島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し

2016年06月30日 16:04

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/30(木) 00:04:29.52 ID:3X+PEQ8D
伊達政宗が金箔の十字架背負って上洛したのは有名ですが、それより先に金箔十字架背負って
秀吉に降伏した人がいるのをご存知でしょうか?

上記の話は、うっかり戦国漫画かいこ様サイトで知ったことですが、「逸話文庫」という本に載っていて

伊達政宗、奥州一揆の時、秀吉の疑を受け、金箔打ちたる磔柱を荷はせ、上京せしと云ふ。よく人の知る所なり。
然るに是より先き秀吉九州を征せし時、島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し
『若し赦さゞる時は此の磔の木にかゝるべし』と云へる由、南海道記に見えたり。(逸話文庫)

南海道記を探してみたのですが見つからず、この話の出典元はわからなかったのですが、
島津家に関する展示があるところで九州征伐での黒田如水の紹介文に
「黒田家の記録に島津義久が金の磔木を持ち、秀吉に降伏したことが書かれている(後略)」
とあるので、学芸員の方に聞いてみると、
「この話は黒田家譜に書かれていて、初出も(おそらく)黒田家譜です」と言われました。

島津義久髪をそり、墨の衣を着して、名を隆伯と号し、磔木を金みがきにして眞先に持せ、
太平寺に行て秀吉公の陣へ降参し、その罪を謝す。(原文ママ)
若御憤ふかく、御免有まじく候はゞ、此磔木かゝり申べき為、持せ参て候と申上ける。
秀吉公是を感じ給て、其罪をゆるし、却て御懇意を加へらる。(黒田家譜巻之四)

教えていただいた学芸員の方に「何故このようなことをしたのでしょうか?」と聞いてみると
あくまで個人の考えですがと言われた後、
「薩摩は海外の貿易が盛んだったので、金の磔木を見せることでそのことを豊臣方に
思い起こさせ、降伏を認めた方が(豊臣方の)得になると思わせようとしたのでは」と・・・

義久だと違和感あるから、やっぱり金箔十字架は伊達政宗の方が似合うな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 16:04:13.10 ID:sv5Jc6ie
>>784
島津の家紋が十字だしただの偶然?でも宣教師九州に多いし知ってて当然か。
政宗がこれをまねしたのかな?

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 16:21:18.83 ID:O2r7q+WV
まさむねが初めてじゃなかったんだね
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情けある事である。

2016年06月10日 13:09

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 21:51:54.21 ID:WhuxB23e
豊臣秀吉の九州征伐の結果、伊東祐兵が飫肥を拝領し日向に復帰すると、山田匡得は早速、
豊後から祐兵の元に帰参した。

この山田匡得の妻子は、伊東家が日向を没落した時、薩摩軍の捕虜となったのであるが、島津義久

『名のある武士の妻子である。疎略に扱ってはならない。』

と、自らの殿中において召し使っていたのであるが、匡得が豊後より日向に帰った聞くと、
義久はこの妻子に金銀衣服を与え、匡得の元に送り返した。
情けある事である。

(日向纂記)



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 23:22:12.47 ID:uF7Wiswo
>>820
疎略じゃなくても結局召し使うのか?

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:12:36.79 ID:QvQElJKz
>>822
召使っていれば自分の目が届きやすいだろ。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:27:35.35 ID:5eiexPJT
粗略に扱うのなら牢屋にぶち込むか南蛮に売ってる

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 12:34:17.77 ID:dsKdPzyC
>>822
わしの女扱いしておけば部下が手出しができないだろ
さすが島津公!

ふらずはいかで 天が下とは

2016年06月10日 13:08

821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/09(木) 22:12:46.34 ID:JQnODw8/
慶長九年(1604年)の夏の初め鹿児島では月を跨いでも雨が降らず水が枯れて民が非常に難儀しているので
島津義久が早鈴神社に詣でて、
「五月雨は 雲重なりて 日比ふれ なへて早苗の うるふはかりに」
「山廻る 雲の誘はば 雨をちて 大御田小田の 早苗うるほせ」
と雨乞いの祷をこらし詠せ玉ひけるところ、即日盆を覆すが如く大雨が降り旱魃を免れることが出来た。
是より、この所の民は此御歌を短冊に写し、旗の端につけ、金鼓を鳴し舞踊をして祈祷すると
雨降らずということなく、寛政九年(1796年)夏より雨少なく民苦しむ時にも、この詞で雨乞いすれば、
即座に雨が国分一郷に悉く降り二百年以上旱魃の憂いはなし。
(文化六年(1809年)には義久の雨乞いの様子が書かれた雨乞いの碑が建てられる)
また、国分城に居住の頃(慶長九~十六年)も雨乞いを行っており、大穴持神社にて
「てるとても ことわりなれや 日の本に ふらずはいかで 天が下とは」
と和歌を奉納してます。
(「鹿藩名勝考」「国分の古蹟」「広瀬の歴史資料」)

利根川のダム貯水率過去最低と聞いたので水不足解消祈願で



826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/11(土) 14:08:18.02 ID:HS/lanIb
>>821
    伊奈忠次
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 水がないなら引けばいい
    (つ  丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/11(土) 14:23:39.20 ID:nCt3Ho3I
藤堂高虎「水が無いならため池いっぱい作って貯めよう」

【ニュース】島津義久から琉球国王の書状、伊予にて発見

2016年04月14日 18:51

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 16:08:34.38 ID:7lW748pB
島津義久から琉球国王の書状、伊予にて発見される。

 島津義久が天正18(1590)年に尚寧に宛てたとみられる書状が、愛媛県伊予市の個人宅で発見された。
 
 豊臣秀吉の関東平定を伝え、祝いの為に上洛するよう促す内容。義久の書状を研究する東京大史料編纂所の黒嶋敏准教授(日本中世史)は「同時期の他の文書で使っている義久の花押と同タイプで、原本と確定できる」と指摘している。

 書状は縦約33センチ、横約45センチの斐紙(ひし)に筆書きで「日本天正拾八年仲秋廿一日 修理大夫義久」と記され、義久の花押と朱印がある。
 宛名は「琉球国王」としてある。

