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香西元盛謀殺事件

2018年08月12日 17:38

29 名前:1/2[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 12:26:16.87 ID:8OW2F72Q
大永6年(1526)の頃、それまで京都は暫く静謐であったが、不意の乱が起こった。
細川家の領国である丹波国の住人、香西四郎左衛門元盛は道永禅門(細川高国)の家臣であり、かの家の
沙汰を執り行い、威勢諸人の上に立ち驕りを極めていた。
この者の弟に柳本弾正忠(賢治)という者が居た(実際には兄)。彼は若年の頃は美童であり、高国は
彼との男色にひたられ、この者を寵愛し、成人の後、今に至りて俸禄身に余り、栄耀人に超えて、
香西・柳本兄弟の権勢は並ぶ者なかった。

この頃、細川右馬頭尹賢の所領である摂州尼崎に城を築く事を、高国は諸家に命じた。細川一門一党の
人々は日夜土石を運ばせ造営の役を勤めた。香西兄弟も尼崎に下ってこの役を勤めていた所、彼らの
下部の者達が、細川尹賢の人夫と、土一貫の事について争い口論に至り、やがて双方数百人に分かれて
瓦礫を投げ合う騒動と成った。しかし他家のの人々がこれをどうにか取り扱い和平をさせて、両方を
別け隔て、尹賢の者達は城中に入り、香西の人夫は丁場へと帰った。ところが、香西方のあぶれ者の一部が、
下知を聞かず尚も居残り、戯れに城中へと石礫を投げ入れた。

しかしこの行為に細川尹賢は怒った。
「和平の上に、さらに狼藉を働くなど以ての外の奇怪である!しかしこれは香西の慮外であるから
下部の者達を咎めるべきではない。」
そう、一旦は怒りを収めたが、香西は驕りの故であろうか、その後この事について細川尹賢への陳謝が
無く、そのような事は無かったかのように接した。

これに尹賢は鬱憤を重ね「あの兄弟、日頃の驕りに加え、さらにまた今回の事があった上は、彼らを
亡き者にしなければならない。」そう考え陰謀を巡らせた。
この香西元盛は文盲不学の者であり、常々料紙14,5枚ごとに判形を押しておき、手書きの部分は
彼が召し使っていた矢野宗好という者に、かの判紙を預け置いて、諸方書通のたび毎に宗好次第に
状を書かせ、書礼を進め返した。ところがこの頃どうしたことか、この宗好は香西の命に背き牢人
していた。

これについて、尹賢はハッと思いつき、密かに宗好を招き寄せ色々と語らい、彼の元に香西の判紙が
残っていることを確認すると、そこに秘計の状を書かせた。

その内容は、細川高国の仇敵である阿波の故細川澄元の残党である三好家の者共と、香西元盛が一味している、
というものであった。香西の判形紛れも無いよう拵えさえ、尹賢はこれを密かに高国の元へ持参し
「香西の謀反紛れもありません!」
と、その偽造した書状を証拠として誠らしく言い立て讒言をした。これに高国は、心浅くも真実と
判断し、「事を起こされる前に、早急に香西を誅さねばならない!」と、尹賢と示し合わせた。

しかし、突然高国は思った
香西元盛を誅殺すれば、弟の柳本は私に仕えることが出来なくなってしまうだろう。年来、この柳本は、
この道永(高国)が『命に変えても』と契約した仲であり、いかにも名残惜しい。」
高国は様々に思案し、漸く思いつき、柳本へ起請文を書いた

『香西を誅殺するが、彼は謀反の者であるから是非に及ばぬ次第である。しかし柳本弾正に対して、
道永は少しも異心を持っていない。」

そう心情を顕し、これを文箱へ治めた。

30 名前:2/2[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 12:27:31.73 ID:8OW2F72Q
さて、香西を討つと雖も、まずは謀反の実否を直接問い糾した上で真実ならば誅すべきと、討ち手の
者達を定めておき、大永6年7月13日、高国の館へ香西は召された。香西元盛は自分がそのような
状況に置かれているなど夢にも知らず、何の警戒もなく急ぎ高国の館へ参り、遠侍に入ると、
若殿原二人が出迎え、「太刀と刀を渡されよ」と言う。香西は少しも騒がず太刀と刀を渡し
「何事があったのだろうか」と不思議に思う体にて座っていた。

