丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

2017年07月25日 21:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/25(火) 05:04:18.56 ID:k9GLkaDF
・丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

元和元年大坂落城の時、城を逃れ出た浪士で、近江大吉寺で法師になり
丈巌院弟慶と称した者がいた。

この者は徳川方の捜査の厳しさに、ついには寺を逃れて鶴岡の地に至り、
家を構えて付近を開拓し、世を避けて隠れ住んだ。

ところが、またもや探知されて捕手の人数が押し寄せた。丈巌院は山上の
大岩に上り、釜を被って兜に擬し、太刀を打ち振るって法螺貝を

吹き鳴らした。その凄まじい勢いに恐れをなした捕手の者共は、ついには
引き返したのだという。この岩を名付けて“丈巌岩”というのである。

――『恵那郡史』


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正しく沢庵の書であった。

2017年02月04日 17:41

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 22:10:26.57 ID:yarFx/aF
脇、高安彦太郎が遠祖。彦太郎、少年のとき武術を以て高名の事。付沢庵和尚目撃の賞状

 予は時々能見物に行き、金剛座の脇師の高安彦太郎と会っている。
ある日のこと、彼は語った。

「私の家祖は大和に居住していました。〔高安とはすなわち和州の地名である。〕
その後、私の先祖の太左衛門という者の子の彦太郎が十、四五の頃、
大和の山越えを行ったときに賊が出て取り囲まれてしまいました。
しかし彦太郎はこれをことともせず、刀を抜いて四方に切り払えば多くの賊は死に、
賊は敵わないと逃げ去りましたとか。
折節沢庵和尚が現場に行きかかっていまして、父の太左衛門へその書状を書き記して褒賞しました。
その書は今も家に伝わっています。」

 予は請うてその書を見ると正しく沢庵の書であった。
その文を読むと、沢庵は傍観されてはいなかった。
傍観していた者が沢庵に報告して沢庵が褒賞されたのであった。
なんにせよ彦太郎の手技は乱世近い人の骨柄で、猿楽少年といえどもこうである。
また沢庵の賞辞も今時の出家の言に比すると真に活言というべし。

その書がこれである。

「〆 高安太左衛門殿 御宿所  芳林庵

この一両日にお客様が来られましたので面会できませんでした。
なのでただ今承りました彦太殿が、路次で不思議の子細に驚き入りました。
彼の手柄は申すべき様もありません。さてさて奇特千万で、承りまして感涙を催しています。
御心中御満足のほど推量されます。
誠に比類無い次第だと存じます。
無事珍重でこれに過ぎたるものはありません。
ただ今承りましたので、即刻書状で申しました。
出家の事(空白)別でかようの事承り、奇特千万と存じます。
後日に会いましょう。恐々謹言。
孟夏十八日    宗彭 」


(甲子夜話続編)



知恩院の霊厳和尚和歌、公卿色を正ふする事

2017年01月04日 21:04

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/03(火) 18:03:03.71 ID:1MDJADtY
知恩院の霊厳和尚和歌、公卿色を正ふする事

昔知恩院にいた霊厳大和尚は高徳の聞こえがあって、人は皆崇尊していた。
ある日禁中で公卿が寄せ合いながら和尚へ和歌を乞おうと、
短冊を二つとり出して歌を求めた。
和尚は辞する様子もなく、にわかに筆を染めて、

南無阿弥陀南無阿弥陀仏南無阿弥陀
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

名号の六字の外をしらぬ身は
南無阿弥陀仏を歌によむなり

公卿は皆色を正しくしたという。

『浄土伝燈譜』には

「霊厳、檀蓮社雄誉は、松風と号す。
総州天羽郡佐貫の人〔一説に駿州府中の人、姓は今川氏〕である。
慶長十年に生実大厳寺に住む。一旦武命に逆らうことが有って、
房州に流罪となりそこに住んだ。
道風(修行でえた、人を導く教化のはたらき)が四方に靡いて
徳光は大いに輝いた。
武府は遥かにこれを聞いて、即召して東照神君に謁した。
敬信が他と異なり、遂に道本山霊厳寺を開いた。
後に公命により知恩院に住んだ〔第三十二世〕。
寛永十八年九月に寂した。」

(甲子夜話続編)



一休さんと次休さん

2016年09月24日 09:06

103 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 06:59:51.42 ID:O5X/52cq
一休さんと次休さん

