五月八日、順風を待っていた所

2016年07月16日 17:48

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 21:07:49.80 ID:TKcwYwA0
元和元年四月、関東と大阪が再び手切れと成り、両将軍家は関東より、大阪に出陣するとの由聞こえたため、
日向飫肥の伊東祐慶も早速軍勢を集め、五月八日、折生迫にて乗船し順風を待っていた所、
『早くも大阪は落城し、事既に静謐に及んだ』との報告が届いた。
そこで祐慶は軍勢を残して上洛した。

ところが、諸大名は程なく帰国の暇を賜ったのに、祐慶にはしばらく何の沙汰もなかった。
「これは重要な事態に遅れた故ではないか」
伊東家の人々はそう考えて心配していたが、幕府が、伊東家が遠く海上を隔てた遠国であるので
風波の便り、自由にならぬこと明確であると聞き届けたのか、ややあって暇を賜り、同年八月、帰国された。

この年、天下も大方静謐に治まったため、将軍家より一国一城の命があった。
これによって曽井、清武、紫波、洲崎、南郷、酒谷など、数ヶ所の城が破却された。

(日向纂記)

伊東祐慶、湊で風待ちの間に大阪夏の陣、終わる。というお話。



866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 22:47:22.79 ID:DLoXqMa1
ラスボスなら普通に改易だろ
仕事出来ないにも程がある

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 23:05:33.14 ID:ZgAFpF8J
権現様「下手に手柄を立てさせると恩賞が大変」
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こうしてようやく、一時の急を免れる

2016年07月15日 15:45

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 19:14:16.71 ID:GagDrAPh
慶長19年、東禅公(伊東祐慶)は江戸に出府され、9月7日、江戸詰の諸大名と同じように、
坂井讃岐守邸にて会合があり、徳川家に対して二心無き誓書を奉った。

10月、両将軍は大阪へと出陣され、祐慶も陪従にて、同月26日、京都に到着した。
この時伏見の伊東邸には平部長右衛門尉俊直が在番していたが、祐慶が京都に到着したと聞くと、
手元にあり合わせた金銀などを取り集め夜中に邸を忍び出て、かろうじて京都にこれを届けた。

しかしこの持参した金子も多分というわけではなく、軍用には大きく不足していた。
当面の軍費として伏見邸の金銀を当てにしていた伊東家の人々は困り果て、どうするべきかと相談していた所、
大阪邸に出切りしていた商人に、尼ヶ崎屋七右衛門という者があり、彼を尋ね出して才覚をしよう、
という事となり、様々に尋ねようやく見つけ出した。

召しだされた尼ヶ崎屋七右衛門に、伊東祐慶は直に対面し、金子の才覚を頼んだ。
しかし七右衛門はこれを断った

「金銀は所持しているものの、今回の騒動を受けて、或いは人に預け、或いは深く蔵し、
或いは遠国へと運び置いて、分散して避難させていますので、急にこれらを集め、参らせる
手立てが有りません。」

これを聞いて祐慶は深く憂慮した様子を見せ、それに対し七右衛門も忍びがたく思い、
金の椀10人分の揃いを近所の人家に預け置いていたのを持参して

「こればかりの品では、御軍用の費えにはならないでしょうが、せめての志の印として
この品なりとも献じさせてください。」

このような事が有り、伊東家の者達はそこから京都を発って山崎澤に一宿したが、
大阪に到着するまでの用意すら心もとない状態であり、いかがすべきかと再び評議して、
京都の金融業者である岸辺屋、金屋の両人に相談する以外にないと結論し、借家原源左衛門尉満実を
京都に派遣した。この時、名のある品ではないものの、手元にあり合わせた墨跡・茶入れの二品があったのを、
先ずはこれを質として頼み談ずるよう命ぜられたので。源左衛門尉はこの二品を持参し、先の
尼ヶ崎屋七右衛門を案内者に頼み、岸辺屋、金屋の両人に申し入れた。

両人も初めは中々引き受けようとはしなかったが、七右衛門が間を取り持ち。様々に説得したので、
両人も「已むを得ない」と、判金10枚を差し出した。

こうしてようやく、一時の急を免れるという、実に哀れなる有様であった。

(日向纂記)

伊東家、大阪冬の陣に参陣し、お金がなくて大変だったというお話



857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 19:39:48.68 ID:gsTyxJTG
幕末のころの借金の多さは有名だが、江戸時代の初期から金欠だったんだな

伊東家と島津家、修好の復活

2016年07月12日 08:58

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:11:19.82 ID:c7/Arcse
日向伊東家は、島津家とは黒田如水の指示により、朝鮮陣の最中、加徳島にて好を結んだが、
関ヶ原の一戦の時、島津家は大阪に属し、伊東家は関東に属したため、宮崎近辺にて両家は数度の
衝突があり、それまでの和睦も崩れ去った。

