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朽木家の重宝

2019年08月12日 17:35

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/12(月) 00:14:02.90 ID:ppOu9hRu
朽木家には、狩野探幽の描いた松に鶴とやらの重器があるという。
この絵が描かれた当時、久須美六郎左衛門(久隅守景か)という、素人では有るが名人と呼ばれた
絵描きがあった。彼が朽木家で探幽の描いた松に鶴の絵を見ると、「面白からざる」と嘲った。

その後探幽が来た折、主人がその話をすると
「久須美が言うことは尤もです。認め直しましょう。」
そう言って書き直した。

次に久須美がこの絵を見た時、「宜しき」と言ったが、強いて称美することも無かった。
主人はまた淡幽を招いてしかじかと語ると、「また描き直すべし。」と認め直した。

重ねて久須美にこれを見せた所、彼は大いに感賞し
「探幽は誠に奇妙の画才なり!同じ絵を三度まで我意無く書き直したその形様は、たとえ何も
変わっていなくても自然にその妙があるものだ。」と賞嘆したという。
これによって現在でも、この絵は朽木家の重宝とされている。

(耳嚢)



141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/12(月) 09:12:21.21 ID:HOZNZXTd
>>140
なるほど、わからん…

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/12(月) 19:49:30.12 ID:sJFsU42V
プロレスありそうなアングル
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かかる神脈は誠に神仙ともいうべきや

2019年08月04日 15:52

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 13:23:44.02 ID:WVdZ04nY
これはある医者の語ったことであるが、かつて曲直瀬道三が諸国遍歴の時、ある浦方を廻っていた所、
一人の漁師の男が、その血色甚だ衰えているのを見つけ、道三はその家に立ち寄り家内の者を見た所、
何れも血色枯衰しており、このため脈を見た所、何れも死脈であった。漁師の一家は大いに驚き

「このように数人も一度に死脈など有るはずがない。浦方であるから、津波などの恐れがあるのではないか。
早々にここを立ち去って山方の方なりとも引き越すべし!」

そういって漁師は家内を進めて連れて引き退いたが、はたしてその夜津波が起こり、この浦の家々は
流れ失せ、多く溺死するものもあったとか。

診察をしても病のことでさえ知り難いのに、かかる神脈は誠に神仙ともいうべきや、と語った。

(耳嚢)



とかく物事は、心がけ次第である

2019年07月31日 18:54

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 12:06:23.70 ID:gc127j7C
私(久保長闇堂)が25,6歳の頃、奈良に秀吉公の馬廻衆が10人ばかり居られ、その内の5,6人は、
仲間内で毎日茶会を行われていた。そのうちに私も呼び出されるようになり、日々様々な遊興が有ったが、
茶湯も好まれ、廻り炭や廻り花(主客が次々に炭手前をする事と、花を入れていくこと)などで楽しんだ。

その頃、その馬廻衆の人々はみな真壺(唐物茶碗)を所持していた。壺がなければ濃茶は出来ないため、
私はそれまでずっと薄茶で口切をしていた。未だ呂宋から大量の茶壺が渡来する以前のことだった。
私は茶壺の無いことを無念に思い、借金をして27歳の時に方脱ぎの壺(肩の部分の釉薬に剥脱のある
唐物茶壺)を苦労して求めた。
するとこの事を馬廻衆の人々が殊勝なことであると感心され、銀子20匁づつを援助して下された。
殊の外の御恩と思ったものである。

今思うとあの人々は五千石、三千石を知行していて、千石以下の者は居なかったのだが、あの当時は
この程度のことをしてくれるという事も、世に無かった時代であった。あの頃は米一石が銀10匁だった。

その頃、祐春という道を知る数寄者がいて、私は再々往来していた。また私と同年の吉蔵という者も、
同じく祐春の元に出入りしていた。
吉蔵は親が裕福で良い茶室を持ち、人形手茶碗を持って茶会をしていると、祐春が称賛していた。
私はそれが気に入らず、無念に思っていたが、10年も経つうちに私も座敷を作り、茶壺を求めたため、
嬉しく思って祐春を呼び、茶湯をしてこのように言った

「あなたがかつて吉蔵の事を称賛していたのを、内心無念に思っていましたが、吉蔵は今ではもう
茶会をしなくなり、茶碗も使わなくなっています、とかく物事は、心がけ次第であると思います。」
これに祐春は言葉に詰まり、気味の良いことであった。吉蔵というのは医師の梅久の俗名である。

