830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 12:55:23.82 ID:4XA++rq6
慶長4年(1599)閏3月、この十一日に、いわゆる七将襲撃事件により石田三成が佐和山に引退している。
それから間もなくのこと。
黒田長政はその邸宅に豊臣家三中老の一人、堀尾帯刀(吉晴)を招き、
徳川家康を伏見城へと入城させる
工作を相談。これにより
堀尾吉晴は中老、そして三成を除いた四奉行の意見をたちまち取りまとめ、
中老、奉行の「総意」として家康の伏見入場を
宇喜多秀家ら大老に提案。秀家らも「中老・奉行らの総意であれば
その通りにするのがいいだろう」と、これを認め、十三日、家康は伏見城へと入った。
さて、伏見城に入った
徳川家康は堀尾を召して言った
「私は、貴殿と羽柴越中守(細川忠興)両人の計らいによって、先日の出入り(七将襲撃事件の事か)も無事に
処理でき、今又伏見の城に入ることができた。全て皆の粉骨のおかげである。
そのため、せめて今後の疎略がないように誓紙をもって誓約を成したいのだが?」
しかし堀尾
「今回のことは全て天下の御為にしたことであり、ここで内府(家康)の御一礼を頂き御誓紙を申し受ける
というのは私の本意ではありません。」とこれを辞退した。
が、十七日、堀尾邸を訪ねた家康重臣・井伊直政が取り出した、徳川・堀尾家双方の親睦を記した
血判神文を受け取る。ここに
堀尾吉晴は親
徳川家康派の立場を明確に表明したと言っていいだろう。
そして
堀尾吉晴はそれまでの功により、越前府中五万石を加増された。
さてそんな頃、
宇喜多秀家はその家老、明石掃部頭(全登)を側に寄せ、こんな事を言い放った
「堀尾は太閤の御恩を受け、今は中老の職にまでなったというのに、太閤が薨去された後は
他の同僚たちの前もはばから憚らず、一心に内府の前に馬を繋いでおる!(家康に奉公しているという意味)
先日の事だ、内府が伏見城に入った折に堀尾帯刀が内府からの誓紙を辞退したというのは
ご法度を守ったことであると会津中納言(上杉景勝)が堀尾を賞賛していた。
私はそれに全く同意できず、『ならば井伊兵部の誓紙を受納したのも御忠功だといわれるのか!?』
と言ってやった。その場にいた者たちは皆私の言ったことに一言もなく屈服し、『誠に言われる通りである』
などと申していたよ。
今に見よ!
内府の計りとして、加増を受け、大阪・伏見の間で今ときめいておる堀尾は、
若年より人の知りたる武功多く、実力も兼ね備えた者であるが、城付の五万石に己の一心を眩まされて、
既に一生の危うきを取った!彼の将来は暗いであろう!」
この秀家の発言は後年、大坂の陣のおり、明石掃部が人に語ったことだという。
当時の公家や寺社の日記に
『内府、天下殿になられ候。目出候。』『諸人大慶』などと書かれた家康の伏見入城。
この時の
堀尾吉晴の行動と、それに対する
宇喜多秀家の反応である。
831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 19:51:14.40 ID:V9oXlp3h
この時点で徳川が豊臣にいずれ取って代わるって思ってた人ってどのくらいいるんだろ?
832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 21:05:49.00 ID:aNSoQ4St
関白秀次が死んだ時点でもうみんなそう思ってたでしょ、後継者がいないんだもの
833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 22:53:27.01 ID:qcyYrpiR
拾丸「やっぱり捨てられる運命にあったということね」