“地ずりの晴眼”

2016年10月26日 10:11

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/26(水) 02:31:41.89 ID:kweATJqC
東国で1人の浪人が“地ずりの晴眼”という太刀を覚え、「これに勝てる者はおるまい」
と思い、伊藤一刀斎に会って、

「この地ずりの晴眼の止め様でもありましたら、御相伝くだされ」と、望んだ。一刀斎は
「なるほど、伝えよう」と請け合いながらも、それを伝えずにまた他国へ行こうとした。

浪人は心に、「一刀斎でもこの太刀を止めることができないからだ」と思って、彼の
途次に出向かい、「日頃望んだ地ずりの晴眼の止め様を御伝授されないとは、遺恨
である。只今、御相伝くだされるべし!」と、言うままに、

刀を抜いてかの地ずりの晴眼で、するすると一刀斎に仕掛けた。その時、一刀斎が
抜き打ちに切ったと見えると、かの浪人は2つになって倒れ伏した。

世間はこれを、「地ずりの晴眼の止め様を伝授したのに、そのまま息絶えてしまって
残念である。これを“真金江の土産(冥土の土産)”とでも言うべきだろう」と評し合った。

一刀斎一代の行跡には、このような事なども多かったという。

――『撃剣叢談』




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古観世大夫の堪能

2016年08月29日 17:08

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:32:04.64 ID:1ZZownvI
観世大夫の堪能

ある宴の中である人が話した。

猷廟(家光)の御時の事である。
観世大夫は猿楽に堪能であった。
そこで、猷廟は柳生但馬守(宗矩)に仰せられた。

「観世の所作を見よ。もし彼が心に隙間があり、”斬るならここだ”と思ったら申せ」

但州はかしこまって所作を見届けた。上意で

「いかがであったか」

と問われると、但州が答えた。

「始めから心をこめていましたが少しも斬るべき瞬間はありませんでした。
しかし舞の中で、大臣が柱の方で方向を変えましたとき少し隙間がありました。
あの所でなら斬り遂げることができましょう。」


 観世が楽屋に入って

「今日見物の中に一人、我が所作をじっと見ていた男がいた。何者か」

と言う。傍らから、

「あれこそ名高い柳生殿よ、剣術の達人である。」

と言うのを聞いて観世は

「だから我が所作を目を離さずじっと観ておられたのか。
舞の中で方向を変えた所で少し気を抜いていると、にっこりと笑われので、
理解できないことだと思っていたが、やはり剣術の達人であられたか。」

と言った。

後に猷廟がこれを聞かれて、御感悦されたという。

(甲子夜話)

そういえば、宗矩は能が好きだという話でしたね



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:33:46.64 ID:d+dwh2jF
>>128
こういう逸話好きだ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 18:13:49.13 ID:5iFImsmR
似たような話が江戸時代にもあるな
渋川流柔術二代目の渋川胤親が初代市川團十郎の歌舞伎を見て
「團十郎の立ち回りの動きは素晴らしい、あの動きなら私でも組み伏せることはできないだろう」
と言ったため、市川團十郎の評判がますます高まった。
しかし元禄17年2月19日、市川團十郎は舞台の上で役者の生島半六により刺殺。
「市川團十郎の動きには隙がないのではなかったのか?」
と尋ねられた渋川胤親は
「役者が隙のない動きを見せると言ってもそれは立ち回りの際の一瞬のことにすぎない
われわれ武道家はそれを絶えず行わなければならないからわれわれの価値があるのだ」
と言ったとかなんとか




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 14:56:02.26 ID:CL0LzVRD
>>128
柳生一族の能好きは宗矩に限ったことではない
柳生一門で武術修業した兄弟弟子に能のプロ金春流宗家金春七郎氏勝がいる
おそらくはこの七郎が、柳生一門の宗矩と同世代の中では、エースだった
柳生兵庫助は、自分の門下で目を惹く才能を感じた逸材に対して「七郎の再来」と期待を寄せたほど

宗矩にとってはかつて身近に能のプロがいて(過去形なのは、七郎は早逝したため)、
なおかつそれが武術の達人であったため、
能の武術的な動きに対する評価は非常に辛いものだと考えられる
そんな宗矩から合格点を出されたと解釈できる

小野次郎右衛門遠流の事附御免にて召し帰られし事

2016年07月30日 14:18

13 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 06:17:50.15 ID:n3UleyDq
小野次郎右衛門遠流の事附御免にて召し帰られし事