 書類がどのように愛媛に渡ったのかは不明。黒嶋准教授は、明治には書状が愛媛にあったと示す記録が残っているという。史料編纂所に残る記録では「下浮穴郡役所所蔵文書」と紹介。
「下浮穴郡役所」は明治の一時期、現在の松山市森松町に置かれた後で合併し「伊予郡下浮穴郡役所」となった。
 当時、全国各地の史料を収集していた修史局(現・東大史料編纂所)の1888年の記録にも、「下浮穴伊予郡役所」から義久が琉球国王に宛てた書状1通を複製作成のため持ち帰ったことが記されている。
 その後、修史局が編纂した古文書複製本「史微墨宝 第二編」(89年)にも収録され、薩摩藩の兵が1609年の琉球侵攻の際に奪い取り、その後、伊予の人の手に渡ったのかもしれないとの旨の推測も記載されている。
 書状は東京で複製を作成した後に返却されたが、長らく所在不明だった。
 今春、松山大の山内譲教授(日本中世史)、伊予高の柚山俊夫教諭(伊予史談会常任委員)らが書状を確認。写真を黒嶋准教授に送り、鑑定を依頼した。

 黒嶋准教授は「薩摩が琉球侵攻した1609年以前で、島津家当主から琉球王国への書状の原本が残っている例はなかった。今回見つかったのは大きな成果だ」と評価している。

 書状発見を受け、伊予市文化協会と市教委は16日午後2時から、市中央公民館で黒嶋准教授を招き講演会を開く。演題は「琉球王国と豊臣秀吉―『下浮穴郡役所所蔵文書』の歴史的意義とは」。

 http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20160413/news20160413231.html
(愛媛新聞ニュース)



587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 07:01:52.08 ID:xBj0KzN9
学者さんも史料を研究目的で強奪していくんだろ(´・ω・`)

588 名前:sage[] 投稿日:2016/04/14(木) 12:01:32.74 ID:45ebjxff
 この場合は複製作成後に返却してくれたみたいですけど、悪質な相手だと本物ではなく複製した方を持ち主に返したり、もっと悪質だと借りたまま返さない場合もあるそうですね。

命名「猪之助」

2016年02月24日 15:46

369 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/23(火) 23:42:22.80 ID:7TVfVt9h
命名「猪之助」

慶長四年(1599年)島津忠恒が伏見で伊集院忠棟を手討ちにしたことが発端となる庄内の乱。
乱が始まると島津勢は地理がわからず、島津義久の命令で家臣が猪狩りの名人で
山道に詳しい前田利之助の元を訪れ道案内を頼みましたが、
「私は伊集院家の家臣、有難いことではありますが・・・」と断ります。
それでも家臣が是非と頼みますので、利之助の兄の意見を聞いてみますと、
「前田家は島津様に恩になった家、有難いことだ」と言うので、道案内を引き受けました。
戦が終わり、義久は利之助を呼びその武功をほめ、利之助に「猪之助」の名と土地を与え
猪之助の姿絵を島津家の菩提寺の福昌寺に納めたといわれています。
(市報こくぶ昭和62年11月1日号)

権現様ごめんなさい。
手負いの猪が家康に向かって突っ込んできた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6588.html

権現様の名付けは安直な上に普通のネーミングと思ってましたが
義久の名付けを見てこんな時は直球な名付けをするものだとわかりました・・・



薩隅の戦国お菓子 ふっかん(後日談)

2015年08月08日 13:01

163 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/08(土) 00:07:11.41 ID:qaOkfToR
薩隅の戦国お菓子 ふっかん(後日談)

2ヶ月ほど前に、いい話スレに
薩隅の戦国お菓子 ふっかん
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/9316-5f927eff

を書いたものですが、新しくわかったことがあるのでこちらに書かせていただきます。
7月末に「ふっかん」を買いに和菓子屋さんに行って来て、そこの奥さんに「鹿児島県民ですけど、
TVではじめて知りました」と言ったら「(最寄り駅の)駅周辺までいくともう知らない人ばかりですよ」
「前に市役所の人が文献がないかと、県立図書館にまで行って調べてくれたのですが見つからなかった
そうなんですよ」と・・・奥さんが、「ふっかん」がなぜ浜之市周辺だけで口伝えでしか知られていないか
教えてくれました。

昔は黒砂糖は大変貴重なものだったので、なかなか庶民の口には入らなかった。

富隈城が出来、義久が来る前に城の門番(か倉庫番)が黒砂糖を城の倉庫から盗んだ。

盗んだ黒砂糖でお菓子を作り家族や知り合いに振舞った(まだお菓子に名前はない)

義久が富隈城にきて、浜之市の港を発展させたので黒砂糖が手に入りやすくなる。

(どのような経緯でかわからないが)殿様にお菓子を献上することになった。

「殿様に献上出来るような名物がない…」「あのお菓子はどうかな?」

殿様に献上したところ大変喜ばれ、自分だけでなく多くの民にも食べてほしいと言われたことから
人々に福が訪れる”福の羹(かん)(羊羹(ようかん))“ で「ふっかん」と呼ばれるようになる。

こんな経緯なため、義久が「自分だけでなく多くの民にも食べてほしい」と言ったのに
浜之市にしか伝わらず、文献に遺すわけにもいかず、和菓子屋さんが40年ほど前に作るようになったときには
「富隈城に(島津)義久公がいらした時に献上されたお菓子で」
「皆に福が来るようにということで福+羹(かん)でふっかんです」
としかわからなくなっていて、前に市役所の人が(ふっかんを市報に載せる為に)きた時に文献がなくて
県立図書館まで行ってもみつからなかったので、ご主人が聞いている話を載せたそうです。
そのしばらく後(今から数年前)鹿児島大学の先生が「ふっかん」を調べに来て文献調べるけど見つからない
ので浜之市の人たちから聞き込みをして現在まで残っている口伝えを調べたそうです。
その結果を先生が和菓子屋さんに伝えて、今回自分がその話を聞くことが出来ました。
…なんか義久の気持ち(皆に福が来るようにということ)を思うと知りたくはなかったかも
けど、口伝えでしか残ってないし、前に「ふっかん」のこと書いたから書いておかないと…

「ふっかん」を食べた感想は外郎7割、羊羹3割な感触でさっぱりしていて黒糖の味がしっかり
でてました。原材料は小麦粉・黒糖・片栗粉のみで本日中にお召し上がりください
となってました。



164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/08(土) 00:23:25.16 ID:vFyxtPXh
単に日持ちしないから普及しなかったような気がする

165 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/08(土) 23:55:11.71 ID:qaOkfToR
日持ちする薩隅の(戦国関係の)お菓子はあくまきぐらいなもんですよ。
ふっかんが本日中にお召し上がりくださいなのは、今は田植えのときのお茶菓子なので外に持っていくからでしょう。
義久に献上した頃もクーラーも冷蔵庫も無いのですから、夏の鹿児島の日差し&気温なかなかのものですよ。
日持ちよくする為工夫されたお菓子もありますが(戦国関係ないですが)

けせん団子・・・小豆(あずき)団子に「けせん(ニッキ)」という鹿児島や沖縄でとれるシナモンの木の葉をつけてつくられたお菓子で、
地元ではお茶菓子として、また贈答用として広く知られています。ほんのりとにけせんの香りが広がります。
けせんの木の葉に殺菌効果があることがわかり、団子に葉をつけたのがけせん団子の始まりといわれています。

