです。
私達の前の主君のことを申すのもいかがかとは思いますが、武田信玄は若き頃より、
一つとして心よりの善事は無い人でした。しかし常に越後の上杉謙信と向かい合い、
謙信に勝るべきと、努めて励まれていました。であるからこそ、信玄は一生の間に手を下ろしたる
大事の合戦五度に及びましたが、大きな敗北はしなかったのです。

殿にも、本多中務大輔忠勝殿を以って、向かい合う相手として勤めて劣らないよう
励んで下さい。』

(芳譚)

しかし旧家臣にこう言われる信玄…w




222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 22:29:09.45 ID:vaTL/JFo
>武田信玄は若き頃より、一つとして心よりの善事は無い人でした。

断言されてるw

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 22:36:50.68 ID:+9vmrtzX
表向きにでも善事があったならまだいいじゃないか

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 00:40:52.91 ID:YTYAc68y
やらない善よりやる偽善

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 13:18:42.66 ID:bc7E7NLl
欲しい物は女でも駿河でも盗んだ大悪党です

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 14:16:31.79 ID:85o8mPZV
晴信は鬼畜だったけど、そのお蔭で信濃を統一して大国を築いた訳だし

井伊直政銃撃の模様

2015年05月04日 13:55

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/03(日) 20:29:25.78 ID:4ZNVLAR3
関ヶ原にて、島津の退き口についての事は、諸家に様々な説がある。そのうち、井伊家の旧記によると、
井伊直政は敵陣の後ろに駆け抜け暫く息を休めていた所に、島津の軍勢が、旗も指さず備えを真ん丸に
固くして引き退いてきた。

直政はこれを見て、「あれは敵か味方か!?」と問うと、家臣の早川弥惣右衛門という者が
「あれは敵にて候」と申し上げた。
この時、葦毛馬に乗っている島津の家臣、山田隼人と言う者を見て、
「あの葦毛馬の武者を私が討ち取る!」と追いかけた。

直政が常に定め置いていた25人の近習は、何れも人を選んで固く申し付けられ、引くときも足を乱さず、
進退とも一様にするようにと示し置かれていたのだが、敵陣が乱れてくるに連れ、自分たち各々の働きのために
次第次第に散乱して、いつしか直政の馬廻りを追いかけるのは、馬上2,3騎、歩兵20人ばかりになっていた。
その上、直政は良き馬に乗っていたため、彼らを駆け離し、島津勢が山の腰を引くときには、直政ただ一騎で
進み、沼があったのを越えた。

この時、井伊家家臣の大久保将監と言う者、これも島津勢を駆け抜けて高名を遂げ、帰る所にこの直政と
行き合った。将監は直政に「あの大勢の中にただ一人で追撃されるのは勿体無いことです!」と
直政の馬に取り付き引きとめようとしたが、これに直政は大いに怒り「若者、離せ!」と叱りつけた。
しかし将監が離さずに居た。

そこに、薩摩長寿院という者の組下の、川上久右衛門と言う者、腰につけていた種子島を持って、田の畦に
伏せてこれを撃とうとした。その時喜内という者と、もう一人が双方に立ち並んで下知をした。
久右衛門がはやまって撃とうとするのを制し静めてかた撃たせると、その弾は直政の右脇に当たった。

しかし、当たった所は具足であったので弾は通らず、そこで弾けて右腕に当たった。
このため持っていた鑓を落とし、暫く馬上で耐えていたがついに落馬した。
これに井伊家の家臣たちはすぐに馳せ集まった。一番に斉藤半兵衛と言う者、その他、安井平右衛門、
川上庄兵衛などが、おいおい駆けつけ、斉藤半兵衛が直政を抱きかかえ馬に乗せると、
大久保将監は落ちた鑓を担いで馬の口を引き返し、そのうち大勢の家臣たちが集まった。

直政が落馬した時、島津方の川上久右衛門の側に立ち並んでいた者が、刀を抜いて直政の首を取ろうと
駆け出したが、これを喜内が制して「敗軍に首はいらぬ!」と引き退いたが、
追々直政のもとに駆けつけた人々が下馬しているのを見て、「さてはあれは大将であったか!
首を取るべきであった!」と後悔したそうである。

(明良洪範)

関ヶ原で、井伊直政が銃撃された時の模様である。



735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 04:18:51.65 ID:TJcNyrQE
首を取ってたら島津はどうなってたやら

