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結城秀康と出雲阿国の有名な話

2023年01月20日 19:36

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 00:14:39.38 ID:2hnP0MBz
武家閑談」から結城秀康出雲阿国の有名な話

慶長年中伏見にて、越前黄門秀康公(結城秀康)のお屋敷に、お国というかぶき女を召し、かぶきを踊らせて御見物なさった。
お国が水晶の数珠を襟にかけて舞ってるのを御覧になった秀康公は
「水晶は見苦しい」と御具足の上にかけていた珊瑚珠の数珠を与え、お国の舞を御覧になった。
秀康公は御落涙され、おっしゃることには
「天下に幾万の女がいるが、一人の女と天下にも呼ばれるのはこの女である。
我は天下一人の男となる願いが叶わず、女にさえおとっているのは無念である。」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6502.html
こちらのウィキペディア出典の話も元は「武家閑談」のようだが、珊瑚珠の話まではなかったので



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 00:52:01.46 ID:OE2713w2
情緒不安定期だな

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 12:06:05.28 ID:tNBITfCz
今なら「女にさえ」でアウトだな
面倒くさい時代になったもんだ・・・
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結城秀康の死

2022年06月07日 18:07

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/07(火) 17:57:27.74 ID:OcEhlidc
朝野雑載」から結城秀康の死

慶長十二年(1607年)閏四月八日、中納言秀康卿、越前北の庄城において御逝去なり。(三十四歳)
御家人・永見右衛門、土屋左馬介などが殉死した。
秀康卿は御病中に、お佐の局という内府公がかねてから御存知の女中を駿河に遣わして
「私は病気を今までしたことがありませんので、この度の病で快復できるかは予測できません。
生きているうちにこの旨を申し上げたく局を差し上らせます。」
と駿河城で口上させた。
家康公「我に子供は多いが、秀康は惣領であり、たびたび我の用にも立っていたのに越前一国のみ与え置いたのは、今思うと心外であった。
このたび病気快気の祝儀として二十五万石加増して百万石にしよう。
その方は急いで帰り、この趣きを申し上げよ」と仰られた。
またお手ずから近江下野の内の二十五万石加増の書付けを佐の局にお渡しになられた。
局もよろこび急いで帰っている途中、岡崎の宿で秀康卿御逝去の報が届いた。
そのため駿河にとってかえして直ちにお城に馳せ上った。
大御所が囲碁を遊ばされていたところに局は参り
「中納言様、御養生かなわず御逝去なり」と申し上げたところ、
大御所は大いに驚きなさって、浅からぬ御愁傷のさまであった。
局は御加増の書付を懐中から取り出し、
「大切の御書付けなので差しあげます」と申したところ、
大御所は「女性の身でよく気のつくことだ」と仰られたそうだ。
このことを越前の御家人どもが伝え聞いて
「余計な気の立てようだ」と局をけなしあったという。



結城秀康と座頭

2022年06月06日 15:29

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/06(月) 14:32:15.36 ID:wwC56brm
朝野雑載」から結城秀康と座頭

秀康卿がある時鷹狩りに出たところ、木履をいくつも背負ってよろよろ歩いている座頭がいた。
先払いのものが脇へ追いやったが、秀康卿一向が通っている最中にその盲人が秀康卿の御駕籠に近づいたので、
秀康卿「汝はどこに行く者ぞ」
座頭「われは座頭の会所に参るのですが、今朝雨が降り、道が乾いたため、座頭衆の木履を草履と取り替えて戻るところなのです。
殿様のお通りということで、あそこの藪に追いやられてしまい思いがけず時間を費やしてしまいました。
こうなってはたとえ石籠詰めにあってもやむをえないと行列をつっきったのです」
と泣く泣く申し上げた。
秀康卿が「盲目になるだけでなく、同じ盲人からこき使われて、履き物まで持たされるとは不憫なことだ。
汝が殿様と呼ぶは我のことである。
汝を検校にして領内の座頭を手下にしてやろう」
と仰られたところ、
盲人はからかっていると思い
「殿様はすでにお通りになったでしょうに、嘘を言う方ですな。
たとえ殿様のはからいでも御学問所はさておき、四分衆と肩を並べることも無理でしょう」
とつぶやいて慌ただしく通り過ぎた。
そこで秀康卿はすぐに君命を下し、その座頭を検校とした。
こうして御国中の座頭は彼に礼を取ったという。



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/06(月) 20:44:32.72 ID:sDzb0bcz
目なし鼻なし

結城秀康と朝日重政

2022年06月05日 16:47

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/05(日) 16:39:29.23 ID:cFNiwAIg
朝野雑野」から結城秀康朝日重政

朝日丹波(重政)はもと菅沼に仕えていたが秀康卿の家臣となり、その息子・千助は秀康近習となっていた。
あるとき千助に粗略があったため(火事の時に物を運ぶようにと命じられたが重くて運べなかったという)、秀康卿は「汝は用にたつまじき者かな」と言ってしまった。
千助は「殿に「用に立つまじき」と言われた以上は我が運の末である。一日も長らえてはならぬ」
とたちまち自害してしまった。
それを知った秀康は大いに驚き、丹波に「愁嘆の折ではあるがまかり出よ」と仰られた。
丹波が御前に罷り出ると
秀康「我が「用に立つまじき」と言ったのは決して武のことではなかったのだが、千助がそのように受け取ったのも道理である。
我が一言であたら勇士を失った。汝に対面して罪を謝するに言葉もない。
その方はほかに男子も持たないゆえ、我が愛子・国松をその方の養子として家を継がせてはくれまいか」
丹波「千助は少年とは言いながら、かりそめの折檻を苦にして自害をした以上、それは不忠であるため愁嘆の必要もありません。
それなのにこうして御前に出られ、国松君を養子にいただけるとの御言葉、身に余る幸せにございます。
しかしそれがしは不肖の者なので、おそれながらお断りします」
と何度も断ったが、秀康卿は承知しなかったため、ついに父子の契約をなしたそうだ。



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/05(日) 20:19:52.70 ID:1dRitSW5
お家乗っ取られましたな

この人は誠に老いた犬であるとも

2021年11月25日 16:30

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/25(木) 01:34:44.63 ID:6Xq29nX6
(前略。栄華を誇った後北条氏ことごとく滅亡し、関東の諸侍ともに運尽き果て身の置き所もなく行方もなし。
中でも不憫なのは相模国の朝倉能登守といって、数度先をかけ武勇をあげた者が“犬也”と号して
乞食して落ちぶれたことだった)

