脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事

2017年01月21日 10:28

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 00:58:12.25 ID:WWUVYInV
脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事

 予は若年の頃は脇坂氏〔竜野侯〕の先祖が関ヶ原で裏切ったことは反逆ではないかと思っていた。
しかし中年の時にかの侯の画工外内(トノウチ)某と懇意になったおりに、
彼の口から
「侯の家には、関ヶ原の陣のときに予め神祖から裏切りを仰せられた御自筆の御書がありまして、
かの家では至重の物として、年々虫干しには出して主人から諸役人までもそれお拝見しておられます。」
との話がでた。
若年の頃に心得たことは違っていたのだとと、老後になって思い出した。
そこで諸書を引いてなお証拠とする。

 『藩翰譜』によると、
「安元〔淡路守〕の父〔中務少輔安治〕が代わりに軍勢を引率し奥州へ向かった。
上方に軍がまた起こり道路を塞いでいたので近江路から引き返し、
東国〔神祖の御坐所の小山〕に使いを送らせ、山岡道阿弥入道に取り次いでもらった。
父子共に西におり、そこで裏切りましょうと申したので、
神祖は御消息を与えてその志を感じられた。
関ヶ原の合戦の時父子共に敵を破って御陣に参り、また佐和山の城を攻め落とした。」

 『武家事紀〔山鹿素行著〕』によると
「安治は、朝鮮征伐のときも船手運送の自由を司り、後には加羅嶋の番船を乗っ取り、
秀吉から感書を貰った。
関ヶ原役に逆徒に与したが、後に藤堂高虎に取り次いでもらって裏切りのことを告げた。
これから本領を安堵した。」
この書の『戦略』の項には
藤堂高虎は脇坂や朽木等の裏切る気持ちがあるとかねて知っていたので、北国勢の方へ出向かった。〔中略〕
秀秋は〔これも裏切りである〕が大軍なのでこれを相手にはせず、
北国勢の軍と入れ替えながら戦い、京極高政以下の彼らと手向かっている味方を妨げていたところに、
脇坂小川赤座朽木が一同に裏切ったので北国勢は立足もできず敗北した。」

 『国史〔渋井孝徳著〕』には
「安治は会津の役では子の安元に軍を従わせたが、三成の謀反に出会い道が通れなかった。
大津侯に従って敦賀に行った。山岡景仲、藤堂高虎に書を遣わし、全く背叛するつもりはないと言った。
大谷吉継は秀秋が変を起こさないか疑い、
安治、朽木元綱、小川祐忠を松尾の東に移して秀秋に備えた。
しかし安治等の謀は知らなかったので秀秋は吉継に打って出た。
二戦二敗し安治等のためにすきをつかれ吉継は死んだ。
その勢いのまま大勢の軍を攻めた。それはまるで河口を絶つ板のようであった。
十年後に大洲に封を移した。明年、家を江戸に移した。」

これらの文によれば、今の鴻臚中書(寺社奉行・中務大輔/脇坂安董のこと)の
国家に媚びる体の寺政も、祖先の志を継ぐものであろう。

(甲子夜話三篇)



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滝川雄利は安治を謀って

2016年10月26日 10:12

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 22:59:30.30 ID:9xpVU5sN
天正12年、織田信長の二男、信雄の家臣である滝川雄利の子を、羽柴秀吉は人質に取り、
脇坂安治に預けた。この後、織田信勝と秀吉は交戦を始めた。滝川雄利は安治を謀って
人質を取り返そうと、偽って『あの子の母が重病に陥りました。どうか対面させてやりたいのです。』と
少しの間、暇を頂くことを願った。

安治はこれを偽りと思わず、親子の愛を憐れみ、私的に暇を許してしまった。
すると滝川雄利父子は伊賀国に逃走し、上野城に籠った。
秀吉は滝川雄利が伊賀上野城に入ったと聞いて、安治に人質のことを尋ねた。
安治は、人質を取られた有様を、ありのままに答えた。

これを聞いて秀吉は激怒した。安治は鬱憤を抱え
「私が伊賀に赴き、滝川父子が籠っている上野城を攻めて、そこで討ち死にいたします!」
そう申し上げた。
しかし秀吉はなおも腹を立てて

「お前のような小身が、滝川父子を攻め取れるものか!さては滝川に一味し、私に謀反を
するつもりか!?」

これを聞いて安治は涙を流し
「主君の厚恩を忘れ、叛逆した滝川に与する事などありましょうか!」と、自らの母親を人質として
残し、主従20騎にて笠木より伊賀に入った。そして伊賀国の兵に触れ回った

