494 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 00:27:05.74 ID:HHUrws03
備前国福岡城合戦福井小次郎歌を遺して討死の事
備前はもとは赤松氏が代々領していたが、嘉吉元年の赤松満祐滅亡の後は山名相模守教之が賜り、
教之は代官の小鴨大和守を備前に住ませた。
応仁の乱の後、備前津高郡金川村の玉松城主松田左近将監元成と細川勝元が語り合い、元成は兵を集めて小鴨を攻めようとした。
そこで散り散りになっていた赤松の家人が元成と組んで小鴨を攻め落とした。
赤松兵部少輔政則(満佑の孫)は元成を賞して伊福の郷に置いた。
山名宗全と細川勝元が共に病死の後、京都は少し静かとなったが諸国はいよいよ大いに乱れ、
松田の一族どもも備前西郡のうちの多くを押領していた。
政則は将軍家から功を賞せられ、播磨・備前・美作を返してもらったが、
山名右衛門督政豊(宗全の孫)はこれを怒り、文明十一年九月に京都を出て但馬の国に馳せ下った。
これから政則も播磨に馳せ着いて、ついでに備前の松田がほしいままに攻め取った所を取り戻そうとした。
元成はこのことを聞き
「兵粮の用意のために押領した所は返せるが、伊福の郷は軍功により賜った所なので返す気はない。
これは事にかこつけて我を打ち亡ぼそうという謀であろう。」
と金川に城を構えた。この城は麓に大川が流れ、峰高く、四方が峻険なので要害としてよい地であった。
しかしながら後巻の手だても図り、備後国の山名俊豊(政豊の次男)へ
「備前を切り取って参りましょう」と報告したら俊豊は喜んだ。
政則は備前に赴き、松田が押領して自分の地にした所を取り返していった。
文明十五年九月、山名も備後の尾道を出て同国国分寺に着き、三千余を駆り集め、
十一月七日に備前の国に打ち入ったら、松田の一族が集まり邑久郡福岡の城の西北の山に陣を取った。
福岡の城は東西に大川が流れていて、その中の島に山があったのでそこに城を築いた。
そこへ政則の守護代喜三郎則国を始めとして二千余人が立て籠もった。
川上の瀬には長船右京亮等が野伏を従えて陣取っていた。
十一月二十一日に押し寄せて合戦した。
浦上の家人に楢村與三兵衛、同又四郎という兄弟がいた。前に元成に奉公していたが因縁をもっていた。
彼らは密に語らって十一月二十三日の夜半に激しい風に便りとして陣屋に火をかけた。
寄手は内通に力を得てすぐに攻め寄せたが、城中の者が厳しく支えて追い返した。
その後に事が発覚して、楢村兄弟を搦め捕られて誅された。
寄手はその後に図り合って、十二月十三日にまた富岡という小山に兵を出した。
城からも打って出て散々に戦いあい、寄せ手も城兵も討たれた者が多かったという。
495 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 00:27:38.47 ID:HHUrws03
この文明十五年十二月十三日備前福岡の戦に、福井小次郎も参加していた。
もとは京都の人であったが、四歳の頃に父の源左衛門が当国の在番の時に連れ下り、
この時には城中にいて二十一歳であった。
その日の戦では父子の間が敵味方で混雑しおし隔られてしまった。
小次郎は父は城中に入ったと思い、走り帰って探したが見えなかったので、
また城外に打って出て、寄手に向って『福井小次郎!!』と名乗り、縦横に斬って回った。
しかし彼はあまりに戦い疲れていた。結局父を見つけることができず家人が肩にかけて城中へ引き入れた。
浅手深手二十六所も傷を負っていたから、小次郎はとうとう死んでしまった。
後で父が城に帰って小次郎がの手箱を開いて見ると、多くの書き置きがあった。
その中には母への置き紙もあった。
「幼少から別れていましたので、このまま討死したらお母さまがお嘆きになられるだろう事が心懸かりです。
しばしこの世に残られることになったとしても、終いにはあの世で逢うことができます。
このことをよくお分かりになって、慰めてください。」
と細々と書いてあり、奥に
生れこし親子の契りいかなれば 同じ世にだに隔はつらむ
と書いてあった。「彼は思ひ定めていた討ち死にであったのだな。」と
人は皆、惜しんだという。
(常山紀談)