その間、暫く時刻が過ぎた。細川高国は待ちかねて「香西は遅きぞ」と言った、
これを細川尹賢は聞き間違えたふりをして、かの討ち手の二人に云った
「香西は遅いと言われた!早く斬るのだ!」
二人は即座に走り寄って香西を斬り倒し、その頸を落とした。無残と言うも愚かである。

細川高国はこれを知ると「一体どう言うことなのか!?」と驚いたが、もはや力及ばず事は済んでいた。

その後、高国よリ、あの文箱を柳本賢治の元へ遣わした。書中に
『その方の兄である香西は謀反人であるから、国家のために誅するのだ。その方に今更恨みを含む
事ではない。年来の契約は忘れていない。今後いよいよ、忠義を尽くしてほしい。私は今までと
少しも変わらず、お前を懇ろに扱う』
これを誓詞に認め言い送った。

柳本は起請文を開かないまま高国の館へ持参し、「これは勿体なき仰せです。兄の香西元盛
逆心の罪科にて誅せられた事であり、私は少しも恨みを含んでおりません。
兄の罪科にお構いなく、前々のごとく私を召し使って頂けるとのこと、その御厚恩は生々世々に
報いがたいものです。この上は私に置いては、今後一層の奉公の忠を尽くして勤めます。」
そう感涙を流し宿所へ帰った。

その後、柳本は実際に努めて忠義を尽くしたため人々も感心し「流石道永禅門が年来目利きして
柳本を寵愛していたのは尤もの事だ。これほどの忠臣は世にも稀である。」
そう褒め称えたという。
(續應仁後記)

香西元盛謀殺事件のお話。だがしかし


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高畠はついに討たれたのである

2018年04月02日 21:24

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/02(月) 18:17:33.74 ID:qMcYJTMR
細川高国が香西元盛を誅殺した後)

柳本(賢治)は兄(元盛)の仇を報いるために、1月27日の夜に入って嵯峨へ夜川引きに出るのに事寄せて
家子・郎従を引き連れ立ち出ていった。さて高畠甚九郎と柳本には男色の因みがあった。そこで柳本は高畠に

知らせようと北野辺りの宿所へ行き、高畠に向かって「今回のことは人の謗りを免れ難いので主君に対して弓を
引かんと存じ、丹波へ立ち退きます。貴方とは知音なので告知申すのだ。同心できないだろうか」と申された。

高畠はややしばらく思案を巡らせて返答し「貴方と知音のことは人も存じていることであるから、同心申したく
はあるのだが、主君と家臣の上下の礼、また恩義は至って重いのである。どうにも了承申すことはできない。

しかし、思し召して出立するのであれば留め申すこともできない。早く早く下向なさって用意なされるのです。
それがしに告知なさったことは朋友の交わりのもっとも深い間柄なので、主君に背き申して丹波に入りなさる
とは告げ申しますまい。貴方が仇を報いようと大軍を起こして出なされば、

それがしは不肖なりといえども、罷り向かって拒み戦いましょう」と申し、自分には君臣の義を重んじ、柳本
には朋友の睦を厚くして互いに退き別れた。その心中はまったく正しきものである。その後、柳本は嵯峨に

行って角倉の家に立ち寄り、心静かに酒を飲んで打ちくつろぐ様子を見せた。その様子から角倉は推し量った
のだろうか、鎧腹巻を取り出して柳本の門出を祝った。柳本は嬉しいと喜び、それより丹波の領地へ帰ると、
丹後・但馬など近国の勢を催し、2月17日に都を目指して攻め上った。

高国ならびに右馬頭(細川尹賢)は打って出て拒み戦うも、競って進む敵勢に捲し立てられて散々に打ち負け、
すでに危うく見えたところに、高畠甚九郎が「先頃の言葉を違えまい!」と乗り入れて名乗りかけ、ひとまず
高国勢は盛り返した。しかし無理に引き連れた者たちの勢であったので、続いて敵勢と返し合わせる者もなく、

