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薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害

2021年01月16日 17:14

薄諸光   
526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/15(金) 20:12:44.52 ID:QrXZWoJ1
薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害

以下は秀吉が吉川元長に対し薄諸光が"文書偽造"をしたことをしらせる書状である。

わざわざ申し遣わします。薄という公家が諸国の牛に役銭をかけて取っていますが、秀吉は知りません。
間違いなく謀判で、言語道断の曲事です。あなたの国でも様々な所で徴収している者がいるでしょうから
この役銭を取っている者は公家でも門跡でも糾明し、全て捕らえて送るように。油断なく尋ね探して
絶対捕らえて下さい。そのために書きました。
(天正十三年)九月十八日  (秀吉朱印)
        吉川治部少輔(元長)とのへ

――『秀吉文書集 一六三三号』

薄諸光は山科言継の次男で薄以緒の婿養子となった人物で、薄家は伝統的に牛公事の権益を持つ公家である。
つまり実際は偽造文書ではないのだが、『言継卿記』によると永禄年間には山城・丹波・丹後の三国のみしか
役銭の徴収は出来ない状態であった。諸光は原状を回復しようとしただけであったのだ。

ところが織田政権は基本的に”当知行主義”を掲げて、国衆・寺社の争論を解決してきており、秀吉も
一月前には前田玄以に公家などにあてて”当知行主義”の方針を伝えている。(『曇華院文書』)

十月二日、諸光は牛公事のことで諸国の村々を混乱させた罪に問われて幽閉され(『兼見卿記』)
三日後の十月五日に妻と共に自害した。(『多聞院日記』)享年39。
『系図纂要』には「武命によって横死した」と記されている。



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山科言継の愛人・左衛門督の死

2020年12月17日 17:18

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/17(木) 16:29:20.77 ID:jVMIKhyQ
山科言継の愛人・左衛門督の死


山科言継の長女・阿茶は禁裏女官であった愛人・左衛門督との娘で幼い頃から出家していた。
公卿と禁裏の女官が愛人関係になるのは当時よくあったことで、言継の母も禁裏の下級女官であった。
左衛門督と阿茶はお互い連絡を取りつつも、離れたところで暮らしていたが
左衛門督は元・禁裏女官という経歴を活かして、越前朝倉氏に侍女として奉公するようになっていた。
阿茶はのちに還俗し越前の松尾兵部丞の後妻になっているが、この松尾兵部は「朝倉兵部」とも号する
越前朝倉氏の庶流で、左衛門督が娘と近くで暮らすために縁組を世話した可能性があるという。
【参考論文・山科言継をめぐる三人の女性 : 実母・愛人・長女】

その後、母子は言継に対し自身の現況を言継とやり取りし、左衛門督は朝倉義景に気に入られて
民部卿と官途名が変わったことなども報じられていたが 『言継卿記(紙背文書)』
信長の越前侵攻で状況が一変した。言経卿記の紙背文書にある阿茶からの書状によると

「……われらかもじ(母)も、こそ(去年)のふなか殿御いて候ときにけ候とて、あしかよわく候て
 とをくへはゑにけ(逃げ)候はす候、みち(途)にて御すき(過ぎ)させ給候……」

足が弱いせいで逃げられず、織田軍の一向一揆壊滅戦に巻き込まれて亡くなったことが伝えられた。
幸いにして、阿茶の夫の松尾兵部は織田氏の麾下に属し加賀国にいたため難は逃れたそうだが
この書状を読んだ言継の胸中はいかほどだったろうか。



「上総介か、入洛めでたし。」

2020年11月13日 18:34

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/13(金) 17:03:57.49 ID:btSWIwXi
九条玖山公(稙通)はまた、勇猛ある御人であった。
当時、鬼神のように世に恐れられた織田信長公には、何れの公家門跡も媚びへつらっていたのだが、
玖山公は立ちながら差し向かい

「上総介か、入洛めでたし。」

と宣って帰られた。これに信長公は機嫌悪しく
「九条殿は、我に礼を言わせに来られた。」
と、ご立腹なされた。

この事について、『例え一命を失っても公家の行跡を見た。御家に恥を残すまじき。』
と、褒め称える人々が有る一方で
『先ず時に従わない、不用の御事である』と、そしる者も有った。
また『智者は惑わず、勇者は怖れず』とあるが、この玖山公の行為こそその事であると、褒める輩もあったとか。

