491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/03(火) 14:12:08.99 ID:NcThKzBi
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。
片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った
「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。
『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』
これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。
憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。
もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。
家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」
左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと
「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。
政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。
小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。
片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。
(奧相茶話記)
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。
片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った
「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。
『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』
これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。
憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。
もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。
家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」
左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと
「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。
政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。
小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。
片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。
(奧相茶話記)
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