もはやというところで余りの苦しさに

2017年03月12日 16:44

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 03:54:09.75 ID:Ea6rH+3d
 関白秀次公の御咄衆に、曽呂利と申す者がいた。
あまりによく話をしますので、ある時話をつまらせてやろうと思し召された。
彼が朝の寝起きで未だ顔も洗わず目をこすって取り乱している体であったときに、

「何か話を一つせよ」

と仰せられた。すぐの話なのでつまりかけたが、ふと昨夜の夢を語りだした。

「さても、今宵夢を見ておりましたのか。
ある所へ行きまして、道に小金が夥しく落ちておりました。
さても嬉しい事かなと存じ、思う存分に拾い持ち帰るところに、
落とした主が来て取り返そうと追いかけてきました。
汗水をかきながら逃げましたが追いつかれそうになり、
もはやというところで余りの苦しさに、大便を垂れてしましました。
そこで目が醒め、かの金を探ってみましたが金は跡形もなく、
大便はたくさん垂れてありました。」

(昨日は今日の物語)


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せめて連歌ならば

2017年03月02日 18:54

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/01(水) 23:11:11.96 ID:kLBlArxO
 ある人、紹巴の所へ行き

「我はあまりに無能でしたので、何か心掛けたいと存じています。
医者か連歌を望んでいます。
御相談の上、あなたの御意見次第にいたすつもりです。」

と言った。紹巴は聞き、

「それはよい心掛けでございます。二つの内では、連歌がましでありましょうか」

と言われた。それから、かの者は連歌を好むようになった。
 その後に、ある人が紹巴の所へ行き、

「さてさて、井原屋の無心は貴老と御相談して連歌をするようになったと申していましたが、
どういった理由からそうおっしゃられたのですか?」

と尋ねた。紹巴が言うに

「そのことでございますか。
あれほど出来が悪いのに医者になりましたら、
人の種がなくなってしまうでしょう。
せめて連歌ならば、人を殺すまいと思ったからです。」

(昨日は今日の物語)



631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/01(水) 23:29:52.99 ID:ahPZfOIy
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6056.html
曲直瀬道三を相手に紹巴で似たような話があったな

城地革変甲冑論

2016年11月20日 17:37

林述斎   
326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 00:16:12.28 ID:u73Z9G9W
城地革変甲冑論


 林子(述斎)曰く、
城地はその時代により移り行くものなので、作り替えねばならぬ物であるという。
山城などは水地と違い地勢もかわらないが、その時の敵のある所で用不用がある。
例えば、照祖(家康)が三遠におわしました時は、
金谷駅の上にある諏訪原(牧野原とも言う)の城は真の要害であった。
これは甲州の押さえの為であった。
甲州が亡んだ後はこの城は用が無くなったので廃城となった。
世人はこのような訳も知らず、深い考えもなく、
「あの所の古城跡は天険の地なのに、なぜ廃したのか?」などと言い出すのは笑ってしまいそうだ。

 また慶長中、伏見の城を淀に移されたのは、その頃淀川の水道が今と違い、
城からの川の水位は低く、水車で城内へ水を汲み入れていた。
百余年を経て川床が高くなり、水車は景色ばかりとなって実用すること無くなり、
出水ごとに、淀城はいつも氾濫の患を被らないことはなかった。
これは河道の変化によるもので、城築の時の地勢によるものではない。

 古今の変化に通じなくて、城の利不利などを評する人が往々にしている。嘆くべきことだ。
その他に海を要害にした城だったが、今は海があせていつのまにか田となったものもある。
また、城門の前の間地も、後に間近くに家を建て列ねているものも多い。
これらは事に臨むときに身を滅ぼす元ととして成る程便利であろう、と林子は言われた。
西方への旅行の時、諸国の城地を目撃して意中に心得がたいことが多かったのだろう。