高畠はついに討たれたのである。高国は都に留まることもできず近江を目指して落ちて行った。柳本は本望を
達してしばらく都にいたが、近江より佐々木(六角氏)が加勢して攻め上るとの由を聞いて丹波へ引き返した。

――『舟岡山軍記』


両葉去らずんば斧柯を用うるに至る

2018年04月01日 19:25

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 04:08:49.28 ID:1ZszLF6D
永正16年(1519)己卯、細川高国は管領として天下の政務を行った。弟の右馬頭(細川尹賢。高国の従弟)
は尼崎に住んで西国の沙汰を決断した。高国の家臣に香西(元盛)という者がいた。陪臣として諸事を執行し、

その威は主君よりも重く、その弟の柳本(賢治)もまた高国の男色の寵愛によって身に余る俸禄を蒙り、人に勝る
栄耀をなし、魯の哀公の季孫氏・叔孫氏、魏の曹叡の司馬父子の如く寵に媚びる者と交流を厚くし、睦をなした。
当家も他家も押し並べて、その門下に奔走したのである。

尼崎城を築くために香西兄弟も下向し、細川一家の人々は日夜土木の役にあずかった。その際に右馬頭の人夫と
香西の人夫が僅かな土を争って口論に及び、下部たち数百人が両方に立ち分かれて瓦礫打ちになったが、仲裁が
入り、両方へ引き分けて行った。右馬頭の者たちは城中へ入り帰り、香西の者は自分の丁場へ帰った。

ところが下知不聞の溢れ者が居残って城中へ瓦礫を打ち込んだのである。右馬頭が驚いて「これは何事だ!」と
問えば、しかじかの事と申すので、腹を立てながらも「下人に対して仲裁した以上は、また打擲すべきではない」
としてその場は静まった。右馬頭は日頃から香西の振舞いは我儘だと思っていたところに、この事が起きたため、

密かに高国に申して様々に謗り、偽りなさった。高国も「“両葉去らずんば斧柯を用うるに至る”という例えも
ある。それならば香西を誅殺しなければならない」と思い定めた。しかし香西を誅殺すれば柳本が自分に仕える
ことはないだろうと、彼の心を推し量って躊躇ったが、

「我が命に替わらんと志す柳本ならばよもや仰せには背くまい」と、柳本に宛てて如才なき真実を誓紙に書いて
文箱に入れたものを予め拵えておき、1月20日に香西を殿中に呼び寄せた。香西が何気なく、いつものように
出仕したところを、予め謀っていたことなので殿中で即時に誅殺した。高国はそのままかの文箱を柳本の

ところへ遣わされ、それには「国家のために誅したのである。其の方は恨みを含んではならぬぞ」と懇ろに仰せ
伝える内容が書かれていた。ところが流石の柳本なれば、文箱を開かずに持参して殿中へ参り、

「香西のこの頃の驕りの限りによって、このようになされたのだと存じます。国家のためですから、それがしは
少しも恨みを含み申してはおりません。御誓文を開き見るには及びませぬ」と、文箱を上に戴いて返し奉った。

そして柳本は「舎兄の不義に連座の罪科を御宥免なされ、それがしをもとのように召し使ってくださることは、
生々世々までもかたじけなく存じます」と申し、御前を退いて宿所に帰り、平生の行儀に変わることはないので、

(高国は)「漢の光武帝は兄の劉エンを更始王(劉玄)が殺したのに、言辞も談笑して元通りだったというのと
違わぬ。あっぱれ度量広き国家の忠臣なり!」と申した。

しかし柳本はこのままでは「主君とはいえ兄弟の仇に反抗せずにいるのか」という謗りを免れ難く思い、20日
ほど過ぎて図らずも思い立ち、丹波の領地へと引き退いたのであった。