大永四年(1524年)、大内義興が嫡男義隆らと共に2万の兵を持って尼子経久に属する安芸の諸勢力を攻めた時の事。
安芸の守護武田光和が篭る銀山城を陶道麒(興房)と包囲した義隆であったが、堅固な銀山城の前に城攻めが長引いていた。
そんなある日、義隆は諸軍に備えを解かぬ様固く申し付けると、道麒を誘い根の次休蔵主の旧跡を見に土地の古老を道案内として出掛けた。

山を越え、谷を深く下り、道も細く丸木の橋も朽ち掛けた道を行き、漸く次休蔵主庵の跡へ着くと、
百年余りの歳月を経た為今や庵室は跡も無く成り果て、境界さえ見分けがたく、深い苔に礎も埋もれ、池の水は枯れ果て(以下長いので略)… と言った有様であった。
義隆は眼に映るものごとに心を動かされ、蔵主の昔のことを聞きたく思い、道案内の老人に話を乞うた。

古老曰く、申し伝えによれば百年余り前三蔵主とは。山城紫野の純蔵主(一休)、伊勢の養源寺の虎蔵主、それに安芸の次休蔵主のこととか、いずれも世に聞こえた禅僧であった。
その一人の一休禅師はある日「安芸の次休は深山の中に入り、跡をくらまし、名を隠そうとしておる。かの所に赴き、その邪か正かを見分けよう」と、次休に会いに紫野を旅立った。
次休蔵主は現在過去未来三世通達の僧ゆえ、一休の訪問を予め感知し、侍者に向かい
一休宗純が私を試みようとたった今、龍宝山を、出発したよ」
とおっしゃり、そののち
「今日こそ到着の日、美味い魚を取ってもてなしてやろう」
と遥か遠い川辺に出て、釣り糸を垂れていた。一休はもとよりこれを知らぬが、川辺まで来て釣り糸を垂れる次休に
「これ、おじいさん。次休蔵主の庵室を知っておいでか?」
と問うと、次休は
「あなたは純蔵主でしょう」
と答え、一休は愕然として
「あなたは神通方便でも得ておるのか?なぜ拙僧の名を知っておられるのか?」
と尋ねた。次休はこれに
「貴方は私を試みる為にここまで来たのでしょう、私が次休です。」
と、名乗り手をたずさえ庵室に入り歓談が始まった。

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 07:00:01.39 ID:O5X/52cq
次休は自ら釣ったすずきの膾やじゅん菜の吸い物を進め
「あなたの旅の疲れを慰める為、わたしの神通方便をお見せしましょう」
と、皿の中の銀糸に作った膾をとって、むしゃむしゃと噛み
「この魚を再び元の魚に返してみせましょう」
と皿の上に吐き出した。」
すると、すずきはたちまち生き返って跳ね上がり、龍門三級の波を起こす程の勢いであった。
一休はこれを見て
「あなたは魚を再び生きた魚とされた(中略)拙僧はまたこの魚を仏にしてお目にかけましょう。」
と言うと、裳裾を高々と掲げて、
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
と敷物の上に糞を垂れ
「万法は一に帰す。食は尽く糞に帰す。されば糞中の虫である三世の諸仏は、この中に隠れておりますぞ。
昔の少康師は、一度南無と唱えれば、一体の仏、口より湧き出でさせ、続けて十声唱えれば、十体の仏を出したとか。
彼は口中より仏を出だす。拙僧は肛門から仏を出だす。少康師よりなお勝っていることよ」
と、手を打って大笑いした。

次休、これを見て「風顛漢め、人々をたぶらかすまいぞ」とおっしゃって、また一杯の水を口に含んで吐き出されると、炎となって空中にほとばしった。
一休は「あなたは孫博が草木をしてみな火光に変じた術を会得しておられるのか。(中略)拙僧もまた活手段を行じましょう」
と、鉢の水を飲んで、仏殿の内に向かい小便をし、「あなたは水を転じて火をなされた。拙僧はまた、山は是れ山、水は是れ水じゃによって、元の水に返したのじゃ」
とおっしゃった。
次休は「あなたは私を試みるがため、こうしてわざわざやって来られ、私はまたあなたの知恵を計るため、このような方便をお見せしました。
あなたはいまだ神通力を得ておらぬものの、自由自在の手段を用いられた。おかげさまで今日初めて高僧と言うものにお会いできたわけです。
我が禅宗、この国に伝わって年久しいが、今あなたが現れて、さだめし大いに世に興隆することでしょう」
と褒め称え給うたと申します。一休もまた「わたしもまた、生身の文殊支利菩薩にお会いできました」と、三度拝礼して、やがて暇乞いし、帰京した。(長いので以下略)


(陰徳太平記)



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 07:57:01.24 ID:XO9yYF3G
ダイナミックすぎる