 世に愚かな者がいた。両国の辺りに看板を出し、
「剣術無双の者なり。誰でも真剣で立ち向かってこい。
たとえ切り殺されても厭わない。」
とのことを記した。

 都鄙から夥しい見物人が来て、
彼を切ることができず木刀でやっつけられた者は門弟となり、
もっぱらの評判となった。

 次郎右衛門がこれを聞き及んで、

「かのようないかがわしい者を天下の御膝元に置く事ふがいなし。」

と門弟を引き連れて見物に行った。
桟敷でかのいかがわしい者のなせる業を見て門弟一同は微笑していたのを、
かの者が聞いて大いに怒り、
「どうして笑いなさるか!
すでに看板を出しておるように、誰でもあれ真剣で試合しようと言っている。
笑いなさるのならば、ぜひ立ち合ってくだされ。」

と罵ると、傍輩の者が

「あの桟敷にいるのは、将軍家の御師範次郎右衛門です。」

と押し留めたが、全く聞き入れなかった。

「たとえ御師範であろうとも」

と申し止らなかったので、次郎右衛門も嘲られては武備の恥辱と、やむを得ず下へ降りて

「しかる上は立ち合おう」

と、鉄扇で立ち向かわれた。
かの者は正眼にかまえただ一討ちと切りつけたので、あわやと思われたが
いかがわしき者の眉間は鉄扇で打ち砕かれ、二言なく果てたという。

この話を大猷院様(家光)が御聞きになられ、
「師範たる者の行状ではない。」
と遠流を仰せ付けられたとか。

14 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 06:18:12.16 ID:n3UleyDq
 その後のことである。流された先の島では畑の瓜・西瓜を盗み食う曲者がおり、
捕らえようと島中の者が集まっていた。
しかし、盗人は大勢に手を負わせ、瓜小屋に籠り、小屋の周りに西瓜・瓜の皮を並べて、
捕り手の者が込み入っても瓜の皮を踏んでしまい身体が自由にならず、
多人数が死傷を負ってしまった。

次郎右衛門の元へ島の者どもが来て、

「なにとぞ捕らえてください」

と嘆くので、次郎右衛門は粗忽にも軽々しく脇差をおっ取り駆け行った。

「瓜の皮で足場がよろしくありません。」

と傍らから申してきたが、耳にもかけず駆け行き、やはり瓜の皮を踏んで仰向けに倒れてしまった。
待ち受けていた曲者は拝み打ちで打ちかけたが、
小野派の神妙といわれる太刀筋で、滑りながら脇差を抜き払って、上へ払うと
曲者の両腕ははたと落ち、すぐに召し捕らえられたという。

この趣が江戸にも伝わり、召し帰され、即時に元の禄を下されたという。

さて、次郎右衛門が召し出された時、、
「彼は遠流でしばらく剣術の修行を怠っているだろう。
我は日夜修行してきたので、立ち合って成果をみせてやろう」
と、大猷院様の思し召し、毛氈を敷いて、木刀を組み合わせて
「いざ、次郎右衛門、立ち合え」
との上意をされた。

次郎右衛門は謹んで毛氈の端に手をついて居た。
ただ一打ちにしてやろうと御振り上げ御声をかけられた時、
毛氈の端を取り、後ろへ引いたので、後ろへ御転びになられたという。
よって、大猷院様は御信仰なされ、一刀流を御修行なされたという。
(耳袋)




15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/30(土) 12:28:58.10 ID:v3P/mw3I
>「瓜の皮で足場がよろしくありません。」
>と傍らから申してきたが、耳にもかけず駆け行き、やはり瓜の皮を踏んで仰向けに倒れてしまった。



言っちゃ悪いけど次郎衛門ってやっぱバカだよな・・・

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 13:24:47.42 ID:XkDfPbFP
敵の誘いにわざと乗って油断して掛かってきたのを返り討ち
知勇兼備の男だと思うね


17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 17:11:38.20 ID:7z8Vcp0+

>>13-14
脳筋過ぎないこの人wそれで勝っちゃうのが凄いけど。

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 18:52:32.85 ID:e1XwGdjL
わざと引っかかったのか、そうでないのかはわからん
ただ、咄嗟に脇差しを抜いて払っているあたり、わざとかかったようには見える
まあ、ただの反射神経かもしれんが

20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/31(日) 08:41:19.10 ID:PQ8Hl6kn
>>15
言っても悪くないぞ。 俺もそう思うから。

小野次郎右衛門出身の事附伊藤一刀斎が事

2016年07月26日 17:54

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 23:20:28.70 ID:Yfnqv6S2
小野次郎右衛門出身の事附伊藤一刀斎が事

 伊藤一刀斎は剣術を広めようと諸国を修行していた。
淀の夜船で大坂へ下っていたときのことである。
船の船頭は力量が優れていた者であり、一刀斎が刀を携えていたのを見て