戴恩記



熟したイチジクの如く

2020年11月13日 18:33

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/13(金) 17:10:35.32 ID:u5KAX4m3
竹内季治
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%AD%A3%E6%B2%BB

元亀2年(1571年)織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したことから信長の逆鱗に触れ、同年9月18日に近江国永原(現在の滋賀県野洲市永原)で斬首された。享年54。

安国寺恵瓊より先に予言してましたね

参考
竹内季治、もう一つの予言・悪い話


のするかごしまになふほうのつ

2019年06月18日 16:04

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 09:53:54.35 ID:pCLnKn9F
昔、近衛殿(近衛信尹)が、どう言う仔細があったのだろうか、秀吉公の御時に、薩摩の坊津へ
流され、その後配所を鹿児島に移された。その頃詠まれたものが

 大臣の 車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ
 (大臣の車(牛車)ではなく哀れにも、乗り駕籠に棒で担がれている(駕籠と”鹿児島”、棒と”坊津”を
  かけている))

(きのふはけふの物語)



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:03:01.58 ID:fSX0hArW
>>174
近衛信尹といえば、娘の名前を「太郎」にしたとか面白い話があるけど、
ユネスコ世界記憶遺産にも登録された、近衛家に代々伝わっていた藤原道長自筆の「御堂関白記」についての本を読んでたら、
近衛信尹が薩摩に流された時に、何を思ったか自筆本の寛弘5年(1008年)のところの紙背(裏面の白紙)にだけ
先祖の近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』の抜書を書いてしまったようだ、とあった。
紙の節約のために紙背を利用するのは珍しくないとはいえ、600年近く伝わっていた家宝によくやるもんだ

ところが『孟子』に至ると、

2019年03月23日 18:43

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/22(金) 18:41:07.63 ID:MmvfBlxx
老人(江村専斎)が少年の時、洛中には四書の素読を教える人がいなかった。公家の中で山科殿(山科言継
が知っているということで、老人は山科殿から三部を習った。ところが『孟子』に至ると、山科殿は「本を
人に貸している」と言って、ついに教えなかった。事実は分からない。

――『老人雑話』



仁義の道の奥義

2018年11月30日 20:02

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/30(金) 01:25:15.74 ID:GU5Ble3X
ある人が藤原惺窩の所へ行、仁義の道の奥義を尋ねたことが在った。
惺窩はそれに直接答えず、何と無く世の中のことを物語し、「人々の身ほど大切なものはない。」という事について
「天下を取るほどの大富貴であるが、これを得るとそのまま死して、子孫へも渡らない、となれば、あなたはこれを
得ようとするだろうか?」

問うた人は
「その場合、どうして天下を得ようとするでしょうか。この身に変えるほどの宝はありません。」

「その志を、他者に施す事を仁というのです。一方で、それほど大切なこの身を、人に頭を叩かれたり、
一言の恥を受けたという事で、忽ちにして死を省みなくなる事があります。それはどうでしょうか?」

「わかります。そのような時、必死となります。」

「その、忍ぶことの出来ない事があるのを、義と云うのです。天下にも変えられない命であるのに、一つのことに
対して死んでも後悔がないという事が、義なのです。」

そう諭したという。

(士談)


忍び難く、哀なること

2018年08月14日 17:49

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 14:56:17.06 ID:OUO9MWgw
天文14年(1545)、応仁より後、度々の兵乱によって禁中はもってのほか御不如意
となったことは、神武天皇以来なかったことである。諸卿はこれを難儀とした。

近衛殿・鷹司殿・綾小路殿・庭田殿・五辻殿・中原大外記など皆近江に下向されて佐々木
の屋形(六角氏)を頼り、観音寺城下の常楽寺・慈恩寺に寓居された。

この他の諸公家も皆国々に下ってその所縁をへつらい、末々の殿上人・地下人らは摂津・
河内・近江などの間に徘徊して民間に交わった。

また京都を御出にならない人々には、商家に身を寄せて朝夕をしのぐ人もいた。あるいは
一椀の食を求めんがために門戸に侘び立ちすれば、戦国の習いで案内・検見(斥候)の者

かと怪しみ捕らえられ、詰問の責に及ぶ人もいた。あるいは賊のために討ち殺された人の
妻子や眷属として所々に迷い行き、愁嘆のあまり淵瀬に身を投げたり、自ら湯水を断って
渇死する人もいた。その消息は中々見るに忍び難く、哀なること前代未聞なり。