『羽柴秀吉の使にて滝川父子を討ち取る。味方を仕り、軍忠ある者には本領を安堵し、城中の人質も
返還しよう。』

こう云って国侍たちを一味させ、夜中、密かに上野城を取り巻き、その夜のうちに攻め立てこれを取った。
滝川父子は伊勢へと逐電した。

この旨を秀吉に注進すると、秀吉は御機嫌にて、はじめに山岡美濃守を使いとしてその戦功を労り、
後に増田長盛を使いとして、「国の事、堅固に仕るべし」と伝えた。

(脇坂記)

脇坂安治が、伊賀上野城を攻め落としたお話。




是程の手にてしりそかん事糸口惜かるへし

2016年10月24日 18:23

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 17:30:40.07 ID:spJRet+N
羽柴秀吉による播磨国三木城別所長治攻めの時、同国の神吉城主、神吉民部は別所と心を合わせ、
三木に加勢したため、秀吉は軍勢を割いてこの神吉城を取り巻き、攻めかかった。

この軍勢に加わっていた脇坂安治は、真っ先に大手の木戸口まで攻め寄せたが、壁下にて鉄砲に
兜を撃たれ、立ちどころに目が眩んで地に倒れた。

これを見た同僚の宇野伝十郎(後に因幡守と号す)は倒れた安治を引き起こし、彼を助けて退こうとした。
ところが、安治にわかに起き上がり、叫んだ

「この程度の手傷で退くのはものすごく口惜しい!」(是程の手にてしりそかん事糸口惜かるへし)

そして暫く休んで、一番に大手の口より乗り入った。宇野伝十郎も安治に続いて乗り込んだ。
これを始めとして多勢が一気に押し破り、遂に神吉城も攻め落とされた。(安治二十五歳)

(脇坂記)



秀吉の験の付いた大石を

2016年10月23日 15:52

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 15:48:23.69 ID:Wm6PdRyD
天正4年、織田信長が近江国安土山に築城する時、この普請を丹羽長秀に仰せ付け、長秀は正月17日に
安土山に入った。諸国の織田家の大名も同じく安土に至り、四方より石垣のための石を採取し夜に日をついで
急ぎ輸送した。

この時、脇坂安治は羽柴秀吉の使いとして、下僕一人を従えただけで書状を持って安土に向かっていたが、
この途中、丹羽家の郎党たちが、秀吉の験の付いた大石を、人足数多に運ばせているのを発見した。
安治は怒鳴りつけた

「その石をどこから取ってきたか!?」

そう押し止めると刀にて石に結ばれた縄を切り石を落とした。怒った石運びの奉行の郎党たちは安治に
襲い掛かってきたが、逆に追い散らし、奉行も人質に捕らえた。

秀吉はこの安治の所業を聴くと激怒した
「かかる目出度い普請の砌に、このような騒動を起こすとは曲事である!安治を折檻せよ!」
ところが丹羽長秀が帰宅の途中、秀吉の屋敷に立ち寄り、安治の忠節を褒め、彼に様々に理があると言った。

これにより安治は許され、その年、知行百五十石を与えられた。

(脇坂記)



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 23:34:18.48 ID:0wNx8Ksp
安定の五郎左さんだが、そういや五郎左さんの織田家の序列って
どんなもんなんだっけ?

小説とかでは、佐久間追放後は織田家ナンバー2扱いだけど、
織田家四天王に入っている割には、石高が圧倒的に下で、軍団長にも
任命されずじまい。(好意的な視点では信孝の副将=実質的な総大将だけどさ)

信長末期時での立場とか考えると、光秀・勝家よりは下で、「信長の古参中の古参」
ということで、秀吉や一益よりは上(ただし絶対的な差はない)あたりかねえ。

秀吉はその深き志に感じ入り

2016年10月20日 17:49

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 05:24:45.76 ID:MdW3IFWi
元亀元年、織田信長は摂津国野田・福島に立て籠もる三好勢を退治するため、数万騎を率いて
8月20日に出陣した。29日、野田・福島へ寄せ詰め、今攻めるという所で、大阪の本願寺が心変わりし
信長への反抗を始めた。