107 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 09:18:00.61 ID:IZtf/wAU
とりあえずこの後は京に帰った一休さんが、次休がナンバーワンだと周りに語ったり次休が超能力で遠くの寺の火事を消したりする話を古老がして大内義隆から褒美貰って
大内義隆が、安芸を征服した暁には此処にまた大きな伽藍を建ててやると語って、大内義隆の安芸征服は是からだ、義隆先生の次回作にご期待くださいエンド

>>105
奇人と名高い一休さんも後世に脱糞ニキにされるとは思うまい

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 15:49:26.64 ID:VxWqyVUz
>>103-104
一休さんの奇人エピソード多すぎぃ!
時代がちょっとずれそうだけど劇中劇?だからいいか。

東海沢庵の事蹟

2016年09月19日 18:46

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/19(月) 16:11:52.63 ID:1AA2sznt
東海沢庵の事蹟

この頃ある僧の話で聞いた。
猷廟(家光)がかわいがって待遇した東海寺の沢庵和尚は、
もとは遠流に処せられていたが、柳生但州(宗矩)の上言で召還されて帰参した。
このときの狂歌で、

上意ゆえ還りたくあん(沢庵)思えども おえど(江戸・穢土)と聞けばむさしきたなし


また沢庵が御茶の御相手に出たとき、御釜の沸湯が蓋の辺りから滴るのを将軍様が御覧になられて

てき(敵・滴)がおつるおつる

との上意があると、応じて

ひつくんで(引く組む・汲む)とれとれ(捕れ)

と言った。その敏捷さはこのようであったと。

林子(述斎)曰く、これは島原陣のときのことであろうかと。
なるほどそうでもあるだろう。

『延宝伝燈録』には

「慶長十四年の春に大徳寺の住持に出世したが、三日だけ山にいて、
退鼓(禅寺で住持が退く時の説法を知らせる鼓)を打って泉南に帰った。
豊臣秀頼公及び一時の侯伯は、招請を重ねてしたが、師は全てに赴かなかった。
寛永六年秋、大徳出世之事により羽州へ貶められた。
謫居(遠方へ流されること)すること四年、欽命(君主の命令)により赦されて還った。
大将軍家光源公東海寺を創って、師に命じて開山祖とした。」

(甲子夜話続編)



沢庵壁書の事

2016年08月05日 19:43

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 00:32:23.34 ID:4NC1gATx
沢庵壁書の事

沢庵の書いた壁書を、山村信州(良旺)が所持していたので写させてもらった。

「飯は何のために食うのか。ひもじさを止めるために食うのか。
ひもじい事がなければ食わなくてもよいものを。
さらば、さても、しかるに、添え物がなくては飯は食えぬと皆人のが言うのは僻事である。
ただただ、ひもじさを止める為のはかりごとである。
「役」のために食う飯ではない。
添え物がなくては飯が食えないというのは、まだ飢えが来ていないのだ。
飢えがこなかったら一生食わなくてもいい。
もし飢えがきたら、その時には酒のかすやあらぬかのような粗末なものでも嫌わない。
ましてや飯ならなおさらである。何の添え物がいるであろうか。
『食を受けることは薬を服するようにせよ』と仏も遺教されている。
衣類もまたこのようである。
人は衣食住の三つで一生を苦しむ。
このことを心に留めているので我は三つの苦しみが薄いのだ。

これは我の落書きに過ぎない。錬金法印が書けというので書いたのだ。」

元和の酉の冬に  宗彭

(耳袋)

バランスよく食べなきゃダメよ



住吉と 人はいへども

2016年07月01日 13:53

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/01(金) 03:19:54.48 ID:VYgtXtuS
一休が住吉の松斎庵に居住していたとき、

住吉と 人はいへども すみにくし 銭さへあれば どこも住よし

(醒睡笑)




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/01(金) 14:29:39.49 ID:Nw4xz5Oy
へー戦国の人だったんだー

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/01(金) 14:48:30.94 ID:5lmJmodw
       , -‐' ´ ̄ ̄ ̄``丶、
     /              \
    / /ヽ、   _, -─ ヽ    ヽ
    l l r'ニコ  ̄ {二ニヽ \    l
    ヽ 、__   、 _ ,   l    |
      ヽ. {しiヽ   {し'j`  /    !
     rl   r‐'        !/´ヽ. /
     l_l   ヽ        jツ }'
        ヽ   ヽニニア!    、__ノ
        \  ヽ--'    j jヽ
        `7 、__   //  l‐- 、
      ,  -‐''l !l、   //   l!   `ー- 、
     /     ! ヽ >'´ /    / !      \
   /     l   ヽ/     /          ヽ