――『浅井日記』


近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で

2017年07月27日 10:45

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 10:41:11.98 ID:BmOTs3V3
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 06:43:40.19 ID:Io2U+32W
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし

乗するかごしま担うぼうのつ

2017年04月19日 17:41

昔近衛殿(近衛信尹)が何の理由のよるものか、
秀吉公の御時に薩摩の坊津へ御流しになられた。
配所の鹿児島へ移られときに

大臣の車にはあらであはれにも 乗するかご(駕籠)しま担うぼう(棒)のつ

(昨日は今日の物語)


三条三光院殿が十六歳の御時

2017年01月26日 15:05

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 22:28:30.78 ID:cLGF5vuf
 三条三光院(三条西実枝)殿が十六歳の御時、
禁中の歌会で”懐旧”という題が出たことがあった。
「何とも詠みにくい」
と言われると、
『歌の達人である彼でも苦手なものがあるのか』
と一同は皆おもしろい顔をするだけで、
若い彼のために題を取り替えようと提案する人は誰もいなかった。
そこで、

程近きわが昔さへこひしきに 老いはいかなる涙なるらん
「年若い私さえ昔を恋しく思うのに老人には昔はどのような涙になるのであろうか」


(醒睡笑)
若者いじめにも屈せず、見事やりかえしたちょっといい話




今大路道三養生訣ならびに狂歌

2017年01月19日 18:24

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 22:22:44.68 ID:I6IZ9lVa
今大路道三養生訣ならびに狂歌

林氏(述斎)の話であえう。
猷廟(家光)の御時、名人と呼ばれた今大路道三に養生の訳を御尋ねになられた。
道三は即座に一首の狂歌を吟じた。

養生は無欲正直火湯(ヒユ)だらり 心のままに御屁めされよ

なるほど、飲食や男女の欲をはじめ、人身を損なうものは皆自分の欲から起こることが多い。
意を正直にすれば心労することはまったくない。
譎詐謀計は様々のことから自ずから思慮を悩ますものだ。
火は火に当ること、湯は入浴のことで、
強い火に当ってはならない、熱い湯に入浴してはならないということだそうだ。
だらりはその時の俗言であろう。

人々はよくこの歌を守ったら、養生の術は足りるはずである。

(甲子夜話続編)



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:14:56.29 ID:gYce28W1
>>524
今大路道三といえば秀忠の信頼厚い名医だけど、上洛中の秀忠、家光に従っていたところ、崇源院(江)の重篤の一報で
急遽江戸へ帰還するも、自分が病気になって到着前に死んじゃったんだよね。
死去した日は崇源院の数日後だから、元気でも間にあったかどうかわからないが。

状況的に、医者の不養生とはちょっと違うかな。

北谷の稚児は雪より色白、南谷の稚児は花に勝る

2016年12月11日 12:26

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 19:05:21.45 ID:/4cA2X5A
 比叡山では、北谷の稚児は雪よりも色白だと愛され、南谷の稚児は花に勝るほど趣があるともてはやされた。
このようなことが続いていると、後に者どもはああだこうだと心無いようになっていった。
ついには諍いになり、花を悪く言い散らしたり雪を妙なものと非難したりした。
雪の方からは「花を褒めるような狼藉の類は攻めよ」と言い、
花の方からは「雪を褒めるうつけ者をひたすらはたいて除けよ」と言い
互いに怒れる心は激しくなり山の騒ぎがはなはだしくなった。

 西三条逍遥院(三条西実隆)殿はこれを伝え聞かれ、わざわざ山にお登りになられた。

雪にも愛でられる理がある。
花ならばさかぬ梢もあるべきに 何にたとえん雪のあけぼの

花に心を染められるのも、もっともな由縁がある。
雪ならば幾たび袖をはらはまし はなのふぶきの志賀の山越え

今後は優劣を争わず仲直りをし、円入和合の床で勤学せよ
と鎮めてお帰りになられた。

(醒睡笑)



396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 23:38:26.95 ID:0vHTnDKz
こんなんじゃ俺が清盛や信長でも焼くわな。

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 00:08:43.03 ID:wrFBh8rX
雪とか花っていうのがボーイの呼称かと思ったら
文字通りの雪や花だったのな・・・

とにかくよろしくないものであったので

2016年08月26日 21:09

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 04:32:02.82 ID:SjtvSl7Y
西三条逍遥院(三条西実隆)殿が、御養生として有馬へ湯治に出かけたことがあった。
そのとき、歌の批評を望む者が参った。

