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仙石久勝最後の戦い

2021年09月29日 18:37


624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 22:41:21.23 ID:4mwlR5+s
仙石久勝最後の戦い

悪い話スレ>>63の続き

寛永15年元旦(1638年2月14日)、板倉重昌による原城への総攻撃は失敗に終わり総大将・板倉重昌は討死、
総攻撃に参加した諸藩の兵も4千に達する死傷者を出した。

土佐藩・山内忠義から派遣された使者の雨森九太夫をはじめとする手勢も多くの損害を出し、使者代表の雨森九太夫自身も一揆勢の銃弾で重傷を負ったため、
翌1月2日に着陣した仙石但馬久勝と土佐藩使者代表の役割を交代し、本国土佐へ帰還することになった。

ここで仙石久勝の素性を紹介したい。彼の弟はかつて三国一の臆病者と謳われた仙石権兵衛秀久である。福島正則に仕えて広島藩・三原城番を務めた
人物でもある。福島家が改易となった後は広島城受け取りの役を果たした土佐藩主・山内忠義に招かれ土佐藩の中老となっていた。
この度の土佐藩使者として、子息3名(嫡子・左近、二男・勘兵衛、三男・八左衛門)と忠義の馬周り・毛利久八と5名の飛脚に多数の兵を連れ島原へ赴いていた。

さて、久勝は同時期に島原へ着陣した正使の幕府老中・松平信綱、副使・戸田氏鉄に面会するとこう申し出たという。

仙石久勝「我ら土佐藩兵に一所攻め口を与えていただきたい。」

先の総攻めに参加した雨森九太夫同様、久勝も一揆勢への攻撃に加わるつもりである。
これを聞いた松平信綱と戸田氏鉄

( ゚Д゚) ( ゚Д゚)

( ゚Д゚) ( ゚Д゚ ) (ゴニョゴニョ)

(; ゚Д゚) (; ゚Д゚) 「「却下」」

(中略)諸国之使者え責口は不被下候間左様ニ相心得候得 「山内家資料」

表向きは各国からの使者には攻め口を与えないということで松平信綱と戸田氏鉄に却下された。
とはいうものの、

仰渡尤但馬儀福島以来場数名誉之者ニ候間軍之差引御談合可被成ニ付老躰旁座上自由ニ仕候得と被仰付御本陣近被差置候

攻め口を与えること自体は断ったものの、松平信綱は福島家以来の軍のやり取りに秀でた者として、久勝を信綱の戦の相談役にして
山内家と久勝の面子を立てたのである。

こののち、久勝の嫡子3人と毛利久八は2月27日の最後の総攻撃に加わり、彼ら久勝の子息らについては

同月二十七日惣責之節は嫡子左近二男勘兵衛三男八左衛門毛利久八右孰も城中え乗入候由中ニも八左衛門儀一揆二三人槍にて
突倒し其身も冑をしたたかに打たれ候得共ためし鉢ニて強ハ痛不申名誉なる仕合といづれも申あひ候と申傳候

このように記録されている。

こうして、仙石久勝最後の戦いである島原の乱は終結した。

そして、久勝は島原の乱終結の翌寛永16年(1639年)3月8日に死去。享年88歳。
戦傷で亡くなった雨森九太夫とは異なり、彼の最後については詳細は記録されていないものの、
恐らくはこの時の良き思い出と共に安らかに亡くなったのではないかと個人的には思う。

戦国の世を駆け抜けて土佐藩に仕えたもう一人の武人の最後の戦いの記録である。
参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意


625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 23:08:50.66 ID:kR2UOwai
東郷隆のいくつかの小説で主人公として描かれてたっけ>仙石久勝
「決戦!関ヶ原2」収録の短編「戦さ神」だと高知市の愛宕神社が仙石久勝が山城国愛宕権現を勧請したものとかいう話があった
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仙石権平は18歳の若武者なれども

2021年09月26日 16:18

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:03:22.21 ID:LfzgQiPE
(引田の戦いの時)

天正11年春、土佐の元親は阿州大窪を越して寒川郡に入り、田面山に陣して三
好存保(十河存保)の居城虎丸を疲らせんがため与田、入野に入って麦薙をなし、
早苗を返した。

元親父子が虎丸の麓に陣をおいて昼食をなし給うところ、香川信景と大西上野介
(頼包)は手勢を分けて引田の浦に発行せんとした。

仙石権兵衛尉秀久は2千余人をもって引田の浦に到着、家臣の森九郎左衛門(村
吉)を与地山の城に籠らせ、山西のやうを聞き合わせるところに、土佐の兵1万
余人が与田入野に入り香川信景と大西上野介が引田に向かうとの知らせがあった。

仙石氏は1千余人を三手に分け、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平(森権平)
を兵将として引田中山に入れて伏せ置き、西方の兵が来るのを待った。

