「本多忠勝、土岐為頼の旧臣を呼び出す」

2015年10月08日 17:55

796 名前:人間七七四年[aaaaa] 投稿日:2015/10/07(水) 14:31:36.41 ID:uZcUaUHl
「本多忠勝、土岐為頼の旧臣を呼び出す」

本多忠勝が上総小滝10万石に封じられた時、土岐為頼の旧臣を集めて召し抱えた。
弾正(為頼)は万喜を居城としていたので、世では万喜少弼と称され
武勇の誉れ高き人物であった。 忠勝が弾正のことを聞き、旧臣達が言うには
「弾正は里見義尭と戦を交えた際、敵を油断させようと舞台を設けて
舞踊をし、城門を開けたままにし、浜辺の防備を疎かにしていました。
里見の将正木大膳時綱が上陸して攻め寄せた際、城壁に掲げてあった紙旗を絹旗に取り換えたのを合図に、
ボロボロの城門より不意に討って出て、正木の軍をあっという間に切り崩してしまいました。
それ以降土岐の地が攻め入られることはありませんでした」
と答え、忠勝は「土岐は信玄や謙信にも劣らない雄将だ」と誉め、
それ以降弾正のことをお尋ねになる時はいつも「万喜殿」と呼んだそうだ。

『常山紀談』より
土岐為頼の逸話がなかったようなので一つ



797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/08(木) 10:17:34.60 ID:6nmXeg8Y
毎回撃退してるけど息子の代に攻められてるじゃないかい

スポンサーサイト

常陸桂芳院縁起

2012年01月24日 21:59

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 05:16:44.12 ID:r3WO69rk
常陸の和泉という所に、東條兵部少輔重定(あるいは頼重)という武将があった。
彼は元々江戸崎の土岐大膳大夫治英の一族であったが、彼の領地のあたりは全て
東條庄であったので、この地名を苗字としたのだという。

ところで、この東條重定は、小田天庵氏治が未だ小田に在城の頃、双方に
不快のことがあって、いつも争っていた。

ある年、和泉から18~9丁(約2キロメートル)ほど隔たった小坂という場所で
天庵と戦った。
この時江戸崎の土岐治英も兵を出し重定を援けたが、天庵は強力に戦い、
重定はついに敗北して討ち死にした。
これにより東條の家人たちは和泉の城を保つことが出来ず尽く退散。
和泉の城は落城した。

この時、東條重定の母は年老い病に臥せっていたが、土岐治英は彼女を哀れんで
引取り、江戸崎と龍崎の間にある太田という所に小さな庵を作って、そこに隠居させ、
俸米の地を与えこれにて養った。
彼女の死後、その庵を寺として、彼女の院号を以って寺の名とし、桂芳院と称させた。
そして彼女に与えていた俸米の地をそのまま、その寺領とした。

今(江戸時代)に至るも、桂芳院はその寺領をそのまま保っている。
(常陸治乱記)

常陸桂芳院の縁起ですが、珍しく天庵様が大勝しているお話w




837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 05:33:30.23 ID:MJwUdaGo
土岐氏の武徳も地に落ちたものだorz

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 10:09:57.39 ID:Z6vjVqwK
所詮足利の血が濃い者に土岐氏は勝てぬのだ

ということにしておこう

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 11:45:49.48 ID:FEiIr49O
>>836
どうせ戦は菅エモンが…とか勘ぐらず、素直にいい話にいれてやれよ。

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 14:23:19.72 ID:vh/sRUfE
天庵様が勝つ…、だと…

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 15:09:23.73 ID:BBCl8Ghd
天庵様が勝つ=悪いスレ的に悪い話
問題はない

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 16:02:01.57 ID:OaLnnoKf
東條重定の母のことも気にしてあげてください

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 16:26:14.50 ID:iOJZHP+1
これで常敗将軍の名は返上だな

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 16:31:31.15 ID:+5H+T6Ny
完敗将軍でいいな

常に負けるわけではないが負ける時は・・・

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 16:34:17.85 ID:SLM0l4pE
本拠地がもうちょい北なら
「常北(常に逃げる)将軍」でよかったんだが

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 16:39:03.50 ID:sRo5f9ME
佐竹ばっかり取り上げられるけど名門だし
郷土の誇りとしてチバラギ将軍じゃだめ?

