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鈴張

2018年10月14日 18:14

313 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/14(日) 14:44:33.30 ID:EdAdicSZ
その昔、飯錫の里(広島市安佐北区飯室、鈴張の周辺)は砂鉄がよく取れこの地には腕の良い鍛治職人が沢山いたそうだ。
その中に茂左衛門と言う鈴作りの名人が居たが、茂左衛門の作る鈴は評判が良く彼が作る鈴を馬に付けて戦をすると負ける事が無いと言う評判だった。

ある時、茂左衛門の鍛冶場へ200頭の馬をつれた立派な殿様の行列がやってきた。
 殿様は茂左衛門に鈴をできるだけ沢山作ってほしいと頼んで馬に載せてきた金を前金として渡し、少なければまだやろうと言ったそうだ。
 その代わり、これより三年間は他所の殿様が鈴を頼みこんでも一つも売るなと命じて鍛冶場を後にした。

それからと言うもの茂左衛門は朝早くから夜遅くまで鍛冶場から槌の音が絶える間もないほどに働いて多くの鈴を作った。

三年後、殿様の行列が再び茂左衛門の鍛冶場を訪れた。殿様はこの三年、茂左衛門が誰にも鈴を売らなかった事を聞くと満足して鈴を受け取り馬に付けさせ、礼金を払って鍛冶場を後にしようとした。

その時、殿様は茂左衛門を「こちらに来い」と手招きして呼び寄せた。
茂左衛門が前に出て膝をつき首を垂れた瞬間殿様は刀を抜くと茂左衛門の首を切り落としてしまった。
他の殿様に鈴を売られぬ様に茂左衛門を殺してしまったのだ。

しばらくして殿様は何千騎と言う味方の馬に茂左衛門の作った鈴を付け、意気揚々と敵対する殿様の領地へ攻め入った。

しかし、茂左衛門の作った鈴は鳴る事なく殿様の軍は散々に打ち負かされてしまったそうだ。

今でも大晦日の丑三つ時になると茂左衛門の鍛冶屋敷跡からシャーンとそりゃあきれいな鈴の音が聞こえてくるという。

飯錫の里が鈴張と呼ばれる様になったのは昔、茂左衛門のような鈴職人が沢山居たからといわれる。

(広島県の民話)

この戦に敗れたお殿様は毛利・吉川連合軍に有田中井手の合戦で敗れて戦死した、武田元繁では無いかと言われる



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/14(日) 17:38:48.03 ID:ocNGDShA
>>313
鈴の音でそんなに士気とか変わるんだろうか、むしろないほうが安定しそう。

315 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/14(日) 18:15:31.62 ID:LpAKMWMr
>>314
装飾品でしかないんだろうけど、華美に見えたり味方で統一して装備してたら士気が上がるとか、敵味方の区別をつける為に役立ったとか?
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西国の桶狭間、事の始まり

2018年05月06日 18:00

730 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/06(日) 13:42:31.42 ID:l9oNTbVm
西国の桶狭間、事の始まり

永正14年(1517年)10月、安芸の守護である武田元繁は安芸北部の山県の諸勢力を攻め、下した者らや元々の配下を糾合した後、有田の城をおよそ5千の兵で取り巻いて攻め立てた。
有田城主、小田信忠は老練の武将であり、城兵は300ばかりだったが敵の数に怯まず激しく防戦に当たった。
武田元繁はその勢いを持って有田を落とした後は近隣の毛利家や吉川家と言った自分に従わぬ大内傘下の者らを滅ぼそうと目論んでいた。
この城を武田元繁が真っ先に攻めるに至った理由は何からか?
それは永正元年(1504年)、石見の高橋久光が有田の城を攻め取った後、野田久之を城将として置き、これにより近郷一帯悉く高橋に従うこととなった。
ところが、元々この地の主であった吉川家家臣の森脇基方という者がこの城を奪い返そうと野田に取り入り、最初は警戒されたものの遂には家僕同然に振舞うほどとなり、表裏無く打ち解けるまでに至った。
そんなある年の8月15日、近隣の八幡神社の祭礼を見に野田の家来が皆出て行った時、森脇は好機到来と野田の宿舎を尋ねるとこう言った。

