FC2ブログ

島津義久と笑った小姓

2010年07月16日 00:00

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 21:05:00 ID:cXzmJR4w
島津氏が日向伊東氏と睨み合っていたころ、飯野城を守る島津義弘から島津義久のもとに使者が送られて来た。

だがこの使者、よほど貧乏だったのか、それとも礼儀のレの字も心得ぬほど田舎者だったのか、主君の命で
薩隅両州の太守の前に出るのに、夏だからとて十徳一枚羽織った下は素肌に褌のみという、ヒドイ姿でやって来た。

義久の前で正座をして、緩んだ褌からイロイロ見えている状態で、使者は汗をかきながら口上を述べた。
そのうち汗の臭いに引き寄せられたか、ハエが飛んできて、使者の緩んだ褌の中に飛び込んだ。
「あフんっ…」
尻の間にハエが挟まった使者は、こらえかねて尻をモジモジ動かし、見ていた義久の小姓も、こらえかねて吹き出した。


会見が終わった後、義久は近臣の平田増宗を呼んだ。
「義弘からの、大事を伝える使者が口上を述べている最中、笑っておった小姓がおる。腹を切らせよ!」

「……という訳で義久様がお怒りゆえ、切腹いたせ。しかし、何故そんな大事な時に笑ったりしたのだ?」
「はい、実は……」
  ;`;:゛;`(;゚;ж;゚; )ブフォオオオ

「そ、そんなのガマンできるの、義久様だけですって!wwwww」
「そうか?」

増宗の反論(?)により、小姓は切腹を免れた。




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 21:33:00 ID:b8EtyZcM
笑ってはいけない島津家

島津さんちの二人の家老

2010年07月04日 00:00

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 00:05:52 ID:QROy70II
島津さんちの二人の家老(1/2)

九州の役の後、新納忠元と伊集院忠棟は京都に滞在していた。別に二人が望んだわけではない。
太閤秀吉が島津家の人質として二人を指名した結果である。

二人とも島津家の家老であったが京での待遇は雲泥の差があった。
忠元が島津家の屋敷に間借りして起居していたのに対し、忠棟は京都に自分の屋敷を構えていた。
秀吉から直々に知行を頂いている故の特権である。
この屋敷は島津家のものよりも大きく豪壮で、おまけに島津家の屋敷を見下ろす
高台に立てられていたことから忠恒の不興を買ったといわれているがそれはまた後の話。

忠元が所用を終えて屋敷に戻ってくると、それを見計らったようなタイミングで若い男が訪ねてきた。
男の名は山口金平。俊足で知られたこの男は、薩摩から義久の書状を持ってきたのだという。

他ならぬ主君からの書状、押し戴いて読んでみると何のことはない、時候の挨拶に日常の出来事が
書き連ねてあるだけだった。
「はて…?」
九州征伐の後処理で多忙を極めるはずの義久がこんな書状を態々送るであろうか。
義久を知ること忠元以上の者はいない。

不審に思った忠元は金平にたずねた。
この書状を預かったとき、義久は何と言っていたか確認したのである。

金平「はっ、大事な書状であるゆえ、京に入った後は一目散にご家老様の下へ向かうよう仰せつかりました」
忠元「ではその方、殿の仰せを守って誰にも会わずここへ来たのだな?」
金平「はい、誰にも会わずこれへ参りました」
忠元「相違あるまいな?」
金平「はっ、相違ございません」


671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 00:09:10 ID:QROy70II
島津さんちの二人の家老(2/2)

不審は確信に変わった。一目散に屋敷に来たという金平だが服には埃も付いておらず、その身は汗一つかいていない。
忠元は同じセリフを繰り返した。ただし声は低く、目つきは鋭く。
「…相違あるまいな?」

宿老の一睨みに駆け出しの若造が太刀打ちできるはずもない。金平はすぐに泥を吐いた。
金平「じ…じつはここに来る前に幸侃様(伊集院忠棟)のお屋敷でおもてなしを受けまして…」
忠元「な!?よりにもよって…!」

京で伊集院家の者に見つかった金平は、そのまま忠棟の歓待を受けたのだ。
「まあいいか…忠棟様だってうちのご家老なんだし。」
義久の書状を持っていることを知るや忠棟は金平に強引に酒と風呂を進め、
金平は誘われるがままに屋敷に長居していたのだという。

