754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 05:02:57.54 ID:TcEpCjsE
(清正の逝去により、)国中の士農工商は悲嘆に及んだ。大木土佐守という者は佐々陸奥守(成政)
に仕えたが、陸奥守逝去の後に清正に奉公し、3千石の身の上で勤めた。清正は長年とりわけ大木に
懇志であり、それゆえに大木は、「重恩は感謝しきれない。冥途まで御供申さん!」と言って、切腹した。
――『清正記』
大木土佐が追腹を切ったことは本書(清正記)の如く、6月25日の辰刻に私宅で切腹致した。
その時、家老たちへこの旨を申し達し、いずれの者もやって来て様子を見たところ、
三宅角左衛門は、「なんとまあ、武運に叶った侍かな。異国や日本で数度の忠功を致して御厚恩を
蒙り、いままた黄泉までの御供を致すとは、羨ましき武士である」と言って、土佐の死骸より流れ出た
血を取り、自分の手の上に置き戴いて、嘗めた。
この事の是非は計り難いけれども、この他には聞かないことなので、これを記すものである。
(中略)
葬礼は10月13日に西光寺原において遂げ行い、京都本国寺の住持・日桓上人により引導された。
追腹を切った大木土佐と金官(良甫鑑)の棺も清正の棺に続いて担がせ、同じく宮籬の内に左右に
並べ置かれ、同日桓上人により引導された。
(清正の)廟所は本書の通り中尾山に建てた。前述の両人の者たちの廟も日乗大居士(清正)の廟の
左右の脇に並べて立て置かれたのであった。さてまた、本妙寺はもとは熊本にあったものを取り去り、
中尾山の麓に建てたのである。
――『続撰清正記』
(清正の逝去により、)国中の士農工商は悲嘆に及んだ。大木土佐守という者は佐々陸奥守(成政)
に仕えたが、陸奥守逝去の後に清正に奉公し、3千石の身の上で勤めた。清正は長年とりわけ大木に
懇志であり、それゆえに大木は、「重恩は感謝しきれない。冥途まで御供申さん!」と言って、切腹した。
――『清正記』
大木土佐が追腹を切ったことは本書(清正記)の如く、6月25日の辰刻に私宅で切腹致した。
その時、家老たちへこの旨を申し達し、いずれの者もやって来て様子を見たところ、
三宅角左衛門は、「なんとまあ、武運に叶った侍かな。異国や日本で数度の忠功を致して御厚恩を
蒙り、いままた黄泉までの御供を致すとは、羨ましき武士である」と言って、土佐の死骸より流れ出た
血を取り、自分の手の上に置き戴いて、嘗めた。
この事の是非は計り難いけれども、この他には聞かないことなので、これを記すものである。
(中略)
葬礼は10月13日に西光寺原において遂げ行い、京都本国寺の住持・日桓上人により引導された。
追腹を切った大木土佐と金官(良甫鑑)の棺も清正の棺に続いて担がせ、同じく宮籬の内に左右に
並べ置かれ、同日桓上人により引導された。
(清正の)廟所は本書の通り中尾山に建てた。前述の両人の者たちの廟も日乗大居士(清正)の廟の
左右の脇に並べて立て置かれたのであった。さてまた、本妙寺はもとは熊本にあったものを取り去り、
中尾山の麓に建てたのである。
――『続撰清正記』
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