――『舟岡山軍記』


天下が破れるということは、すべて

2018年03月31日 20:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 05:15:28.72 ID:T7g+hrGD
さて、阿波国よりの御上洛を年々御願望であったが、澄元(細川澄元)は御他界なさった。三好父子も
他界なさり月日を送っていた折、京の高国(細川高国)は42歳の御時、大永5年(1525)乙酉4月

に御出家なさって法名は道永と申し、御家督を御子の六郎殿(細川稙国)に御譲りになった。そんな喜ば
しいという時に、六郎殿は御歓楽で御他界された。

「御曹司のことは道理の善し悪しでは考えられない。道永の御運の末ぞ」と人々が申した中、高国は
御家来の香西四郎左衛門(元盛)に敵心ありとして、大永6年丙戊7月13日に香西を屋形に召され、

是非なく生害させなさった。香西の兄・波多野(稙通。秀治の祖父)と同じく弟の柳本(賢治)は遺恨に
思い、阿波国(細川晴元方)と申し合わせて大兵乱を起こした。さて、香西四郎左衛門が生害させられた

由来はどういうことか尋ねると、典厩尹賢(細川尹賢)と香西四郎左衛門は仲が悪く、尹賢は連々と讒言
を申されて香西を亡き者にしようと企てていた。そんな時に香西の家来の物書・矢野宗好という者がいた。

香西は文盲の方で、常に半紙を10枚から20枚宗好に渡して置いて書札を調えていたのだが、折しも
宗好は公事ではないことを取沙汰し仕ったため面目を失い、牢人となった。宗好は諸々の詫言を申したが、

香西はしばらく懲らしめるためにそのままにしていた。その時、尹賢は宗好を頼んで「内々に過分の知行
を遣わすぞ」などと約束して、かの半紙少々の残りを使い、澄元やその他方々へ謀反を企てた作状を調え、

密かに高国へ御目にかけられた。高国は「香西四郎左衛門はそのような者ではあるまい」と不審に思し
召したが、判形がはっきりしている以上は生害させなさると内談された。とはいえども、なおも不審に
思し召したので、直に御尋ねになるとして小姓2人に仰せ付けられ、

「『直に御不審を御尋ねしたきことがあるので、道具(武具)を持ち出して御前へ罷り出てください』
と申して、道具を持ち出したならば召し連れて参るように。もしも香西が何かと申して、道具を持ち
出さなければ、生害させよ」

と命じなさった。両人が仰せの通りに香西に申し聞かせると、香西は是非に及ばず番所で道具を持ち出し、
御使者両人とともに参った。その後、座敷と通路の間で、尹賢が「(高国が)遅いと仰せられておる!」

と申された。これに両人が「すでにこちらへ召し連れて参りました」と申すと、尹賢は両人の耳元に寄り、
「生害が遅いと仰せられておるのだ!」と切り切り申された。

高国は両人に直に御尋ねになると仰せ付けられたので不審に思いながらも、いずれも若い方だったので、
わけもわからずに香西を討ち申されたのであった。尹賢の内存は、このように直に御尋ねになられては
自分の讒言が表れてしまうため、座敷と通路の間に待機して切り切り申されたのである。

高国の御内存は「道具を持ち出さなかったから生害させたのだな」と思し召して、是非に及ばれずに
手前を打ち過ぎたのであった。連々と尹賢が仕られるように御耳に入れたとはいえ、すでに生害した
以上はどうしようもないことである。

天下が破れるということは、すべて人々の讒言によって起こるのである。香西もかの半紙を宗好の方に
残しているとは思いも寄らず、かつこのようなことも文盲故であると世間に聞こえたのである。

――『細川両家記』


高国近江落ち

2018年03月16日 15:59

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 04:26:55.72 ID:l34Vc7iF
このため高国(細川高国)は丹波・山城・摂津国に触れを出しなさり、同年(1519)11月21日、
都を出立され、同12月2日に池田城へ御着きになった。越水城の御詰のために小屋野間九十九町・

高木・河原林・武庫・寺部・水堂・浜田・大島・新田・武庫川の方面に上から下まで陣を取り続けて、
折々合戦なさったのである。年は暮れて永正17年(1520)庚辰になり、1月10日に高国より