それで先ほどの書状も合点が行った。
忠元宛の書状に不審を抱いた忠棟が、金平が風呂に入ってる間にすり替えたのであろう。
義久が一体どんな書状を送ったのか忠元には見当も付かない。
かといって忠棟の屋敷に怒鳴り込んで書状を奪い返すなど言語道断である。
秀吉のお膝元で家老同士が争っては主家にどんな災いがかかるか分からない。
結局のところ、金平を薩摩に帰して義久に確認するしか手だてはなかった。

念のために屋敷の廻りを探らせてみると伊集院の屋敷のものがうろついているとの事である。
おそらくはの帰路に着いた金平を暗殺するつもりであろう。
そこで忠元は機転を利かせた。
屋敷の者に金平の服を着せて出掛けさせて囮とし、その隙に金平を薩摩に返したのである。

だが、この機転も金平の寿命をほんの少し延ばしたに過ぎなかった。
義久は金平の失態を許さず首を刎ねたのである。

義久が忠元に宛てた書状には一体何が書かれていたのか。それは薩摩の石高に関してであった。
「我が薩摩は太閤検地を控えているが、その前に石高を多めに自己申告して豊臣政権での発言権を強化すべきか。
 それとも少なめに申告して賦役を減らすべきか」
京の事情に精通した忠元の意見を義久は聞きたかったのである。
だが書状を送りなおしているような余裕は既にない。結局のところ京の事情を知らないまま島津家は
「薩摩の石高は60万」と申告してしまう。
これは砂浜まで田圃とみなした明らかな過剰申告である。
薩摩はこれを元に55万石が確定し、実際の石高に見合わぬ過剰な賦役に苦しむことになる。

役目をおろそかにして命を失った山口金平。
猜疑心から主家を苦境に追いやった伊集院忠棟。
正直に石高を申告しなかったばかりに過剰な負担を強いる破目になった島津義久。

三者三様に悪いお話。




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 00:24:51 ID:fZ5mdo7n
うわ…これは悪いことが重なったな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 02:50:50 ID:/7Wp0fKb
>>656
幕末の「ええじゃないか」とよく似てるなぁ

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 07:42:41 ID:p/W8OHeW
薩摩って60万石でも過大だったのか。
江戸期の77万石がどんだけ無茶な数字だったのかよく分かる。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 08:14:53 ID:KlIu4dQg
>>674
江戸期は薩摩北部と佐土原と沖縄を足しているから
安土桃山期と同じ

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 12:20:34 ID:jr5l4zso
>>675
琉球経由の密貿易で稼いでたんだよね?

日向鷹ちょうだい!

2010年06月21日 00:00

516 名前:sage[] 投稿日:2010/06/20(日) 19:29:35 ID:xfwzNIqy
ソースは旧記雑録

「日向鷹ちょうだい!」1/2

天正7年、とある仲介者を通して織田信長から島津義久へ「日向鷹献上を促す」手紙が来た
スルーしていたら今度は雅の友、細川幽斎から義久へ手紙が届く
幽斎の手紙↓
「足利義昭様が日向鷹を所望するという書状と義昭様からの小袖を送ります。
名誉なことですからお引き受けして下さい」
信長に贈ってないのに義昭に贈ったらフラグが立つだろう。スルーしてたら
先のとある仲介者から「日向鷹を信長に献上せよ」と催促が来るが義久またもスルー
義久がスルーするのは訳があった
日向鷹にことよせて、信長は大友と島津の和睦を要求していたのだ
鷹を献上したら和睦の話を承諾することになる。

無視し続けたらシビレを切らしたのか翌年の天正8年、信長から仲介無しで直接手紙が来た
信長の手紙↓
「大友との争いをやめる事、本願寺が石山を出て紀伊に入った事、毛利成敗のため大友と協力し天下のために大忠を尽くすこと!」
さらにスルーの義久に翌月も信長は大友との和睦を勧告
義久は諸情勢を考え不承不承引き受け、その証としてかねてより催促されていた日向鷹を信長へ献上した


517 名前:sage[] 投稿日:2010/06/20(日) 19:45:14 ID:xfwzNIqy
「日向鷹ちょうだい!」2/2

さて、前置きが長くなったが言いたかったのは「とある仲介者」のことだ
本スレの方々なら薄々察しはついているだろう

とある仲介者とは島津義久に古今伝授をした人物であり、信長とは鷹狩り猟友会仲間
関白、近衛前久だ
近衛は古今伝授で薩摩に下向した時も犬追物見学パーティなど豪華接待を受けている
その前久、信長へ日向鷹献上の催促をするときに便乗