「野田殿、私も祭りを見に行きたいのですが、刀が見苦しいので遠慮しております。貴方の御太刀を貸して頂けませぬか?」
「良かろう、貸して進ぜよう」
野田から代々秘蔵の太刀を受け取った森脇は
「いやいや、これは見事な御太刀ですな、ベラベラベラベラ(以下略」
と、野田の太刀を弁舌巧みに褒めそやした。上機嫌になった野田は
「そうであろう。この太刀は見た目もさる事ながら斬れ味も優れ、ワシの先祖はこれで妖怪や大蛇を(以下略」
と、自慢気に刀の由来を語り上げた。野田の話がひと段落した時、森脇は
「では、その斬れ味を試させて頂きましょう!」
と一言、野田の頭を件の名刀で叩き斬った。
野田は「アッー!」と断末魔の声を上げて倒れ、森脇は彼の首を取ると傍輩や近郷の者らに告げ、5~60人の兵を集めると有田の城に立て篭もった。
その方を受け激怒した高橋久光は5000ほどの兵を集めて有田に攻め込み、森脇の主人である鬼吉川こと吉川経基も1000ばかりの兵を集めて有田城へ入城すると、双方の戦いは激しく数ヶ月に渡って決着は付かなかった。
この時、武田元繁の仲裁で両軍は和睦する事となったが、有田の城をどちらが取るかは双方譲らず一向に埒が開かなかった為、
武田元繁の鶴の一声で元々有田を本領とし、今は城を追われた小田氏を城主として有田の城を返させる事で何とか事は収まった。
その後も仔細有って武田と吉川は闘争に及んだが、この時小田は武田に恨みを含む所が有って吉川に与したので、元繁は小田を恩知らずと憎み有田の城を攻める事となった。
日が経つほど有田の小田方は苦境となり、小舅の熊谷元直を中に立て降伏を申し出たが、それすら許さぬ程に元繁は激怒しており、これを許さず有田の落城は目前に思われた。
有田城の落城は間近と見た為か、武田元繁は毛利幸松丸配下の元就が領する猿掛へ1000ばかりの兵を向かわせ、ここに西国の桶狭間こと有田中井手の戦いの戦端が開かれることとなるのである。
(陰徳太平記)


餓鬼の首 武田一族終焉の地

2017年11月12日 16:28

299 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 16:59:10.08 ID:sH6ietgp
餓鬼の首 武田一族終焉の地

 武田山の背後、広島市安佐南区長楽寺にある「ふじが丘団地」の下に、こんもりと繁った林が残っており、この一帯が、武田一族の終焉の地と言われています。
この終焉の地は ”餓鬼の首” といわれ、 この地で武田氏が滅びた時、一族郎党たちを”首切り処刑”した所で (<安郷土史懇話会>によれば=悪人や罪人を処刑した場所であった所とされている) 、
掘れば血がでると言われている。 首切り処刑したと言われる 約1.5m 四方で高さ 1m の石積みがあります。

  この場所には武田一族の後裔の方たちが建立された 「武田一族の終焉の地」 の石碑があり、それには次のような碑文が刻んであります。

  『 今を去ること四百年有余年昔、天文十年三月十三日新羅三郎源義光が末裔 安芸の国守護武田信重はおしよせる大内.毛利の大軍に祖父の地を死守せんと戦せしも、 
衆寡敵とせず金山城にて一族諸共に自刃す。
残りし血族は悉く捕われ 六親等に至るまで女人、幼ごの区別なくこの地冷たき石積の上に あわれ無情の刃にかかりてはて封印される。
時は流れ辛くも難をのがれその血を今に伝えし物共真を積みて、悲願結集し尊き仏法の功徳をもって縛はとかる。
今はただ苦もなく怨みもなく一族とともに仏国浄土に赴かん。 願わくはその説く所怨親平等の大慈大悲戦乱に倒れし遍くの諸霊の上に注がれん事を。
      諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽 』