 そもそも城のみでなく、着具なども同じことである。
先祖の具足と貴び所蔵するのはいい。
それを自分も着るものだと思う輩がまた多い。
そもそも人に大小肥痩があるので、今に当たって自分が用いる乳縄(※胴の乳の辺りの寸尺)
で製作しなかったものは用に立たないものだ。

 私は若いときは痩せて、中年から肥えた。年少の時の乳縄は今とはかなり違う。
一人のものでさえこのようなのだ。
これらは分かりきっていることなのに心にも付かず、着具を作り変えることも知らないまま、
いたずらに月日を過ぎる武家は実に太平の余沢に豊かに過ごしているといえよう。
(甲子夜話)


こういう「当時と地形が全然違うだろ」って突っ込みが頭の中にあるから
あんまり古城めぐりには乗り気ではないんですよね



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 09:56:03.54 ID:sN07tgQU
郷里で再会した同窓生の嫁をみて、伴侶とした理由を聞くようなものですねw

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 14:25:06.85 ID:FttclQe/
>>326
クラウドファンディング「そんな貴殿にVR、当時の地形も再現致しますぞ」

「どう聞こえましたか」

2016年11月08日 13:02

宗長   
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 06:43:10.14 ID:haaJnWgE
月次の連歌会があった。
宗長のおられる席の末座から弟子である人が句を詠んだ。
決まりに触れたこともなく、書記が記録している様子をみて
『さては今の句はよく出来たのだな』と思い、
気をよくして宗長に対して手をつき、

「どう聞こえましたか」

と問うと

「中々よく聞こえた」

と言われた。
しばらくたった後又一句詠んだ。
その句も記録されたので、ちと思いあがってまた手をついて

「どう聞こえましたか」

と言うと宗長は

「聞こえた。そこからここまでよ~く聞こえた」

と返された。
(醒睡笑)



280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 09:49:47.06 ID:4jJkcgOV
つまり「凡人」判定だったと?

「宗易の手前によく似ている」

2016年09月02日 19:57

千利休   
141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 03:03:00.96 ID:solwGPfs
千利休の生害後のある時、太閤は風炉の形を何かと御好みであったのだが、
「このような時は、利休めを殺して事を欠く」と、仰せになった。

これを権現様(徳川家康)と利家公は、以前から宗易のことを不憫に御思い
であったため、良い機会と思し召し、少庵と道安の御許しの御取り成しを
なされ給い、早速の御許しを蒙った。

その後、太閤は道安を御前へ御呼びになり、4畳半で茶をたてさせて上覧に
なり、「宗易の手前によく似ている」として、道安は御感心を受けた。

――『茶話指月集』



思えばそれが永遠の別れだった

2016年08月15日 19:33

千宗旦   
995 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/15(月) 16:59:24.22 ID:h0oOoPki
宗易(千利休)が太閤の命に背く頃、予(千宗旦)が大徳寺から京へ出る
時に、山門の前で利休が乗り物に乗って内へ入るところに出会った。

利休は乗り物のすだれを上げて挨拶なさった。思えばそれが永遠の別れ
だったのである。

――『茶話指月集』




今大路家掛物の事

2016年08月13日 17:27

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/13(土) 06:57:55.72 ID:zBOsfvjT
今大路家掛物の事

官医今大路家では、先祖曲直瀬道三の教歌墨跡を掛物として神農会の時に床に掛けるそうだ。
これは道三の自筆で

『長生きは粗食正食ひゆたらり 勝手次第に御屁めされよ』

との歌が書いてある。

当主も門人も、この歌の内の"ひゆたらり"という事は何の事であるのか知らない。
相応の説をつけて申し伝えていたが、ある時信州辺り出生の人が来て、

「これはいかなる事か?」

と尋ねると、今大路の門人たちは答えに当惑し、申し伝えてきた事のみを何となく話した。

かの信州の翁は

「我らがある日山深い田舎に行き着いたときに、百歳余りの者がおった。
長生きの術でもあるのかと尋ねると、
『物知らぬ田舎人なので、その術は知らない。
このような山奥なので明け暮れ食べる物は粗食で、
もとより何の望みもなければ心に労する事もなく、このように長寿をなしている。』
と言った。
『しかしどうして長寿の益が何かあるものであろう』
とひたむきに尋ねると
『熱い湯を用いず飲まず、火の暑さに寄らないことであろうか。』
と言ったが、"ひゆたらり"というのはこの事であろう。
道三先生はこれを知って、かく詠み置かれたのであろう。」

