FC2ブログ

二俣城請取

2018年09月06日 21:11

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 01:48:42.24 ID:9PLLbYM4
この年(1575年)6月より大久保七郎右衛門忠世は蜷原の砦において、二俣城を乗り取らんと謀を
巡らせた。守将の依田下野守幸政(信守)は先より老病危篤であったが、6月19日ついに亡くなった。

その子・右衛門信蕃、その弟・源次郎信行(信幸)と善九郎信慶らは亡父の遺命を守って堅固に籠城し、
浜松よりもしばしば軍勢が向けられて攻められたものの、信蕃兄弟は厳しく防戦して義を守った。

12月に至ると城内は次第に兵糧米も尽き果てて、今は籠城も叶い難くなった。甲斐からも勝頼が印書
を遣わして、「只今後巻の人数を遣わし難い。これまで籠城した義忠は天晴手柄なり。

今は早く城を開いて甲州へ帰るように」と申し送られた。しかし依田兄弟はなおも義気弛まず城を枕に
討死せんと思い定めていた。そこに神君(徳川家康)より大久保新十郎(忠隣)・榊原小平太(康政)

をもって「依田兄弟が7ヶ月籠城して義心勇気をあらわしたことは感ずるに余りある。とはいえ後詰の
頼みもなき孤城を守って餓死するのは知慮の足りぬようなものである。速やかに城を渡して命を全うし、

後の功を立てられるべし」と、利害を説いて和睦を勧めなさった。依田兄弟もようやく得心して12月
23日に城を開けると定まり、新十郎と小平太が証人として城内に入ると、依田からは源次郎・善九郎

兄弟を証人に出した。ところが23日は雨が降っていたため、蓑笠を着て城を出るのは見苦しいとして、
翌24日、快晴を待って城内をよく掃除させて城兵をことごとく引き払い、二俣川で互いの証人を

取り返すと、静々と引き取って高天神城に入り、田中城をも守った。(原注:依田は蘆田を領したので、
蘆田とも称したという)神君もこの兄弟の振舞いを天晴頼もしく思し召し、御賞美なさったという。

さて二俣城は大久保忠世に賜った。

――『改正三河後風土記(蘆田覚書・東遷基業・武徳編年集成)』



251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 08:09:27.83 ID:lpRqTw82
依田家も神君に目を掛けられ後見に笠井肥後が付いたけどアホな子孫のせいで断絶したな

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 11:02:18.35 ID:8U+1XYjZ
げんじろうのぶゆきって……真田の倅みたいな名前だな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:04:44.33 ID:tESTErXx
真田丸に徳川関係で出るかと思ったのに>依田信蕃

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:07:49.73 ID:tESTErXx
考えたら依田信蕃(のぶしげ)と依田信幸
昌幸とも縁が深いし、よけいにややこしい

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:46:20.58 ID:ZVw5fpoO
真田丸は登場人物の関係で依田は意図的に省いたって言ってたじゃん

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 07:59:05.28 ID:RtFh+62U
>>253
出てたやん
徳川関係で出るってのが意味わからんけど
スポンサーサイト

依田信蕃、二俣城を引払う

2015年10月23日 19:49

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 16:11:23.65 ID:WhZxo45m
依田信蕃、二俣城を引払う

勝頼が長篠で敗れた時、依田(芦田)信蕃は二俣城を守っていた。東照宮の軍は3月より二俣城に攻め寄せ、東照宮は南方の山に本陣を置き、城の四方に付城を築いた。
依田も城を固く守ったため長期戦となること11月。この時、「城を渡し甲斐に引揚げよ」と勝頼から依田のもとに再三使者が来たが、依田は聞き入れなかった。
勝頼が自筆の書状を送るに至りようやく依田も開城を決意し、12月下旬に人質を出し、23日に城を明け渡すと約をなした。
しかし当の23日に雨が降ったため依田は「蓑笠をつけていてはみっともない」と天候の晴れた26日まで城の明渡しを引延し、開城後に二俣の川辺で人質を取換え、堂々と引揚げていった。

依田が小勢で城を久しく守り抜き、開城の作法が見事であったことに東照宮も感じ入り、後に依田を召抱えたそうな。

『常山紀談』
この後また権現様に田中城にて囲まれる依田さんであった。




依田信蕃の助命

2015年10月19日 14:02

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:59:46.75 ID:ggK5PwQc
依田信蕃の助命
天正10年3月、東照宮は江尻に出陣し、成瀬吉右衛門正一を使者として田中城の依田右衛門佐信蕃に「武田の重臣は悉く寝返り武田の滅亡は間近である。早く開城するように」と開城を勧めたが、
依田は従わずに、「武田の重臣達の書状を見て真偽を判断したい。先年、二俣城で大久保忠世とは縁がありますので大久保に城を引き渡したいと思います」と申してきた。
東照宮も「尤もである」と言い、穴山梅雪に書状を送らせた。

 開城の後、「降参するならば信州の本領を与える」と東照宮は言ったが依田は「勝頼の命運がはっきりしないうちは承り難いことです」と言い、信州佐久郡葦田へと去っていった。
武田が既に滅びた後、織田信長は「勝頼に忠節を尽した者と雖も、武名ある者を諸将は召し抱えてはならない」と命じ、なおも隠れ潜む武田の旧臣を処刑しようとした。
東照宮はこのことを憐れに思い、依田を市川の陣に召し出し、主従六人を遠州飼東郡二俣の奥小川に匿った。その他にも東照宮の仁徳のおかげで助かったものは多かったそうな。

『常山紀談』