諸陣へ触れを出しなさり、2万余騎で打ち出た。諸口では合戦が終日あり、高国方の丹波守護代・内藤
備前守(貞正)は火花を散らして合戦され、切り負けて2百人ほどが討たれて退却した。阿波衆も百人
ほどが討死し、双方手負いは数を知れない。また高国方の摂津国の住人・伊丹兵庫助国扶は中村口へ

攻め掛かり、木戸や逆茂木を切り落として内へ込み入って申の刻から酉の終わりまで合戦し、伊丹衆は
打ち勝って阿波衆の首50余を討ち取り、勝鬨を作って制圧した。また同日に城中より、正門の木戸を
開いて2人の者が「我ら当国大島の住人、雀部与一郎!」「同しく弟の次郎太郎!」と名乗り、

「高国のため、また家のために命は惜しくない! 敵方は誰でも寄り合いなされ!」と、大声で叫ぶと、
澄元方の田井蔵人が名乗り寄せて切り合ったのである。雀部は切り勝って蔵人の首を討ち取ったが、

雀部兄弟も痛手を負って城中へ入り、それから4,5日して死去したのだった。対馬守(瓦林正頼)を
始めとして上下ともに惜しまぬ人はいなかった。城中では月日を送るにつれて気力を失い、

同2月3日の夜半に対馬守は安部の蔵人と談合して、城を開けなさった。この時、若槻伊豆守は老体で
あったため「どこまで」と思い切り、腹を十文字に切って死去した。

これにより後詰勢の衆は地田・伊丹・久々知・長例・尼崎へ引き籠った。そのため澄元方の三好筑前守
之長は難波へ陣取りなさる。他に澄元方は小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取り、同16日に

1万7千余騎で尼崎・長洲へ攻め掛かり合戦となった。大物北の横堤には、高国方の香西与四郎が打ち
出て、三好孫四郎(長則)と渡りあって太刀打ちし、双方名を上げなさった。その日は暮れて雨も降る
ので両方は互いに退いた。このため高国は叶わないと思し召し、城々へ仰せ合わせられて、その夜中に

高国方は一同に京へ上りなさった。このような成り行きは「1月10日は西宮の御狩神事の日である。
“居籠”といって人音もしない日だというのに、攻め掛かけなさった御罰である」と人々は申した。

されば落武者の哀しさよ、高国は京にもいらっしゃらずに近江国へ落ち行きなさった。今度は公方様
(足利義稙)は澄元に一味して京におられた。さて伊丹城の中では伊丹但馬守と野間豊前守の2人が

申して「当城はこの数十年の間、諸侍や土民以下の者たちが苦労して拵えたというのに、その甲斐も
なく逃れては口惜しいことよ。我ら2人はこの城の中で腹を切ろう」と、四方の城戸を閉ざして家々
へ火をかけ、天守で腹を切った。これまた剛なる人かなと感心しない人はいなかったのである。

――『細川両家記』


こうして民部少輔高国と申す人を家督に据え申した

2018年03月06日 10:39

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 05:14:02.98 ID:j8Oj/9Vd
さて澄元(細川澄元)が家督を取りなさって目出度いところに、御内の
三好筑前守之長や高畠与三らはあまりに無道の振舞いなどがあったので、

「この分ではどうしたものか」と内々に呟かれ、京では奈良修理亮元吉、
摂津では伊丹兵庫助元扶、丹波では内藤備前守貞正が相談し謀反を企て、

「安房守典厩政国の子息・高国(細川高国)を主君となし申すべし」と、
永正5年(1508)戊辰4月9日、六郎澄元に背き申したたのである。
突然のことであったため、澄元はすぐに近江甲賀へ落ち行きなさった。

三好筑前守の子息・下総守(長秀)は伊勢国山田へ落ちなさったところ、
国司(北畠材親)より仰せつけられて生害させられ、(その首は)京の
高国へ上らせられたのであった。

こうして細川安房守の御子・民部少輔高国と申す人を家督に据え申した。
殊に筑紫の御所様(足利義稙)は大内左京大夫殿(義興)の御供により
堺津へ御上洛なされたので、事故もなく崇め申された。そんな折に、