土佐方は引田に強兵がいると知らずに押し寄せ、山中で強兵に行き当たり大慌て
して追い返され、足並みを乱し与田口まで敗北した。仙石衆は逃げる敵を追って
競い来る。香川方と大西方は敵が少兵と見切り、自兵を遣わして戦を始めた。

一方、元親は引田表の鉄砲の音を聞きなさり「今この辺りに戦うべき敵はいない。
仙石権兵衛という者が、羽柴秀吉から讃岐国を賜うべきとの朱印を受け下向した
と聞く。きっとその仙石権兵衛だろう。桑名太郎左衛門、中島与市兵衛、行って
見て来い」と仰せになった。

2人が馳せて行くと香川信景と国吉三郎兵衛、大西上野介が合戦を取り結んでい
たので2人の使いも手筈に合わせ、元親父子の旗本も程なく押し寄られ、敵味方
入り乱れ、黒煙を立てて攻め戦う。

仙石方は少兵なので西方の猛勢に押し立てられて敗軍した。桑名太郎左衛門、中
島与市兵衛は2度の槍場にて首2つずつを取る。前田平兵衛、その弟彦六は2人
で仙石勘解由を討ち、仙石方は追い立てられ引田中山道に引き入る。敵も逃げる
のを追って山中に入り来る。

仙石権平は18歳の若武者なれども、大剛にして奇才あれば、地利を計って自兵
を下知し、返し合わせて奮戦し、敵を破って勝ちを制し引こうとした。そこへ土
佐方の稲吉新蔵人が名乗りをあげ、互いに馬上で渡し合い、両敵ともに深手を負
い、権平は続く兵なく新蔵人は味方が続き、権平はここにて討たれた。

すなわちその所に石碑を立て今の世までも隠れなし。その権平の墓に霊妙なるこ
と多く、民間の説に残される。権平は仙石秀久の従弟である。一説には仙石氏家
臣の森九郎左衛門の息男ともいう。両説を存じて知る人を待つ。

――『南海通記』



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:35:50.59 ID:tSG7PRda
八十八箇所の最後の大窪寺のためか大窪には讃岐イメージがあった
八十八箇所五番目の地蔵寺には同族の森甚太夫家の墓地もあったっけ

権平の伝承

2021年09月26日 16:17

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:05:04.95 ID:LfzgQiPE
権平の伝承

『讃岐国名勝図会』には権平の法名、月山宗薫居士、天正十二年甲申七月十九日、
当初日下氏その祭を司るとある。

また『翁蝋夜話』によると「権平年忌ごとに阿州舟奉行森甚五兵衛の使人日下氏
に来りその追薦を託す。今に至るもなお然り」という。現在、引田町日下氏宅に
位牌が伝えられている。

また、積善坊の過去帳にもその名が残される。その頃、夜中に通りかかった僧が
「これは誰の墓だろう」と言えば、墓の中から「森権平」と答えた。僧は驚いて
読経、回向して通り、近郷に止宿してその趣旨を記し、銘を作って板に書き付け
墓に立て掛けて通った。

また別の僧は、夜中に甲冑を帯した馬上の武士と行き向かい「この馬が執着して
進もうとしない。なにとぞ直して欲しい」と頼まれた。僧が名を尋ねてみると、
墓に向かっていた。僧は驚いて翌日来てその記を見れば「仙石権平一八歳にして
紅鴇毛なる馬に乗」とある。僧はこの誤りだと思い「紅梅鴇毛」と改めて記した。

また何人か分からないが墓に短冊が手向けてあった。「武士の二度の懸して権平
は陣の引田に名のみのこしつ」。今の世に至るまで武士たるものは、墓の前では
下馬して拝すという。若武者の健気な討死が人々の心を悼ませたのだろう。

いま白鳥町伊座に権平の墓を祠る権平庵があり、権平が深田に脚を取られて討死
したとの伝承から、脚痛に効験があるとの信仰を集める。

なお『南海通記』などでは権平の死は天正11年5月となっており『名勝図会』
と合わない。『大内町史』には天正11年の戦いは白鳥の与治山城を陥しただけ
で、天正12年に虎丸城をめぐる再度の戦いがあったとしている。

――『引田町史』



仙石は四国を指して逃げにけり

2018年10月04日 21:33

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 12:28:26.47 ID:AKjHBDtu
太閤秀吉公、長宗我部元親親子、仙石権兵衛尉を大将として、四国勢を大友加勢として差し越され
島津義久と豊州脇津留、迫の口等にて合戦あり。

はじめ脇津留の戦には、長宗我部、仙石利を得ると言えども、迫の口の戦に利を失い四国勢敗亡す。
長宗我部嫡子信重(親)戦死、仙石権兵衛尉は小舟に乗りて阿波の洲本に渡りけりと言いて
その頃の落書に

仙石は四国を指して逃げにけり
三国一の臆病の者

(大友公卿家覚書)

