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須賀川の城落つる事

2016年09月08日 17:36

阿南姫   
63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 08:59:52.56 ID:Zv8WSUbD
須賀川の城落つる事


二階堂盛義の正室大乗院(一般には阿南姫と呼ばれる)は夫の盛義と次男の行親が相次いで
没したため、天正10年(1582年)から須賀川城主となっていた。
阿南姫は伊達晴宗の長女で政宗から見れば伯母にあたる人物だが
蘆名盛隆(実は蘆名氏に養子に入った阿南姫の長男)とその子が没したときに
伊達側が政宗の弟小次郎を養子に送り込もうと画策し失敗したことが
禍根となり伊達家とは絶縁状態であった。

天正17(1589)年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした後
親蘆名だった二階堂家の須賀川城にも数日中に攻め寄せる風聞が立った。

評定の席で家臣たちが阿南に
「伯母なのだからきっと悪いようにはしない(命は助けてくれる)でしょう」
と降伏をすすめると阿南は
「いや、そうではない。はかない女の身ながら一途に思い入れていることがある。
我が身が盛義と離れてから九年になるが、思うようにならず暮らしていたところを
田村清顕が浅ましくも小倉・松ヶ鳥屋に押し寄せてきて河東の郷を奪い取ろうとし
防戦したとは言え関河内まで難なく清顕が入ってきたとき、嬉しいことに
佐竹義重が大軍を後詰めに出してくれたため清顕を追い返すことが出来たのだ。
松ヶ鳥屋のあたりを今まで無事に領しているのはひとえに義重のおかげである」
「我が身を安々と政宗が手中に収めてしまえば、仙道筋の諸将であの者に逆らおうと
する者はいなくなるだろう。そうなれば横柄な政宗は上見ぬ鷲の挙動してすぐにも
義重に仇をなすだろう。我が身だけはせめて一日でも歯向かい義重の恩に報いたいのだ」
と訴えた後、重恩の郎党共を召し寄せて
「風聞通りなら間もなく政宗が大軍で押し寄せてくるだろう。そうなれば多勢に無勢の習いで
安々とこの城は落ち甲斐なく討たれることは必定だろう。また命を惜しみいずこへ落ち延びたところで
草葉を分けて探しだされ妻や子どもにさらに憂き目を見せるだけになるのではないか。
ここはそれぞれ思うように降り政宗に奉公してほしい。少しも恨むことはない」
「我が身は女ながらも思うことがあるので、一人でもこの城でこらえて政宗が寄せてくるのを
待って自害する。冥途まで一緒にと思う者は伴をせよ。そうでない者は暇を得させよう」
と目を涙でいっぱいにして訴えたので、そこにいた家臣たちも袂を顔に押し当ててしばらく
涙に咽んでいたが、少しあってから
「そこまで思い定めなさっているのに、誰が恩を忘れ見捨てることがあるでしょうか。
たとえどのようなことになってもまず私達が討死してからの御身のことだと思って下さい」
と頼もしげに言ったので、阿南もとても嬉しそうにしていた。

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 09:00:44.01 ID:Zv8WSUbD
しかし政宗が侵攻してくるという沙汰が頻繁になってくるといつしか家臣同士も不和となり
早くも降る人間も出始め、重臣の守屋筑後守も伊達側と裏切りの密約を交わした。
侵攻してきた政宗は、敵側の死狂いに味方が駆り立てられ死傷者が増えるので攻めあぐねていたが
そこで守屋が自分の指物を抜いて部下に合図し長祿寺という禅寺の便所に火を付けさせたところ
西風が激しく吹き城中の役所に燃え移り四方に焔を吹いて軒を連ねた舘共々、炎上した。

阿南はこの成り行きを見て守屋の謀反を悟り、城中にいた守屋の妻を呼んで
「守屋め、譜代重恩の身を忘れこのようなことをするとは情けない」
と言ってさめざめと泣いたので、守屋の妻は応えて
「まことお恨みの程、愚かな我が身にもこれ以上はないと思います。この上は
御胸を晴らす為に某をどのようにでもしてください、露ほども恨みはしません」
と涙ながらに言ったので、腹をすえかねた阿南が襟を掴み刺し殺そうとすると
流石に女の儚さでそばにいた女房が袂に取り付いて妨げたので、阿南は小刀で
自害しようとし、大勢でとどめることになった。