かからん団子・・・棘のあるサルトリイバラの茎を触らないようにと言う「かからん(鹿児島弁で"触らない")」から葉を「かからん葉」と言い、
「かからん団子」となったと言われています。かからん葉には殺菌作用があるので、団子も傷みにくいそうです。もう一つ、「かからん」は
「病気にかからん(かからない)」という言葉にもかけられているようです。

鹿児島県垂水市、新田(あたらだ)神

2015年07月02日 15:40

271 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 21:53:40.35 ID:/gYb3G0s
鹿児島県垂水市に新田(あたらだ)神社という神社がある。
昔、漁師が海中に網を張っていたところ、網の中に光るものがあり海上を照らした。
その網を収めると中に布の幣帛と石とがあり、石の光明は止まなかった。ある老人が、
これは海宮の神で邑里を加護するために出現されたものと告げたという。人々はこれを
霊異として尊崇し、社殿を建立して阿多羅多大明神と称え、後新田と改めた。
一説に、この石は竜宮より出現したという。

この神社には、こんな話があります。
島津義久が垂水に来臨し、梅雨で降り続く雨で出帆出来ず滞留した際に、
「五月雨の 雲の名残も おさまりて ながめ尽きせぬ 西の海原」という
和歌を詠じて短冊に書き、新田神社に奉納したところ、忽ち晴れ渡り順風を
得て帰ったという。(短冊は残念ながら焼失したそうです)
(参考 「垂水市史」「薩隅日地理纂考」)

これ以上大雨による被害が出ませんように…




272 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 23:12:06.04 ID:CQUGjNOU
…「沈めェ~ 沈めェ~」

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 23:21:19.48 ID:lmB6mT5K

>>272
ひしゃく要ります?

275 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 23:27:56.94 ID:/gYb3G0s

>>272さん
ひしゃくどうぞ、穴開いてますけど。

284 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/02(木) 22:13:24.44 ID:tAa6nbpC
271の追加
新田(あたらだ)神社の御祭神は
•上筒男命(ウワツツオノミコト)
•中筒男命(ナカツツオノミコト)
•底筒男命(ソコツツオノミコト)
の住吉三神(海の神、航海の神、また和歌の神とされる)

薩隅の戦国お菓子 ふっかん

2015年06月13日 14:24

178 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 18:26:48.14 ID:NF0l0HPn
薩隅の戦国お菓子 ふっかん

少し前に見た、鹿児島のテレビ番組で地元のタレントさんが鹿児島各地の
商店街などを巡るコーナーがあるのですが、とある和菓子屋さんに
「浜の市名物 ふっかん 期間限定」と書かれた看板が…
タレントさんが、お店の奥さんに「ふっかん」のことを聞いてみると
「富隈城に(島津)義久公がいらした時に献上されたお菓子で」
「皆に福が来るようにということで福+羹(かん)でふっかんです」
といわれてました。
ふっかんを検索しましたら、とあるHPでは

ぷるぷるつるんとして、もちもちの食感。口の中に広がる黒糖の風味は、
何だか懐かしさを感じます。「ういろう」にも似たその食べ物は「ふっかん」
といい、隼人町の浜之市で昔から作られてきた伝統菓子です。

ふっかんを製造・販売している○○庵(隼人町富隈地区)の(和菓子屋の
ご主人)さんは「浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので、
それを使って作るようになったようです。富隈城のお殿様に献上したところ
大変喜ばれ、自分だけでなく多くの民にも食べてほしいと言われたことから、
人々に福が訪れる”福の羹(かん)(羊羹(ようかん))“ と呼ばれる
ようになったという説もあります。私の母が商品化しましたが、母の死を機
に販売を辞めたところ、続けてほしいと多くの声をいただきました。
地域の食文化と食べてくれる人のうれしそうな笑顔を守らねばと今も作り
続けています」と話します。

HPには家庭用にアレンジされたレシピも載ってました。
ふっかん(20個分)
〈材料〉
小麦粉300g、黒砂糖(粉状)300g、片栗粉20g、水700㏄

〈作り方〉
1.小麦粉、黒砂糖(粉状)、片栗粉を混ぜ、ふるう。
2.1. の中に水を入れ、ざるでこし、型(直径7㎝程度のわん型)に流し入れる。
3.20 ~ 25分蒸す。
4.冷めたら竹串を使って型から取り出す。

タレントさんが食べたときの感想は「さっぱりしていて、餅と羊羹の
間みたいな感触です」
このお菓子は浜の市地区でしか知られてないお菓子で、田植えの時の
お茶菓子として昔は各家庭で手作りしていたそうです。
お昼ごろには売り切れる人気商品で、田植えの時期から7月くらい
までの期間限定品だそうです。
(MBC 南日本放送 ズバッと!鹿児島 のぶらり商店街2015年6月6日
放送分より霧島市隼人町の「霧島市はやとサン・シティ通り篇」)




179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/12(金) 18:36:01.47 ID:5Afn7Ytw
春駒を思い出した
(黒くて太長いから「馬の魔羅」と呼んでたが薩摩殿様にその名で献上するのはちょっと、
てことで「春駒」に名前が変えられたういろうっぽい菓子)

180 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 19:41:09.87 ID:K8meW4ni
(´・ω・`)由来はともかく春駒も美味しいお



181 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 20:15:23.31 ID:NF0l0HPn
春駒については、とある鹿児島のお菓子屋のHPでは
>明治五年時の明治天皇が鹿児島に行幸された際、このお菓子を献上した処、
この名前をお尋ねになり、県知事がとっさに「春駒」とお答えしたと云う
エピソードが今も伝えられております。
となってますね。

ふっかんについては義久に関連するお菓子が400年以上絶えることなく
残っていた事が嬉しいです。



182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 00:08:51.24 ID:rsqBmLUF
春駒#菓子
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E9%A7%92#.E8.8F.93.E5.AD.90
 > 昔は数十cm程に長く作られた為、その形状から馬の陰茎を指す、
 > うまんまら(馬ん摩羅)と呼ばれていた。
 > 春駒と呼ばれる様になったのは、この菓子が献上され、その名称を
 > 尋ねられた時に、「うまんまら」と言う表現が直接的だった事から、
 > 周囲が閉口してしまった為、言い替えられた物であるとされており、
 > その時に献上された人物については、当時の島津藩主や、行幸で
 > 鹿児島を訪れた皇族等、諸説様々な話が伝えられている。

黒人陰茎とか呼べばいいのに

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 02:43:24.23 ID:jSLh0mmt
武将所縁でも加勢以多や長生殿とかだと茶人だからかお上品なんだよなあ

