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一休ニ休三休さん

2019年03月27日 18:37

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/26(火) 21:08:59.63 ID:e6GTpZue
他板ネタですが続きを希望

645 名無しんぼ@お腹いっぱい (スッップ Sdea-k4dH) 2019/03/26(火) 20:03:40.58 ID:vVeS3svOd

一休宗純 一休さん

山崎二休 越前出身の琉球の医師

一尾三休 公家出身で子孫は旗本

探せば他にも見つかるだろな



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大峰入り、すなはち大なる山に入るといふ意

2019年03月25日 21:13

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 09:03:55.88 ID:qi5DIp20
この山伏達は毎年二回大峰入り Vomineiri(すなはち大なる山に入るといふ意)と称する巡拝を行ふ。
このためには日本全六十六ヵ国より二千人以上が都より一日路の大和国に集るのであるが、ここに
先達 Xendachiと称する同派の頭二十四人が別々に門弟を率ゐて来る。この山伏達は皆大和国より
その巡礼を始め、甚だ高い山の峰を経て熊野権現Cumanono Gonguemと称する寺院に向ふのである。

この山には動物も鳥も虫もゐず、一年中雪がある。巡拝の始まる所より終点に到るまで七十五レグワある。
彼等は毎日一レグワ以上行くことを禁ぜられてゐる故、これを七十五日の間に歩行する。彼等の苦行は毎日
飯一握づつ二回、すなはち朝夕に食するのみであり、もし途中病に罹る者があれば、そこに止って死するか、
または回復するまで居る。また八日間水なき所を通り、この間に飲む水は携帯するが、大なる欠乏を感ずる。

この山中に居住する者は二種類に分れてゐる。すなはち(ゴキGuoquiと称し、後の鬼といふ意味である)
五人の頭と、多数の門弟ゼンキ Jenquis、すなはち前の鬼といふ者である。山伏等は皆一緒に大和国の
奈良と称する地を発し、各々荷物と途中の食物を背負うて吉野 Yoxinoと称する八レグワの町に着けば、
多数の前鬼が彼等を出迎へて案内し、彼等のために荷物を負ふ。この前鬼は頭髪を縛った恐しい人間であり、
彼等の歩く所には絶えず雷鳴大風が起り、もし巡拝者の一人がその家または国に物を忘れた時は、その距離が
二百レグワを超えることがあっても、前鬼が行って半時間の内にこれを携へて来るのである。

山中に進んで吉野より八レグワの小笹 Ozasaと称する他の町に着けば、後鬼と称する五人の頭が出迎へる。
彼等は人間の形の悪魔であり、性質も悪魔的である。彼等は陰気で甚だ恐しくまた傲慢で、一日に五語も話さぬ。
彼等の頭髪は縛り、頭に長さ一指半の角があって、これを隠すことに努め、甚だ長き頭巾を被りてその角を隠す。
彼等の山中の家また住む所は何人も知らぬ。彼等は約五十レグワの甚だ険咀にして難儀な道を案内するが、
道は悉く断崖で甚だ険しいため立って歩くことができず、一同は手足を用ひて進むが、後鬼は真直に進み、
平地を歩くやうである。彼等は山伏に対し、全七十五日の間、歩行中は清浄にして信心を深うし、少しも悪事を
行はず、釈迦の苦行と行状に倣ふことを勧める。釈迦は日本人の崇拝する二つの主なる神の一つである。
もし巡拝者中途中で彼等の喜ばざることをなすものがあれば、後鬼はこの罪人を速に空中に投上げ、
手をもって山より突出した木の小枝に縋らしめる。そこより下を眺むれば、眩暈を感ずる。
この罪人はそのまま下り、疲れて墜落粉砕するに至る。他の巡拝者は前進し、父子或は兄弟であっても
遺憾を表せず、彼等もまた同じ運命に陥らざるやう努める。巡拝者が夜寝た後には、五人の後鬼は姿を消し
少しも認めることができず、翌朝再び来って旅行を続ける。また千人以上ある前鬼の家を知る者なく、
彼等が同所に行った山伏のうち何人にもその家を観せたことを聞かぬ。また後鬼は七十五レグワの終まで
山伏と同行せず、熊野権現と称し紀の国に在る最後の寺院に達する数レグワ前で彼等と別れる。

