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白河小峰城のおとめ桜

2019年11月19日 17:37

584 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/18(月) 20:54:34.23 ID:R9xUvLnM
寛永の話ではあるが、まだ出ていない話の様なので白河小峰城の人柱の話をば….

白河小峰城のおとめ桜

初代白河藩主、丹羽長重は白河藩主として赴任した後、幕命で白河小峰城の改修を始めたものの、ある一角の石垣だけが何度工事しても崩れてしまう。
工事が進まず困った作事奉行の和知平左衛門は合議の末に人柱を立てる事に決め、身分の上下老若男女問わず、次に城門の前に現れた者を人柱とする事に定め、城門に訪れる者を皆で待つ事にした。
すると、1人の娘が城門に近づいて来るのが見えた。何とそれは当の作事奉行・和知平左衛門の娘「おとめ」であった。
仰天した和知平左衛門は
「おとめー!来るな!!来るな!!!」

と必死に身振り手振りで娘がこちらに来ない様に合図を送ったが、父親に会う為に城へと向かっていたおとめは父の合図を早く来いと言う合図と勘違いし、逆に城門へと向かってしまい、
こうして人柱にはおとめがなる事が決まり、それを告げられたおとめは驚き逃げ出したが、遂には捕まってしまい人柱とされてしまう。
この後、工事は無事成功したものの、>>581に書いた様におとめが藩士に追われ捕まった場所は「追廻」と言う地名として今も名を残し、
人柱にされたおとめを哀れんだ人々はおとめが人柱として埋められた場所に桜を植え、おとめ桜と呼んでその死を悼み供養したと言う。
なお現在のおとめ桜はこの際植えられたものが戊辰戦争で焼失した為2代目であると言う。

http://shirakawa315.com/sightseeing/post_43.html

白河観光協会のホームページ他参考にまとめました。

585 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/18(月) 21:04:39.46 ID:R9xUvLnM
追記 おとめ桜の話は竹中直人がこの作事奉行・和知平左衛門役で数年前に短編映画化されたそうな。

https://eiga.com/news/20160828/6/
https://youtu.be/bDxtGQMmJd0



586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 21:05:18.21 ID:EOdgOTzr
事なかれ主義は昔からか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 21:31:24.22 ID:Z4HZ3/VQ
旧約聖書の士師記のエフタの話でも
戦争に勝って凱旋帰国する時にユダヤ人の指導者のエフタが
「神よ、帰った時に私を一番最初に出迎えた者をあなたに捧げましょう」
と誓ったところ、出迎えに出たのが自分の一人娘だったために泣く泣く犠牲に差し出した
って話があったっけ。

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 21:36:04.12 ID:Z4HZ3/VQ
まとめの5102
世禰(よね)姫

だと太田道真の娘(道灌の姉妹)が生贄になった話があるな

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 22:07:32.12 ID:J67dMudt
工事がうまく行かないなら神主読んで地鎮祭でもすればよかろうもん
やってもだめで最後の手段が人柱なのか

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 10:18:36.31 ID:E3OwGiOx
追廻って城前の馬場のことでしょ
そこに人柱の話が混ざっちゃったのかな

597 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/21(木) 09:28:57.17 ID:Av9/D6vT
>>595
火のない所に煙は~って言うけど、或いは福山藩みたいに前の藩主家の遺徳を消すための意図的なマッチポンプとか風説の呂布とかかもね。
とは言え記録として当事者の名前も残ってるし、やはりこじ付けの線もなきにしもあらずか。

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 02:55:36.03 ID:jkB1AxvD
風説の呂布だと噂が1日に千里駆けめぐりそう

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 14:27:26.92 ID:Qpp5OHLL
呂布の武勇はは風説に過ぎなかったと…
まあたしかにそんな感じだけど
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丹羽長重が赦免された理由

2015年11月27日 17:47

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 21:19:33.99 ID:UmHPvjDh
関ヶ原の戦いのあと、丹羽長重が赦免された理由の一つとして、
大相国家(徳川秀忠)が未だ童形であった頃、この長重と親しく語り合い、
『如何なる事があってもこの好を決して忘れない!』と、
固く誓った事があった。

このことを密かに家康に伝えた人があり、それもあって赦免に至ったのだという。

これを家康に伝えたのは、土井利勝だとも、本多正信だとも伝わる。

(藩翰譜)

徳川家康、息子の友だちならしゃーないと丹羽長重を許すの巻



39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 23:43:35.70 ID:Anv+yfLZ
前田利常が人質だったときの逸話があるし、仁徳者だったんだろうね

丹羽家の太郎坊

2015年03月28日 17:33

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/27(金) 23:28:06.20 ID:5De09kWQ
丹羽家の太郎坊

加藤嘉明が会津四十万石を拝領して入部した時、白河にあった丹羽五郎左衛門長重は、かねてから
懇意の間柄でもあったので、会津まで入部の見舞いに行った。
これに嘉明は大いに喜び、酒宴を催して饗応し、酒も追々進んで興に入った時、嘉明はこのように言い出した

「今度のあなたの来臨は、どう感謝していいかわからぬほどである。
せめての事として、私が秘蔵する道具を進上しよう。」

そして太郎坊という刀を取り出し

「これは関ヶ原の一戦が終わった後、家康公より下された名刀なのだ。」

そう言って手ずから長重に渡すと、長重は大いに喜び厚く礼を言うと、どう思ったのか、
その日のうちに急ぎ若松を起って白河へと戻っていった。

翌日になり、嘉明は近臣たちを招き尋ねた
「昨日、酒の興に乗じて太郎坊を丹羽に譲ったような気がするのだが、まさかその通りか?」

「御意の通り、進ぜられました。」

これに嘉明たちまち不機嫌となり
「それは私が大酔して前後を忘却した上でしてしまったことだ!例の太郎坊を出せと汝らに申し付けたとしても、
遠慮して他の刀を出すべきなのに!
ともかく秘蔵第一の道具を人手に渡したのは是非もない次第である。急いで取り返すのだ!」