摂津国の池田筑後守(貞正)は澄元方として自城に立て籠ったのである。
高国は聞こし召されて「それならば退治せよ」と仰せになり、

同5月初めの頃、高国方の典厩尹賢を大将にして猛勢が押し寄せると、
筑後守は物の数ともせず戦ったが、同名遠江守が高国へと参られたので、
攻め手はこれに意気込んで、5月10日に堀を埋めさせ厳しく攻めると、

城中より思い思いに切り出て、同名諸衆20余人は腹を切り、雑兵70
余人が討死したのである。「国中に同心する者もいないのに、かように
振舞ったことよ。大剛の者かな」と、感心しない人はいなかった。

――『細川両家記』



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 01:56:03.74 ID:n9jSo1KL
戦国初期も初期

島村蟹

2012年07月15日 20:45

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:43:39.02 ID:dHBxf5HS
島村蟹

享禄4年、細川高国浦上村宗と、細川晴元三好元長赤松政村(晴政)の間で合戦の火蓋が切られようとしていた。
そして、6月4日、三好方の諸勢が、打出、天王寺、木津、今宮に攻めかかった。
大物(だいもつ)崩れの戦いである。

細川高国はここを先途と防戦したが、その先鋒を務める浦上勢は小勢であったために敗れ、浦上村宗は討ち死にしてしまった。
村宗の臣・島村弾正(貴則)はこの事態に「無念なり!」と叫んで敵を引っつかみ、野里川の淵に飛び込んで死んでいった。

この時以来、彼が死んだ淵では甲羅に武者の顔のあるカニが見られるようになり、今に至っている。
周辺に住む者は、このカニのことを「島村蟹」と呼んでいる。
(足利季世記)

島村蟹とは、標準和名「ヘイケガニ」のことである。
遠浅の干潟でも見られるというこのカニは、そのインパクト抜群の姿のために様々な地方名を持っている。
江戸時代後期の『本草綱目啓蒙』という書物には、島村蟹の他にも、長田蟹(元ネタは「主をきり婿をころすは身のおはり むかしはおさだ今は山しろ」の長田忠致)、
清経蟹(平清経)、武文蟹(太平記の登場人物・秦武文)、治部少輔蟹(石田かどうかは不明)というようなものが挙げられている。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:44:54.44 ID:dHBxf5HS
ちなみに、「標準和名」に歴史上の人物の名を冠する動物には、
例えば、昆虫では、ジョウカイボン(浄海坊=平清盛。火傷のような炎症を起こす別種の有毒昆虫と混同され命名されたらしい)

トウゴウヤブカ、トウゴウカワゲラ(東郷平八郎)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)、オオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)
(外人の研究者が名付けた「学名」を「和名」に反映させている)

魚類では、キントキダイ(坂田金時)、クマガイウオ、アツモリウオ
(それぞれの体色に由来)

シュンカンハゼ(俊寛僧都)、タメトモハゼ(鎮西八郎為朝)、ベンケイハゼ
(それぞれの標本の産地(薩摩硫黄島の対岸、運天港の近く、田辺湾)+容姿に由来するらしい)
等があるようです。

戦国時代の人物にちなんだ標準和名の動物とか、いかにもありそうな気がするけど・・・

タメトモハゼ「魚類に限って言えば、小耳に挟んだことも無い!」

まあ、変化球でアカハチハゼ(石垣島の豪族・オヤケアカハチ)とか、
伊達者という言葉に由来するという、お洒落な縞模様のダテハゼなんてのがあったりしますが。




516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:48:23.09 ID:poa2keyK
ハタハタ「サタケウオ・・・」
サナダ虫「・・・」

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:49:17.96 ID:poa2keyK
あ、標準和名の魚か失敬した

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 22:13:24.40 ID:dHBxf5HS
そうだ、サナダムシがあったね。
魚類くらいしか把握できてないもので、完全に忘れてた。

サナダムシ

形状が真田紐に似ていることからその名が付いた。
また、一説では徳川家康がサナダムシに苦しんでいた事から
「真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる」と嘆いた事から家康が名付け親と言われる事もある。

あと、地方名なら戦国の人名由来のものは色々ありそうですね。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 23:26:49.08 ID:KkSrYP1x
>>514
話の本筋からは離れるけど、
いわゆる「大物崩れ」って戦の範囲がえらく広範囲に及んでるんだけど、
これってどう解釈したらいいのかな?