結城宰相秀康卿は、古の関東弓矢の時節に武の誉れある者を尋ね出して扶持なされた。
清水太郎左衛門入道、大石四郎右衛門入道、山本信濃入道、松下三郎左衛門入道、朝倉能登入道
(いずれも後北条氏旧臣)、この人々は文武に達し、1人当千の名を得た勇士で歳は60,70に及んだ。
過分の知行をせしめ、常に御前に近習し、御自愛浅からず。

(中略)また秀康卿が世に捨てられた老士を召し出されたのは、感じられることと言われた。
秀康卿は仰せになり、「関東侍は馬上で達者を働くと聞き及んでいる。さぞ強馬を好むのであろう」

朝倉犬也(能登守)は承り、「関東侍はあながち強い馬は好みません。
ただ自力に叶う馬にもっぱら乗ります。愚老の旧友に伊藤兵庫助と申して馬鍛錬の勇士がおりますが、
ある時の口ずさびに『大ばたや、大立物に、つよき馬、このまん人は不覚なるべし』と詠みました。
馬下手が強馬を好むのを見ては、『馬には乗らず馬に乗られる』と申すものです。
(中略)
むかしの人も馬鍛錬をしたのか、武者絵などでは馬を飛ばせ走る間に弓を引き矢を放ったと見えます。
つまり馬に乗って遠路を行くのは足を休めるためで、軍中で乗る時とは馬上で弓鎗を役に立てるためであり、
むかしの関東の戦場でも未だ経験しない若者は広い野原へ数多と伴い出て、敵味方と人数を分かちて旗を差し、
弓鎗長刀は各々が得意の道具を持って馬に乗り、馬の心を見るために鉄砲を鳴らし、
矢叫びの声をあげて喚き騒ぎ、時に勇んで進む馬もおり、遅れて退き驚いて横切る馬もおりました。

山へ乗り上げ崖のかけ道を乗り、堀を飛ばせ自由を働くようにと鍛錬し、先陣にぬきんで駆け引きする
達者のように振る舞い、勝利を得ることをもっぱらの嗜みとしました。
早雲(北条早雲)教えの21ヶ条の内に『馬は下地をば達者に、乗りならひて、用の手綱をば稽古せよ』と記します。
侍たる者は馬の口を取らせては一代の不覚、仮にも馬上でも、名利を忘れて乗り方を心がけ、
大将であっても馬の口を取らせては、『馬下手故か弓馬の心がけなき人か』と指をさされます。
(中略。北条氏康の“氏康傷”の逸話について)
馬鍛錬の事は御前に伺候する古の傍輩どもがよく存じております。御尋ねなさいませ」

と申せば、秀康卿は御聞きになり
「犬也も若い頃はさぞ馬鍛錬したのだろう。昔の面影を少し学んで見せよ」と仰せになった。
犬也は承り「愚老は70に及びまして馬上の振る舞いは叶いません。
しかし、貴命を辞してはかえって恐れがあります。御遊興にそっと古を学んで御目にかけましょう」
と用意のために私宅へ帰った。

秀康卿は御見物のために馬場に床をかかせて登らせなさり、諸侍は芝の上に並居たり。犬也は鴾毛の駒(馬)に
黒糸威の鎧を着て星甲の上に頭巾をあて、白袈裟をかけ、いぶせき山伏の姿で出で立ち弓を持ち、郎等1人を連れて
槍を提げさせ馬に乗り、御前近くへしずしずと歩ませ、「軍陣でござる。下馬御免」と申すやいなや、
馬場を2,3返して馳せ巡り、馬場の向こうに築地があったのを敵方として睨み、手綱を鞍の前輪にかけて
股で馬に乗り、弓に矢をつがえて声をかけ、走る内に矢を2つ,3つ放ち、さて弓を捨てて飛び降りると
従者が持つ槍をおっ取り、従者が先立って逃げるのを追っかけ、従者がとって返せば自分は退き、
馬も心得があるのか後を慕って来るのをまた打ち乗り、一目散に走らせて弓手妻手(右手)へ、槍を自由自在に
散らし馳せまわった。

秀康卿は御覧になって目を驚かし、御感斜めならず。犬也召しであるぞと呼ばれると、馬を鎮めて近くへ乗り寄せ、
飛んで降り、御前へ伺候した。その場の御褒美として刀に長刀を差し添えて下されたが、
これに朝倉は「老後の思い出にこれ以上のことはありません」と申した。
犬也入道は老倅の翁だが、鍛錬の道で達者を振る舞うことからすると、若い頃はさぞやと諸人は感嘆した。
この人は誠に老いた犬であるとも諸侍は尊敬なされた。弓馬の威徳は述べ尽くせない。

――『北条五代記

いかにも関東の遺臣を募った越前松平家らしい話だなと



諸人は秀康卿を褒め奉った

2021年09月13日 17:32

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/13(月) 14:35:51.44 ID:mazs0ERa
石田三成らの挙兵を聞き、徳川家康が小山より引き返した時、
結城少将秀康卿は宇都宮の御陣を召し、会津の上杉景勝に対する押さえとして置かれた。

この時景勝は長沼に在ったが、御所(家康)が小山を引き払ったとの情報を聞いて、
彼が長沼を打ち立ち、七万余騎にて江戸を指して切って上がるという内容の雑説がしきりに
流れた。那須七党の人々も、景勝が討って出てきては矢も盾もたまらない事で、とんでもない
事だと日々に騒いだ。

秀康卿は当時二十七歳であったが、勇猛さは御父家康公、御養父秀吉公に似られたのか、
使者二人を景勝に遣わされ、

『この度京都大乱に付き、家康公はこの表を引き払い上洛されました。留守居として私はここに罷り有ります。
安閑として日を送るのは待遠ですので、貴殿と一合戦仕りましょう。
御同心であるのなら、私がそちらに取り掛かるか、又はそちらから此の方に御出馬されるのか、
御返答次第にいたしましょう。』

このように仰せ遣わされた。景勝はこの返事に

『御使、忝なく存じ候。
我らは輝虎以来、人の留守に仕掛たことはありません。御所が御上洛に付き、御留守として貴殿が
御在陣との事ですが、何にしても似合の用事を承るものです。

一戦の儀は、重ねて御所がこちらに出張なされた時に、先手をなさって下さい。
その時、一戦仕りましょう。
只今、御所御留守の間に若き人が居る所に取りかけるような事は、中々思いもよりません。』

