永井大監物并君臣の健強

2016年07月27日 19:28

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 22:26:52.40 ID:o1YPUaPP
永井大監物并君臣の健強

 今三千石余の寄合である永井氏の先祖を、大監物、名は白元という。
初めは井伊氏に仕え、それから加藤氏に仕え、後に御当家に召し出された人である。
その家譜に以下の話が見えた。

 豊太閤在世の時、烈祖は大阪城に登られていた。
放鷹の時に関東へ下向されよと豊太閤が言いければ、
未刻あたりに退出され、町の末から深尾清十郎が献上した葦毛の馬に召された。
御早乗りなので供奉の輩はつづくことができなかった。
たた白元と岡部小次郎の二人は遅れなかった。
供奉して伏見の邸に御着きになられたときは、酉刻を過ぎていたという。

 また関白秀次が謀反の時、早掛けで御上られることがあった時も、この二人は代わる代わる御腰物を持って土山駅まで供奉されたが、
小次郎が疲れたのであろうか、この駅に泊まられた。
翌朝出立のときに、御腰物は監物に持つようにと命ぜられ、未刻過ぎる頃に伏見に御着きになられた。

忍・河越で御放鷹の御帰りに、志村台から本多上野介(正純)が献上された鹿毛の馬に召されられたが殊の外速く、
供奉の者は続けなかった。しかし白元一人のみがつづいて供奉していた。
そういったところに、府の大橋に至る頃合に無礼者が出て、『上と競走しとう』と言うまま、
御馬に続いて阿部伊予守(正勝)の邸の前まで来た。
監物に、『その者の腰刀を取り上げよ』との仰せがあると、
白元はその腰物を奪い取って、かの者を追い斥けたという。

その年の君臣の健強なことを思い遣ることができる。
大橋辺りの無礼者も奇男子である。
このころの風儀もまた見ることができると林氏(述斎)が話した。


この白元はいかにも足の達者な人と見えた。慶長二年十二月上旬、台廟が御放鷹として武州稲木へ出かけられ、
かの地で疱瘡を受けられたことを烈祖は伏見で聞かれ、
同月十七日白元を御使いとして府に下された。
四日半で府に着き拝謁し、直に御暇下され賜物を頂戴して上り、
合計日数九日で伏見に帰り、御容体をつぶさに言上されたとか。

(甲子夜話)

馬について行けるなんて一体何者なんだ



988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 23:24:45.17 ID:fPo8uA7W
周倉さんだって負けへんよ?
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