(長闇堂記)



だからこそ胸の覚悟が第一なのだ

2019年07月30日 14:32

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 03:54:51.62 ID:m2Cmpsib
藪内宗把という人は名高い侘数奇で、かつ人を何とも思わない人物であった。
彼は隠居後、子の世話になっていたが、ある時侘数寄の友人が来た折、話の興が深くなった。
その友人が「用がなければ晩まで語らないか」と言うと、宗把も「それが良い」と答えた。

そこで友人は下僕を呼んで、自宅から夕食をここに持ってくるようにと命じた。
すると宗把に母屋の方から「夕食が出来ました」と伝えて来た。彼は「ここに持ってくるように」と
言い、食事が届くとまだ夕食の届かない友人を尻目に一人で飲み食いした。

この仕方はこの時代の風俗であり、珍しくない事であったようだ。しかし世の常の者は、客の夕食が
届くのを待ってから食べるものであるが、その礼儀もないというのは、宗把の心強く大胆な仕方であった。

すなわち、侘数奇は心強く大胆でなければ、道具をはじめ全てが不如意であるのだから、世に名高い人と
交われば、心劣りして肩身が狭く、自然と茶湯が嫌になるものである。だからこそ胸の覚悟が第一なのだ。

(長闇堂記)



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 18:53:26.82 ID:yQhGIf45
利休といい山上宗二といいこの男といい

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 19:01:49.07 ID:BdRJQ6Cs
傲岸不遜じゃないと茶人にはなれないのか?

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 20:08:14.03 ID:lKAqgCGR
誰に批判されても我が道を行けとな
文化系の人っぽいよね

303 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/31(水) 18:03:12.30 ID:HDK0hrXm
道クソ

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/03(土) 00:38:46.97 ID:XZbNzS3v
現代茶道だと礼儀というか、もてなしというか、要は心配りが重視されるが、茶の湯の創成期
ではその辺のニュアンスが異なるのかな。
そもそも、どちらが茶に造詣が深いか競う「闘茶」が起源だし、茶室での亭主と客の立場も
いわゆるホストとゲストじゃなくライバル同士の勝負、数寄振りを競う場みたいな感じだっ
たのかと思う。

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/03(土) 09:47:37.53 ID:1GDfPUqH
>>304
あーそれなら納得できる

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/03(土) 09:48:37.36 ID:1GDfPUqH
そうでないと変人と言うか嫌なやつばかりになてしま

山上宗二は顔つきが悪く、口も悪く

2019年07月28日 15:22

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 11:58:49.11 ID:81YcgESZ
山上宗二は薩摩屋ともいい、堺の上手であり、物知りとしても超えるものが居ない人であったが、
なんとも顔つきが悪く、口も悪く、人に憎まれていた。
小田原御陣の時、秀吉公にさえも御耳に触るような事を言い、その罪として耳と鼻が削がれた。

彼の子は道七といい、故太政大臣様(徳川家康)の茶堂として御奉公をしていたが、父譲りの
短気な口悪者で、上様が風炉の灰をされたのを見て、それを突き崩してやり直したため、改易と
された。彼は牢人して藤堂和泉守(高虎)殿が伊予に在国されていた折に伊予へ下り、その事についての
申し開きをした。私(久保長闇堂)も居合わせて一冬話したことがある。

(長闇堂記)



茶湯が改まった

2019年07月27日 19:29

千利休   
120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/27(土) 02:52:16.36 ID:heGmLc+j
千宗易は秀吉公の師であり、かつその才知が世に優れた人であったため、天下すべての人がその教えを
学び、後には利休居士と申された。
彼の影響に寄って昔の名物はみな蔵に仕舞わ使われなくなり、茶湯が改まった。

昔の炉は一尺八寸か六寸だったのを、一尺四寸(約42センチ)に直し、縁一寸一分、土壇一寸一分、
土壇の内九寸八分にして、九寸(約27センチ)の釜と定められた。この時、有馬の湯元に有った
阿弥陀堂の釜を求められた。その写しが「阿弥陀堂」の名で世に流行した、
釜を釣る鎖、自在も廃り、五徳据えとなった。

茶道具では今焼茶碗(利休が長次郎に焼かせた楽茶碗)、棗の大中小があり、清甫という塗師が作った。
当地奈良の林小路に住む与次という塗師は、中次の薄茶器で天下一であった。

