道可公恩自書之写

2016年10月22日 17:17

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 20:16:13.55 ID:rAcw/9qK
道可公、朝鮮へ御潜行 并商估板屋某所伝道可公恩自書之写

 法印殿(松浦 鎮信)が朝鮮国の軍に従った、七年間の武功は人が皆知るところである。
その七年、道可殿(松浦隆信)は領地に静かに留まられて、
兵具糧食の事をうまく処理なされていたので欠けることが無かった
という話は世人で知る者はいない。
漢の蕭何は治平の後、第一の功で?(サ)侯に封ぜられたというが、
まことに我が家では道可殿を以って比べることできよう。

 この頃、平戸の者の話で、
平戸の商人の板屋某の所伝に道可殿の御自筆があり、
その旨は
『朝鮮国に永く御陣しているので、法印公の御具足が損じている。
よって威を換えるべきだと思われるが、それには金子が御入用であるので借用を申し上げたい。』
との御文であったという。
この文からも、道可殿の仕事の有様と、道可公が遠所で労苦されている様を察することができる。
当時の状を見るがようだ。

 また今先手の鉄砲を預け置いてる頭の山本某の家は、
宇喜多家がまだ貴くなかったときに辞めて浪人して後
道可殿に随い、朝鮮攻めの時でも仕えていた者が先祖である。
今も言い伝わっているものに、
そのころの文と思われる絖(ぬめ、絹の一種)のような絹を引き裂いたものに文を書いたものがある。
その文には

『大御所様にも、御滞りなく今日釜山浦へ御着き遊ばれ、恐悦申し候。
只今御船帰り候故、この旨申進候。』

という趣旨が書いてある。思うに従行した者が遺し置いた家人へ贈る文で、慌しいときにこのようなものを認めたのであろう。
〔軍に赴かれたのは、法印殿なのは論をまたない。
御子肥州殿(松浦久信)も従い行かれたので、大御所と申す者は道可殿でなくて誰であろうか。〕

 しかし道可殿の朝鮮の軍に赴かれたのは、よその人はもとよりわからないとして、
わが邦の人もかつて知る者がいない。ならばこの文を見るに、秘かに渡海があったことを知れる。
ならば戦功のためではなく、完全に軍糧と兵具等の点検のため、潜行して行かれたのであろう。
豊臣公といえども知らないのももっともである。

〔聞く。この絖書の文、今は無くしたと。
その理由は、一旦山本の家が嗣絶し、婦女子ばかりいたとき、
持仏堂の下に大切な旧物を置くべしと、祖先の訓戒があり
婦女のことゆえ戒めは固く守ったが、皆朽腐して今はその痕さえないという。
今の砲頭は義子であるという。〕

(甲子夜話三篇)

日本の蕭何、松浦隆信!



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