近衛「信長に献上するときには麿にも頂戴!」と言ってた
こんな仲介者では余計話が拗れるんじゃ無いだろうか
近衛の要求は信長とともにスルーされた
そして途中からは近衛の頭越しで交渉は進み結局、日向鷹は信長に献上された

日向鷹が手に入るという話を信長本人が自慢でもしたのか
相変わらず耳聡い近衛は、鷹情報をキャッチすると再び今度は個人的に義久へ手紙を書く

近衛「信長に鷹を贈ったんだって?麿にもちょうだいね!」
たぶん義久は気分を害したのだろう日向鷹が近衛に贈られることは無かった

以上、日向鷹を巡る信長と義久の政治的やりとりと近衛さんがワガママな話




519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 22:30:11 ID:lpF0lWJY
純粋に高度な政治の問題なのに遊び気分だな、前久

日本のうた三代・島津義久

2010年04月27日 00:03

563 名前:日本のうた三代(二)[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:28:01 ID:k5rcCOPo
天正15年(1582)、島津義久は豊臣秀吉に降伏し、人質として娘・亀寿を差し出した。
翌年、義久は上洛して秀吉に謁見し、薩摩に帰らんとする際、取次役の細川幽斎に手紙を託した。
「これを、娘に渡してくだされ・・・」手紙には、義久の詠んだ歌が書かれていた。


二た世とは 契らぬものを 親と子の 別れむ袖の あはれをも知れ


幽斎は、この歌を秀吉にも見せた。
子を想う親の歌は独裁者の心をも動かし、亀寿は解放されたという。




566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:37:36 ID:6SGBSgU4
>>563
後年、義久は幽斎から古今伝授受けているね。

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:44:39 ID:1Q0VTd6f
>>563
>天正15年(1582)

1587年ではないかと。

570 名前:558[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 00:08:15 ID:TxL+O1Qb

>>563
子を思う親の気持ちはいつでも一緒なんだな
義久って亀寿を結構可愛がっていたんだっけか

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 09:33:41 ID:hC827Vq+
それがあんな目に合わされたと思うとやるせないな・・・・・・・

釣野伏せの囮にについて

2009年09月19日 00:16

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 04:55:23 ID:WKPvMKqs
>>528に忠恒が釣り野伏せを仕掛けました




531 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/18(金) 09:28:53 ID:Q6ZC3z9y
釣野伏せが発令されたから

釣野伏せの成功は囮部隊如何なのは周知だが、
当の囮部隊は自分達が囮だとは知らされてなかった事が多かったらしい。
高城川の戦いでも、囮だとは知らされずに先鋒を務めた北郷久盛、本田親治らが討死している。
森家もブラック会社だが島津家も相当ブラック会社かも
君は生き延びることができるか?





533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 09:45:25 ID:9RlZ1bXi
>>531
自分たちが捨て石だと承知した上で討ち死にするのと、何も知らないまま精一杯戦って斃れるのと
心情的にどっちがマシなんだろうな…うーむ




536 名前:531[] 投稿日:2009/09/18(金) 10:14:23 ID:Q6ZC3z9y
肝心なこと書き忘れた
囮と知らせなかったのは、知らずに戦わせた方が必死に戦うし敗退するのも
リアルに見えるからだそうだ
囮と知らせると戦いに身が入らず敵に囮とバレる可能性があるんだと
劇団シーマンヅの劇風はストイック過ぎる




537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 10:24:40 ID:6r8LX7xI
知らされるのは大抵、部隊長とその側近くらいでしょ

いつだったか忘れたけど、囮をつかって誘い込むはずが、相手方に寝返った武将に
負けた負けたと叫けばれて、なんにもしないうちに味方が壊走してしまった中華皇帝がいたような

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 11:41:52 ID:2Jrd6r8z
捨てがまりなんて恐ろしい戦法がある島津家だから囮で死ぬなんて屁にも思ってないんじゃないか?