巡拝者は二千人を超えるが、一年に二回巡拝し、各々三十匁すなはち千八百三十六レイスを後鬼に与へる。
彼等はまた旅行中絶えず後鬼の顔色を窺ひ、彼等に不快を与へ、空中に吊されて粉砕することを危惧してゐる。

(中略)

信長が近江国の安土山の城をほとんど建築し終った頃、後鬼の一人が同所を通過した。彼等は一生のうち
一回の他は、かの山を出づることなく、各々高野 Coyaの寺院に巡礼に行く。同所は約七百年前に最も悪魔的
ルシフェル的な人である弘法大師 Combodaixiを生きながら葬った場所である。

右の後鬼が右の城を通過した時、信長が造らせてゐた大きな壁の一片が落ちた。そこで後鬼が害をなさざるやう
宥むるため、途中にある二つの寺院、すなはち一つは吉野に、また一つは更に遠い所にあるものを、
金をもって十分に塗ることを命じた。当地の寺院は悉く木造で、壁も屋根裏も柱も皆木であるが、
これを立派に金で塗った。右のジョアンが寺院の中でこれを観たのである。
(一五八三年二月(天正十一年一月)パードレ・ルイス・フロイスが口ノ津より発せし書翰)


フロイスが伝える大峰入りのお話。安土城の壁を後鬼が通っただけで破壊したことが有ったらしい。



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 10:28:29.41 ID:1TEMDgUp
山伏の生態は興味深いな

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 11:37:11.55 ID:HcURMdn0
弘法大師が衆道を始めた、って言ってたのはフロイスだっけ?

世の中は くうてはこして寝て起きて

2019年03月21日 18:01

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 15:53:53.99 ID:k5IvEHvc
一休和尚の歌として、『世の中は くうてはこして寝て起きて さてさて其の後は死ぬるばかりぞ』
というものが一休物語に見える。「はこする」とはクソをひる事であり、「はこ」は糞筥の事である。
またこれを「まる」とも言う。丸く細長い故である(おまるの語源)。

いかにも、人の一生は食うてはこして寝て起きるより他の事はない。しかしこの事たやすくなり難い
故に、君に仕える人もあり、士農工商、各々がその家業を勤めるのは、食いてはこして寝て起きて、
畳の上で死ぬべきが為である。であるのに、君にも仕えず家業をも勤めず、手足を動かさず人の宝を
目当てにして、好色大酒博奕して一生をおくらんとする者は、道路に倒れ死するか、獄屋の前にて
死するかであろう。

(安斉随筆)



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 18:11:41.39 ID:biJr3OHv
>>804
一休さん「くだらなすぎて笑う」

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 19:31:16.55 ID:l1o1mw+o
シコって寝て起きてでは無いんだな

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 19:37:59.72 ID:tRxEhkyD
ロリコン和尚が

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 20:26:43.05 ID:wT3KvidZ
>>804
なーんか勝手な解釈が論語や孫氏をビジネス書()にしたものと同じ臭いがする

彼こそ後の天海である

2019年01月16日 18:55

天海   
634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 20:48:00.21 ID:ogDEz5zg
蘆名盛重(義広)が摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ落人と成った時、会津城内の稲荷社別当である喜楽坊が
指図し、女にも刀脇差を挿させ、自身は薙刀を持って盛重を警護し、敵の中を堅固に撤退した。
その後盛重が常陸国江戸崎に在った時は、この喜楽坊を不動院と呼んだ。
彼こそ後の、東叡山寛永寺の南光坊天海である。

(武功雑記)

天海が会津蘆名家の所縁という話、武功雑記にも出ていたのね。



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 21:38:03.52 ID:ykTP4dc7
じつは武闘派だったりするんかね

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 22:47:13.99 ID:0qpatG4+
戦国時代の僧侶はモンクみたいなの大すぎィ!まあそんな時代だからこそだろうけど

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 00:28:32.87 ID:C/26Bp5P
摺上原の戦い(1589.7.17)の頃にはもう家康の幕下にいたんだろうけど
まあそういった噂が立てられるぐらいには武張ってたのかね>天海の喜楽坊時代

天地開闢の時は日に吉凶あるまじ

2018年12月04日 21:44

天海   
546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/04(火) 08:33:32.39 ID:HGfJ/Obe
慈眼大師(南光坊天海)はこのように言った
「天地開闢の時は、日に吉凶は無かった。ならば「何の日取り」などというものはない。
それでも気になるのなら、暦でも見ればいい。」
(天地開闢の時は日に吉凶あるまじ。然れば何の日取と云事あらん。
さりながら心にかからば、暦をも見るべし。)
(武功雑記)


幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだ

2018年10月17日 17:22

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 02:22:43.06 ID:+jmlmL63
幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだ


池田光政様が母君の福照院様のところへお越しになったとき
福照院様が何でもいいから御物語をするようにと仰せられた。
吾(作者、このとき十五、六歳)は、童の時に人から語り聞かされた
後も先もない物語を慰みとして一つ二つ申し上げますと言って話した。

一休和尚が道を歩いていると、道の傍の木の梢に童が一休に小便をかけて
ひどく笑った。一休は腰から銭を取り出してその童にやり
「よくもかようの仕打ちをしたな」
と言って去っていった。その童はよいことをしたのだと思って、人が通ったときに
また同じことをして銭を貰おうと待った。そこに士が通ったので、さっきのように
小便をかけて笑ったところ、怒った士にぶたれてしまった。

一休が利口なので人を使って意趣返しをしたのです、と申し上げると光政様は
「この物語の趣旨はそうではないだろう。一休に誠の志があるなら最初に
 小便をかけられたときに強く叱って、私は出家しているからぶたないが
 他人にかようの仕打ちをしたら命を失うぞ、と教えてやればいいのにどうして
 銭をやり人に仕返しをさせるのか。よこしまな心があったからではないのか。
 かような話が若輩の者の心にかなうはずがない。幼児に聞かせる物語でも
 心得があるべきだ」
と仰せられた。愚耳に留まったので記す。


――『烈公間話』



319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 14:32:15.93 ID:pOFKU+KZ
一休ならありえる話と思えてしまう

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 15:53:08.01 ID:EuvSQKPV
>>318
一休はとんでもない食わせもんだしなぁw

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 16:06:42.37 ID:mXcoWGCT
一休の捻くれ具合を知らんかったんだろうなぁ…

荒木素白は書の名

2017年09月13日 18:22

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 22:54:40.59 ID:Mgtr1m2r
荒木素白は書の名、家名は光辰。通称は三次、のちに内膳。母は桂氏。
九歳で福山藩主水野勝成に仕えるが、十九歳のとき同僚と争論して去り、伊勢に赴き津の藤堂高虎に仕える。
高虎、勝成のために酒餞を設ける。素白は給仕周旋する。
勝成恚りてこれを高虎に言う。高虎肯んせす。
素白去りて京師にいく。勝成怒りて国に入るを禁じる。
数年後、素白は鞆の浦にやってきて告首罪を請う。勝成はなだめて京師に帰した。
素白剃髪して禪を霊隠寺一絲に問い名を虚空素白と改める。
勝成に再び召し抱えられて月棒を貰う。勝成勝俊が亡くなったあとで辞去。
高虎の嗣子が招くが辞退。
素白は書を好み藤木敦直を師としてその名は高し。上代風の中興。書体三跡の室に入るという。後水尾天皇は召しだして扇と色紙に書かせて、おおいにこれを悦ぶ。
晩年力老いて病むにおよび大納言藤原弘資を遣わして慰問する。使者絶えず。貞享二年春死ぬ。年齢八十六歳。七男一女あり。(野史、名家全書)
大日本人名辭書

頑張って翻訳してみた。
勝成と高虎って仲良さそうだね。



丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

2017年07月25日 21:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/25(火) 05:04:18.56 ID:k9GLkaDF
・丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

元和元年大坂落城の時、城を逃れ出た浪士で、近江大吉寺で法師になり
丈巌院弟慶と称した者がいた。

この者は徳川方の捜査の厳しさに、ついには寺を逃れて鶴岡の地に至り、
家を構えて付近を開拓し、世を避けて隠れ住んだ。

ところが、またもや探知されて捕手の人数が押し寄せた。丈巌院は山上の
大岩に上り、釜を被って兜に擬し、太刀を打ち振るって法螺貝を

吹き鳴らした。その凄まじい勢いに恐れをなした捕手の者共は、ついには
引き返したのだという。この岩を名付けて“丈巌岩”というのである。

――『恵那郡史』


正しく沢庵の書であった。

2017年02月04日 17:41

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 22:10:26.57 ID:yarFx/aF
脇、高安彦太郎が遠祖。彦太郎、少年のとき武術を以て高名の事。付沢庵和尚目撃の賞状