    武田信重が裔    ****  ****
                  ****  ****

    武田源三が裔    ****
         平成十年四月建立

http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takeda-hiwa/syuuennochi/syuennochi.html
http://taketayama-hoshoukai.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-f966.html



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/11(土) 18:23:55.81 ID:LCc5v4ef
>>299
>今はただ苦もなく怨みもなく一族とともに仏国浄土に赴かん。
凄い名文…
作られたのは結構新しいんだね、400年以上たっても忘れない良い話じゃないか!

301 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 18:55:30.54 ID:/VYwKrBM
いや、後裔の方々が先祖の恨みを忘れるのはそうだけど、根本は一つの戦国大名家の一族がほぼ誅滅される話なんだからどう考えても悪い話だと思うんですが…

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/11(土) 20:08:27.19 ID:Bb8OW2om
フランスに何か用があったん?

303 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 21:07:45.33 ID:girOAUNf
>>302
その発想はなかったわ

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 02:45:28.05 ID:8lgKdSVl
なるほど
しかしながら浄土とは表現しないだろうなあw

おんばんさん

2017年11月12日 16:27

305 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/12(日) 07:55:19.56 ID:xEfHF25d
おんばんさん

 天文10(1541)年 毛利元就軍との戦で銀山城は落城しました。執拗な追撃をうけながら武田方の武士達は戦いながら沼田方面に敗走しました。
 しかし、多くの武田武士たちは>>299のように捕らわれて斬首されました。 
一方、少数の一族の子女や老人は神社そばの通称”隠れ里” (安西中学校付近まで続くつづれ折の谷間) に隠れていたそうです。 
隠れ里の入口には大きな岩が2~3枚あり,その陰で数人の武士達が護衛をしていましたが、毛利方に発見され全員殺されてしまいました。
 地元の人々は隠れ里入口の岩を割ってお墓を作り供養しました。昭和40年代後半の団地の形成に伴い移転されましたが、
地元ではその祠をおんばんさん(黄幡さん)と呼んで今も武田武士供養の祠として恵比寿神社に残っています。

恵比寿神社とおんばんさん
https://i.imgur.com/XoxSAkb.jpg
https://i.imgur.com/7gINtR9.jpg
XoxSAkb.jpg
7gINtR9.jpg
http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takeda-hiwa/onbansan/onbansan.html



306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 12:04:59.63 ID:RkRtT+mU
>>305
>岩を割ってお墓を作り供養しました
ケンシロウみたいな百姓が岩割ってるの想像して草

蛇姫と血洗いの池

2016年09月23日 14:27

196 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/22(木) 21:59:52.19 ID:dJOGzWtm
蛇姫と血洗いの池

毛利元就の初陣にして、西国の桶狭間とも言われる有田中井手の戦い。数で勝る武田元繁の軍を5分の1の寡兵で打ち破り、元就の武名を一躍高めたのがこの戦である。
この戦で敗死した武将の1人に、安芸武田家重臣の熊谷元直が居たのであるが、彼の遺骸は戦場に置き去りにされたままであった。
元直の妻は父親、香川光景が大蛇退治をした(実際に退治したのは弟で家臣の香川勝雄)事などから蛇姫とあだ名される女性であったが
夫の骸を持ち帰らなかった家臣らに腹を立て、その夜馬に乗ると1人戦場跡に赴き首の無い数々の死体の中から元直の腕に有った腫れ物の痕を頼りに夫の遺骸を探した。
やっとの思いで夫の遺骸を見付けた蛇姫であったが、彼女の力では夫の遺骸を馬に乗せ持ち帰ることができず、
彼女は泣く泣く夫の右腕を切り取って持ち帰り、熊谷氏の菩提寺である観音寺に湧く井戸で持ち帰った右腕を洗い清めて亡き夫を弔った。
観音寺は今は史跡として残るのみであるが、その境内には蛇姫が夫の右腕を洗い清めた血洗いの井戸が今も「清泉」と呼ばれ残っている。

http://www.cf.city.hiroshima.jp/kabe-k/kabemap03.pdf
(広島県史他)