と返答した。すると此の頃の雑説はたちまちに止み、諸人は秀康卿を褒め奉った。

近世軍記



521 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/13(月) 17:26:54.04 ID:LSVUugA4
>>520
坊ちゃんはお呼びじゃねぇ
親父が戻ってくるまで大人しく留守番してろ


と、暗に言われてるようにしか見えん。
花の慶次でも秀康が景勝に挑もうとして袖にされるこの通りの話あって秀康が凄く悔しそうに戦するんじゃぁ!って出て行こうとして止められてたけど、景勝にしても面白くないよなぁ

522 名前:羊羹録 ◆cA7oIM8fok [] 投稿日:2021/09/14(火) 12:21:06.87 ID:ytdXkE9W
>>521
景勝・・・百姓一揆であわわ
兼続・・・最上のロートル兵にあわわ
慶次・・・最上のロートル兵にあわわ
秀康・・・余裕
政宗・・・(最上領にいる)ママ大丈夫かな?
小十郎・・・最上も上杉もどちらも潰し合わねーかなー

と言うのが実情

524 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 16:38:24.04 ID:3LbuLjP1
>>522
>景勝・・・百姓一揆であわわ


慶長出羽合戦とその前後、上杉家は二手に分かれて最上領を侵略しながら一揆勢も相手にしてたの?

山口軍兵衛という勇士

2017年11月21日 18:30

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/21(火) 13:37:42.65 ID:p2i0Waif
山口軍兵衛という勇士が有り、彼は結城黄門秀康に仕えて越前にあった。
強弓の精兵にて大太刀を好み、三尺(約1メートル)に余る腰刀を帯びていた。

彼は伏見にて秀康家の長屋に住んでいたが、この長屋は二階作りにて、三間梁にいたし、
出格子の窓四寸(約12センチ)ばかりを置いた小柱が立っていた。

山口はその格子窓を通して60間(約109メートル)先に的を立て、それを必ず射抜くほどの
手練であった。

ある時、人々が寄り集まっている中、山口の刀があまりに長く尺に余るとの話題が出た。
山口はこう答えた
「私はこの刀を、各々の尺短い刀同様に存じている故に、常に用いているのだ。
いざ使ってみせよう。その後で何れも御自由に言って頂きたい。」

そう云うと大太刀を抜いて三つ指にて柄の末を取り、何度も振り回すと、その場は
この太刀風の音が響くばかりとなり、これによって初め彼の刀について言っていた輩も、
閉口して退去するしか無かったという。

(士談)



家康、結城秀康を上杉景勝の押さえに

2017年04月05日 21:36

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:13.56 ID:pFrrz65W
家康、結城秀康上杉景勝の押さえに


いわゆる小山評定の後(家康は)本多佐渡守(正信)一人を側に置き
結城秀康公を召し寄せて
「会津への進発はしばらくやめることにする。
 近いうちに(自分は)上方へ進発することになるので
 上杉の押さえとして差し置かれるべきなのは
 そこもとよりほかにはいないからだ。左様に心得ておくように」
と仰せられた。

秀康公は佐渡守の方へ向かって
「これは思ってもみない仰せで困惑しています。
 今度の上方においての御一戦は大事なことなので、御味方諸大名衆と
 申し合わせ、御先手で軍忠に励む覚悟でおりましたのに。
 上杉家の押さえとして御留守に差し置かれるべしとの仰せには
 たとえお気持ちに背くことになっても何度でもお断り申し上げる覚悟です。
 どうか御免下さりますように」
と申し上げられると、内府公(家康)は
「総じて今度のような大事の合戦に思い立って
 他国へ向かうことがあるとき、留守居の将を選んで残し置くのは
 弓矢の古法である。その上今度我らへ味方する諸大名からは
 証人などを出させてその人質を請け取ることになるのだから
 江戸、小田原の両城の内に差し置くほかなかろう。されば
 皆の安堵のため、確かな留守居でなくてはいけないと思ったから
 その方に申し付けるのだぞ」
と仰せられた。

秀康公が重ねて
「皆の安堵のため確かな留守居を差し置かれたいと思われるのでしたら
 幸い松平下野守(忠吉、秀忠同母弟)がいるのですから
 あの者を差し置かれればいいではないですか。
 私の方を上方へお供仕りますように」
と申し上げられると、内府公はいささか機嫌を悪くして
「皆の安堵のためだけなら、その方が申すごとく下野守でも済むが
 我らが出陣の後に何かが起こらないとは言い切れず
 しかも上杉景勝は我らの留守を見合わせて
 大軍を率いてくることさえあるかもしれないのに
 若輩の下野守で事は済むと思うのか。
 昨夜佐渡守も聞いていたが、その方は
 『今度上方の退治で上る時は、会津の上杉は手強き相手なので
  確かな押さえを差し置くのがもっともです』
 と申したのに、その手強き景勝の押さえをするのを嫌がるのか」
と仰せられた。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:35.53 ID:pFrrz65W
秀康公はお困りになられ
「今度の上方の御一戦にまみえることができないのは残念に思いますが
 ただいまの仰せの上は何も申し上げようもなく、畏れながら斯様に
 お請け申し上げるからには、出陣の後も御安心めされますように。
 白河の関よりこちらへ景勝などに顔出しさせることはありません」
と申し上げられたので
佐渡守は承って秀康公のお側へ這い寄り、お膝を叩いて
「さてもさても殿はよくもお申し上げになられた」
と申し、涙を流し泣いていると内府公も涙ぐまれた。

(家康は)御納戸衆を召し寄せ、御具足一領を取り寄せて
御前に置き、秀康公に
「この具足は我の若き時より何度も陣場へ着ていったのだが
 一度も敵に押付(鎧の背の上部)を見せることもなく、秘蔵の具足であるが
 今度大事な留守を申し付けるのでその方へ譲り渡す」
と言って秀康公へ下賜されたという。
 

――『落穂集』


結城秀康の死去/家康怒りの改葬

2016年12月25日 17:11

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 14:37:00.84 ID:TsTbPz9n
結城秀康の死去/家康怒りの改葬


結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。

秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。


――『福井県史』など



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 16:11:14.91 ID:tyQB9IgX
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...

【ニュース】県庁前に秀康が“2人”?