仙石権兵衛と言えば…のこの逸話。
本文にある脇津留は土佐勢が伊集院・新納らと死闘を繰り広げた地で
迫の口は仙石隊が島津家久・本庄主税助と対峙した場所です。
正面を家久、左斜めの小山を本庄に押さえられた仙石秀久は動けに動けず
頃合いは良しと山から駆け下りた本庄隊の突撃とそれに続く家久隊の攻撃によって敗走、勝敗が決しました。



266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 16:41:47.49 ID:5I0E/ccX
仙石を擁護するとしたら、まさかあそこまで四国勢が弱いとは…となるけど、
そもそもめちゃくちゃやって、四国勢の力を発揮させられなかったバカ軍監が仙石なわけだしなぁ…

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 18:21:05.13 ID:l4Rx9ZXQ
>>266
九州上陸当初は割とまとまってた四国勢だけど
仙石が補給名目の収奪や苦役等の軍政で在地勢力の反感を買ったあたりから
十河・長宗我部共に距離を置き始めた感じがありますね

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 21:12:44.95 ID:lNaCgzgy
大友って土佐一条氏を支援してたよな。

だから大友と長曾我部の関係ってあまり良くなかったんじゃないかと思うんだが、どうだろう?

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 01:39:17.12 ID:mHUusYx1
大友宗麟の娘が一条兼定の継室だけど婚姻したのがまだ土佐に影響力があった時代のことで後に大友は一条の領土回復を支援してるけど改宗した婿のために義理を果たしただけとちゃうんかな
大友にしたら土佐なんかいらんし彫塑とコトを構えようなんて思ってないかと

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 09:45:56.70 ID:TCdNhDe3
宗麟が四万十川合戦で義理を果たしてからもう10年以上経ってるし
仙石はアカンけど長宗我部親子はまぁ見どころあるわってフロイス評や
戸次川前後の元親・宗麟のお手紙やり取り見ると悪くはない感じはするね

仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社

2018年08月18日 21:08

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 10:01:03.09 ID:3+iYClTC
此の時に当りて元親各所にて敗北し、ついに豊臣氏に降を乞いた。
是に於て豊臣氏は秀久の功を賞して当国(讃岐)に封じた。
(この時十河存保を山田郡二万石に分封)

さて秀久は宇足津の古城を修理してここに移ったが
当時の民情穏やかならずして、互いに結党し、国主に貢納するものがなかったため
秀久は直ちにその首魁どもを捕らえてこれを煮殺した。
また香川郡安原村の民が香西伊賀守の妻女を匿っているのを知ると
ある者は磔(はりつけ)に、またある者は斬首したため、ここにおいて一国の人民皆恐怖し従った。
(香川県史)

八幡神社(安原村大字安原下字平賀)由緒
世俗では岳八幡、又は平賀八幡と称せり。
社記、香西雑記等によれば、天正年間に仙石権兵衛秀久当国に封を受け、引田より宇多津に移居した。
時に当村の百姓等乱を起こし、秀久の命に服さなかったので乱民百余名が刎せられた。
そのため里人恐怖して安住せず、離散する者がすこぶる多かった。
この時当社御神体を奉じて葛西郷に至った者達がおり、そこで小さな祠を営んだ。
これが現在の香西町平賀神社の地であると言う。

(香川県神社誌)

仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社のお話




42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 15:18:23.99 ID:l4EdEMjJ
仙石の民政下手はホントひどい。小諸藩では一郡逃散される始末だし。

この辺のこと、例のマンガではなにも描かれないんだろうなぁ。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 20:47:06.20 ID:307WAghu
一揆ども撫で斬りは織田時代からの伝統でしょ
移民政策を取れば万事上手くいく

我が去年攻め残したる城なれば

2018年08月11日 18:31

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 08:33:19.76 ID:pvd4tFcp
天正十三年四月、宇喜多秀家備前美作の兵一万五千
蜂須賀彦右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を検使とし
仙石權兵衞尉秀久、尾藤甚右衛門尉知定
杉原七郎左衛門尉家次、小西弥九郎行長、共に七人の兵将二万三千人をもって讃州に発向した
四月二十六日に屋島の浦に到着し、北の峯に旗を押し上げると
国中の人民これを見て騒動すること言うばかりもなかった

ところが北の峯は分内狭迫にして兵を留めるのが難しく、そのため南の峯へと移ったが
この山も上代の名城なれど山高くして戦さをなすには用がなく
其の日下山して牟礼高松に上った

さてここに喜岡城という小城があり、高松氏世々の居城であった
香西伊賀守の旗下なれば、加番として唐人弾正、片山志摩守を兵将として百余人指し使し
高松左馬助配下の百余人と共に、二百余人をもって城を守っていた
この城は去年仙石秀久、小西弥九郎らが二千余人をもって攻めれども
堅城なれば落とすことができず、この度四国の手先に在って大軍の馬蹄にかかる事となった

