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「板倉殿は戦死するでしょう」

2020年09月16日 18:37

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 21:59:08.82 ID:ELV/ZHul
島原の乱の際、反乱鎮圧のために板倉重昌が出向くことになった。
この時、囲碁棋士の安井算哲
「板倉殿は戦死するでしょう」と予言した。
その後、板倉重昌の戦死の報が届き、人々が予言的中の理由を尋ねたところ算哲は
「このたびの一揆は宗門に関することです。
一向一揆を見ても分かりますように人々は宗門については妥協を許さず命を賭して戦います。
しかし板倉殿は普通の一揆と思って出陣しておりました。
この心懸けでは一揆勢を甘く見るだろうと懸念したのでそう申し上げたのです」
算哲の明察の評判は江戸中に知れ渡ったとのことである。
なお、同じ安井算哲で「初手で天元(碁盤の真ん中)に打てば必勝である!」
と豪語して見事に本因坊道策に負け越した人物(渋川春海)がいるが、それはこの安井算哲の息子である。



539 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/15(火) 22:08:40.14 ID:TIWU7cjA
苛政が要因じゃなく宗教が理由だからと言ってるのね
実際苛政が原因じゃないんだっけ?

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 22:22:38.16 ID:ELV/ZHul
いったん転んだけど飢饉や苛政とかでこれは天主の罰だ!とキリシタンに立ち戻った人々が非キリシタンも巻き込んで籠城したようで
幕府軍が「苛政が原因であるなら藩主たちは処分するから降伏してくれ」
と矢文で告げても
「われわれは幕府や藩主に不満を持ったのではない。キリシタンとして後生のために戦うのだ」
と返しているから、きっかけはともかく籠城の首謀者にとっては宗門のためではないかと。

541 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/15(火) 22:33:09.80 ID:TIWU7cjA
>>540
詳細ありがとうございます
きっかけこそ苛政や飢饉の可能性が高いけど、首謀者たちは宗教で覚悟完了した感じなんですね

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 01:33:53.50 ID:ROcezHiE
>>540
一気税根絶やしにしたあと、藩主一族をきっちり処分した幕府は律儀かもしれない。

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 13:06:20.40 ID:Ej4q/9if
松倉家は二代に渡って島原で苛斂誅求やって反乱起こされたからな
藩主として無能すぎる、幕府としても社会不安を鎮めるためには処罰しかない
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此の方の宛名は何と書いた

2017年03月13日 09:35

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 21:11:39.63 ID:Ss9DL0Db
慶長19年、大阪冬の陣和睦の際、大阪城からは木村長門守重成を以て、神盟の御判元拝見に
さし寄越された。木村は家康の御座近くに参るための支度はしていたが、彼の気色が怪しいため、
家康側近くの者達は、彼を遠ざけ置いた。

この時、大阪城へも豊臣秀頼の判元を確認するため、幕府より使者が遣わされたが、人々は
「きっと侍大将の中から選ばれるだろう」と噂していた所、『若者のうちより、分別があって
事がもし破れたときに一己の働きのできる忠士』として、板倉内膳正重昌が選ばれた。

家康は重昌を召すと「和睦の誓紙を見て参れ」と命じた。
板倉重昌はこの時18歳。近習として召し使われ、心やすく思っている者であったので遣わされる、
との事であった。
大阪においては「関東勇功の老臣が派遣されるであろう」り心支度していたものの、それは相違した。

さて、板倉重昌は秀頼の御前に出て、御判をされる時、座を立ってその膝元に寄り、左右を顧みて
申し上げた

「右丞相(秀頼)の御器量、関東にて承り及ぶよりも、ことに勇々しく見奉りました。
関東にては秀頼功の御膝が、扇子丈ほどもあると承り伝えられているばかりであります。
このような機会に拝し奉り、関東への土産としたいと思います。」