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 12:41:44 ID:dCsn+FGw
薩摩は西南戦争のときも、作戦遂行の為の人的な被害なんて屁とも思ってないようなところがあるな。

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 12:48:41 ID:XNTsh23g
戦闘民族サツマ人にとって戦で死ぬことは名誉だからな

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 14:24:36 ID:6UTCB2EJ
>>538>>540
戦闘で仲間を見捨てて逃げたヤツは制裁加えられるんじゃねえの
幕末の樺山資紀の逸話みたいに

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 14:28:02 ID:CqeMPV+d
>>537
シ肥水の戦いだろ

前秦vs東晋

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 14:34:26 ID:bN3Fuz3d
>>540
超サツマ人になられるとやっかいですね・・・

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 23:01:23 ID:Z9D3b8Aq
>>540
なにそのクリンゴン


島津義久、家康に武勇伝をせがまれ

2009年06月28日 00:13

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:19:24 ID:WdVH1eIO
島津義久が伏見城に招かれた時の事。
家康に武勇伝を聞かせて欲しいとせがまれた義久は
「弟達や家臣が頑張っただけで自分の手柄と呼べるようなものは無い」と謙遜した。

既出の話題(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1094.html)だが
薩藩旧伝集だと、纏めサイトの話と若干状況が異なる。

慶長3年(1598)11月、徳川家康は京・伏見の自邸に島津義久を招いた。
招かれたのは義久だけでなく、本多や榊原、藤堂に井伊と言った面々も居た。
家康曰く、
「ここに居るのは皆、若年の頃から戦場を駆けて功をなした者達。
 それぞれの武勇伝をぜひとも聞きたいものだ。」とのことなので、
諸将はこぞって、年長の義久に
「龍伯殿ならば大友や竜造寺を相手にした武勇伝もおありでしょう、先ず最初にお話なさいませ」
と勧めた。だが義久は
「いやいや、自分にたいした手柄は御座らん。皆様方から先にお話下され。」
と辞退した。そこで井伊や藤堂等が自分達の手柄話を得々と述べ始めた。

諸将の武勇伝を一通り聞き終えて満足した家康だが、義久が辞退したことを
まだ忘れてはいなかった。
「ささ、今度こそ龍伯殿の武勇伝を!」
家康のみならず諸将もこぞって求めてくるので義久もやむなく口を開いた。

「手前は大友や竜造寺、伊東を相手にした合戦はあくまでも名目上の総大将として
 出陣しただけで御座います。戦に関しては弟の義弘や歳久、一族の忠長や征久、
 家臣の新納や山田を派遣して勝利を得ただけのこと。自身の働きなど何もございません。」

これを聞いた家康は
「自ら手を砕かず家臣への下知だけで勝利を得てこそ真の名将。
 いやいや、龍伯殿の名将ぶりは鎌倉の右大将(頼朝)にも引けをとるまい!」
と激賞したため、先に手柄話をした面々は大いに反省し、
この後の武功話は取りやめになったと言う。

義久が徳川の諸将の面目を潰した悪い話…というのは穿ち過ぎかもしれないけど
陣頭の猛将タイプの人達の中に、義久がポツンと混じってる状況と言うのも
義久には可哀想な気がしないでもない。





742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:25:44 ID:zYmohN8O
始めてから大名だった人と、一家臣から出世して大名になった人を一緒に出来ん罠

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:26:35 ID:xAhuWoRe
見事に脳筋ばっか…
なんでこのメンツで義久が招かれるんだ…

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:29:31 ID:WDKg+v4k
義弘とかが出席するべき席だったな

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:31:24 ID:i4ZYLPrQ
>743
脳筋ばっかで辛いからまともな人を1人呼んどいたんじゃね

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:33:17 ID:xAhuWoRe
1598年じゃ朝鮮行ってるがな
デ新納さんが行くべきだっな
もう70越えてるけど




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 16:12:25 ID:g5Oe/YK5
>>741にさらに補足
こっちは あ の 『名将言行録』バージョンらしいが
過去某スレに載っていたのをコピペ
----------------------------
名将言行録には義久関連のこんな話も載っている。
「徳川家康は島津豊久を呼びだして、本多忠勝と一緒に
 ”耳川の戦いってどんな戦いだったのか?”
 と言う質問をした。豊久はかくかくしかじかと耳川の戦いの顛末を説明した。
 豊久が出ていった後、家康は
 ”豊久の言うとおりで有れば、島津義久とは非常に恐ろしい大将じゃわい
  負けたように見せかけて大友宗麟の大軍を罠に引き込むとは!”
 とため息をついたという。」












ところがこの話には続きがあって
「豊久の話は方言がきつくて家康と忠勝は聞くのに苦労した」
そうだ。苗w




748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 16:14:50 ID:i31hCh32
>>747
きつい薩摩弁を通訳無しによく判読した!感動した!w

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 16:36:31 ID:xAhuWoRe
>>747
楠木正成が隅田、高橋を天王寺に誘い込んだ話のようだと評してるな<家康

