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白河義親顛末

2016年03月22日 11:16

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/22(火) 10:06:45.18 ID:Sv+Wg9UP
白河の、結城七郎藤原義親は、かつて暦応(1338-1342)の頃、南朝の勅によって、国司北畠顕家卿の
要請に従い、奥州より攻め上り伊勢国にて死んだ結城上野入道道忠(宗広)から十代あまりの末裔である。

であるが、義親の一族である中島上野介という者は、義親へこう諫言した
「豊臣秀吉公が鎮西南海北陸に威を振るわれている事は、ここ5,6年の間に耳に触れてきたことです。
殊に、今度は坂東一の首長である北条の一族も間もなく滅亡するだろうと、世間もはっきりと取りざた
しております。ですから、直ぐに小田原に参向あって、秀吉公の味方に属せば、まさに当家中興の先表になると
考えております。」

しかし義親
「私もそうは思っているのだが、家が貧しいため行程の旅費、土産の品も沙汰しがたく、徒に日を移して
しまっているのだ。」

上野介
「今度のことはお家の大事なのですから、旅費・土産は家中の面々に課役をかけ調達すべきです。
先ず、土産の品は、秀吉公も小田原まで遠路の陣中なのですから、米ニ百俵を献上すれば然る可きと
考えます。その内の百俵は私が調達します。残りの百俵を、家中にて調達して下さい。
しかし、もし遠方への旅程を苦労に思われるのでしたら、恐れながら私が代官と成って秀吉公の
もとに向かい、宜しく申し上げます。」

こう言われても、白河義親は結局はこれに同意しなかった。
彼は奸佞の近習たちを集め「この事どう思うか?」と評議させた。
面々は兵粮運送の課役を厭い、言葉巧みに申し上げた
「今の乱世に諸民は疲弊しています。その上に白米ニ百俵の課役運送の人夫の費えは、民にとっても莫大な
ものになります。
また、あの中島上野介は、普通の人間以上に利口で弁舌の立つ人物ですから、彼が代官と成って秀吉公の
御前に出れば、何を言い出すか解ったものではありません。」

等々讒言したことに、白河義親も同意し使者すら送らなかった事こそ、運の尽きであった。
その後秀吉公が会津に下向した際、義親は御迎えに出たものの、彼は許されず領地は没収され、その地は
伊勢の住人である関右兵衛に与えられた。

この後、白河義親は城西の金勝寺という禅寺に密かに居住したが、関右兵衛はこれに遣いを立て伝えた
『そこでは下郎の推参もおぼつきません。ひとまず何処へなりともお退きされますように。
こう申すのも痛わしい事ですが、公儀を恐れ、このように申し入れているのです。』

義親は
「私もそう思っているのだが、暫く住居を求めている間にこの様に引き延ばしてしまった。
追っ付け立ち退くであろう。」

そう返答し、やがて那須の内湯元という所に移っていった。
後には伊達の一族の由縁があったため、仙台の門下に降った。

(伊逹秘鑑)



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合戦において容赦の道は

2015年09月01日 16:19

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 00:10:18.75 ID:z/7p6W1K
天正3年、佐竹義重が白河結城義親の領地である陸奥国白河郡棚倉を攻め取ると、
翌4年4月27日、白河勢は小峰城にて逆襲の軍議を開き、棚倉を夜討ちすると決議した。
そして此の作戦が功を奏し、棚倉の佐竹勢は壊乱、主将の渋江内膳は逃亡した。

さて、白河勢が棚倉城内に突入し、佐竹勢を生け捕ること無く一人残らず討ち取っている中、
白河勢の斑目織部少輔、斑目能登守兄弟は、渋江内膳が置き残した2歳の女児を発見した。
兄弟はこれを見て思った

「侍の身として、この2,3歳の女児を敵だからといって、刺し殺さなければ
勝つべき戦が負ける、などということもあるまい。此のような少女を殺すのはあまりに情けない
振る舞いではないか。」