「御身は剣術でも修行されているのか。
剣術は人に勝つ道理だというが、我の力にはあまねく剣術の達人でも敵うとは思えない。手合わせできないだろうか。」

と言う。一刀斎は様子を見て、かなりの強剛に見えたので、どうかと思ったが、
どうせ剣術修行の出てきたのだから、たとえ命が果てることとなっても手合わせを辞退をするのは本意ではないと、
互いに死を約束して陸に上がった。
 船頭は櫂を片手で持って拝み打ちで一刀斎を打ちにいったが、身をかわされ外してしまい、
力が余ったためだろうか大地へ櫂を打ち込んでしまった。
引き抜こうとしたところを、木刀で櫂を打ち落とされ両手を押さえられたので、船頭は降参し弟子となって諸国へ付き随った。

 元来力量が優れていたので、国々で立ち合いの時も一刀斎は手を下さず、大抵は船頭が立ち合い、いずれも降参させて、門弟とさせる者も多かったという。
 しかし元来は下賤の者で、その上、心ざまは真っ直ぐではなかったので、一刀斎に降参したのを遺恨に思っていたと見え、
立会いでは敵わないと夜陰に旅泊していたときに一刀斎が眠っているとみたら、付け狙う事数回に及んだが、
一刀斎の身の用心に隙間がなく、むなしく江戸へ随ったていたという。

 江戸では将軍家から一刀斎を召抱えたいとの話もあったが、諸国修行の望みがあるのでとお断り申し上げた。
門弟の内にふさわしい者はいないかとお尋ねがあったので、小野次郎右衛門を推挙して、召抱えることに決まった。
 これに、かの船頭は大きく恨み

「我は最初から一刀斎に随い、共に流儀を広めた功がある。
このたび、将軍家の御召しに末弟の次郎右衛門を推挙した事は心外である。
全く生きてきて良いことが無い。次郎右衛門と真剣の試合で生死を決めたい。」

と申し上げると、一刀斎は

「その方は、最初から随身していたが、これまでたびたび我を付け狙ってきた事は覚えているだろう。
今まで生かしておいたのは格別の恩徳のためだというのに。
しかし次郎右衛門と生死を争いたいといのは望みに任せるとしよう。」

と次郎右衛門を呼んでこれまでの委細を話し、勝負せよと申し渡した。
同時に次郎右衛門へ伝授の太刀を許した。

立会いのとき、次郎右衛門の一刀で船頭は露と消えた。

 さて次郎右衛門は召しだされて、牢内の罪ある剣術者を選んで立ち合いを仰せ付けられた。
これもまた次郎右衛門が妙術を顕わして勝ったので、千石で召抱えられたというそうだ。

(耳袋)

船頭の命までは奪わない甘い展開はなかったわけだ



923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:02:44.90 ID:I4E7S5xh
牢内の罪ある剣術者を選んで立ち合い って最初から処刑前提で選んでいるだろ。
グラディエーターという映画では、皇帝が勝てるように最初から対戦相手にはケガを負わせてから
出場させていたけど。

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 13:25:08.35 ID:K9rTlUr0
>>923
こういうのは死にもの狂いの人間相手に勝てるか、っていうある種定番のテストだよ
死刑囚に「勝ったら無罪放免にしてやる」って言って戦わせるの

家中の人間に本気で相手させると遺恨が残ったりするけど
死刑囚なら使い捨てに出来るから適任なの

この狼藉者は兼房(憲法)剣術の者で

2016年07月10日 17:19

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/09(土) 23:33:14.18 ID:K/D0/nSy
慶長19年6月29日、去る22日に禁裏において御能を仰せ付けられた所に、
この日、立ちながら見物する狼藉者が有った。警護の者が制しこれを門外に追い出したが、
彼の者は羽織の下に抜いた刀を隠して再び門内に入り、警護の者を斬り殺した。
しかしこの者も殺され、禁裏のお庭に血を流した。これ故に、その日は快晴だったのがにわかに曇った。

この狼藉者は兼房(憲法)剣術の者で、京の町人であった。

(玉露叢)

吉岡憲法の門人が禁裏で騒動を起こした、という記録である。



826 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2016/07/10(日) 10:58:02.66 ID:XVJeDwE+
あれ、このときに憲法も怪我してなかったっけ?

827 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2016/07/10(日) 11:18:38.73 ID:zWr1uLj/
憲法って普通にけんぽうって読むんだな
訓読みならノリノリ?

828 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2016/07/10(日) 11:29:35.65 ID:XVJeDwE+
名は直綱
号して"けんぽう"
足利将軍家の剣術師範であり染物屋さん
大坂に籠城経験あり

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/10(日) 21:39:37.80 ID:D2uxPW+2
こういうのって誰かが責任取らされるの?
両方死んだからこれでおしまい?