秀吉公の御目代黒田孝高が宇喜多秀家に向かって曰く
「小塁(小城)あり、この度の手始めなれば、踏み落として然るべし
高松山の松を切り寄せ、これをもって堀を埋め上げ足場とし
一時攻めに陥とし国人の聴を驚かすべし」とて全軍に下知されたが
仙石氏これを聞き
「これは我が去年攻め残したる城なれば、他人の手にかけさせるべからず!」として勝手に攻め寄せた
このため攻め具を待たずに、総軍相争って蟻の如く城に取り付く有様となり、この時死ぬ者が多かった

城内にも鉄砲百挺ばかりあったが、敵兵二万余が天地を響かせ攻め寄せると
掘塀堅固とはいえ、猛勢に切所なければ、大軍がいやが上にも重なり
何の造作もなく落城し、二百余人の者ども一人も漏らさず攻め殺された

(南海治乱記)


新居の物件探しをしてたら

2018年08月09日 12:19

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 08:55:53.37 ID:+mM+IPr0
天正十一年、仙石権兵衛尉秀久は讃岐の国を賜りて小豆島に来ると
引田の浦を取ってかけ持ちにし時変を考えた
安富肥前守はもとより秀吉公へ人質を出していたので土佐方へは従わず
雨瀧城をあけて小豆島へと渡っていた

秀久はまず屋島を取って城としようとしたが、山高くして益がなかった
幸いに高松城(喜岡城のこと)という良き城があり、これを攻め取らんとして
二千余人をもって取り上がり押し寄せたが
城主高松左馬助がよく守ったため抜けず、また空掘であったが数尺に切り立ち
底深い掘であったので、攻め手は蟻の如く群がったが、ついに城を攻め取ることができず引き返した
この際城中の鉄砲に当たって死んだ者が数十人あった

次に八栗が嶽の城を検察したが、険要のみにして治をなすには益がなかったため
志度の浦に戻り、結局そのまま小豆島へと帰帆した
その後仙石氏は少兵だったため、(土佐方の)香川氏・香西氏などには手向かわず
島伝いにあちらこちらに上陸し、少々の成果があった
土佐方は、高松城は国家の治道をなすべき立地であるから
久秀はまた攻め来たるだろう、加兵を入れて守らすべしとして
香西家臣唐人弾正、片山志摩守らに加え寄子百余人を指し使わし
城兵と共に二百余人をもってこれを守らせたため、城中はますます強くなった

(南海治乱記)

新居の物件探しをしてたら上手くいかず、いつの間にかゲリラ活動をする羽目になったお話
この後に引田の戦いが起こり、仙石秀久は讃岐から撤退します


故に仙石氏の敗卒、つつがなく国へ帰る

2018年03月11日 13:30

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/10(土) 18:46:55.17 ID:L191u84q
ここにおいて仙石氏戦い破れ、四国の兵大友勢に寄らんとしたが
新納武蔵守は脇佐古村より人数を出し、大友義統の陣に打ってかかった
義統多兵と云い、我が身にかかるいくさなれば
二つなく戦うべき所なれど、云う甲斐なく敗軍してしまったため
四国の将兵、頼む所なく船本へと没落して行った

弥が上にも船に取り乗り、漕ぎ出だす者もあれば
乱軍の習いにて乗り遅れたる者、海浜に転ぶ者や
溺れる者共を見捨てて舟を出す者ありと、哀れなことも多かった

しかしながら讃州海賊頭、乃生縫殿助生島太郎兵衛
塩飽の吉田彦左衛門とその弟孫左右衛門
宮本助左衛門と弟作右衛門に妹尾、渡辺等
日比の四宮隠岐守にその子主計守
直島の高原左衛門とその子佐助及び弟文左衛門に小豆島の住人ら
秀吉公の命をもって師船(いくさぶね)を奉行しており
その警固ゆゆしき故に仙石氏の敗卒、つつがなく国へ帰る事ができた

(南海治乱記)

戸次川合戦における讃岐勢豊後撤退時の逸話
讃岐水軍揃い踏みと言った感のあるラインナップですね


軍監の命なれば是非に及ばず

2017年08月22日 17:59

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:34:50.20 ID:W9FCLw1N
天正十四年十二月、豊後国戸次川合戦軍議での事である。
軍監仙石秀久、戸次川を目の前にして発議して曰く
「この川は九州一の大河にて頗る難所とは言え、大勢に切所はなし。何ぞ恐るるに足らん
 いざ、諸軍一同に渡して一戦に勝負を決すべし」
これに対し長宗我部元親曰く
「この川を渡るのは殊の外面倒なり。敵が川端に引いて備えるは堤の陰に伏兵あるべし。
 川の半途で鉄砲を打ちかけられれば先陣は全滅し、一陣敗れれば残りも全うする事は叶わず。
 ことさら島津は大敵といい、強敵といい、最も侮りがたし。殿下(秀吉)の戒めらるるは正に今日にあり
 しばらく川をへだてて対峙し、敵の虚実をはかって方便あるべし」
十河民部存保もまた諫めて曰く
「敵は目に余る大軍で、この小兵をもって大河を渡り、後詰(ごづめ)野戦するはもっての外なり。
 守りを固め、敵が大河を越えて来たらば一戦し、また越えて来ねばかねて御定めの如く、殿下の御出馬を待つべし」
秀久服せず曰く
「昔より川を渡った者が勝ち、渡された者が負ける事少なからず。早く川を渡れば人を制する利といい
 上方への聞こえといい、急ぎ渡し然るべし」