と言ったので、今大路家の者たちは初めてこの歌の心を知ることができたという。
(耳袋)




74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/13(土) 16:56:27.48 ID:oQUKlw7S
白湯は健康にいいのに!

春日市右衛門家筋の事

2016年08月11日 13:46

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 10:28:40.27 ID:7V5ebYgV
春日市右衛門家筋の事

現在、猿楽の家の内百石余りを給わっている春日市右衛門という笛を業としている御役者がいる。
かの先祖は武功の者で、難波夏の御陣での穢多ヶ崎の一番乗を石川家と一同された。
今世俗でいう"川びたり餅"はかれの家から始まったという。

これは穢多ヶ淵の城を攻め落とそうと石川家に属して進んでいたが、
川の水が深く船も無かったので渡り難かった。
春日は前後の瀬を調べて、破損した船を手に入れ修復して漕ぎ渡り、石川と共に一番乗を果たせたという。
そのとき殊の外空腹で石川も難儀していたが、春日は鎧の引き合わせから、
出陣のときにふと持ち出していた小豆餅があったので、上下ともに食って飢えを凌いだという。

これから今も石川家からかの春日の子孫に他事無くお声をかけられているとのことを、
市右衛門は語っていたと人が話された。
(耳袋)




道三神脈の事

2016年08月07日 13:36

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/07(日) 10:15:40.36 ID:IHBHVhCU
道三神脈の事

ある医者の語ったことである。
曲直瀬道三が諸国遍歴していた時、ある漁村を廻ったところ一人の漁家の男の血気がはなはな衰えていた。
そこで彼の家に立ち寄り、家内の者を見るといずれも血色枯衰していた。
脈を取って見るといずれも死脈であったので、自分の脈も取って見ると、また死脈であった。
道三は大いに驚いて、

「このように数多くの人が死脈であるはずがない。
漁村ならば津浪などの愁いがあるだろう。
早々にここを立ち去って山方へなりとも引っ越しなさい。」

と漁夫の一家に勧めて連れ退いた。
はたして、その夜に津浪がきて浦の家々が流れ失せ、多くの者が溺死したという。

「病でさえ分かりがたいのに、このような神脈はまことに神仙ともいうべきであろうか。」

とその医者は語った。

(耳袋)

天災と脈って関係あるんですかね



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/07(日) 10:36:41.45 ID:N0R4quLk
面相見が国中の人に死相が出ているのに気付いて、
果たして大災害によってその国は滅んだ、という話を見た覚えが

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/07(日) 15:48:26.47 ID:IbWqzhts
まんが日本むかしばなしで「夜中のおとむらい」という作品は夏の怪談として
ちょうどいいね。「吉作落とし」でもいいけど。
http://urban-legend.tsuvasa.com/yonakano-otomurai

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/07(日) 15:53:54.75 ID:ja/RODJo
なぜかサザエさんで易者が手相を見るとみんな水難の相が出ていて
すぐ雨が降ったという話を思い出した
相を見る能力は同じくらいあってもこっちはただのギャグという

そのような嗜みで侘びがなろうか

2016年07月24日 16:30

千利休   
913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/24(日) 04:12:28.94 ID:Ny5WpbVL
宗易(千利休)は花の頃(春)に、ある侘(茶人)を伴って東山へ参られ、
道中でその人に「その方は宿に釜を仕掛けて出なさったのか?」と問うた。