とにかくよろしくないものであったので

昔より 奇特ありまの 湯ときけど 腰折れ歌は 直らざりけり
『腰折歌 下手な歌』

(醒睡笑)



一条禅閤兼良公は博学多才の御方である

2016年01月05日 17:43

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 04:57:05.46 ID:TholDEX4
 一条禅閤兼良公は博学多才の御方である。

彼を招いた歌の会等で、天満宮の尊影を崇め掛け置いていましたら甚だご立腹なされ、尊影を取り除かなかったらその席に着かれませんでした。
この事を知っている人は、彼がお加わりになる席には、決して天満宮の尊影かけなかったという。

この理由は彼が常々仰せられるには、
『菅家は唐朝までの書を知りなさっている。私は末代に生まれたので、明朝までの書を知っている。であるので菅家の次席には立たない。』とのことであった。

倭漢のことに博識であるが故に、慢心してしまいこのようになられたのだろう。

彼は乱世になると都に住むこともできず、美濃君の畑と申す所に御隠居なされたという。
(本阿弥行状記)

一応、落ち着いてからは京に戻れたのですがね



南光坊の木像

2015年12月17日 10:57

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 00:37:14.53 ID:KK7fARI3
 南光坊僧正に大師号を贈られる事、叡山は全く承知していなかったが、勅命なので仕方なく山の歴代に加えることとなった。
南光坊の木像を造り山に上げようとしたところ、突然風雨や砂石が飛んでなかなか登山ができなかったので、そのまま下山したことが伝わっている。
 南光坊がどれだけ博識の出家であろうとも、一代の行跡は僧に似合わない。
もとから大師号を贈られる人ではなかったので、どうして山の歴代に加えなければならないのだろうか。
寛永寺の号も大いに理解できないことである。
(本阿弥行状記)

>風雨や砂石(意味深)

ちなみにこの木像と思われるものは坂本の恵日院の慈眼大師堂に本尊として今もあります。
『木造慈眼大師坐像』という名で重要文化財にも指定されています。



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 00:46:13.37 ID:6c/zEKcP
山に上げられないなら大徳寺の山門に置けばいいじょのいこ

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 08:51:52.68 ID:3AdArwrY
風雨や砂石がってのはあげないための言い訳かね
幕府の検視とかつくなら別だろうけど

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 12:22:39.78 ID:2wvPTIua
大師号は宗派の開祖や中興の祖に贈られるべきものなので
天海には不釣り合いである、という本阿弥の意見も当然ですね。
空海、法然、親鸞、日蓮等と同格になるわけですから。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 13:18:05.75 ID:/PBg3oW/
親鸞とか日蓮が大師号授かったのって江戸以降だし価値無いだろ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 13:53:31.74 ID:tBpmEOs+
空海は別格だけど法然、親鸞、日蓮より天海の方が先に大師号贈られてるんだよな

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 14:28:35.83 ID:6c/zEKcP
ハーフミレニアムお大師、法然

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 14:38:24.30 ID:arE1Am7t
超メジャー
弘法大師 空海、伝教大師 最澄

まあまあ知ってる
慈覚大師 円仁

佐野厄除け大師とか深大寺では知られてる
元三大師 良源

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 20:55:56.43 ID:eQtcX9yS
元三大師の残りの二人はだれですか?

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 21:21:28.06 ID:FcfagkeQ
元・三大師じゃないから!一月三日って意味だから!

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 21:24:03.98 ID:3AdArwrY
川崎は誰なんだろうと調べて、ついでに厄年も調べたら本厄だったorz
仕事辞めたのは必然だったかw

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 21:45:53.93 ID:uytH9X5A
>>777
           /         ______/      ____/
      __  ___/
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雲の上まで飛ぶ蛍かな

2015年10月24日 19:38

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/24(土) 11:03:27.52 ID:yKHnJEhe
中院通村公(鍋島光茂の後室、栄正院の祖父)が、後水尾天皇の御代、
勅使として江戸に下向なさったとき、
江戸城の下馬先を馬を下りずに通るとおおせになった。
御番衆が、
「先例ですからお下りくださるよう願います」

と申し上げると、通村公は、

「先例を知らぬ者を例にして、馬を下りる必要があろうか。
 勅使は下乗しないものである。」

と返答された。
けれども、どうにも御番衆が納得しないので、

「それならば勅諚は差し上げられぬ」

と、登城せず、そのままお帰りになった。
これが原因で、三年間蟄居なさった。
通村公の子の通純公は若死になされた。
通純公の子が従一位内大臣の通茂公である。(1/2)