柳生家門番の事

2016年06月15日 13:16

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 00:08:01.21 ID:bTZypxN7
柳生家門番の事

あるとき但馬守(柳生宗矩)の方へ沢庵がきた時に、門番所に一首の偈が張ってあった。

『蒼海魚竜住、山林禽獣家、六十六国、無所入小身』

「おもしろい文句であるが、末の句に病がある。」
と沢庵は口ずさむと、門番が
「いささかも病はない。これはそれがしの句である。」
と答えた。
沢庵は驚いていかなる者か次々と尋ねると、朝鮮の人で本国を奔命して日本に渡り、
但馬守方門番をしているとのことであった。

但馬守は聞いて、
「どうして入る所が無い事があろうか」
と二百石与えて、侍に取り立てたという。
今でも柳生家に子孫がいるとか。
(耳袋)

一体どの家なんでしょうか



岩龍島由来

2016年01月16日 17:58

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 12:26:07.11 ID:jASBeQfw
岩龍島というのは昔は舟島と称した。宮本武蔵之助という刀術者と佐々木岩龍が
武芸の論をして、この島で刀術の仕合をし、岩龍は宮本のために打ち殺された。
縁の者がいて岩龍の墓を建てたことにより、土地の住民は岩龍島と呼ぶ。

赤間が関で土地の住民の言い伝えを聞いたが、板本に記される内容とは大いに
異なる。佐々木は武蔵之助と約束し、伊崎から小舟を借りて舟島へ渡ろうとした。
浦人たちが岩龍を止めて言うには、

「武蔵之助は門人を数多引き連れて、先達て舟島に渡りました。“大勢に手なし”
というように1人では叶いますまい。今日は御渡海は無用です」とのことであった。

岩龍曰く、「武士は言を食まず。固く約束したことゆえ、今日渡らないことは武士の
恥辱である。もし大勢で私を討てば、恥辱は彼にあって私にはない」と言い、強いて
島に渡った。すると、浦人の言ったように門人の武士4人が与力しており、ついに
岩龍は討たれた。

はじめに止めた浦人が岩龍の義心に感じて墳墓を築いたことにより、岩龍島と称する
ようになったのだ。その虚実は分からないが、土地の住民の物語りを記すものである。

ある人が言うには、宮本の子孫は小倉の御家士にいるという。宮本の墓もあって、
岩龍に相対しているという。

――『西遊雑記』




972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 13:11:31.86 ID:LYMUNCzg
吉岡一門「いかんのか?」

一刀流の祖・伊藤一刀斎景久は

2015年12月02日 12:36

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 02:31:32.97 ID:/f+gQegS
一刀流の祖・伊藤一刀斎景久は、世に並ぶ者のいない剣術の達人である。
諸国を武者修行して名の有る者と勝負したが、一度も負けたことはなかった。

ある時、京都で1人勝負を望んで来る者がいた。その者はたちまち一刀斎に
打ち負けて、その弟子となった。この者は深く憤ったのか、徒党4,5人で
相談し、その一味も同じく門人となって一刀斎の術を学んだ。

ある夜、悪党らは酒肴用の物を携えて一刀斎のもとに来たり、これを勧めた。
一刀斎は興に入り、酔い伏したため、悪党らは帰っていった。

ところでかねてより一刀斎には1人の愛妾がいた。一刀斎は彼女には何事も
心を許していた。その妾を悪党どもは様々に欺き騙して、謀を合わせた。

まず彼女に一刀斎の大小を奪わせた。これで安心だと、悪党らは夜半過ぎ頃、
一同に一刀斎のところへ入って来た。入り口の戸は妾が開けておいたので、
悪党らはただちに一刀斎の寝所へと仕掛けていった。

折りしも夏のことなので蚊帳が吊ってあったのを、悪党らは入りざまに四つ乳を
切って落とした。その時、驚き目覚めた一刀斎は枕元をさぐるも両刀はない。

早くも前後左右から切り掛かってくるのを、一刀斎はあちらにくぐり、
こちらにひそみ、ようやく蚊帳から這い出した。

その時、宵の酒肴の器が手に触れたので、一刀斎は手に当たるに任せて
向かう者へ続けざまにそれらを投げつけた。そして飛び掛かって敵の持つ
一刀を奪い取った。

今まで無手でさえ討たれざる一刀斎、刀を得たとなれば虎に翼を添えるが如し。
一刀斎は当たるを幸いに切りまくった。これには何をもって持ち堪えられようか、
しばしのうちに深手浅手数多となり、これは叶わないと、各々手負いを助けて
逃げ去った。かの妾も同じく行方がわからなくなった。

こうして一刀斎は比類のない働きをしたが、女に心を許したことを恥ずかしく
思ったのであろうか、その日に京都を出て、東国に赴いたという。

――『撃剣叢談』



太刀先に廻る者はことごとく切り倒され

2015年11月23日 07:04

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 03:25:29.41 ID:Ia/7i1kD
柳生宗矩の子・十兵衞三厳も父に劣らぬ名人であった。