そういって、小貫五郎左衛門という者に兄弟は口上を言い含め、女児とともに渋江方へと送った。

斑目兄弟の使者は常陸太田に着くと渋江の館に入り、斑目の書礼、並びに2歳の女児を渡した。
渋江内膳はこれに大いに感動した

「さてさて、斑目兄弟は聞きしに勝る勇士である。これを送って来られたこと、その志忘れがたい。
この事は我らの大将に申し上げその上で返答を申す!」

そう言って佐竹義重に申し上げると、義重も
「敵ではあるが心優しい者である。直ちに返礼を遣わさねばならない。」と、書礼を認め渡した。
渋江は急ぎ館に帰るとかの使者にこれを渡した。

その後、天正4年7月3日、佐竹義重は再び大軍を発し白河へと攻め入った。
この陣には農民を集め、全員に手に鎌をもたせ
「青田を刈り取るのだ!白河の慶民を困窮に及ばせ、その飢饉の惨状に乗じて以後の戦いの利を得るべし!」
この青田刈りの奉行には、渋江内膳が任命された。

渋江は様々に思案した
「この4月、棚倉が夜討された時、私の2歳の娘を返した、東館の住人、斑目の志忘れがたい。
今度の合戦、彼の領地の青田は刈ることから除こう。」

そう思いたち、斑目のもとに使者を立てた
「あなたの領地の青田には、何でも良いので目印を立ててほしい。そうすればその場所は
刈ることはありません。」

斑目はこれを聞くと言った
「勇士たるもの、合戦において容赦の道はない!我ら斑目兄弟は不肖ではあるが、佐竹を頼るのは
道に非ず!2歳の女児を返したその縁で、今度の合戦に容赦を得るなど何たることか!
ただ運を天に任せるだけだ。返礼にも及ばぬ!」
そう激怒し、寄せてくる敵を待ち受けた。

佐竹勢は小野崎、大縄を先手として棚倉に攻め入った。大軍であったため白河勢の要害も
歯牙にも懸けず攻め入ったため、白河勢は防ぐ手段無く釜子まで侵入された。
渋江、刎石勢が青田を刈って通って行くのは情けない限りであった。
しかし彼らは、斑目兄弟の領地だけは、青田を刈らず通り過ぎた。
そして佐竹勢は常州へと引き上げた。

(白河関物譚)

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 17:03:46.91 ID:z/7p6W1K
>>640の続き

その後、佐竹の大軍が釜の子まで攻め入ったが、白河方は棚倉の保住大学を始めとして所々で防ぎ戦った。
しかし敵は大軍、味方は少勢であり完全に不利であり、さらに青田が刈り取られたことで大規模な飢饉も
起ころうとしていた。

所がそんな中、斑目の領分だけは青田が不思議と残されているとの注進が入った。
結城義親はこれを聞くと、「斑目兄弟は佐竹との境を守る者だが、定めて心変わりをしたのだろう。
かの兄弟を呼び寄せて討って捨てるべし!」そう考えて斑目兄弟を小峰城に呼び寄せた。

小峰城では、石井弥源太、箭内内蔵之介という、身分は軽いが心剛にして日頃より度々手柄を表した者達に
30人ほど兵を付けて待ち構えていた。

義親からの内輪の話だからと、斑目兄弟は密かに座敷に入れられた。と、ここで遣いの者が戸の側で
飛びかかった。斑目兄弟は「何事か!?」と刀を抜いて走り回ったが、そこに大勢が喚きながら掛かり
ついに両人は殺された。

こうして斑目兄弟が結城義親によって滅ぼされたため、棚倉に居住する者達は佐竹に追い詰められ、
度々戦い知略をめぐらしたものの、ついに棚倉、赤館まで佐竹の手に入った。

(白河関物譚)



648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 17:37:16.93 ID:eyPy9V51
>>640>>647
これっていい話なの?なんか渋江の内部分裂作戦がうまくいった風にも受け取れるけど?