197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/22(木) 22:04:52.04 ID:dJOGzWtm
>>196追記
なお、右腕は清められた後に埋葬したとされるが、続武将感状記によると元直の妻こと蛇姫はこの後死ぬまで夫の右腕を大事に持って居たとのことである…

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 22:11:03.64 ID:S011pzfY
名前と前半の紹介のせいでてっきり清姫のような半分妖怪か剛力な女性かと思いきや
心はともかく体は普通の女性並であったか

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 22:11:49.47 ID:ZPAfABT5
>>197
いい話が恐いい話になってるじゃねーかw

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 23:44:40.35 ID:aXC+X0IO
一物じゃなくて右腕?よっぽど小さかったんだな

201 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/23(金) 00:10:03.80 ID:T7h1F4dk
この女丈夫の娘は絶世の美女、孫娘は後に実家の香川家の一族が書いた陰徳太平記によるとゴニョゴニョ… のあの人

毘沙門天の縁結び

2014年06月15日 18:52

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 00:16:25.01 ID:59CefDBr
毘沙門天の縁結び

安芸武田家の9代当主、光和。安芸守であり安芸国内における反大内派の筆頭でもある。
その武勇で近隣に恐れられ、陰徳太平記では死後魔王になったとも伝承される人物であるが、
彼はある時一人の女性に恋をしていた。
相手は配下である熊谷信直の妹であった。余談であるが後年、吉川元春に嫁いだ熊谷信直の娘は陰徳太平記によると醜女と
言われているが、この妹は大層な美人(息子で毛利元就の影武者を勤めた、武田宗慶も容姿端麗と伝う)であったという。
熊谷信直にアタックを掛ける光和であったのだが・・・

(*^◯^*)「妹さんを嫁にくーださい!」
(●▲●)「殿には吉川殿から嫁いだ正室が居るからあーげない」
:(*゙゚'◯゚'): 「」

と、断られたのであった。何度も何度もお願いする光和であるが、その都度熊谷信直は
頑として断るのであった。

どうしても諦めきれない光和であったがある日の晩のこと、彼の居城・武田山近くの緑井岩谷にある毘沙門天が、
光和の夢枕に立ったのである。

|´」`|「汝の恋が叶うか叶わぬか、我が境内の奇岩に石を投げて占うが良い。」

不思議な夢を見た光和は、早速お告げのあった毘沙門天の境内にこの奇岩を尋ね、
夢に従い石を投げつけた。光和が投げた石は見事奇岩の穴に嵌ったのであった。
この後、信直の舅に当たる武田家家老の品川右京亮が説得したことで、信直も妹が
光和に嫁ぐことを渋々承知し、晴れて二人は夫婦となり、光和も大変喜び正室よりも
仲睦まじい夫婦となったと言う。

この後、この毘沙門天の奇岩は「縁結びの石」として近隣の若者が恋の成就を占う為、
好いた女性の名を心に浮かべ、石を投げてその成否を占う様になり、今に伝わる事となったのである。

めでたしめでたし・・・・

と、言いたい所であるが残念ながらそうは終わらないのであった。

この後、二人の間には男児が一人生まれ、その子は後に毛利元就の影武者として仕える事になるのであるが、
その子がまだ幼い内に熊谷夫人はある日、何を恨みに思ったか側仕え1人を連れて武田山を退去し、光和と離縁する事になる。