そうしてにわかに早馬をたて白河に向かわし、「件の刀は我家の重宝第一の道具であれば、返し賜るべし」
と申し入れたが、長重は

「重宝の賜り物ですから、お返し申すこと思いもよらず」

と、一向に取り合わなかったという。

この刀はもともと織田信長秘蔵の品で。明智光秀がこれを賜り、光秀が後にこれを愛宕山に奉納したのを、
豊臣秀吉が他の刀を納めてこれを取り出し、太郎坊と名づけた。その後徳川家康の所有となった。
長さは二尺三寸であった。

(刀剣談)





615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 08:50:44.37 ID:oFwOfqpk
>>613
返せって言われたら

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////

ってやれば多分大丈夫だろその刀
そもそも太郎坊は愛宕山に住む天狗の名前
一説によると日本一の大天狗(後白河法皇とは別人)

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 11:11:49.18 ID:xiYsLJmM
>>613
懇意の間柄だったのに重宝がもとで…
しかしこの時代って返さない奴おおいな
ごうつくばりばっかり

北陸の関ヶ原の戦いの原因

2015年03月28日 17:32

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 00:22:36.97 ID:cx1J4gVH
 慶長五年七月二日、家康公は武州江戸にご到着になり、御仕置等を仰せ置かれ、同二十一日、家康公秀忠公御父子は十二万余の軍勢を
率いて奥州へ向かいなされた。
景勝もかねてから支度していて、城々を堅固に守り、自らも二万余騎を率いて白川口へ出張る。
 利長も本国へ馳せ下り、近隣の勢に会津攻めの軍勢を出すよう促し、小松の丹羽長重にもその旨を達した。

長重が思はれるに、
『心得ぬことだな。去る頃、内府が利長に謀反の企てありとお疑いになったあの時、内府から頼まれてやむなくその周囲を探った。
利長との長い厚誼を振り捨てたのだ。これは忠義のためである。たとえ利長の陳謝がどのくらいであろうとも
内府はわしに知らせてから、和睦なされるべきであった。
 こたびの上杉景勝討伐、相手は天下の逆賊であるから誰が断るはずだろうか。
すぐにも、内府から直々に、長重も兵を出せとのご催促があって然るべきであるのに、利長からこれを達してくる事に納得がいかない。
利長はなにか計っているかもしれない。この頃の、わしの行った計略を遺恨に思い、会津長征の道すがら討ち果たすつもりかもしれぬ。
しばらく世間の様子をよく聞いて検討しよう。』
とて、
「早々に打ち立つべきでありますが、病にて歩行も思うままにできませぬ。
その上、長征の準備もいまだ半分しか整っておりませんので、それがしは後陣を担当したい。
まず、あなか方の国の者をお先に行ってください。」
と返答した。

利長はお聞きになされて、
「長重のこの頃の態度は分からない。わざわざ後陣を望むのはおかしい。ともかく、彼の安否をよく調べた上で打ち立とう。」
と不破斎宮之助という者を使者とした。
「奥州退治のこと、諸方の寄口を知らせる必要があります。催促したのは私ではなく貴命であります。
どのようなお考えから、こんなふうに出兵を延引なされるのか。このままでは人から不審も招きましょう。急ぎ出陣されよ。」
催促は立て続けに四度に及んだが、なおぐずぐずしている。
 そこへ、大坂の三奉行から、『秀頼公の命によって謀反を起こす』との廻文が届き、ほぼ時を同じくして内府から、
北国のことでは、特に長重を勇猛の武将として頼もしく思っている旨の檄文が届いた。
『かように期待されるのは本望であるが、利長の謀略も計り難い。いかがしたものか。』
と思案していた。

 斎宮之助は金沢城へ馳せ戻って、『小松側の態度は心得がたい』と報告した。利長は、
『大坂での三成らの謀反の動きは既に伝え聞いている。その上、謀反に加担せよとの回文も到来した。
さては長重、かねてより三成に与していればこそ、会津への出兵を遅らせたものと思われる。
この上は早々に小松を踏み散らして手元を安全にして、然る後に、上方へ打ち抜けるか、奥州へ向かうか、時宜に応じて行動するとしよう。』
と決めて、七月二十六日申の下刻、四万余騎の軍勢を率いてにわかに小松表へ押し出した。
「松任より向こうは小松領であるので、焼き払って通れ」
と道筋の在家を放火し、手取川を渡り、水島寺井まで押し寄せた。すでに時が過ぎて暁になっていた。
 
 小松側では、思いも寄らぬ事なので、上を下へと騒乱ひとしおの中、長重は、
『かねては内府を敵にまわす覚悟ではなかったといえども、今、大軍に押しかけられ、利長に陳謝するわけにもいかず、
もはやいかんともしがたい。籠城しよう。』
と決めた。
(小松軍記)

北陸の関ヶ原の戦いの原因である




雑談・丹羽長重って

2013年04月28日 19:00

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:28:53.41 ID:KmFhVaoa
北陸関ケ原はちょっと前まで敵だった、前田が味方で、
味方だった大谷と丹羽が敵になってて面白い。

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 01:00:28.79 ID:N2441eKb
>>427
丹羽長重って立花宗茂と同じくらい名将だと思うけど
全く評価されてないよね

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 04:20:52.81 ID:T2ysZs7J
>>435
全く評価されてない人をなぜ名将と思うのかが知りたい

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 06:13:48.24 ID:MkNtV6ec
築城に長けていたとはよく聞くけど