細川浦上連合軍が西宮の神呪寺に布陣してた赤松勢に
背後から襲われて総崩れになったことになってるんだけど、
天王寺や今宮のあたりから大物まで延々と布陣してたなんて考えづらいし・・・


520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 00:17:39.65 ID:PKmFApoL
>>519
『後鑑』収録分を使ったので前後の文章が分からないけど、
ただ単に『足利季世記』作者の誤解または故意で、数ヶ月にわたる一連の戦いを
一日のものとして描いてるだけじゃないのかな?

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 06:08:15.45 ID:73R7Butz
>>514
    (~)
  γ´⌒`ヽ
   {i:i:i:i:i:i:i:i:}
  ( ´・ω・)  
  (V)    (V)
    し─J


522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 10:03:56.86 ID:jLTHAmro
蛍なんかゲンジボタル・ヘイケボタルだな。

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 11:31:50.35 ID:JUJOLVZM
しまむらガニワロタw

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 20:08:41.44 ID:zifDkflF
>>515
あんま関係ないけど、スカシカシパンとかのカシパン類って昔は「桔梗貝」って呼ばれてたそうだが
明治の学者が菓子パンからカシパン類なんて権現様のようなネーミングをしたせいで今に至るという・・・

「ほのぼのと・・・」の歌の逸話、細川高国バージョン

2012年07月07日 21:08

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/06(金) 22:53:38.18 ID:qL2Lr2Gk
「ほのぼのと・・・」の歌の逸話、細川高国バージョン

大物崩れの戦で敗死した細川高国は、弓馬の礼法を糺し、何事も絶えたるものを復興し、
廃れたる道を尋ね聞き、和歌の奥義も知っているという人物であった。
そのため、公家も武家も皆、その死を惜しんだ。

また彼は、慈悲深く、感受性豊かな人物で、身分の上下にこだわらず才能を賞玩することが多かった。

この前、高国が播州へ落ちていた時、明石の人丸塚について尋ねたことがあったのだが、ある土民が承って
「ほのぼのと明石の浦の朝霧と詠めし人はこの塚の中」
と言うのを聞くや、「才覚あり!」として、白鞘巻の太刀を与えている。

土民は「忝し」と言って、恩に報いるため一族を数多引き連れて供を務め、今度の戦で討ち死にしたのだという。
(足利季世記)





お風呂に入ろう!

2010年11月06日 00:01

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 18:18:40 ID:sRvqs+Oc
お風呂に入ろう!

戦国時代、風呂は今でいうサウナであったという。
そして京などには、風呂屋の存在なども確認されるものの、一般の家屋に置いては、
たとえ上流階級であっても必ず置かれる、という設備ではなかった。
そんな中風呂を焚くということは、人々を招いて行う寄り合いの場を設けることであり、
ちょっとしたベントでもあった。

その様子を、摂関家筆頭であり、当時太政大臣であった近衛尚通の日記
『後法興院生記』永正17年(1520)閏6月9日条より見てみよう


『細川尹賢(細川典厩家当主、摂津国分郡守護)が我が家の風呂を借りて焚いた。
これに京兆(細川高国)や細川高基(和泉半国守護)が入った。

その後食事など出し、細川家の面々は近衛尚通と対面し雑談、酒が出て盃を交わしていた所に
宝鏡寺、正受寺、継考院、久我女中(久我通言妻)、久我親子(久我通言・邦通)、
大徳寺女中(徳大寺実淳妻)、北政所(近衛尚通妻)、亜相(近衛稙家)なども現れ
相伴した。』