三厳は若い時は忍び歩きを好んだ。ある時、京都粟田口を夜半にただ1人で
通っていたところ、強盗数十人が出て来た。

各々が抜刀を提げて、「命惜しくば衣服大小を渡して通れ!」と罵りかかった。

三厳は静かに羽織を脱いだ。それを衣服を置いて通ろうとしていると思った
盗賊たちは近くまで寄って来た。三厳はまず1人を眼下に切り伏せた。

盗賊たちは、「こいつは曲者だぞ!」と言って、一度に切り掛かって来た。
軽捷無双の三厳は、あるいは進み、あるいは退き、四方に当たって戦った。

太刀先に廻る者はことごとく切り倒され、ついに12人までが命を落としたので、
残る者らは「これは叶わない!」と言って、逃走したのであった。

――『撃剣叢談』



巖流と宮本武蔵との仕合について

2015年11月19日 06:59

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/19(木) 02:02:18.43 ID:eRBqyffB
中村守和曰く、巖流と宮本武蔵との仕合について、昔日に老翁から聞いた物語によれば、
その期日に及んだ時、貴賎とも見物の巖流と宮本武蔵との仕合についてために多くの人が船島に渡海した。

巖流も船場に至って乗船した。巖流は渡守に「今日渡海する人がとても多いのはどうしたことだ?」
と言った。渡守は「あなたは知らないのですか? 今日は巖流という兵法使いが、宮本武蔵と船島で
仕合するのです。だから見物しようと未明から渡海する人が引きも切らずなのです」と、答えた。
これに巖流は、「私がその巖流だ」と言った。

渡守は驚き、巖流に囁いて「あなたが巖流ならば、この船を他所につけるべきです。早く他州へ
お去りなさい。あなたの術が神の如くといえども、宮本の党はたいへん多いのです。絶対に命を
保つことはできません」と、言った。

これに巖流は、「お前の言う通りで、今日の仕合で私は生き延びることを望んではいない。とはいえ、
堅く仕合を約束したのに、たとえ死ぬとしても、約束を破るのは勇士のする事ではない。私はきっと
船島で死ぬであろう。お前は我が魂を祭って水をそそげ。賤夫とはいえ、その志には感じたぞ」と言い、
懐中から鼻紙袋を取り出して、渡守に与えた。渡守は涙を流して、その豪勇を感じた。

やがて船島に到着した。巖流は舟から飛び降りて武蔵を待った。武蔵もまたここにやって来て、
ついに刺撃に及んだ。巖流は精力を励まし、電光の如く、稲妻の如く術を振るったが、不幸にして
船島に命を留めたということである。

――『本朝武芸小伝』



宮本武蔵は仕合の時はいつも

2015年11月15日 17:35

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/15(日) 01:58:51.34 ID:usGkGuZ2
またある説には(宮本)武蔵は二刀使いだが、仕合の時はいつも一刀で、二刀を用いなかった。
吉岡と仕合の時も、一刀であったとのことである。

思うに真偽は決し難い。語り伝えは誤ることも多いとはいえ、聞くにまかせて聊か記した。

――『本朝武芸小伝』



武将感状記が伝える巌流島の決闘

2015年10月26日 18:50

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/26(月) 02:11:33.31 ID:v7c2s4a3
宮本武蔵は二刀を好んだ。細川忠利に仕え、京都から豊前の小倉へ赴く時のこと。
巌流という剣術者が、下関で待って武蔵に試合をしようと言い遣わしてきた。

武蔵は「心得た」と言って、棹郎に櫂を請い、それを2つに割って手元を削り、
長いものを2尺5寸、短いものを1尺8寸にして、舟から上がって巌流と闘った。

巌流の刀は3尺余りであった。下関の者たちは、残らず囲んでこれを見物した。
武蔵が二刀を組んで巌流にかかると、巌流は拝み打ちに斬りかかったが、
武蔵はこれを受け外して巌流の頭を打とうとした。

しかし、巌流は身を振ったので左肩に当たった。巌流はその勢いのまま踏み込んで
横に払った。武蔵は足を縮めて飛び上がり、彼の皮袴の裾が3寸ほど切れて落ちた。
武蔵は全力を出して巌流を打ち、彼の頭は微塵に砕けて即座に死んだ。

巌流は墓が築かれて、今もその跡がある。

――『武将感状記』

武将感状記が伝える巌流島の決闘という話。




殺害の気

2015年10月22日 10:43

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 01:39:43.03 ID:KVTBlHJd
ある時、柳生宗矩は児小姓に刀を持たせ、庭の桜が盛りに開いているのを賞して余念なく見入っていた。

この時、児小姓の心中に「いかに天下の名人であられるといえども、今この刀で後ろから切るならば、
どうして戦いなさることができようか」と思う念が浮かんだ。すると、宗矩はきっと四方を見回して
座敷に帰り、甚だ不審な様子で床の柱にもたれ、物を言わずに一時ばかりを過ごした。