しかしこの頃、報恩公(伊東祐兵)が逝去し、後を継いだ伊東祐慶は未だ幼少であったので、伊東家の
諸大将は、島津家に頼ることも必要であると評議していた。そんな中、島津家より

『隣国の好は永く変わらない。我々は祐慶公成長の後は、こちらの息女を以って娶らせたい望みを持っている。
どうか鹿児島に来ていただきたい。』

との意向を伝えてきたため、慶長16年(1611)8月、伊東祐慶は鹿児島に赴き、兵庫頭(島津義弘)と
面会した。この時祐慶に供奉したのは、家老の川崎大膳亮、松浦久兵衛尉を始めとして、選ばれた屈強の勇士
数十人であった。

島津家の側は伊東家一行を非常に歓待した。喜入摂津守に命ぜられ善美を尽くして饗応した。
この時、猿楽の興行があり、白楽天の番組と成った時、
「今や今やと松浦船~」
という謡の文句を
「今や今やと与津船~」
と言い換えた。
これは祐慶の供奉に松浦久兵衛尉があったため、その名前を避けてこのように変えたのである。
このように島津家では、ここまで深く萬に念を入れて伊東家に気を使ったのである。

ただし祐慶公と島津家との縁組は、将軍家の沙汰難しくそのことは実現しなかった。
それでもそこから二代にわたって、両家の間は音信の使者絶えず、互いに懇意な事であったが、
その後は何ともなく、再び疎遠の間柄と成った。

(日向纂記)

島津家が関ヶ原後、伊東家との修好復活のため、その家老にまで気を使っていたというお話




928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 01:28:08.16 ID:41NkNuSk
伊東は黒田の舎弟だからさ、後に疎遠になったのは幕府からの黒田への評価が下がったから。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 10:15:23.83 ID:z8yrg7Qr
江戸の時代になっても大名が気軽に隣国を訪れることが出来たんだな
いつ頃から出来なくなったんだろ?
武家諸法度あたり?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 20:55:22.15 ID:toR9SZ93
豊臣を滅ぼしてからとか。

慶長9年、三度目の検地

2016年07月09日 19:25

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 19:38:29.86 ID:aOa++CsB
飫肥の伊東家においては、去る文禄元年に領内の検地があって、石高3万6千石と定められた。
しかし伊東祐兵はこの石高では軍功成し難いと、同四年、秘密裏に検地の沙汰を行ったが、その結果
出てきた数字は僅かに4万5百石に過ぎず、目的の石高に満たなかったため、これは公表せず、
石高を上げることはなかった。

伊東祐兵が卒去のあと、伊藤家家臣である落合九右衛門尉、山縣太郎右衛門尉両人が談合の上、
伏見において「石高6万石」と披露に及んだ。

このことを聞いて国元の家老たちは驚愕した。

「これでは万一、国替えの沙汰など有った時、引き渡すべき帳面も無い。急ぎ検地して高上げより他手段がない!」

そう評議の上、川崎主水、三谷作右衛門尉、平川分右衛門尉の三人を奉行として、慶長9年、三度目の
検地が有り、この時5万7千80石余りの石高と成り、明けて10年3月、平川分右衛門尉はこの
検地帳を伏見に持参して、奉行所にて披露した。

(日向纂記)



820 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 22:35:40.50 ID:CWAhEhPC
やればやるだけ石高が増える
それが検地

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/09(土) 10:02:40.01 ID:tmLfPf9a
>>819
松倉勝家「私なら10万石にしてみせますぞ」
真田信直「ならば、私は15万石にしてみせましょう」

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/09(土) 10:29:36.27 ID:E+Obyybb
毛利「え、うちは36万石しかないですよ。内高100万石+貿易収入なんてとんでもない。
    密輸?そんな恐ろしいことするわけないじゃないですか」

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/09(土) 10:39:35.72 ID:gkfn/0Es
毛利の検地も家臣の俸禄を下げる為にやった水増し型が多いのて゜
内高で国力は測れない。

年貢を増やすと一揆・逃散になるから慶長検地のような増税狙い以外で
大幅に水増しする際は税率もガッツリ下ってる。

なんと江戸時代初期までの73%から江戸時代後半には40%へ。

伊東祐慶への十一ヶ条の教訓

2016年07月08日 16:36

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 20:11:29.93 ID:w0Q7Terw
慶長八年正月、伊東祐慶(当時14歳)は一族の人々を引き連れ上洛した。船中、佐賀関より松浦久兵衛尉、
平川文右衛門尉、借家原甚右衛門尉の3人を筑前国博多へ遣わされ、前年に起こった『稲津の乱』について報告し、
同時に伊東家における家中の制度、すべての予算に関する目録を、黒田如水の一見に備え、万事その指図を受けて
程なく3人は祐慶の後から上洛した。

同年4月の初め、黒田甲斐守長政も江戸より上洛あったため、伊東祐慶は京都において、長政にも
目録等を差し出し、万事の指図を頼んだ。すると長政は、十一ヶ条の教訓を書いた。