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:36:28.43 ID:W9FCLw1N
この時、はるか前方に元親麾下の細川源左衛門がおり、この勇士は四国のいくさにて高名を立て
秀久も見知っていたのでこれを呼び、渡河の可否について述べよと命ずると
「川向こうの小藪に伏兵あるべし。もし渡さば川中にて鉄砲うち掛けられ、先手破れ後手敗軍とならん
 対陣し敵の動きを見て方便あるべし」
これに対し秀久
「治承の昔、足利又太郎(足利忠綱)は宇治川にて、源頼政大勢にて防ぐと言えども遂に渡り済まし
 また後の元暦承久の合戦でも、川向こうの大勢を相手に渡すなり。我等も見聞する所、川を渡り利を失う事少なし」
源左衛門曰く
「昔は鉄砲なし今は鉄砲あり、いくさの様も変われり、ご思案あれ」
秀久曰く
「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
ここに至りて諸将は無謀の策を喜ばざりしも、軍監の命なれば是非に及ばず、また味方を捨て一人身を全うするもならず
三軍和せざるは敗軍の兆しなりとてその議に従い、一同渡河の準備に取り掛かった。  

「土佐軍記」



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 06:48:59.75 ID:inKWe/E+
今も昔も指示する立場の人間がええかっこしいなら苦労するわ

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 07:33:00.57 ID:+wZ6x60J
元親を憎んでる十河は負けると分かった上で仙石に同調したと思ってたけど違うのか

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 08:02:52.86 ID:HRLKmaln
四国勢はもちろん案内役の戸次隊のこのあとのことを考えるといたたまれない

あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


仙石氏の家紋

2017年01月22日 17:15

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 20:42:58.70 ID:WWUVYInV
仙石氏の家紋

 仙石氏の家紋に桜の落花を九曜の如くつけたものがある。

 仙石氏の祖先に猷廟(徳川家光)が御幼稚のときに勤めていた者がいた。
ある日、猷廟が花筏の紋の御襖障子を御戯れに引き破られなさり、
直接その紋をその祖先の者が賜ったことから、この家紋が始まったという。

(甲子夜話)

あれ、センゴクの家紋って「無」と「永楽通宝」しか知らないぞ…

参照『九曜桜紋』
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530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 21:14:32.97 ID:h7vHhvVy
>>529
新訂寛政重修諸家譜によると「丸に無の字」「永楽銭」「五三桐」「九曜桜」があるそうな。

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 17:28:57.25 ID:fOXl2f80
センゴク権兵衛よりあとだし問題ない

【ニュース】「仙石秀久、圧政イメージ覆す 農村復興促す文書発

2015年09月01日 16:21

639 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/01(火) 00:01:39.87 ID:gPggWEVp
ニュース「仙石秀久、圧政イメージ覆す 農村復興促す文書発見 兵庫・豊岡の旧家で」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150831-00000002-kobenext-l28

ごんべえさん、年取って丸くなったということか



641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 00:32:39.29 ID:7780Uvzg
>>639
そもそも圧政するイメージが無かったたが地元じゃ嫌われてたのか

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 01:59:12.96 ID:VX0DtwpI
開拓に精を出しすぎて逃げられてるし

てか、なにげに水野勝成とか後藤又兵衛とか従えてたことあるんだよね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 02:02:23.82 ID:aEKoGx/h
仙石秀久って粗暴で戦の事しか頭に無い野蛮人みたいに誰かに言われてたよな

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 05:05:44.57 ID:Mc62K6oN
仙石イエス

仙石殿豊後において敗北の事

2013年06月01日 20:01

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 08:51:45.52 ID:rfyhuDr6
仙石殿豊後において敗北の事

島津家久が大将として二万余りの人数で豊後利満城(鶴賀城の別名
利光城)を攻めたとき、仙石権兵衛尉は豊後大友義統勢を加えて
六千余騎を率い、十二月十三日に河を渡って薩摩勢の後陣を取巻き
合戦に及んだ。

互いに武勇を磨き数刻太刀打ち槍合わせ勝負まちまちだった時に
長曾我部信親は、手の者二十二騎が左右につらなって槍を合わせ
ていたが一歩も下らずに討死なされた。

これにより豊後勢がこらえられず敗北し、十河新太郎矢野田宮を
始め多くの者が討死し、仙石も虎口を遁れて這う這うの体で退いた。

薩摩勢は勝ちに乗って遁れるもの達を追撃して府内は祇薗の河原
まで、高田は門口まで到達し討ち取られた人数はその数を知らず。

そのまま島津勢は府内へ乱入せんと掛かったので、すぐさま大友
は府内を引き払い高崎の城(高崎山城)へ逃げ籠られた。

島津家久は府内へと討ち入り、義統はまた高崎を捨て豊前国龍王
へ退かれた。

(日向記)