それを近習の面々は皆恐れ怪しみ、「あるいは狂気などであろうか」と呟いた。用人の某は進み出て、
「先刻より、ご様子がいったい何なのか常ならぬように見えます。どのようにか、思し召しのことでも
おありなのでしょうか?」と、言った。

これに宗矩は、「そうなのだよ。ここに不審の晴れないことがあるまま案じているのだ。私は長年の
修練の功により、敵対する者の思うところが、まっさきにこちらの心に通じるのだ。そして、先ほど
庭の桜を眺めているうちに、ふと殺害の気が通じた。側を見ても犬一匹いない。ただこの児小姓がいる
だけである。それ故に、いぶかしさに心も快からず、思案してこの様子なのだ」と、言った。

その時、児小姓は進み出て、「今となってはどうして隠すことができましょう。恐れ入ることですが、
先刻そのように妄念が浮かびました」と言った。宗矩は表情を和らげ、「これで不審は晴れたな」と言い、
立って内へ入り、児小姓に対して何の咎めなどもなかったという。

――『撃剣叢談』



857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 21:18:38.10 ID:WDN4Jz30
>>855
その逸話パタリロにも出てたな

松田の首を我にたむけよ

2015年09月24日 12:54

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 18:48:09.85 ID:Vnf8H2W3
 織田殿の時、柳生宗厳は大和の守護筒井入道順慶に属して所々で高名を上げていた。関白秀吉が天下を支配されて当国をことごとく御弟秀長大納言に差し上げられたときに、
柳生の譜代の郎等松田という者が告白したので、柳生の庄に隠田をもっていた罪により累代の所領が没収された。
宗厳は口惜しいと思い、三人の息子に、
「どうにかしてお前らは本領を安堵し、松田の首を切って我にたむけよ。」
と言った。宗矩が再びこの地を領ずることができると、松田を搦め取って荘田という郎等に首を刎ねさせたという。
(藩翰譜)



360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 19:03:31.29 ID:LqYxB5NU
へえ身内の告発だったのか

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 17:07:48.14 ID:o04kW+Do
山しかねえ領地なんだから棚田くらい勘弁してやれよ
それか加増とか言って申告以上実高未満のところに配置換えとかなw

柳生但馬守の心得

2015年01月01日 17:18

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/01(木) 10:10:35.76 ID:5l+6ijwo
島原の乱、原城落城の時牧野伝蔵は一番に進み、二の丸と本丸の境で、右の方の城戸より本丸に入ろうとした。
しかし敵方から大石が激しく投げられたため、少し退いて堤の影に立って様子を見ていた。
ここで立花勢が堤の上に上がり敵方に激しく鉄砲を撃ちかけたため、敵が少し動揺した所を、伝蔵は十文字槍を取り直し
本丸の下まで突入した。ところがそこに、傍らの洞穴から敵兵が出てきて、鉄砲を向けて『近寄れば打たん』と構えた。

牧野伝蔵はかねてから柳生但馬守(宗矩)に聞き置いた心得があった。彼は鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。
敵兵は伝蔵が近づくのを見て鉄砲を撃ちはなった。しかし銃弾は槍に当たり、伝蔵を逸れ肘をかすって外れ飛んでいった。
そしてそのまま敵を一槍に突き伏せた。
(明良洪範)




柳生宗矩の事

2014年10月12日 18:51

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 19:30:35.77 ID:F+D6IqKH
柳生但馬守宗矩の柳生氏は、代々大和国柳生の庄を領する一族であり、徳川家に仕えたのは
関ヶ原の一乱の後であった。
徳川家光は若年よりこの柳生宗矩を師範とし、すこぶる尊敬し信頼していた。

宗矩は家光の師であり、また剣術の名人であるから家光も尊信しているのだと、人々はみな思っていたが、
実はそうではない。宗矩は常に家光の御前に在って治国平天下の道を年来教諭していた。それ故に
家光は彼を尊信していたのである。

柳生宗矩が老年に及び重病となった時、忝なくも将軍家光は自ら宗矩の屋敷に赴き枕元に座って
病の様子を尋ね、その後

「汝の教導のおかげで、私は平天下の道を知ることが出来た。」

そう語って聞かせた。

正保3年3月の終わりに、宗矩は死去した。この時家光は、従四位下に贈位を仰せ付けたそうである。
その後、事に触れては

「宗矩が存生していれば、この事を尋ねたいのだが。」

などと語り、宗矩の事を思い出していたという。

(明良洪範)




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 11:55:10.33 ID:MiYzqIo8
>>28
逸話に突っ込むのもなんだけど
宗矩が徳川に仕えたの関ヶ原の4年前だよ
関ヶ原の戦功で二千石もらってるし

上泉泰綱の死

2014年10月02日 18:51


上泉泰綱 直江兼続

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 21:26:37.32 ID:YnF5EsZC
上泉泰綱の死