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/24(土) 11:22:35.98 ID:yKHnJEhe
仙洞様は御在位中、松木殿の姫君を御寵愛され、
この姫君からお生まれになった五宮様(のちの東山天皇)を、
天皇のお位につけようとお思いになられた。
一宮様は日蝕の日にお生まれになられたということで、
公卿たちが、皇位におつきになられるのはいかがなことかと評議し、
いずれの公卿たちもその評議に同意したが、
ただひとり通茂公は同意せず、

「迷信で物事を判断しては、天下に正しい道が廃れるでしょう」

と申し上げた。
一宮様の母方の叔父である小倉殿は、
日蝕の日に生まれた帝王、聖人の例を、和国中国の歴史から探して、
それを評議の場にて申し上げられた。
けれども、五宮様が皇位におつきなられることとなった。
通茂公はこれが原因で、七年間蟄居なさった。
小倉殿は遠島をおおせつけられたが、
こんな無道な世に生きながらえても仕方ないと絶食をして、
二十一日目に亡くなられた。
御子にはお許しが出て、帰参を命じられた。
そのとき遠島先の流人たちの中にはなむけの歌を贈る者があった。

見隠れし芦間の光あらはれて
雲の上まで飛ぶ蛍かな

【葉隠】

全体的には見識ある公卿の不遇な話だけど、
最後と、流人の心遣いと歌が素晴らしくいい話



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 10:54:55.47 ID:qwNM48pz
趙翼の廿二史册記に前漢の皇帝が日蝕とか出る度に「朕の不徳だ」って己を罪する詔を出して
正道を心がけるって話があるの思い出したけど
陰陽的には日蝕があったのは在位中の仙洞様のせいになるんだよなぁ
このお方の経歴を見れば成程、御徳がとぼ・・・なんでもない

【ニュース】墓内のハチミツ狙いクマが石扉破壊 福井県指定文化財の史跡荒らす

2015年06月20日 15:27

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 08:27:21.91 ID:vGt9qg1T
墓内のハチミツ狙いクマが石扉破壊 福井県指定文化財の史跡荒らす 

 福井市徳尾町の曹洞宗禅林寺で、福井県の文化財(史跡)に指定されている儒学者・清原宣賢(のぶかた)(1475?1550年)
の墓の石扉が破壊されたことが18日、分かった。墓の内部にあった巨大なハチの巣も壊されていた。住民らによると、ハチミツ
を狙ったクマの仕業とみられるという。
 
 被害に遭ったのは、室町期を代表する儒学者で、越前朝倉氏とゆかりがある宣賢の墓。禅林寺東側の橋立山の麓にある墓地
の一角にあり、高さ約2メートルの墓の正面には両開きの石扉が備わっている。中に五輪塔が納められ、傍らには墓碑が建つ。
17日午後1時ごろ、墓地の草刈りの準備のため訪れた地元の男性が、向かって右側の扉が外され、地面に落ちているのを見つけた。
扉は重さ10キロ前後で、金具部分には無理やり引きちぎったような跡があった。
  
 扉の内側には、ミツバチが大きな巣をつくっていたが、ばらばらに壊され、辺りに散らばっていた。墓の内壁や巣の残骸には
クマとみられる爪跡も残されていた。今月7日に地元住民が寺の掃除で訪れたときには異常はなかったという。

 同寺の総代を務める熊田悟司さん(74)らによると、宣賢の墓は2001年にもクマに扉を壊され修理した。その際も、墓の中にあった
ハチの巣が壊されたという。熊田さんは「クマを寄せつけないよう、こまめにハチの巣を取り除いていくしかない」と頭を抱える。
県生涯学習・文化財課の担当者は「ハチが墓の中に入らないように隙間をなくす必要がある。県文化財審議委員と対応を検討
していく」と話している。当面は応急処置として、壊れた石扉部分にふたをする対応をとる。

http://www.fukuishimbun.co.jp/sp/localnews/society/73524.html



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 09:01:07.53 ID:tKRMqPyu
兼見や幽斎の爺さんか

豊臣姓のこと。および九条稙通について

2015年05月02日 14:05

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 22:54:58.29 ID:uLNeMyLn
豊臣秀吉がある時、近臣に語った。