 予は時々能見物に行き、金剛座の脇師の高安彦太郎と会っている。
ある日のこと、彼は語った。

「私の家祖は大和に居住していました。〔高安とはすなわち和州の地名である。〕
その後、私の先祖の太左衛門という者の子の彦太郎が十、四五の頃、
大和の山越えを行ったときに賊が出て取り囲まれてしまいました。
しかし彦太郎はこれをことともせず、刀を抜いて四方に切り払えば多くの賊は死に、
賊は敵わないと逃げ去りましたとか。
折節沢庵和尚が現場に行きかかっていまして、父の太左衛門へその書状を書き記して褒賞しました。
その書は今も家に伝わっています。」

 予は請うてその書を見ると正しく沢庵の書であった。
その文を読むと、沢庵は傍観されてはいなかった。
傍観していた者が沢庵に報告して沢庵が褒賞されたのであった。
なんにせよ彦太郎の手技は乱世近い人の骨柄で、猿楽少年といえどもこうである。
また沢庵の賞辞も今時の出家の言に比すると真に活言というべし。

その書がこれである。

「〆 高安太左衛門殿 御宿所  芳林庵

この一両日にお客様が来られましたので面会できませんでした。
なのでただ今承りました彦太殿が、路次で不思議の子細に驚き入りました。
彼の手柄は申すべき様もありません。さてさて奇特千万で、承りまして感涙を催しています。
御心中御満足のほど推量されます。
誠に比類無い次第だと存じます。
無事珍重でこれに過ぎたるものはありません。
ただ今承りましたので、即刻書状で申しました。
出家の事(空白)別でかようの事承り、奇特千万と存じます。
後日に会いましょう。恐々謹言。
孟夏十八日    宗彭 」


(甲子夜話続編)



知恩院の霊厳和尚和歌、公卿色を正ふする事

2017年01月04日 21:04

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/03(火) 18:03:03.71 ID:1MDJADtY
知恩院の霊厳和尚和歌、公卿色を正ふする事

昔知恩院にいた霊厳大和尚は高徳の聞こえがあって、人は皆崇尊していた。
ある日禁中で公卿が寄せ合いながら和尚へ和歌を乞おうと、
短冊を二つとり出して歌を求めた。
和尚は辞する様子もなく、にわかに筆を染めて、

南無阿弥陀南無阿弥陀仏南無阿弥陀
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

名号の六字の外をしらぬ身は
南無阿弥陀仏を歌によむなり

公卿は皆色を正しくしたという。

『浄土伝燈譜』には

「霊厳、檀蓮社雄誉は、松風と号す。
総州天羽郡佐貫の人〔一説に駿州府中の人、姓は今川氏〕である。
慶長十年に生実大厳寺に住む。一旦武命に逆らうことが有って、
房州に流罪となりそこに住んだ。
道風(修行でえた、人を導く教化のはたらき)が四方に靡いて
徳光は大いに輝いた。
武府は遥かにこれを聞いて、即召して東照神君に謁した。
敬信が他と異なり、遂に道本山霊厳寺を開いた。
後に公命により知恩院に住んだ〔第三十二世〕。
寛永十八年九月に寂した。」

(甲子夜話続編)



一休さんと次休さん

2016年09月24日 09:06

103 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 06:59:51.42 ID:O5X/52cq
一休さんと次休さん

大永四年(1524年)、大内義興が嫡男義隆らと共に2万の兵を持って尼子経久に属する安芸の諸勢力を攻めた時の事。
安芸の守護武田光和が篭る銀山城を陶道麒(興房)と包囲した義隆であったが、堅固な銀山城の前に城攻めが長引いていた。
そんなある日、義隆は諸軍に備えを解かぬ様固く申し付けると、道麒を誘い根の次休蔵主の旧跡を見に土地の古老を道案内として出掛けた。

山を越え、谷を深く下り、道も細く丸木の橋も朽ち掛けた道を行き、漸く次休蔵主庵の跡へ着くと、
百年余りの歳月を経た為今や庵室は跡も無く成り果て、境界さえ見分けがたく、深い苔に礎も埋もれ、池の水は枯れ果て(以下長いので略)… と言った有様であった。
義隆は眼に映るものごとに心を動かされ、蔵主の昔のことを聞きたく思い、道案内の老人に話を乞うた。