これにその人は、「今日は早朝から御供いたすので仕掛けておりません」
と、答えた。これに宗易は、

「いやはや、そのような嗜みで侘びがなろうか。これから帰って、仕掛けて
いらっしゃい。晩に誰が寄るかも分かりませんよ?」と、言った。

――『茶話指月集』




まぎれもなく雪舟の作であったのだ

2016年07月22日 21:14

雪舟   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 23:09:29.91 ID:6X1DPJep
 雪舟等楊は室町から戦国にかけて活躍した画家であり、明国で修業した後に帰国してからは
日本各地を旅して多くの水墨画を残した。
 明応8年(1499年)の頃の雪舟は山口の大内氏に仕えて、明国から購入した絵画の鑑定をするようになった
 その年の夏、雪舟は主君の大内義興に呼び出されて一幅の山水画を見せられたが、その絵を見た雪舟
なぜか何も答えなかった。
「この見事な絵は先日、明国から大金を支払って取り寄せたものだが落款(作者の署名、印)が無いので、
誰が描いたか分からぬ。そなたはこの絵をどう見る?」
 大内義興はそう言って意見を求めると、雪舟は口を開いた。
「おそれながら、この絵は私が明国にいたころに描いたものでございます。自分の絵について
とやかく意見を申すのはひかえとう存じます」
 これを聞いた義興は激怒して、「落款がないからといって、自分の絵などと言うとは不届き者め!
もうよい、さがれ!」と叱りつけた。
 それから、雪舟は石見の国へ旅立ったまま山口へ戻ることはなかった。
 ところが、その後になってこの絵の裏側を剥がしてみたら、雪舟の僧名の「等楊」の字が見つかった。
この山水画はまぎれもなく雪舟の作であったのだ。



905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 23:14:53.21 ID:NvgDwZXH
昔日本の偉人を一ページずつ漫画にした学習漫画があって
雪舟の話がこれだったのを思い出した

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 23:51:26.85 ID:/tuRtWGf
雪舟はアーッじゃなかったからか?

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 00:29:53.71 ID:VyMMLeHY
>>906
息子と勘違いしてる?

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 01:29:56.82 ID:+EHNhqgx
なんで剥がしてみようと思ったんだろ

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 05:55:13.27 ID:RlPreye2
相剥ぎしようとしたんだろ

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 07:12:34.27 ID:i21XoMp7
>>905
涙で描いたネズミが縄切った話だろ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 15:18:09.83 ID:8ZNSG2+n
>>908
仕立て直しでしょ

このような物数寄を

2016年07月16日 17:47

千利休   
868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/16(土) 02:52:37.83 ID:+ouk6C8f
ある時、有楽公(織田長益)が千利休のところへお訪ねになった際、
折りしも茶入に古い蓋を取り合わせていたのだが、そのうちの

大ぶりな蓋がしっかりと合わなかったのを、「かえって趣がありますね」
と言って、利休は有楽へ見せ申した。

その後、有楽公が茶入に件の通り、古い蓋を取り合わせて利休へ
御見せになると、利休は、

「このような物数寄(趣向)を一概に良しとお思いになったのですか?
この茶入には、新しい蓋が良く合うものですよ」と、言った。

――『茶話指月集』




「瀉する(下痢)か、結する(便秘)か」

2016年07月11日 13:25

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 12:14:28.94 ID:Lvznrp/O
折々柳原の曲直瀬道三のもとに出入りしている人がいた。
道三は病人に向かって
「瀉する(下痢)か、結する(便秘)か」

と問診するのを聞いて、あるときその子細を尋ねた。

「瀉するとはくだること、結するとはくだらぬことだ」

これは気取った言い方だと思っていたとき、親類の中に商人が来て
「明朝芸州へ下りますが、御用の事はありませんか。」
と言うと

「なんと芸州へ瀉するか、やがて結せよ」

(醒睡笑)