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:08:03.56 ID:nVqyR022
名将かは知らないけど、関ヶ原で改易されたのに
最終的に関ヶ原前以上の石を得てるのはすごいかもしれない
もっとも、親父から受け継いだのは100万石以上だけど
あれはほら、ラスボスに睨まれてたし

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:29:48.21 ID:p2cuovEF
同じように改易から復活したのにその点で仙石秀久を評価する人はめったにいない罠
まあそもそも仙石の改易は完全に自業自得だけど

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:37:48.44 ID:T2ysZs7J
力関係を見極めての根回しとか、自分の印象付けとか上手いよね。
御子柴とかに比べて圧倒的に。

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:38:27.23 ID:9iZ4bBa4
>>430
生前の家康公は、狸ではなく猛牛に喩えられていたとか何とか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 08:00:31.96 ID:Pm2buK+h
>>441
なんか、現在の良くも悪くも我慢強くて怜悧なイメージと違って、秀吉が「おれに天下でかなう奴居ない」って言ったとき
「殿下は小牧のことを忘れたか!」って怒鳴った話みたいに、あいつ怒らせるとガチで危ない、みたいな印象があったらしいね。
多分三方ヶ原で武田軍相手に玉砕して以来の印象。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 08:19:26.74 ID:KTXbAPOz
>>440
御子柴って、阪神の元ピッチャーの?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 10:27:35.89 ID:I+I6BckX
>>438
秀忠のアッー!の兄貴だったからじゃないの

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 11:08:13.16 ID:I+I6BckX
修行中の身でリンク禁止だから貼れないけど
まとめサイトの「丹羽長繁るへの、秀忠の懇志」にも書かれているけど
ほぼ確実に衆道の間柄だったとみていいと思う

『徳川実紀』には
「右大将殿もとより長重とは懇に御したしみありければ、しばしば長重が事なげかせ給ひしにより、
かく召し出されたり」

『名将言行録』には
小田原の役の時に長重がまだ若いのによく兵を用いているのを見た家康が深く親しで
秀忠と兄弟の契りを結ぶように引き合わせたと書かれている

「お前たちは人間じゃない」

2013年01月28日 19:52

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 23:47:22.68 ID:HRn8JFsi
丹羽五郎左衛門の家臣に成田十左衛門(弥左衛門道徳)という勝れた武士がいた。

丹羽家の大きな領地が、子の長重の代には豊臣秀吉に取り上げられて四万五千石に
なってしまった時、成田は広間で「誰か我に一味する者はいないか」と言ったのだが、
座の者は誰一人として答えなかった。

「お前たちは人間じゃない」と、成田は言った。

後にこれが秀吉に知られ、成田は(出奔して隠れていた)伊勢で誅された。

――『老人雑話』




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 18:16:00.79 ID:C2ohUS3j
>>321
当時丹羽家で最大の重臣だった長束正家が、とっくに秀吉に取り込まれているんだよなあ…。

丹羽長重の戦略

2012年10月07日 19:17

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 12:09:46.04 ID:SGttm6PW

世に言う浅井畷の戦いの折、江口正吉は引き退く前田軍に喰らい付き、
鳥銃を打ち掛けた。主君の丹羽長重は銃声を聞いて「遅れるな者共!」と、
馬に鐙を合わせて馳せ着け、終には寡兵をもって前田利長の大兵を追撃した。
この時、正吉は「この殿の早業は今に始まったことではないぞ!」と喜んだ。

この戦いは立花宗茂が寡兵で鍋島勝茂の大兵を打ち破ったのと並び称された。
この後、長重は封地を失うことになったが、後に白川十万石に封じられたのは、
この戦いの勇功を賞されてのことといわれた。当時、諸将は長重と会うたびに
その戦略を質問していたということである。

――『名将言行録』





772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 12:29:16.09 ID:QgFtWxCg
知りたいのは戦場の駆け引きじゃなくて老中たちの接待についてだろうけどな

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 14:49:06.91 ID:DxV9hUs0
老中よりむしろ秀忠さんとのお付き合いの仕方だと思うの

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 15:19:45.74 ID:nlO52Lj8
長重さんって賤ヶ岳当たりで初陣で戦役の度に減封なのによく腐らずに育ったよな

丹羽長重への、秀忠の懇志

2012年03月21日 21:51

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 13:07:34.69 ID:Mw6q4DU5
慶長6年(1601)正月のこと。

関ヶ原で没落した丹羽長重の元に、何事か、土井利勝よりの書状が届いた。
これを開いてみてみると、そこには徳川秀忠の内意が記してあった

『内府公(家康)のあなたに対するご機嫌も和らぎ、今こそ復権の機会です。
早々に江戸に出府してください。』

長重はこれを見て甚だ喜び、早速3人の共を連れて江戸へと登った所、芝の町家において不思議なものを見た。
そこには大きな木札に『丹羽五郎左衛門宿』と書かれていたのだ。

不審に思った長重がその家の亭主に尋ねると、亭主曰く「先日、土井大炊頭(利勝)様より、このようにせよと
仰せつかまつりました。」と言う。

そして長重一行はこの宿にて非常な歓待を受けた。そして数日ここに滞留している間に、
小松時代の家臣たちがこの事を聞きつけ毎日のように馳せ訪ね、あっという間に24,5人も集まった。

これも全て秀忠の心遣いであったが、それまでも、家康が長重を許さずにいた間も、秀忠は長重に対し
色々な懇志をずっと示していたのだという。

長重はここでしばらく幽居し、慶長8年3月、常陸古渡1万石を拝領し、ついに大名に復帰した。

(雄藩雑話略抄)





354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:10:39.79 ID:gQEkI2Ji
>>352
何で秀忠が丹羽にここまでやってくれるかが分からん。