2016年03月14日 18:35

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:24:19.35 ID:aCW8pZdW
中日新聞福井版2月21日
県庁前に秀康が“2人”? 結城会が新設に動く
現在の像「容姿」に異論
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2016022102000199.html
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100124_size0.jpg
PK2016022102100124_size0[1]
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100125_size0.jpg
PK2016022102100125_size0[1]
江戸時代初期に福井藩の初代藩主を務めた徳川家康の次男、結城秀康(一五七四~一六〇七年)の騎馬像について、
結城家のゆかりの福井市民らが違和感をもち、新像の設置を模索している。福井城跡である市内の県庁前に立つ
現在の像には子孫関係者からも異論が出ており、インターネット上で「中国風」「日本の美意識がない」と批判
されたのを機に動き始めた。今の像を計画した市側は静観するが、二つの像が並び立つ日が来るかもしれない。 (中場賢一)

馬にまたがり、手綱を持つ姿で、県庁の来訪者を迎える秀康の石像。越前国北ノ庄(現福井市)入りから四百周年を
二〇〇一年に迎えたのを記念し、福井市と、市の歴史や文化を紹介する公益財団法人「歴史のみえるまちづくり協会」が
城跡を管理する県に贈呈し、〇二年に除幕された。

制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

建立直後から、結城家の家臣の子孫の市民らでつくる「福井結城会」には、秀康の子孫の結城松平家や結城家の関係者から
「イメージに合わない」と異論が届き、撤去するよう要請があった。ネット上では「中国風にデフォルメされている」
「日本独自の美意識が感じられない」と評されている。
会の片岡賢三副会長兼事務局長(67)は「不評や失笑どころか怒りを買っている」と新像を計画。秀康に関する資料を精査し、
銅像制作を手掛ける富山県高岡市の「竹中銅器」に昨年十二月にデザインを発注し、一月に完成した。

その姿は秀康が愛用していた唐冠形兜(とうかんなりかぶと)をかぶり、手には天下三名槍(めいそう)の誉れ高い
「手杵(てぎね)の槍(やり)」が握られている。顔は「ナマズに似ていた」ともされているが、イケメン風にアレンジ。
ただ、片岡さんは「あくまでたたき台」と強調する。




316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:44:56.84 ID:mmYKOCFu
容姿に異論、ていうからギイに似ているとか鼻が欠けた姿にしていたのかと思いきや

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:53:36.58 ID:Q9hijGnh
>>315
>「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」
キックバック?公益財団法人の悪い話…。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 21:14:50.13 ID:/SDAcKHs
>>315
>制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
>協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

態々、浙江省の石像作家に頼むからこんな中華風な像なるんだよな
国内の製作者でも戦国の騎馬武者像を正しく作れる人がどれくらい居るかも分からんのに

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 23:42:28.69 ID:AcXeEgg+
>>315
御手杵を馬上で使える訳無いだろw
関係者に馬鹿しかいねぇwww

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 23:59:30.17 ID:wbpvzEpq
はい草

322 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/14(月) 01:14:31.04 ID:Vz9aN3QN
>>320
変に関羽みたいになっとるw

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 15:55:50.98 ID:X6LOFWbh
戦国時代騎馬武将の写真なんてあるわけないし
当時かかれた絵もおもいっきりデフォルメされてるので細部は全くの不明
誰も本当の姿なんて知らないし県庁前とおるほとんどの通行人も興味もないししりたいとも思わないので
わざわざ作り直す必要性もないだろう

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:24:28.52 ID:fT7s1wsQ
左手にサイコガン付けようぜ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:38:31.19 ID:lbTjKK+/
ヒューッ!

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:04:24.99 ID:xlMMQtnb
>>323
鎧とかなら残ってるんじゃないのかな

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:36:53.05 ID:Yol0YFF+
馬具も馬術書もある

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:58:58.14 ID:egIkNCog
中華風にプロレタリア感が加わった何とも言えない石像だなとは思った
まあ結城秀康といえばあの脇立がなきゃって気もするし、どっちもあっていいんじゃないの

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:28:25.24 ID:4eCAY+2k
中華風にリアリィティないというなら各地の駅前とかにある馬上戦国武将像もあれだろ
ポニーサイズの馬に変更しないと・・・

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 13:38:45.21 ID:utlpfOlk
>>339
ポニーだって体高150くらいあるの知ってる?

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 13:42:56.47 ID:vNIvEO5E
>>315
たぶん、碌な資料も渡さずに発注したんだろうな。
秀康像の困惑顔は作家の本心を表してるに違いない。

「もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

2015年10月28日 08:34

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 20:50:43.24 ID:DVPqIe60
会津征伐の途上にて石田三成の挙兵を知った徳川家康は、小山にて諸将と軍評定を行い、
その後息子である結城秀康を呼んだ。

秀康が家康の陣所に参ると、本多正信が迎え出て
「少将様(秀康)、天下の安否は今日に決します。よく心してお答えなさいますよう。」
そう申し上げると跡に従って家康の御前へと出た。

家康は東西の軍事状況を秀康に説明し、
「秀康、お前が私のためにここに留まって関東を鎮めるならば、私は上方に向かって戦おうと思う。
これをどう考えるか?」

秀康はみるみる機嫌を悪くし
「この秀康、どうして御後に残りましょうか!?ただどこまでも、先陣をのみ望んでいます!」

しかし家康
「上方の軍勢は、みな国々からの集まりに過ぎず、それが何十万騎となろうと何ほどのことがあろうか?
しかし上杉家は累代関東の大将であり、中でも故輝虎入道(謙信)の時に至って、弓矢を取って
天下に肩を並べるものは少なかった。その子として景勝は、幼少の頃より合戦の中で成長し、
歳も既に老け、現在彼に対してたやすく合戦の出来るものは多くない。
天晴、お主のためには良き敵ではないか。

海道に向かって打ち込みの戦をするより、お主一人ここに留まって合戦をすることは、
且つは弓矢取っての面目、且つはこれに過ぎたることはない、何よりもの孝行である。」

そう語ると、秀康は少しの無言の後
「…合戦は、必ずしも軍勢の多少には寄らぬと承っています。上方の大将にも、名を得たもの
少なく有りません。軍勢の規模もきっと多いでしょう。

秀康は未だ合戦に慣れていませんが、景勝一人の軍勢と戦うのに、何ほどのことがありましょうか?
もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

本多正信はこれを聞くや感極まった
「よくぞ仰せに成りました!関東を鎮められるというのなら、その大将に参らせられること、
仰せにも及びません!」

家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し、自ら鎧一領を取り出して
「この鎧は私が若い頃より身につけ、ついに一度の不覚も覚えなかったものだ。
この、父の嘉例に准じて、今回奥方の大将として良き戦をし、天下に名をあげるのだ!」
そう言ってこれを与えた。秀康も心地よさげに御前を下がり、下野国宇都宮に陣を取り、
関ヶ原の役の間、関東を鎮めた。