葵徳川に出てた津川の家康のアメリカンな演技はあんまり好きじゃ無かったけど
この話では豊久が出ていった後、家康が舌を出して首を振ったと書いてあるんだよな
案外間違ってなかったのかも知れん



関連
徳川家康、島津義久に感心する・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1094.html

島津義久「世にいらぬもの」

2009年04月02日 00:02

323 :人間七七四年:2009/03/31(火) 02:59:18 ID:7CqPvvEl
・世の中にいらぬもの三つあり
 一つは堕落、一つは徳川、もう一つは女のわがままである
 by島津義久



324 :人間七七四年:2009/03/31(火) 03:04:23 ID:802R0DaV
>>323
DQN家久「一つは義久、一つは義弘、もう一つはry」

325 :人間七七四年:2009/03/31(火) 03:56:37 ID:UbcfFQU7
家久さま、そんなに正室さまがお嫌いですか?

326 :人間七七四年:2009/03/31(火) 11:53:13 ID:1TWdKsTr
日野富子「女の我儘なんて可愛いものじゃない」

島津義弘「厳しく罰則を設けたいんスが」・いい話

2009年03月16日 00:13

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/15(日) 21:42:07 ID:bViVhkrJ
島津義弘「>>826…という事で、若いモンが旧来の作法を守らないんで、厳しく罰則を
      設けたいんスが。」

島津義久「あーまあ、確かにね。でもそれだと、罰則守らせる目付が必要だよね。
      よっぽど立派な人間にやらせないとダメだけど、誰かいる?」

義弘「…そう言われると、思いつきませんな……降参じゃ!兄者の推薦に任せます。」

義久「よし、じゃあオレが目付やるから、オマエ副官ね。でも勘違いするなよ。
   目付だからって、上が目ェ光らせて家中に恐れられたら、かえって害になるから。

   上がみずから行い正しくして、臣下もそのかたじけなさに感じて恥じ、過ちを正す
   ……ぐらいでありたいモンだよねぇ…」

義弘「むぅ、流石兄者。」 義弘、感涙して退出したという。


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-587.htmlとか言える人は
考え方からして違う、というお話。

まあ、ネタ元の名将言行録にも結果は書いてないんですけどね(;´д`)ゞ
これが二才を模範・リーダーとする郷中教育につながった…と好意的に解釈しておく。




841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/15(日) 22:18:29 ID:K+imW4/Q

>>840
NHKもこういう元から人格者を大河の主役に据えれば、
いい話エピソードをそのまま使えるから変な捏造しなくて済むのにな。
義弘は愛妻家だから、女性視聴者対策のホームドラマパートの材料もばっちり。

島津義久「薩州の武辺ぶりは中々自分など及ぶべくもない」・いい話

2009年03月16日 00:11

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/15(日) 22:28:25 ID:LleCWnuT
>>840

残念ながら甥っ子には理解してもらえなかったようですが
わかってくれる人はわかってくれるもので、
加藤清正が国分富隈の義久の近辺を偵察させた時に、
「屋形の御座間も庭も殊のほかに粗末で
 何の備えもなく障子などはみな古反故で補修してます。」
という報告を受けたところ
「薩州の武辺ぶりは中々自分など及ぶべくもない」
と素直に感じ入ったとか(「先公遺徳」より)。

義久は居城を堅固にしたり、華美にしたりすることよりも
兵を鍛えることを重要視してたそうで、常々側近に、
「城というものは本来は不要なものである。兵が弱ければ如何なる金城鉄壁も役にはたたぬ」
「兵が強ければ敵を防いで寸地も犯さぬ。城の強弱よりも兵の強弱が肝要だ」
とも語っていたそうです。

この辺、武田信玄の「人は城~」に通じるものがありますね。




843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/15(日) 23:41:19 ID:5pTmRcTY
さすが仮にも1時は九州を統一しかけただけのことはあるね
義久の政治センスは目を見張るものがある

九州征伐で弟達や鬼武蔵(新納さん)とかが徹底抗戦主張する中素早く降伏を決断したり

関ヶ原で弟が西軍についたにも関わらずその政治力で領地を安堵させるし

祖父日新斎の評価は正しかったわけだな

「島津の隠居」と火箸・悪い話?