日向記に記された戸次川の戦いの記録である。

ちなみに伊東祐兵は黒田勘兵衛に属して筑前方面で戦っており、
この話の前半にあれこれと書いてあったが、少しダレるので
バッサリと省略しました。



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 09:52:01.78 ID:ALp6g2wx
省略された伊東祐兵とっても悪い話か。w

仙石秀久の息子について

2012年11月29日 19:50

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 20:33:19.68 ID:hxqGvG8V
仙石秀久長宗我部元親といえば、耳川の戦い戸次川の戦いでの大敗という大きな因縁がある。
その因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。

長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。

一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である

秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。

こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。

そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。


関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。




526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 20:37:49.50 ID:mC8QOvN4
もし十河存英も浪人中、寺子屋で教えていたら面白いのに

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:00:15.73 ID:7gcmoWU5
シンクロニシティwとか好きな人は昔からいたんだなー

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:07:25.80 ID:i0SBGpEe
>>525
まてまて、耳川じゃねーだろ

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:12:46.68 ID:hxqGvG8V
>>528
うわ、なんで耳川なんて書いたんだろw;

>>525
1行目

× 耳川の戦い
◯ 戸次川の戦い

申し訳ない

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:13:25.17 ID:eYxSm6Lj
耳川は龍造寺が島津にフルボッコされた戦いだったような

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:44:32.63 ID:sbemlcRK
いやいや、一条兼定が長宗我部元親に敗れた戦であろう
それとも柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦いだったかな?

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:23:40.95 ID:xvXPbHwF
>>530
それ田手畷の戦い
耳川は日向に進出してきた大友勢を島津がフルボッコにした戦い

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:41:47.33 ID:xvXPbHwF
あれ、田手畷じゃなくて沖田畷だった
詫びとしてちょっとすてがまり要員として井伊勢に吶喊してくる

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:46:25.07 ID:HGwaImoa
でも井伊直政撃った本人は薩摩に帰れたような

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 00:12:54.99 ID:GxJjnsEb
>>535
柏木源藤さんか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6524.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6519.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-858.html

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 08:24:34.16 ID:ad3LN7d1
宗麟の子分のカニ怪人を釣ったのが耳川
クマーを釣ったのが田手畷
センゴクと信親と十河さん釣ったのが戸次川

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:28:05.83 ID:4awvqKpm
>>537
沖田畷だろw

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:44:27.85 ID:CG4P9gBD
もう何が何やら

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:59:31.59 ID:/mCku+bg
家兼じいさまが鍋島祖父と大内を蹴散らしたのが田手畷
島原の戦いは沖田畷

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 11:08:37.38 ID:zK9ZsB66
結局、全部島津の釣り自慢でおk?

雑談・仙石秀久のことなど

2011年10月01日 22:06

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 19:05:21.11 ID:Yk1NRgcF
仙石「戦場で地味なかっこしてるヤツって何なの?」

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 21:38:24.89 ID:Moxt7eI8
あなたは派手というか五月蝿いでしょ

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 21:43:25.53 ID:xxQAilDg
地味な格好で殿つとめるのと
派手な格好で真っ先に逃げるのと

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/30(金) 22:10:19.73 ID:Dvjq8KxX
鈴まみれ仙石さんは当時でも周りから
「幾らなんでもあいつ必死過ぎじゃない?^^;」とか思われなかったのだろうか

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 22:45:22.94 ID:cYjFeDWS
思うに仙石さんは軍監という役割には向かない人だったんだと思う

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 22:54:42.71 ID:PMTpUpUj
>>864
その逸話読んだ時、こいつがんばってるアピールし過ぎうぜえと思ったのは俺だけじゃないはず

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 23:29:53.12 ID:IV74X+lV
まあ、頑張ってるアピールしなければ御終いな状況だしな

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 23:37:29.33 ID:EkLvusEg
アピールだけでなく本当に頑張ったしな

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 23:41:34.53 ID:G8M61ZWB
尾藤知宣が最後どうなったか知らない奴多すぎ


923 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/02(日) 19:16:21.83 ID:2NwQR/ht
>>874

あれねえ。けっきょく尾藤さんとセンゴクの違いは何だったんだろう。
秀吉自身の好き嫌い&虫の居所とかかね

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 19:48:53.44 ID:TxoZzs2z
戦場には立たなくても大体パターンで何が起きるか読めるんだろうな、各務さん。

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 19:53:34.46 ID:8qK17HA3
>>923
仙石→家康の斡旋+陣借りして武功をあげる
尾藤→戦終わってから謝りに来る