       滝川 一休 [たきかわ いちやす]
          (1543-1610)

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 11:14:04.49 ID:Oj+reHmk
>>899
Yes
一休禅師は長生きした人物なので、
晩年には応仁の乱を経験し、戦国時代に突入していました
戦国時代の中で生涯を閉じたのよ

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 11:47:47.60 ID:18ifkYPF
いい歳して若い愛人を囲うとかやり手やもんな一休さんは

梁の武帝が達磨に対面された通りに

2016年06月30日 16:06

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 09:14:07.33 ID:xdkSpOUE
 上様が沢庵和尚をお召されたころである。
如何様に応対するのがふさわしいかと、柳生殿が内々に尋ねられた。
沢庵和尚は

「梁の武帝が達磨に対面された通りにしてください」

と申した。
 その時の応対とはどういうものかと柳生殿は次々と尋ねられると、
甚だ仰山に重々しい事であることがわかった。

「それでは余り御崇敬が過ぎますので、いますこし軽くするべきではないか」

と柳生殿は申されると、和尚は

「あなたはそのようにお思いなられるだろうが、当将軍家を武帝ほどには私は思っていない。」

と申されたという。

 しかしながら、沢庵和尚は元来生臭坊主ではありませんでしたので、
江戸逗留の間は柳生殿の長屋に居られ、登城の際には下男を一人連れるだけだというので、
後に上様はそれは余りに粗末な事だと、別に旅宿を仰せ付けられ、
ついには和尚のために東海寺を御建立された。
末代には稀な智識である。

(本阿弥行状記)



沢庵番

2016年06月12日 17:26

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 01:12:52.81 ID:Bc2GXjZ1
 品川の東海寺には、沢庵番というものがある。
これはかの寺領の農夫が夜毎に寺の門々を守り居ることである。
そのわけを聞くと、沢庵和尚は高徳で猷廟(家光)は殊に帰依なさっていた。
大城へも召し、また寺へも御立ち寄らせなさること度々あった。
しかし、和尚はとにかく永住を欲せず、時として寺を立ち去ろうとする。
公はこれを憂いなさり、人に守らせて出て行くことを止めなさった。
沢庵和尚が遷化の後も例となり、永くその旧例によっている。

 今親しく農夫に
「どうして夜々に寺門を守るのか?」
と問うと、
「私どもが守らなかったら沢庵が逃げ去られるからです。」
と答える。
農民の愚直にして古色を保っているのは、誠に愛すべきことだ。

(甲子夜話)



830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 09:50:09.92 ID:N/XJnpxD
>>828
家光「おじいちゃん、家はここですよ。」

大梅梅子(たいばいばいし)

2016年03月18日 17:09

488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/17(木) 20:45:36.78 ID:4Ep7Bp6v
大梅梅子(たいばいばいし)

應仁元年(1467年)のことである。後土御門天皇は遣明使を派遣することを画策し、随行する数人の僧侶を選抜するように
京都東山の建仁寺の住持、岐陽和尚に依頼する勅命を出した。
依頼を受けた岐陽和尚は、公平を期するために、全国から選ばれた八十余名を建仁寺に参集させ、選抜試験を課することにした。
当日、受験生が試験会場に入ると、各人の目の前には、なぜか大きな梅干しが一個ずつ置いてある。
全国各地から参集した受験生が不思議に思っていると、時間になって、試験官である岐陽方秀和尚が粛々と上座に着席する。
すると、鳴磬一聲、大書された『大梅梅子(たいばいばいし)』の題が高々と掲げられたではないか。
「大梅(たいばい)」とは、大きな梅のことである。また、「梅子(ばいし)」とは、梅の実を指す。だから、『大梅梅子(たいばいばいし)』とは、
大きな梅の実のことであろうか。
まるで、禅の公案みたいなものである。いかにも人を喰ったような題で、全国から集まった英才たちも、さぞかし面食らったことであろう。
いくら禅寺であるとは言え、出題した岐陽方秀和尚も只者ではない。
すると、ある一人の僧侶がただちに次の詩を詠んだと言う。

   大梅梅子鐵團團   大梅梅子、鐵團團。
   八十餘人下觜難   八十餘人、觜を下すこと難し。
   今日當機百雜碎   今日、機に當たり、百雜碎く。
   那邊一核與他看   那邊の一核、他と與に看る。 
  
  (大きな梅の実一個。それは真ん丸で、まるで鉄の塊のよう。
   ここにあつまった八十余人は、それを目の前にして、どうすることも出来ない。
   本日、遣明使随行の一員たらんと思ってやってきたが、その思いもむなしくなるばかり。
   誰もがこの梅干しをどうにかしようと、ひたすら見つめている)