古老曰く、申し伝えによれば百年余り前三蔵主とは。山城紫野の純蔵主(一休)、伊勢の養源寺の虎蔵主、それに安芸の次休蔵主のこととか、いずれも世に聞こえた禅僧であった。
その一人の一休禅師はある日「安芸の次休は深山の中に入り、跡をくらまし、名を隠そうとしておる。かの所に赴き、その邪か正かを見分けよう」と、次休に会いに紫野を旅立った。
次休蔵主は現在過去未来三世通達の僧ゆえ、一休の訪問を予め感知し、侍者に向かい
一休宗純が私を試みようとたった今、龍宝山を、出発したよ」
とおっしゃり、そののち
「今日こそ到着の日、美味い魚を取ってもてなしてやろう」
と遥か遠い川辺に出て、釣り糸を垂れていた。一休はもとよりこれを知らぬが、川辺まで来て釣り糸を垂れる次休に
「これ、おじいさん。次休蔵主の庵室を知っておいでか?」
と問うと、次休は
「あなたは純蔵主でしょう」
と答え、一休は愕然として
「あなたは神通方便でも得ておるのか?なぜ拙僧の名を知っておられるのか?」
と尋ねた。次休はこれに
「貴方は私を試みる為にここまで来たのでしょう、私が次休です。」
と、名乗り手をたずさえ庵室に入り歓談が始まった。

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 07:00:01.39 ID:O5X/52cq
次休は自ら釣ったすずきの膾やじゅん菜の吸い物を進め
「あなたの旅の疲れを慰める為、わたしの神通方便をお見せしましょう」
と、皿の中の銀糸に作った膾をとって、むしゃむしゃと噛み
「この魚を再び元の魚に返してみせましょう」
と皿の上に吐き出した。」
すると、すずきはたちまち生き返って跳ね上がり、龍門三級の波を起こす程の勢いであった。
一休はこれを見て
「あなたは魚を再び生きた魚とされた(中略)拙僧はまたこの魚を仏にしてお目にかけましょう。」
と言うと、裳裾を高々と掲げて、
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
と敷物の上に糞を垂れ
「万法は一に帰す。食は尽く糞に帰す。されば糞中の虫である三世の諸仏は、この中に隠れておりますぞ。
昔の少康師は、一度南無と唱えれば、一体の仏、口より湧き出でさせ、続けて十声唱えれば、十体の仏を出したとか。
彼は口中より仏を出だす。拙僧は肛門から仏を出だす。少康師よりなお勝っていることよ」
と、手を打って大笑いした。

次休、これを見て「風顛漢め、人々をたぶらかすまいぞ」とおっしゃって、また一杯の水を口に含んで吐き出されると、炎となって空中にほとばしった。
一休は「あなたは孫博が草木をしてみな火光に変じた術を会得しておられるのか。(中略)拙僧もまた活手段を行じましょう」
と、鉢の水を飲んで、仏殿の内に向かい小便をし、「あなたは水を転じて火をなされた。拙僧はまた、山は是れ山、水は是れ水じゃによって、元の水に返したのじゃ」
とおっしゃった。
次休は「あなたは私を試みるがため、こうしてわざわざやって来られ、私はまたあなたの知恵を計るため、このような方便をお見せしました。
あなたはいまだ神通力を得ておらぬものの、自由自在の手段を用いられた。おかげさまで今日初めて高僧と言うものにお会いできたわけです。
我が禅宗、この国に伝わって年久しいが、今あなたが現れて、さだめし大いに世に興隆することでしょう」
と褒め称え給うたと申します。一休もまた「わたしもまた、生身の文殊支利菩薩にお会いできました」と、三度拝礼して、やがて暇乞いし、帰京した。(長いので以下略)


(陰徳太平記)



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 07:57:01.24 ID:XO9yYF3G
ダイナミックすぎる

107 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 09:18:00.61 ID:IZtf/wAU
とりあえずこの後は京に帰った一休さんが、次休がナンバーワンだと周りに語ったり次休が超能力で遠くの寺の火事を消したりする話を古老がして大内義隆から褒美貰って
大内義隆が、安芸を征服した暁には此処にまた大きな伽藍を建ててやると語って、大内義隆の安芸征服は是からだ、義隆先生の次回作にご期待くださいエンド

>>105
奇人と名高い一休さんも後世に脱糞ニキにされるとは思うまい

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 15:49:26.64 ID:VxWqyVUz
>>103-104
一休さんの奇人エピソード多すぎぃ!
時代がちょっとずれそうだけど劇中劇?だからいいか。