2009年02月26日 00:15

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 23:32:01 ID:rJnvmM0c
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-28.htmlと類似の話なんだが・・・

島津の殿様が隠居し、出家してのんびりと暮らしていた。
既に戦国群雄割拠の時代も去り、使えていた小姓達もすっかりふぬけになってしまっていた。
小姓達は火鉢の鉢の中に火箸を埋めておき、
その火箸を探して人々がパニくるのを影で見てプゲラするいたずらを楽しんでいた。

ある日、小姓達が火鉢の灰のなかにいつものように火箸を埋めていると
その真っ最中に島津の隠居がやってきた。
小姓達あわてて火箸を元のようにしようとしたが既に熱くなってどうしようもない。
仕方なくそのまま平伏してご隠居をやり過ごそうとしたら
隠居はいきなりその火鉢の中に手を突っ込んで火箸をつかみ上げた。
・・・当然、ご隠居の手からは「ジュ~」という音が・・・
ガクブルする小姓達をよそ目に、ご隠居は涼しい顔で火箸を作法通りに火鉢にさして
その場を去っていった。
以後、小姓達はそのいたずらをしなくなったという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上は「武功雑記」に所収されている話なんだが
実は、原文には非常にまずい点がある。
上記では話がややこしくなるので「島津の隠居」で統一したが、
原文では 「島津 惟 新 義 久」 となっているのである。
これを所収した「武功雑記」の編者もこれには「???」となったようで、
末尾の解説に
「惟 新 といえば島津 義 弘 のこと
 義 久 といえば出家名は 龍 伯
 一体この”島津の隠居”とは義久なのか義弘なのか?
 ・・・うーんわからん。」(意訳)
と疑問を呈して締めくくっている。

いい話のはずが伝わり方が悪くて読み手を戸惑わせた悪い話。




348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 00:43:01 ID:PzxRBJNL
>>343
どっちだよ!って言いたくなるオチですねw

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 14:33:47 ID:Xhvnt/oz
>>343
加藤嘉明にも同じような話あるし、これもテンプレ逸話なのかねぇ。

島津日新斎忠良から孫の島津義久に・いい話

2009年02月24日 00:15

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 01:08:10 ID:NmGYjVQy
毛利家に負けないぞ!?
島津家の爺ちゃんから孫への心温まる手紙

「善も悪し 悪しも善なり なせばなす 心よ心 恥よ恐れよ

その1 不動明王と愛染明王への信仰は日々忘れてはならんぞ
     常に厳しい表情の不動明王と愛情と煩悩の仏・愛染明王の両方を兼ね備えるようにするのじゃ!
その2 些細なトラブルもほっとかずにちゃんと糾明しておくんだぞ
その3 小さな過失は見逃してやる方が優しいと思ってほっといたらダメポ!大きな問題の元になるよ
その4 領国の安全を思い、身を惜しまず過ちはすぐ改め、腹を立てず怒りを我慢すれば、
     天道・神様・仏様のご加護があるよ
その5 絶対に他人をけなしてはいかん、自らは戒律を守り目立たぬ様にし、他人の過ちは厳しく罰するように
     それが本当の慈悲の心なのじゃぞ

以上、諫言のようじゃが、これは老人の愚痴じゃと思って堪忍して下されよ

                                  永禄4年(1561年)10月」

上記は島津家中興の祖とうたわれた島津日新斎忠良から孫の島津義久に送られた手紙です。
内容だけ見てると「どこが悪い話なんだ?」と思われるでしょうが
実は上記の手紙を出したときに、孫・義久は既に28歳の子持ちでした・・・
おじいちゃん早く孫離れしましょうね




292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 01:15:56 ID:+mWgVJTC
別に28でも孫は孫だし、
いい話スレの方が妥当だと思うけど

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 01:18:26 ID:+901sj92
大きなお世話って言えばそんな気もするがあっちでもいいかなw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 07:15:45 ID:sZIhWmjq
>>291
この日新斎公の信心深い態度が、後の大友との争いを宗教戦争のような様相にした、
と、考えられなくもないw

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 09:20:48 ID:vFPuCqlV
いい話でおk

竜造寺隆信の首・悪い話

2009年02月19日 01:45

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/18(水) 18:42:41 ID:fJNJc31e
九州の武将、島津義久が戦で竜造寺隆信を討ち取った。隆信は部下の赤星を討った男なので
義久は赤星の未亡人にその首を送り届けた。赤星未亡人は隆信を首を見ると、大いにののしって
その首を踏みつけた。義久はそれを聞いて、
「敵の首実検にも礼儀はある。いかに女とはいえ武将の首を足蹴にするとは……礼儀も義理も
わきまえぬ女だな」
 といい、それからは赤星未亡人との音信を絶ってしまった。そもそもこの戦いは赤星家の要請に
より、やむなく起こした戦いであった。