この詩を詠んだのは、長門にある永福寺の住職であった桂庵禅師その時四十一歳。
この詩で遣明使となり、明に渡海して蘇州などを遊学し、後に薩摩に赴き薩南学派の祖として名を成した人物である。
(「三国名勝図會」、『桂庵禅師傳』、「漢学起源」)
補足:「大梅梅子(たいばいばいし)」は、大梅法常和尚の残した公案であると言う。
(大梅法常(752~839年)唐の僧侶)



『初祖達磨大師』と書くべきを

2016年02月16日 17:44

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 02:49:19.54 ID:EKCT9y2h
 洛陽の某の元に一休の筆がある。
『初祖達磨大師』と書くべきを、『初祖磨大師』と書かれ、そのまま"師"の字の下に"達"の一字を書いて、そのはねを引き上げて"磨"の字の頭に点して置いてあると聞く。
 慣例通りのものである。この活人の底の働きは、言語の及ぶところにない。
(本阿弥行状記)

私もよくやります



340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 09:07:15.52 ID:E7gWz3Jd
>>337
消して書き直すのめんどくさいもんな
公式文書じゃなければ俺もやるわ

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 09:51:24.49 ID:NcNAty0/
昔、いしいひさいちの漫画で日蓮直筆の「南無妙法蓮月経」の書を手に入れた道具屋の主人が
書いた本人に法外な値段で買わせることができると大喜びする、というやつを思い出したよ。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 10:07:13.85 ID:xcfy70n8
>>337
今なら国会で野党の追及を受けそうだな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 10:19:40.76 ID:2mNhTnlm
>>341
志賀直哉の清兵衛と瓢箪を思い出した

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 15:59:50.29 ID:il9ecMq6
>>337
昔は矢印の代わりにはねを引き上げてたんだね
実に興味深い

三ノ宮の怪異

2016年02月09日 09:56

天海   
126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 09:48:17.59 ID:9/TruwmO
慶長19年5月22日、天台宗の面々が登営し南殿に出御した時、南光坊天海がこんな事を言った

「最近、比叡山の八王子三ノ宮で珍事がありました。それは先ず、学林坊の奴である次郎を天狗がさらって
行方知れずとなった事件から始まりました。

10日ばかり過ぎて、この次郎は帰ってきてこう云いました
『私はこれまでの間、当山の大天狗、次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、鞍馬山の大僧正、
彦山の豊前坊、大山の伯耆坊、上野の妙義法印、彼ら何れにも叡山に参るべき旨を振れ回りました。』

このように大天狗たちが叡山に登る旨を聞いた人々は、皆不思議に思い、そこからかの三ノ宮に参詣してみると、
天にわかに曇り、激しい風雨が巻き起こったかと思えば、大霰まで降ってきました。
そしてあの次郎が三ノ宮の社殿の棟に飛び上がり、しかしそのまま落ちると、軒端にて起き上がり、
足を上げて立ちました。

その他天狗の眷属たち大勢が、社の上にて様々に不思議な事をし、扇を以って歌舞を行うのを人々は目撃しました。
また三ノ宮の扉を、これは普通は2,30人で持ち上げるような物ですが、その扉2枚ずつを回し投げました。
それなのに、この扉にはいささかの傷もなかった。
また、虚空より大礫を数多打っていたそうです。」

そのように云々したという。
(玉露叢)



127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 11:21:07.72 ID:RFhGQd0T
昔の人は大嘘つきが多いね

山賊「坊主、金を置いていけ」

2015年12月02日 12:34

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 23:30:46.51 ID:getXXJuT
松島の雲居和尚が夜の山で山賊どもに捕まったときの話。

山賊「坊主、金を置いていけ」

雲居「ワシはこの地の者で、遍歴の僧ではない。
   なので金銀は持ち歩いておらぬ。
   着物をやるから、命は助けてくれ」

山賊「無駄な者を捕らえてしまった。
   着物など金にはならぬ。
   とっとと行け」

と言って解放した。
一町ほど行ったところで雲居は引き返し、山賊のところへ戻り、

雲居「ワシは妄語戒を破ってしまった。
   銀がひとつ、巾着に入っていた。
   それを、うろたえて忘れていて、
   金銀など持っていないと言ったのがとても悔しい。
   この銀を受け取ってくれ」

と言った。
山賊は心を打たれ、その場で仏弟子となったそうである 【葉隠】



61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 23:50:59.82 ID:Vw1VRYYz
偸盗戒やら蓄金銀宝戒やらはええのんかい

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 09:43:47.95 ID:qC7qXKAK
とにかく、けが無くって良かったんじゃね?
あれ?いつのまにか、お茶が置いてあるぞ?