慶長5(1600)年9月29日、直江兼続から菅沢の上杉軍の将士に上方石田勢の敗北が伝えられると、米沢に引く前に動静を探られぬ様に最上勢への一斉攻撃が定められた

兼続の山形攻めの采配に不満を抱いていた上泉泰綱は牢人組三千人を率いて最上軍に討ち掛かったが
深田に足を取られ味方は往生

泰綱「今度の合戦に付直江に異見をせし事有といへども、更に承引せざるの間、此上は軍の勝負にもかまはず偏に討死すべき物を
(今度の合戦に兼続の指揮下で異見をしたが、もういくさの勝ち負け等知らん。討ち死にしよう)」

泰綱は近習20騎程で立ちはだかる最上勢に抗い、その戦い振りは鬼神を思わせ
周辺は田を鋤き返したかの様に踏み荒らされた

最上勢の兵が泰綱一人に十数人が斬られる戦いの最中、上山里見党の添山九郎兵衛といった者が上泉泰綱に飛び掛かり、組みついて落馬をさせると、その隙をついて金原七蔵といった16才の若者が泰綱の首級を掻き切った

首級は眼をかっと見開き、歯を食いしばった物凄い形相で
瞼を押さえようとも眼を閉じようとはしなかった

首実験で武者の武具の象眼から、首級の持ち主が上州の剣聖上泉秀綱の子の上泉泰綱と知った最上義光は、首を熊野社に埋め懇ろに弔う様に指示を出したという

長谷堂周囲には上泉泰綱を弔ったとされる「主水塚」が複数(長谷堂~菅沢、門田、朴の木屋敷など)残る

また上泉泰綱は上山で討たれたといった別な話も伝わる

「山形の昔話」




429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 02:47:43.56 ID:8Su1yeoU
だから何が悪い話なのか?

単に昔の話を紹介すればいいってもんじゃねーぞ、最上厨よ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 07:41:38.96 ID:LZpqmcHD
もうマヂ無理。討ち死にしょ。。。

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 08:47:55.25 ID:GcuwFjvA
>>429
身勝手な泰綱くん
まあ譜代と他国衆なんてそうそうウマがあうわきゃないんだけど

飄戸斎さんが泰綱だけ死なすなと突っ込むのはフィクションだけ?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 15:59:26.61 ID:dysr96r5
慶次が泰綱を残して菅沢に引いて来た兵らに「大将(泰綱)の安否も確認せずに勝手に後方に逃げ帰るとは何事か」と怒った話はあるみたい。
上杉御年譜・越境記とかに詳細はあるかな?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 22:42:33.03 ID:iKnkFy9T
討ち取られてるんだから悪い話じゃんねえ。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 01:56:51.01 ID:7q/j47pP
3000の兵って言っても、個は強くても短期間で集められた統率のままならない牢人衆の大軍を率いるのも大変だったろうに。
しかし3000人も配下がいれば、むざむざ死ぬ事もなかっただろうに、余程兼続に含む事があっての諌死か武士の体面を気にしていたのだろうか?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 02:13:14.29 ID:lb0+unoP
配下じゃねえからw
与力みたいなもんだろ
負け戦ともなりゃ我先に逃げ出す

柳生但馬守に聞いておいた心得

2014年09月10日 19:00

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 17:40:38.76 ID:Uhlc6+Ql
島原落城の時、牧野伝蔵(成純)は一番に進み、二の丸と本丸との境の、
右の方の木戸から、本丸へ入ろうとした。しかし、敵方が大石を激しく
投げたので、少し退いて堤の陰に立ち、様子を見ていた。

そこへ、立花勢がその堤の上に上り、敵方へ激しく鉄砲を放った。
そのため、敵兵は少し猶予したので、

伝蔵は十文字槍を取り直して本丸の下まで突入した。その時、傍らの
洞穴から敵兵が出て鉄砲を差し向け、伝蔵が近寄れば撃とうと構えた。

伝蔵には前もって柳生但馬守(宗矩)に聞いておいた心得があったので、
彼は敵兵の鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。敵兵は伝蔵が近付く
のを見て、鉄砲を撃ち放った。

その弾丸は槍に当たり、それて伝蔵の肘をかすり、外側へ飛んで行った。
そして、伝蔵はそのままその敵を一槍で突き伏せたということである。

――『明良洪範』




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 06:39:47.84 ID:c+C10CCG
漫画みたいな心得だ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 07:25:06.47 ID:xVOMU0vb
心得
「特に支障なし」
「腹据えて進むのみ

だからあのように声をかけたのであり

2014年07月09日 19:07

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/09(水) 17:39:38.38 ID:5ljBE68Z
吉岡流(憲法流とも云)は吉岡券法(一に憲法、或は建法)という者が室町家の御師範として
兵法所と称す。鬼一法眼の京八流の末であると武芸小伝に見える。一説には憲法はもと京師の
染匠だが、へらを使って覚えて、小太刀一流を考え出したともいう。世に建法小紋と号する
ものはこの建法が初めて染め出したのだという。

