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これより盲船の法として

2022年01月18日 17:08

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/18(火) 16:04:56.07 ID:bEd+8sDn
大阪冬の陣に、九鬼長門守守隆は大船を数多乗り集めた。この頃、加藤肥後守清正が建造した
唐船作りの大きな川船が兵庫浦に逗留されていたのだが、明石掃部助全登がこれを取って、
軍船に改造し九鬼守隆と戦ったが、守隆の将である渡邊数馬がこの船を乗っ取り、そのため
明石全登は城に引き返した。この時全登の十文字の馬印を、渡邊は獲った。
しかしその折に渡邊は負傷し、源君(徳川家康)は本多上野介正純を以て守隆を労し、渡邊に金瘡の
妙薬を賜ったのだが、回復せず死んだ。

源君は守隆に、大阪城の隅櫓より発射されるフランキ砲を防ぐよう命じた。守隆は盲船を造り
水底を潜航して遂にフランキ砲を以て隅櫓を打ち破った。これより盲船の法として世に伝わったものは、
九鬼家が始めて製造したものである。

志士清談

九鬼の盲船の活躍について



967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/18(火) 16:10:44.34 ID:84x5JFhP
潜航だけなら隠密航行したのかとも思ったけど、水底をって書かれてるのか

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/18(火) 17:05:54.36 ID:wBbPDQNK
潜水艦!?
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九鬼の盲船

2022年01月07日 18:41

929 人間七七四年 sage 2022/01/06(木) 21:41:17.69 ID:ak4lRxaa
大阪冬の陣に於いて、九鬼長門守守隆は盲船というものを作った。これは胴壁天井に、竹束を以て
丈夫に囲み、船首、船尾に銃口をあけ、取舵面舵共には四箇所の口があった。
明かりは引戸に拵え、口に打鍵を付けた。天井は竹束にて葺き、逆櫓を立て、打鍵の本六尺に重を付け、
その先に細引きを付けて、船の形異形であった。
これによって船中の軍兵は手も負わずして味方の働きは自在であった。

九鬼は太閤秀吉公の時、朝鮮国に在陣して大明の軍兵と船軍をすること数年であったので、主人郎党に
至るまで、調練妙を得ていた。即ち長門守は、難波橋の舟入より、この舟を川に入れて、鉄砲を城中に
打ち入った。

新東鑑

潜水艦とも言われる九鬼家の「盲船」についてのお話




930 人間七七四年 sage 2022/01/06(木) 22:46:44.77 ID:7ZpPPo9o
島田荘司「星籠の海」で
村上武吉が潜水艦で九鬼水軍の鉄甲船を攻撃してたのを思い出した
https://i.imgur.com/fG68eNr.jpg

嘉隆の運命のほど

2017年02月16日 17:14

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 20:08:35.82 ID:0fvy8vfu
慶長5年、関ヶ原の役において、九鬼長門守守隆は家康の会津征伐に従い、小山の陣に伺候していたが、
父大隅守嘉隆は、隠居の身として石田三成に与し、海賊を集めているという情報がもたらされた。

これにより「九鬼守隆を幽閉すべし」との声が上がったが、成瀬隼人正正成は反対した

「長門守が謀反を謀ることはありません。そもそも今回御供つかまつった上方衆のうち、
父子・兄弟別れているものは多くおります。その中で長門守一人を押込めるというのは
如何でありましょうか?

先ずは長門守に今度の旨を仰せ聞かせられ、その上で九鬼の領地に遣わし、彼の様子を
ご覧になった上で、必要な時は踏み潰す。そうしたほうが簡単であると存じます。」

そこで家康は守隆を召し、委細を聞かせ、「早々に志摩へ馳せ上がるべし。」と命じた。
守隆畏まって鳥羽へと赴いたが、考える所あって父。嘉隆とは対面せず、自分は関東に
御味方仕る旨を申し送った。

息子守隆が合流しないことで、嘉隆の勢力は広がらず籠城も難しくなり、伊勢神官の内に知人があり、
それを頼って城を開き退いた。ところが嘉隆の家臣である豊田五左衛門という男が、あえなく
主人嘉隆を害してしまった。

これを知った守隆の口惜しさは如何程であっただろうか。
流石に父に対しては敵し難いと考え、勿論関東に背く心もなかったため、直ぐには父子対面せず、
引き別れて立てた忠孝をどうにかして申し上げ、父の命を救うという計画が果たされるのは
目前であったのに、家臣豊田の大逆にて害されてしまった嘉隆の運命のほど。
是非もないことである。

(武野燭談)