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 18:40:48.10 ID:UiaD4USc
たぶん斑目兄弟の遺児が加賀藩に召し抱えられて、その子孫が猫侍になるなんて後日談があるんじゃ…

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 23:48:35.17 ID:/1TGz7gC
白河の斑目さんも弱い物は殺せないんやねw

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 09:45:32.99 ID:EayWawI5
>>648
良かれと思ってやった事がひどい結末になりましたってことでしかないのでは
いい話といえるかどうかは疑問だが

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 09:54:49.73 ID:Ic3r2CMl
青田刈りを免れた時点で裏切りを考えないからこうなる

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 11:25:48.00 ID:iTV8Jiyu
青田をば
刈られず己の
首刈られ

~斑目織部、心の俳句

中畑上野助の討ち死に

2013年11月23日 18:53

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 15:58:17.14 ID:UcE1Us7k
摺上原の戦いで伊達政宗が勝利すると、その威勢は益々振るい、敵対していたその叔父である
石川昭光も、政宗に従う様子を見せた。このような情勢により、政宗に対してあえて弓を引こう
という者はいなくなった。

このような中、伊達政宗が白河を打ち取り、常陸の佐竹義重と合戦を行う、という風聞が流れた。

ここに須賀川(二階堂氏)の旗下である大里安房守は、とにかく政宗に従うのは無念だと考え、
同盟者である白河(小峰義親)家臣・中畑上野助晴辰の元に申し遣わした

『私はこの城において政宗の軍勢を引き受け、討ち死に仕る覚悟です。
あなたも白河の旗下ではありますが、私と同じく戦いの準備をいたしてください』

中畑は『ご尤もお知らせです。私の居城においても随分心がけましょう。』とだけ答えて
使者を帰らせた。

この中畑上野助は、どういう考えからであろうか、政宗と対峙して兵を受けるのは如何かと思い、
本城も中畑から、三城目という場所まで後退して居城としていた。

ところが天正18年(1590)、伊達政宗が大里を攻めるという話を聞き、中畑は、この辺りも
戦争に巻き込まれると考え、取るものもとりあえず、相馬の方に居る交流のある者の所に
落ちるべきだと、早々に支度して落ちた。

中畑の弟に大畑大学という者が居たのだが、この弟はかつて白河から会津への加勢に使わされ、
武勇有るものであったので敵に深入りして討ち死にしたのであるが、その後引き取っていた
その弟の妻と5歳になる息子まで捨てて中畑は落ちていった。
この母子は、後で大國五座右衛門という者の手によって、大久保村という所に送られた。

中畑は荷馬34,5頭を並べて中村を目指して落ちていった。所が、 三春の行合村という所を
通ろうとすると、彼らが落ち行く事を聞きつけた野武士たちが、その財貨を取ろうと大勢道に出てきて、

「その財貨を残らず引き渡せ!」

と要求してきた。中畑はこれに

「そういう事なら、2,3駄は残すので残りは通して欲しい」

と言った。野武士たちはこれを聞き入れず、中畑一行に打ち掛かった。
中畑の家臣である石塚掃部や雑兵たちは必死で戦ったが、多勢に無勢であり、
終に中畑上野助はその子とともに、行合村にて討ち死にした。
実に哀れなる次第である。

家臣の石塚掃部はその首を取って三城目に持ち来て、塚を築いて弔った。
(白河関物譚)

中畑上野助の討ち死に、というお話




870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 17:24:16.11 ID:FnK7PD8H
>>868
???「残念だが当然。臆病者らしい最期といえる」

小峰義親の没落

2013年03月19日 19:53

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 04:40:24.34 ID:SMoxuC6R
天正18年(1590)、小田原の陣が始まると、白河結城氏当主、小峰義親も秀吉への臣従を考えるようになった。
ここで一族の中島上野は、すぐに小田原の陣へと参上し、秀吉に直に臣従するようにと進める。
しかし義親は「財力がなく、行程の費用も献上品の費用も覚束ない」とその案に懸念を示す。これに上野重ねて