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:57:53.74 ID:kBRjxao5
>>354
親父さんと比較される次代の立場にシンパシーでも感じてんじゃね?w

丹羽家の不穏と秀吉

2012年02月24日 21:51

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 17:45:51.42 ID:/jZaIhlV
天正13年(1585)7月、羽柴秀吉は越中の佐々成政を征伐すると、近々北国に発向すると表明。
そして越前領主丹羽長重にその先陣を許した。長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。

8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、北ノ庄城への
渡御を乞う。秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、長重からの
饗応を受けた。時に秀吉の、長重への懇意なことは、まるで父子のようであった。

この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、この饗応に
大いに喜んだ風で、丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
そして一同にこう申し下した。

「よいか、国主長重は年若い。お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、直ちに首を刎ね、長重の領地は
全て没収する!そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
固くこの旨を心せよ!」

そう厳命すると長重の方を向いて

「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
そなたの父長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、その英名は天下を恐服させたものだ。
そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。この旨をよくよく理解せよ!」

そう厳命した上で北の庄を発した。

秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。

(丹羽歴代年譜)






151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 18:36:41.79 ID:AA7P8lgF
??「北伐と聞いて」

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 18:54:12.21 ID:52PWb2W7
>>151
丞相は三戦板に帰れ

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 20:05:49.27 ID:a+L0bCZ7
いや、岳飛かもしれんぞwしんかいさんにとっちゃ鬼武蔵みたいなもんかもしれんがw

155 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/24(金) 21:00:44.10 ID:zjFqp70B
>>147
減封されたのってこれが原因?

丹羽家改易顛末

2011年10月24日 22:04

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 22:58:11.96 ID:y5v3wUby
天正14年(1586)の早春の事だという

京にあった丹羽長重は、帰国するため豊臣秀吉に対し暇を賜ることを願った。このとき秀吉は
長重の膝下まで近づくと、彼に言葉を投げつけた

「お前は知っているのか!?お前が歳若きことをお前の家老たちが侮り、長秀の遺した掟、
そしてわしが直々に申し渡した掟にすら背き、私意を持って国を乱そうと企んでいることを!

既に去年秋の北成(佐々成政成敗)の時、お前を欺き悪事を働く家臣があって、越中表において
軍令に背いた!

この糾明のため、しばらくお前の分国を散り上げる!
ただし、特別に若狭だけは残してやる。
お前は帰国の上早々に、若狭国小濱の城に移るのだ!!」

しかし、この没収命令以前に、丹羽家において秀吉の命令に従わなかった重臣たちは、すでに
追放されるか又は逃亡し、処分は既に済んでいたのだ。
そして長重の若狭移封により、秀吉の命令に従ったものまで丹羽家を離れることになり、彼らは
あるいは秀吉の直参となり、あるいは新たに越前に入った堀秀政に与えられた。
丹羽家中の解体が、行われたのである。

ともかくも、ここに百万石を超えた丹羽家の領地はそのほとんどを没収され、丹羽長重
わずかに若狭小濱12万3千石の領主に転落した。
(丹羽歴代年譜)






483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 22:34:25.42 ID:rYEbY7FF
>>467
丹羽家は秀吉に散々な目に合わされたのに、
なぜ関ヶ原では西軍についたの?
長重と徳川家の関係は悪く無かったろうに。


484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 22:40:17.02 ID:uAZicEAC
>>483
東軍派だったけど、大谷吉継に警戒して見せかけは西軍としておいたとか?
前田家とは割りとだらだらとしていたり、和睦したりしているし
完全に西軍派には見えないかな

485 名前: 忍法帖【Lv=15,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/10/25(火) 00:39:10.61 ID:IhhQzdeq
>>483
確か前田利長に騙されたんじゃなかったっけ?


487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 05:02:01.30 ID:jNkdrLhp
>>383
関ヶ原の戦いの構図は徳川vs豊臣ではないから。


地理的な事も大きかったんだろうけど、西軍についたのは丹羽家は前田家の事を嫌いだったからじゃないかな。

信長の家臣時代、長秀存命中は丹羽家の方が上だったのに現政権では立場が逆転。
利家と家康が一触即発の事態になった時は家康邸に参集
結果かわされたけど利長謀反も訴えでて、
大名に復帰した後、子孫は前田の分家とトラブル起こしてる。

徳川家の抑えとして東海道沿いに配置された子飼いがことごとく東軍についちゃったのとは逆で
前田家の抑えとして機能したって事かな。

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 09:17:50.42 ID:0QcW39aV
>>467>>487
秀吉と利家の死んだ順番が逆なら
前田家も石高を10万石程度にされてたんだろうか?

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 10:38:15.41 ID:C/dOVjvj
前田家百万石は秀吉と利家の個人的な仁義関係が基盤になってると思う
だから秀吉の存命中に利家が死んだら利家に秀頼を守らせるって構想が崩れるし、やっぱ改易すんじゃないかな
利家だからこそ豊臣家に尽くすって見積りがあってこその百万石だろうし
ラスボスは大和大納言家すら潰したわけだし

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 11:54:02.86 ID:QEb6e5VB
秀吉は、大名を家でなくて個人で見すぎたんだと思う
だから個人が能力を発揮したら大領土を任せるけど
死んで子供になって同程度の統治能力を期待できなくなったら
容赦なく減封しまくった
蒲生家とかいい例だわ

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 12:35:41.72 ID:0QcW39aV
親が死んだら8割以上の減封で功績次第で大増封
みたいな能力主義も間違いって訳じゃないだろうけど