191 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/15(月) 00:17:21.53 ID:1Qtzb3vr
178・181です。
>浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので
とあるように義久は交易に力を入れていたようです。
秀吉に対して恭順の意を示すため富隈城を築いた…
のではなく、数年前に見た霧島市の情報誌では秀吉は義久には
北薩に行くよう言われていたが、なんやかんやで理由をつけて浜の市に移り
富隈城を築いたと…それは貿易を行う為に浜の市港に目をつけていたのだと…

>その僅かな在城期間に城下の浜之市の港を整備して商人を招き、江戸時代
には坊津、山川等と並ぶ薩摩藩内では栄えた港の一つとなった。この地で
行った開発を義久は国分で引き続き行っており、実験的な城下町の一つだった
と考えられる。(ウィキペディア)

富隈城在城期間に義久は「唐人(外国人)との喧嘩口論禁止」のおふれを
出しています。貿易を円滑に行うための配慮のようです。

義久は天の助けに巡り合ったのだ

2014年12月06日 18:53

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 14:14:46.60 ID:/6xIWDLx
島津義久が大友氏を攻めて所々に乱れ入った時、志賀太郎親次は一人、義久に
降らなかった。義久は松の尾の城にいたが、秀吉が大軍で九州に渡ると聞いて
薩摩に引き退いた。

大いに喜んだ親次は「険阻の地に兵を伏せて打ち破れ」と言って、鉄砲の手利き
20人を選び出し、山海が嶺の林に待たせた。

そんな折に、首藤五郎大夫と堀八郎という者が、今回選ばれずに残ったことを
口惜しく思い、密かに道に隠れて薩摩武者2騎を撃ち落とした。

「さては伏兵がいるぞ!」と言う間こそあったが、大軍が林に入り草を分けて
探したので、20人の者たちはやむを得ず、薬を惜しまずに鉄砲を散々に
撃ちかけて、追い来る者たちを撃ち殺して引き退いた。

親次は大きな溜め息を吐き「義久に山海が嶺を決して越させないはずだったのに。
義久は天の助けに巡り合ったのだ」と、言った。

――『常山紀談』



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 20:41:19.01 ID:j5mUhdpM
>>955
多分元になった話だと義久じゃなくて家久で天正15年3月16日の山梅峠合戦の話だと思う。
その翌日にも志賀親次とは別に島津と戦っていた佐伯惟定に梓峠で襲撃されて
「佐伯肩衝」とかを奪われながら命からがら日向に逃げ延びてるんだよな。

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 12:48:48.48 ID:Fa83kjke
>>956
茶器とられたのか…壊れなくてよかったな

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 13:27:25.60 ID:pQak1rhA
とられたというか足利将軍家から宗麟に贈られた茶器じゃ無かったっけ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 21:10:01.73 ID:sBYgMYaU
>>960
足利義輝→大友宗麟→臼杵鎮続→島津の戦利品→佐伯惟定→藤堂高虎→徳川家康
って転々としていった茶器。
惟定が島津から奪い返したことで「佐伯肩衝」と呼ばれた。

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 21:57:43.74 ID:w3202xSl
なんで戦場に茶器持ってってんだと思ったら略奪品かw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 22:29:29.80 ID:HTCupOW+
島津が茶なんて出来るわけがない
茶器オークションが目的

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 22:40:54.18 ID:fXGl/uHn
義弘は茶人でもあるけども

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 23:20:42.72 ID:w3202xSl
義弘は在坂歴も長いからな

島津義久の弟

2014年02月12日 19:09

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 06:33:15.46 ID:fHayNiAh
慶長15年(1610)6月頃、丹波国亀山で普請が行われたが、この普請の最中に、
丹波国の中に所領を持っていた薩摩の島津龍伯(義久)の弟が、伏見に来て病死した。

これは去る庚子の年(1600)、美濃関ヶ原合戦の時、兄の兵庫助(義弘)と共に撤退する最中に
負傷し馬から離れ、歩くこともできなくなり、ついには死人の上に倒れこんだ所、そこで
奇特の夢を見たのである。

夢の中で彼はこのように言われた。『ここから東に下り、木喰(五穀または十穀を食べないこと)して
年月を送れ』

彼はこうして、稀有のことだがこの夢の命令を全うし、関東に下って言われたとおりに木喰して
10年を過ごし、去年の春、薩摩に帰国した。

ところが帰ってみても見知ったものが居ない。上記のことを人に語っても、彼は関ヶ原の時に
討ち死にした、と発表されていたので、それがこのように生きていたとは中々思いもよらぬことであり、
取り合うものも居なかった。

しかし、彼の容貌を見て、似ている所もあったので、僧形から還俗させてみたところ、これは
紛れも無いということが解り、この旨を龍伯および義弘に申し届けると、すなわち対面となり、
お互いに往時を語って落涙し、さて所領を遣わし、そこに居住したところで、今度の不慮の煩いにより
死去した、とのことである。

(当代記)

島津義久の弟(誰?)の、関ヶ原からの数奇な話についての逸話である




502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 06:47:32.21 ID:/CSQ3Ma+
いやホント誰だよ

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 06:49:25.79 ID:BZLN2dqp
島津四兄弟以外に兄弟いたっけ

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 08:06:19.79 ID:OA02SUAy
>>501
丹波国亀山普請中に、薩州島津龍伯弟従2丹波国1煩付、伏見来病死す、

丹波国に所領を持っていたのは誤りじゃないのかな?
普請に来てたところ病を得て伏見で療養していたが死んだ、という意味ではないだろうか

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 08:21:16.93 ID:Kc03I0ij
なんのために木喰して10年過ごしたのかも分からん

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 08:48:01.76 ID:sRvmi6dL
命を助けられたお礼に精進するならわからんでもないが
戦場で倒れてた男が夢から覚めた途端元気に関東へ歩き出したのかw

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 09:24:09.39 ID:QY0J9ean
>>505
亀山の隣の摂津国能勢郡は義久が秀吉から在京料として所領になってる。
亀山にもあったのかも。

関ヶ原に参陣して敵中突破して薩摩に逃げたのも
こっちで勤務してたのがメインじゃないんだろうか。

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 10:37:41.03 ID:RAvKooqU
豊久?と思ったが兄弟じゃないな。

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 11:16:36.79 ID:OA02SUAy
>>508
憶測でモノ言うなってw
原文のどこに所領があったって書いてあるのさ
幕府が諸大名に普請させていたのは事実なんだし、
島津に亀山の普請をやらせていたと取るのがふつうでしょ

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 11:35:53.03 ID:OA02SUAy
在京賄料、島津義久でググったら簡単に出てきたよ