上方で西軍が敗れた後、景勝も降参を乞うて伏見へと参った。
秀康にはこの勲賞として越前国が与えられ、明けて慶長6年5月、福井城へと移った。
(藩翰譜)




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:24:59.96 ID:3XFxN570
>家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し

利用する為には、子供に対してもこんな小芝居しなきゃならんのか

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 23:14:33.66 ID:74kpQ63m
秀吉もそうだがこういう時にちゃんと泣けるのが天下人なんだろうよ

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 07:39:19.25 ID:jibHBUEb
演義の劉備は泣いて皇帝になった、と言われるが
実際役立つんだな

上方の武辺とは

2013年05月18日 19:54

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 18:14:35.61 ID:NW8/BH9g
江口(たぶん正吉のこと)は丹羽の亡き後に、
越前の黄門君(結城秀康)へ召し出されて一万石を所領した。

越前の家子に高木勘平という武勇の者がいた。高木は新参者が一万石を領するのを怒って、
ある時、江口の膝に迫り寄り、「上方の武辺とは、どのようなことを申すのだ」と問うた。

江口はこれに答えて「上方の武辺とは、人に武辺者と言われ、ここの殿の様な所へ
召し出されて、高い知行を取ることを申すのだ」と言った。

すると、高木は尾も無き様子で「うん」と言って退いたという。

もし江口がその時に「私の前々よりの武功」など言ったなら、
高木は「自分もそれくらいの事を八百回もしたぞ」と言おうと思っていた。

江口は武のみにあらず、才もすぐれた者なので、よく返答したのだ。

――『老人雑話』




631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 19:58:10.06 ID:rrY+3lO/
むしろ尾も無き様子が気になる

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 20:11:05.67 ID:futhla0H
越前の逸話なのにキチガイが出てこないなんて!

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 01:37:57.29 ID:IDLcGgKx
>>631
文句付けようと思ったら上手く交わされて
「お、おう……」
がある意味一番正しいんじゃないかなあw

どっちかと言うと
「丹羽の亡き後」
の長重のすっ飛ばされっぷりが気になる

天晴れ、内府の御子

2012年10月05日 20:38

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 17:14:09.51 ID:f62JAsST

小山評定により今後の対応を決定した徳川家康上杉景勝の押さえとして
結城三河守秀康を残すこととし、松平玄蕃允家清を使いにしてその旨を伝えた。

しかし、秀康は「上方の戦を捨ててこの地に残るとは思いもよらなかった。
例え父君の仰せでもその儀には従い難い!」と憤慨し、梶原美濃守と原隼人を
家清に同伴させて、家康に上方への出陣を願った。

「三河守の若さではそのように思うのも無理はない。直接話したい故、急ぎ本陣に参れ」
家康が梶原らにそう伝えると、秀康は本陣にやって来て家康と対面した。

「此度の上方の敵は何十万騎いようとも烏合の衆にすぎない。一体何程のことがあろうか。
しかし、抑えなければならない上杉家は謙信入道以来、弓矢を取って天下に並ぶ者はいない。
また、景勝は幼弱より軍の中にあって、その武名はとても広く知られている。

今彼と容易く戦えるような者はいないだろう。それだけの者を相手取ることが、
おことの面目を著しく損なうようなことにはなるまい。それに上方へ向かう人々や
その家人らは人質を江戸に留めている。関東の守りが薄くては人々の心も堅くはならず、

勇気を振るうこともできないだろう。そうしたことを考えれば、景勝を抑えるためには
おことをこの地に残さなくてはならないのだ」

話を聞いて秀康も終いには残留を了承した。家康は殊の外嬉しい様子で涙を流し、
自ら着背長を一領取り出した。

「この鎧は儂がまだ若い頃より身に着けていた物だ。これを着ていると不覚を取ることは
一度も無かった。父の佳例になぞらえて奥方の大将となり、名を天下に揚げるのだ」

秀康は心も打ち解けて、心地よく鎧を受け取った。すると本多正信が秀康の側に進み寄り、

「よくぞ殿は御受けなさいましたな! 大殿が一統の功を立てなさるのも、この御一言によって
定まりました。天晴れ、内府の御子にございますぞ!」と、秀康の膝をしきりに叩いて喜んだ。

――『徳川実紀』




726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:05:17.51 ID:MIIXgLVq
>>725
秀康を信用してたんだな実子だし99%無い話だけど家康が関が原に向かったあと秀康が謀反起こしたら
とんでもないことになるからなそうなったら伊達や最上も寝返る恐れが出てくるし
秀忠や忠吉じゃ対上杉戦には心もとないからな

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:06:43.32 ID:4wttK68v
運命の巡り合わせなのか、九州、小田原、朝鮮、関ヶ原と毎回大戦の中の動きの無い場所担当になるよねこの人は。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:27:01.09 ID:juFqUsIZ
手柄たてると実父も養父も困ってしまう微妙な立場だもの

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:30:25.57 ID:Bx8jRiDT
抑えってなんもしないのが仕事だから簡単そうに見えて、実は難しいもんで
ちょっと違うけど、溺れてる人間はパニクらずもがかなきゃ自然に浮くのは頭で分かってても、なかなか出来ないようなもんで
駆けずり回るだけが働きじゃないんだなぁ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:38:30.08 ID:uBKtLrES
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

柳生新陰流の極意なり

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 20:45:55.88 ID:aVbq8uSS
対上杉は家康は完全に秀康に一任してるよね。榊原、正信、大久保をつけた秀忠と違って配された重臣って平岩親吉ぐらいだし。
不仲なんてもってのほかだろうな。

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 20:59:52.44 ID:MNnGkwRU
>>731
でも養子に出たとか、いろいろあったにしても、跡継ぎにしてない時点で
どうしても不仲に見えてしまうけどなw

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 21:01:37.79 ID:7dNJWe3w
>>732
母親の身分が、他と比べても著しく低いからしゃーない。
秀忠の生母西郷氏は三河守護代家の家柄だし。

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 22:41:38.53 ID:1PlcJx60
>>731
当初は秀忠も残してたけど、上杉が撤収しちゃって暇になったから
秀忠を真田討伐へ投入しただけだね。

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 09:34:15.97 ID:Thi7JGJa
>>732
織田信広とか他の庶子で後継げなかった者はいっぱいいる。
その中で秀康は活躍できたほうじゃないか。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 13:11:03.45 ID:ojgsjiKr
・・・先生!まーくんは敵じゃないってだけで信用しちゃいけないと思いますw

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 15:04:13.63 ID:Liro16MX
まーくんには鮭さんを傍に当てておけば勝手にいちゃいちゃして大事にならないから大丈夫だっ!