実家の熊谷家に戻った夫人は兄・信直に叱られた後、三須房靖という者の所へ再嫁することになる。
夫人を返すよう迫る光和であったが時既に遅し。また、同じころ信直が敵方の大内・毛利と密約を
結んだことが発覚。更に信直は武田家の領地を掠め取り、完全にキレた光和は1533年、配下の国人衆1000を動員し
信直の居城・三入高松城へ侵攻。横川表の戦いが勃発し、以後熊谷氏は完全に大内・毛利方となるのであった。

この戦いで敗れた安芸武田氏は、以後徐々に衰退していくこととなるのであった。
結果が残念な縁結びのお話である。





515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 07:04:13.71 ID:5gHeMh5m
勝手に帰ってきてそんな状態でさらに別のところに嫁げるのか
受け入れる方も受け入れる方だし戦国時代の婚姻はよく分からん



517 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/15(日) 08:55:23.44 ID:59CefDBr
>>515
妹の嫁ぎ先の武田光和と兄・熊谷信直は2人とも父を毛利元就に討たれたりした縁もあってか
水魚の交りと言われる程仲が良かったそうです。
とはいえ父の死後、妹を大事に育ててきた信直は可愛い妹が主君の側室になるのは否定的でした。

また、1524年に大内義興が武田山に攻めて来た時、当時はまだ尼子側だった毛利元就が
援軍に来て、大内方は夜襲を受け、撤退。その戦い振りを見た熊谷信直は元就を仇としてではなく、
1人の大将として評価する様になったそうです。武田光和は父の仇としてずっと恨んでいたみたいですが。

その3年後の1527年位に同じ武田配下の山中氏が独断で熊谷信直を討とうとして失敗。1530年頃山中氏は熊谷氏に討たれ、
その領地は熊谷氏の物となります。
その頃既に熊谷信直は毛利家を通じて大内義隆から山中氏を討ってその領地を得る密約を取り付けていたと言われます。
武田家を離反するのは信直の既定路線であり、妹の離縁と再嫁は渡りに船または信直の指示だった可能性も有るのではないかと言う話です。

陰徳太平記には年代はハッキリしないものの、武田光和と熊谷信直が不仲になる過程の話も
書かれているそうなので、また探してみたいと思います。



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 21:37:09.72 ID:7JvTsUuV
安芸熊谷氏は鎌倉レジェンド熊谷直実の子孫です
豆知識

魔王になった戦国大名

2014年05月06日 18:58

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:49:58.31 ID:wO4E1laa
魔王になった戦国大名 陰徳太平記と広島市安佐南区祇園町誌より

戦国時代の高名な大名や武将には人外に擬えた異名を持つ者が数多いる。
「大六天魔王」「雷神」「軍神」「毘沙門天」「竜」「虎」「鬼」「熊」「古狸」「鮭」などなど
しかしそれは生前に自称した物や後世にあだ名された物であって、当然ながら本当に神や竜だった訳ではない。鮭様などは
ただの鮭好きな気のいいおじさんのちょっと食い意地の張った所から来た異名である。
だが、その死後に本当に魔王になったと伝わる戦国大名が居た。

安芸武田氏 9代当主の光和である。
父はその武勇をして今項羽と周辺に恐れられた8代元繁。
光和はその嫡子として1501年(02、03、07年説あり)に生まれる。
光和は生まれた時から33本の歯が生えており、また生後3日目になっても産声を上げないので心配して厳島の神主を招いて
お払いをしたらやっと泣いたと言う。長じては身長7尺余り(2.1メートル)に育ち、眼は逆さに裂け、顔にはたくさんの毛が生えており、
きわめて大力で、鉄の弓を用いていた。
また居城銀山城(武田山)へ登る道に大きな岩が出ていて馬が通るのに不便であったが、6、70人の人夫の力でなくては
とても動かすことができないので、大昔からそのままになっていたが光和は自分の力試しにといって、この大岩を
軽々と谷底に転がしたと伝えられている。