東海沢庵の事蹟

2016年09月19日 18:46

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/19(月) 16:11:52.63 ID:1AA2sznt
東海沢庵の事蹟

この頃ある僧の話で聞いた。
猷廟(家光)がかわいがって待遇した東海寺の沢庵和尚は、
もとは遠流に処せられていたが、柳生但州(宗矩)の上言で召還されて帰参した。
このときの狂歌で、

上意ゆえ還りたくあん(沢庵)思えども おえど(江戸・穢土)と聞けばむさしきたなし


また沢庵が御茶の御相手に出たとき、御釜の沸湯が蓋の辺りから滴るのを将軍様が御覧になられて

てき(敵・滴)がおつるおつる

との上意があると、応じて

ひつくんで(引く組む・汲む)とれとれ(捕れ)

と言った。その敏捷さはこのようであったと。

林子(述斎)曰く、これは島原陣のときのことであろうかと。
なるほどそうでもあるだろう。

『延宝伝燈録』には

「慶長十四年の春に大徳寺の住持に出世したが、三日だけ山にいて、
退鼓(禅寺で住持が退く時の説法を知らせる鼓)を打って泉南に帰った。
豊臣秀頼公及び一時の侯伯は、招請を重ねてしたが、師は全てに赴かなかった。
寛永六年秋、大徳出世之事により羽州へ貶められた。
謫居(遠方へ流されること)すること四年、欽命(君主の命令)により赦されて還った。
大将軍家光源公東海寺を創って、師に命じて開山祖とした。」

(甲子夜話続編)



沢庵壁書の事

2016年08月05日 19:43

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 00:32:23.34 ID:4NC1gATx
沢庵壁書の事

沢庵の書いた壁書を、山村信州(良旺)が所持していたので写させてもらった。

「飯は何のために食うのか。ひもじさを止めるために食うのか。
ひもじい事がなければ食わなくてもよいものを。
さらば、さても、しかるに、添え物がなくては飯は食えぬと皆人のが言うのは僻事である。
ただただ、ひもじさを止める為のはかりごとである。
「役」のために食う飯ではない。
添え物がなくては飯が食えないというのは、まだ飢えが来ていないのだ。
飢えがこなかったら一生食わなくてもいい。
もし飢えがきたら、その時には酒のかすやあらぬかのような粗末なものでも嫌わない。
ましてや飯ならなおさらである。何の添え物がいるであろうか。
『食を受けることは薬を服するようにせよ』と仏も遺教されている。
衣類もまたこのようである。
人は衣食住の三つで一生を苦しむ。
このことを心に留めているので我は三つの苦しみが薄いのだ。

これは我の落書きに過ぎない。錬金法印が書けというので書いたのだ。」

元和の酉の冬に  宗彭

(耳袋)

バランスよく食べなきゃダメよ



住吉と 人はいへども

2016年07月01日 13:53

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/01(金) 03:19:54.48 ID:VYgtXtuS
一休が住吉の松斎庵に居住していたとき、

住吉と 人はいへども すみにくし 銭さへあれば どこも住よし

(醒睡笑)




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/01(金) 14:29:39.49 ID:Nw4xz5Oy
へー戦国の人だったんだー

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/01(金) 14:48:30.94 ID:5lmJmodw
       , -‐' ´ ̄ ̄ ̄``丶、
     /              \
    / /ヽ、   _, -─ ヽ    ヽ
    l l r'ニコ  ̄ {二ニヽ \    l
    ヽ 、__   、 _ ,   l    |
      ヽ. {しiヽ   {し'j`  /    !
     rl   r‐'        !/´ヽ. /
     l_l   ヽ        jツ }'
        ヽ   ヽニニア!    、__ノ
        \  ヽ--'    j jヽ
        `7 、__   //  l‐- 、
      ,  -‐''l !l、   //   l!   `ー- 、
     /     ! ヽ >'´ /    / !      \
   /     l   ヽ/     /          ヽ

       滝川 一休 [たきかわ いちやす]
          (1543-1610)

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 11:14:04.49 ID:Oj+reHmk
>>899
Yes
一休禅師は長生きした人物なので、
晩年には応仁の乱を経験し、戦国時代に突入していました
戦国時代の中で生涯を閉じたのよ

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 11:47:47.60 ID:18ifkYPF
いい歳して若い愛人を囲うとかやり手やもんな一休さんは