「今回の小田原参陣の費用は。家中のものに課役して調達すれば大丈夫です。また献上品としては
合戦の最中であるので、白米二百表を持って行くべきでしょう。そのうち百表は私が用意します。
残りの百表は、これもまた家中の者達に課役して整えれば良いでしょう。
白河から小田原までは遠路であり、殿ご自身が行かれるのは様々な苦労が考えられますので、恐れながら
私が代官として罷り行き、良きように取り計りたいと存じます。」

上野は心からの提案であったが、義親が他の家臣達にこのことを相談すると、家中の者達は課役の負担を嫌い、
「我々の愚案を申し上げますと、上野が申すことは一向に心得難いものです。
現在の乱世に、白河の諸民も疲弊している上、白米二百表の運搬の課役が加わっては、民間の負担は
莫大になり過ぎます。これが一つ。

そしてもう一つ。上野は大変頭の切れる人物です。これが代官として秀吉公の前に出た時、その立場を利用して
一体どのようなことを言い出すか、計りかねます。
この2つの問題はどちらも穏やかなものではありません。懸念の少ない方に従われるのが、然るべきだと考えます。

幸いにも伊達政宗が、小田原へと参陣するそうです。であれば政宗を頼り、使者を一人添えて、馬や鷹など
折に宜しきものを持たせこれを献上するのが良いでしょう。」

運の末とはこういうものであろう。義親は彼らの言葉に同調し、政宗に頼んで使者を一人同行させ、
海松黒(みるくろ)という良馬と逸物の鷹を秀吉への献上品とした。
政宗は「仔細は聞いた。献上品は良きように秀吉公に披露し、御前にて申開きができるようにしよう。」
と軽く請け負い、使者を同行させて会津を出発し小田原へと向かった。

ところが政宗は思いもよらず秀吉の不審を被り、底蔵という山中に蟄居させられ、自分の身が危なくなり、
義親のことなど構っている場合ではなく、使者を取り次ぐ事は一切なかった。
あまつさえ義親が献上品として持たせた馬と鷹を、「政宗からの献上品」として秀吉に披露した上、
義親の使者にも、

「お主のことは随分良きように秀吉公の方に申し上げたのだが、陣中の忙しさに紛れ、未だはっきりとした
御沙汰も無い状況である。その上、この政宗の身の上もなにかと不透明だ。であるのでお主は
先に帰国するのだ。小峰義親の事については今後承り、帰国後そちらに報告する。」

そういって白河に帰させた。国元の小峰義親はこれを信じ、所領安堵の事は仔細なく認められると思い
政宗の帰国を心待ちにして日を送っていた。

ところが政宗は近年の横逆な振る舞いを咎められ、横領した会津・仙道を没収され、本領だけを
安堵という命令を受け、会津へと下った。そして義親に使いを立て

『あなたの事は大変力を入れて弁明に務めたのですが、一体どういう理由からか、何の御沙汰も
得られませんでした。そのうえ私の身上もこの様に成ってしまった上は、もはや力ない事であり、こうなった以上
あなたが居城にそのまま居住されるのはどうかと思われます。ひとまず城は開城し、他日秀吉公より
御免を受けた後、晴れて所領安堵という事になるでしょう。』

この思っても見なかった報告に、義親は途方に暮れたが、ともかくも暫くの事と、城の西に当たる
金勝寺という禅寺に移った。

しかし秀吉の東北仕置により、白河は伊勢の住人である関右兵衛尉(一政)に与えられ、
金勝寺の小峰義親は新領主の関一政から、治安への懸念などを理由とし領内からの退去を求められ、終に
白河を出て那須の湯元という土地に移住した。
(会津四家合考)

奥州の名族白河結城氏・小峰義親の没落、についての逸話である。




951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 10:23:12.10 ID:+7S+YBMQ
政宗のことは知ってただろうになぜ所領安堵のお願いなんて大切なことを頼ってしまったのか
やはり恐るべきは政宗の謎のカリスマ