ただ秀吉自身にやられるならまだしも
三成みたいな官僚たちに査定されるようになるとまた変わってくるのかな

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 12:50:48.00 ID:qF3xeU4r
問題なのは、大名を育成するのは難しいけど官僚育成は比較的容易な点
つまり奉行連中だけは自分の仕事を子供に継がせられる訳だ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 13:27:45.60 ID:8nasM1kQ
官僚が常に有能で、情報を多く保有し、
情勢を判断出来るのだ!
って思い込みは日本特有だよな。

結局は、責任とる気概がないから、
失政すると責任回避でいつもグタグタになる。

三成しかり、戦中しかり、現在しかり。

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 13:46:54.25 ID:C/dOVjvj
三成は最終的には斬首という形で責任とったじゃん
有能無能はともかく、官僚としては体制の維持っつー最低限の義務は果たそうとしてたと思うよ
責任から回避しようとしたのは諸大名を監督する奉行の地位にありながら、遺法破りまくりの家康に媚び売ってた
増田・長束らだろ
官僚として責を果たすどころか自分の保身しか頭にないっていうね

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:02:18.43 ID:BouorWkK
>>487
>前田家の事を嫌いだったからじゃないかな
本気で嫌ってたらあんなgdgdの八百長合戦してないと思うがなぁ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:13:17.84 ID:pQ79CznJ
三成は常に自分が表に出ていたし、矢面に立つ事を避けなかったよ
今の官僚は政治家の後ろに隠れて顔も名前も出さずに安全圏で貪っているだけだわ

丹羽家解体顛末

2011年05月04日 00:00

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 04:30:38.90 ID:UfUYSQxM

丹羽長秀が腹の中にできた腫瘍に怒り、自身で腹を斬りその腫瘍を取り出して死んだ、
という話は有名である。この死の前、羽柴秀吉は長秀に対し自筆の書状にて、「子息に
本領を安堵すること相違あるべからず」と固く誓っていた、という。

さて、長秀の跡を継いだのは若干15歳の丹羽長重であった。
秀吉は小牧長久手の際、徳川家康・織田信雄方に味方した越中の佐々成政に対処するため
丹羽家の軍勢を早速動員した。が、その所領安堵のことについては何の言葉もなかった。

この頃丹羽家でも最も力のある重臣は、成田弥八郎であった。

成田は家中の者たちを集め、語った

「それにしても我々の故主(長秀)は、織田殿の御恩が非常に深い方であられた。
それが秀吉という無道人にたぶらかされて、織田家の天下が奪われてしまったのは、
一生の不覚と言うべき事である。

その上大恩ある織田家の公達をすら殺そうという人間(秀吉)がどうして、かつて織田家の
同僚であったというよしみを気にかけ、まだ幼い我らが主君に大国を数多く任せよう、などと
考えるだろうか?

得難きは時、失い易きは勢という。

今にも滅びようとしている我が丹羽家だが、未だ勢が散り失せていない今のうちに、秀吉が
越中に入る頃を見計らって、織田殿の御為義兵を挙げ、佐々と挟み撃ちにしてこれを滅ぼし、
故主の恥を雪ぐ事こそ、いかなる仏事、供養にも勝ることであると考える。
方々はどう思われるか!?」

これに丹羽家中の人々は驚き、「以の外の大きな議題である」と様々な意見が出て、
なかなか意見がまとまらず時間ばかり過ぎた。
そうしているうちにこの事が秀吉の耳に達する。これは丹羽家家臣である長束正家、戸田重政が
秀吉に密かに知らせたのだ、とも言われる。

秀吉の行動は早く、たちまち成田弥八郎を捕らえ死刑に処した。そして佐々成政が降伏すると、
今度は丹羽家の主な家臣、長束大蔵大輔(正家)、村上周防守(義明)、溝口伯耆守(秀勝)、
青木修理亮(宗勝)、青木民部少輔(一重)、寺西下野守(清行)、上田佐太郎(重安)、
奥山雅楽助(正之)、といった人々を全て自分の直臣として召し上げ、その上で丹羽長秀の所領であった
越前、加賀を没収。

「本領であることには相違無い」

と、『織田時代』の所領であった近江国内の三郡を、長重に与えた。


秀吉による丹羽家解体の顛末である。




989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 06:06:06.26 ID:HYKZxb++
秀忠さんお気に入りなんだよなぁ~
でも、パーフェクト超人に比べると地味すぎるけどな~

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 07:34:09.46 ID:ZVDFfcse
>>988
秀吉は約束を反故にしたか
もしかしたら秀吉より家康の方が先に亡くなってたら関八州も取り上げられたかもしれんな

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 08:56:02.74 ID:fzqDC46e
>>988
成田もあながち間違っちゃないんかもしれんが
もっと信頼できる人と話しあってからにすればいいのに

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 09:12:43.24 ID:JhgpqIZ5
厳しいこというと、家臣の一部が反乱を企てたとしてそれを主人として抑えることができなかった以上
「大封に要地を任せておくことはできない」という判断も非難できないんだよなあ
丹羽家が主導でこの企てを潰していたらまた秀吉の対応も変わったかもしれないけど

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 10:26:05.97 ID:B3b/p1db
まあ、長重も鬼吉川みたいに、秀吉の命を受けたクロカンに毒鮭
食わされなかっただけ、ましだと思うがね。
命あってのものだねだよ。

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 10:53:43.30 ID:qWh7RT0N
まぁ、秀吉からすれば長秀に恩はあっても、息子の方には何にもないしね。

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 11:05:36.34 ID:yZiUMPKa
長秀が北条降伏後まで生きていたら関東入りしてたかなあ

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 11:54:42.02 ID:fFHCHO72
長束・戸田「計画通り」

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 12:16:07.61 ID:v+ulFDbP
ラスボスは親や親、子は子って割り切るよね
丹羽さんの件も蒲生工場長の時も