梁の武帝が達磨に対面された通りに

2016年06月30日 16:06

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 09:14:07.33 ID:xdkSpOUE
 上様が沢庵和尚をお召されたころである。
如何様に応対するのがふさわしいかと、柳生殿が内々に尋ねられた。
沢庵和尚は

「梁の武帝が達磨に対面された通りにしてください」

と申した。
 その時の応対とはどういうものかと柳生殿は次々と尋ねられると、
甚だ仰山に重々しい事であることがわかった。

「それでは余り御崇敬が過ぎますので、いますこし軽くするべきではないか」

と柳生殿は申されると、和尚は

「あなたはそのようにお思いなられるだろうが、当将軍家を武帝ほどには私は思っていない。」

と申されたという。

 しかしながら、沢庵和尚は元来生臭坊主ではありませんでしたので、
江戸逗留の間は柳生殿の長屋に居られ、登城の際には下男を一人連れるだけだというので、
後に上様はそれは余りに粗末な事だと、別に旅宿を仰せ付けられ、
ついには和尚のために東海寺を御建立された。
末代には稀な智識である。

(本阿弥行状記)



沢庵番

2016年06月12日 17:26

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 01:12:52.81 ID:Bc2GXjZ1
 品川の東海寺には、沢庵番というものがある。
これはかの寺領の農夫が夜毎に寺の門々を守り居ることである。
そのわけを聞くと、沢庵和尚は高徳で猷廟(家光)は殊に帰依なさっていた。
大城へも召し、また寺へも御立ち寄らせなさること度々あった。
しかし、和尚はとにかく永住を欲せず、時として寺を立ち去ろうとする。
公はこれを憂いなさり、人に守らせて出て行くことを止めなさった。
沢庵和尚が遷化の後も例となり、永くその旧例によっている。

 今親しく農夫に
「どうして夜々に寺門を守るのか?」
と問うと、
「私どもが守らなかったら沢庵が逃げ去られるからです。」
と答える。
農民の愚直にして古色を保っているのは、誠に愛すべきことだ。

(甲子夜話)



830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 09:50:09.92 ID:N/XJnpxD
>>828
家光「おじいちゃん、家はここですよ。」

大梅梅子(たいばいばいし)

2016年03月18日 17:09

488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/17(木) 20:45:36.78 ID:4Ep7Bp6v
大梅梅子(たいばいばいし)

應仁元年(1467年)のことである。後土御門天皇は遣明使を派遣することを画策し、随行する数人の僧侶を選抜するように
京都東山の建仁寺の住持、岐陽和尚に依頼する勅命を出した。
依頼を受けた岐陽和尚は、公平を期するために、全国から選ばれた八十余名を建仁寺に参集させ、選抜試験を課することにした。
当日、受験生が試験会場に入ると、各人の目の前には、なぜか大きな梅干しが一個ずつ置いてある。
全国各地から参集した受験生が不思議に思っていると、時間になって、試験官である岐陽方秀和尚が粛々と上座に着席する。
すると、鳴磬一聲、大書された『大梅梅子(たいばいばいし)』の題が高々と掲げられたではないか。
「大梅(たいばい)」とは、大きな梅のことである。また、「梅子(ばいし)」とは、梅の実を指す。だから、『大梅梅子(たいばいばいし)』とは、
大きな梅の実のことであろうか。
まるで、禅の公案みたいなものである。いかにも人を喰ったような題で、全国から集まった英才たちも、さぞかし面食らったことであろう。
いくら禅寺であるとは言え、出題した岐陽方秀和尚も只者ではない。
すると、ある一人の僧侶がただちに次の詩を詠んだと言う。

   大梅梅子鐵團團   大梅梅子、鐵團團。
   八十餘人下觜難   八十餘人、觜を下すこと難し。
   今日當機百雜碎   今日、機に當たり、百雜碎く。
   那邊一核與他看   那邊の一核、他と與に看る。 
  
  (大きな梅の実一個。それは真ん丸で、まるで鉄の塊のよう。
   ここにあつまった八十余人は、それを目の前にして、どうすることも出来ない。
   本日、遣明使随行の一員たらんと思ってやってきたが、その思いもむなしくなるばかり。
   誰もがこの梅干しをどうにかしようと、ひたすら見つめている)

この詩を詠んだのは、長門にある永福寺の住職であった桂庵禅師その時四十一歳。
この詩で遣明使となり、明に渡海して蘇州などを遊学し、後に薩摩に赴き薩南学派の祖として名を成した人物である。
(「三国名勝図會」、『桂庵禅師傳』、「漢学起源」)
補足:「大梅梅子(たいばいばいし)」は、大梅法常和尚の残した公案であると言う。
(大梅法常(752~839年)唐の僧侶)