952 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/03/19(火) 12:19:07.34 ID:rO+ftDAx
例え自分単騎でも参上すれば良かったんだな
贈り物なんて他の大大名から山ほど貰ってるんだし

最近出た本に、北条と対立する北関東の豪族に対して取次が「とにかく上洛して挨拶しとけ。
所領奪われても奪還してやるから。」みたいな書状出してる例が載ってたな

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 13:04:17.91 ID:Lpu59eFS
山内氏みたいに取次の約束を無視して潰されちゃった例もあるから
一概に信用はできないと思うな

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 18:33:58.04 ID:KjaOCjQ8
こんな目に遭って10年ほど放浪した末に結局は政宗を頼って
伊達家に仕官するんだよな小峰義親

なお白河結城家は仙台藩では約1000石で一門格とそれなりには
遇されて分家も創出したそう

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 18:47:42.86 ID:tdY5fDm7
>>956
溺れる者は藁にもすがる…

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 19:21:54.03 ID:cCNBhWhP
地方の小領主にはつらい時代だよね

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 21:47:50.86 ID:p7+Npn/g
>>952
北条と対立する佐竹上杉が豊臣とがっちり連携とってたから
北関東の国人領主はその2家からもきっちり根回し行ってたみたいだしね
取り次ぎ含めて複数のルートで豊臣と渡りつけた北関東東関東の領主と比べると
他人任せにしちゃったところは悪目立ちしただろうなあ

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 22:36:58.95 ID:kIdJ8lYZ
伊達に服従してた時期で、外交権も伊達に預けてた小領主の一人なんかね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 22:40:16.26 ID:6a82V/9u
家臣なのに四国征伐の時点で秀吉に息子を会わせてた大関さんを見習うべき

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 23:00:18.62 ID:p7+Npn/g
政宗は豊臣に臣従後領地減ってるのに家臣たくさん雇ってるけど俸禄はどうやって工面してたんだろ

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 23:00:52.77 ID:8K5nxJgm
オマエラ、ヒゲ殿を持ち上げるのはその辺にしておけ

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 23:56:40.88 ID:3evJ41Vt
>>945
佐竹さんとこは、絶対勝てる方に味方するよう代々語り継がれてるよねw
それに比べ、DQN眼竜に義理とか情けなんて皆無なのに子孫は全く受け継いでないな。。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 00:00:39.97 ID:tmOY4E6E
>962、かえって周りにはサルなんか無視しとけ!っ空気作って(であんたの領地は没収されるぜで少し掠め取るぜw)ぐらい考えていても驚かないぞ

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 00:18:38.79 ID:EszNZX5M
>>965
そうか?
ゴネる亘理を結局切れなかったり、むしろ情を捨て切れなくて後の世代に禍根残した印象が強いな。

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 00:54:27.56 ID:zoP8SRMa
>>965
佐竹さんは源平合戦で失敗したときからあまり変わってない気がする
まぁあの日本史上屈指の万馬券をつかめと言うのは酷な話だけど

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 15:09:18.06 ID:cr4VQPS8
>>965
んー? 中途半端に会津に味方して、結局貧乏くじ引くところは押すところと引き所の判断を間違うまー君の家系らしいと思うが。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 18:13:37.03 ID:tmOY4E6E
>968、黒いところは全部甲斐のお屋形様が持って行ってしまったんでしょうw


結城旧臣謀反騒動

2009年11月28日 00:02

660 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/11/27(金) 17:19:02 ID:IiICFUvM
天正十八年、秀吉の奥州仕置きにより所領白河を没収、改易となった結城(小峰)義親。
その後各地を流浪していたが、改易から6年を過ぎた頃、故郷懐かしく、その身を
旅人の姿にまぎれさせ、白河へと入った。

