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大山伯耆、親子3人を討つ

2015年12月04日 13:56

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 13:41:54.43 ID:jcpUOsPd
ある時、石田三成の将・島左近の家士に罪科があり、下河原平太夫は左近の眼前で
放し討ちするように言い付けられた。

しかし、下河原は勇者であったがどうしてなのか切り損じ、かの者は負傷しながらも
走り出た。その時、大山伯耆という未だ弱冠にも及ばなかった者が次の間に居合わせ、
かの者を組み止めて刺し殺した。

伯耆は、「これほどの事を、私に内意を知らせて下さらないとは遺恨である」
と言い捨てて、門外に出た。「かの罪科人の父と弟は遠所にいる。きっと刺客が
向かうに違いない。その一部始終にも加わろう」と伯耆は思い、その地へ赴いた。

しかし伯耆は思い巡らせて、「本道は刺客が遮るはずだ。もし彼ら親子がこれを
知って逃れ走るとすれば、きっと脇道であろう」と考え、急いで脇道へ向かった。

案の定、刺客が向かう前に親子はこの事を漏れ聞き、僕も伴わずに父は馬上で、
子は徒歩で脇道から逃れていた。そこへ行き会った伯耆は2人がそうだと見て、

「まず、父を斬るか子を斬るか。父を斬れば、子は見捨てて逃げるかもしれない。
だが、子を斬れば父は絶対に逃げまい。それに馬上の父を斬れば、徒立ちの子は
素早く身構えて戦えるが、子を先に斬れば父は馬から降り立つせいで隙があろう」

と分別した。伯耆は2人の側を過ぎざまに抜き打ちして、まず子を斬り殺した。
そして、父が馬から飛び降りるところを走り寄り、父をもまた、たちどころに
斬り殺した。この時、伯耆は軽傷一つすら負わなかった。

親子3人をまんまと討つことができたのは、例の少ない手柄である。下河原は自分が
言い付けられた者を仕損じたが、人々はむやみに謗らなかった。彼には年来たびたびの
武功があったためである。伯耆は後に三成の直参となり、島に劣らぬ勇将となった。

――『武将感状記』




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