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森川重俊の殉死、それに纏る事ども

2017年02月22日 21:32

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/21(火) 21:11:47.83 ID:CscOQyRT
森川出羽守重俊が、徳川秀忠の薨去に付き殉死する時、息子伊賀守重友以下、親類を招き集めて
庭訓した

「弓矢の臆れは少しでも大事になってしまうものだ。先年、大相国(秀忠)が独座されていた時、
ため息をされたのを御次の間にて承り、「これは天下の大事でも起こったのか」と胸騒ぎしたが、
その後御機嫌を伺った所、先のため息について「真田表のことは…」と仰られた。
あれ式の事さえ、相国様は御身の臆れのように思われていたのだ。

汝ら、構えて自余の事は愚かであっても、武士道の規範を外れ、軍法を破ることなどは、殊に
不忠の第一であるぞ!」

そう遺言して、秀忠の御供をした、

この時、徳川家光は側の者達に「出羽守はどうした?」と尋ねた。殉死した旨を申し上げると
「とても生きては居ないだろう。もし存えていればいいのだが。」と言った。

これを承った人々「これは興味深い御言葉である。どういう理由であのように言われたのだろう?」
そう不思議に思っていると、古くから仕える人が言った

「その事だが、かの出羽守は昔、新将軍(家光)が未だ幼少の頃、いたずら遊ばされた時に、
拳で殴りつけたことがあったのだ(拳の障りし事ありし)。その時家光公は
『これを覚えていろよ!』とのお言葉を発せられた。それは御幼少ながら甚だ鋭いものであった。
もしかすると、その事について言われたのではないだろうか。」
そう推測した。

(武野燭談)


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森川出羽守の殉死

2015年09月11日 18:00

302 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 09:37:28.50 ID:K6Lsh9cn
森川重俊は大相国家(徳川秀忠)にお仕えし、並びのないほど懇意にされて、ついに執政(老中)に任ぜられた。(秀忠が)西城に移られた時も従い、御書院の番頭を兼ねた。
寛永九年正月二十四日、大相国家がお亡くなりになられた夜に、宿所に帰って一門の人々を集め、夜通し暇乞いをして、暁に腹を切って殉死した。年四十九歳という。

世の伝えるところに、大相国家の世継ぎの君が未だ決まっていない時に、奥方様が、国松殿を御寵愛されることが深かったので、この出羽守(重俊)等をはじめとして、天下をこの君が統治なされるのだろうと思い、
竹千代殿にいつも参上する事をおろそかにしていたら、大相国家がお亡くなりになられ、(秀光が)将軍の御代になったので、きっと罪を蒙るだろうと思い、将来のことを考えて殉死したということだ。

案ずるに、出羽守の甥に森川若狭というものがおり、童の時天下無双の容色であった。大御所の御外孫の、蒲生下野守(忠郷)殿の御寵愛が深く所領をあまた下さり、彼の家で当時その権勢に肩を並べる人はいなかった。
しかし、下野守殿は御年二十五歳で、寛永四年正月四日にお亡くなりになられた。
このころのならわしで、色で寵を受けた者は、必ずその君のために殉死しなければならないという事であった。その家は言うに及ばず、天下の人々は、下野守殿にお供して死ぬものは、この森川に違いないと思った。

若狭の母は、若狭を諫めて、

「おまえさまは下野守殿にお供して死のうと思っているのか。未だ盛りにもなっていない身体で先立って、母はどうしてこの世に生きながらえるだろうか。たとえおまえが死んだとて、下野守殿を生きかえられるわけでもない。
そうであるので心ある人は、殉死とやらのいうことはよからぬ事と言っているが、近頃のならわしなので、世の人々も無駄に命を捨てている。
実の道でもない死で、母も共に失うことは、忠にも考にも恥じる事なので、決してお供しようと思うな。
母の縁の者が都には多い。どうにかして、ここを忍び出て上ってください。またおまえが一生を送り過ごせる程に、年頃賜った唐や大和の宝物は多い。金銀も少なくない。
おまえが出て行った後のことは、私がうまく計りましょう。さあ、早く忍び出てください。」