若干二十一でも、侍は戦場で討ち死にする覚悟を持っている
備前国福岡城合戦福井小次郎歌を遺して討死の事
備前はもとは赤松氏が代々領していたが、嘉吉元年の赤松満祐滅亡の後は山名相模守教之が賜り、
教之は代官の小鴨大和守を備前に住ませた。
応仁の乱の後、備前津高郡金川村の玉松城主松田左近将監元成と細川勝元が語り合い、元成は兵を集めて小鴨を攻めようとした。
そこで散り散りになっていた赤松の家人が元成と組んで小鴨を攻め落とした。
赤松兵部少輔政則(満佑の孫)は元成を賞して伊福の郷に置いた。
山名宗全と細川勝元が共に病死の後、京都は少し静かとなったが諸国はいよいよ大いに乱れ、
松田の一族どもも備前西郡のうちの多くを押領していた。
政則は将軍家から功を賞せられ、播磨・備前・美作を返してもらったが、
山名右衛門督政豊(宗全の孫)はこれを怒り、文明十一年九月に京都を出て但馬の国に馳せ下った。
これから政則も播磨に馳せ着いて、ついでに備前の松田がほしいままに攻め取った所を取り戻そうとした。
元成はこのことを聞き
「兵粮の用意のために押領した所は返せるが、伊福の郷は軍功により賜った所なので返す気はない。
これは事にかこつけて我を打ち亡ぼそうという謀であろう。」
と金川に城を構えた。この城は麓に大川が流れ、峰高く、四方が峻険なので要害としてよい地であった。
しかしながら後巻の手だても図り、備後国の山名俊豊(政豊の次男)へ
「備前を切り取って参りましょう」と報告したら俊豊は喜んだ。
政則は備前に赴き、松田が押領して自分の地にした所を取り返していった。
文明十五年九月、山名も備後の尾道を出て同国国分寺に着き、三千余を駆り集め、
十一月七日に備前の国に打ち入ったら、松田の一族が集まり邑久郡福岡の城の西北の山に陣を取った。
福岡の城は東西に大川が流れていて、その中の島に山があったのでそこに城を築いた。
そこへ政則の守護代喜三郎則国を始めとして二千余人が立て籠もった。
川上の瀬には長船右京亮等が野伏を従えて陣取っていた。
十一月二十一日に押し寄せて合戦した。
浦上の家人に楢村與三兵衛、同又四郎という兄弟がいた。前に元成に奉公していたが因縁をもっていた。
彼らは密に語らって十一月二十三日の夜半に激しい風に便りとして陣屋に火をかけた。
寄手は内通に力を得てすぐに攻め寄せたが、城中の者が厳しく支えて追い返した。
その後に事が発覚して、楢村兄弟を搦め捕られて誅された。
寄手はその後に図り合って、十二月十三日にまた富岡という小山に兵を出した。
城からも打って出て散々に戦いあい、寄せ手も城兵も討たれた者が多かったという。
495 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 00:27:38.47 ID:HHUrws03
この文明十五年十二月十三日備前福岡の戦に、福井小次郎も参加していた。
もとは京都の人であったが、四歳の頃に父の源左衛門が当国の在番の時に連れ下り、
この時には城中にいて二十一歳であった。
その日の戦では父子の間が敵味方で混雑しおし隔られてしまった。
小次郎は父は城中に入ったと思い、走り帰って探したが見えなかったので、
また城外に打って出て、寄手に向って『福井小次郎!!』と名乗り、縦横に斬って回った。
しかし彼はあまりに戦い疲れていた。結局父を見つけることができず家人が肩にかけて城中へ引き入れた。
浅手深手二十六所も傷を負っていたから、小次郎はとうとう死んでしまった。
後で父が城に帰って小次郎がの手箱を開いて見ると、多くの書き置きがあった。
その中には母への置き紙もあった。
「幼少から別れていましたので、このまま討死したらお母さまがお嘆きになられるだろう事が心懸かりです。
しばしこの世に残られることになったとしても、終いにはあの世で逢うことができます。
このことをよくお分かりになって、慰めてください。」
と細々と書いてあり、奥に
生れこし親子の契りいかなれば 同じ世にだに隔はつらむ
と書いてあった。「彼は思ひ定めていた討ち死にであったのだな。」と
人は皆、惜しんだという。
(常山紀談)
若干二十一でも、侍は戦場で討ち死にする覚悟を持っている
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