46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/08(水) 13:30:13.24 ID:lst1SqUk
大名となるを辞する理由
元武田家臣三枝昌吉は、武田氏滅亡後は徳川家に仕えた。
天正18年、昌吉は小田原に出馬し、平岩親吉と岩槻城を囲んだ際は
自ら先頭に立って穢多曲輪を攻めやぶり、さらにその先の曲輪に攻め込んで
自身も頭に負傷し血が目に入って動けなくなるほど激しく戦った。
このとき昌吉は、すきをみて助けられて退却したが、甥の源十郎守秀をはじめ
家人に討ち死、手負いを多く出した。
小田原から帰陣して後、昌吉は本多佐渡守正信から上野国名和で1万石を与えるとの
仰せを受けたが、故あってこれを辞した。
その理由は、家伝によれば、先の岩槻で昌吉が挙げた軍功について
平岩親吉がありのままに言上しなかったことを昌吉が心よく思っていなかったところ、
上野国名和は平岩親吉の領地と境を接しているため
これでは平岩親吉の旗下に属しているように見えてしまうのが
口惜しかったためであるとされる。
結局昌吉は武蔵国荏原郡で3700石の地を賜った。
干城録(寛永諸家系図伝、三枝家家伝、貞享書上、三枝家家譜)より
新参と譜代の微妙な関係が垣間見えるちょっと悪い話
実際、元は同じ直参のはずなのに、同心として配置されることで
いつの間にか寄親の家臣扱いされてしまうのはよくある事なので
苦渋の選択だったのでしょう。
大名となるを辞する理由
元武田家臣三枝昌吉は、武田氏滅亡後は徳川家に仕えた。
天正18年、昌吉は小田原に出馬し、平岩親吉と岩槻城を囲んだ際は
自ら先頭に立って穢多曲輪を攻めやぶり、さらにその先の曲輪に攻め込んで
自身も頭に負傷し血が目に入って動けなくなるほど激しく戦った。
このとき昌吉は、すきをみて助けられて退却したが、甥の源十郎守秀をはじめ
家人に討ち死、手負いを多く出した。
小田原から帰陣して後、昌吉は本多佐渡守正信から上野国名和で1万石を与えるとの
仰せを受けたが、故あってこれを辞した。
その理由は、家伝によれば、先の岩槻で昌吉が挙げた軍功について
平岩親吉がありのままに言上しなかったことを昌吉が心よく思っていなかったところ、
上野国名和は平岩親吉の領地と境を接しているため
これでは平岩親吉の旗下に属しているように見えてしまうのが
口惜しかったためであるとされる。
結局昌吉は武蔵国荏原郡で3700石の地を賜った。
干城録(寛永諸家系図伝、三枝家家伝、貞享書上、三枝家家譜)より
新参と譜代の微妙な関係が垣間見えるちょっと悪い話
実際、元は同じ直参のはずなのに、同心として配置されることで
いつの間にか寄親の家臣扱いされてしまうのはよくある事なので
苦渋の選択だったのでしょう。
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