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 09:03:49.29 ID:M+0M9EUd
井伊直政を殺された家康ぶちきれ、他の諸問題そっちのけで島津征伐
結果、歴史は相当変っただろうな

何故井伊直政が撃たれたのか

2014年12月22日 18:38

54 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 17:59:12.97 ID:tp1m86X8
磯田道史氏の『歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ』から

関ヶ原合戦で井伊直政は狙撃されて重傷を負った。
なぜ彼ほどの高級指揮官が撃たれたのか。家来は人垣で守らなかったのか。
戦後、井伊家ではこの状況を調査し、薩摩側の証言も得て検証し、『井伊家慶長記』に残している。


最初、直政は薩摩軍と思わずに追撃を始めた。
旗のない不審な一隊が前を横切ったので、直政は「敵か味方か」ときいた。
家来が即答。「敵なり」
葦毛馬に乗った立派な部将が見える。
「あの葦毛馬に乗った武者は予が討ち取る」
直政はそう叫んで馬で駆け出した。

ところがここで問題がおこる。
護衛が消えていたのである。
直政は近習二十五人を定めて常に自分のそばを離れず護衛するように掟で厳命していた。
ところが乱戦のさなかで近習の騎馬武者たちは「手柄を立てよう」と抜け駆けを始めた。
そのため直政のそばには武者二、三騎と足軽二十人しかいなくなった。
しかも直政の乗っている「馬がよいゆえ一番に駆け」、薩摩軍をただ一騎で追う格好になった。
直政が沼の前まで来たとき、大久保将監という者が気づき、直政の馬の口にすがりつき、
「大勢の中へ、ただ一騎で追い駆けられるのは勿体なし」と必死で止めた。
直政は「放せ」と怒り狂った。

銃声がしたのはその時だった。

55 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 18:01:35.60 ID:tp1m86X8
撃ったのは薩摩の三人組。田あぜに隠れて待ち伏せていたのである。
一人が狙撃をし、両脇の二人が抜刀して護衛していた。
はやる狙撃手に両脇が「もっと寄せろ」といい、十分に引きつけて放った一撃だった。

弾は直政の鎧の胴に命中。
しかし防弾試験済みの「試しの具足」だったため、弾丸は跳ね返って右腕にめり込んだ。
直政は槍を落とし、暫く馬上で耐えた末、落馬。
薩摩の者は「首を取らん」と近づいたが、一人が「敗軍に首は要らぬ」と叱って撤退したので、
直政の首は間一髪でつながった。
家来たちが駆けつけ、下馬して介抱してるのを見て、狙撃手は
「さては大将だったか。首を取ればよかった」と
悔しがったという。



関ヶ原合戦では直政の他にも松平忠吉が銃弾で負傷、本多忠勝も馬に被弾して落馬している。
この島津軍の強さの原因として

「関ヶ原の合戦で西軍が敗れて、島津義久(義弘ヵ)が撤退したとき、井伊直政の備えを打ち破って通った。
この時、義久(義弘ヵ)の諸勢はみな腰さし鉄砲を用意していた由。それで数千挺、士も足軽も撃ったので
井伊殿は自分も臂を鉄砲で撃たれた」(『古実聞書』)

足軽だけでなく士分の者まで「みな腰さし鉄砲」を装備していたため火力が絶大となり、
これとぶつかった徳川軍の指揮官がそろって銃創を負ったという。





56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 20:22:43.17 ID:3IoNo/v+
自称伊達名物騎馬鉄砲隊(笑)とえらい違いw

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 20:47:00.34 ID:DvmRiYgG
近習が手柄を獲りに行かなければ井伊の家は違った歴史を歩んだか?

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 08:32:40.26 ID:bnPPwkQi
敗軍で撤退してる敵を弱い者いじめで追撃して痛い目を見るってかっこ悪いよね

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 08:56:35.20 ID:ebUxfvsG
本多も井伊も自分より弱い者しか相手にしてこなかったから勝ててきたんだよね

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 09:05:24.23 ID:oQXAdr0G
裏を返せば、本多や井伊に敵う相手が居なかったということか

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 09:08:19.85 ID:+L+hZItg
皆弱けりゃ大将しか強い人がいないということだな

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 12:40:20.22 ID:1IYQ7NeO
島津軍は強い!(1500名が数十人にまで壊滅)

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 13:07:07.18 ID:Ixih73nD
スパルタ軍は強い!(300人が全滅)

井伊家の”分割”