さて慶長十七年壬子、御水尾帝御即位の日、憲法は禁庭警固の雑色と喧嘩をしはじめ、
相手を一刀で切り殺して立っているのを、「あっ喧嘩だぞ! 狼藉だぞ!」と大いに騒動し、
棒や乳切木を手に押っ取って憲法を取り囲んだ。憲法は小太刀を構え、対応する者を
切るうちに、即座に多数の負傷者や死者が出て、そのあとは追い付く者もいなかった。

時に所司代の板倉伊賀守勝重の家人である太田忠兵衛という者は長刀の上手であり、
彼はこの騒動を聞いて駆け付け、長刀を持って立ち向かった。しばらくは勝敗も
見えなかったが、憲法は何としたことか誤って踏み滑り、仰向けに倒れた。

すると忠兵衛は声をかけて「倒れた者は切らぬぞ。起き上がって尋常に勝負せよ」と言った。
さしもの憲法もこの言葉を聞いて「起き上がって立ち向かうのを待ってろよ」と承知したのか、
足を踏み直して半ば起き上がろうとしたところ、そこを忠兵衛はすかさず切り伏せて勝利した。
その時の評に「倒れたのを幸いとして切ったとしても、相手が名高い憲法ならば一角の高名だ。
それを起こして切ったのは、剛といい芸といい十分な勝ちである」いうものがあった。

忠兵衛はこれを聞くと大いに笑い、「それは憲法を知らぬ者の評だ。その時、憲法は倒れたが、
こちらをきっと見て太刀を構えた表情は、中々近寄って勝てるとも思えないものだった。
だからあのように声をかけたのであり、そういう者でも少し油断して立ち上がろうとする虚を
切って勝ったのだ。ゆめゆめ、私が剛であるわけでも、芸がすぐれているわけでもない」
と言ったということである。

この憲法を称する者を一人とすると時代が相違してしまう。最初に言った拳法の子に伝七郎、
又三郎などという者を聞くので、どのようにか子孫はこの流派を受け伝えて、後にまた名を
憲法と称した者がいたのであろう。

右の喧嘩した者、また宮本武蔵と勝負したなどという憲法は、皆吉岡流の祖とする券法とは
異なるか。また大河内茂左衛門秀元の書いたものに「若い時に吉岡の一流を極めた」との旨が
見えるので、この流派はその頃もあまねく世に広まり行われていたことは間違いない。

――『撃剣叢談』




倅推参なり

2014年03月26日 19:19

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 18:39:11.46 ID:8AIZ5yGq
徳川家光が品川御殿へ御成りになり、柳生但馬守(宗矩)が御供して剣術を上覧した。
御側の面々は何れの人も試合を行い、家光はとても上機嫌だった。

その時、家光は御馬方の諏訪部文九郎を呼んで御側の人々と試合するように命じた。
すると文九郎は「馬上での試合ならば負けない」と独り言を言ったので、家光は
これを聞いて「ならば彼の望み通り馬上の試合がしかるべし」と言った。

それから馬上の試合が始まり互いに馬に乗って術を尽くした。
文九郎は流石馬の達人の程はあって、一太刀も打たれないのみならず、
すれ違う時に名乗り掛けて相手を打った。

家光は感心して「文九郎は馬上達者だから側の者には一人も勝者がいない。
この上は但馬守が出て試合せよ」と言った。但馬守は「畏まり候」と馬上で立ち合い、

二人は両方から乗り出した。二人の距離が三間程になった時、但馬守は馬を止めて
文九郎が乗って来る馬の面に一打を打った。これに馬が驚いて背いたところを但馬守は
馬を寄せて文九郎をはたと打った。家光はこれを見て「誠に名人の所作。
時に臨んでの働き実に妙である」と、はなはだ感心した。

但馬守は馬術では文九郎に及ばないことを察しての業であった。
臨機応変とはこの類のことである。

この時、但馬守の子飛騨守(宗冬)も御供して父と試合したが一度も勝てなかった。飛騨守は、
「寸の延びた太刀ならば勝てる」と言ったので、家光は「ならば大太刀で試合せよ」と命じた。

飛騨守は寸延びの大太刀を持って父子が立ち合ったところ、但馬守が、
「倅推参なり(倅よ、出過ぎた振る舞いだぞ)」と言いながら、ただ一打を打って静まり、
飛騨守はしばらく気絶していた。

結局は寸の延びた太刀ならば勝てるなどということは、柳生家に生まれた者の本意ではない
ということで強く打ったのだということだ。剣術の試合はたとえ御慰みであるとしても、
たとえ試合をする者は父子兄弟であるとしても、覚悟するべきことである。

――『明良洪範』