墨蹟には古渓和尚、すなわち利休の参禅の師のものが好まれた。掛物は幅が広いものは立派すぎるので、
一尺二、三寸の幅となった。大文字も二行書きだと、一旦見下ろしてからまた見上げることに成って
良くないため、一行物が流行した。表具も光り輝くのは仏画のようであると、みな紙表具、あるいは
北絹(黄繭から取られた糸で織った中国製の絹)で表具するようになった。

利休は万事手軽く、寂びたものを基本とされた。世間の侘びに配慮し、また道具を持たなくても
誰であっても茶湯が出来ることを示して、人々を道に赴かせようとしたのだ、とも言われる。

その他、茶壺の口覆は昔は角切らずで、口の緒も長かったのだが、利休は角丸く、口の緒を短くした。
茶入袋の緒も、長緒で紅色の唐糸であったのを、現在のように緒の短い、打留一つの練繰糸にされた。

茶箱も利休が初めて作ったものである。桐の角丸面とし、錆(砥の粉を水練りして生漆に混ぜたもの)を
つけないで上塗りを黒くして、木目が見えるようにした。蓋の覆いは薄渋の紙にして、片仮名で
「旅の茶の具」
と書き付けてあった。

(長闇堂記)



121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/27(土) 21:15:23.74 ID:wLngnx7E
自在ってすごいネーミングセンスだよな

世の中すべての床天井は高くなった

2019年07月25日 16:25

千利休   
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 13:59:39.80 ID:CM8ckPJ8
芝山監物は秀吉公の御伽衆であった。
住吉にある一休禅師の寺の方丈に『初祖菩提達磨大師』という一休の墨跡が残されており、
これを佐久間甚九郎が購入し、芝山へと差し上げた。
すると千利休が、これが村田珠光の表具である事に気がつき
「珠光以外の誰がこのような表具を出来るでしょうか。さてもさても。」と絶賛した。
村田珠光は一休に参禅していたと言われる。

ところがこれは非常に長い掛物だったため、床に掛けることが出来なかった。
芝山監物蒲生氏郷と細川三斎(忠興)に、「利休に表具のことを頼みたいので、仲介をお願いしたい。」
と頼んだ。

ある時、利休、氏郷、三斎の三人を、芝山監物が茶会に呼んだ。この時あの墨跡を、床天井の前に、
上を巻ため、弱竹で角を押し入れて掛け、下の方も巻きためて置いた。
そして芝山は「この掛物を床に掛かるようにして頂きたい。」と利休に頼んだ。

しかし利休は「これに誰が手を入れることが出来るでしょうか。」と同意しなかった。

これに芝山は憤り
「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。竹で押し入れているので、
毎回壁も傷み、どうしても掛けられないのです。」と訴えた。
相客の氏郷、三斎も「あれほど望まれているのですから、お直し下さい。」と言った。

だがこれに
「それはどういう事でしょうか。良いものを悪くする事を私は致しません。どうしてもそうしたいのであれば、
あなた方がなされば良い!」と、利休は散々に叱りつけ、不機嫌になられた。

「珠光のされたことを決して変えてはならないのだ。であるから、床の天井を高くして掛けられよ。」
そう利休は言った。

この事が有ってから、世の中すべての床天井は高くなった。利休の功績である。確かに文字は
高く掛けたほうが見事である。寺の山門の額も、上に打ってこそ見事であるからだ。

この掛物は今は将軍様の元にある。『天下一の一休』とはこれの事である。

(三斎伝書)



119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 23:51:50.50 ID:amHD0ylJ
>>112
>「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。

鮭様「一体ナニ光なんだ」

千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。

2019年07月24日 16:34

千利休   
109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 01:50:46.96 ID:OySZ559h
千利休がまだ与四郎と名乗っていた頃、武野紹鴎の茶会に参加することを望んでいたが、ずっと
呼ばれることはなかった。与四郎は袴と肩衣をその時のためだけに用意したのだが、駄目であった。

武野紹鴎が四畳半の茶室を作った時、堺の南北の誰もが、その座敷開きに呼ばれることを心待ちに
していたが、誰も呼ばれること無く、だた「千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。」との使いが有った。

これに与四郎は「忝ない事ですが、明日は伺えません、明後日に参ります。」と返答した。
紹鴎は「それでは明後日お出で下さい。」と応じた。

与四郎は直ぐに夜通しで褊綴( 法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを
折衷して、十徳のように製した衣。)を取りに遣わし、僧体になって紹鴎の元に赴いた。
これに紹鴎は「さても、さとも」と感心されたという。

