178 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 18:26:48.14 ID:NF0l0HPn
薩隅の戦国お菓子 ふっかん
少し前に見た、鹿児島のテレビ番組で地元のタレントさんが鹿児島各地の
商店街などを巡るコーナーがあるのですが、とある和菓子屋さんに
「浜の市名物 ふっかん 期間限定」と書かれた看板が…
タレントさんが、お店の奥さんに「ふっかん」のことを聞いてみると
「富隈城に(島津)義久公がいらした時に献上されたお菓子で」
「皆に福が来るようにということで福+羹(かん)でふっかんです」
といわれてました。
ふっかんを検索しましたら、とあるHPでは
ぷるぷるつるんとして、もちもちの食感。口の中に広がる黒糖の風味は、
何だか懐かしさを感じます。「ういろう」にも似たその食べ物は「ふっかん」
といい、隼人町の浜之市で昔から作られてきた伝統菓子です。
ふっかんを製造・販売している○○庵(隼人町富隈地区)の(和菓子屋の
ご主人)さんは「浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので、
それを使って作るようになったようです。富隈城のお殿様に献上したところ
大変喜ばれ、自分だけでなく多くの民にも食べてほしいと言われたことから、
人々に福が訪れる”福の羹(かん)(羊羹(ようかん))“ と呼ばれる
ようになったという説もあります。私の母が商品化しましたが、母の死を機
に販売を辞めたところ、続けてほしいと多くの声をいただきました。
地域の食文化と食べてくれる人のうれしそうな笑顔を守らねばと今も作り
続けています」と話します。
HPには家庭用にアレンジされたレシピも載ってました。
ふっかん(20個分)
〈材料〉
小麦粉300g、黒砂糖(粉状)300g、片栗粉20g、水700㏄
〈作り方〉
1.小麦粉、黒砂糖(粉状)、片栗粉を混ぜ、ふるう。
2.1. の中に水を入れ、ざるでこし、型(直径7㎝程度のわん型)に流し入れる。
3.20 ~ 25分蒸す。
4.冷めたら竹串を使って型から取り出す。
タレントさんが食べたときの感想は「さっぱりしていて、餅と羊羹の
間みたいな感触です」
このお菓子は浜の市地区でしか知られてないお菓子で、田植えの時の
お茶菓子として昔は各家庭で手作りしていたそうです。
お昼ごろには売り切れる人気商品で、田植えの時期から7月くらい
までの期間限定品だそうです。
(MBC 南日本放送 ズバッと!鹿児島 のぶらり商店街2015年6月6日
放送分より霧島市隼人町の「霧島市はやとサン・シティ通り篇」)
179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/12(金) 18:36:01.47 ID:5Afn7Ytw
春駒を思い出した
(黒くて太長いから「馬の魔羅」と呼んでたが薩摩殿様にその名で献上するのはちょっと、
てことで「春駒」に名前が変えられたういろうっぽい菓子)
180 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 19:41:09.87 ID:K8meW4ni
(´・ω・`)由来はともかく春駒も美味しいお
181 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 20:15:23.31 ID:NF0l0HPn
春駒については、とある鹿児島のお菓子屋のHPでは
>明治五年時の明治天皇が鹿児島に行幸された際、このお菓子を献上した処、
この名前をお尋ねになり、県知事がとっさに「春駒」とお答えしたと云う
エピソードが今も伝えられております。
となってますね。
ふっかんについては義久に関連するお菓子が400年以上絶えることなく
残っていた事が嬉しいです。
182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 00:08:51.24 ID:rsqBmLUF
春駒#菓子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E9%A7%92#.E8.8F.93.E5.AD.90 > 昔は数十cm程に長く作られた為、その形状から馬の陰茎を指す、
> うまんまら(馬ん摩羅)と呼ばれていた。
> 春駒と呼ばれる様になったのは、この菓子が献上され、その名称を
> 尋ねられた時に、「うまんまら」と言う表現が直接的だった事から、
> 周囲が閉口してしまった為、言い替えられた物であるとされており、
> その時に献上された人物については、当時の島津藩主や、行幸で
> 鹿児島を訪れた皇族等、諸説様々な話が伝えられている。
黒人陰茎とか呼べばいいのに
183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 02:43:24.23 ID:jSLh0mmt
武将所縁でも加勢以多や長生殿とかだと茶人だからかお上品なんだよなあ
191 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/15(月) 00:17:21.53 ID:1Qtzb3vr
178・181です。
>浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので
とあるように義久は交易に力を入れていたようです。
秀吉に対して恭順の意を示すため富隈城を築いた…
のではなく、数年前に見た霧島市の情報誌では秀吉は義久には
北薩に行くよう言われていたが、なんやかんやで理由をつけて浜の市に移り
富隈城を築いたと…それは貿易を行う為に浜の市港に目をつけていたのだと…
>その僅かな在城期間に城下の浜之市の港を整備して商人を招き、江戸時代
には坊津、山川等と並ぶ薩摩藩内では栄えた港の一つとなった。この地で
行った開発を義久は国分で引き続き行っており、実験的な城下町の一つだった
と考えられる。(ウィキペディア)
富隈城在城期間に義久は「唐人(外国人)との喧嘩口論禁止」のおふれを
出しています。貿易を円滑に行うための配慮のようです。