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 12:25:00.01 ID:YbX/+Jn7
>>988
浅井が朝倉攻め途中の織田を後方から攻撃した話とかぶるね

武士と弁舌

2010年06月10日 00:00

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:17:43 ID:wyGzbFwN
丹羽長重が加賀小松城主だった頃のこと、

長重の家臣に小笠原犬頭(けんとう)という侍がいた。
彼は武勇の武士であったのだが非常な口下手で、そのため小身のままであった。

ある時長重の元に江口三郎右衛と言う、上方の牢人が仕官を求めに来た。
江口も武勇に覚えの有る侍であったが、なにより弁舌に非常に優れていた。
長重は江口の弁舌を非常に気に入り、いきなり、長年仕えた小笠原をはるかに超える
高禄で召抱えた。

戦国の世であっても、武勇だけでなく弁舌も上手くなければ出世出来なかったのだ。
と言うお話。




327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:24:55 ID:Ien8ln/E
そこで終わっちゃうのかよ!

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:28:18 ID:wyGzbFwN
オチはないんだ。比較だけなんだよ。
でもそれだけに、やけにリアルでしょ?w

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:29:15 ID:j325ok+n
逸話じゃないしw

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:39:25 ID:sr2jTNxq
宗茂さんの影に隠れてるけど長重さんも波乱万丈だよなw


331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:46:38 ID:NpqW4wRx
プレゼン能力って大事だわな

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/09(水) 18:51:15 ID:/NNwfncL
>>326
三河武士一同「だから上方武士と言うのは信用ならん…」

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:51:45 ID:D1glf2xp
トップに平が評価を見てもらう機会なんて今も昔もないわけで
中間管理職が評価を中抜きしてしまう人物かどうかが分かれ道になるんだろw

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 19:57:23 ID:q7KBIZdS
口下手っつーか無口なのに五大老に名を連ねた人もいる
どうしてこうなった

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 20:01:14 ID:UijYi038
五大老はバランスの結果じゃん

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 20:26:17 ID:RmJYMvP5
>>332
関ヶ原後には、三河武士の中でも口下手な連中は微禄・閑職に留められちゃったよね。

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/09(水) 20:54:22 ID:NpkpjYo0
>>326
悪い話とも思えんが。
弁舌も技能の一つだろう。
交渉ごととかに使えるぞ。

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 21:08:35 ID:RmJYMvP5
>>337
本多忠勝
「茶の湯、歌道、不義、弁舌を好むようなぬるい奴らは、折を見て首を刎ねてしまうべきである。」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3699.html

晩年は、鬱憤がたまってたんだろうなぁ。

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 21:30:10 ID:bfWTLe7C
治世になったんだから仕方ない。
むしろ粛清されない事に感謝すべきである。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 22:00:16 ID:daQXPwh2
>>334
マジレスすると隆景さんが死んじゃったから兼続抱えてる景勝が次点で繰り上がった

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 22:41:28 ID:uJWEK2L9
金吾「小早川家にはわしがおるものを」

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 22:50:44 ID:wyGzbFwN
>>342
マジレスすると隆景さんが死んだときあんた未だ15歳だからな

丹羽長重家臣、南部無右衛門と、永原松雲

2010年04月21日 00:00

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 15:01:35 ID:EzQWDSQR
丹羽長重の家臣に、南部無右衛門と、永原松雲という男がいた。

無右衛門は武辺者として知られたが、傍若無人の振る舞いがひどく、妻帯せずに養子をもらい、招かれもせぬ宴席に
養子まで連れてやって来ては膳を平らげ、しまいには重臣が長重を招いた席にも現れ、勝手に飲み食いした。
たまりかねた重臣が主君に苦言したが、長重は、
「無右衛門の行状はあきれ果てたものだが、ヤツの武勇はそれあってのもので、今さら改めさせても、
角を矯めて牛を殺すようなものだ。捨て置け。」と言うので、みな無右衛門に白い目を向けながら黙っていた。

一方、松雲は軍学や有職故実、和歌等に通じ、「あれこそ器量人よ。」と家中から賞賛を浴びる身だった。
面白くない無右衛門が、毒を吐く。
「ふん、口先の軍学など実戦の役に立つまい。いざ戦になれば手に覚えた、わしの早業に比べるべくもないわ。」
これを聞いた松雲も、
「無右衛門の如き葉武者は、しょせん槍一本の働きのみ。味方を勝利に導くような大功は、有り得ぬ。」と、罵った。


慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの機運が高まると、丹羽家中には人質を出すよう触れが出された。
養子しか家族のいない無右衛門は、これを断ったが、
「こんなお触れは、あの松雲めが軍学者ヅラして、わしへのイヤガラセに入れ知恵したものだな!よし、殺す。」
逆恨みして松雲の屋敷に駆けつけると、松雲への面会を申し込んだ。

日ごろ仲の悪い無右衛門の来訪に、イヤな予感がした松雲は居留守を使ったが、無右衛門は下男の断りを無視して
屋内に入り、松雲を発見すると脇差を抜いて松雲を押し倒した。
下になりながらも松雲は柔術で無右衛門のヒジを押え、腕を絡み取ると、脇差を奪い取って部屋の隅へ放り捨てた。
しかし、腕を取られながらも暴れることをやめない無右衛門は、
「ガ―――――ッ!!」松雲の鼻っ柱に噛み付き、松雲の家の者五、六人が取りついて、やっと押さえこんだ。
とんでもない騒ぎを起こした無右衛門だが、『戦の前に人数は減らせない』として、不問に付された。


その後、浅井畷で丹羽と前田の間で戦が起こり、丹羽家家老・江口三郎右衛門が敵を深追いし過ぎ、苦境に陥った。
一隊を任されていた松雲は、「もはや手遅れであり、救援は無益だ。」として、これを傍観し、自分の隊を温存した。
ところがその時。無右衛門が前田軍の真っ只中を駆け抜け、見事に江口隊を救出し、形勢を逆転してのけた。