光和が投げた岩は山麓の安佐南区祇園帆立に「いぼ地蔵」「投石地蔵」として残っており、この岩の側にある松の葉で
人の体に出来たいぼをつつくとそれが落ちると伝わる。
(つづく)

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:52:15.93 ID:wO4E1laa
魔王になった戦国大名 武田光和 佐東銀山城の戦いにて奮戦す

1523年、尼子経久が安芸中部の鏡山城(東広島市西条)を落とした事で安芸の大半は大内から尼子の勢力下となった。
翌1524年、大内義興は安芸を取り戻すべく、経久が伯耆に出兵した隙に安芸西部の桜尾城、そして武田光和の居城、佐東銀山城に出兵する。

佐東銀山城を囲むは大内家の柱石たる陶興房と初陣の大内義隆率いる1万5千。光和率いる篭城軍は3千。
6月25日の緒戦では援兵として来た熊谷・香川の兵千余りが敵の抜け駆けを察知して大内方の杉・問田氏率いる千5百余りを撃退。
それから7月に入り光和率いる篭城軍3千は何度か大内側と合戦しているのだが、その中先陣に立って奮戦したのが城主光和その人である。

自らの武勇を頼みに大内方の兵を斃す光和であるが、当然その話は大内方にも知られ、ならば何とか討ち捕ってしまえと作戦が立てられる。
中国地方で敵無しと評判の豪傑・若杉四郎三郎とやはり大力で知られたその弟、また大黒新允と言う大力の者や大内義隆の近習で
打物達者と言われた者を加えて、彼ら4人が囲んで光和を斃す作戦が立てられた。

あくる日、光和はまたも先陣に立ち大内方の兵を薙ぎ倒していたが、大内方は偽りの退却で光和をおびき寄せんとする。
武田勢が追撃したところ、大内方は踵を返し逆に武田勢を包囲せんとする。これは不味いと撤収を開始する武田勢であったが、
一人突出していた光和は最後尾、そうこうしていると先の若杉ら、大内方の精鋭どもに挑発され、光和はそれに「何を抜かす」とばかりに引き返す。
先ず若杉の弟が一番に光和に襲い掛かる。しかし、光和が3尺程の大太刀(備前一文字と伝う)で胃の辺りを強打すると一たまりもなく死んでしまった。
続く若杉の兄は組み付こうとして光和に捕まると、後方から押し寄せる大黒に向かってまるで鞠か何かの如くブン投げられる。ぶつかった二人はそのまま死んでしまい、
最後に残った一人もそれを見て怯んだ所を光和の大太刀の一閃で死んでしまい、かくして大内の作戦は失敗に終わり光和は悠々と城に引き返すのであった。

その後、牛尾・亀井・毛利元就らの5千の援軍が到着し、8月5日の夜に毛利ら安芸国人衆の夜襲で決着がつくのだが、結局大内は光和を討ち取ることは出来なかった。
(つづく)

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:57:33.37 ID:wO4E1laa
魔王になった戦国大名 武田光和 化け狸を退治す

当時安芸佐東郡(現広島市安佐南区)には一つの古い文殊堂があり、そこに化け物がおり人を化かすとの噂があった。それを聞きつけた光和が誰か行って退治せよやと
近習の者に言うと、青木某というものが承り化け物退治に出かけたが、散々に化かされ這う這うの態で帰ってきた。

それを見た光和はならば俺がやってやると一人、文殊堂に出かけていった。夜も更け、静かな夜空の元で何とはなしに不吉な予感がした光和が辺りを見渡すと、一人の6-70絡みの盲人が荷物を
持ち、杖を突きながら文殊堂に歩み寄ってきた。これが例の化け物か?と、警戒していると

(*^◯^*)「誰か居るんだ!?誰なんだ!?」
(●▲●)「おう、おるでー。坊さんはどこのモンじゃ?(怪しいなコイツ・・・)」

(*^◯^*)「厳島に住んでるんだけど、最近暑いからここで寝泊りして里の人に歌を聞かせて生活してるんだ。貴方はお侍さんか?態度が偉そうなんだ」
(●▲●)「ほーん、じゃあ平家を一曲頼む。」