この時に名を『宗易』としたのだという。

(三斎伝書)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 12:02:48.51 ID:0lxTEov8
紹鴎すごいんやな

三ヶ所手が違った

2019年07月23日 15:51

千利休   
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 01:23:47.89 ID:3NtwR41t
織田信長殿には、天王寺屋宗及が台子の茶湯をお教えした。
ところがこの宗及の茶湯を宗易(利休)が批判をしたとの噂が耳に入られ、信長殿は宗易を召して
台子で茶を点てさせた。

信長殿は立ちながら宗易が茶を点てる様子をご覧になり、「三ヶ所(宗及のやり方と)手が違った。」と
仰せになった。
宗易はこれに「その事でございますが、このように致しますと手間が入って悪くございます。また
こうすると手がねじれます。」と、一ヶ所につき三つほどの理由を申し上げた。

この事が有ってから、宗易の名が天下に上がったという。

(三斎伝書)



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 14:14:37.91 ID:wFZ44Ll2
マナー講師の戦いみたいだ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/23(火) 15:31:01.11 ID:3VAbEL3P
信長は合理主義だから無駄が嫌い
でも一見無駄と思えることに意味を持たせるのが侘び寂びでもあるんだよね
そういうのは信長に教えずに秀吉にしたり顔で教えた

千利休の切腹と石灯籠

2019年07月21日 16:59

千利休   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 01:13:32.35 ID:tvy6NoWG
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、

切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。

そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。

しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。

利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。

利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。

(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)

(三斎伝書)



104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね

千利休の身上が相果てた理由について

2019年07月19日 14:58

千利休   
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 00:03:31.80 ID:0NM0kJP3
千利休の身上が相果てた理由についての事である。木下祐桂(秀吉の右筆とも言われる。不明)が
秀吉公に逆らって浪人したことが有ったが、その時知人であったにも係わらず、利休が見舞いの人を
遣わさなかったことに祐桂は非常に腹を立てた。

その後秀吉公に許されたため、その祝いに利休が祐桂の元を訪ねた所、祐桂は
「利休などという人は知らない。」と言って取り合わなかった。このため互いにひどく腹を立てたが、
表向きは仲直りをした。

ところが、秀吉公が祐桂に「この頃何か珍しいことはないか」とお尋ねになった時、祐桂は
利休の娘のことを申し上げた。「それでは」と秀吉公は祐桂を御上使として利休の内儀の元に
(娘を秀吉の側に上げるよ)2度も遣わしたが、内儀は「利休へ申されないのでは困ります。」と
同意しなかった。そして利休はこれを聞くと「とても納得できません」と申し上げた。
祐桂はいよいよ利休に対して腹を立て、秀吉公に報告した。

その頃、前田玄以も秀吉公に対して利休を散々に言った。これらによって、切腹となったのである。
前田玄以は胴高という茶入を取り出して、肩衝と言って利休に見せた所、全く返事すら無かったことを
恨んでいたのだ。

後にこの胴高の茶入は池田三左衛門殿(輝政)が所持し、今は備前の宮内殿の元にある。
習いが有って、胴高というのは茶入の中でも特別なものであり、習いが有れば見分けやすいものなのであるが。
(玄以はその心得がなかったのである)

(三斎伝書)




282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:19:20.92 ID:KpYWaZEK
>>279
心得がないなら教えてあげればいいのに
思い上がってる奴を擁護するのは取り巻きだけ
まるで何処かの芸人のようだ

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:42:58.45 ID:1RTOYgSs
>>282
そして、偉い人の庇護のもとででかい顔。偉い人から嫌われたらその瞬間に終了。
今の芸人と完全に一緒。

ただし一ヶ所、下手な部分が

2019年07月16日 15:51

千利休   
90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 21:11:40.97 ID:Utl8jJEh
当時、北京大仏(方広寺)の小屋場で茶会が盛んに行われていた。
ある時、天王寺屋宗及が「利休と三斎公(細川忠興)の両人へ御茶を差し上げたい。」と言われた。
この時、利休は聚楽の屋敷に居り、三斎公が「泊りがけで私の小屋へ今晩御出下さい。」と
申した所、「そういたしましょう」と同意された、「それでは先に参り掃除を致します。」と言って
三斎公は帰られた。

