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永井白元の健脚

2019年06月04日 17:02

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 00:48:00.85 ID:iE7rsSRT
現在三千石で寄合である永井氏の先祖は、大監物、なを白元と言った。初め井伊氏に仕え、それより加藤氏に
仕え、後に御当家(徳川家)に召し出された人である。

この家譜によると、豊太閤(秀吉)在世の時、烈祖(家康)が大阪城に登られた折に、太閤より
「放鷹の時期であるから、下向在るべし」と云われ、未刻(午後2時ころ)ばかりに退出され、町の末より
深尾清十郎が献上した葦毛の馬に乗られたが、御早乗り故、供奉の輩続きかねた。そのような中でも白元と
岡部小次郎の両人だけは遅れず供奉して、伏見の邸に到着したのは酉刻(午後6時頃)過ぎであった。

また関白秀次謀反の時、家康が早駆けにて上洛した時も、この両人は代るがわる御腰物を持って、土山駅まで
供奉したが、小次郎は疲れたのか、この駅に泊まって翌日出立の時、御腰物は監物に持たすべしと命ぜられ、
未刻過ぎる頃伏見に御着きになった。

また忍、河越での御放鷹よりお帰りに成る時、志村台より本多上野介(正純)が献上した鹿毛の馬を召されて
いたが、これが殊の外早く供奉の者続かず、白元一人のみこれに続いて供奉した。そうして府の大橋に
至るあたりで慮外者が現れ、上(家康)に対して「走り競べせん!」と云うまま、御馬に続いて阿部伊予守の
邸の前まで来たところで、監物に対し「その者の腰刀を取り上げるべし」と仰せが在ると、白元は即座に
その腰物を奪い取って、かの物を追い退けたという。
その当時の君臣の健強たること想像るべきであろう。また大橋で現れた慮外者も奇男子である。
この頃の風儀もこの話からまた見ることが出来ると、林氏(林家八代林述斎か)が話されていた。

(甲子夜話)

現在神奈川県横浜市戸塚区にある永井監物陣屋でも有名な永井監物家の祖、永井白元についての逸話。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 01:35:14.72 ID:9dQMXq0w
>現在神奈川県横浜市戸塚区にある永井監物陣屋

ググったけど何の遺構も残ってないお

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:53:57.32 ID:yjPfJm9C
要するに現代人(これが書かれた時の)とは比較にならんほど頑健ですということかな?

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 10:15:04.34 ID:sp0CLkxm
前田慶次が走り競べしたんかな

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 11:25:22.51 ID:reHBASnN
創作のイメージだと、慶次が腰のものを奪われて追い払われるところが想像できない

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 00:23:33.62 ID:wGIK0Atm
>>971
>慮外者が現れ、上(家康)に対して「走り競べせん!」と云うまま、御馬に続いて

徒歩で馬と走り競べ?
上は食い逃げでもしたのかな
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永井大監物并君臣の健強

2016年07月27日 19:28

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 22:26:52.40 ID:o1YPUaPP
永井大監物并君臣の健強

 今三千石余の寄合である永井氏の先祖を、大監物、名は白元という。
初めは井伊氏に仕え、それから加藤氏に仕え、後に御当家に召し出された人である。
その家譜に以下の話が見えた。

 豊太閤在世の時、烈祖は大阪城に登られていた。
放鷹の時に関東へ下向されよと豊太閤が言いければ、
未刻あたりに退出され、町の末から深尾清十郎が献上した葦毛の馬に召された。
御早乗りなので供奉の輩はつづくことができなかった。
たた白元と岡部小次郎の二人は遅れなかった。
供奉して伏見の邸に御着きになられたときは、酉刻を過ぎていたという。

 また関白秀次が謀反の時、早掛けで御上られることがあった時も、この二人は代わる代わる御腰物を持って土山駅まで供奉されたが、
小次郎が疲れたのであろうか、この駅に泊まられた。
翌朝出立のときに、御腰物は監物に持つようにと命ぜられ、未刻過ぎる頃に伏見に御着きになられた。

忍・河越で御放鷹の御帰りに、志村台から本多上野介(正純)が献上された鹿毛の馬に召されられたが殊の外速く、
供奉の者は続けなかった。しかし白元一人のみがつづいて供奉していた。
そういったところに、府の大橋に至る頃合に無礼者が出て、『上と競走しとう』と言うまま、
御馬に続いて阿部伊予守(正勝)の邸の前まで来た。
監物に、『その者の腰刀を取り上げよ』との仰せがあると、
白元はその腰物を奪い取って、かの者を追い斥けたという。

その年の君臣の健強なことを思い遣ることができる。
大橋辺りの無礼者も奇男子である。
このころの風儀もまた見ることができると林氏(述斎)が話した。


この白元はいかにも足の達者な人と見えた。慶長二年十二月上旬、台廟が御放鷹として武州稲木へ出かけられ、
かの地で疱瘡を受けられたことを烈祖は伏見で聞かれ、
同月十七日白元を御使いとして府に下された。
四日半で府に着き拝謁し、直に御暇下され賜物を頂戴して上り、
合計日数九日で伏見に帰り、御容体をつぶさに言上されたとか。

(甲子夜話)

馬について行けるなんて一体何者なんだ



988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 23:24:45.17 ID:fPo8uA7W
周倉さんだって負けへんよ?