雪舟渡唐ノ富士云云

2016年07月08日 16:33

雪舟   
918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 12:28:22.81 ID:/8qXeXoP
雪舟渡唐ノ富士云云

 谷文晃の話に以下のものがあった。
 今細川家[隈本]秘蔵の雪舟渡唐富士の幅は妙心寺の什物である。
三斎の時、妙心寺の住職に求めてそれを借りて、江戸に至り茶席に掛けて愛賞していた。
しかし、表装が粗末であったので佐久間将監に頼んで、趣向を凝らした表装に替えられた。
帰国の時に上方へ持って行かれ。
しばらく国元まで借りたいといって持ち去り、また翌年の参勤の時もそのように断って江戸に持参され、
年月を送る内にいつの日か細川家の物となったという。

 その図は、清見寺の山を前に描いたものである。雪舟が唐国にいて、うっかり寺山列樹の間に塔を描いてしまった。
帰って清見寺を過ぎると塔は無かった。雪舟は嘆いて、
「私は唐人を欺く意がはなかった。ふと描くいてしまったが、今見ればでたらめになってしまった。」
と寺から十八町ほど隔てた所に、新しく塔を建立した。
その方角だとちょうど描いた場所になったという。
 しかし寺の境内ではない所の塔であれば、守る者は誰もいなく、遂に乞食の住家となった。
そして、或る日失火して灰燼となった。
天明中のことであったという。古人の物に厚いこと感ずるに余りある。
 以上は林述斎の話である。

この話で思い出したことに、先年享和壬戌夏、狩野養川院の粉本を見たことがある。
その時に模写しておいた。取り出して見れば、雪舟渡唐富士と記してあり、内に、
此本紙細川越中守殿所持と記してあった。
(甲子夜話続編)

http://www.eiseibunko.com/collection/chusei3.html

どうやらこの絵の逸話だそうで



千利休はともすると

2016年07月07日 12:10

千利休   
906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 02:37:27.02 ID:pVjbXeGL
千利休はともすると、「今日の客は京衆じゃ、肩衝に茶をとれ。明日は
堺の人じゃ、棗に茶をはけ」と、言った。

附:その時期、京では道具のみを興じ楽しみ、茶湯は堺に及ばなかった。
天正の末になり、茶湯は京で盛んになって、堺では衰えた。

――『茶話指月集』



その後は落ち葉が積もって

2016年07月03日 13:06

千利休   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 12:42:28.06 ID:9YVki1xp
さる方の朝茶湯に、千利休やその他の人がやって来た。その時、朝嵐に椋木
の落ち葉が散り積もって、露地の面影はさながら山林のような心地がした。

利休は後ろを顧みて、「どれも趣がある。さてしかし、亭主は無功であるから、
きっと掃き捨てることであろうな」と、言った。

案の定、後で露地に入ると一葉もなくなっていた。その時に利休は、「おおよそ
露地の掃除は朝の客であれば宵に掃かせ、昼ならば朝に、その後は落ち葉が
積もってもそのまま掃かないのが、功者である」と、言った。

――『茶話指月集』



904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 12:51:34.89 ID:lmBc4xDi
有名な禅僧か茶人の逸話で小僧がきれいに掃いたあとでわざと木を揺らせて落ち葉を落として
「こっちのほうが風情がある」って言った人がいたと思うが、利休だったかな

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 17:07:10.78 ID:xmSFrZhE
ただの負けず嫌いやん

この世で最も汚い事は

2016年06月07日 10:19

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/07(火) 02:35:36.30 ID:oFUqmr/s
多分、まだ出ていないかな。曽呂利新左衛門と秀吉の茶の話。