早くも五つ時分(午後八時頃)に利休は三斎公の小屋へ御出になり、そのまま雑談をされた。
夜に入り大雪となったが、利休は九つ時分(深夜0時頃)に、「もう参りましょう」と出かけられた。
この時三斎公はそっと人を宗及の所に遣わしてこれを知らせたが、宗及の方も予期しており、既に
露地口を開けて迎えに出ていた。そこから灯籠の火が見えた。夜なので手水柄杓は置かれていなかった。
雪の掃除は難しいものだが、この時は習いの通りの見事なものであった。

席入すると、床の中央に千鳥の香炉が盆にのせず置かれ、また床の勝手の方には堆朱の香合があった。
客が席入してから、宗及は香炉を下ろした。この上げ下ろしには習いが有る。
宗及が香を焚くと、利休はその香銘を尋ねた。宗及は「月」と答えた。
続いて利休が香を継ぎ、宗及が同様に香銘を尋ねた所、利休は「もちろん東大寺(蘭奢待)です。」
と答えた。

さて、利休が香炉を床へ上げるよう宗及に言った所、宗及は「私が下ろしましたので、利休様が
お上げ下さい。」と申したため、「それでは」と利休が上げた。
それから炉中を直し、この茶会は宗及一代の上出来の数寄となった。

帰りに三斎公は自分の乗物に利休を乗せ、自分は乗物の脇を歩いた。
利休は「今日は宗及一世の上出来の数寄でした。ただし一ヶ所、下手な部分がありました。
見つけられましたか?」と言われたが、三斎公はそれが解らなかった。
利休は言った
「月の香を焚いたのがいけません。月に雪という発想は平凡で悪い。よって東大寺の香を
焚かねばならないと思い、私は東大寺を継いだのです。」

三斎公が乗物から降りて利休を乗せ、自身はその乗物に付いて歩かれるのは毎度のことであった。
その朝は大雪であったので、宗及は手洗鉢へ水を入れず、くぐりの前に手付きの水、次に湯を入れ、
新しい盥を添え置いてあったとの事である。

(三斎伝書)

信長の蘭奢待切り取りの時に利休も分け与えられたとは有ったけれど、それを茶会に使っていたのですね。



95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:34:25.20 ID:Krpjzwco
利休は性格悪いエピソードしかないのな

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:40:11.71 ID:A8uhVPMk
商人ですからなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 22:29:05.32 ID:5gA42Ipr
切腹言われても仕方ないわけですね

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:26:28.35 ID:z7/Ij/C3
利休と芭蕉は食えないからなw

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:22:51.24 ID:KpYWaZEK
芭蕉の利休煮か

花入はご覧になりましたか

2019年07月12日 16:48

千利休   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:02:31.24 ID:BhNSOonv
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 05:26:24.74 ID:FVr7QC+1
>>83
わびってるなあ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 08:12:56.70 ID:kTIihdCu
>>83
深すぎてわかんねーw

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:50:52.94 ID:YjWTGmPq
わびさび俺には無理だと分かった

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 04:25:07.42 ID:9odMhzGb
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 10:07:51.99 ID:wf+p/I6R
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては

2019年07月05日 17:14

千利休   
62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 20:41:57.31 ID:/ZtdOmxc
千利休は本住坊が参られる度に、茶室で茶を点てた。本住坊が恐縮して「毎回このように
されては、何とも参りにくく成る。」と言った所、利休は

「その事です。関東や筑紫から望んで来るような人であれば、わたしがどのようにした所で、
『このようにするのか』と思うだけであり、また見ても解りはしないでしょう。しかしあなたのような
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては、私の茶の湯ができなくなります。」
そう答えたという。

道に長じた人の心持ちとは、そのようなものなのだろう。

(長闇堂記)



台子は道の秘伝であり

2019年06月29日 17:48

千道安   
49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 20:24:43.65 ID:DTOY7Kmh
大阪にて、秀吉公が桑山法印(桑山重晴)の屋敷へ御成になった時、千道安(利休実子)が来て台子飾りを準備した。

