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鵜殿坂

2015年07月02日 15:39

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 11:45:07.80 ID:G9NiJJ1v
鵜殿坂

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が斃れると松平元康、後の徳川家康は独立を果たすべく
西三河の親今川勢力の攻撃を開始する。まず、三河西南部の幡豆郡を攻撃、調略・合戦と様々な手段を
使い、永禄4年(1561年)の間に西尾城に籠もる今川の駐屯軍、東条城の吉良義昭の駆逐に成功した。

次の目標は宝飯郡西部、現在の蒲郡市を勢力下におく鵜殿氏である。鵜殿氏は上ノ郷城の宗家を中心に
下ノ郷・不相・柏原といった分家が蒲郡市内に城を構え支配を行っていた。宗家の当主は桶狭間の戦いの折、
大高城でクッキング城代http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1370.htmlとしてちょっと
いいところ見せた鵜殿長照、今川義元の妹の子である。親父の鵜殿長持がまだ生きていたという説もあるが、
まあ置いておく。

永禄5年(1562年)、本格的な攻撃が開始される。長照は吉良義昭らがまだ健在な頃より連絡を取り合って
対応を練っていたが、味方になるはずの分家の面々が残らず敵方に奔ってしまった。求心力無いぞ長照!
もともと蒲郡は鵜殿・松平勢力が混在する地であり、今川義元健在の頃、同じ陣営ということもあり、双方で
縁組をすることも多かったから血縁をたどって調略されやすい面もあったし、なによりも幡豆郡の今川方敗退の
影響が大きかったのだろう。上ノ郷城は敵方に取り囲まれてしまった。

だが、さすがはクッキング城代、城兵を叱咤し敵に付け入る隙を見せない。松平方は一旦攻撃を諦め出直す
ことにした。二度目の攻撃は、松平元康直々の出馬である。初戦不首尾の報告を受けていた元康は策を巡らす。

「忍びの者を使おう」

元康が雇った忍びの者は甲賀者だったらしい。江戸期に入ってから、自分たちが上ノ郷城落城に貢献しました、と
奉行に報告書を提出している。忍びの者たちは敵兵に紛れて城内に忍び込むと、頃合を見計らって放火、城兵を
斬っておいて「裏切り者が出たぞーッ!」と触れ回り混乱を誘った。これに乗って本当の裏切り者も出たようだが…。

この状態を見てヤバイと思ったか、長照は城を出て落ち延びようとした。しかしその途中、安楽寺という寺の横にある
坂まで来たところを甲賀者の伴資定により討ち取られてしまった。上ノ郷城は落城し、長照の子、鵜殿氏長・氏次
兄弟は生け捕りになり、後に築山殿・松平信康との人質交換に使われた。

えげつない計略にかかったこと、討ち取られたことがよほど悔しかったのか、長照の怨念は討たれた場所である坂に籠もり、
「この坂で転んだ者は怪我が一生治らなくなる」という、地元民にとってははなはだはた迷惑な、「鵜殿坂」と言う
伝説を残すに到る。地縛霊モドキにならんでつかあさい。



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