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「新羅之記録」から武田信広と息子の蠣崎光広について

2021年11月03日 17:15

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/03(水) 09:42:55.24 ID:CzQuy7Ia
松前藩の家史「新羅之記録」から武田信広と息子の蠣崎光広について

松前当家の家祖である鎮狄大将武田彦太郎若狭守新羅氏信広朝臣について
若狭守護の武田伊豆守信繁朝臣には三人の嫡男がいたが、長男信栄は子がないまま世を去ったため
次男の信賢が家督を継ぎ、信賢の一子・信広を弟の国信の養子として次々代の家督を継がせようとしたが、
信広は大力強盛で性格が荒々しかったため、信賢と国信は信広を義絶し、殺害しようと図った。
家老数名が哀れに思い、家来をつけて宝徳三年(1451年)三月二十八日、信広二十一の時に若狭を出奔させた。
奥州田名郡を知行する蠣崎李繁は武田信繁の親族であったが、過ちを犯し出奔。商船で当国に来て安日(安東)政季の婿となっていたため、そこに身を寄せた。
政季は十三湊の安東盛季の傍系であったが、本家が南部氏との戦で敗れたため安東氏を継ぎ、
もともと安東氏の領地であった狄之島(北海道)に向けて武田信広らを従えて康正二年(1456)八月二十八日に出航した。
長禄元年(1457年)五月十四日(康正から長禄への改元は九月)、狄之島の夷狄が蜂起し、安東氏配下の
志濃里之館、箱館、中野館、脇本館、穏内郡館、覃部館、松前(大館)、禰保田館、原口館、比石館、花澤館を襲ってきた。
蠣崎季繁は城を守り、武田信広は総大将となって夷狄の酋長・胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人を射殺し、斬り殺すこと多数、凶賊を悉く敗北させた。
武田信広は戦功を賞され、男子のいなかった蠣崎季繁の婿となり家督を継ぎ、天河の洲崎之館に居住した。
館を建立した時、西海のはるか沖に夜間光るものが見え、調べたところ藻屑にまみれた毘沙門天像であった。
明応三年(1494年)五月二十日、六十四歳で逝去。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/03(水) 09:44:04.37 ID:CzQuy7Ia
蠣崎光広について

永正十二年(1515年)夷賊徒がふたたび蜂起。
光広は計略をなし、客殿に夷賊の酋長・庶野(ショヤ)、訇峙(コウジ)たち大勢を招き入れ
一日中、酒で歓待し、宝物を披露したため、賊徒は酒に酔い宝物をもてあそびだした。
この隙をつき、女たちに音曲を奏でさせ、音に紛れて、部下たちに鎧を装備させ
いきなり数名で客殿に乱入し、光広も太刀をとり酋長二人を斬殺した。
この刀は信広から受け継いだものであり当家の重宝となっている。
大勢の夷狄を一人も漏らさず討ち取り、夷どもの死骸を埋め、夷塚と名付けた。
その後、夷狄が敵対するごとに、この塚から鬨の声が上がるようになったということだ。



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黒石と黒豆

2015年09月12日 15:35

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 15:31:20.47 ID:0vp9KbvQ
黒石と黒豆

蠣崎家においてコシャマインなどアイヌとの戦いで功績を上げ、蠣崎季繁の女婿として蠣崎家を継いだ武田信広がある時アイヌの首長らと宴を催した。

その際に、信広は首長たちに黒石の吸い物を振る舞った。
当然ながら、そんなものを食べられるはずがない…のだが、信広はそれを美味しそうに食べていた。

これを見た首長たち、大変驚いたのだが、実は信広が食べていたのは黒豆で、自分だけが黒石を食べることで、その力を見せつけようとしたと言われる。

力だけでなく、知略も使ってアイヌを抑えようとした信広のいい話。


出所:サッポロビール博物館資料



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 15:47:26.61 ID:/ioA7PLK
信広「マジ旨いんだけどな~、なんで食べないんだろう??」
蠣崎娘「こんなにツヤツヤに上手く煮るの難しいんだから!」
首長たちガクブル

ちゅうだけにしか見えないw