ここに薩摩屋道七(山上宗二の息子、山上道七)が挨拶に来て、その台子を見ると
「何者がこんあ無知なことをしたのだ」
と散々に言って、直ぐに飾り直した。

この時道安は次の間に居て、道七の言っていることを聞き、他の歴々の人々も聞き、いかにも
可笑しかったのだが、道安はまるで聞こえていない様子でそのままにしていた。

この座に松倉豊後守(重政)が居られ、後で私(久保長闇堂)に話された。
その時は豊後守殿も道七の飾り方が尤もだと思われたそうだが、その仕方を知る人に密かに
尋ねた所、道七の仕方は古風で、利休、道安の仕方は当世風であったとの事で、彼は
「台子は道の秘伝であり、道安はそれを道七に知らせまいとしたのだ、たいへん用心深いことだ。」
といった。

その時は右構え(現在の逆勝手)だったという。

(長闇堂記)



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 23:02:09.85 ID:A8ks1j2U
くだらねぇ

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 12:59:59.99 ID:bqTSCWea
たしか古今著聞集で
ある貴族が儀式の際、言葉に詰まったような感じになって
皆が「おや儀式をしくじったのかな?」と思ったところ
儀式後、その貴族がひとり残っているところにある有職故実に詳しい貴族が駆け寄ってきて
「秘伝、誰にも漏らしてはなりませんよ」
と言ったとかいう話を思い出した

数寄に親も子もない

2019年06月25日 15:45

千利休   
192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 20:14:25.64 ID:WVVwlE18
千少庵千利休の養子で娘婿。千宗旦の父)が小座敷に突上げ窓を二つ明けた。利休はこれを見て
「ありえないことだ。燕が羽を広げたようで見られたものではない。塞ぐように。」と言ったため、
少庵はその日のうちにこれを塞いだ。利休に見せると「これでよい」と答えた。

ところが後日、利休の小座敷に、少庵のものと同じように突き上げ窓が二つ明けてあった。
「これはどういうわけですか」と少庵が尋ねると、利休は言った
「数寄に親も子もない。私が二つ明けるために塞がせたのだ。」

(茶道四祖伝書)

えぐいな利休



193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:38:11.01 ID:XDrCfgpn
>>192
ジョブスの逸話思い出したわw

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 11:15:08.85 ID:COqvQzwm
利休はとある茶師を大抜擢していまも続いてるブランドに押し上げたけど、そこにも裏話があったりするのかな?

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:29:17.61 ID:H/k4ezxE
あそこは当主の弟上林竹庵が伏見籠城に参加討死して
幕府の庇護も得たのも大きいんじゃないの

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:35:41.04 ID:93p5wq77
利休は唐物至上主義の海外厨だしな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:36:17.61 ID:6D0v9SUX
>>192
こういう奴だから切腹させられるハメになったのかもな

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ

2019年06月22日 15:05

千利休   
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 00:16:16.65 ID:5DKbWtYD
利休が法華寺で「喉が渇いているので茶がほしい」と所望された所、新発意(小僧)が大服(量が多い)に
茶をぬるく点てて出した。「非常に良かった、もう一服」と利休が再び所望すると、今度は前より少し熱く、
少し小服にして出した。するとさらに「いま一服」と所望されると、小僧は熱く小服にして出した。

利休は感心して「さてさて、気の利く人だ。彼を私に遣わして下さい、数寄を教えたい。」と言った。
そして点前そのものよりも、心を数寄にすることが肝要だと言って召し使った。
この小僧がのちの、京の喜斎(土屋喜斎)である。

(茶道四祖伝書)

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 01:01:16.28 ID:RmuGq9nn
何たる小賢しさ。十五か十六でこんな小細工を弄する奴は
何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 08:22:16.90 ID:h6DMzvzQ
>>34
近い時代に元ネタあったんだな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 09:08:18.69 ID:5DKbWtYD
>>36
出てくる人間の時代は近いけど、三成の三献茶の逸話の初出が1716年の『武将感状記』なので、
お話として改変されたのは『茶道四祖伝書』が出てから7,80年後だな。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 10:18:49.11 ID:0AogUSfh
昔の人って平気でパクるよね

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:07:31.24 ID:696jtPWY
まあ、その辺もいい加減だったというかOKな時代なんかな
そもそも読んでる人も限られてるだろうし

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:28:38.53 ID:Hb5MJrxT
>>35
十五歳は成人だぞ

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:38:59.74 ID:5DKbWtYD
>>40
>>35は昔光栄が出した『信長の野望覇王伝・武将FILE』の石田三成評の一部。ぼろっくそで有名

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:10:14.52 ID:Hb5MJrxT
>>41
(TT)