秀康二話

2012年06月13日 21:00

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 18:53:53.33 ID:Ip47AwPS
まだ出ていないと思ってwikiから引っ張ってきました

その1 「秀康と相撲観戦」

秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。
すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。
その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。
この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。

その2 「秀康と阿国」

秀康は弟の秀忠が徳川氏の家督を継いだとき、伏見城代を務めていた。
出雲阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、
「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」
と、こう漏らしたと言う。





何をしても逆効果な結城秀康

2012年01月29日 21:58

902 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/29(日) 04:13:43.68 ID:+SM43X7k
生後しばらくの間、徳川家康から実子として認められなかった結城秀康は、父に気に入られていなかったことを
伺わせる

逸話を残している。ある時、腫れ物を患って回復後に家康に招かれた秀康は、病気で欠けてしまった
鼻を貼り薬で隠していた事で不快感を抱かれて面会を拒否されてしまった。
家康いわく、

「美男を好むのは、公家や町人のする事だ。この家康の子として生まれ、一軍の将たるべき者が、
鼻の形が醜いのを気にするなど言語道断である。」

という真意だったという。また親子で京にいた時、近所で火事が起こると、秀康は家臣を引き連れ
素早く消火に当たったものの、
家康から

「親を出し抜くとはけしからん奴だ!」

と不興を買ってしまったという。 何をしても逆効果な秀康のかわいそうな逸話。



関連
徳川家康、醜い事は恥ではない・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1386.html


903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 08:15:10.56 ID:rpkgUPaU
きしゅつ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 08:47:13.76 ID:dV7cpYjB
そもそも秀康が家康に気に入られたと言うか、認められてないと関ヶ原の時の上杉の押さえとか、
関が原後要衝の越前任せるとかありえないからなあ。

幼少期に実子と認められなかったのも、母親の身持ちが悪く、実際の所本当に家康の子かどうか
かなり疑わしかった、というのがホントのところですな。

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 15:27:39.64 ID:yfHPd8mh
おまん、だっけ?

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 16:24:43.30 ID:skFjOdns
家康が気に入らなかったのもわかるおまんの子…つまり

                                 Y
                ,. '"´三二二三`ヽ      _ノ    r┐
              /,ィ彡'"´ ̄  ̄ ``ヾミヽ     〈  r‐-┘└っ
              /   /    殺     ', ヽ    ノ   r‐-' 'ーっ
            /   /::(         ノ:::)  ヽ   く   二」 こ
              /   /く´‘`ヽ ',从,' ∠‘``',   ヽ ノノ  (__=ノヽ〉
          /    ハ´ ̄`フ.:;;;;;:: ヽ ̄`フ',   ヽ )   ____
            /    /     ,,   ,,      ',    〈{ /::::::::::::::::..ヽ
         /   /::、  /   .;;;;;;'  ヽ   /::ト、   〃. l::::::::::::::::::::::::::|
         ./   //:::::::; l /⌒ー一⌒ヽl ;:::::ト、V //  \::::::::::::::::/
        /   // 1:::::;  V.:ViiiiiiiiiiiiiViiV  ;:::::ト、V /     `""""´
      /   // ./.l:::::;. /l /´  ̄ ̄`ヽ  ;_ ___ノ    にニニニニ7
       /   // /  l::::; l | .:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:|   ;::: ̄\
     /   // /   1::; | |.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.|  ;::! i i 弋
.     /   // /   / l:::;.   |WWWWWW!  /1 | | _ノ   〈⌒ー─┐
    /   // /   / .|ヾ、  L二二二ニノ / | | |  ヽ     ̄ ̄ ̄
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.      // /   /  ノ  ',  l}}}}}}}}}}}}}  /| | | |   __,)     | |
     // /   /  ハ:::::::::.\ V´ ̄`Vく/  l | | |  `ヽ.    | |
.   // /   /   l  >.-、/   ヽ  ヽ  | | ! !   ノ     | |
   // /   /    |/ /       \)  l/ | |  く.      | |
  .// /   /    V   〉   '"´  ``ヽ).     | !   ゝ     | |
      /    /  〈    '"´   ``ヽ)    l/   .ノ     | |




907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 16:54:54.27 ID:EYUcwgXw
こうか?


                   / / / ´ {ミ丶   ヽ
                   ,' / / /  }ミ、 ヽ  '.                   オ レ       テ ロ リ ス ト
                     |,  〃 , ´ ̄ `ヽ  '.  i                  拙者は三河の戦国大名
                     |   /   家  '.  }  l
             ,  - ―<!   {.  康  }  i!   {⌒ヽ               今日は仏閣壊したぜ!
            /___   |     ≧ェ.、 rィェ彡 i!   '.   \                  イマガワ
           /´. -‐- 、`ヽ.|    |   ト   ! i!  .l    丶     /:::::     明日は旧 主掘ってやる!
         ' , ´     ヽ |     |〈__ ー|‐`, } i!  .|、    }ヽ    }:::::::       サツガイ      サツガイ
       , -/ /        }     rくWWW/ ハ i!  .|ヾ:、  ノ }    ノ:::::::     下克上せよ!下克上せよ!
      { ' '        ノ .i!   、ト、` ̄ ' イ/リ     |ヽ、`¨´ /  /::::::/
      | { {         /  ハ  ト、 T77´,//ハ     !'//`Y´   /::::::/; /
      | i! '.      /  イ '.  |ヽ }/ i !// //    |///∧   .!:::::/; /ゝ
      |人  `ー一   イヽノ  l .K ///リ/,イ//     !////ハ   ノ/; /ゝ
     /// `ー-‐ 7´ムイ: `ヽ  ! |ヽ`ハ///`//    |/////'>´\/ ´
.     ////////////  {: : : : } i! ト、} } 〉/イ/イ  ,ィヘ .l/: :r‐/XXX >
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   '//////// ' :: 〉/!:::::::::::`¨´:::::::::::i!:|:://:}::}//////:: ::/ヾ   ン  ゝ
  l//////// :: : //,ト、:::::::::::::::::::::::::::i!::!{::|::ノイ'//////XX(`'ヽィ´  ,ヘノ
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  |/////〈 :: :: /// |ミヽ:::::::::`ー::イ:/::レ::::::////XXXX/::|
  ∨'///∧ :: ////ト、:`: ̄ ̄>:イ:::::::::::///XXXX/}:: ::|
.   } ////∧7///八: :ヽ:::::::,::'::O:::i!:::::::: '/XXXX///| :: :!
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908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 16:56:51.88 ID:76xNHuPX
秀康の指料として残ってる刀も朱塗だし
黒厨の家康とはそもそも趣味が合わなかったんじゃないか
ttp://www.emuseum.jp/detail/100491?word=&d_lang=ja&s_lang=en&class=6&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=89&num=5&mode=detail