この頃木下秀吉は近江国北野郡にて、浅井長政の小谷城の押さえのために横山城に逗留していたが、
摂津国に一揆が蜂起したと聞いて、近江から多くの兵を揃えて急ぎ京へ上ることとなった。
この時、児小姓や若き者は横山城に残し置く、と命じた。

脇坂安治はこの時17歳であったが、召し連れてもらえないことを無念に思い、御供の直訴をしようと
考えていた所、秀吉の船を長浜から直に大津に廻すと聞いて、密かにその船に忍び込み隠れた。
船奉行はそうとも知らず、その日のうちに大津に船が到着すると、安治は船より走り出て松本の
傍まで行き、道脇に伺候して秀吉の馬が来るのを待った。

秀吉は馬上より安治を見ると、以ての外に立腹し
「我が命に背き、隠れ来る事曲事である!しかし若輩なる者の志有ることは感じられる。
今夜は側に召し使うが、夜が明ければまた船にて長浜に返すべし。」

そう命ぜられ、安治はこれに「畏まり候」と答えた。

しかしその夜、また大津を忍び出て京都へ馳せ上がり、三条の橋の傍にて夜を明かし、また道脇に伺候して
御馬を待った。

秀吉は馬上より再び安治の姿を見て言葉も発せず、重ねてここまで来ること、いよいよ曲事だとは思ったが、
その深き志に感じ入り、それより乗り換えの馬を安治に貸し与え、供をさせた。

(脇坂記)



脇坂安治の三木合戦

2015年01月25日 17:07

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 17:38:17.47 ID:O/4zunnC
天正6年、播磨の国の別所長治が織田信長に反旗を翻し三木城に立て籠もると、
羽柴秀吉は信長の命を受けて、大軍を率いてこの城を攻められた。

この時、秀吉は諸士を前に、金で山道が描かれ白い輪違いの紋のついた赤い母衣を示し、
「この母衣を望むもがおれば、贈ろう」と言った。
ここに脇坂安治が進み出て「御母衣に恥はかかせません。」と申し受けた。

その日、安治はこの母衣を掛け、三木の城下にて敵と槍を合わせ首を取った。
秀吉はその働きに感じ入り、「今後、その母衣の輪違いを汝の家の紋にすべし!」と言った。
これにより、赤き旗に白の輪違いが、脇坂家の紋となった。

この頃、同国神吉の城主・神吉民部が、別所に同心し三木に加勢した。これに秀吉は、神吉城を
取り巻き攻め立てた。

この時、脇坂安治大手の木戸口まで攻め寄せた所、壁下の場所で鉄砲で兜を撃たれた。
安治はたちどころに目が眩み地面に倒れた。これを見た宇野伝十郎は安治を抱きかかえ引き退こうとしたが、
ここで気がついた安治は、「この程度の負傷で退くのは口惜しい」と暫く休んでから、一番に大手の口から
城に乗り入れた、伝十郎も安治に続いて乗り入れ、これを始めとして秀吉軍の多勢が一気に押し破り、
ついに神吉城を攻め落とした。(この時安治25歳であった)

(脇坂記)

脇坂安治、三木合戦の頃の模様である。




594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 08:18:10.13 ID:vCN5JKA0
戦国の兜の防御力は素晴らしいな
鎧はたいしたことない感じだけど

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 10:06:19.18 ID:0BQjcSFy
(´・ω・`)も兜撃たれて無事だったな

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 11:50:16.11 ID:1ja2qnbp
喉を撃たれて口から弾が出たって話を聞いたな

「閑山島海戦」の敗戦

2013年05月28日 19:41

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 06:39:42.85 ID:NL44dUxg
文禄元年(1592)7月、朝鮮の役

脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明の3人は都より14日かけて釜山海の川口に到着し、敵の番船を
どう討ち取るかを評定したが、九鬼・加藤両人は船を動かさずに居た所、脇坂安治は一人、
自身の手勢だけで、7月7日、唐島表に船を押し出した。

この時瀬戸の内には敵の番船が4,5隻ばかり居たのを見つけると、脇坂軍は鉄砲を撃ちかけ
半時(約1時間)ばかり攻め懸け戦ったが、敵船は少しずつ退くのを、隙間なく攻めかかり、
およそ3里(12キロ)ほど追撃したのだが、敵船は瀬戸の内を過ぎて広い所へ出ると、
一度に舵を取り直し、大船を3手に分け、味方の船を引き包み、差し詰め引き詰めつつ
攻撃してきたため、味方の船は死傷者が多数出た。