為在京賄料、於摂州播州内壱万石  目録別帋有之、宛行訖、全可有領知之状如件、
    天正十六
       七月五日(秀吉花押)
          嶋津修理大夫人道とのへ

知ってると思うけど念のため、亀山は丹波であって播磨じゃないので、そこんとこよろぴく

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 11:40:50.52 ID:pNlXGEpr
これは島津以久のことでは?慶長15年に篠山城普請中に死亡してる
その辺母体に超展開させたら未知の弟の一人や二人ぐらい出現しますわな

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 12:19:56.74 ID:OA02SUAy
そうすると佐土原の初代藩主は誰だよ?っておかしな話になる

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 12:25:56.42 ID:gnjpY4bE
家久が3人いれば全て説明がつく

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 13:23:12.96 ID:0QxqKFXC
良い家久 悪い家久 普通の家久

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 15:36:56.85 ID:QM4ZOCAm
???四天王「島津四兄弟?ああ、あの五人の事ね」

1599年北京、「戦勝」式典

2014年01月30日 19:13

438 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 09:40:57.55 ID:fcmTgM/y
文禄・慶長の役が終わった後、1599年に北京で「戦勝」式典が執り行われ、61名の降倭(日本人投降兵)が皇帝へ献上された。
そのうち首魁とされる平秀政と平正成は凌遅処死、残り59名が斬刑となった。

この捕虜についての報告書『経略御倭奏議』とその中の「献俘疏」によれば、27歳の平秀政は薩摩の島津義弘の甥で、
父は薩摩州人の平秀久、島津の一族である。義弘の子の旧石羅と共に上京して、3年目に関白の養子となった。
義弘と共に5000の兵を率いている。
40歳の平正成は薩摩守と称し、義弘配下として三島を管轄し、兵馬6000を率いていたという。捕虜となった当初は
ただの島津家臣と思われていたが、後に降倭への尋問で倭軍大将の平正成であることが明らかとなったのであった。

この2人に露梁海戦で討ち取った敵将の首を見せたところ、これは石曼子の二兄(島津義弘)に間違いないと大いに嘆き悲しみ、
その供養を願ったという。

石曼子は4兄弟。
長男は大石曼子義久で、関白の子で8歳の阿虚来の義父でもある。
次男は薩摩島主の石曼子義弘、これは現在このとおり首級になってますよ。22歳の息子で痘痕面の麻答法赤羅が跡を継いで薩摩島主になっている。
3男の石曼子賽門は病死している。
4男の石曼子那哿貳哿撤は薩摩在国で要職に就いていない。
 

当然ながら日本側記録に該当する人物も戦死者もいないわけで、皇帝御前での式典に大将級の捕虜を必要とし、なおかつそれ
相当の戦功の証が無ければ責任追及は免れないという事情がこれらの粉飾を生んだようである。

なお、処刑された日本人の中には、小西行長の配下で朝鮮側との交渉役であった要時羅も含まれていた。小西勢の撤退交渉で
海戦直前に明陣へ赴き、そのまま拉致されたのである。

小西行長の策・悪い話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html

要時羅とは、釜山に定住していた対馬人の梯七大夫という人物が有力とされる。
(『寛政重修諸家譜』では、宗義智が慶長4年(1599年)に梯七大夫を朝鮮に派遣したが行方不明になったとある。時系列は不明。)

以上は、久芳崇「東アジアの兵器革命」より。

439 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 09:43:23.24 ID:fcmTgM/y
さて、ここで『明史』の例の部分の理由がなんとなくわかる。

『明史日本伝』より、秀吉・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1322.html
「自言為平秀吉、薩摩州人之奴(名を平秀吉と言い、薩摩州人の奴隷)」

(まあ、秀吉が当初は平氏を名乗っていたのは事実だが)なんで平秀吉なのか、なんで薩摩なのかってのは理解できた。
『明史』は歴代史書と比べて完成度が高いことで知られているけど、この場合は元になる資料自体がでっち上げだったと。
(正成の名の元ネタは寺沢正成(広高)と思われる。)




443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:12:51.45 ID:Hn6ivIJe
日本勢が完全撤退したあとの空城五つを攻めて、兵糧軍馬を大量奪取し首級三十二をあげ島津義弘を討ち取ったことにした中路軍とか
小西が引いたあとの順天新城に入るやいなや、転がってる死人の首かき集めて(小西のアドバイス)
その上救出した朝鮮人の捕虜や小西側から預かった人質を殺して軍功に加えた西路軍とかいろいろひどい

この要時羅ってのは西路軍の劉エンに順天からの撤退時に預けた人質の一人か?
皆殺しにされたと思ってたが北京まで連れて行かれてたんだな

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 20:25:22.00 ID:Zoyk2cFD
自分たちの土地じゃないから平気なんでしょ
まあ、本国でも普通にやりそうだけど

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 03:16:51.50 ID:9uxSt6XZ
>>438
要時羅→与七郎→小西与七郎?
でも死んだとされる年は1593年頃

与二郎とか弥七郎とかの可能性もあるか

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 03:55:07.97 ID:EIpOiUmd
発音的には「よしろう」の方が近い気がする
yao shi luo
現代中国語の発音しか知らないからなんとも言えないが

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 04:13:28.11 ID:BJBpQ2fb
情報の正確さを重視して
超一流のスタッフと100年近くの歳月を費やした明史ですら
>>439 レベルなので、当時いかに日本の情報が
清朝側に伝わっていなかったがわかるね。
日本側の歴史書は六国史で止まってるし
わずかな情報だけで日本伝をまとめなきゃいけない担当者は
頭抱えただろうな。

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 06:51:37.50 ID:EIpOiUmd
日本外史が明史編纂中にできていて、清に輸出されてたらよかったな
日本的とはいえ古典的な漢文だからほぼ正確に意味は通じただろうし

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 10:36:26.82 ID:rBCzYNZQ
『李朝実録』には1598年9月(旧暦)に「悪党の要時羅が明に捕らえられた、ざまあw」とあって、露梁海戦は11月。

1599年7月、対馬の柳川調信からの書状に「ところで要時羅が帰ってこないんだけど、どうなったか知らない?」と
書いてある。
でも北京での処刑はこの年4月だったんだよね。

実録で要時羅本人が語ったところによれば、歳はまだ30代前半で2人の子持ち。

島津義久の掟書きより

2014年01月25日 18:38

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/23(木) 17:30:35.83 ID:l+UGalJS
悪い若党を使ってはならぬ
悪い友と交わってはならぬ

島津義久の掟書きより抜粋




389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 12:04:52.69 ID:4uhwKfpu
>>376は天正年間の兄のほうの掟書きなのかな?
弟(義弘)の慶長二年朝鮮役に出向く際残した、『京都と高麗の御公役を油断なく調べろ』から始まる掟書きが残ってる