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 17:18:02.03 ID:3xhA950k
秀康は太閤の養子になったから
趣味が豊臣寄りになってたりして

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 19:16:29.07 ID:61E2U3Ei
病気で鼻が欠けるっていうと真っ先に梅毒を思い浮かべてしまうんだが
違うよね?w

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 19:19:28.21 ID:wQnKxtvE
梅毒説は有名じゃないか
真偽は知らんが

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:09:50.33 ID:Kqkq2qBQ
>>908
>黒厨の家康
意外に政宗公と趣味が合うかもw

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:06:02.25 ID:J1U8VOXD
>>910
スレチになってしまうが、梅毒説のある武将って秀康の他に誰か居たっけ?
黒田如水くらいしか知らないんだけど

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:09:16.63 ID:P3SWhhgo
加藤清正/浅野幸長

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:09:55.16 ID:B3B2HeGF
朝鮮行った武将ならけっこうもらってそうだけど

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 08:28:42.41 ID:KgTdxVb6
朝鮮で梅毒めっちゃ流行ってたんだよな

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 09:04:05.98 ID:mGfRkdlz
前田利長の死因も唐瘡とされている
小早川秀秋も可能性を否定出来ない

豊臣氏が朝鮮の役で被った最後にして最大の被害と言えるのかもしれない

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 09:05:39.23 ID:t23fue6q
あっちでヤリまくってた大名も悪いんじゃね、ヤルことしか楽しみがないんだろうけど

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 09:37:03.12 ID:3CjR41MJ
家臣の妻襲えば安全なのに。

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 10:11:10.07 ID:mGfRkdlz
松平忠吉も梅毒で死亡したと思われる

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 19:38:50.87 ID:8bWUm58O
板がヒャッハー状態

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 00:55:29.22 ID:c4+tXjYN
避妊で病気を防ぐ概念は無かったのかな

923 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/31(火) 01:51:03.52 ID:0dCNrhUH
当時は衛生観念違うし【今度産む】もなかったしなぁ
粘膜接触は避けられなかったんじゃない?

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 11:09:32.88 ID:ZdAjZkdo
梅毒にかかると妊娠しにくくなるから、梅毒にかかってようやく一人前の遊女という
風潮すらあったとかいう話だな・・・


925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 11:30:37.21 ID:+xvUJork
安全な大名の女遊びのやり方をお教えしましょう。

まじめな家臣に美人の嫁を斡旋する

家臣を上方もしくは江戸に単身赴任させる

慰労ということで家臣の妻を呼んで・・・・ウマー

この時遊び人の家臣を選んではいけません、回りまわって感染してしまいます。
気性の荒い家臣を選んではいけません、斬られます。
口うるさい老臣に近い立場の家臣を選んではいけません、折檻されます。

これで楽しいアバンチュールを安全に楽しみましょう

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 13:09:02.65 ID:vF+4Fqq8
宗リン「いやあ、恐ろしい手法じゃ」
TERU「誠に恐ろしい、そのような人面獣心の輩の顔が見てみたいものじゃ」

譲り合い 宇宙

2010年06月01日 00:04

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/30(日) 21:56:17 ID:uejqOBNB
譲り合い 宇宙

徳川家康が将軍だったころ、結城秀康が父家康の命で江戸に赴いたことがあった。
品川まで来ると、なんと徳川秀忠がわざわざ江戸城から出迎えに来ていた。
「兄上、よくぞお越し下された。」
「わざわざのお出迎え、痛み入ります。」
挨拶の後、さあ、江戸城に出発となったが、秀忠の輿は動かない。
「兄上、どうぞお先に」
だが、秀康は上杉景勝との席次譲り合いにも見られるように、謙虚な人柄であった。
「何を申される。あなたはお世継ぎではないか。あなたより先にはいけない。」
ところが、秀忠は、景勝と違い、「それなら」といえない男だった。
「兄上を差し置いて先に行くなど、長幼の序にもとります。」
二人には、頑固で意地っ張りな徳川家康の血がしっかりと受け継がれていた。
二人とも、引かず、媚びず、(周りを)省みなかった。
結局、二人は江戸城までの道のりを延々と譲り合いながら進み、
街道を通る人々は大いに迷惑したということである。




94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 22:34:55 ID:71LF2OSW
あなたが家康の子として認知されるのが遅すぎたのよ!
どうして今ごろ(ry

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 23:12:49 ID:UarV/tyk
チッ!少しでも前に出てくれれば謀反の兆ありと親父に訴えて
謹慎改易切腹の三連コンボ食らわしたのに

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 23:27:54 ID:Ce9G0vJ4
家光「言い掛かりでも何でもやっちまえばいいのに…」

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 23:53:48 ID:2VUgCQ+B
家康も秀康には色々気を使っているからねえ…

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 00:07:11 ID:wDer8lfn
秀康が豊臣側に寝返れば面白かったのに・・

秀康にスイッチが入った

2010年03月16日 00:01

306 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/15(月) 15:54:54 ID:BmyniogW
制外の家

結城秀康が参勤のため江戸に向かっていたところ、行列が碓氷峠の関所に到着した。
関守「騎馬に徒士の家臣、足軽に弓槍鉄砲、ん?鉄砲ですか?」
結城家家臣「いかにも、鉄砲がござる。参勤のため軍役のために必要でござろう。」
関守「いけませぬ!箱根と同じく碓氷峠の関所は『入り鉄砲に出女』は禁止事項です。
   将軍家の決められた法度を破るわけには参りません。ここを通過させるわけには参りません。」
結城家家臣「なぜ?当家は『制外の家』ましてや将軍家一門にござるぞ!通しなされ!」
関守「制外の家なんて知りません!だめ!鉄砲はおいてきてください!」
結城家家臣「なんだこの面倒くささは!通せ!それともお前、三河者か!??」
こうして、内容が結城秀康の耳に届いた瞬間、秀康にスイッチが入った。

秀康「成敗!」

関守はおそれた。なんと言っても自分を斬るために万余の軍勢が今まさに前進しようと
いうのだから。そこで、江戸にお伺いを立てた。
結果は鉄砲付きで通してよいというものだったと思うが、詳しくはわからない。
ただ、事態収拾に成功したと共に徳川秀忠がこの事に関してのコメントがわかっている。