公家の当主だけではなく妻たちも集まり、賑やかな様子がよく見て取れるだろう。
この頃の風呂は上流階級の人々の社交上であったことがよくわかる記録である。、
やがて江戸期になるとこの感覚が、庶民にまで共有され、風呂屋が都市の多くの人々の
社交の場になったということであろうか。

そんな、戦国時代のお風呂のおはなし。




161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 21:06:58 ID:HRHQbqfN
サウナか。いくら香を焚きしめても体臭いだろうな…。

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 21:50:09 ID:az8OKsvT
温泉って贅沢だったんだね
今でもまあ贅沢だけど

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 21:59:44 ID:BnolOS9G
温泉はあるところにはあるけど今と違って移動が果てしなく大変だからな
あとサウナといってもミストサウナが主流だったって聞いたような覚えがある

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 07:52:46 ID:JXdQMnCt
>>164
中国地方のあっちこっちに岩風呂ってのがある。
洞窟の中ででかい焚き火をして鎮火したら、水をまいてその上にゴザを引いて、みんなで着衣のままで洞窟に入る。
数百年前から伝わってるんだが、途絶えてしまって、最近地域で復活させたのとかもある。

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 11:24:52 ID:ds0xpDG1
>>174
それ、酸欠になりそうなんだが、大丈夫なのか?

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 21:05:08 ID:KZzJZvcw
>>175
そんな深い穴じゃないよ。
せいぜい10人ぐらい入るといっぱいになる規模

これはちょっと大規模かつ建築物を使ってる例
http://bunkazai.ysn21.jp/general/summary/genmain.asp?mid=50004&cdrom=

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 21:25:50 ID:zfS8oD4y
>174
小説の「一夢庵風流記」での蒸し風呂エピソードがそのタイプだね。
洞窟の代わりに巨大なかまどを作って中で火を焚く方式。
八瀬の釜風呂の法、とか言ってたっけか。

大物崩れの細川高国・悪い話

2008年11月17日 00:05

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/16(日) 04:09:47 ID:1s7Ofo79
桂川原の戦いで敗れた管領・細川高国。
この恨み晴らさんとあちこちに助力を求めていたが、
遂に備前の浦上村宗が手を貸してくれることになった。

播磨を荒らした細川・浦上連合軍は、満を持して摂津に侵入。
京を占拠するなど、その破竹の勢いに、堺公方を擁する細川晴元軍も苦戦を強いられたが、
三好元長の奮戦、赤松政祐の奇襲もあって、連合軍は野里川が死体で埋まるほどの大敗を喫する。
これが世に言う「大物(おおもつ)崩れ」である。

頼りの村宗は討ち死にし、味方の兵という兵が播磨を目指して散り散りに逃げ出したため、
高国は戦場にひとり取り残されてしまった。
もちろん彼も逃げようとしたのだが、最寄りの大物城には敵の手が回っており、
町の辻辻には赤松方の兵が立っている。文字通り蟻一匹這い出る隙間もない。
いよいよせっぱ詰まった高国は、京屋という藍染屋に逃げ込み、
店内にあった大きな壺をひっくり返してその中に隠れた。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/16(日) 04:26:31 ID:1s7Ofo79
さて一方の三好軍。敵の大将(高国)の行方を捜すが一向に見つからない。
これはひょっとすると逃がしてしまったかと地団駄を踏んでいると、
三好一秀なる将が「私にお任せください」と名乗りを挙げた。

一秀、まず市でまくわ瓜(メロンのような果実、当時の高級デザート)を買い求めると、
近所で遊んでいた子どもたちを集めてこう言った。
「よい子のみんな! ちょっとおじさんを助けてくれないかな?
 今かくれんぼをしているんだけど、ひとりなかなか見つからなくて困っているんだ。
 もし見つけてくれたら、この美味しい瓜をあげるよ」

子どもたちは勇んで駆け出していき、なんなく高国を見つけてしまった。

子ども「あ、おじさんみーっけ!」
高国「!」
一秀「おやおや高国はんそんなところで何してはるんでっかwwww」

子どもたちはごほうびの瓜をもらい、高国は広徳寺に連行されて自害させられたとさ。