そう言うと腰の扇子を抜いて座を立ち、膝を計ろうとするふりをして、御判元をしっかりと確認した。

その後秀頼より、「宛名は何処にすべきか」と尋ねられた。重昌は
「その事について特別に仰せ付けられてはおりませんが、関東・大阪御和睦の儀にて候へば、
現代の将軍である秀忠公に宛てるべきでしょう。」と申し上げた。このため宛名は
『江戸将軍へ』と書かれた。

この頃徳川家康は「内膳正に第一に言っておくべきことを忘れていた!」と、大変気にしている様子だったので、
人々は「一体何事だろう」と心配していた所、重昌は程なく帰ってきた。この報告を受けると
家康は御次の間まで出てきて

「どうであった内膳、判元を見て参ったか。
実は第一に申し付けるべきことを忘れていた。此の方の宛名は何と書いた?」

重昌畏まって
「その段、仰せ付けは承りませんでしたが、関東・大阪御和睦でありますから、新将軍家へと
望みました。」

そう申し上げると、家康は甚だ御機嫌にて「でかしたり!でかしたり!」と、大いに喜び、
また全体の首尾が報告されると、一入感じ入ったとか。

(武野燭談)


人にとっては、一言であっても

2017年03月07日 21:37

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 00:36:04.14 ID:sUTcU+gp
寛永14年、肥前島原にて切支丹宗門の一揆が起こった時。江戸より総軍令を遣わされることと成り、
将軍家光のお側に伺候していた板倉内膳正重昌が選ばれた。
ところが、その頃内膳正は病を患っており、老臣以下このことを聞くと

「別にこの役儀に相応しい器量のものを選ばれ、内膳正は御免あるべきではないだろうか。」

そう内々に相談し、何れも尤もであると賛同し、この趣を将軍家に申し上げることに定まった。
そこで大老である酒井讃岐守忠勝まで話を上げると、忠勝は聞くやいなや

「あなた方は内膳正という人間を解っていない。彼がこの度の御使を承りながら、病気のため
御免となったと仰せになれば、忝しとはよもや思わないだろう。
殊に、別人に代わりの軍監を仰せ付けられたと承れば、忽ち自害するような人物である。
ただそのままに、島原に遣わされるべきである。
仮に道中にて病死したなら、その時こそ代わりの人を使わさせるべきだ。」


「そのような事になれば、何かと日数を経る内に、一揆の蜂起はますます広がって
しまうのではないだろうか?そのことをどう思われるのか?」

この反論に讃岐守は笑って
「あれは土民の一気に過ぎない。一体誰が彼らに味方するというのだろう。
もしまた、この混乱を幸いに、幕府に対して反抗の色を立てる者が居れば、それこそ
我々にとって良き対応を試みる、良い機会となるだろう。
尚以て、板倉こそ遣わされるべきだ。」

内膳はこのことを聞き伝え、大いに喜んで早速準備をし、嫡子である後の内膳正重矩、
当時16歳であったのを同行させ、命を受けた即日出陣した。


しかしその冬の軍は思いの外手間取り、その事は将軍家まで聞き及び、重ねて松平伊豆守信綱を
差し向けられるべしとの事となった。

これを大久保彦左衛門忠教が聞いて、心易い同輩にこう囁いた
「あたら内膳正は討ち死にするだろう。不憫な事だ。」

彦左衛門察しの如く、松平伊豆守が発向したとの情報を聞くと同時に、板倉内膳正は一揆に猛攻を
仕掛け、深入りして討ち死にをし、息子重矩も深手を負った。

内膳正はこの日を討ち死にと覚悟し、出立の時、息子重矩に向かい
「私は今回、酒井讃州の一言によって、忝なくも総軍の支配を承った。
お前は相構えて、讃岐守の子孫に対し、無沙汰をしてはならない。」

そう重矩に、くれぐれもと言い含め打ち出たのだという。
人にとっては、一言であっても大事になる事もあるのだ。

(武野燭談)