無右衛門は「長重様の言葉に違わぬ奴」と賞賛を受け、松雲は「アレは、あてにならん」と評判を落としたそうな。




279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 18:25:27 ID:AVlkW93K
なんとも言えん読後感だ

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 19:24:48 ID:zbAYi7sb
よし、殺すw
ひでえな、この即断即決

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 19:32:59 ID:WptP0hA0
戦場以外では確かに用のない人だ

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 19:52:51 ID:QEhhR7ZX
結婚もせずに養子をもらったということは
アッー!な関係なんだろうな

283 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/20(火) 20:00:56 ID:+zEQWnEj
オレ、いい話のほうだと勘違いしていて、最後に窮地を救って仲良くなるんだなって思ってたけど
オチまで読んでから悪い話のほうだと気がついた

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/21(水) 04:16:47 ID:HiGIbu2R
もっと時代が下れば兎も角、この頃は衆道相手を養子にするってのは無いんじゃないの
俺が無学なだけかもしれんけど

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/21(水) 07:28:23 ID:I6WbWXO8
こいつを養子にすれば後継者問題は解決するわ家中が安定するわでいい事づくしだお!
でも昔衆道関係を持っていたから養子にできない…くやしい…
って事はないだろう多分

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/21(水) 07:43:02 ID:MUagPOOE
どっちにしろ大概のしきたりとか無視しそうじゃね?

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/21(水) 08:20:42 ID:ITnr01ii
>>278
曲渕さんみたいな人だな >>無右衛門



関連
加藤清のあたご山攻めにて、南部無右衛門
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5153.html

丹羽長重と感状の要求

2009年10月10日 00:25

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 15:00:06 ID:WN0eMudG
関ヶ原の頃の事。

北陸においては、金沢の前田利長と小松の丹羽長重が戦っていたが、大呂と言う地で
大規模な衝突が起こった。
これは結局引き分けとなったのだが、この時、浅井縄手と言う場所での戦闘において、
前田方の松平久兵衛の部隊の槍働きが見事だったと言う事で、久兵衛には利長から
直々に感状が与えられた。

さて、これを聞いて黙っていられないのが、この久兵衛と浅井縄手で戦った、丹羽方の将、
安孫子清右衛門と成田助九郎である

「浅井縄手では松平久兵衛の部隊と我々とは、互角に戦った。なのに向こうでは感状が与えられて
我々には感状が無いとはどういうことだ!
ここは長重様にも感状を出してもらおう!」

こんな事を言い出した。ところがこれを聞いた丹羽長重は、安孫子、成田の両名に

「浅井縄手は道も狭く非常に足場の悪い場所である。
よって、我等にとってもそうだが、当然前田方にとっても、非常に働き辛い地形であった。

確かにあそこの戦闘は、勝敗のはっきりしないまま終わった。
が、一足でも敵を追い立てるのが、槍働きの誉れというものだろう?
なのにあのときの戦闘では、橋の向こう側で先ず衝突したのに、終わったときには
橋のこちら側だったそうじゃないか。

たかが橋一つの距離だ、退いたのはほんのわずかだと言える。
が、これは果たして互角の勝負か?条件は同じだったのだぞ。

それにお前達!敵が引いていくとそれを追いかけて、勝手に持ち場を離れただろ!
その咎もあるぞ?

安孫子、成田、お前達両名の働きは確かに人を超えていた。だが、これでは
感状を出す事は出来んよ。」

これには安孫子と成田、ひとことも言い返せず、要求はどこへやらす、ごすごと引き下がったとの
事である。
他所の褒章の話を聞いてついつい欲を出し、とんだ薮蛇を出してしまった、と言うお話。


ちなみに関係ないが、この時感状を頂いた松平久兵衛さん、
現日本バレーボール協会名誉会長である、松平康隆氏のご先祖様である。
ご先祖豆知識。




318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 20:57:31 ID:Qd7HiXoS
>>311
各地の関ヶ原の戦いも、見てみると面白いんだね
今度調べてみよう


327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 01:30:51 ID:z/cT2e2v
>>311
百万石の前田勢と12万石の丹羽勢で戦って橋1本で済んだのに
感状もなしとはけち臭いな

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 02:22:02 ID:/5ebRG43
感状なんて元手なしに出せるんだから、そこそこ働いたならけちけちせずに出せばいいのに…
それとも1枚でもおかしな感状を発行すると即座に価値が一気に下がるような不安定な相場だったのかね。

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 02:32:53 ID:c8+AGo5S
>>328
滅多に出さないからこそ価値があるんじゃないか?

331 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/10(土) 09:42:39 ID:wv1vw3qt
>>327-329
鳥居さん「感状なんてものは、真の忠臣には不要」
ホモゲンさん「やつクラスの武将ならその程度は"当たり前"の武功」

と、いった解釈もあるわな

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 09:46:59 ID:+Ng/PHST
感状をくれなくて
感情ぶちきれて
これはいかんじょうという感じで
出奔するギリワン藤堂さんのような人物もいるわけで

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 10:50:43 ID:V/NIT+eI
とりあえず山田有信クン、>>332の座布団全部持ってって

あーたね、ダジャレはともかくね。ギリワンはなかろうもん

丹羽長重の没落と大谷与兵衛・いい話

2009年06月18日 00:12

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/16(火) 23:29:00 ID:RGwtTNf7
西軍についた丹羽長重は、関ヶ原の戦いの結果、没落した。
これにより長重は漂白し、付き従ったのは大谷与兵衛一人であったと言う。