11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/18(水) 21:30:53 ID:V98qvU3N
>>4

島津が竜造寺隆信を討ち取ったとき、敗残の竜造寺の立てこもる城に持参し
「おたくの屋形様の御首でござる。有難く頂戴したがお返しに参った。
欲しくば潔く外にうって出られよ!」
と挑発した。

が、竜造寺隆信のモンスター・ママは
「そんなもんは、イラン、さっさと持って帰れ!」と一喝。

困った島津の使者は、城の堀の脇に首を置いてすごすごと
帰りましたとさ、と聞いたが色々異説あるんだね。

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/18(水) 21:34:56 ID:sIW3tpN7
鍋島直茂が拒否したんじゃなかったっけ?

徳川家康、島津義久に感心する・いい話

2009年01月28日 00:08

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 09:11:41 ID:OH0sxvvt
慶長3年(1598)11月、徳川家康は京・伏見の自邸に島津義久を招いた。
弟・義弘の、朝鮮での活躍に対する感謝・・・というのはタテマエで、来るべき時に備え、
『鬼石曼子』の協力を得たいがためである。

家康「今日は、良くお越し下さった。これを機に、親しくお付き合いさせていただきたく・・・
   ついては、九州を統一せんとした際の武勇伝など、ぜひお聞きしたいものですな。」

義久「いや、オレはなーんもやってないんで。戦は弟たちや、新納とか家臣のおかげで
   勝てたんで。オレなんて鹿児島で留守番やってただけで」 イッテテカナシクナッテキタ (´・ω・`)

家康「Σ(゚Д゚;) わーっ!! 飲んで!飲んで忘れましょう!この鴨汁なんてサイコーっスよ!」


「もうお帰りになったか。しかし、『愚兄賢弟の見本』というウワサを聞いたが・・・」
「まぁ、自分が無能だっていう自覚があるだけマシじゃね?」 「「HAHAHAHAHA!」」

深く長い、ため息が聞こえてきた。
家康「いやはや、さすが島津は名族であり、義久こそは大将の鑑よ。うらやましいことだ。」

「はて、『自分はなにもしていない』と言う男が、なぜ大将の鑑なのでしょう?」

家臣の問いに、家康は忌々しげに答えた。
「大将自らは動く事なく、勝つ。これが名将でなくて何であろうか!もし、本当に義久が
忠義を捧げるに足らぬ愚者なら、今の世では弟だとて、いや弟だからこそ、裏切っておるわ。

また、主の功を上回る臣、これも義久が真に愚将ならば、ねたみを覚え、誅殺していよう。
主が臣を信じ、臣が主を信じているからこそ、義久は動かずして家臣を使えたのだ。

その証拠にあの嘘つきめ、耳川の合戦には出陣しているし、沖田畷の戦でも、後詰めとして
肥後まで出ておる。当主として、命運の掛かった戦には、責任を果たしているのさ。

・・・やれやれ、どうやらわしは一生、戦場に立たねばならんようだの。」




860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 09:37:03 ID:VdEKwkyB
出来る、出来すぎる弟を持ったお兄ちゃんの悲哀だね。

でも、かなりケチというか兵隊さん、ちっとも送らなかったから
弟死にそうだったぞ。

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 09:58:02 ID:KZZ4d7dB
まあ義久の言葉を素直にとるか家康の言うことに真実があるか考えさせる逸話ではあるな

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 10:11:13 ID:1W8iPTW9
>>860
上方の戦より国許の備えを優先したんじゃね?
関ヶ原当時は肥後や豊後の情勢が東西分かれてヤバかったから。

維新斎は当初東軍につく段取りだったていうし…

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 11:01:57 ID:VdEKwkyB
朝鮮の時も送んなかったから、太閤殿下の
ご機嫌そこね、御家ぶっ潰されそうで恐かったぞ。

国元がどうのこうの、だろうけどそれにしてもだなあ。。。

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 11:13:23 ID:V15Fp3s3
送らなかったと言うより
家臣団が強烈なのが多すぎてまとめて送れなかったというか
梅北みたいに反乱起こす香具師もいれば
薩州家忠辰みたいに勝手に独立軍送る香具師もいたしなぁ

書いている内にだんだん悪い話になってきた希ガス
移動するか・・・

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 12:37:43 ID:cmdbMuTs
梅北は義久に誅殺された大野忠宗とも繋がりがあったとか無かったとか