「ちょうちか、ちょうちか。」

2015年11月20日 09:07

9 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/19(木) 11:50:01.73 ID:i/5zibSr
昔むかし。 琉球王国の王様が尚真王(しょうしんおう)の時代のお話。(在位1477年(成化13年) - 1527年(嘉靖5年))。
沖縄本島の北部、今の金武町と言うところに、金武湾という港があります。
その港に小舟が1隻、漂着してきているのをある若者が見つけました。
この舟は、帆の柱が折れて壊れてしまっていて、どうみても難破船にしか見えませんでした。
若者が恐る恐る中を見てみると、そこに大きな箱がありました。
若者「この中に宝箱でもあるのかな。」そう思った若者は、その箱を開けました。
そしたら、中に、死にそうになっている若い僧侶が入っていました。

この僧侶の名前は、日秀上人(にっしゅうしょうにん)と言い、高野山で修行をしていたが
普陀落渡海を決意し、和歌山県の那智というところから西方浄土を目指して舟を出して旅をしていた途中でした。

若者はすぐにその僧をすぐに舟から助け出し、持っていたお米でお粥を作って食べさせました。
やがて、僧侶は元気になった。元気になった僧侶は、若者に「ふくらしゃ(誇らしや)みなと。」と言いました。
『ふくらしゃ』と言うのは、あなたは素晴らしい人だねぇと言う意味です。
その名残から、この港の名前は富花(ふっか)と言う名前になりました。
後に、日秀上人はお礼の意も込めてこの若者に、若者の家の近くを流れる樋川(ひじゃーがー)にちなんで、『比嘉』という姓を考え与えました。

その頃金武では、金武の洞窟に大きな蛇が住んでいた。
洞窟に続いている大川に、娘が水を汲みに行くと、その大きな蛇がその娘をさらって生肝を食ってしまった。
村人たちはこれにとても怖がって困っていたが、相手が恐い大きな蛇のため退治することも出来ませんでした。
そのうち、村の人は誰も大きな蛇を恐れてしまってその大川に誰も近づかなくなった。
これですめばまだ良かったのだが、この蛇が、今度は近くの畑の作物を荒らしに、村まで来てしまった。
その上、この蛇のせいか、運悪く長い間雨が降らない日が続きました。
村で作った作物は日照りで枯れてしまって、村人は美味しい水も飲めない、食べ物も食べれない事態になった。
この話を聞いた日秀上人が「私をその大蛇がいる洞窟に連れて行ってくれ。」と村人に頼みました。
村人は日秀上人をその洞窟に案内すると、洞窟の中から恐ろしい大蛇の唸り声が聞こえてきました。
しかし、日秀上人は、その声にひるまなかった。静かにその洞窟の前に座って、無心になってお経を読んだそうな。
そしたら、洞窟の中からさっきのうなり声よりも大きな声で、「ワァーッワァーッ、ヴォーヴォー」という音がかえってきた。
やがて大蛇は、叫び声とともに洞窟から頭を出した。村人達はその恐ろしさのあまり気を失ってしまった。
それでも日秀上人はお経を上げ続けた。
すると、この大蛇は勢いを失ってしまった。
と、同時に激しい雷が鳴って、雨が降り始めた。
日秀上人は、今がチャンスと言わんばかりに、この大蛇を洞窟の中に閉じ込めた。
そして、その洞窟の近くに金武観音寺を建立しました。
日秀上人は金武の洞窟にいた大蛇を退治してしまいました。
この話はやがて、首里城の尚真王の耳にも入り、尚真王はこの日秀上人を『仏教の師』として迎え入れたそうな。
そして日秀上人は、那覇の地に薬師、観音と言ったたくさんの神様を祀る護国寺を建てた。
日秀上人は「琉球国の護り神」となったのです。
(続く)

10 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/19(木) 11:50:43.29 ID:i/5zibSr
(続き)
日秀上人はまた、当時、那覇から首里に上る『松川(まつかわ)』と言うところに妖怪が多く出て、通る人たちが困っているということを聞きました。
日秀上人はこの松川の地に、妖怪を退散させるための呪文を書いた石碑を建て、妖怪退散もした。
この石碑のおかげで、妖怪は退散し人々が無事に通れる道になりました。
残念ですが、この石碑に書かれている言葉は誰も知らないそうです。
石碑も古くなってしまって何が書いてあるのか、まったく読めなくなったようです。
だから、それも全部ひっくるめて「松川の碑文(= 秘文)」と言うようになったそうな。