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 20:12:55.48 ID:PimrdnBO
例えば、又左も信長の勘気を蒙った時は陣借りして手柄を何度も立ててようやく許してもらってるわけだし。
なんの手柄もなく、ただ許せ、って端的に言って「お前が俺を追放したのは間違いだってわかっただろ」って
言うようなもんだと思う。

使えねーんで首にした奴が、半年位して何の前触れもなく出社してきて、元通りに雇えっていきなり言ってきた
ようなもんだろ。正直、常識はずれだと思うぜ。
一方センゴクは系列子会社の有力社長の元でプロジェクト成功させて、その功績をもって、
以前の失敗の埋め合わせにこういう功績を挙げました、復帰させて下さい、ってその子会社の社長に口利き
してもらって訪ねてきたようなもの。 復帰させる理由もたつし、理由があるのに無碍に断れば社長の顔を
潰すことにもなる。 きちんと外堀から埋めていけば、首にしたほうだってまー許してやろうか、って話になる。

小諸に謎の怪光線あらわる

2011年01月16日 00:00

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 00:06:06 ID:SBXoeJhy
九州征伐の失態で改易され、その後小田原の役の活躍で、信濃小諸に5万石に復帰した仙石秀久
ところが小諸における秀久の統治は非常に評判が悪く、領内の一郡が逃散で滅びた、などとの噂もあった。

さてそんなある時のこと、夜半、突如として浅間山より、提灯を千ばかりも灯したような巨大な光が出現した。

小諸の城は浅間山のすぐ下であったため、上下の者たち驚いてこれを見つめていると、その光は
自分たちの方に向かってくるではないか!

小諸の者たち等しく肝を潰したが、その光は城の南の方へと通り過ぎた。
そのうちに激しい雷雨が起こり人々は家の中に避難、そして夜が開け外に出た人々が見たものは!

小諸城の中に、幅5,6間(約10メートル)、長さ50間(約90メートル)ほどの地面が、堀のように
くり抜かれていた!

小諸の人々はなんと不思議なことかと驚き、
世間の人々は、「越前守(秀久)の家臣たちの質が非常に悪く、百姓たちに酷くあたるという悪名が
非常に広まったため、浅間山に鬼の精でもあって、これがその様なことをしたのではないか?」
などと噂したという。

小諸に謎の怪光線あらわる、と言うお話。




411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 00:25:39 ID:xzQdTSZ2
まさに超常現象…

千曲川も近いし、天然の谷を堀代わりにしていたりするから
雷雨で地盤が緩んでその辺りに崩落した?

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 00:30:13 ID:/DqSqdN7
光の方は火球だとして、城に落下してたら並の被害じゃ済まないだろうし
実は全く関係無い2つの出来事が結びつけられた感じかねぇ

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 00:56:54 ID:URMYVkaj
>>410
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////


414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 11:37:25 ID:k2ZPE7+2
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ         , ;,勹
///// /::::   (y ○)`ヽ) ( ´(y ○)    ;;|       ノノ   `'ミ
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;|      彡,,,,,  ,,, y ヽ
/ // |:::     +  〉 〉|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|       l`゚   ゚'  ミ |
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|    ⊂二二"  ミ  ヾ
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;|      彡~~~~   ミ  |    もちつけ
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;|  ,-‐― 彡l川| ll || ll|  il|―-、  天狗なんていないから
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/⌒⌒⌒\  |ll        |   ヽ
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__// / / /⊂)  z W`丶ノW     ヽ

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 16:03:13 ID:5Tzwvzhh
仙石「小諸は怖いので上田に引っ越したいでござる」

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 20:11:03 ID:Yp31fSBF
長宗我部信親の怨霊だろ

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 20:11:45 ID:e6wwEj6M
信親さん、小諸なんて行った事ねーだろうから迷うだろ

仙石秀久、秀忠の遅陣に

2009年06月23日 00:03

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 11:00:33 ID:VGJsDpNO
じゃあ、こんな話

関ヶ原の戦いに遅れた徳川秀忠は家康の怒りを買い、目通りすら許されなかった。
この時、小諸六万石の領主として秀忠についていた仙石秀久が、家康の前に進み出た。

「確かに決戦は終わっており、今さらそれについては、何も申しません。
しかし、もし西軍の意気が盛んで、戦いが拮抗した場合、秀忠様があとから到着、
と聞けば、西軍の士気と戦いの行方に、重大な影響を与えたでしょう。
その後なら、真田など使者を送るだけで降伏します。
それがし、『小事に拘り大事を忘るるは名将の為さざる所』と聞いております。
恐れながら、今の秀忠様の処置は間違っておられる。」

家康は秀久の直言を褒め、他の者の取り成しもあり、秀忠と対面した。
秀忠も「秀久が忠義、忘るること無し。」と言ってこれを喜び、将軍となった後も
秀久が小諸から江戸に来ると、必ず使者を板橋まで送り、出迎えた。