と言われると、供を少々引き連れて、奥州の会津を夜に紛れて忍び出て、東海道に差し掛かり都に上った。

若狭の一族で北川、土佐といわれたものは、蒲生家で有名な剛の者で特に家の長老であった。

「不思議だ。若狭ははやく腹を切るべき身である。どうしてこんなに遅いのだ。」

と一日二日待ったが、そういった事が聞こえないので、最期を催促したが、はじめは母が計って、若狭が答えたようにしてなんとか答えていたが、後に逃げ出たことが発覚した。
北川は大いに驚いて、手の者どもに言いつけて、急いで追いかけて(若狭を)絡め取ってこいと下知して、江戸へも飛脚を走らせて、このことを出羽守に告げた。

303 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 09:37:54.61 ID:K6Lsh9cn
出羽守は以ての外なことに激怒して、家子郎従一人も残らず、東海道を指して追いかけて打ちとれと下知したので、弓よ鉄砲よとひしめき、鞭をあてるのに合わせて鐙をあおって追いかけた。
追手の軍勢が箱根の関に着いたとき、関守たちは固く止めて一人も通さなかった。

出羽守の一族人々は集まって、
「おまえさまは現在執政であり、世に騒ぎを起こしなさることはするべきではありません。事はすでにこのようである。世に知れ渡ったうえに、彼を討っても、一族の恥は免れることでもない。罪を作ることは捨て置いてください。」
というので、追手の軍勢も箱根より引き返した。

どんな時代にもあることで、当時権勢のある人には、上には従うように見えるけれども、下には嫉み謗るは、よくない人の習慣であり、天下の人々は、親しい仲間同士で集まると、
「出羽守は日ごろ、自分が将軍からの覚えがいいことのありがたさから、君に御大事があったときは、真っ先に死んで恩に報い奉ろうと思っている様子だが、親しい甥にあのような大臆病な人もいた。
それの伯父である、実際のところ疑わしいなあ。」

などと嘲り笑うことが聞こえてくるので、出羽守はいよいよ口惜しいと思っていた。

ほどなく大相国家がお亡くなりになられて、お供する人もなく、(重俊は)深く御恩を感じる事が多かったので、あのように殉死したのだと思われる。
このときもまた、お供すべき人だなどと言われていたがそうすることもなく世にいた者を、出羽守の事を例に出して謗る人々がいた。
謗られた人々のうちに、出羽守が死んだのを嫉ましく思うものもいて、こんなよからぬように言い立てた。

また、どうしたことか、大相国家に親しく召し使われた人々に、(秀忠が)お亡くなりになられた後、どういうわけか、将軍のお覚えがよくない者も多かったので、このように言われたのも無理はない。
かれこれ、もっぱら出羽守の不幸と言うべきである。このような内々の事は、世に知る人が今はいないので、出羽守の志の程が空しくなるのも哀れなので、事が長くなったけれどもここに記しておいた。

かの若狭は、後に京に住んで商人のようになって、笹屋宗句といって寛文の頃まで永らえていた。その後は、どうであるか詳しくは知らない。

(藩翰譜)

これまで逸話のなかった森川さんところの話
後味の悪い話にのりそうな出来事ですね



304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 12:04:03.44 ID:yMh8rwxj
森川家が生実に根付いたのは重俊が殉死したおかげなんかね
てか、老中若年寄の家が万石止まりなんか
ご近所の佐倉とはえらい違うな

368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/29(火) 00:27:39.10 ID:pXOpUCxJ
>>303
森川若狭は殉死してる、ってことになってるはずなんだけどなぁ…

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 15:42:04.71 ID:LyqsFZYw
>>368
殉死した若狭って秀行の時でしょ?
しかも近江以来の家だから別人では
供をしろと新藤五国光を渡された半弥が逃げた若狭になるのかな?