松川と同じように、今度は、浦添から首里に行く途中の丘にも妖怪が出て人々を困らせていたところがあった。 
日秀上人は、その丘の上に『金剛経』と言うお経を書いた石を埋めたって。するとその丘からも妖怪は退散して、
そこを通る人々はそれ以降、安心して交通できるようになったそうな。
その丘は、お経を埋めた丘だったものだから、経(が埋まった)丘、経塚(ちょうちか)と人々から呼ばれるようになった。
浦添と那覇と西原の境目くらいにある浦添の経塚(きょうづか)と言う地名はそこから来ているそうです。

後年の話。
旅人がその経塚で昼寝をしていました。そしたら近くの村人が大騒ぎをしていたもんだから「何事ですか」と、目が覚めました。
辺りを見回しても火事があったわけでもなければ、妖怪が出たわけでもない感じ。そこで、旅人が村人に聞いた。
旅人「何かあったんですか」
村人「『何か?』じゃないよ、今、大地震があったでしょう。感じなかったの?」
旅人は近くの村がすべて大地震で揺れたのに、経塚だけはこの土地に眠っているお経の力で揺れなかったことを知った。
それから、沖縄で地震になった時には、「ちょうちか、ちょうちか。」と唱えるようになりました。(沖縄の昔話)

この話は、大隅正八幡(鹿児島神宮)で島津貴久と同じ夢を見た日秀上人が鹿児島に来る前の話しです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2677.html





人は少年の時に学んで、壮年には早く立身するべきである

2014年02月11日 18:56

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/10(月) 23:23:12.13 ID:an7pd4us
人は少年の時に学んで、壮年には早く立身するべきである。

四民の行為も何ごとも急げ。たとえ立身できるとしても、老いていれば晩年は短い。
日が暮れて道を急ぐことになるであろう。

(人は少年に学び、壮年にはやく立身すべきことなり、四民の所業もなにも急ぐべし。
たとひ成得ても老あれば末短かし、日暮て道をいそぐなるべし。)

(以下、例えをまじえて同じことを述べている)

――『東海夜話(沢庵宗彭著)』

このように沢庵は学ぶことそのものは肯定しているので、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8215.html の記述は学ぶなという話ではなくて、

「学ぶ人は自己を持って悪智慧を生じないようにしろ」ということなのだろう。




342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/11(火) 00:17:20.77 ID:12PwH1cW
その例えの部分が詳しく知りたいですね

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/11(火) 00:39:34.08 ID:ULwduIJg
>>342
いまいち意味が理解できなかったのと、締めの言葉からして結局同じことのようだから省略した。

(北地陰寒の国には春の花おそし、陰寒にささへられて然り。しからば秋の花は末の陰寒を考えて
疾くひらくべけれども、節序あればこれも前年の寒気春に持こして、そのいたみにや、
秋の花もおそくさき出るゆゑに、又来る秋すゑの寒気にあたりて、さかりもほどなきなり。
人の中年すぎ立身して、すゑの短きが如し。)

註によると「皆少年に学ばざれば何の業も上達し難し、少年時は四季に於ける春なり、
此の時に於て充分養ひを取らざれば秋に良果を収むることかたし、」とのこと。

学をする人は必ず

2014年01月31日 19:00

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 03:58:17.27 ID:TKc5ZJuH
学をする人は必ず悪智慧を生じる。その理由は何故かというと、
人を超えようと欲して才ある人を抑える。しかもさらに、不才の者を笑う。

自分に従って、一字といえどもこれを問う時は直ちに喜び、
自分に背いて千人に問えば、これを妬むことは敵のようである。
また、眼を高くして人を直下に見る。これらはその悪智慧の一二である。

無学の人は争うことがない。これは学力が無いので、自分の本然の心を
持っているのだ。学をする人は曲節が多く、学無き人は直心である。

学をする人は人を疑い、学無き人は人を信じる。信は万行の始終である。

ひたすら学を行って悪智慧を求めるよりは、むしろ無学にして自己を持て。
前述の学をする人は自己を失って悪智慧を生じるのだ。

――『東海夜話(沢庵宗彭著)』





人も善くあれ、我も善くあれ

2014年01月17日 18:45

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/17(金) 15:47:17.60 ID:YeGeqghY
一、相撲をとる人が勝とう勝とうと思うがために、自分より力劣る人を
もし存分に骨身を傷つけるほどの力に任せて勝って喜ぶことになっても、