(*^◯^*)「ほげー、おげー、はげー、いえー(ベンベケベンベケ)カテル、カテルンダ!ナカネカラグラブヲウケトリ、グラウンドヘゼンリョクシッソウスルウチカワ、ソノメニヒカルナミダハクヤシサトハムエンノモノダッタ、ヨクジツ、ベンチデツメタクナッテイルウチカワガハッテンサレ、ヨシムラトムラタハビョウインナイデシズカニイキヲヒキトッタ」
(;●▲●)(あ、上手い・・・こりゃ本物の人間かな?)

(●▲●)(いや待て待て、人を騙す化け物なら油断できん、でも斬った後でやっぱ人間じゃったー!だったら俺の名に傷がつく)
( ●▲●)(とりあえず縄でふんじばって捕まえてやろう)ジリジリガバッ!

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:58:20.61 ID:wO4E1laa
一気に盲人に組み付いた光和であったが、盲人は悲しい声で

(*^○^*)「ああ^〜、何をするんだ!別に命は惜しくないんだ!でも立派なお侍が目の見えない私にこんなことして恥ずかしくないのか!?」
(;●▲●)(あ、こりゃやっぱ本物の人間ですわ。しくったのう・・・皆に知れたら笑いモンになること違いないわ)

(●▲●)(よし、一思いに絞め殺してやろう)

慌てた光和は証拠隠滅を図るのであったが・・・

(*^○^*)「立派なお侍が何と情けないことを考えるんだ!」
(;●▲●)「こ、心を読んだ!?わりゃやっぱ妖怪じゃろが!往生せぇや!」キュッ
(*^●^*)「ぐぇあ

(;●▲●)=3「ハァハァ、やっぱ化け物じゃねーか」
(●●●●●●●●●●)

光和が力任せに首を絞めると、老人は血を吐いて死んでしまった。翌朝、老人と思われた者はやはり化け狸で、背中には一本の毛もなく、
二歳の子牛ほどもある大きさであったと言う。

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 23:33:49.11 ID:wO4E1laa
魔王になった戦国大名 武田光和 魔王になる

1540年、毛利元就を通じて大内家についた熊谷信直の討伐を準備する武田光和であったが、その最中に光和は急死してしまう。
光和が死ぬ時、黒雲が空中にたなびき、屋敷の上をおおい、雲の中によろいのすれ合う音、刀と刀のかち合う音、馬のくつわの金具の鳴る音がしたといわれ、
その後の銀山城(武田山)は大魔所となって奇怪なことがたびたび起こったという。
1541年、毛利元就に攻略され銀山城は落城。光和の後を継いだ若狭武田氏の信実は逃亡し、ここに安芸武田氏の嫡流は滅亡す。
数年後、元就は山県筑後守に命じて武田光和の居館を破却させんとするも、力者3人を連れ館に入った山県筑後守りはアッー!と叫ぶと卒倒。力者3人も倒れ、
庭でその様子を見ていた従者が筑後守を手当てすると、彼は息を吹き返したものの、後の3人はそのまま死んでしまったと言う。山県筑後はその後この時の事を
尋ねられても、何も語らなかったと言う。

その後、念仏の僧が一人武田山のふもとを通った折にこの山の怪異のうわさを聞き、それは亡き光和の霊が成仏せずに修羅道をさ迷っているのであろう、しかして
仏の力で救われぬことはないと、山頂に庵を結び、光和の供養に念仏を唱える日々を始めた。すると、光和はある時は老翁となって現われ、あるとき美女や童子になって
現われ、夜な夜な僧を悩まし、
「上に貴ぶべき諸仏もなく、下に救うべき人々もない。念仏など唱えていったいだれを救おうとしているのか」
と、僧に尋ねた。一瞬答えに窮した僧を見た光和は「念仏不問、私の声が汚れる、早く下山せよ」と迫ったので、この僧は山を下り、このことは深く隠していたが、
その弟子の一人が還俗して皆に話したので、一般に知れたということである。