徳川秀忠「関守は・・・兄上(秀康)に殺されなかっただけでも幸いであった。」




307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 16:48:18 ID:CSoXGzu/
その関守は三河者では無い事確実だな。
三河者だったら攻撃されそうになる前に、
自分から相手の軍勢に切り込むはず。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 18:34:47 ID:GgibeMuK
>>306 秀康「成敗!」
松平健吹いたw

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 18:51:53 ID:OJs4obV1
>結城家家臣「なんだこの面倒くささは!通せ!それともお前、三河者か!??」
どんなつっこみだよw

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 19:45:42 ID:Oh8TdMn0
鬼武蔵なら江戸にお伺いを立てる時間も与えず殺ってるだろうな

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 20:07:21 ID:KV+WWKmE
>>310
鬼武蔵が関守をするのか・・・

314 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/15(月) 20:22:45 ID:BmyniogW
>>311
ある意味見てみたい。
結城秀康VS森ヒャッハー鬼武蔵長可
の碓氷峠関所の戦い。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 20:24:34 ID:2C8Pe3zK
見たらそのあと一週間は魘されそうだなあw

316 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/15(月) 20:45:34 ID:dBysh5fY
>>311
いや、違うだろ。
鬼武蔵長可なら関守を間髪入れずにたたき切ってるってことでしょ。
実際、関所破って皆殺しにしてなかったっけ>鬼武蔵長可

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 20:58:38 ID:v8suGHnw
鬼武蔵華麗なる関所破りの歴史

1:京の関所
役人を問答無用で斬首。さらに部下に銘じて放火をしその混乱に乗じて通過。
殺した相手は味方。

2:瀬田橋の関所
番人を切り捨て通過。
殺した相手は味方。

3:熱田橋の関所
番をしていた浅野長政の家来を切り捨てて通過。
殺した相手は当然のように味方。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-382.html


318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 21:06:30 ID:rHTtFp6S
味方殺しは男のロマン

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 22:07:10 ID:kytjmE0p
中世の関所と、江戸時代のそれも碓氷峠の関所は規模が全然違う。
鬼武蔵独りで碓氷峠を突破なんてムリだよ。
・・・って無粋な書き込みスマソ

石田正宗

2010年03月13日 00:05

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 17:25:07 ID:GLNx7NWK
結構知られている話かな?

石田正宗
三成の前田邸での襲撃事件後、三成は家康に保護される
そして家康の勧めにより彼の領国の佐和山に帰るのであった
その際、家康は次男の秀康を警護として同行させた
太閤の養子であり秀頼の義兄弟にもあたる秀康と三成は互いに好意を持っていたようであり、
別れの際に三成は世間の羨望である佩刀の五郎正宗を秀康に贈ったのであった

関ヶ原の合戦後、諸侯は幕府を憚り三成の名前を口にすることも恐れる風であったが、
秀康は贈られた刀を「石田正宗」と命名し生涯愛用したのであった
また、刀身に傷があるので「石田切込正宗」とも呼ばれている

因みに、この傷のせいで国宝には出来なく重要文化財止まりだとか




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 17:31:48 ID:A/8vzjn3
結城秀康は大谷吉継の敦賀正宗も所持してて羨ましい

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 18:10:44 ID:wdTkVIKp
>>625
既出じゃなかった?

傷があっても国宝にすればいいじゃない!って思っちゃうねw
勿体無い

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 21:19:54 ID:TsrSZ6ww
傷のせいで刀剣としての価値が下がっちゃったから国宝になれないのかな

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 21:44:42 ID:fYSkWgHC
国宝として生き長らえるより、実戦で使い潰される方が刀も本望だろう

結城秀康、呼ぶのを忘れて

2009年07月02日 00:05

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/01(水) 18:14:53 ID:UNSSxNj0
越前において、結城秀康が城を出て温泉に入りに行った事があった。
これに出発する前、秀康は見送りの家臣たちを一人づつ呼び、声をかけた。

ところがこの時、どうしたわけか片倉武兵衛だけは呼ばれず、声をかけてもらえなかった。
武兵衛はこれがあまりに口惜しく、面目を失ったと、切腹し、果てた。

武兵衛の切腹を知った秀康は驚いた。
「ついうっかりして、呼ぶのを忘れてしまった。しかし武兵衛の事を気にかけていない
訳ではなかったのに!」

深く後悔した秀康は、武兵衛の跡目を取り立て片倉家を存続させた。
そしてこの事を生涯、自分への重い戒めとしたそうである。

この時代武士の面目とは、生き死にに直結する重大な問題であったのだ、と言うお話。





857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/01(水) 18:42:47 ID:6S0I9vrY
短気にもほどがあるだろ

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/01(水) 18:48:03 ID:nL0yTrah
何も腹切らなくてもいいじゃないかw


一万石の江口三郎兵衛と高木勘平・いい話?

2009年05月13日 03:56

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/12(火) 09:05:37 ID:jPagyO9i
これはまだ無いはず。同じ一万石知行のお話


丹羽家の重臣として有名であった江口三郎兵衛は、関ヶ原による丹羽家没落の後、
越前黄門、結城秀康に呼ばれ、なんと一万石で召抱えられた。

これを快く思わないのがそれまでの家臣たちである。
秀康の家臣で武勇の知られた高木勘平も、
「新参者がいきなり一万石を領するとはなにごとか!」
と、怒りがおさまらない。

ある時この高木が、江口と同席する機会があった。高木、この時とばかり江口に詰め寄り
こう尋ねた

「上方の武辺とはどういう事を言うのか!?」

一般に東国の武士からは、上方の者は柔弱と思われている。高木はその上方者である
江口の武辺を笑って恥をかかせてやろう、そう思ったのだ。

これに江口、答える。

「上方の武辺と言うものは、人に武辺者と言われ、この殿のような方に召し出され、
高い知行を取ることでござる。」

高木はこれを聞くと、「うーん」と唸り、そのまま言葉も無く引き下がった。

高木勘平が後に言うには
『あの時江口が、それまでに自分のなした武功を語ろうものなら、「わしはそれほどの事を
八百度も成したぞ!」と言ってやるつもりだった。
江口と言う男は武のみではなく、才も優れた人間だ。」

と、感心したとの事である。


正直この程度の答えに素直に感心しちゃう高木勘平が、ちょっと可愛いお話。




524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/12(火) 09:16:18 ID:OavpmR4+
言ってやろうとした台詞を考えるに脳筋だったんだろうなぁ高木