何年かのち、土井利勝が秀久のもとにやって来た。
「貴殿、末子を両御所(家康・秀忠)のどちらにも目通りさせておらぬとか。
拝謁させて、ご子息の栄達を図りなされ。」
秀久は答えた。
「それがし、未だ両御所の厚恩を返せず、嫡子・忠政も別に恩を賜っております。
どうしてこの上、末子まで拝謁などできましょう。」
「なるほど、良いお心がけです。しかし、今回は上様の御意ゆえ、お請けあれ。」

利勝の説得により、秀久の末子は旗本として取立てられた。

ソースが言行録なんでアレだけど
ひいき目に見れば関ヶ原における秀忠の兵力温存説はここからかなーという話と、
大失敗して自重をおぼえたゴンベ、という話。





655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 11:27:40 ID:lv2YmXTd
仙石か。槍働きだけやらせておけば後世に勇名を残せただろうな。


656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 11:53:25 ID:zpRR/UiR
戸次川では負けただけでなくその後とんづらこいたからなあ

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 12:02:29 ID:xTTShLvQ
>>654
秀忠取りなした話は榊原康正の方にもあるからなあ


658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 12:43:37 ID:zpRR/UiR
つまりあれだ、「みんな」が執り成したので許してあげたんだな
ゴンベも康政もその他諸々みんなで許してあげなよといったからと

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 13:29:22 ID:uOk7YK1h
>>654
ここでも土井利勝の言葉の魔術師ぶりが光ってるなw

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 13:34:35 ID:G+vOLpdD
タラレバーで説得されても説得力がない

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 17:49:39 ID:JDSOjtdY
家久   ∧
      ('∀`)  (鱈レバー…毒殺に使えそうだお…)
     ノヽノヽ
       くく

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 21:56:42 ID:pqSbWZhx
やっぱり槍働きと胡麻すりしか記録に残ってないゴンベさんであった

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 23:09:00 ID:xYd1jLGV
ゴンベの子息ってちょっと波乱人生
・長男が盲目
・後継者と決めた秀範が関が原で西軍につき(廃嫡)、大坂の役では豊臣方に
・後を継いだ忠政、小諸城主から上田城主へ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/23(火) 00:32:28 ID:QTPQTDMv
>>663
豊臣家臣として節義を全うしたのは秀範の方だな
親父の方もまあ徳川に恩義があったのだろうけど

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/23(火) 05:09:21 ID:L/A2U3QR
仙石は貴重な関西の蕎麦名産地を作ってくれた一族w


仙石秀久、改易されて

2009年06月22日 00:07

648 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/21(日) 21:49:19 ID:yWWk1H5K
九州征伐の戸次川の戦いでボロ負けした仙石秀久は当然改易された。
とはいえ、まだ戦国時代。どこかで合戦なんて可能性もあったりする。
そこで、彼は高野山でおとなしくして・・・・なかった。
いつの間か徳川家康の客将になっていた。今で言えば非正規雇用である。
さて、そうこうしている内に北条征伐となり、徳川家も北条征伐に参加していた。
もちろん仙石秀久もである。で、その彼の格好というのが凄い。

たくさんの鈴をつけた甲冑にドハデな陣羽織。

想像するにつけ、うるさそうである。歩く騒音と言うところか?
さて、彼はこの人目に付く格好をしつつも、活躍をした。ある意味、
活躍した事を知ってもらうためにそんな格好をしたのかも知れないが、
彼だって大名復帰を賭けていたのだろう。彼は本当に戦場で大活躍し、
地名にその名を残した。

箱根仙石原

である。こうして、
仙石原にその名を刻むと共に大名へも復帰した仙石秀久であった。





651 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/22(月) 10:10:51 ID:vap7ZYAU
>>648
仙石秀久

政治   D
知略   D
采配   E
武勇   S
胡麻すり S

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 10:26:23 ID:xTTShLvQ

>>468
仙石は戸次川がひどすぎてどうもなあ……
司馬史観すぎるのかもしれんが何しても軽薄に見えてしまう
もう少し調べたら何か擁護する点が見つかるだろうか

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 10:53:38 ID:Qnt93s7e
才能がないのにそんなポジションに配置されちゃった事くらいじゃない?擁護

仙石秀久と長曽我部信親と十河存保・悪い話

2008年10月16日 10:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/12(火) 07:13:45 ID:0By7/lLV
四国で泥沼の争いをした長曽我部信親と十河存保
二人とも仙石秀久のせいで戸次川の戦いで戦死する
十河は九州仕置きの後改易
長曽我部は関ヶ原の後改易

でもそれから30年後に再び仙石と十河と長曽我部が共に味方として戦うときが来たんだな
十河存保の息子の十河存秀と仇敵長曽我部家の元大名長曽我部盛親
さらには憎き仙石秀久の次男仙石秀範

三人とも大阪の陣で大阪方について、そろって死んだ

人の縁の不思議な話