792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/02(土) 03:49:42.28 ID:JcIZKTr9
徳島侯の中に、阿波の公方と号する者が久しくいた。
近頃この公方の子を又太郎と称すると聞く。
この公方のことを高家の方々に話として出すと、
「これも初めは私達の同族である。この又太郎は今も存命で、年は八十余りと聞く。」
と答えられた。それにつき、この公方のことをこれまでかれこれ人から聞いた。
初めは尊氏正統の種であり、蜂須賀氏がまだ家を興す前、
遂には世の隙を窺って一旗挙げようと思っていたが、
家柄が低いのでは人心が服従できないだろうと慮り、将軍の種を擁立して、自分の家を耀かせようとするため匿っていた。
しかし、神君の御輝きが盛んなので将軍の種の光は消え、
蜂須賀もその御恵みを受けているので、言い出せる状況でもなくなっていた。
歳月が移るにしたがって初めの尊崇のようではなくなり、おのずから公方も意のようにならず、
後にはしばしば不足を言い出した。
蜂須賀も家に不自由がないので、ろくに阿波公方の望みに取り合わなかった。
阿波公方はきっと蜂須賀氏は自分を留めるだろうとして居場所を去ったが、
思いは外れ、今は厄介となった公方を留めもしなかった。
〔宮原の話では、このとき蜂須賀氏から出奔届を官に出したという。
この前までは、蜂須賀氏は参勤や帰国とかのときは、定例として金四百両とかを
土産として贈っていという〕
こんなことなので阿波公方も心当て違いとなり、ついに阿波に帰らず、京
か大阪かの政所に出訴した。
政所は関東へ伺ったが、喜連川をはじめとした足利氏も多くは御養われてるので、
もはや御用にもなく、取り上げるものはなかった。
阿波公方は仕方がないので、いよいよ流浪の身となり所々漂流することとなった。
食べる道もなかったので、縁のところと相国寺を頼んで身を寄せてみたけれど、
阿波公方には、子又太郎、娘等数人おられるので、
相国寺も困り十三の塔頭の院に順番に食住させることとした。
あるとき等持院の番の時に、阿波公方一行がこの院に集まっていると家内から失火し、
持ち伝えていた尊氏の甲冑、後醍醐帝の綸旨、大塔宮の令旨等、古文書、旧来の武具等が、
ことごとく焼亡したという。
正しい尊氏の後胤として場所があっただろうに、等持院にいて自ら火を出し、
これらの物を焚亡させたのは、鬼の怒りか、あるいはまた南帝の御祟か。
この又太郎というのは、身長六尺を超え、勇力がありよく強弓をひく。
女は容色優れていて和歌に達し、かつ伎舞ができる。
ある人が言うに、流浪の日々で、華洛の間を徘徊してこの技を為せることができたと。
あるいは歌学の師となって児女に教えたこともあったという。
今はいかがしているのだろうか。
(甲子夜話続編)
う~ん、もったいないですねえ
796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 18:48:52.16 ID:h0JGpIkg
義栄って子供か弟がいたんだっけ?
797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 20:45:01.19 ID:YWWS8QRs
実際には蜂須賀さんが…
799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:19:49.86 ID:vqIfI3Im
喜連川なんて鎌倉公方の末裔で男系だとさらに傍流の小弓御所の子孫
だから足利とか名乗るのは恥ずかしいレベルだけど
だからこそ担がれてる感じがする
801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 02:16:52.39 ID:q/sXRUjK
鎌倉公方は関東では威勢を振るったし、衰えてからも神輿としての役割は非常に大きかったよ。
徳島侯の中に、阿波の公方と号する者が久しくいた。
近頃この公方の子を又太郎と称すると聞く。
この公方のことを高家の方々に話として出すと、
「これも初めは私達の同族である。この又太郎は今も存命で、年は八十余りと聞く。」
と答えられた。それにつき、この公方のことをこれまでかれこれ人から聞いた。
初めは尊氏正統の種であり、蜂須賀氏がまだ家を興す前、
遂には世の隙を窺って一旗挙げようと思っていたが、
家柄が低いのでは人心が服従できないだろうと慮り、将軍の種を擁立して、自分の家を耀かせようとするため匿っていた。
しかし、神君の御輝きが盛んなので将軍の種の光は消え、
蜂須賀もその御恵みを受けているので、言い出せる状況でもなくなっていた。
歳月が移るにしたがって初めの尊崇のようではなくなり、おのずから公方も意のようにならず、
後にはしばしば不足を言い出した。
蜂須賀も家に不自由がないので、ろくに阿波公方の望みに取り合わなかった。
阿波公方はきっと蜂須賀氏は自分を留めるだろうとして居場所を去ったが、
思いは外れ、今は厄介となった公方を留めもしなかった。
〔宮原の話では、このとき蜂須賀氏から出奔届を官に出したという。
この前までは、蜂須賀氏は参勤や帰国とかのときは、定例として金四百両とかを
土産として贈っていという〕
こんなことなので阿波公方も心当て違いとなり、ついに阿波に帰らず、京
か大阪かの政所に出訴した。
政所は関東へ伺ったが、喜連川をはじめとした足利氏も多くは御養われてるので、
もはや御用にもなく、取り上げるものはなかった。
阿波公方は仕方がないので、いよいよ流浪の身となり所々漂流することとなった。
食べる道もなかったので、縁のところと相国寺を頼んで身を寄せてみたけれど、
阿波公方には、子又太郎、娘等数人おられるので、
相国寺も困り十三の塔頭の院に順番に食住させることとした。
あるとき等持院の番の時に、阿波公方一行がこの院に集まっていると家内から失火し、
持ち伝えていた尊氏の甲冑、後醍醐帝の綸旨、大塔宮の令旨等、古文書、旧来の武具等が、
ことごとく焼亡したという。
正しい尊氏の後胤として場所があっただろうに、等持院にいて自ら火を出し、
これらの物を焚亡させたのは、鬼の怒りか、あるいはまた南帝の御祟か。
この又太郎というのは、身長六尺を超え、勇力がありよく強弓をひく。
女は容色優れていて和歌に達し、かつ伎舞ができる。
ある人が言うに、流浪の日々で、華洛の間を徘徊してこの技を為せることができたと。
あるいは歌学の師となって児女に教えたこともあったという。
今はいかがしているのだろうか。
(甲子夜話続編)
う~ん、もったいないですねえ
796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 18:48:52.16 ID:h0JGpIkg
義栄って子供か弟がいたんだっけ?
797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 20:45:01.19 ID:YWWS8QRs
実際には蜂須賀さんが…
799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:19:49.86 ID:vqIfI3Im
喜連川なんて鎌倉公方の末裔で男系だとさらに傍流の小弓御所の子孫
だから足利とか名乗るのは恥ずかしいレベルだけど
だからこそ担がれてる感じがする
801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 02:16:52.39 ID:q/sXRUjK
鎌倉公方は関東では威勢を振るったし、衰えてからも神輿としての役割は非常に大きかったよ。
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