一、2日に一度は御定あって御目見得のための登城があるべきです。
一、節々の御上京は無用です。
一、御小姓など幼い者たちを側で重用するのはやめましょう。節々の御付き合い入らぬことです。
一、内々に太郎右衛門が申し聞かせた事は、必ず聞いて下さい。
一、難しくても、宿老の面々とは、細々とでも御参会すべきです。
一、私の所に大勢の人を置くのも入らぬことです。
一、船等の事は、拙者が留守居の者にに申し付け置いていますので、伏見への往復がある時は仰せ付けて下さい。
一、財政についての事は、日記にはっきりと記録し、それを如水が間もなくこちらに上ってくるので、その時
  御相談すべきです。
一、以上の事を徒に思われるのなら、罰が当たると、私は考えていますよ。
一、御家中の者をご成敗の時は、先ず私に御相談下さい。卒爾に仰せ付けてはなりません。
一、二十歳以前に、様々なことを御心のままにしてしまっては、未熟なままに成ってしまいます。
  昼夜お心遣いが肝要です。 以上

 卯月二十日             黒田甲斐守

         伊東修理殿

(日向纂記)

未だ若年の伊東祐慶に宛てた、黒田長政の、甥っ子を心配する伯父さんのような教訓状である。




915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 00:40:01.57 ID:JK9/VnlS
長政は良い人だな!

宮崎城返還の事

2016年07月01日 13:52

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 19:08:58.40 ID:/HemqasI
高橋元種の宮崎城は慶長5年10月朔日に、伊東祐慶の兵によって攻め取り、翌年8月まで確保していたが、
徳川家康の上意として、高橋元種に返却すべきと片桐市正(且元)より伊東家に使者が送られた。
またその頃、大阪に在った伊東家家臣の松浦久兵衛尉も、奉行所に召され、その趣を申し渡された。
この時久兵衛尉は一言の弁明もせずおめおめと退いてきたので、同じく伊東家重臣の稲津掃部助は
大いに怒り、

「いかに内府公の命だからといって、侍の槍先にて攻め取った場所をおめおめと敵に返すなど
ありえようか!」
そうして自ら上洛し、

「宮崎城の事は、井伊兵部少輔(直政)殿の内意があり、また黒田如水老よりも検使宮川伴左衛門を
差し下され、内府様への忠節のために、幼年ながら左京亮(伊東祐慶:関ヶ原当時11歳)は、
父(祐兵)が病中なのも顧みず、日向に下り一命を捨てて太刀下に切り取った所なのです!そこを
今更返せと言われるのは迷惑でござる!」

そうしきりと訴えたが、奉行所は許容せず
「宮崎落城は10月朔日。ですが高橋が寝返ったのは9月15日ですから、前後決断の理においては、
例え忠節として攻め取った太刀下勲功の地であっても、帰さねばならない。」
そう重ねて言明が下ったため、是非無く慶長6年8月、高橋家に返還された。

伊東家では宮崎城を落とした後、諸軍の手柄を逐一吟味し、それを三巻に記して、
飫肥に一巻、大阪に一巻、清武に一巻を置き、占拠した宮崎四万石の地を割って、それぞれに
賞与あるべき旨を沙汰しており、これに諸士は言うに及ばず、百姓らに至るまで勇み喜んでいた。
そのような所に、返還を命ぜられ、一旦の勤労もたちまち水の泡となった。

こうして国中の上下は皆力を落とし、内府様の沙汰も当てにならず、黒田如水の取り持ちも頼みに成らぬと
恨みを含まぬものは居なかった。

その後、黒田如水父子の取り持ちによって、伊東家は井伊直政に様々に内訴したが、これに直政は言った

「石田ら逆徒は、或いは滅亡し或いは降参して、天下一統内府公に従い奉った。
だが、天下の諸侯のうち十に三つは、治部少輔の佞悪を疑い、一旦は内府公に随身したようにしているが、
それは誠の心服ではない。

である以上、今度内府公に降参した諸大名の領地を割って忠功の者達に恩賜あれば、それは再びの
逆乱への端緒となるだろう。
天下は一人の天下ではない。天下の天下なのだから、内府公と雖もその思し召し通りには成り難い。
先ず暫く、天下の安否を見定められる間は、穏便の沙汰を行うのだ。

左京亮殿が幼年の身でありながら、父が重病なのも顧みず大敵の中に下向あって、一命をかけ
類のないほど、御味方として無二の忠功を立てられたことに対して、内府公はたいへん御感悦されている。
なので、終には御報謝あるだろう。
伊東家においてはどうか、その意をくんで、これ以降も遺恨無く、専ら勇義を励まされる事が肝要です。」
そう懇々と示し諭したため、伊東家もその旨を受け、恨みを捨て奉公丹誠を成されたのである。

(日向纂記)



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 19:13:21.97 ID:sv5Jc6ie
>>788
いい話じゃないかw