天正11年、薩摩キリスト教布教妨害事件

2014年01月05日 19:01

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 10:08:31.95 ID:XroVpgSa
天正6年以降、宣教師アルメイダは数度薩摩を訪れ布教しようとしたが
反キリスト勢力の妨害でどれも不調に終わっていた。

それでも、天正11年には当時の太守・島津義久から
仮住まいを与えられるなど関係改善の糸口も見えたかに見えた。

が、そんな矢先に事件は起きた。
アルメイダに好意的だった島津家臣が反対派に暗殺されてしまったのである。
義久は下手人を捕縛するべく命を出したが、その追っ手も出奔してしまった。

後日追っ手を捕縛することに成功した義久が尋問すると、
なんと、追っ手もまた暗殺計画者の一人だったのだ。
関係者の中には義久の老中も含まれていた。

重臣にまで強固な反対派がいると知った義久は、
薩摩の滞在はアルメイダの身が危険だとしてそっと脱出を進め、アルメイダもこれに従った。


引き篭もり兄ちゃん、外に友達を作ろうとするも妨害されるの巻




207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 13:47:56.66 ID:SUyWiMS4
これでもし義久がキリスト教徒になってたら
島津の旗印が十文字に

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 13:52:56.37 ID:okx1bGq1
もともとは〇がないんだっけ?

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 13:55:34.49 ID:SUyWiMS4
もともとは丸なし、下が長い、まんま十字架(ただし墨書で跳ねとかはある)

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 16:57:48.86 ID:jGP5zOe5
島津の旗印見て「これはいける!」と早とちりしたのかね

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 18:04:44.14 ID:tfixB+S9
ここで傾倒したのが宗麟なんだろな

そこに島津義久がやってきた。「やっべ、逃げなきゃ!」

2013年09月13日 20:25

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 01:30:58.24 ID:h0RdJRX0
島津家中の肥後盛秀という人物が、ある日狩りをしていた。島津家の狩場で。

そこに島津義久がやってきた。
「やっべ、逃げなきゃ!」
盛秀は慌てて逃げ出したが、そのときに笠を狩場に落としてしまった。
しかもその笠にはご丁寧に「肥後権之丞盛秀」と自分の名前が書かれていた。
戻って笠を拾うわけにも行かず、盛秀は隠れて見守るしかなかった。

そして義久は笠を拾い上げ。笠の内にある名前を見た。
「ヤヴァイ見つかった!殺される。間違いなく俺は殺されるガクガクブルブル」

どうしたことか笠の名前を見るや義久は微笑し、筆を取り笠の名前の部分を墨で消した。
そして何事も無かったかのように狩りを始めたのである。

こうして盛秀は命拾いし、以後盛秀は一層忠勤に励むようになったという。


慶長16年(1611年)、盛秀は義久の死に殉じた。




98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:16:21.81 ID:1HQZ0GQa
うん、こんなんされたら命を賭して仕えるわ

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:30:41.20 ID:72lGd9ja
どうせ殺すならつまらない罪で罰するよりそれを許して自分のために殺す方が良いよね

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 16:47:38.02 ID:qY8PPkwB
相変わらず素敵なお兄ちゃんだなぁ

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 17:02:03.45 ID:iXc9A5tl
まーくんだったら標的にされかねないだろうしなw

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 17:04:16.32 ID:xaaHGw2G
引篭もり長兄

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 17:38:04.83 ID:qnpFQFyS
>>102
宗麟よりはアクティブだよw

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 13:16:00.79 ID:T7Wcvv0M
良い文化人 島津義久
悪い文化人 細川忠興

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 15:03:51.00 ID:3SM9mdo6
たまちゃんが関わらなきゃいい殿様じゃないか

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 15:24:57.02 ID:XLGnFnct
島津義久は籤に頼りすぎだよなぁ

山田土佐入道の妻子

2013年06月09日 18:54

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 08:15:28.91 ID:2jQXQQ2r
山田土佐入道(宗昌)の妻と娘は、日向没落の時に置き去りとなり
薩州の軍勢に捕えられ鹿児島に送られ義久に仕える事となった。

義久は名のある武士の妻子であるからと常に懇意にされていたが、
土佐入道が飫肥へ帰参したとの話を聞いて、妻子に衣類金銀を与えて
土佐入道の許へと送られた。情けある事でした。

(日向記)

島津義久山田土佐入道の妻子を送り返す良い話

山田宗昌は天文年間から活躍していた伊東家の武将で、伊東義祐が
伊予へ移った時には豊後に残って、その後も佐伯惟定の元で島津と
激しく戦い、伊東祐兵が飫肥に復帰した時に帰参した人です。

敵の妻子にも情けをかける島津義久はよく出来た人ですね。




428 名前:匿名大名[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 11:19:44.47 ID:7oA6JdOJ
妻子の見目がよければ多大な情けをかけるお!

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 11:52:32.88 ID:evYMY+3l
ほんとに情けだけかや?

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 14:40:22.45 ID:7F14SXff
情けにはちゃんとそういう意味も

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 15:29:37.85 ID:07+AIUNl
悪久だったら・・・

龍伯の、世に聞こえし一節切

2011年08月15日 23:00

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 20:02:09.86 ID:FgtRwKt0
慶長7年(1602)、細川幽斎は妻の麝香を伴い、わが子忠興の得た新領・豊後を訪れた。
著名人である幽斎に、ひと目会おうと多くの客が詰めかけ、その中には島津龍伯入道義久の姿もあった。

幽斎と龍伯、二人の関係は複雑である。歌道の師弟であり、秀吉政権への申次だった恩もある。
秀吉の過酷な要求を、弟・歳久を、かばい尽くしてくれなかった恨みもある。
が、今日は、細川家の人々も、島津家の人々も、小倉城に設けられた宴席において和気藹々と過ごした。

宴もたけなわとなったころ、細川家家老の有吉立行が龍伯に頼みごとをした。
「龍伯さまは、世に聞こえし一節切(竹の一節だけで作った小さめの尺八)の名手であられるとか。
拙者共などでは、このような場でなければ聞くことも出来ますまい。是非にお聞かせ下され。」

「よかろう、しからば所望に任すべし。・・・ただ笛吹くだけでは芸が無いのう。下野、相伴いたせ。
隆達節じゃ。」
「はっ、では、僭越ながら・・・」

有吉の求めに快く応じた龍伯は、重臣の島津下野守久元(忠長の子)にも小唄を歌わせた。

“♪尺八の 一節切こそ 音のよけれ 君と一夜は 寝も足らぬ・・・”
(「一」節切の尺八の「音」色は満足ですが、貴方と「一」度「寝」ただけでは満足できません。)