大谷は自分の馬に長重を乗せ、三尺手ぬぐいを切り裂いて轡を結ぶなど、懸命に世話を焼いた。
各地で落ち武者狩りが勃発したが、これをなだめすかし、あるいは夜を徹して逃げ、
ついに長重を上方へと送り届けた。

この時、長重は大谷に手を合わせて、「お前から受けた恩は決して忘れぬ。もし許され、
再び大名へと戻る事ができたなら、必ずその十分の一を与える!」
そう、約束した。

後、長重が1万石で召しだされた時、早速に大谷を呼び、千石を与えたと言う。

世の人々はこれに、「主君が上がり目の時は、誰でもそれに付き従うものだが、
落ち目を見届けた大谷与兵衛こそ真の忠義者である。」と、そのように言いそやしたそうである。







丹羽長重「のそのそとお通りはなさるのは」・悪い話

2009年06月13日 00:00

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 22:39:37 ID:CWNU5gZ4
丹羽長重が、白川を領していた頃の事である。

この頃白川に、参勤の途中の伊達政宗が、しばしば立ち寄っていた。
ある時、丹羽長重との酒宴の折にこんな事を言い出した

「加藤嘉明とあなたとが、奥州の押さえの城を任されておりますが、
ここを我らが数万の勢で押し渡ろうとすれば、ちと難儀いたすでしょうな。」

この挨拶に長重
「我らがいかに小勢だと言っても、あなたの旗本さえ突き崩してしまえば、
のそのそとお通りはなさるのは難しいでしょうな。」

そこで、互いに大笑いしたとのこと。

酒の上の会話だけどなにやら黒いものを感じさせるのでこっちにw





234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 22:48:09 ID:KQKqltI/
お互いに口元が引きつった笑いを浮かべてそうだな

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 23:33:11 ID:gocBtORd
小十郎と白河城なら昼飯前にはおとせるとか言ってたのに>政宗


成田官九郎の進言・悪い話

2009年04月25日 00:08

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 16:28:08 ID:gx1OGd2y
丹羽長重の小松城に、豊臣秀吉が立ち寄るという折の事。
長重の家臣に、成田官九郎と言う者がいた。

彼は長重に説いた。「秀吉は先君長秀公を、北陸管領にすると賤ヶ岳の折約束しました。
ですが長秀公が没するとたちまち小松12万石に減じ、丹羽家は滅亡と言っても良いような有様です。
このような秀吉の不義、憎むに余りあることです。どうか私に秀吉を討つ事をお許しください。
たやすく刺し殺してご覧に入れましょう!」

しかし長重は聞き入れず、この沙汰も事止みとなった。

ところが、秀吉はどこからかこの事を知り、大いに怒って成田を捕らえようとした。
成田は小松を退き伊勢の朝熊に隠れたが、終に探し出され、殺されたとのことである。

おそらくは内々の話し合いであったに違いないこの陰謀を、秀吉が知ったという事は、
既に丹羽家の内部に秀吉は、相当の内通者を持っていたのだろう。そんな事を感じさせるお話。




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 17:00:39 ID:10G/8LQJ
織田の遺臣に対してる時のラスボスは
なんか末期のラスボスの影を感じる

江口三郎右衛門の家来出口とその妻、酒と泪と男と女・いい話

2008年11月23日 00:06

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/22(土) 14:12:09 ID:U44SoZA8
酒と泪と男と女

丹羽長重の家臣、江口三郎右衛門の家来に出口という60才の老将がいた。
出口は数々の武功を挙げたが、酒乱が災いして200石の薄禄に甘んじていた。

関ヶ原の合戦で、丹羽長重が大聖寺を攻撃した際、出口は江口隊として従軍した
が、歳のせいでへばってしまい暫し休憩していた。

そこに、腰に短刀、片手に瓢箪を持った老女が江口の陣に向かって歩いて来た。
よく見れば、自分の妻ではないか。
「おーい、こっちだ!好物の酒を持ってくるとは感心な妻じゃ。」ところが妻は
夫を無視して、江口の陣に向かう。
妻は江口の陣につくと、陣の外でへばっている夫を指差し、
「あそこにいるじじいは私のダンナです。戦場で昼間するような男に酒を飲ませ
るバカはいません。あなたたちも、あんなろくでなしにならないよう、必死で戦
いなさい。」と励ました。
そして、妻は浅井山によじ登り、前線にいる大将の江口に陣中見舞いの酒を届け
た。
よろこんだ江口は酒を飲み干し、見事敵将を討ち取った。

さて、妻にバカにされた出口は奮起して、こちらも見事首を取った。
「ばばあ、首を取ったぞ。早く酒を飲ませろ。」
それを見た妻は笑い、
「あなたは酒飲みたさに奮起しただけでしょう。その首を取った手柄はあなたで
はなく、この瓢箪と言うべきでしょうが。」
とカラの瓢箪を振って見せた。
「くそ~、あのくそばばあに騙された。せっかくの首もムダになったわい。(あ
の古嫗に誑かされて、あだ骨を折りつる事よ)」と非常に悔しがった。

そんな夫婦のやりとりを見ていた江口たちは大笑いしたという。
(武将感状記)




680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/22(土) 14:16:45 ID:TaY7+cgv
いい夫婦の日にふさわしい逸話だなw

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/22(土) 17:15:07 ID:7BQLGGWi
一番手柄はその奥さんだな

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/22(土) 17:58:48 ID:Yg7YW6L4
これは良い夫婦ww

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/22(土) 18:01:18 ID:ppor7IMx
>>681
奥さん「べっ、別に私の手柄じゃないんだからねっ!褒めるなら瓢箪を褒めてあげてよねっ!」

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/22(土) 19:01:08 ID:u4eRt8O0
なかなか剛毅なババアだなw