その後政宗の元から迎えの人間が十四、五人来たので女房八人侍九人が阿南に付き添って
炎の中から泣く泣く出てきたことは、哀れといえるだろう。

――『会津四家合考』

その後阿南は政宗によって保護されたが伊達側が用意した食事には手を付けず、政宗のことを嫌って
甥の岩城常隆を頼ったが常隆が亡くなると、さらに甥の佐竹義宣の下に身を寄せた。
慶長7(1602)年佐竹家の転封に伴い出羽国に赴く途中、須賀川付近で病を得て亡くなったという。



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 14:06:48.26 ID:jEld/eEc
>>63-64
嫌になるぐらいリアルだ…現実は小説や映画のようにかっこよくはいかないなぁ…。

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須賀川城を手に入れるために

2014年11月15日 18:51

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 22:17:51.81 ID:gPyrjXAv
須賀川城と言えば二階堂氏の居城である。
二階堂氏の系図は数種類あり詳しい実態は不明である。

中興の祖とも言われる二階堂為氏は1443年に父・行続の死(1459年とも)でわずか12歳(13歳とも)で家督を継ぐ。
若年の為氏を嘲笑いやりたい放題していた家臣がいた。
一族の二階堂治部大輔であった。

そこで為氏は翌年(1444年)に岩瀬郡に下向して統治することを決意する。
しかしそこを邪魔したのが二階堂治部大輔であった。

為氏は近隣の城主の須田美濃守秀一(須田盛秀の先祖)に助けを求めた。
その後、為氏は須田美濃守の助力を得て治部大輔と戦うも和睦を結んだ。

和睦の内容は『為氏と治部大輔の娘・三千代姫の婚姻ならびに3年後の須賀川城の返還』であった。
三千代姫は当時12歳でありながら奥州でも屈指の美女で評判であり、頭脳明晰でもあった。
若き為氏が三千代姫に惚れたのは言うまでもない。

2人はラブラブイチャイチャでとても仲は良かったのだが、肝心の3年が経過しても治部大輔は須賀川城を返還しなかった。
そこで須田美濃守らは治部大輔にも為氏にもブチギレ、為氏と三千代姫を離縁してしまい、三千代姫を治部大輔のもとに送り返そうとした。

それに激怒したのが治部大輔であった。
三千代姫を乗せた輿がある和田軍一行に襲い掛かり、和田軍は三千代姫を置いて去ってしまった。
捨て置かれてしまった三千代姫はわずか15歳の若さで自害して果ててしまった。

三千代姫の死でひどい落胆を受ける為氏だったが、須田らの激励で元気を取り戻して翌年に治部大輔を討ち、須賀川城入城に成功した。

しかし、その後為氏は三千代姫の霊に悩まされ心身病弱となり、これが遠因となったのか1464年に亡くなってしまった。

なお、為氏の子・行光は三千代姫との間に出来た子らしい………。(年代的にその可能性は大いにあるとか)

(藤葉栄衰記、福島県の歴史などから)

須賀川城を手に入れるために結果的に色々と失った悪い話

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 22:29:34.79 ID:gPyrjXAv
二階堂為氏1432?-1464
二階堂行光?-?(為氏子、1484年以前死亡?)
二階堂行詮?-1495/1497/1500(行光子)
二階堂行景?-1504(行詮長男)
二階堂晴行?-1537/1542(行詮次男)
二階堂輝行?-1564(晴行子)
二階堂盛義1544?-1581
蘆名盛隆1561-1584




787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 01:30:32.18 ID:K/26ccRy
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788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 08:29:22.28 ID:9OBAvpn6
15才で既に…
為行が羨ましいぞ

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:05:23.47 ID:TShARMZU
>>786
二階堂行光は1477年没

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:29:07.54 ID:TShARMZU
当主が短命ばかりの二階堂さん家

>>786で行光の没年がわかっていたことを見落としていた(>>821で確認済)
ごらんのように生年は不詳でも小早川氏ほどではないが、短命続きなのが推測できるであろう。
ま、一部そこそこ生きた人もいるが。(晴行と輝行)
だが、短命ばかりでは折角の勢力拡大・回復もパーだ。
生年が?のところは各自予測をたてるのもよいだろう。


二階堂為氏1432?-1464
二階堂行光?-1477(為氏子)
二階堂行詮?-1495/1497/1500(行光子)
二階堂行景?-1504(行詮長男)
二階堂晴行?-1537/1542(行詮次男)
二階堂輝行?-1564(晴行子)
二階堂盛義1544?-1581
蘆名盛隆1561-1584
蘆名亀王丸1584-1586
二階堂行親1570-1582/1585(盛義次男)
二階堂行栄1581-?(盛義三男or四男、当主形跡なし)