尺八の澄んだ音色と、朗々と歌い上げる恋歌に、両家の侍はしみじみと聞き入った。(細川家記より)


相手が歌の師匠とはいえ、戦国最強ひきこもりだってこれぐらい出来るんだから
勝茂が両親にイロイロ言われても仕方あるまいよ。




109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 20:52:31.93 ID:Oh7YHTDI
島津は古い家だから教養はあるんだよ。
人付き合いは下手だけど。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 22:22:59.48 ID:LNrrdclm
>>(「一」節切の尺八の「音」色は満足ですが、貴方と「一」度「寝」ただけでは満足できません。)
この一文読んで、幽斎と龍白のいけない関係を連想してしまった自分が嫌になった

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 22:59:55.25 ID:M7rJYNUr
>>110
尺八だけにな

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/16(火) 00:33:16.09 ID:/G3yC2m8
日新斎の仕込みはさすが

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/16(火) 00:35:01.21 ID:lfJNhWHr
悪久「一見義久のいい話に見える本件、しかし年代を見てみよう……
おわかり頂けましたかね、明らかに島津安堵の直後です
最近まで家康には病の為上洛出来ませんって言ってたよね?
速攻で宴会旅行とかあり得んだろ、取り繕う気ゼロかよ」
忠興「わかる、その気持ちなんか理解出来る」

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/16(火) 01:13:59.57 ID:fGoh/kIE
NGMS「親父たちの若い頃とは違うってことを理解して欲しかったですよね」

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/16(火) 13:11:33.45 ID:FONKuQyg
宗茂「ハッハッハ、そうひねた考えをせずともよろしいではありませんか両名士らしくていい話ですよ。
   ところで料理がまだ出てきておりませんがまだでしょうか?」

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/16(火) 13:33:12.04 ID:fGoh/kIE
十時連貞「殿・・・本日の昼餉は雑炊でゴニョゴニョ」

「国分たばこ」由来

2010年09月22日 00:01


151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/21(火) 00:52:08 ID:YgMlFWqK
十月から煙草が値上げされますね.嫌煙家,愛煙家の方々といらっしゃる
でしょうが,煙草にちなんだ逸話をば(既出でしたら失礼).
薩摩は煙草の名産地として知られ,「花は霧島たばこは国分」と謡われた
ほど,「国分たばこ」といえば,有名でした.
この煙草の栽培を奨励したのが,島津家のお留守番名人こと島津義久
鉄砲伝来とともに日本に入ってきた煙草の栽培を,初めは指宿ではじめた
ようですが,関ヶ原後には義久が家臣の服部左衛門宗重に命じて国分での
栽培を開始,やがて日本における一大産地を築いたそうな.
愛煙家にとってはいい話,嫌煙家にとっては悪い話?でしょうか.

ちなみに,義久さん,弟の義弘と連名で
「執着深い連中は,ヤニを細い竹キセルに詰めて、紙帳を釣って、こっそりやらかしている
みたいだけど,日本国中で禁煙令が出ているけど,我が国でも吸ったら駄目だからね.死刑
だからね!(『崎陽古今物語』)」という御触書を出しているようです.

指宿といえば,親指武蔵こと新納忠元が地頭として治めた地,煙草をくゆらす
デニーロさんは絵になりそうなんですけどねぇ.




152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/21(火) 01:09:18 ID:Axt4U2EC
JR職員「キセルに薩摩守?チケット拝見」

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/21(火) 07:51:59 ID:K4od/mJu
キセルってどういう意味ですか? っ聞かれて・・・
そもそもの煙管の方は時代劇ででてくるアレで説明できたけど、定期使ったタダ乗りの方が返って説明難しかったw

島津義久と笑った小姓

2010年07月16日 00:00

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 21:05:00 ID:cXzmJR4w
島津氏が日向伊東氏と睨み合っていたころ、飯野城を守る島津義弘から島津義久のもとに使者が送られて来た。

だがこの使者、よほど貧乏だったのか、それとも礼儀のレの字も心得ぬほど田舎者だったのか、主君の命で
薩隅両州の太守の前に出るのに、夏だからとて十徳一枚羽織った下は素肌に褌のみという、ヒドイ姿でやって来た。

義久の前で正座をして、緩んだ褌からイロイロ見えている状態で、使者は汗をかきながら口上を述べた。
そのうち汗の臭いに引き寄せられたか、ハエが飛んできて、使者の緩んだ褌の中に飛び込んだ。
「あフんっ…」
尻の間にハエが挟まった使者は、こらえかねて尻をモジモジ動かし、見ていた義久の小姓も、こらえかねて吹き出した。


会見が終わった後、義久は近臣の平田増宗を呼んだ。
「義弘からの、大事を伝える使者が口上を述べている最中、笑っておった小姓がおる。腹を切らせよ!」

「……という訳で義久様がお怒りゆえ、切腹いたせ。しかし、何故そんな大事な時に笑ったりしたのだ?」
「はい、実は……」
  ;`;:゛;`(;゚;ж;゚; )ブフォオオオ

「そ、そんなのガマンできるの、義久様だけですって!wwwww」
「そうか?」

増宗の反論(?)により、小姓は切腹を免れた。




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 21:33:00 ID:b8EtyZcM
笑ってはいけない島津家

島津さんちの二人の家老

2010年07月04日 00:00

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 00:05:52 ID:QROy70II
島津さんちの二人の家老(1/2)

九州の役の後、新納忠元と伊集院忠棟は京都に滞在していた。別に二人が望んだわけではない。
太閤秀吉が島津家の人質として二人を指名した結果である。

二人とも島津家の家老であったが京での待遇は雲泥の差があった。
忠元が島津家の屋敷に間借りして起居していたのに対し、忠棟は京都に自分の屋敷を構えていた。
秀吉から直々に知行を頂いている故の特権である。
この屋敷は島津家のものよりも大きく豪壮で、おまけに島津家の屋敷を見下ろす
高台に立てられていたことから忠恒の不興を買ったといわれているがそれはまた後の話。

忠元が所用を終えて屋敷に戻ってくると、それを見計らったようなタイミングで若い男が訪ねてきた。
男の名は山口金平。俊足で知られたこの男は、薩摩から義久の書状を持ってきたのだという。

他ならぬ主君からの書状、押し戴いて読んでみると何のことはない、時候の挨拶に日常の出来事が
書き連ねてあるだけだった。
「はて…?」
九州征伐の後処理で多忙を極めるはずの義久がこんな書状を態々送るであろうか。
義久を知ること忠元以上の者はいない。