その上、敵は大船であり見方は小舟であったため、対抗できないように見え、元の瀬戸の内に
引き退こうとした時に、敵船は一気に押しかけ、味方の船に焙烙火矢を投げ入れ、たちまちのうちに
船を焼いたため、脇坂安治の家臣である脇坂左兵衛、渡辺七兵衛を始めとした、名の有る者共が
討ち死にした。
しかし脇坂安治は、櫓の数の多い早舟に乗っていたため、その駆け引き自在の運動性に
助けられ、その身は無事であったが、それでも鎧に屋が当たるなど、十死一生を得る危うさであった。

敵船はなおも追撃し、しきりに火矢を射かけてきたが、脇坂安治の早舟は終に金海に撤収した。

この時敵に討ち漏らされた手勢が200人余りあったが、彼らは陸地から50町(約5.5キロ)離れた
小島に船を着け、各々船より上陸した。
この時、追ってきた敵船によって味方の大船が焼かれてしまった。
眞鍋左馬充と言う者は、その船の船長であったが、
「この船を焼かれた上は、私の命ばかりが助かった所で何の意味があるだろうか?
再び軍中において諸士に逢っても、語る言葉も無い!」
と言って、切腹して死んだ。

この頃、九鬼・加藤の両人も脇坂安治が既に唐島の敵船団に敗北したとの情報を聞き、直ぐ様
船団で馳せ向かったが、敵はカズも多く大船でもあるため叶わぬと判断し、二人共に安骨浦に引き返した。
敵船はこの後を追い、日が暮れるまで安骨浦の湊において船軍となった。
ここでも見方は敗北し、九鬼の船は帆柱をも打ち折られた。

夜に入って、敵船は唐島へと引き上げた。これにより唐島浦の小島に避難していた脇坂家の家臣たちは、
焼き捨てられた舟板で筏を作り、陸地に渡ろうとしたが、敵船10雙ばかりが昼夜島を取り巻いていたため、
彼らは13日にわたり、松の葉や海藻を食べて敵船が引き退く隙を待った。
こう言ったところに、再び唐島表に日本の兵船が多数向かうとの情報が流れ、敵船はにわかに
島から退いた。

この隙に島より、5人、10人づつ筏に乗って陸地へと渡ったが、敵船はまた引き返してきて、
海辺で10人ばかりを射殺した。
残った200人ほどは虎口を逃れ、危うい命が助かって、金海へと帰還した。

この敗戦は日本に知らせられ、豊臣秀吉より、藤堂高虎を遣いとして、直々に批判と
防衛の徹底を求めた書が下された。

こうして脇坂安治は、唐島表において敵船団に討ち負け士卒を多数討たせたことを遺恨に思い、
敵船団ともう一戦しようとあちらこちらと探索したが、終に敵船団に行き会うことはなかった。
ある時、敵の物見の船を見つけ、即座に乗り捕り尽く撫で斬りにして、大将と見えた者を生け捕りにし
牢獄に入れておいたが、しばらくして敵陣へと脱走した。この者は後に唐島表の海戦の時に、
8万の軍の大将となって来たとの事である。
やがてその年も暮れと成ったため、熊川へと引き取った。
(脇坂家傳記)

朝鮮役において、抜け駆けをした脇坂安治が李舜臣の船団に敗北したいわゆる「閑山島海戦」の敗戦の模様である。




720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 07:20:20.50 ID:IauFkIIW
なんか脇坂さんっていつも一か八かの博打が多い気が
この前の秀吉待ちぶせといい、
赤鬼に単身談判といい、
上野城攻めといい(司馬遼太郎「貂の皮」でしかしらないけど)、
この閑山島海戦といい、
関ヶ原での便乗裏切りの素早さといい

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 12:28:48.12 ID:1lW1YO6h
一貫性があるのがいいね!

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 12:36:26.61 ID:kR++sBbf
7本槍なのにいまいちな印象(´・ω・`)

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 14:15:40.22 ID:MDl3PRNH
韓国では脇坂は戦死したことになってるんだったか

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 14:18:53.22 ID:qLXtfEUQ
影武者が本人に成り代り活躍とかなら面白いけど
ウリナラファンタジーのコリエイトだから無いな

脇坂安治17歳、お伴する

2013年05月22日 19:54

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 05:05:25.83 ID:YXi0xOw8
近江国東浅井郡脇坂野の国人、脇坂安明の息子であった脇坂安治は、浅井長政、明智光秀と仕え、
永禄12年(1569)、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。この時脇坂安治、16歳であった。