2014年10月28日 18:42

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:17:34.60 ID:vWKROlyd
直継の母って家康養女で直政の正室だったけど若い頃は病弱だったからこんなこと遺言したのかな
結局井伊宗家当主という激務から解放されたおかげか直継は弟の直孝より長生きすることにはなるけど

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 18:37:06.55 ID:2yWu0xJ3
>>101
井伊家が抱える人材は大多数が甲州軍からの転属組で、直政の代に配された
一方、遠江の一豪族時代からの臣は、先代直虎が立て直したとはいえ、
滅亡同然と離散を経験したこともあり、人数的にははるかに少ない
これら二つの派閥は折り合いが悪かった
内紛へと発展する前に甲州組を直孝に、遠江譜代を直継にと分割させるよう
家康が干渉した
直継に大身の方の井伊家を退かせるために「病弱」という口実を設けた節があり、
実際には病弱ではなかったかもしれない

直継の母は松井康重の姉(父康親は早くに亡くなり、弟が若くして当主を継いだ)で、
妊娠したばかりの段階で、直政がつい彼女の侍女に手を出して孕ませてしまった
正室が嫁入りの際に連れてきた侍女であるから、松井家の臣の娘だったりする
正妻に無断でやってしまったことの難を恐れた直政は、その侍女を松井家に送り帰し、
直孝が産まれた

また直政は一時的に松下家の人間だったことがある
実父が今川氏真に粛清された後、実母が子連れで松下家の人物と再婚した
井伊家を立て直そうと活動する直虎が直政を引き取る展開がなければ、
直政は松下源左衛門と縁戚のままになっていた



130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 19:18:21.90 ID:IrZURnk8
松下家て猿の主人だった松下?

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 18:09:43.58 ID:VodI4vNF
>>130
その一族だよ
余計に猿の豊臣なんかと思ったか否か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:16:57.39 ID:9/SSFuiS
直政の継父だかその息子の松下清景(Wikipediaでは継父になってる)が
天正10~12年の間に直政に付属されて仕え、直政没後には直継に仕え安中移封に従ったらしい。
子孫は維新まで越後与板井伊家の家老となったみたいだ。
清景の弟の松下安綱の系統は幕臣となった。

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:50:59.90 ID:9/SSFuiS
やっぱり継父は松下連昌(清景の父)の方なのかな

井伊家に本妻はない

2014年10月22日 18:53

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 14:15:56.62 ID:Nzf1Jf+M
井伊家に本妻はない。
直政が、
「井伊家は幕府の先手を勤める家である。
器量の劣る者が家を継いでは、お役に立てない。
本妻を決めておくと、どうしても本妻の子を後継ぎにすることになる。
器量の劣る者を後継ぎにすることにもなりかねない。
なので、井伊家では妾の子供たち多数の中から器量勝れた者に後を継がすように」
と遺言をしたからだという。

直政の嫡男の直継は器量が劣っていた。
家老の松下源左衛門は、
「御次男の直孝さまの方が器量にすぐれておいでのようです。
直孝さまに井伊家をお継がせするべきでしょう」
と、幕府へも申し上げ、直継を退かせた。
幕府からは、直継へ遠州掛川三万五千石をくださったが松下源左衛門は、
「わたしが申し上げ、直継さまに家督の御辞退を了承してもらいました。
ですから、わたしはこれからは直継さまの家老として奉公致します。」
と言い、直継と掛川へ下った。
いまでも、幕府の七種の儀式(1月7日、七草粥)は、松下家が勤めることになっている 【葉隠】



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 16:44:54.05 ID:ExmPztUZ
>>97
なるほどなあ、興味深い話だわ
お家問題で本妻の子か側室の子かでもめるなら、
本妻の子のみにしとくっていうのが鉄板なのかと思ってたけど、
側室のみにして沢山の中から選ぶっていうのも手なんだな
この場合奥向きを取り仕切るのはどうやってたんだろう
側室の中にも序列があったのかな

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 17:37:27.65 ID:BYtBkQC2
戦国大名上がりの派閥バリバリの家ならお家騒動待ったなしだが
近世大名の井伊家なればできたことだろうね

100 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/22(水) 18:21:34.79 ID:uIAyGHYy
幕府立ち上げたの直政死後ですよね?