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 21:34:11.70 ID:iOJZHP+1
チバラギ民からしたらてんあん?誰それ?状態だから無理じゃね

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 22:44:53.70 ID:if+3Xdll
一時将軍

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 22:49:21.19 ID:9E0Hg5p3
あんまり小田天庵様をおだてんな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 23:13:40.70 ID:izby63zw
審議中

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/24(火) 23:19:25.00 ID:IU6XPqGH
天庵「もう二度と勝てなくなってもいい…ありったけを…」

天正17年、安房万喜城攻防戦

2010年12月10日 00:01

744 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/09(木) 11:39:12 ID:E5fXw7SP
天正17年(1589)4月下旬のこと。

北条氏配下である安房万喜城主・土岐頼春は、北条氏による里見義康討伐のための派兵要請に従い、
重臣である大曽根右馬充、三階図書之助らに300騎をつけ、名代として小田原へと派遣した。

さて、これを見逃さなかったのが里見義康である。土岐頼春は房総の里見家にとって喉元の棘であった。
義康は上総庁南、庁北両城の城主、武田信栄に「万喜城からは多くの兵が相模へと派遣された。
これを攻め滅ぼすのは今しかない!」と、万喜城攻めを命じ、武田信栄は先鋒として家臣・多賀六郎左衛門、
多賀勘解由左衛門らに数百騎をつけ万喜城攻めに向かわせた。

さらに武田信栄は
「万喜城を囲んでもあの城は屈強の要害であり、簡単には落ちないだろう。
攻略に手間取れば万喜城の支城である鶴ヶ城、亀ヶ城より援兵が出て、我々は却って危機に陥る。
この両城を抑えた上で無いと安心して万喜城を攻め取ることは出来ない。」

と、佐々駿河守が籠っている亀ヶ城へ鶴見甲斐守70騎、鶴見弾正が籠る鶴ヶ城には一宮隼人50騎を
押さえとして派遣した。さあ万全である。

寅の刻(午前3時頃)、武田信栄は馬に轡を結び、密かに兵を率いて万喜城に向かい出陣。
万喜城からわずか1キロ、川一つを隔てた松丸村というところに陣を張った。
これまで武田が兵を出しても土岐は難所に兵を置いてこれを防いでいたのだが、今回は土岐の兵が
相模に派遣されて少なくなったことから、一気に城際まで押し寄せたのである。

万喜城の側はこの武田の動きを全く察知できず、夜明けになって敵が押し寄せていることを知り大いに驚いた。

土岐頼春が櫓に登ってこれを見れば、武田勢は持ち楯掻き楯をつき矢弾を飛ばして一気に攻め破ろうとする。
頼春は弓鉄砲を放って必死に防衛の指揮をとるも敵は大軍、衆寡の差はいかんともしがたく
城は危うきの縁にあった。その時である

武田勢の後ろに突然、軍勢が現れた。

これは万喜城の危機を知った土岐頼春の家臣、安房矢竹城主・浅生主水助が、付近の領民を集め、
高野城の勢と合わせて500騎で後詰めを決行したのだ。

「万喜城中の方々出て、先駆けの者共の剛臆を見給え!」

そう言い放つと後詰勢は鐘太鼓を鳴らし、大声で喚きながら武田勢の後ろを襲う!
武田勢、大いに驚き浮き足立つ。
これに万喜城の兵たちも力を得、城門を開いて討って出る。
一転、武田勢は挟撃される形となった。

その頃、巳の下刻(午前10時頃)、武田勢は寅の刻(午前3時頃)から深夜移動して長駆ここまで押し寄せた
上に、食事も出発前に取ったきりで、疲労はピークに達していた。その上でこの思いもよらぬ後ろからの
襲撃である。

武田勢は前後の敵に揉まれるように責め立てられ、悉く潰走。武田信栄は命からがら庁南城へと
逃げ帰る。土岐頼春、見事な逆転、大勝利であった。


天正17年、安房万喜城攻防戦のお話




745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 13:02:00 ID:EF1MqZIr
兵の数が少ないが
やはり面白い