「わたしは尾州の民間より出たのであるから、草刈りをするすべは知っていても筆を取ることは知らない。
それが今、不慮に雲の上の交わりをなす身と成ってしまった。
しかし我が母が若き時に、内裏の御厨子の下女であったが、それが玉体(天皇)に近付き奉った事があった。
その夜、母は夢に、御祓箱が伊勢から播磨へ、隙間もなく空を飛行するのを見、また

『ちはやぶふる 神のみてくら 手に取りて (ちはやふる神に奉納する物を手にとった)』

という歌を夢の中で感じ取って、私を懐妊されたのだ。
この夢は災いを予知したものではないと見えて、私は信長公より許され播州に出陣し、即時に平らげ
それから中国に掛かって毛利と先陣する時に、明智の乱を告げ来る故、時日を移さず討って上がり、
主君の怨敵たる明智を滅ぼし紫野において信長公の葬儀を執り行い、朝廷に請うて御贈官をなし奉り、
一宇を建立して御位牌を崇めた。

こういった事の冥加であろうか、いま、私は図らずも貴き身となったが、土民であるから氏姓がない。
草刈りの成り上がりたる身であるので、いにしえの鎌足大臣の御名をよすがに、藤原氏を免されん。

この殊に、近衛(前久)殿より「いと易きことである。」とはからいがあった所、九条禅閤稙通公が
お聞き及びに成って、「摂家は何れも隔たり無いと言っても、長者は当家の事であるから、近衛殿の
思うままには成るべからず。」と主張したのだ。私はこれに

『物知りである九条禅閤公が仰るのだから、何か仔細があるのだろう』

そう思い、徳善院(前田玄以)に命じて近衛殿、九条殿を大徳寺に招いて、その相論を聞いた所、
『嫡流庶流の事、旧記、伝来の重器である近衛家の鎌、九条家の大識冠の真影(藤原鎌足の肖像)、
恵亮の法華経、狐丸の太刀、および三代の名記』等々、みずからの家が摂家の長者で有ることを示す
様々な証拠を提示して互いに争った。

この有り様に私は、このように耳遠き争いのある、難しい藤原の蔓葉になるよりも、思い切って今までにない
氏になったほうが良いと考え、右大臣(今出川晴季)と密かに議して上奏し、豊臣朝臣という新姓を
勅許されたのだ。」

その後、秀吉に関白宣下があったのを九条稙通は聞くと
「この職は他家が任じられる謂れはない。八百万の神、並びに春日の社の御罰かしこし」
と言われたが、はたして秀次事件の時に、近衛殿は薩摩坊津に、菊亭殿(今出川晴季)は信濃国に配流された。
その上、御女の一の台殿をも大路を渡し参らせた事など、古今に例無きことであった。
その頃建仁寺の十如院永誰和尚が詠んだ『道するに 車にあらで大臣を のするがごとしになふ棒の津』
というものも、この事を表しており、秀吉の世がその一世のみで、秀頼は滅びその幼子は河原者の手に
誅せられたのも浅ましいことである。

かの九条稙通殿は正しき御振舞のある人物であると、世に云い伝えられている。
織田信長公が上洛された時、洛中洛外まで、どのような身分の人々も我先にと馳せ参って
見参しへりくだっている所に、この公だけは立ったまま差し向かって「上総殿、御入洛大儀」
とだけ言って帰られた。これに信長も不快になり、「九条殿は私に礼を言わせるために来たのか!」と、
甚だ立腹したが、公は少しも恐れず「仮に一命を失っても家の恥を残すまじ」と語ったという。
これはその当時、間違いなく近くでそれを見ていた人の記録の中に見える。

(明良洪範)



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 23:19:34.90 ID:Egezbr7G
上総って私称じゃなく正式に貰ったものだっけ?

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/02(土) 12:04:01.04 ID:E+o/sl1c
上総守名乗っちゃった

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/03(日) 09:59:16.53 ID:pKqmrBc2
>>728
守では無い!神だ!

734 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/03(日) 22:18:07.93 ID:tfj3Fdu4
>我が母が若き時に、内裏の御厨子の下女であったが

これはよっぽど出自コンプがあったのかな?
聞いてる方も辛いと思うわw


九条稙通の不思議な話

2015年04月25日 15:59

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 07:04:05.13 ID:5r9IOFLr
九条稙通の不思議な話

関白九条稙通公は飯綱の法に凝っていた事がある

稙通公の寝る所には必ず頭上の木々にフクロウが留まり、道を歩けばつむじ風が起こった

「京都の昔話」