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:17:34.60 ID:vWKROlyd
直継の母って家康養女で直政の正室だったけど若い頃は病弱だったからこんなこと遺言したのかな
結局井伊宗家当主という激務から解放されたおかげか直継は弟の直孝より長生きすることにはなるけど

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:53:36.30 ID:+o3Z/TZG
>>97
それで権勢高い家とは婚姻を結ばないようにとの遺言だったのか

>>100
徳川宗家=幕府だからそこは分かりやすくしたというか著者に対してそのくらいの誤差は大目に見ていいのでは

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 20:31:22.48 ID:+o3Z/TZG
そういえば
権現様宛の信長からの黒印状を直政が権現様より貰い受け
代々井伊嫡家に受け継がれたその書状が井伊美術館に現存しているようだが
信長からの書状を小姓にあげちゃうっていいのか?
こういう事って当時よく有ったのかな

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 21:53:08.68 ID:Nzf1Jf+M
>>100>>103
原文では直政の「」内に幕府という文字はない
オレが幕府で統一して書いた
混乱させてたらごめんね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/23(木) 01:09:06.82 ID:Bz/Go16I
>>101

直孝にやたらピリピリしたエピソードが多いのも、このせいかもね
養女とはいえ「家康の娘」との間に出来た兄を差し置いて家督を継いだとあっては

高木正次に井伊直政はとりついて

2014年06月25日 19:22

583 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/24(火) 22:49:29.83 ID:MiyUZfBM
長久手の時、高木正次井伊直政はとりついて

直政「(´;ω;`)今日の戦は多分、手柄なんか立てれないよ。」

と涙を流していた。
高木正次

正次「(;´Д`)そんなことないって。ちゃんと手柄立てれるから。」

と言ってたらしい。

武功雑記




584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 23:28:16.24 ID:gH2wnzty
>>583
直政さんは初期設定だと普通の若人なのか。

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 23:31:14.69 ID:5N2ixU9L
>>583この逸話かw

左様にても殿があのように仰せられたのだ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6970.html?sp&sp

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 01:50:56.64 ID:mRtqlzOF
直政が何もしなくても、血に飢えた配下の甲州兵が
ヒャッハーしまくったからw

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 13:33:49.00 ID:xdl5W9Ls
仕事の前に「あー仕事行きたくねえぇ~」っつってんのと同じじゃないのか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 13:53:33.74 ID:xQJ1+8bH
喧嘩の時泣きながら攻撃してくる子って制御不能で強かったじゃん
そんな感じ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 14:12:29.61 ID:1UVF5MhQ
そんなレベルじゃないと思うが、共通点があることは否めない

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 18:04:06.37 ID:q25cZx1e
ひつじが狼の群れを率いたら、いつの間にかひつじが大狼になってたでござる

御噛み跡が残った金の御采配

2014年06月09日 18:51

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 21:27:19.07 ID:1QlyzK8B
井伊萬千代殿は無双の勇士のため、後に家康公に御先手を仰せ付けられた。

或る時の戦場にて余りに凄まじく働かれた。
その様子を家康公が御覧になり御気遣いのあまり
御采配の柄をひどく御噛み遊ばされた。
その御噛み跡が残った金の御采配は即座に井伊殿に御預けなされ
彼家に伝わった。

(葉隠)




483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 06:52:43.77 ID:O4BiyQNO
その時の金の采配だか軍配は激動の最中に行方知らずになってしまい
今ではどこに有るのかわからないと、
確か彦根城博物館の学芸員に聞いたことがある

太閤を御討ちの時節は只今ですぞ

2014年01月26日 19:08

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 15:53:50.04 ID:N+yoJwM1
小田原陣の間に徳川家康は、今日は榊原康政に先手をいたすように命じ、井伊直政には
側にいるように命じた。直政はいつもこのような事を嫌う人だが、今日は快く承知した。

時に、太閤の周囲に手廻しかいないのを見た直政は、太閤を御討ちの時節は只今ですぞしかじか、
と申し上げた。これを家康が殊の外叱ると、

直政は思いがけない顔つきで「それならば私に御先手を命じてください」と申し上げたとのこと。
(兵部思ノ外ナル顔色ニテ左候ハハ私ニ御先手ヘ被仰付候ヘト申上候由)

――『武功雑記』





397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 16:11:29.63 ID:dswV/4WY
三河武士だと君臣の不満と不満のやりとりがいい話に見える不思議

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 17:07:54.74 ID:kAU3MUWs
直政は太閤に何か含むことでもあったの?まるで親の仇みたいじゃないか

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 17:12:12.38 ID:8arBemqh
>>398
きっと親を食われたんだよ