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 18:51:59 ID:4SJxTy/E
>>860
大体関ヶ原に兵を送れなかったのは
義弘さんの息子さんが京都で伊集院忠棟斬り殺したのが原因で
薩摩で反乱(庄内の乱)が起こって国がメチャメチャになったからじゃないの…
子の因果が親に報いというか何というか

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 19:34:44 ID:WBpi6cut
>>872
さすがはDQN四天王!家督前からやらかしてますなァ

 ソコに痺れ憧れ・・・ねーよw

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 21:18:31 ID:T9dLxfTO
>>861
いやどう考えても義久の謙遜だろ…日本人的に考えて
五大老筆頭の家康の前で「全部俺が一晩でやってくれました」とか言えるわけないじゃん



関連
島津義久、家康に武勇伝をせがまれ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2329.html

島津義久の肖像集め・いい話

2008年12月13日 00:03

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/12(金) 21:17:15 ID:3T3vfN/J
島津義久は自室の襖や屏風に古今和漢の人物の肖像や逸話を書かせていた。

ただし、書かれた人物は普通の人々ではなかった。 前漢の王莽。 唐の安禄山。
蘇我入鹿。 藤原信頼。 いずれも国を傾け、家を滅ぼした大悪人ばかりだった。

義弘「普通は聖人の肖像等を飾るものでは?何故こんな恐ろしか者どもを飾るので?」

義久「善行などは実は人のマネをすればすぐ出来る。しかし、悪行は無意識に出来心で
    やってしまうものよ。だからこうして、昔の大悪事を常に目に触れるようにして、
    逆にこのようにせぬよう心がけておれば、自然と善行を積める人間になるのでは

    …と思ってな。」

家臣皆、感心せざるは無かったという。 (太平将士美談)



20年後

島津亀寿「お父様、なんでウチの主人の肖像なんか飾ってるんですの?」
義久「・・・・・・(怒)」



225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/12(金) 21:18:59 ID:bLO+MiFo
>>224
いいオチだ。わらたw

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/12(金) 21:20:24 ID:so8F1SwD
>>224
20年後
・・・ため息・・・

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/12(金) 21:44:36 ID:EneAQlng
良い話というか、腹の底から「なるほど」と思う話だ。

島津義久と茅葺の門

2008年11月20日 00:06

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/19(水) 08:44:34 ID:FPXSPF6b
>>217
島津義久の居城の門の茅葺が乱れていたので家臣が
「せっかくだから修理ついでに門構え立派にしましょうよ。
大大名なんだから何時までも小汚い門じゃ他国の使者に馬鹿にされますよ」
と進言したが義久は
「使者に成れるほどの教養ある人物なら城に来るまでに見れる領民の豊かさの方に目を向けるだろ常考
そっちの方が大事だから門なんて適当でいいよ」
と返したらしいがまるで受継がれていない…




314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/19(水) 10:55:30 ID:zehEGwSc
>>313
おお、義久(かっこ)いい話だな。
それに対し家久…ww


317 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 13:52:32 ID:uSkWsZHF
>>313
門構え所か城がボロいのに気に入らなくて新築、家久がその後領民に重税掛けてるのを見るとホント何も受け継がれていないな…
後世薩摩藩では見栄張って領民の困窮を他の藩に知られまいと色々してたそうだが義久見習えよ…

318 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 13:54:25 ID:uSkWsZHF
>>313
門構え所か城がボロいのに気に入らなくて新築、家久がその後領民に重税掛けてるのを見るとホント何も受け継がれていないな…
後世薩摩藩では見栄張って領民の困窮を他の藩に知られまいと色々してたそうだが義久見習えよ…


319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/19(水) 14:36:08 ID:neVcOpC7
大事なことなので二度言ったのですね

でも鬼武蔵による手討ちですね、分かります

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/19(水) 15:08:54 ID:4QVatuDd
三回までは許してやれよ…

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/19(水) 16:25:01 ID:XDH7lFmu
>>320
はい!忠興さん!

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/19(水) 16:30:02 ID:5SwTNtPs
ここは戦国時代のルールが生きているスレですね。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/19(水) 19:43:44 ID:FPXSPF6b
手討ちにされる>>317-318にこの句を
いにしえの 道を聞きても 唱えても、我が行いに せずば甲斐なし  BY 島津日新斎
…これを学んで開き直ったのが後の家久なのかもしれんが<忠恒