翌元亀元年、秀吉は浅井の小谷城の押さえとして、横山の城に逗留していたが、摂津に一揆が勃発したとの
報告があり、近江から陸路、勢多を回り、京へと急行した。しかしこの時、児小姓や若者は長浜に
残し置くと秀吉は命じた。

17歳の安治も留守居とされたが、彼は秀吉に召し連れられないことを大変無念に思い、お供させて
頂けるよう訴え出ようと考えていた所、秀吉の御膳船を長浜から直に大津に回すと聞いて、密かに
その船に乗り込み、籠を担いでその中に隠れていると、船奉行たちは彼に気が付かず、船はその日のうちに
大津へと着いた。

安治は船から走り出て松本のあたりまで行くと、道の傍に伺候して、秀吉の馬が来るのを待った。

やがて来た秀吉は、馬上から脇坂安治に気がつくと大変に激怒した
「我が命に背いてこの様にここまで来たことは、以ての外の曲事である!」

平伏する安治に、
「…しかし、若輩でありながら志を持っていることに感じ入った。仕方がないので
今夜は側で召使うが、夜が明ければまた船で長浜に帰るのだ。」
そう命じた。

安治はこれに「畏まりました」と答えたが、その夜、大津を忍び出て京都に馳せ上り、
三条の橋の傍で夜を明かし、また道の傍に伺候して秀吉の御馬を待った。

ここまで来た秀吉は安治を見て
「我が命を重ねて聞かず、こんな所まで来るとは、重大なる曲事である!」と、やはり激怒したが、
「しかしそれほどまで、深き志を持っておるのだな」と感じ入り、それから乗り換え用の馬を
安治に貸し与え、お伴することを許したとのことである。
(脇坂家傳記)




327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 07:26:48.64 ID:ZYdRhicC
ストーカーやん

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 21:15:13.11 ID:xP92OfjL
「あたし、やすはる。いま船の中にいるの…」

「あたし、やすはる。いま松本にいるの…」

「あたし、やすはる。いま京都にいるの…」

「あたし、やすはる。いま三条の橋の傍にいるの…」

「あたし、やすはる。いまあなたの後ろににいるの…」

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 22:32:42.03 ID:cmYmasHT
また出たと、秀吉びっくり、貂の皮

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 23:59:56.49 ID:SZccgyFS
そうか。マイ先祖はストーカーキャラだったのかorz

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 00:08:11.44 ID:WeR9a0K7
脇坂家はすぐに堀田に変わったのでは

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 13:25:12.28 ID:iR7EMgCU
>>326
ここにでる長浜って横山城近くにあったのかな?
まさか今のじゃないよね?

脇坂安治と安土城普請の石

2013年01月19日 19:57

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 23:30:59.56 ID:FuIUEAbv
天正4年、信長は丹羽長秀に安土城の普請を命じ、
諸国の領主は夜に日を継ぎ、急いで築城に使う石を集めていた。
そんな中、脇坂安治は秀吉の使者として、書状を持たせた供の者と普請現場に差し掛かった。

ところが、そこでは丹羽長秀の郎党が秀吉が運んできた大石を
大勢の人足に運ばせ、持ち去ろうとしていたのである。

それを見た安治、「その石をどこに持っていく気だ!」

と押しとどめ、刀で石を曳く縄を切り、運べないようにしてしまった。
すると、邪魔された丹羽家の奉行の郎党人足がわらわらと打ちかかってきた!
しかし安治は逆に人足どもを追い散らし、奉行を捕まえて人質にしてしまった。

これを聞いた秀吉は、
「このようななめでたい普請のときに、騒動を起こすとはけしからん!安治を折檻してくれるわ!」と怒ったが、

そこに戻ってきた長秀(騒動の時は現場にいなかったらしい)が
秀吉の家を訪ねて安治の忠節を褒め讃え、色々と理もあることなので安治を許し、
忠節によりその年知行百五十石を領したのであった。

(脇坂記)




135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 10:30:57.68 ID:N6QGvYvz
供出された石を現場を監督する丹羽が運んでるだけかと思ったw
かっぱらおうとしてたのか

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 11:00:28.03 ID:BZ18TKHM
安土からかっぱらうとは大胆な奴らよの

滝川雄利の人質

2010年09月27日 00:00

246 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/26(日) 17:03:21 ID:aeMo3vtX
殺されるはずだった人質などを助命した話しとかない?