その一方で自分より力の勝る人には負けて身骨を傷つけられて苦しむのだ。
世間の人の心も「人を謗ろう、人が悪い」と思う人は、必ず自分の身に悪い。

自分より弱い人を押さえて滅したとしても、一方で自分に勝る人がいて
自分を押さえることは歴然だ。ただ「人も善くあれ、我も善くあれ」と、
思うべきである。

一、人として人のために善くあれと思うことは誠に難しいものだな。

およそ生きとし生けるものは争わないということがない。空をかける翅、
地を走る獣、螻蟻蚊虻にいたるまで争わないということがない。

だから、人として争わないことは難しい。心底では争っているけれども、
外では争わない顔をするのは礼である。これを人という。

この礼を持たずして人に向かう時は、とりもなおさず早々に共に争う。
これは人にして禽獣に近い。

――『東海夜話(沢庵宗彭著)』




108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/17(金) 18:37:19.46 ID:7DevHlyN
現代にも通じてるね

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/17(金) 19:48:34.00 ID:1Rx53UPY
当時なら大一大万大吉
現代なら思いやりかな?

そして言うは易し行うは難しと

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/17(金) 21:10:15.38 ID:yQct1QOq
武士か儒者の言葉だろうと思い読み進めたら仏教坊主だったでござるの巻

蜘蛛の謀略

2013年11月18日 19:32

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 17:09:52.26 ID:9dn8KpG9
一、のきにかかっている大きな蜘蛛を地に落とせば、足を収めて石のようになり、
死を逃れようと計る。この蜘蛛は小智によって人を計ろうとしている。

少しでも走って逃げれば、それだけ命も長らえるであろう。かの蜘蛛の謀計を人はよく
知っている。かの蜘蛛は、人は知らないと思っているのだろう。

無智の人が有智の人を計ることも、蜘蛛の謀略と同じだ。

一、さて、大きな毛虫が地上を歩いている。これを犯す時には毛虫は憤然として
身体を反らせる。そうしたとしても、人はこれを事とも思わない。

小人が大人に向かってこのような風情をなすことは、毛虫と変わらない。

――『玲瓏随筆(沢庵宗彭著)』





自分の好悪は分からぬものである

2013年11月16日 19:11

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 16:35:54.06 ID:Ml9WCBEb
一、粗末な面の人を初めて見た時は「なんとも見苦しい人物だな」と思っても、
慣れて毎日見れば、後は見好いものである。

これは血気に間違わされてこのようになるのだ。
最初の一念は本心に感じるために、そのものの好し悪しを有りの儘に知るのである。
それゆえ、人の好悪はよく見えるものである。

自分の好悪は分からぬものである。自分の所作は我が身に慣れて分からないものだ。
そのうえ、悪いと知ってまげて悪を行うのは道理の外である。

一、何事もやろうと思うことをずんと思い切ってやるのは本心である。
こうしようか、しないかと二途にわたるのは血気である。

二途にわたって分別の極まらないことをすれば、必ず悪い。
これは血気に惑わされたのだ。これをやろうと思ったなら一道にしたほうが好い。

二途にわたるくらいならばしてはいけない。初めの一気は皆本心である。
二つにわたるのは血気である。本心ならば皆好い。血気は悪い。

――『玲瓏随筆(沢庵宗彭著)』





文禄二年、夏の日照り

2013年07月11日 19:52

天海   
661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 17:42:24.24 ID:EX41pm2q
さて、蘆名修理大夫盛高は俗類の親しみにより師(天海)を会津に呼び請け、
稲荷堂の別当にした。盛重が会津を落とされて常陸国江戸崎という所に移ると
師も伴われ、その領分の不動院という旧寺があったものを修造して住まわれた。

文禄二年の夏、日照りが続いて草はみな枯れてしおれ、千里の間に青苗は見えず、
民は憂いてどうしようもなかった。里の人々は苦しんで師に雨の祈りを願ったので、
師がただちに川のふちに出て修法なさるところに、一人の女が五鈷を持ってきた。

女は「これで加持してください」と言って師に五鈷を与えて消えてしまった。
師は川のふちにのぞみ請雨の法を執り行い、仏舎利一粒を竹葉に乗せて水の上に
浮かべなさった。

すると水中より青蛇が出てきて舎利を咥えて沈んだ。少しの間に黒雲は立ち重なり、
雷はひどくうなって稲光が起こると、急に大雨が降って枯れた稲葉も色を変え、
百穀は実って人民も栄えた。

先の女についてはその行方を尋ねたが、どこの誰とも知る人はいなかったという。
五鈷は今に当山の霊堂にある。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』




663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 20:05:54.43 ID:9wcel/X/
本物の仏舎利なら、五鈷より貴重な気がするけど