稲津掃部助の妻

2016年07月05日 21:29

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 00:01:06.88 ID:vt/+c1Fu
稲津掃部助(重政)の妻は、豊後大友家の一族である田北相模守の娘であり、任世政成の妹である。
慶長2年、大友家滅亡の時、任世政成は年齢11歳で、母妹とともに、周防国柳井という所に流れ着いた。
母は土佐の一条安房守房基の娘であり、伊東義益の奥方であった於喜多夫人と姉妹であり、現当主たる
伊東祐慶の母、松寿夫人にとっては伯母であったため、周防国に漂泊したとの話を聞くと、松寿夫人は
使いを周防国に遣わし、母子供に招いた。その頃、伊東家重臣の川崎大膳亮祐賢が妻を失い独身で
あったため、この母を娶って後妻となした。その時、この女児も母に従って大膳亮の養女となり、
後に稲津掃部助の嫁いだのである。

だが、程なく伊東祐慶は、稲津掃部助を誅すると決めた。この事を知らされていた実家の
川崎氏は、「母が病気になったので、帰ってきてほしい」と迎の者を遣わした。
妻は本当に病気になったのだと思い急いで飫肥へと向かったが、途中、山假屋に至った時、
迎の者達は真実を告げた。

妻はこれを聞くと大いに驚き嘆き、迎の者達に向かい叫んだ
「私はこれより、再び夫の元に帰るので、駕籠を返しなさい!」

しかし迎えの若党たちはこれを聞こうとせず、無理にでも母のもとに伴い帰そうとした。
妻は大いに怒り、薙刀の鞘を外し

「我が下知に従わざる者はみな、斬って捨てる!」

そう叫ぶと、若党たちも何も出来ず、踵を返して清武へと戻った。

帰ってきた妻を見て、稲津掃部助は
「女の身なのだから、母のもとに帰るのだ!」
そう勧めたが、妻は承知せず
「私は女として生まれましたが、夫の最後を見捨てて帰るような存念は有りません。」
妻には少しも怖れる色無く、今日こそ討ち手の軍勢が押し寄せると聞こえれば、心しずかに
身支度を整え、掃部助に付き添い、最後の様子も、いかにも勇ましかった。

これを聞いた人たちは、涙を流さぬもの居なかったという。

(日向纂記)



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稲津掃部助に黒田如水、激怒す

2016年07月02日 18:03

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/01(金) 20:50:17.92 ID:+Z/oQOdg
伊東家家臣、稲津掃部助は、関ヶ原後、宮崎城を空しく高橋家に返還することを残念骨髄に徹して
思っており、その後も度々黒田如水に嘆き訴えた。如水としても、一旦検使まで差し下し、内々に
下知して伊東家に取らせた事でもあったので、様々に考え、伊東祐慶が江戸に在府の時、掃部助に
内々にに申し含めた

「これは本多佐渡守(正信)とも、かねて内談致しおいている。今度、九州の大名が暇を賜って
帰国が許される。だがその時左京亮(祐慶)殿は江戸に残り、将軍家の小姓として奉公を勤められるようにせよ。」

稲津掃部助は「畏まって候」と申し上げたが、内心こう思った
『武士が槍先にて攻め取った城地さえ空しく敵に返す程の事なのだから、如水の指図も頼み少ない。
ならば帰国したほうがいいだろう。』

そして帰国が許されると直ぐに祐慶に供奉して国元に下ってしまった。

このことを聞いて黒田如水は激怒し、
「掃部助は武功の者であるから捨て難いが、以後江戸に召されることは然るべからず!」
そう、伊東家に通告した。

伊東祐慶の母公である松寿夫人はその頃、かねてから稲津掃部助に対して心情を悪くしていたのであるが、
如水の一言を聞いて更に彼を憎むように成り、それは後の誅殺の原因ともなるのである。

(日向纂記)




稲津掃部助の最期「稲津の乱」

2010年05月30日 00:01

72 名前:sage[] 投稿日:2010/05/29(土) 17:54:20 ID:yRQqzS7T
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-183.html
の関連で稲津掃部助の最期

「稲津の乱」

稲津を可愛がり何かと目を掛けていた伊東祐兵が関が原の年に病死し
家督を継いだのは息子で、まだ15歳の祐慶だ
後ろ盾を失った稲津に対し、日向での彼の働きを非難する者が出始める
やがて稲津自身も自暴自棄になり言動が荒れてきた
伊東家の国家老、松浦久兵衛が藩主に訴えて「稲津に粗暴の罪あり」と切腹を要求した
これは松浦が、亡き祐兵が当時まだ20前後の稲津を清武城主に抜擢したのを妬んでの讒言とも言われている
藩主になって間もない祐慶にとって、今後の藩政に国家老の存在は欠かせない
松浦の訴えを受けて稲津に切腹命令を出し、清武城の接収のため兵が差し向けられる事となった


稲津には結婚してほどない妻がいて名前は雪江と言った
二人の間には子供がおらず、伊東兵も妻まで巻き添えにする必要は無い。ということで
「実母が危篤だ」と偽の知らせで彼女を城外へ出した
何も知らずに実家へと急いだ雪江は、それが嘘で主君の兵が清武城を囲んでいる事を知る
雪江は城を囲む伊東兵の制止を振り切り清武城へ戻った

すでに覚悟を決めていた稲津だが実家へ戻ったはずの妻が戻ったので驚いた
稲津は雪江に対し改めて離縁を言い渡し実家へ戻るように告げたのだが
雪江は「最期を供にしたい」と袖を引き泣いて懇願するので稲津は不憫に思い承知した
そして雪江は自害し、彼女が事切れたのを確認すると稲津も切腹し清武城は落ちた

慶長7年(1602年)8月18日の事だ。稲津掃部助は29才、妻の雪江は15才の若さだった
その後、生き残った稲津の家臣が二人の墓を作った
慰めになれば、と日向灘の方角に向けて作られたのだが
不思議なことに墓が出来て以来、日向灘を航行しようとする船の難破が相次いだ
人々は「無念に死んだ夫妻の祟りに違いない」と言い
稲津夫妻の墓を反対向きに変え、改めて供養しなおしたところ、難破が収まったそうだ

黒田如水が稲津を利用し見捨てたのか
生前の伊東祐兵が何事かを企んだのか
真相は謎のままだが、いずれにせよ稲津にとっては不本意な最期だっただろう

ソースは郷土史を紹介してるサイトからです
それによると稲津と雪江の墓は現存しているそうです