254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 19:45:52 ID:C1D62bma
>>246貴殿がお望みの主旨とはズレると思われるが


天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄の間で緊張が高まる中、信雄の重臣・滝川雄利は、秀吉のもとに人質として
わが子を送り、秀吉はこれを脇坂安治に預けた。

ところが信雄は徳川家康と組んで秀吉に対することになり、雄利はなんとか子供を取り返そうと考え、安治に
「妻の病が重い。子供を一時こちらに戻し、対面させてやってほしい。」と申し出た。
安治は申し出を請けた。まんまと子を取り返し、後顧の憂いの無くなった雄利は、伊賀上野に築城まで始めてしまった。

上野城の話を聞いた秀吉は、激怒した。
「安治!雄利の子を連れて来い!!」「えー、あー、そのぅ、返してしまいました!」
秀吉の怒りは、頂点に達した。

「道理で、雄利め…この始末、どう付けてくれるつもりじゃ!!」
「も、申し訳ございません!これから上野城を攻め、討ち死にして参ります!」
「ふん!三千石取りの、おまえの配下など数十人しかおらんのに、どうやって城攻めが出来る?まさか、攻めるなどと
言いつつ、雄利に呼応するつもりではあるまいな?」
「なんで秀吉様の恩を忘れましょう?お疑いならば、私も母を人質として残して行きます。御免!!」

涙まで流して秀吉のもとを発ち、二十人ばかりの配下を連れて伊賀に入った安治は、それはもう必死で地侍に説いた。
「雄利を討つために、助太刀を願いたい。味方になり、功のあった者は所領を安堵し、先に取った人質も返そう。」
たちまち多くの地侍が味方になり、安治は上野城の攻略に成功し、戦後に摂津能勢一万石を与えられた。


世知辛い戦国の世に、あっさり雄利の子を返した事と言い、伊賀の地侍への説得のセリフと言い、好意的に見れば
実は人質を取るのが嫌いor卑怯な事と考えてたんじゃ?という、地味に漢な貂の皮の人の話。




255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 19:47:53 ID:OS0IU9ND
どう見ても悪い話しでしょ・・・

脇坂安治の「貂の皮」・いい話?

2008年11月16日 00:02

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 08:09:16 ID:afFQ41G1
丹波、丹後の逸話知ってる人いますか?


188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 12:36:17 ID:oZrO8AEL
>>184
んじゃ、丹波の話

貂の皮

「丹波の赤鬼」赤井悪右衛門直正は夜な夜な現れ人々を悩ましている怪物を退治した。
怪物とは大きな貂(イタチ科の動物)で、直正は早速この皮を使った槍の鞘を作り家宝と
した。
この武勇伝には後日談があり、天正6年羽柴秀吉の家臣で黒井開城の降伏勧告の使者とな
った脇坂安治の勇気と厚意に此の家宝の毛皮を与え、以降貂の皮は脇坂家の家宝となった
という(Wikiから引用)。

俺が読んだ話はちょっと違っている。
もともと貂の皮は二対あって、それぞれを赤井・脇坂が所有し旗指物としていた。
そして、脇坂が赤井を討ち取った際に、赤井が形見に貂の旗指物を与え、以降脇坂は2対の貂の
皮の旗指物をはためかせて戦場を駆け巡ったという。




191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 14:40:22 ID:T2f0bm5i
>>188
司馬遼太郎の短編「貂の皮」は個人的にお気に入りだ
でもここ悪い話スレなんだよなw

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 19:19:03 ID:DOGnE/PI
野暮ですまんが、赤井直正は病死が史実なので、討ち死に云々は
司馬の創作。こっちが史実として流布しちゃってるが。
貂の皮自体の話は面白いとはおもうけどね。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 21:50:33 ID:2OCo34it
>>185
>>188
ありがとう、あの辺にいったら豹と撃たれた犬猫を思い出すよ

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 22:16:43 ID:qysllS+v
>>198
ヒョウじゃなくてイタチ(ry


200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 22:18:43 ID:Xj24TZsW
>>199
ttp://www.excite.co.jp/News/china/20081113/Recordchina_20081113028.html

198はこういうタイプの人だ、間違いない

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 22:20:57 ID:2OCo34it
素で間違えてた

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 22:32:07 ID:EALs0I0q
>>199
イタチじゃなくてテン(ry


205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 22:36:38 ID:2OCo34it
テンたまに轢かれてるから悪い話ということで