『初祖達磨大師』と書くべきを

2016年02月16日 17:44

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 02:49:19.54 ID:EKCT9y2h
 洛陽の某の元に一休の筆がある。
『初祖達磨大師』と書くべきを、『初祖磨大師』と書かれ、そのまま"師"の字の下に"達"の一字を書いて、そのはねを引き上げて"磨"の字の頭に点して置いてあると聞く。
 慣例通りのものである。この活人の底の働きは、言語の及ぶところにない。
(本阿弥行状記)

私もよくやります



340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 09:07:15.52 ID:E7gWz3Jd
>>337
消して書き直すのめんどくさいもんな
公式文書じゃなければ俺もやるわ

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 09:51:24.49 ID:NcNAty0/
昔、いしいひさいちの漫画で日蓮直筆の「南無妙法蓮月経」の書を手に入れた道具屋の主人が
書いた本人に法外な値段で買わせることができると大喜びする、というやつを思い出したよ。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 10:07:13.85 ID:xcfy70n8
>>337
今なら国会で野党の追及を受けそうだな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 10:19:40.76 ID:2mNhTnlm
>>341
志賀直哉の清兵衛と瓢箪を思い出した

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 15:59:50.29 ID:il9ecMq6
>>337
昔は矢印の代わりにはねを引き上げてたんだね
実に興味深い

三ノ宮の怪異

2016年02月09日 09:56

天海   
126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 09:48:17.59 ID:9/TruwmO
慶長19年5月22日、天台宗の面々が登営し南殿に出御した時、南光坊天海がこんな事を言った

「最近、比叡山の八王子三ノ宮で珍事がありました。それは先ず、学林坊の奴である次郎を天狗がさらって
行方知れずとなった事件から始まりました。

10日ばかり過ぎて、この次郎は帰ってきてこう云いました
『私はこれまでの間、当山の大天狗、次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、鞍馬山の大僧正、
彦山の豊前坊、大山の伯耆坊、上野の妙義法印、彼ら何れにも叡山に参るべき旨を振れ回りました。』

このように大天狗たちが叡山に登る旨を聞いた人々は、皆不思議に思い、そこからかの三ノ宮に参詣してみると、
天にわかに曇り、激しい風雨が巻き起こったかと思えば、大霰まで降ってきました。
そしてあの次郎が三ノ宮の社殿の棟に飛び上がり、しかしそのまま落ちると、軒端にて起き上がり、
足を上げて立ちました。

その他天狗の眷属たち大勢が、社の上にて様々に不思議な事をし、扇を以って歌舞を行うのを人々は目撃しました。
また三ノ宮の扉を、これは普通は2,30人で持ち上げるような物ですが、その扉2枚ずつを回し投げました。
それなのに、この扉にはいささかの傷もなかった。
また、虚空より大礫を数多打っていたそうです。」

そのように云々したという。
(玉露叢)



127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 11:21:07.72 ID:RFhGQd0T
昔の人は大嘘つきが多いね

山賊「坊主、金を置いていけ」

2015年12月02日 12:34

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 23:30:46.51 ID:getXXJuT
松島の雲居和尚が夜の山で山賊どもに捕まったときの話。

山賊「坊主、金を置いていけ」

雲居「ワシはこの地の者で、遍歴の僧ではない。
   なので金銀は持ち歩いておらぬ。
   着物をやるから、命は助けてくれ」

山賊「無駄な者を捕らえてしまった。
   着物など金にはならぬ。
   とっとと行け」

と言って解放した。
一町ほど行ったところで雲居は引き返し、山賊のところへ戻り、

雲居「ワシは妄語戒を破ってしまった。
   銀がひとつ、巾着に入っていた。
   それを、うろたえて忘れていて、
   金銀など持っていないと言ったのがとても悔しい。
   この銀を受け取ってくれ」

と言った。
山賊は心を打たれ、その場で仏弟子となったそうである 【葉隠】



61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 23:50:59.82 ID:Vw1VRYYz
偸盗戒やら蓄金銀宝戒やらはええのんかい

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 09:43:47.95 ID:qC7qXKAK
とにかく、けが無くって良かったんじゃね?
あれ?いつのまにか、お茶が置いてあるぞ?