前領主であり、人目を忍ぶ身であったので、夕暮れのさびしい時間になるのを待って、
結城家の菩提寺である、関川寺へと行く。
そこでは、記憶にあったものより寺の庭の梢は茂り、代々の墓所は、義親が改易されて以来
折々の清めも絶えたため苔むし、なんともいえない、物寂しい有様であったという。

この関川寺の住職、比丘得峰は義親が来ていることを知ると、早速、今は地下の者となっている
義親のかつての郎党たちにこれを知らせた。間もなく十人ばかりが、酒肴を持ち寄り関川寺に集い、
義親に見参、やがて酒肴を出して、宴会となった。

旧家臣たちは言う
「もう世の中は変わらない、これまでだ、などと、ご短慮をされてはいけませんよ?
梅は厳しい冬を耐えて、花を咲かせるのです。
このようにご辛苦を重ねられている上は、必ずよい日が巡って来るはずです。」

始めは静かに始まった酒宴であったが、夜が深まり、酒が回ってくる内に、皆気持ちが
大きくなっていった

「もし世が再び乱れれば、それがしは一方の大将を仕ります!」
「私もお旗本に駆けつけますぞ!」

他愛も無い酒の席での広言。
ところがこの時、この話に聞き耳を立てている者がいた。

661 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/11/27(金) 17:22:42 ID:IiICFUvM
それは蒲生氏郷よりこの白河の支配をまかされた関一政の下人、何某と言う者である。

彼はこの関川寺の喝食の一人と仲が良く、この日の夜も、これと物語するため寺に
忍んで来ていたのだが、俄に義親が現れ寺の中が騒がしくなると、外に逃げ出す事もできず
しかたなく仏壇の下に隠れた。ここで、結城旧臣たちの、先の発言を聞いたのだ

「これは、謀反の話し合いだ!」

この何某、夜明け前ほどに酒宴がお開きになり、面々が寺より出て行くと、仏壇の下から抜け出て
関一政の元に駆けつけた。

「昨夜謀反人の談合を聞きました!そこにいたのは関川寺の住職得峰、
武士は斑目信濃、遠藤某、地下のものには当宿の検断である土蔵但馬、星三河、同源三郎、
矢部主膳といった者たちです!」

関、これを聞いて急ぎ捕り手を派遣、かの面々を召し取った。
この時、結城義親は既に、白河を出ていて、捕縛される事はなかったらしい。

が、捕まった彼らを尋問し仔細に調べてみると、謀反の証拠などまるでなく、
どうやら誤認逮捕であることがわかった。しかしどうするべきか方針を決めかね、
彼らを拘束したままにしておいた。

これに関川寺の住職、得峰は激怒し、警護の者に向って

「私は愚かな僧であると言っても、二十年余り修行しここの寺の住持を任された者である!
それを無実であるのに、このような捕縛の辱めを与えるとは何事か!
たとえ関一政はこの過ちを認め我らを開放したとしても、一体何の面目があって
再び仏に仕えることが出来るだろうか!?
もはや生きる甲斐も無い。私は関一政の目の前で自ら首を切り落とし、因果のほどを
知らしめてくれる!」

これを聞いた関は、
「あの僧の態度を見るに、例え縄を解いても感謝することなく、かえって仇を成そうとするであろう。
だいたい、事の実否はともかく、捕縛された人間が法を悪し様に言う事、その罪軽くない。
また、大勢の者が、まるで野心があるかのように広言した事、これは事実である。
よって」

得峰を始めとして捕縛されたものたち、全員斬首。
その首は獄門にかけられた、とのことである。

なんとも後味の悪い、結城旧臣謀反騒動についての話。




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/27(金) 17:26:25 ID:WmnH6cAZ
蒲生さんとこまで話が上がってたらこうはならなかった気がする

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/27(金) 17:49:35 ID:ny7uVmkZ
関東仕置き後の関東の名族はみんな散々だなあ
一番悲惨なのが宇都宮さんな気もするが、佐竹以外軒並みひどい