豊臣の秀吉の家臣、曽呂利新左衛門は、いつも絶妙の湯加減で茶を点てていた。
その極意が知りたくなった秀吉は、ある茶席にて、直に極意を確かめようとした。
新左衛門が次の間にて茶の用意を始めると、こっそりと後をつけて、ふすまの隙間から中を覗いてしまった。
すると新左衛門は、茶碗に釜の湯を注ぎ、自分の舌で湯加減を確かめていたのだ。

秀吉が急いで前の間に戻ると、早速新左衛門が次の間に案内してくれた。
いざ次の間に入ってみれば、秀吉の前に出されたのはなんと、新左衛門が口をつけた茶碗。
無論、濃茶ならば回し飲みをするものだが、それとこれとは話が別。そこで秀吉、新左衛門にこう告げた。

「お主、この世で最も汚い事は何と心得る?」

「覗き見をする心でござる」

新左衛門、覗き見されていた事をちゃーんと知っていた。
湯加減を見たら茶碗は変えるつもりだったのだが、秀吉の覗き見を嗜めようと、同じ茶碗を使ったのだ。

そんな、秀吉のばつが悪い話。



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/07(火) 15:23:08.34 ID:hLnkzSCo
好きな話だけど前に見た気がする

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/07(火) 21:16:19.28 ID:bDyBXs41
倍々ゲームの人だっけ?

「このコウロンはいくら?」

2016年05月23日 17:19

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 23:20:34.97 ID:xreISi2k
古道三(初代曲直瀬道三)が洛中を歩いていたとき、
ある棚の傍らに青磁の香呂と思わしきものが合った。
立ち寄ってそれを見るとなかなか良さそうである。

そこでうつけのふりをして
「このコウロンはいくら?」
と問われると、中から
「なんと跳ねても銀子二枚」
とのことであった。
(醒睡笑)

跳ねる発音をすることで間抜けのふりしても、マケねーよ




御上洛の事は

2016年04月04日 17:42

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/04(月) 01:47:04.76 ID:6Dxu4mW6
 御上洛の事は権現様と今の上様(家光)は度々なされておりめでたい事だと思われます。
禁裏様を敬いなさるご冥加とありがたく考えられます。
 御代が代わりますとともにこの御掟が変わらないようあってほしく思われます。
(本阿弥行状記)

なお



557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/05(火) 20:41:57.30 ID:bNfoPvEx
>>553
家光って3回しか上洛してない。
つまり、何が言いたいかと言うと…
「秀忠に謝れ」

諸国に銀札と申す事があります

2016年03月30日 19:25

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 00:34:23.46 ID:6rIyf3Q2
 諸国に銀札と申す事があります。この事について思いもよらぬ刑罪の人が出てきています。
国々に銀札の替わりに銭を拵える事をお許しなされたら、日本国中でゆとりが生じ、万民がありがたがることができると思われます。

 ただしこの一事で承っております事に、秀吉公の御賢慮により
「随分色々と臨時の事を申しつけて、とにかく払底させることが天下太平の基」
と仰せられましたことは、一応その利が無いわけではありませんが、国々の困窮が甚だしくなり下々に響き総じて日本国の
弱みとなるかと思われます。民は国の元と承っております。
 秀吉公はあまつさえ千枚分銅とやら申して、黄金を数限りなく貯えられましたという。
秀頼公の御代で新たにお召し抱えた大名小名へ金子で知行を下されましたと聞いておりますが、
いかほどの名城でも日本国中の大名小名を敵にしましては、千枚分銅もだた当座逃れの事でついに落城しました。

 なにとぞ諸国で銭を鋳る事をお許しなされて、その下地の鉄を粗末にしないようにしたいことです。
鍋銭(寛永通宝鉄銭)では悪だくみの者が似せまして、銀札の偽札と同じようになるでしょう。

 ならびに銭の相場も下がるのではないかと思われます。とにかく金銀ともに相場と申すことなく、
銀六十目で金一両、銀十五匁で銭一貫文にしたいことです。
(本阿弥行状記)

札のほうが銭より手頃でいいのにね