不審に思った忠元は金平にたずねた。
この書状を預かったとき、義久は何と言っていたか確認したのである。

金平「はっ、大事な書状であるゆえ、京に入った後は一目散にご家老様の下へ向かうよう仰せつかりました」
忠元「ではその方、殿の仰せを守って誰にも会わずここへ来たのだな?」
金平「はい、誰にも会わずこれへ参りました」
忠元「相違あるまいな?」
金平「はっ、相違ございません」


671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 00:09:10 ID:QROy70II
島津さんちの二人の家老(2/2)

不審は確信に変わった。一目散に屋敷に来たという金平だが服には埃も付いておらず、その身は汗一つかいていない。
忠元は同じセリフを繰り返した。ただし声は低く、目つきは鋭く。
「…相違あるまいな?」

宿老の一睨みに駆け出しの若造が太刀打ちできるはずもない。金平はすぐに泥を吐いた。
金平「じ…じつはここに来る前に幸侃様(伊集院忠棟)のお屋敷でおもてなしを受けまして…」
忠元「な!?よりにもよって…!」

京で伊集院家の者に見つかった金平は、そのまま忠棟の歓待を受けたのだ。
「まあいいか…忠棟様だってうちのご家老なんだし。」
義久の書状を持っていることを知るや忠棟は金平に強引に酒と風呂を進め、
金平は誘われるがままに屋敷に長居していたのだという。

それで先ほどの書状も合点が行った。
忠元宛の書状に不審を抱いた忠棟が、金平が風呂に入ってる間にすり替えたのであろう。
義久が一体どんな書状を送ったのか忠元には見当も付かない。
かといって忠棟の屋敷に怒鳴り込んで書状を奪い返すなど言語道断である。
秀吉のお膝元で家老同士が争っては主家にどんな災いがかかるか分からない。
結局のところ、金平を薩摩に帰して義久に確認するしか手だてはなかった。

念のために屋敷の廻りを探らせてみると伊集院の屋敷のものがうろついているとの事である。
おそらくはの帰路に着いた金平を暗殺するつもりであろう。
そこで忠元は機転を利かせた。
屋敷の者に金平の服を着せて出掛けさせて囮とし、その隙に金平を薩摩に返したのである。

だが、この機転も金平の寿命をほんの少し延ばしたに過ぎなかった。
義久は金平の失態を許さず首を刎ねたのである。

義久が忠元に宛てた書状には一体何が書かれていたのか。それは薩摩の石高に関してであった。
「我が薩摩は太閤検地を控えているが、その前に石高を多めに自己申告して豊臣政権での発言権を強化すべきか。
 それとも少なめに申告して賦役を減らすべきか」
京の事情に精通した忠元の意見を義久は聞きたかったのである。
だが書状を送りなおしているような余裕は既にない。結局のところ京の事情を知らないまま島津家は
「薩摩の石高は60万」と申告してしまう。
これは砂浜まで田圃とみなした明らかな過剰申告である。
薩摩はこれを元に55万石が確定し、実際の石高に見合わぬ過剰な賦役に苦しむことになる。

役目をおろそかにして命を失った山口金平。
猜疑心から主家を苦境に追いやった伊集院忠棟。
正直に石高を申告しなかったばかりに過剰な負担を強いる破目になった島津義久。

三者三様に悪いお話。




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 00:24:51 ID:fZ5mdo7n
うわ…これは悪いことが重なったな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 02:50:50 ID:/7Wp0fKb
>>656
幕末の「ええじゃないか」とよく似てるなぁ

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 07:42:41 ID:p/W8OHeW
薩摩って60万石でも過大だったのか。
江戸期の77万石がどんだけ無茶な数字だったのかよく分かる。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 08:14:53 ID:KlIu4dQg
>>674
江戸期は薩摩北部と佐土原と沖縄を足しているから
安土桃山期と同じ

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/03(土) 12:20:34 ID:jr5l4zso
>>675
琉球経由の密貿易で稼いでたんだよね?

日向鷹ちょうだい!

2010年06月21日 00:00

516 名前:sage[] 投稿日:2010/06/20(日) 19:29:35 ID:xfwzNIqy
ソースは旧記雑録

「日向鷹ちょうだい!」1/2

天正7年、とある仲介者を通して織田信長から島津義久へ「日向鷹献上を促す」手紙が来た
スルーしていたら今度は雅の友、細川幽斎から義久へ手紙が届く
幽斎の手紙↓
「足利義昭様が日向鷹を所望するという書状と義昭様からの小袖を送ります。
名誉なことですからお引き受けして下さい」
信長に贈ってないのに義昭に贈ったらフラグが立つだろう。スルーしてたら
先のとある仲介者から「日向鷹を信長に献上せよ」と催促が来るが義久またもスルー
義久がスルーするのは訳があった
日向鷹にことよせて、信長は大友と島津の和睦を要求していたのだ
鷹を献上したら和睦の話を承諾することになる。

無視し続けたらシビレを切らしたのか翌年の天正8年、信長から仲介無しで直接手紙が来た
信長の手紙↓
「大友との争いをやめる事、本願寺が石山を出て紀伊に入った事、毛利成敗のため大友と協力し天下のために大忠を尽くすこと!」
さらにスルーの義久に翌月も信長は大友との和睦を勧告
義久は諸情勢を考え不承不承引き受け、その証としてかねてより催促されていた日向鷹を信長へ献上した


517 名前:sage[] 投稿日:2010/06/20(日) 19:45:14 ID:xfwzNIqy
「日向鷹ちょうだい!」2/2

さて、前置きが長くなったが言いたかったのは「とある仲介者」のことだ
本スレの方々なら薄々察しはついているだろう

とある仲介者とは島津義久に古今伝授をした人物であり、信長とは鷹狩り猟友会仲間
関白、近衛前久だ
近衛は古今伝授で薩摩に下向した時も犬追物見学パーティなど豪華接待を受けている
その前久、信長へ日向鷹献上の催促をするときに便乗

近衛「信長に献上するときには麿にも頂戴!」と言ってた
こんな仲介者では余計話が拗れるんじゃ無いだろうか
近衛の要求は信長とともにスルーされた
そして途中からは近衛の頭越しで交渉は進み結局、日向鷹は信長に献上された

日向鷹が手に入るという話を信長本人が自慢でもしたのか
相変わらず耳聡い近衛は、鷹情報をキャッチすると再び今度は個人的に義久へ手紙を書く

近衛「信長に鷹を贈ったんだって?麿にもちょうだいね!」
たぶん義久は気分を害したのだろう日向鷹が近衛に贈られることは無かった

以上、日向鷹を巡る信長と義久の政治的やりとりと近衛さんがワガママな話




519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 22:30:11 ID:lpF0lWJY
純粋に高度な政治の問題なのに遊び気分だな、前久