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:25:31.08 ID:h6DMzvzQ
>>37
そんなに時代空いてたんだ、当時なら誰にもバレなかったろうなぁ
むしろそんな前の時代のネタよく引っ張ったもんだ

話す人より聞く人が上手なり

2019年05月27日 17:22

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/27(月) 15:10:50.47 ID:Km2bEaaa
『煙霞綺談』に云う。ある時秀吉公、諸侯に曰く
「北条時頼は、その身天下の執権であったが、身分を隠して行脚し、諸州を周流して、民の愁鬱を救ったと
言われている。人は一代名は末代であれば、私もまた時頼の先例を追って諸国を巡回せん」

この言葉に、居並ぶ諸将は皆、秀吉の意に違うことを恐れて答える者無かった。
前田玄以だけは「この北条時頼の故事が実際にあったことかどうかは確かでありません。
また殊更に君は大名であります。いかような狡猾者があって変が起こるかも知れません。
この義は御遠慮あって然るべきです。」と言上した。しかし秀吉は「日本は我が掌握にある。何ぞ我に
敵する者あらんや」とまるで取り合わなかった。

一両日過ぎ、泉州堺の鞘師に杉本彦右衛門という者があったが、彼は滑稽な軽口ばなしの上手にて、
秀頼の御意に入り、常に召されていた。そのころ病気をしていて、久しく参らなかったのだが、この日
登城し秀吉公に謁した。
公が「何か珍しいことは無いか」と尋ねられると、彦右衛門
「この間、祈願のことがあって、河内福王山光の滝の不動尊に参拝いたしました。そこはかねて承って
いたよりもずっと大きな飛泉であったので、暫く驚いていた所、飛泉の脇より丈二丈(約6メートル)
ばかりの悪鬼が現れ、指で私をつまみ取って引き裂いて喰らおうとしました。

その時それがしはこの鬼に向って『どうしてあなたに逆らいましょうか、ですが私は生来奇怪なことを見るのを
好みます。今、あなたの大なる姿を見たれば死すとも本懐です。されども今一度、他の姿に変じて見せて
下さい。その上で、どうぞあなたの心に任せて下さい。』と言った所、かの鬼は『尤もなり』とたちまち
消え失せ、小さな梅干しと化して我が前に来ました。私はこれを取り、噛み砕き飲み込んだため、鬼も
居なく成り虎口を脱して帰宅いたしました。」
これを聞いた秀吉の御近習衆はみな大笑いし、大いなる虚言であると嘲り退出した。

翌日、秀吉公は諸将に向って尋ねた
「昨日の、彦右衛門の荒唐な話をどう聞いたか?」
誰も答える者なかった。そこで公は言った
「あ奴は行脚の事を止めようと諫諍をしたのだ。彼が言うように、現在私の威勢は恐るべきものも無く、
彼の言った二丈の鬼のようなものだ。然れども軽侠の身と成っては、取って食われることも有るだろう。
尤もな事だ。これにより、修行の事は止める。」とありこの事中止となった。
諸将はこれを、「話す人より聞く人が上手なり」と評したという。

この彦右衛門、後に坂内宗捨と号した。彼の制作する鞘は大変具合がよく、刀身をおさめる時”そろり”と
合う故に、『曽呂利』と自負した。また彼は能書であり、香道の達人でもあった。
彼が死去する間際、病気尋問として秀吉公より上使が送られた。上使がその家に入っても彼は対応せず、
臥ながら合掌して
「大病にして落命旦夕にあり。片便宜にて候へども、冥土に御用あらば仰せ付けられますようにと、
仰せ上げて下され候。」
そう言って果てた。「今際の時まで軽口を申したか。」と、秀吉公は落涙したという。(校書余録)

(甲子夜話)



946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/27(月) 19:25:50.54 ID:ihKdjnW6
>>945
両方かっこいい…

道三はその時すでに耳が遠く

2019年05月21日 14:16

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 21:02:18.44 ID:0sKb7zBq
老人(江村専斎)が幼い時、延寿院玄朔(曲直瀬玄朔)はすでに壮年で、故道三(曲直瀬道三)の
世嗣として、洛中医師の上首であった。人々は玄朔を敬慕した。故道三はその時すでに耳が遠く、
療治も絶え絶えとなり隠居した故である。

玄朔の療治は盛んに流行って方々から招待された。その時は肩輿という物もなくて、大きな朱傘を
差し掛けさせて高木履で杖をつき、何処へも歩いて行った。人々が羨むことであったという。

――『老人雑話』