この後、日蓮宗の僧がひとりこの山に登り、法華経一千部を読誦し、その菩提を弔ったが、ある時、光和は、あし毛の馬に乗り、空中から現われ、かの僧に向かい、
「一切のお経はくそを拭う紙、三世の仏はくその中の虫である。そのきたない紙の中の字を読んでなにになる、そんなことやめて、歌でも一つ歌え」といったのでかの僧は、
自分は三十年余りお経を読み、いろいろの功績を積んでいる者だ。もしこの功力が空しくないものであるならば、一魔性のものを退けたまえ、と諸仏に念んじていると、
その験であろうか、化生の者は雲路をさしてのぼったという。だがこの後も武田山はたびたび怪しい事が起り、木こりも炭焼きも山に近づかないようになったということである。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 23:34:38.45 ID:wO4E1laa
しばらく後、こんどは禅宗の僧が道に迷ってこの山に通りかかり、この山で寝食し、夜は座禅などしていると、突然空が曇り雨が一しきりに降った後、
大きな松風が吹くと、やがて山が崩れるかの様な音がした。僧は恐ろしくなり「魔界仏界同一如」と念じていると、年のころ三十余りの大の男が、
鎧を着、鉄の弓を持ち、鉄の矢を負い、あし毛の馬に乗って飛んできて、その後に同じく四十ばかりの男が八尺ばかりの金棒と大まさかりを左右に持ってついてきた。

二人が物をいうのを見ていると口から火を吐いており、主と思われる男が「小河内」と呼ぶと、「はい」と、六十ばかりの頬にひげの沢山生えた老人が大地から湧き出てきた。
(安佐南区に隣接する安佐北区安佐町を支配した、武田配下の小河内氏の者か?)

主人らしい男は、
「これにお客のお坊さんがおられる。おもてなしを。」というと、「承りました」と、湯玉の湧きかえる熱鉄をちょうしに入れ、鉄の杯を添えて持って来た。
そして、僧に向かい、
「宗門には熱鉄を飲むの句がある。貴僧に一杯おすすめしょう。」
先ず試しに、自分が飲んでみせようと、三度杯を傾け、その後また言葉をつづけた。

「われは、生きていたときは、武田判官光和といっていた。最後の一念によって修羅道に入り、魔軍八万四千を率いて天下の争乱を起し、仏法をあだとなし、
猛火をもってすべての寺を焼き尽くそうとしている。達磨大師九年の修行ですらどうもすることはできない。ましてこのごろの一僧においてなにができるか。
形は僧に似ているが、心は鬼の如く、身に法衣をつけているが、心は俗塵に染んでいるではないか、仏は太平の世の中のかん賊であり、釈迦は乱世の英雄である
このような不都合なものがどうしてわれを降伏させることができるか」

言葉も終らず、光和は一口に僧を食おうと飛びかかったが、忽ち大かつ一声して、「通心無影像」と叫んだその一瞬、光和は合掌して、なにか唱えつつ、跡かたもなく消え去った。
この僧は、これはまことに不思議なことであるといい、ここしばらくとう留し、光和の霊を弔った。
その後このことを武田のゆかりの人たちに語ったので、これらの人々はやがてこの僧と供養をし、千部の径を書写しこの地に埋め、千本そとばを造って追福を祈ったので、
光和の怨霊も、ようやく静まったと伝えられている。

231 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/05(月) 23:53:13.92 ID:5v2KAvvZ
>>228
読み辛くてあいすみませぬ、武田光和伝説でググると
歴史情報(広島市祇園西公民館Web情報ステーション)
と言うのが出てきますのでそちらの方が読み易いかもです